トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

石原莞爾「世界最終戦争」について           第二次世界大戦は「世界最終戦争」なのか?

 この文章を執筆中の2023年2月6日の段階で、2022年の2月24日に開始された、ロシアとウクライナとの戦争はまだ続いており、侵攻開始からまもなく1年になろうとしています。両国は、同じスラブ系の言語を使用し、文明を同じくしている、今から約30年前まで共にソヴィエト連邦の構成国だった国家です。
 現在進行中の軍事侵攻は、ここに至る歴史的な経緯を考慮に入れずに、発生した事実そのものを切りとって判断すると、一つの独立した主権国家に対する、国境を接するより強力な国家の軍事力による侵攻です。この事実は、17世紀西欧における30年戦争の結果として確認された〝ウエストファリア体制〟として合意されてきた国際秩序の根本原則、主権国家の存立を侵す行為であり、第二世界大戦後、戦勝国を中心として組み立てられた世界の平和を維持するための〝United Nations(連合国)〟〈日本ではこの言葉に国際連合との訳語をあてます〉の体制、現在192カ国におよぶ主権国家の参加をもって構成されている体制が根本としている原則の明確なる侵犯であることになります。
 国連には世界の平和維持に責任を持つために、軍事力による直接の制裁を含めた手段を議論し決定する機構として安全保障理事会があります。国連の安全保障理事会を中心とする体制は、第一次世界大戦後、ほぼ同様の趣旨で作られた国際連盟の機構上の反省から設置されました。国際連盟は発足当初において、アメリカ合衆国ソヴィエト連邦という当時の主要国の中でも重要な意味を持つ国が参加していませんでした。そのため具体的な戦争が発生した場合の制裁手段として軍事制裁を含む批難以上の有効な強制力を組織することが難しく、設立して10年前後で日本帝国、ドイツが脱退した際、有効な制裁手段を組織することができず、機能不能に陥ってしまいました。その結果、本来最も防止したかった世界戦争、第二次世界大戦の開始という事態に突入することになりました。
 その人類史上の痛恨の反省点とも言うべき経験を踏まえ、あらたに組織する国際連合における平和維持機能をより確実なものとするために、第二次世界大戦直後の世界の有力な国家(戦勝国)を常任理事国として選定し、平和維持活動を強い意志のもと確実に行うために、実施する際、常任理事国(米・露・中・英・仏)が一致して賛成する条件を定めました。具体的には一国でも反対した場合その案件は実施できませんので“拒否権”と呼ばれています。
 しかし、第二次世界大戦後まもなく始まった〝冷戦〟の時期には、アメリカとソ連イデオロギー上の対立によって、折あるごとに〝拒否権〟が行使されましたので、五大国が一致した行動はほとんど取ることができませんでした。その状況が、ソ連の崩壊とともに変化し、1991年以降、フランシス・フクヤマが著書「歴史の終わり」に書いたように〝自由と民主主義〟を根本原則として、世界全体が人類の最終的な目的点に向かって進んでいる時代が進行してと思い込んできました。その〝幻想〟が崩壊したことを全人類が明確に知らされたのが、本年2022年2月のロシアによるウクライナに対する軍事侵攻でした。
 現在、さまざまな論議ウクライナ戦争の理解・解釈を巡って行われています。単純にロシアを侵略者として、悪の象徴としてロシアのプーチン大統領を取り上げる見方が、現行のアメリカを中心とする西側陣営の見方であり日本においてもマスコミの報道の主流となっています。しかし、一歩深く今起こっている現象を解釈する上においては、世界史的な流れの中で現在進行している現象の背後にあるものを解明する視点が欠かせません。
 地政学的な視点、さらに最近出版されたフランスの人口学者エマニュエル・トッドによる著作「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」にみられる、人類史全体を見渡しそれぞれの民族の家族構成原理の根底にある集団的な深層心理から地域的・文明論的な差異を分析することによって今現実に起きている現象を捉え分析する視点が注目されています。この視点はフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」の視点に対抗するように、サムエル・ハンチントンが1996年に発表した世界全体を複数の文明の並列状態としてとらえ、その文明同士の対立抗争の視点から世界を捉える「文明の衝突」の視点にほぼ重なります。またこれらの傾向は、すでに発表されて50年以上になる、トインビー博士の文明を単位とする世界史学と同じ方向を追求することになります。この『文明』を単位として、世界と歴史を捉える方向への探求は、さらに“文明”の根底的な基盤をなしている“宗教”への追求へと関心が進展しています。これらの動きの中に、今人類の心の中で思想・宗教に対する目にみえないけれど静かな変動・変革が動き始めているようにも感じてなりません。
 この間、昨年2022年8月30日には、、ソ連邦最後の大統領ゴルバチョフ氏が91歳の天寿を全うされました。ロシアによるウクライナ侵攻という重大事件に至る歴史の動き、その起点となる1991年のソヴィエト連邦の解体のきっかけとなった、ペレストロイカの立役者であったゴルバチョフ氏の死がこの時期に重なったことは、一つの時代の転機を象徴するものとして感慨深いものがあります。ゴルバチョフ氏の評価についてはさらに人類が歴史の経験を積み重ねなければ成らないと思いますが、その発言・思想には普遍的な重みがあります。
ゴルバチョフ氏は、昨年2021年の5月3日「創価学会の日、創価学会母の日」によせて、長文のメッセージを池田先生の創価学会に寄せられました。その中において現在の状況を予見するように次のように語っておられます。
冷戦の終結後、人類は『協調』と『道徳精神』に基づく政治を実現する貴重な機会を手にしました。しかし、その重要性を十分に評価できなかったため、利己主義的な動きが地政学的な駆け引きを復活させ、その結果、冷戦のような空気が再び漂い始めています。・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・冷戦という地球規模の対立の終結と未曾有の最新技術の開発が、世界に新たな息吹を与え、一人一人の生活を改善してくれる・・・・・ごく最近まで、そう思われてきました。ところが、現実は違いました。新型コロナウィルスのパンデミックは、グローバル社会に新たな課題を突きつけました。個人にとっても政府にとっても、まったく予想外の出来事だったはずです。コロナは、今まで未解決だった問題をさらに悪化させ、現代文明を脅威にさらしています。コロナ危機と向き合う今、あらゆる国際政治の在り方を見直す必要があります。力を合わせて模索し、より信頼できる国際安全システムを構築しなければなりません。このような構想は、既に80年代後半に打ち立てられていました。当時、旧ソ連のリーダーだった私は「新思考」の理念として、世界秩序を全人類的価値に基づいて改善することを提唱したのです。それは、各国の独立性を尊重し、相互不干渉の原則を順守しながら、国家と国民が人類の生存に対する共通の責任を認識するという構想でした。そして、その価値の中で最も重視すべきは「人間の生命」であり、一人一人の自由と安全です。今再び、世界は、この理念に立ち戻るべきです。今日、人類は、長い歴史上で初めて、共同の繁栄がありうると理解し始めているのではないでしょうか。新思考を掲げた30年以上も前も、そして現在も、焦点は新しい世界秩序ではなく、国家や社会が相互関係を構築するための原則を打ち立てることです。その原則とは、以下の三点です。
第一に『安全保証の概念を再確認する必要性』。
第二に『非軍事化、軍縮、軍事費の削減、核兵器のない未来』。
第三に『政治、経済、人文分野における対話、信頼関係、協調』です。
第一に挙げた安全保障の再認識とは、安全保障を軍事のみに限った課題とする捉え方を変えることです。安全保障とは広汎な概念であり、人類が近年直面した、あらゆる最重要課題の解決を模索することです。具体的には、人々の健康維持、環境や天然資源の保護、水や食料の確保、飢餓や貧困への対策ーーつまり「人間の安全保障」です。
第二の非軍事化の原則は、軍備拡張や政治・思想の軍事化が今もなお、最も深刻な脅威であり、人間の自由を制限し、常に生命を脅かすものであるとの認識に立脚するものです。新兵器の開発・実験・製造に費やされる資金は、医療や脅威や自然保護などの分野の発展に向けられるべきです。
これら二つの原則を実現した先に、第三の信頼関係と協調の道が開かれます。競争や紛争、瀬戸際外交などは、経済・人文分野の交流にその座を譲るべきです。病や貧困、環境汚染との戦いのために、全ての国が結束し、新たな国際協調を築くとともに、国家の枠をこえ、国際組織の役割と意義を強化しなければなりません。その道から外れるならば、世界の無秩序は強まり、文明や自然が破壊されるリスクが高まることでしょう。」
ゴルバチョフソ連大統領はかつて、「自分のやってきたことは池田先生の思想の枝葉の一つである」と語られ、ペレストロイカの歴史的意義が究極の人類的価値に基づく、人権思想の展開であったことを述べられ、人類史の上におけるペレストロイカの歴史的意義を強調されました。ソ連が崩壊した1991年から約30年が経過した現在、あえて振りかえってみると、一瞬かいま見ることができた類の理想の輝き、胸躍るような思いは戦争の報道の彼方に消えてしまったようです。この30年間を振り返ると、ゴルバチョフソ連大統領が池田先生との対談「20世紀の精神の教訓」のなかで、たびたび触れられておられるように、自発的に情報を公開し、平和への道、核軍縮への道へと舵を切ったロシアの動きを正しく評価せず、単純に冷戦という世界的な対立抗争の発想の延長線の上に立って、アメリカを中心とした西欧流の自由と民主主義の勝利として、世界のヘゲモニーを握った陣営として振る舞おうとするアメリカ・西欧陣営の動きは世界に様々な混乱と軋轢をもたらしてきました。例証を列記すれば、ユーゴスラビア分裂解体の過程における紛争、イラク侵攻、アフガニスタン侵攻、リビア侵攻、“カラー革命”と称する動きから始まるイスラム諸国の混乱、そしてシリア紛争、一連の中東諸国における混乱の中で登場した「イスラム国」。その一つ一つの経過について詳論はしませんが、その動きに通底するアメリカ中心の一極支配を目指す動きに対する一つの応答(レスポンス)が今回のロシアによるウクライナへの軍事侵攻であると言っても、あながち間違いではないと思います。その状況に対して、角度を違えた見方をしてみると、ロシアはアメリカによって軍事侵攻という最終手段を執らざるを得ないような方向へ追い込まれていったと言う見方も成り立つかとも思います。
 いずれにしても、ソ連邦の解体から30年、歴史は再び〝戦争〟という人類史開始以来の原始的な常套手段をとって決着をはかる状態に入ってしまいました。この段階にいたると当事者はお互いに自分たちは正義であり相手は悪であると強く断定し、両者が受け入れることができる解決に至ることは難しく困難を極めることになります。日本のマスコミでは、連日ロシアのウクライナ侵攻のニュースを報じています。客観的というよりも、欧米の価値観に連動しロシアの侵略の不当性を感情的に訴える内容が多いように感じます。その中でウクライナのゼレンスキー大統領が戦闘に巻き込まれて死亡した一般市民のことをロシアによる戦争犯罪としてアピールする姿が印象的です。
 戦争状態においては、まず交戦国双方の兵士の“殺し合い”が必ず発生します。また、戦場となった地域において一般の民衆の生命・財産がおびやかされ、戦闘にまきこまれての死傷者が必ず発生します。この戦争行為の根本にある“人を殺す”行為は、本来、人間社会において最も許されない重い罪とされ厳罰が規定されている行為です。その“殺人”を行動の基本とする“戦争”は、人間の道徳観を根底から破壊します。その中で、平時においては考えられない残虐な非人道的行為が頻発することにもなります。人類の歴史にはその例証にあふれています。その戦争にともなう悪をどう捉え、考え行動してゆくべきか?
 
 池田先生は、その著作・小説「人間革命」の中で、戦後の日本における創価学会の再建の過程の中で、第二次世界大戦の敗戦の結果として日本人が経験することになった、戦勝国による極東軍事裁判について、「宣告」という一つの章をたてて詳述しています。その冒頭は次のような記述で始まります。
「ある人が言った。一人の人を殺すと、殺人罪にされる。幾千万の人を殺しても、戦争ならば英雄と仰がれる。これほどの矛盾はない。また、いくら正義を貫いた人でも、いくさに負ければ、賊軍の汚名をこうむることはしばしばあることだ。不正の者が、負けるのは、道理であるはずだが、善悪の基準にかかわらず、歴史は永久に勝者が敗者を裁くこととなってしまうものであろうか、と――。昭和23年11月12日。・・・・・・(中略)・・・・・・・東京市ヶ谷では、極東国際軍事裁判の最終判決の断罪の宣告がはじまろうとしていた。」
 この文章に引き続いて、A級戦犯28人に対する軍事裁判は、21年5月3日に開廷され、この日まで二年半にわたって、証人の供述、論告、弁論とつづき、判決分の朗読が開始されたのは、この日の8日前である11月4日であることを記述され、英文で1212頁にのぼる判決文の朗読は、二日の休日を除いて、7日間もつづき12日の午前に終わっていることを記しています。判決文を聞く法廷内の雰囲気を丁寧に書かれたあと判決について具体的に次のように書かれています。
絞首刑は東条、広田、土肥原、板垣、木村、松井、武藤の7人である。終身禁固刑は木戸、平沼、賀谷、鶴田などの文官、武官の16人であり、東郷、重光の元両外相は、禁固20年と禁固7年をそれぞれ宣告された。この判決は、ただちに電波に乗って、全世界に報道された。ドイツの戦争犯罪人に対するニュルンベルグの国際軍事裁判は、すでに終結していた。いま、極東国際軍事裁判終結を知って、世界の人々は、第二次世界大戦の最後の幕が、事実上降りたのを見たことであろう。この裁判、戦勝国が法廷を構成し、敗戦国の戦争責任者を審判するという、世界史上空前のものであった。」と記述され、さらにつぎのように続けられています。
ともあれ、これまでの国際法の通念によって、捕虜や非戦闘員の虐殺で、その直接の下手人が戦争犯罪人として裁かれたことはあったが、戦争そのものに対する責任者の追及ということはなかった。ただ戦勝国が、敗戦国に対して、賠償や領土の割譲をもって、責任を迫るのが常であった。いいかえれば、勝者が敗者の戦争責任を、個人の責任として追及したことはなかったといえる・・・・・・(中略)・・・・・・・日本の民衆は初めて『無条件降伏』ということが、いかなる実体であるかと、はっきりと、自分の目で見たのである。戸田城聖は、これらの戦犯者から最大の被害を蒙ったものの一人として、深い思いに沈んでいた。一国が邪教を尊崇し、正法を弾圧するとき『他国の梵天・帝釈をして治罰せしむ』という仏法の定理が、かくも正確に、最後の裁判まで貫かれた実証を見たのである。・・・・(中略)・・・・・一切を現実に見た彼は、その一切を胸にたたんだ。戸田の弟子たちが、この判決について、彼を苦しめた戦犯たちに対する、はげしい憎悪を言葉にした時、彼の心は重かった。ただこう言っただけである。
『あの裁判には、二つの間違いがある。第一に死刑は絶対によくない。無期が妥当だろう。もう一つは、原子爆弾を落とした者たちも、同罪であるべきだ。なぜならば、人が人を殺す死刑は、仏法からみて断じて許されぬことだからである。原爆の使用者は、いかなる理由があろうとも、あれは悪魔の仕業でないか。戦争に勝とうが、負けようが、悪魔の爪は人類の名においてもぎとらなくてはならん。戦犯として同罪にすべきである』」
 戦争と一般市民のかかわり、戦争犯罪の定義等については詳論を避けますが、単純に戦闘行為の中において、あきらかに非武装の一般市民を殺戮する行為と考えると戸田先生の言う通り、1945年8月6日の広島における原子爆弾の投下は、8月9日の長崎における原子爆弾の投下と並んで、今までの人類の戦争の歴史の中における究極の戦争犯罪にあたることは明白です。このことは東京裁判の判事の一人であったインドのパール判事の意見書の中に明確に述べられています。この部分について『人間革命』第三巻“宣告”の章の中からさらに引用します。
パール判事は、この戦争中に於ける日本軍が冒した数々の虐殺事件については、
『宣伝と誇張を、できうる限り、斟酌しても、なお残虐行為が行われた証拠は圧倒的である・・・・・。これら鬼畜行為の多くのものは、じっさいに行われたのであることは否定できない』とBC級戦犯を弾劾しながらも、A級戦犯の被告たちが、これらの行為を命令したり、許可をあたえた証拠は絶無であると論じている。
この点について、彼はドイツの主要戦犯たちの、あの虐殺指令とは、全く異なるものであると説いていく。さらに第一次世界大戦に際してドイツ皇帝ウイルヘルム2世が、オーストリア皇帝フランツ・ジョセフにあてた非道の書簡を上げている。『予は、断腸の思いである。しかし、すべては火と剣の生け贄とされなければならない。老若男女を問わず殺戮し、一本の木でも、一軒の家でも立っていることを許してはならない。フランス人のような、堕落した国民に影響を及ぼしうるただ一つかような暴虐をもってすれば、戦争は二ヶ月で終焉するであろう。ところが、もし予が人道を考慮することを容認すれば、戦争は幾年間も長引くであろう。従って予は、みづからの嫌悪の念をも押しきって、前者の方法を選ぶことを余儀なくされるのである』まったく狂人の如き、殺戮命令である。さいわいにして実行されなかったが、戦後ドイツ皇帝は、この罪を問われている。しかしオランダは皇帝の身柄の引き渡しを拒絶した。
ここでパールは、人類を滅亡させていく、原爆投下という悪魔に対する、彼の怒りを爆発させた。
『・・・・・太平洋戦争においては、もし前述のドイツ皇帝の書簡に示されていることに近いものがあるとするならば、それは連合国によってなされた原子爆弾使用の決定である。この悲惨な決定に対する判決は後世が下すであろう』
そして法的根拠から、彼は次のような結論に到達していた。『もし非戦闘員の生命財産の無差別破壊というものが、いまだに戦争において違法であるならば、太平洋戦争においては、この原子爆弾使用の決定が、第一次世界大戦におけるドイツ皇帝の指令および第二次世界大戦におけるナチス指導者たちの指令に近似した唯一のものであることを示すだけで、本官の現在の目的のためには充分である。このようなものを現在の被告の所為には見出し得ないのである』 いかにも非戦闘員の虐殺は違法なりと、パールは強く訴えている。そして、それらのBC級戦犯は、すでに戦勝国によって処刑されていた。しかしA級戦犯の25人の被告たちが、この残虐行為を指令し、命令した者として、さらにその責任を問われるならば、原子爆弾の使用を決定し、命令した者こそ“人道に対する罪”を犯した者として、最高の戦争犯罪者に問われるべきではないか・・・・・・。法が正しいとするならば、勝者であれ、敗者であれ、法を左右することは許されるべきではない。文明に名をかりて、勝者が敗者を裁くことは、公正な裁判とは言い得ない。
『単に、執念深い報復の追跡を長引かせるために、正義の名に訴えることは、許されるべきではない。世界は真に、寛大な雅量と理解ある慈悲心を必要としている。純粋な憂慮に満ちた心に生ずる真の問題は《人類が急速に成長して、文明と悲惨との競争に勝つことができるであろうか》ということである』
このため、パール判事は、東京裁判そのものを不当と断じ、否定するところから、被告全員の無罪を勧告する結論に達したのである。
 
 この小説「人間革命」の引用部分は、日本において今日までその重要性は認識されていながら、実は正面切って論じられたことのないことであると思います。戦後の米軍占領下においては勿論ですが、その後の高度経済成長時代においても経済活動に目を曇らされ
冷戦構造のなかで、米国に安全をゆだねるような状況が意図的に形成されてきたために、この問題を論ずることは勇気を必要としました。
 この状況に対して、明確な発言をした日本人がいます。まず挙げるべき一人は創価学会の第二代会長の戸田城聖先生です。さきに引用した「人間革命」第三巻のなかでの東京裁判判決決定時の発言が最初の表明ですが、さらに死去の前年、自身の死を予見したかのように“遺訓の第一”と銘打たれて、1957年9月8日横浜の三ツ沢陸上競技場に集まった5万人の青年を前にして「原水爆禁止宣言」として有名な次のような宣言をされました。
われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかす者は、これ魔物であり、サタンであり、怪物であります。それを、この人間社会、たとえ一国が原子爆弾を使って勝ったとしても、勝者でも、それを使用したものは、ことごとく死刑にされねばならんということを、私は主張するものであります。」
 思想・信条・政治的立場をこえた全人類一人一人の生命の尊厳に立脚した権利である世界の民衆の「生存の権利」。この「権利」に基づく、戸田先生の原水爆禁止宣言は、創価学会の永遠の指針として、現在世界192カ国に広がったSGIのメンバーによって共有され、その主旨を踏まえた様々な活動を通じて、主張され,展開されています。池田先生は、その後現在にいたるまで、毎年1月26日にはSGI提言として40数回にわたる核兵器廃絶、平和への具体的な提言を重ねられ、師である戸田先制の宣言を原点としてその根本精神を全世界に訴え続けてこられました。核兵器を人類の生存の権利の侵害として判断し使用を禁止する核兵器禁止条約の成立は、ノーベル平和賞を受賞したICANを一貫して支えてきたSGIの地道な世界的規模での運動の明確な成果の一つです。その動きは90歳の半ばに達せられた現在においても止まることがありません。
 昨年、2022年8月に開催されたNPT(核兵器不拡散条約)再検討会議に対しては、焦点となった「核兵器の先制不使用」の課題に関し、核保有国がその原則を共に確立することが急務であるとする緊急提言を発表され、現在のウクライナ危機が露わにした核抑止の危険性を真摯に踏まえて、「核兵器のない世界」への時代転換を図ることを訴えられました。また本年2023年1月11日には、さらに緊急提言として、現在進行中のウクライナ危機の状況をふまえ、国連による関係国会合を開催し停戦合意の早期実現を強く訴えられました。核兵器廃絶に向けての池田先生の行動・戦いは、師である戸田城聖先生の真実の弟子としての、文字通り生涯をかけての戦いであり、一瞬たりとも止まることはありません。その思いは、池田先生の弟子として全世界192ヶ国に展開している全SGIメンバーの共通の思いであり、今この瞬間も全世界のどこかで何らの活動として展開されています。
 
 この文章は、初めに“石原莞爾「世界最終戦争」について”という表題でスタートしました。最初に現在進行中のウクライナ危機について論じ、その論議のなかで最近特にウクライナ側から声高に発信される“戦犯”という表現から、我々日本人にとって重要な歴史的経験である太平洋戦争の結果として、戦勝国によって実施された極東軍事裁判について論及することになり、創価学会の魂の正史とも言うべき池田先生による小説「人間革命」の中から必要箇所を引用する中で、戸田先生による“原水爆禁止宣言”にたどりつくことになりました。さらに戸田先生の弟子として、今も生命の尊厳を一切の根幹として、核兵器廃絶を訴え続けられている池田先生の一貫して継続されている活動を論じることになりました。最近とみに報道されることが多くなったウクライナ危機における核兵器使用の現実的可能性を考えると、この課題は解決にむけた努力を早急に必要とする、重要課題であることは間違いありません。2023年1月11日という日を選んで全世界に表明された「核の先制不使用」を中核とする緊急提言は、現在進行中のウクライナ危機のまさに今そこにある危機に対しての緊急性を帯びた提言であり、例年の1・26 SGI提言以上の価値を持っていると思います。
 
 1889年生まれのトインビー博士から見て、1900年生まれの戸田先生は10歳年下です。また池田先生は1928年生まれですから、戸田先生とは28歳、トインビー博士とは39歳の差があります。年代の違いはありますが、ここに挙げた皆さんの共通の経験として、第二次世界大戦があります。
 この戦争がもたらした人類的意味を持つ悲劇的経験は、トインビー博士と池田先生の対談実現の契機を考える上で軽くみることはできない重要な意味があります。さらに、戸田先生の師である創価学会初代会長である牧口常三郎先生の獄死もこの第二次世界大戦と深く連動しています。日蓮仏法の実践としての、創価学会の戦いは初代牧口会長の獄死、第二代会戸田会長の獄中体験として、第二次世界大戦における日本国家との根本的な次元からの戦いであったと同時に創価学会の使命を世界史的な意味で確認することになりました。そして、トインビー博士と池田先生の対談が実現する上で、トインビー博士にとって創価学会認識の根本条件ともなりました。このことは、「21世紀への対話」において語られている内容からも伺い知ることができますが、より具体的にはトインビー博士が、英訳の小説「人間革命」に寄せられた長文の序文の中で、歴史学者としての根源的な視点から創価学会の存在を確認する上での、判断における重要な根拠とされています。この序文の中においては、日蓮大聖人の歴史的位置づけからはじまり、日蓮仏法の世界史的意義についてのトインビー博士としての判断が示されます。その上に立って、その正確な継承者として創価の三代会長について論じられることになります。
 
 ここではその前に、同じくこの第二次世界大戦に、軍人として日本の運命を担う形で関わることになった、創価学会の三代会長と同時代に生きた、熱心な日蓮仏法の信奉者としての石原莞爾について触れたいと思います。この課題については「21世紀への対話」に至るトインビー博士の創価学会池田先生へのアプローチの過程において重要な意味を持ってきます。トインビー博士は1967年晩秋来日され、日本における旧知の友人である河合秀和氏と会食された折、創価学会に関する二つの重要な質問をされました。聖教新聞2022年5月21日付けに掲載された河合秀和氏の言葉を引用します。
 
「67年の晩秋のことです。アメリカ大使館近くで、トインビー博士と会食しました。当時私は東京大学で日本初となる比較政治の講座を担当しており、その先駆的存在である博士の研究方法から多くを学んだいました。
博士からは二つの質問がありました。
今、国体思想はどうなっているのか』というのが最初の質問です。
薄暗い店内でしたが、柔和な表情の中にも鋭い眼光を感じました。国体思想とは、日本を万世一系天皇を主権者とするたぐいまれな国とする思想で、戦前の軍国主義を推進する思想的な原動力でした。英語の会話は軽い冗談から始まるので、私は「近頃の日本の若者にとって、国体とは〝国民体育大会〟のことだ」とまず答えました。そのうえで、戦後の新憲法下で主権は国民に移ったものの、家庭内における家父長的な慣習、企業組織や村落における人間関係など、国体思想の影響は形を変えて残っており、そうした構造を克服していけるかが課題であると答えました。。
二つ目の質問は、『創価学会ファシスト』でした。
当時、一部の新聞が「公明党ファシスト政党だ」と騒ぎ立てていたので、そうした報道の真偽を確かめたかったのでしょう。それまで何人かの学会員と接してきた私は、創価学会が現世的な利益を肯定していることを知っていましたので、安易に命を捨ててお国のために尽くすような行動に走ることはないだろうと答えました。加えて、創価学会は戦時中に治安維持法によって迫害された組織です。戦前への復帰を望むわけがなく、それどころか、民衆に自立心と誇りを与えていると思うと答えたのです。大阪や京都の学会員との交流を通して、庶民的で現実主義的な関西人が創価学会公明党を支えていたという印象も強くありました。
博士にとって、重要なな質問はこの二つだけだったと記憶しています。質問をし終わった後は、とてもリラックスした様子で会食を楽しんでいました。」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Samuel P Huntinbton      「T HE CLASH OF CIVILIZATIONS AND THE REMAKING OF WORLD ORDER」

Samuel P Huntinbton                                      
THE CLASH OF CIVILIZATIONS    AND  THE REMAKING OF WORLD ORDER
 
サムエル・ハンチントンの話題作「文明の衝突」の日本版への序文の最後に1998年5月の日付けのある次のような文章があります。現在のロシアによるウクライナ侵攻の意味を読み取るには〝文明〟単位で世界を読み解く必要があります。その視点に立った場合〝日本〟はどのような立場にあるのか。またその立場に立った時、取り組むべき課題は何なのか?今から24年前、ハンチントンは明確に指摘しています。その部分を引用します。
 
p3
文明の衝突というテーゼは、日本にとって重要な二つの意味がある。第一に、それが日本は独自の文明をもつかどうかという疑問をかきたてたことである。オズワルド・シュペングラーを含む少数の文明史家が主張するところによれば、日本が独自の文明をもつようになったのは紀元五世紀ごろだったという。私がその立場をとるのは、日本の文明が基本的な側面で中国の文明と異なるからである。それに加えて、日本が明らかに前世紀(19世紀)に近代化をとげた一方で、日本の文明と文化は西欧のそれと異なったままである。日本は近代化されたが、西欧にならなかったのだ。
第二に、世界のすべての主要な文明には、二カ国ないしそれ以上の国々が含まれている。日本がユニークなのは、日本国と日本文明が合致しているからである。そのことによって日本は孤立しており、世界のいかなる他国とも文化的に密接なつながりをもたない。さらに、日本のディアスポラ(移住者集団)はアメリカ、ブラジル、ペルーなどいくつかの国に存在するが、いずれも少数で、移住先の社会に同化する傾向がある。文化が提携をうながす世界にあって、日本は、現在アメリカとイギリス、フランスとドイツ、ロシアとギリシャ、中国とシンガポールのあいだに存在するような、緊密な文化的パートナーシップを結べないのである。そのために、日本の他国との関係は文化的な紐帯ではなく、安全保障および経済的な利害によって形成されることになる。しかし、それと同時に、日本は自国の利益のみを顧慮して行動することもでき、他国と同じ文化を共有することから生ずる義務に縛られることがない。その意味で、日本は他の国がもちえない行動の自由をほしいままにできる。そして、もちろん、本書で指摘したように、国際的な存在になって以来、日本は世界の問題に支配的な力をもつと思われる国と手を結ぶのが自国の利益にかなうと考えてきた。第一次世界大戦以前のイギリス、大戦間の時代に於けるファシスト国家、第二次世界大戦後のアメリカである。中国が大国として発展しつづければ、中国を東アジアの覇権国として、アメリカを世界の覇権国として処遇しなければならないという問題にぶつかざるえない。これをうまくやってのけるかどうかが、東アジアと世界の平和を維持する上で決定的な要因になるだろう。したがって、本書が日本で刊行されることから、日本の人びとのあいだに文明としての日本の性格、多極的で多文明の世界における日本の地位などをめぐって真剣な議論がうながされることを、著者として希望するものである
                       1998年5月
 
このハンティントンの指摘の意味しているものは、今後の日本の進路を考えるうえで必ず踏まえるべき大事な前提条件です。まず最初に「文明の衝突」というテーマは、日本にとって重要な意味を持つことを指摘します。その理由として、二つの重要な視点を指摘します。
まず指摘するのが、「第一に、それが日本は独自の文明をもつかどうかという疑問をかきたてたことである」ということです。この視点は、日本人にとってもまだ理解が難しい視点です。日本人は、日本という国をかなり独自の文化をもつ国であるとの認識は持っていると思いますが、その日本が独自の『文明』を持っているとは考えていないと思います。特に、第二次世界大戦の敗戦後の教育においては、戦前の“国体思想”中心の教育に対する反動から“日本が独自の文明”を持つという方向の教育は、意識的に遠ざけられてきました。しかし、日本は独自の文明であるという考え方は、ここでハンチントンがあげたショペングラーを始め、文明論の立場に立つ歴史家において主張されてきた視点です。トインビー博士も明確に“日本は独自の文明である”との立場を取っています。もっとも、その日本文明の成立においては、中国・朝鮮の大陸文明の影響は大きくトインビー博士も最初は、太陽の光を受けて輝く月のようなイメージで“衛星文明”として表現しています。しかしここでハンチントンが述べている 次の視点は重要です。
日本が独自の文明をもつようになったのは紀元五世紀ごろだったという。私がその立場をとるのは、日本の文明が基本的な側面で中国の文明と異なるからである。それに加えて、日本が明らかに前世紀(19世紀)に近代化をとげた一方で、日本の文明と文化は西欧のそれと異なったままである。日本は近代化されたが、西欧にならなかったのだ。」 
以上の文章の中で、ハンチントンは日本の文明は、基本的な側面で中国の文明とは異なり、近代化(西欧化)を進めていっても西欧の文明とは異なったままであると見ています。したがって日本は、中国とも朝鮮とも西欧とも異なる独自の文明であると結論しています。さらに、第二の重要な視点として「世界のすべての主要な文明には、二カ国ないしそれ以上の国々が含まれている。日本がユニークなのは、日本国と日本文明が合致しているからである」という点を挙げています。この視点は、日本という国の独自性を、その基盤をなしている文明の独自性に求める視点とつながります。そして、この視点は日本文明の独自性を追求するなかで、国家主義国粋主義的な考え方に近づいていく危険性を常に持っています。その一つの例が中西輝政氏の「国民の文明史」において述べられている視点です。その視点に対して、世界史上の文明の興亡にみられる法則的な動きの中で日本を捉えているのがトインビー博士の視点です。その視点においては、日本文明の独自性の認識と共に、その認識が本質的に持っている危険性としてどの民族も陥り易い自己中心性についての厳しい視点があります。その視点については、あらためて後述したいと思います。
いま、ここで見てきたハンチントンの視点に戻ると、ハンチントン国際政治学者として、今後の世界において日本が取るべき方向性の条件を提示しています。この内容は、示唆に富んでおり、今後の日本の方向性を考える上で有益な視点です。
あらためて、引用してみます。
日本の他国との関係は文化的な紐帯ではなく、安全保障および経済的な利害によって形成されることになる。しかし、それと同時に、日本は自国の利益のみを顧慮して行動することもでき、他国と同じ文化を共有することから生ずる義務に縛られることがない。その意味で、日本は他の国がもちえない行動の自由をほしいままにできる」
この視点は、合理的に割り切ったドライな視点です。ただ、最後の部分に記述されているような日本にとっての“行動の自由”とは何かを考える上で大事な視点でもあると思います。
最後に記述されている「中国が大国として発展しつづければ、中国を東アジアの覇権国として、アメリカを世界の覇権国として処遇しなければならないという問題にぶつかざるえない。これをうまくやってのけるかどうかが、東アジアと世界の平和を維持する上で決定的な要因になるだろう」という視点は、21世紀も20年代に入った、2023年現在、日本が直面している最大の問題であると言って間違いないと思います。
文明の衝突』(日本版)の前書きの結語として、ハンチントン博士が書かれた日本へのアドバイスとしての言葉、「日本の人びとのあいだに文明としての日本の性格、多極的で多文明の世界における日本の地位などをめぐって真剣な議論がうながされることを、著者として希望するものである」は、真剣に受け止めなければならない喫緊の課題であると思います。
 
特にウクライナでの戦争が、ウクライナとロシアとの国家レベルの戦争の域を超えて、まさに「文明の衝突」の様相を示し始めた今、真剣に受け止めなければならないと思います

『今、国体思想はどうなっているのか?』Toynbee asked to Prof. Kawai on 1967

 この表題は、当時78歳のトインビー博士がヴェロニカ夫人と共に、1967年、ご自身にとって三度目となる訪日の際に受けた印象を中心に書かれた、「日本の印象と期待」と題した文章の最後の章につけられた見出しです。この文章は、日本の毎日新聞に連載されました。
 「日本文明」との表現は当時の日本において、決して一般的な表現ではありません。その時から半世紀を経過し、21世紀に入っている現在においても日本人にとって違和感のある表現だと思います。日本人の一般的な感覚では、日本は世界で190以上ある「国」の一つであり、「文明」とは考えてはいないと思います。トインビー博士の日本に対する社交辞令に近い表現であると受け取れば、それ以上の展開は無意味であると思いますが、「文明」とは何なのか?日本は果たして「文明」といえる存在なのか?トインビー博士の生涯における学問的な積み重ねの中で考えてみると、重要な意味が見えてきます。その意義を探るために、まずトインビー博士と日本との関わりについて考えて見たいと思います。
 
この表題による記事は、この年の11月9日から12月13日にかけて毎日新聞に連載され当時大きな反響を呼びました。その内容は1983年に、「トインビー市民の会」が中心となってトインビー博士の日本の新聞・雑誌に対する寄稿をまとめ、経済往来社より発刊された「地球文明への視座」の中に収められています。
この連載は次のような言葉ではじまります。
私は前に日本を二回、最初は1929年、二度目は1956年に訪問している。私の日本経験は、こうして38年間におよぶ。現代の日本歴史において、これだけの時間が過ぎれば、日本人の生活には、どうころんでも、大きな変化があったことだろう。・・・・・・
この文章にあきらかですが、トインビー博士の来日は日本の歴史における大きな変革点である明治維新から始まる大日本帝国の挫折前のクライマックスの時期であるともいえる1929年に最初の訪日。第二次世界大戦における徹底的な敗北の結果、日本の歴史上始めて外国であるアメリカ軍の占領統治を経験し、平和憲法のもとに再出発して間もない1956年に第二回目の来日。戦後の復興が一段落し、経済面での高度成長期に入っていた1967年に第三回目の来日と、38年という間隔で日本の歴史始まって以来の激動期の中にある日本という「国」(もしくは「文明」)、その主体である日本人を観察することになりました。
 全世界の全時代にわたっての歴史、文字通りの意味における真実の「世界史」を構築されることを自らに課してこられたトインビー博士にとって、この38年間の日本の激動の歴史の意味は何か。この視点から見るとき日本の歴史の世界史の中における意味が見えてくると同時に、日本の進むべき未来の方向性も見えてくるはずです。
 
 トインビー博士の最初の日本訪問は、1929年(昭和4年)10月23日から11月9日まで京都で開催された太平洋問題調査会の第三回「太平洋会議」に参加するための、英国代表団の一員としての来日でした。この会議は、当時の国際連盟の事務次長も務めた新渡戸稲造が議長を務め、この回のテーマは「満州問題」でした。1905年の日露戦争後、南満州鉄道の権益をもとに中国東北部進出を進めていた日本帝国に対して、当該国である中国をはじめとして英米等を中心とする欧米各国からも強い懸念の思いが沸き起こっていました。この会議においては、日本の中国東北部進出を巡って日本と中国の代表の間に鋭い激しいやりとりがあったことが記録されています。英国代表団は終始冷静に第三者的な態度をとったようです。トインビー博士は、年長者の意向を意識して発言する日本の代表団の発言の様子と、年齢差などに頓着せず自分の考えを自信を持って語る中国の代表団の様子を比較し、日本と中国の国民性の違いについて感想を語っています。
 この会議に日本の代表団の一人として参加した、当時34歳の日本の若き政治学者であった蝋山政道氏に対して、トインビー博士は「日本はカルタゴの運命を・・・」と語ったことを、戦後刊行された中央公論社の『世界の名著』シリーズのなかの一冊、蝋山氏が編集の中心であった「トインビー」の解説の中に書かれています。
 何気ないひと言で、聞いた当初は深い意味はわからなかったと蝋山氏は記述しています。この一言は、その後「満州問題」が進展するなかで、中国との全面的な戦争になり、最終的には現代の「ローマ帝国」とも言えるアメリカ合衆国を中心とする欧米との戦いにまで発展し、結局は連合国相手の世界規模の大戦争に引きずり込まれ、結果として日本の歴史上で初めての徹底的な敗北に帰着した歴史の進行を経験し、この古代ギリシャ・ローマ文明(トインビー博士は〝ヘレニック文明〟と総称する)の歴史に記録された古代の海洋国家カルタゴの破滅の経緯に基づく歴史的洞察をもとにして、日本の破滅的敗北を予見したトインビー博士の発言は、蝋山氏の印象に強く残ることになったと記述されています。その思いもあって、蝋山氏は、太平洋戦争の敗戦後間もない時期にGHQの許可を取って、、トインビー博士の著書『歴史の研究』(サマヴィルによる縮刷版)を日本で最初に翻訳し紹介しています。
 1956年、トインビー博士は再び日本を訪問されます。これは自身のライフワークとして30年にわたって取り組み1954年に全巻完成し出版された、主著『歴史の研究』の内容について、あらためて『歴史の研究』で扱ってきた事実(全世界を舞台として全時代に及ぶ)について現地の様子を直接観察し、確認することを目的とした世界一周旅行でした。1955年にはそれまで勤めていた王立国際問題研究所の調査部長、およびロンドン大学国際史研究教授を辞任して、ロンドン大学の名誉教授となり、さらに1956年、名誉勲位保持者(C・H)に推薦され、さらにオックスフォード大学ベイオリルーコレッジの名誉フェローとなり、ご自身の人生における大きな節目を迎えられていたトインビー博士にとって、楽しみであるとともにご自身の考察を実際に現地において確認するための大事な世界一周旅行でした。
1956年2月から翌年8月まで、南米を最初の訪問地にして、ニュージーランド、オーストラリア、インドネシア、日本、東南アジア、インド、セイロン(スリランカ)、パキスタン、中東という東から西への順路で、研究観察を主眼とした世界一周旅行を計画し実行されました。60歳代後半にさしかかった段階での大旅行です。
 すでに世界的な名声を確立されたトインビー博士を、日本では朝野あげての大歓迎の体制でお迎えしました。日本滞在中は1929年の太平洋協議会に日本代表の一人として参加していた松本重治氏が館長を務めていた東京麻布の国際文化会館に宿泊され、当時の日本を代表する歴史学者との懇談、各地での講演、見学、天皇陛下との会見等、精力的な日程をこなされました。その時の印象をイギリスのガーディアン紙に寄稿したものをまとめたものが、1958年に旅行記『東から西へ』として出版されたものです。
 その中で、日本についての記述は、見出しをとりあげると「23.日本における過去と未来」「24.日本における宗教の前途」「25.北海道」の三カ所です。大歓迎を受け日本中を回られた精力的な行動からみると、日本人として正直なところ「日本についてはこれだけ?」と思ってしまうような内容です。しかしトインビー博士の生涯の研究内容から考えてみると、実はトインビー博士の歴史観の中核をなす観点からの重要な記述であることがわかってきます。トインビー博士が、日本の歴史に探りたかったものは何か。それは実はこの三カ所の記述の中に明確に表現されています。最初の「23.日本における過去と未来」の中の冒頭は次のような記述で始まります。
 
『そしてその倒れ方はひどかった』(マタイ福音書)敗戦後11年の日本を訪れた西欧人の旅行者の耳に、この聖書の言葉が鳴り響く。訪問者の気づくこの国をひっくり返した大事件は、日本帝国の倒潰でも、広島と長崎の上空における原子爆弾の爆発でもない。これらの事件もまた、歴史的なできごとであったには相違ない。日本帝国は、倒潰する前には、中国、フィリピン、インドシナ、マラヤ、インドネシアビルマの各地に進出していた。日本に二個の爆弾が投下されたことによって、戦争という制度と人類の運命の歴史に新たな局面が開かれた。しかし、そのほかになお、1945年に日本において倒れたものがあった。そして、それは明治時代の日本精神であった。これがいまなお日本の到る所に反響を呼び起こしつつある倒潰である。長崎は再建され、1956年のいま、もし知らなかったならば、1945年にそこに何が起こったか、想像もつかないくらいである。
 しかし、日本人の戦前の思想的世界の崩壊は、いまなお空白のままになっている精神的真空状態を後に残した。いやでもその存在に気づかないわけにゆかず、また、それがやがて何によって満たされるのか、考えてみないわけにゆかない。それが満たされることは間違いがないように思われる―自然は物理的真空だけでなしに、精神的真空をも忌み嫌うものであるからして。
 
この文章において、トインビー博士が、どのような観点で1956年の日本をみているのかが明白になっています。トインビー博士は、日本の歴史始まって以来の破局的な経験となる全世界を敵として戦い、その結果ほぼ全てを失い、占領者のもとに置かれた日本の経験を、『そしてその倒れ方はひどかった』(マタイ福音書と聖書の一節を引きながら表現されます。「敗戦後11年の日本を訪れた西欧人の旅行者の耳に、この聖書の言葉が鳴り響く」とつづけられた後、何が倒れたかを確認していきます。まず最初に「訪問者の気づくこの国をひっくり返した大事件は、日本帝国の倒潰でも、広島と長崎の上空における原子爆弾の爆発でもない」と述べられます。日本帝国の崩壊という、具体的な事実ではないし、人類史上はじめて広島・長崎において核兵器が使われたことではないとします。もっとも、広島・長崎において核兵器が戦争に使われたことは、「日本に二個の爆弾が投下されたことによって、戦争という制度と人類の運命の歴史に新たな局面が開かれた」として、その人類史における歴史的意味をあらためて確認されています。その重要性は否定しないが、そのことよりもより、より本質的な意義をもつできごととして、トインビー博士はつぎのように記述しています。
しかし、そのほかになお、1945年に日本において倒れたものがあった。そして、それは明治時代の日本精神であった。これがいまなお日本の到る所に反響を呼び起こしつつある倒潰である」
この倒潰とは、日本人の精神の根幹にあたる部分の倒潰、具体的に言えば明治時代以来の日本精神、さらに言えば天皇を現人神とし、神道を根幹に儒教倫理を織り込んだ神国日本思想、「国体思想」ということになります。
さらに次のように記述を続けられています。
しかし、日本人の戦前の思想的世界の崩壊は、いまなお空白のままになっている精神的真空状態を後に残した。いやでもその存在に気づかないわけにゆかず、また、それがやがて何によって満たされるのか、考えてみないわけにゆかない。それが満たされることは間違いがないように思われる―自然は物理的真空だけでなしに、精神的真空をも忌み嫌うものであるからして。」
ここに記述されているのは、挫折による精神的空白状態は必ず何かによって満たされることになる。物理的な真空が必ず何かによって満たされるということと同じレベルの確実さで、精神的真空も必ず何かによって満たされることになるという確信です。
それでは、第二次世界大戦敗北後の日本人の精神的空白状態を埋めることになるのは何なのか。このあとトインビー博士は、戦後10年の1957年の段階で、民衆のレベルで影響力をもっている思想・宗教の検討を始められます。
 
 
 
 この視点こそ、トインビ史観の根幹を構成する視点です。「試練にたつ文明」「歴史の研究」「一歴史家の宗教観」「ハンニバルの遺産」「ヘレニズム」「現代が受けている挑戦」等、トインビー博士の主要な著作において、講演・講義の記録、学術論文、概説書、旅行記、また対談形式の著作等、発表の形式は様々ですが、究極のトインビー博士の主張はこの下線を引いたテーゼに集約されます。この内容はトインビー博士の人生最後の著作となった池田先生との「21世紀への対話」の結論とも重なります。
「21世紀への対話」の前書きに、トインビー博士の手によって両者の一致した結論として列記されていますが、ごく短く集約すると、
 
1.宗教を持つことが人間の根本である。
2.宗教には高低がある。
3.宗教はまず自然の諸力の崇拝からスタートする。
4.「文明」の開始は、人間の集団力の崇拝のスタートとなる。
5.人間の集団力の崇拝は、絶対者としての「国家」間の戦争へとつながる。
6.紀元前一千年紀の中頃、世界の各地に「高等宗教」が生まれる。
7.高等宗教は、人間の魂を「究極の実在」に直接触れさせる宗教。
8.個人の魂が直接「究極の実在」にふれることが、一切の人権の原点。
9.「高等宗教」は「文明」と「文明」の衝突の結果生まれてくる。
10.文明同士の衝突の結果、敗北した文明の中から「高等宗教」は生まれる。
11.「高等宗教」は最下層の民衆の自発的な運動として生まれてくる。
12.民衆の無意識層からの要請に応えて、「創造的個人」が思想・教法を説く。
13.全人類への布教を目指す「世界宗教」としての「高等宗教」が大事。
14.戦争が全人類の滅亡につながる「核時代」。
15.「核時代」における「高等宗教」の条件は?
16.高等宗教のなかでも、世界布教の段階で非暴力を貫いた「大乗仏教」に注目。
17.現代の「高等宗教」は、過去から引きずる非本質的部分を剥ぎ取る必要がある。
18.現代の「高等宗教」は人類が直面している諸課題に答える必要がある。
19.①人間と環境の関係②人間と人間との関係③人間個人の心と身体の関係
20.以上三つの関係に、的確な回答を用意する必要がある。
21.「世界文明」の構築こそ人類の緊急の課題。
22.「文明」とは『全人類が一つの家族のように仲良く生きることをめざすこと』。
22.「世界国家」か「世界宗教」か?
23.「世界国家」への道は、人類滅亡の核戦争につながる。
24.地域的に遍在する「世界宗教」も人類の分断につながる。
25.「ディアスポラ」の形態をとる「世界宗教
26.世界192カ国(現在の国連加盟国数)に広がるSGI
 
 
 
 
この質問を最初に切り出されたということは、第二次世界大戦後の日本に対するトインビー博士の関心に直接につながる質問であり、それは同時に博士の文明史観の究極的な結論にかかわる重要な質問です。
ここで言う『国体思想』とは、明治維新以来、日本国家統合の原理として、日本古来の神道思想を背景として象徴として天皇をおく、日本的なナショナリズムの思想です。この国体思想についてトインビー博士自身が、1956年の日本訪問を含む「歴史の研究」刊行後の世界一周旅行の旅行記である『東から西へ』の中で日本に関する部分の冒頭で語っています。
 
百年前に日本の指導者がかれらの先輩の鎖国政策を棄て、近代西欧文明の実用面を全面的に取り入れることを決意したとき、かれらはかれらの伝統的な精神生活を放棄するつもりはなかった。では、つぎつぎに層をなして堆積している神道と仏教と儒教をどう処理すればよいか。かれらは儒教の倫理と神道の儀式とを融合して、天皇崇拝を信仰の中心とする、かなり人為的な新たな混合宗教を作り上げた
 
 トインビー博士が認識されている『国体思想』とは、日本版のナショナリズムの根本を形成する混合宗教であり、第二次世界大戦において、最後はたった一国で当時のほぼ全世界を意味する米国を中心とする連合国との壊滅的かつ悲劇的な戦争を経験し、人類史上最初に原子爆弾による非人道的な攻撃を経験した上で無条件降伏をするという結末に至る、明治以来の日本帝国を主導した思想でした。トインビー博士の書かれた旅行記「東から西へ」の中、日本を扱っている部分では、壊滅的な敗北という歴史的事実によって、この『国体思想』に対する信仰が根本的に揺らぎ、日本人の生き方を規定してきた思想が喪失したことによって発生した日本人の心の内面の空白を、どの宗教、思想が埋めることになったかという点に関して、第二次世界大戦終了後11年たった1956年の段階での日本人の心の状況を探求されています。
 トインビー博士は、若き学生時代においては合理主義の観点から宗教を否定する「不可知論」の立場をとっておられました。しかしその後のご自身の世界史研究を通じての考察と、ご自身の人生において遭遇した様々な宗教的経験を通しての最終的な結論として、人間である以上、全ての人にとって『宗教』は必ず必要なものであるという宗教観を持つにいたっておりました。その観点からみれば、かつてヘレニック文明(ギリシャ・ローマ文明)とシリアック文明の『文明の衝突』から、激しい徹底的な抵抗の結果、決定的な敗北を経験することになったユダヤ人の中からイエス・キリストが登場し、キリスト教という『高等宗教・世界宗教』が生まれてきた歴史事象と類比できる、第二次世界大戦において日本文明と西欧文明の『文明の衝突』を経験し、ユダヤ人の文明的経験にも匹敵する徹底的な敗北の経験をすることになった日本人の中から、さきのイエス・キリストのように、新しい時代に人類の救世の道を説く個人と、その人物が説く内容を中心に新たな『高等宗教・世界宗教』が生まれてくる蓋然性について思索を進めておられたと推定することができます。アメリカの歴史学会の重鎮であり、トインビー家の依頼でトインビー博士の伝記を執筆したマクニールは、次のように記述しています。
           
・・・From Toynbee's point of view,Soka Gakkai was exactly what his vision of the historical moment expected, for it was a new church, arising on the fringes of the "post-Christian" world, appealing principally to an internal proletariat, and deriving part of its legitimacy from an ancient and persecuted faith.Comparisons with early Christian history fairly leap to mind, and in a preface he wrote for the English traslation of one of  Ikeda's books Toynbee explicitely compared the world misson of Soka Gakkai with the Christian Church on the eve of its coming to power in the Roman Empire.
  〔仮訳〕トインビーの見解では、創価学会はまさに彼の観点による歴史的瞬間に期待されたものでした。それは新しい〝Church〟(一定の教義に基づく意見を共有する組織化された宗教集団)であり、「ポストクリスチャン」(キリスト教の影響が及ばなくなった)世界の周辺に生まれ、主に内的プロレタリアート(その社会の中で経済的にも政治的にも権利を持たない疎外された階層)に訴え、古代の迫害された信仰からその正当性を分有する集団ということになります。(創価学会)と初期のキリスト教の歴史との比較は、実際に(トインビーの)頭に浮かび、池田の本の一つを英語に翻訳する際に、彼が書いた序文の中で、ローマ帝国で権力を握る前夜のキリスト教会と比較して、創価学会の世界的使命を明確に語っています 。        『ARNOLD J. TOYNBEE  A.LIFE』 (1989) p272
 
 1956年の世界一周旅行後に出版された旅行の印象記「東から西へ」に書かれた日本に関する記事は、明らかにそのトインビー博士の関心を反映していると言って良いと思います。この1956年の来日の際には、トインビー博士の希望で当時の日本における日本史、東洋史西洋史の学者たちとの会合が設定され、日本史の和歌森太郎東洋史貝塚茂樹、西洋思想史の桑原武夫を始めととして、当時の日本の代表的な学者たちとの質問・懇談会が開催されました。その様子を桑原武夫氏は、自らが監修・翻訳に携わった図説『歴史の研究』の訳者あとがきの中においてつぎのように書いておられます。
 
1956年、京都で学者たちとの会合がもたれたとき、トインビーが当時目新しかったテープレコーダーを廻しつつ、長時間疲れを見せず意見交換したのは壮観であったが、そのさい彼がもっとも熱心に質問をくりかえしたのは大乗仏教についてであった。日本の近代化についても関心を示したが大衆社会的状況ならびに大衆文化についてはほとんど興味をおこさなかった。」 
 
この記事からも、当時のトインビー博士の日本に対する関心の中心が何であったは明確であると思います。               
 トインビー博士の歴史研究の根本的な動機は、ご自身が様々な著作ではっきりと述べられているように、第一次世界大戦という世界戦争に直面し、1915年から1916年のわずか2年のあいだに、ウインチェスター校時代の級友の半数が戦死するという深刻な体験に対しての人間としての〝応答〟としてスタートしています。ある歴史学者はトインビー博士の文章を具体的にあげ、次のように書いています。
 
「The shock of the Great War instilled in Toynbee a profound need to comprehend and confront the crisis that had afflicted the modern West. .........The war also gave Toynbee a sense of mission . Disqualified for military service because of dysentery . Toynbee would always regard himself as a fortunate survivor of a conflict that took the lives of half 〔...let that sink in:half !ー〕his classsmates .
Their deaths would always grieve him; as a survivor he would always fell that his declinig years were a gift that must be used in the service of  humanity.[Toynbee wrote]“the longer I live, the greater grows  my grief and indignation at the wicked cutting short  of all those lives. ..... The writing  of 〔A Study of History〕has been one of my responses to the challenge that has been presented to me by senseless criminality of human affirs.”」
【仮訳】
第一次世界大戦の衝撃により、トインビーは現代の西側諸国を苦しめた危機を理解し、それに立ち向かう必要性を強く感じました。 …………戦争はトインビーに使命感を与えた。(ギリシャでの研修旅行で罹患した)赤痢 で 兵役 を免除された トインビーは、いつも自分のことを、クラスメートの半分の命を奪った紛争の幸運な生存者だと考えていました。彼らの死はいつも彼を悲しませた。 生存者として、彼は自分のその後の人生の年月を人類への奉仕に使われなければならない贈り物であるといつも思い込んでいた。 . ..... 「歴史の研究」の執筆は、人間事象の無意味な犯罪性(戦争)によって私に提示された挑戦に対する応戦の 1 つでした。〕
【Marvin Perry, Arnold Toynbee and Crisis of the West,pp.1f.; A Study of History;The One-Volume Edition Illustrated,p 11.】
 
 この人類の業としての戦争を、慣れ親しんだ貴重な友人達を短期間に大量に失うこととなった深刻な問題として真剣に受け止めるところから発したトインビー博士の歴史に対する研究は、人類の歴史を全世界、全時代にわたって総体として、あるがままに受け止め、その中で“戦争のない世界を構築するための根本の方途は何か”という問題意識が常に通奏低音のように響いている研究となりました。
 フィールドを限定して個別実証を重ねるとという方法論に基づいて、価値自由的に記述するいわゆる近代歴史学からみれば異端である方法論であり、さらこの方法論において必然的に伴うこととなった全世界・全時代にわたる知識量の膨大さは、専門的な歴史学者にとっても個人として理解できる範囲をはるかに越えるものとなりました。第二次世界大戦直後の米国において出版された、サマヴィルの縮刷版『歴史の研究』が一般読書人に好意的に受け止められ、ベストセラーになっていく状況に反比例するように、専門的な歴史学者からは感情的とも言える否定的な膨大な量の反論が寄せられるようになりました。その後は専門的な歴史学者からは全面的無視が現在まで続いているといっても間違いはないと思います。
 専門的な歴史学者からの評価が低い「歴史の研究」は、歴史研究としては学問的には無価値なのか。この問いに対して答えを出すためには、先ほどあげたトインビー博士の歴史研究の結果である「歴史の研究」と、トインビー博士が生計を立てるために取り組むこととなった王立国際問題研究所での仕事の結果である「国際問題大観」の両著作をしっかりと読み解く必要があります。ほぼ20年にわたって並行して進められたこの二つの仕事は、「歴史の研究」においては原著の英語版で大部の著作が12冊、完全な翻訳としては世界で唯一と言っても良い日本語訳で同じく大部の著作が26冊になります。王立国際問題研究所での契約上の義務として、その年間の全世界にわたる国際問題の概観をトインビー博士が1人で執筆するという形で、毎年一冊づつ刊行された「国際問題大観」は、第二次世界大戦をはさむ時代における国際問題の優れた概観として各国の指導者層にうけいれられました。ドイツのヒットラーがこの愛読者の一人であり、トインビー博士の非公式なドイツ訪問の情報を察知したヒットラー総督府にトインビー博士を呼び、ドイツの東方政策について2時間にわたって話し続けたというエピソードを、トインビー博士自身が回顧録に書いておられます。
 さきにあげた究極の問題意識、“戦争のない世界を構築するための根本の方途は何か”に基づく研究は、全世界・全時代の歴史事象を対象とする研究であり、その世界史研究の理解可能な認識の範疇として設定することになったのが“文明”という単位です。さらにその“文明”に生気を与える根本が“宗教”であり、近代以後の世俗化(secularization)の中でキリスト教に代わって人々の心を占めることになった誤った宗教としてのナショナリズム国家主義こそ、20世紀を“戦争の世紀”とした元凶であるという認識を得るに至ります。
 
 現代社会において宗教はどのような形をとり、どのような役割を果たしているのか。そのことについては、「21世紀への対話」の第二章 「宗教の役割」の中の2 「近代西欧の三宗教」で取り上げられ論じられています。この対話は池田先生の次のような語りだし、問題提起からはじまります。その部分を引用してみます。
 
  「池田 宗教は常に文明の源泉であり、創造性の原動力となってきましたが、これに反して近代以後の西欧文明は、むしろ宗教からの離脱を起点としているいわば非宗教的文明とみることができます。これは否めない事実であると思いますし、実際に本来の意味での〝宗教〟の喪失が賛否両方の意味で、議論の的となっています。しかし、もう一歩〝宗教〟の概念を広げて考えてみると、近代科学技術文明も、それなりの〝宗教〟をもっているとみることができると思うのです。たとえば、物質的な富への憧憬、科学の進歩への信念といったものは、現代人の〝宗教〟となっていると言えるのではないでしょうか。」
 
この問いかけに対して、トインビー博士は次のように応答されます。
 
「トインビー つまり、近代西欧は、宗教をもつことをやめたのではなく、もつところの宗教を変えたのだとお考えなのですね。まったく同感です。私も、人間は宗教や哲学なしには生きていけないと信じています。宗教・哲学という二つの観念形態の間には、明確な区別はありません。」
 
   この応答に対して、池田先生はさらに深く展開して、次のように問いかけます。
 
「池田 宗教の本質的なものは、人間の生き方に関する思想的側面であるはずです。この観点から現代人の物質的富への憧憬や科学的進歩への信念といったものをみると、それが現代文明において果たしている役割は、まさに宗教と何ら変わるところがないように思われるのです。このことは、近代の科学技術文明というものを把握し、今日の課題である文明の転換の道を思索するうえで、重要な意味をもつと思います。そして、そこから――あたかもエジプトにおいてファラオの信仰からキリスト教へ、さらにイスラム教へと変転が主なわれたように、あるいはヨーロッパにおいて宗教改革がおこなわれたように――現代文明における宗教的変革の道も、あきらかになってくると思います。」
 
この問いかけに対して、さらにトインビー博士は次のように応答されます。その応答は単なる質問に対する答えの域を越え、自身の歴史観の根幹にふれるテーマとして、むしろ熱を込めて展開されているようにも感じます。
 
  「トインビー 西欧文明は、いまや近代的な装いをこらして全世界に――あるいは力ずくで、あるいは自主的な形で――普及していますから、この近代西欧の宗教、ないし諸宗教を見極め、評価することが重要になってきます。一文明における宗教はその文明の生気の源泉であり、この宗教への信仰が失われるとき、文明の崩壊とすげ替えがなされる――このことが、私の信ずるように正しいとすれば、全世界がある程度西欧化している今日、西欧諸民族の近代宗教史こそが、人類全体の現状を認識し、その未来を展望するカギとなるでしょう。西欧文明は、かつてギリシャ・ローマ世界の宗教・哲学がキリスト教にその地位を奪われたとき、このギリシャ・ローマ文明に代わって登場してきました。キリスト教は、以後、西欧の主要な宗教として――いや、事実上、その唯一の宗教として――17世紀の後半まで存続してきました。しかし、17世紀も終幕に近づくと、キリスト教は、その長期にわたる西欧知識階層への支配力を失い始めました。そして、その後三世紀の間に、キリスト教の退潮傾向はますます広汎なものとなり、西欧社会の全階層にまで及びました。また、これと時を同じくして、人類の多数者たる非西欧諸民族の間に、近代西欧の制度、思想、理想――これはむしろ、逆に理想の喪失と言うべきでしょうが――などが広まったため、これら非西欧諸民族は古来の宗教・哲学による支配力から解き放たれました。つまり、ロシアでは東方正教キリスト教の、トルコではイスラム教の、また中国では儒教の、支配力がそれぞれ失われたのです。私の西洋史観では、17世紀におけるおける西欧の宗教的変革は、かつて四世紀にローマ帝国キリスト教化した後の西洋史の流れの中で、最も大きな、また最も重要な分岐点でした。つまり、この17世紀の区切り目は、私のみるところ、それ以前の宗教改革で西欧キリスト教会がカトリックプロテスタントの二派に分裂したこと、さらにそれ以前のルネッサンスギリシャ・ローマ文明が、どちらかといえば皮相的な形で西欧社会に復興したことなどに比べると、はるかに重要な歴史的事件なのです。
 
   この視点は、トインビー博士の歴史観の根幹をなす視点であると考えて間違いないと思います。人間における思想・宗教の重要性を確認した上で、それが人間の集団生活・社会のなかでどのように影響するかを、文明という枠組みを基本ベースとして、歴史的経緯の中で考察する。特に二度にわたる世界大戦を自身の生涯の中で経験し、いまや一歩間違えれば全人類の核戦争による絶滅の可能性があるという段階にまで達した人類の運命を心配されているトインビー博士にとって、切実な課題として存在したのだと思います。
 この視点は、現在のスタンダードとなっている歴史観とは大きく異なる内容です。現在の、歴史学が前提としている歴史観は、基本的には近代西欧中心の進歩史観であるといっても良いと思います。近代の、まさに17世紀以降の西欧の優位を背景として、西欧発の資本主義の発達を前提とし、その進歩と同時の現象として登場するナショナリズム、その基盤としての近代合理主義に基づく啓蒙思想、西欧的な自由主義、議会民主主義の発展進歩を人類全体の目指すべき理想として設定し、そのゴールに向かっての諸段階の中に、世界の〝諸国〟を位置づけていく。これに異を唱えるのが、平等を基本とし、資本主義、自由主義を敢えて否定する共産主義ですが、その内容に立ち入ってみると先にあげた資本主義と同様に、人類の歴史をある理想に向かっての進歩の過程とみる進歩思想です。 トインビー博士の歴史観は、上記の視点の前提条件としての〝宗教改革〟〝ルネサンス〟の重要性よりも、〝17世紀の西欧の宗教的改革〟の重要性を指摘します。この〝17世紀の西欧の宗教的改革〟と具体的にはどんな歴史事象だったのでしょうか。この指摘を受けて池田先生は次のように展開します。
 
  「池田 たしかに、17世紀には、キリスト教が世俗世界における立場を揺るがせ、諸学問に対する教権を失わせるような、画期的な事件が相ついで起こっています。17世紀の前半には三十年戦争があり、宗教上の見解の相違を政治的・軍事的力によって争った、最後の惨劇が展開された時代です。そしてこれを契機として、それ以後、宗教上の争いに政治権力が介入することはしないという原則が、しだいに打ち立てられたわけです。また、ガリレオコペルニクスの地動説を支持して宗教裁判にかけられたのも、17世紀前半のことです。デカルトが近代合理主義哲学の基礎を打ち立てたのが、やはり17世紀の前半でした。ニュートンが活躍したのも、17世紀の後半から18世紀の初めにかけてです。 こうした思想上の発展をみると、17世紀には、ルネッサンス宗教改革よりもはるかに大きい転換がなされたという博士の所説は、十分に納得できます。たしかに、ルネッサンス宗教改革は、キリスト教思想の内側での変革であり、キリスト教信仰そのものを揺るがした事件とはいえません。これに対して、17世紀の種々の変革は、キリスト教信仰と政治との関係、キリスト教神学と科学その他の学問との関係において、キリスト教そのものの座を危うくする変革であったということができますね。」
           
  ここに述べられているのは、池田先生のきわめて正確な17世紀西欧の思想・宗教・政治に対する理解です。ルネッサンス宗教改革はあくまでもキリスト教思想の内側での変革であり、キリスト教信仰そのものを揺るがした事件とはいえないという認識の上に立って、17世紀に起こった従来なら文化史の流れの中で論じられる、デカルトの近代合理主義哲学、コペルニクスの地動説、それに続くガリレオの宗教裁判等の持つ根本的な歴史的意義を正確に捉えられています。その正確な歴史的事実の認識を踏まえられて、トインビー博士は最終的には、自身の歴史観の総括とも言える次のような表現で答えられます。
           
「トインビー 17世紀に起こった宗教上の変革は、たんに消極的な出来事、つまりキリスト教の後退として、誤って解釈されてきました。すなわち、人間性は宗教的空白を嫌うものであること、したがってまた、一社会内で古来の宗教が衰退すると、早晩それに代わる一つないし複数の宗教が必ず興ってくるということに対して、認識がなされていなかったのです。私の見解では、17世紀におけるキリスト教の後退によって西欧に生じた空白は、三つの別の宗教の台頭によって埋められました。その一つは、技術に対する科学の組織的応用から生まれる進歩の必然性への信仰であり、もう一つはナショナリズム(国家主義)であり、他の一つが共産主義です。」
           
  このあと、トインビー博士は複数の宗教が同じ社会のなかに存在することになった、17世紀以降の西欧の状況についてのべると同時に、非キリスト教国においていくつかの宗教が共存してきたことを肯定的に述べます。この内容を受けて池田先生は、日本の状況をあげながらさらに説明を加えます。
           
  「池田 日本では、非常に仏教に篤信な人も、神道に篤信な人も、伝統的に他の宗教の信仰者に対して寛容でしたし、多くの場合、一人のなかにおいて、仏教と神道儒教が共存してきたことさえあります。しかも、これらの古来の宗教は、日本人の内に、博士があげられたキリスト教後退後の三つの信仰のうちの二つ――つまり科学技術の進歩に対する信仰とナショナリズム――とも、顕著な形で同居してきました。周知の通り、ナショナリズムと最も明白な形で結びついたのが神道でした。これは明治維新から第二次大戦の終わりまで、日本帝国主義の精神的支柱となってきました。敗戦によって、神道の象徴的意味と、そのナショナリズムとの結託は破綻しましたが、まったく消えてしまったわけではありません。神道はまた、科学技術の進歩とも奇妙に結びついています。最新の技術設備をもつ工場やビルディングに、神道の祠が設けられていることは珍しくありませんし、現代技術の粋をつくして建てる鉄筋コンクリート・ビル着工にあたって、神道による〝清め〟の儀式が、伝統的な儀式にのっとって行われています。こうした事例からみますと、日本の場合、科学技術に対する信仰とか、ナショナリズム共産主義は、伝統的宗教の後退による精神的空白を埋めるものというのとは、少し意味が違うようです。そこが、自身における精神的な対決のうちから、新しい精神と人生の拠りどころを求め、これを確立していったヨーロッパ人の場合と異なる点だと思います。
           
  この池田先生の指摘を受け、トインビー博士はさらに詳しく「近代西欧の三宗教」成立の歴史的情況を説明します。その内容は、歴史とはあくまでも〝人間〟の営為が根本として形成されるものとみる、トインビー博士の歴史観が具体例を通して述べられます。この視点は、歴史を何か客観的な法則や、超越的な存在者によって人間の外部から働きかけられて進行するものとする視点とは全く正反対の視点です。危機的状況にある現代文明を、人間を始めとして全ての存在にとってより良き方向に変える必要性が存在する現在、変革の主体者としての〝人間〟。われわれ人類の中の目覚めた者にとって重要な支えとなる思想であると思います。
 
「トインビー たしかに、状況の違いはあるようです。しかし、その点についてさらに比較検討を進めるため、科学的進歩への信仰やナショナリズム共産主義が、ヨーロッパ諸民族の思考や信仰に重要な位置を占めるに至ったいきさつを、若干詳しく述べて見たいと思います。まず、科学的進歩に対する近代西欧の信仰が意識的に確立されたのは、1661年にイギリス学士院が設立されたのと同時と考えてよいでしょう。イギリス学士院は、17世紀の自国の内紛に驚惑し、その政治上の成り行きに幻滅したイギリスの知識階層によって設立されました。これらの知識人は、イギリスにおいて国内紛争をつのらせたのは、神学上の論争であることに気づきました。彼らは、この種の論争はキリスト教の権威を落とし、世間にも害を及ぼすものだと考えました。また、争点となっている問題が、合理的に納得のいく形で解決されるものでなく、そのため知的にも結論に到達できるものではないと考えました。彼らのこの考え方は正しかったといえます。このため、イギリス学士院の設立には、知的関心の方向を神学から科学へと変え、実際の行動を、宗教や政治の紛争から技術面の発達へと転じることによって、そうした弊害を和らげようとする意図がこめられていました。設立者たちは、科学を組織的に技術面に応用することによって、かつていない技術の進歩を実現する可能性があることを予知していたわけです。彼らは、技術の進歩が、必ずや福祉面の向上につながるものと想定していました。しかし、彼らにも盲点がありました。それは、あらゆる力は――科学的に進歩した技術が生み出す力を含めて――すべて倫理的には中性のものであり、したがって、使い方によって善にも悪にもなりうるという点でした。この彼らの理想にのっとった宗教――科学的進歩への信仰――は、1945年に致命的な打撃を受けました。それは、科学が原子の構造を発見し、この発見が技術に応用されて核分裂によるエネルギー放出をもたらし、それがただちに悪用されて二個の原爆がつくられ、広島と長崎に投下されされたときのことです。」
           
  「池田 科学者たちは、二度にわたる世界大戦を体験するまで、真の意味で、科学的進歩のもつそうした両面性に、深刻な認識をもっていなかったようです。二つの大戦には、経済力と科学技術の総力が注がれましたが、その結果、人類が得たものは、悲惨きわまる災禍でしかなかったわけです。」
 
「トインビー 次に、西欧の伝統的宗教にとって代わった第二の宗教、つまりナショナリズムは、地方社会における人間の集団力を信仰の対象とするものです。科学の進歩に対する信仰とは違って、ナショナリズムは新しい宗教ではありません。それは、古来の宗教が復活したものです。すなわち、ナショナリズムは、キリスト教以前のギリシャ・ローマ世界における都市国家の宗教だったのです。この宗教は、ルネッサンス期に西欧で甦りました。そして、このギリシャ・ローマ的な政治的宗教のルネッサンスにおける復活は、ギリシャ・ローマ風の文学、美術、建築などの復興よりも、はるかに強い影響力を持ち続けています。」
           
この部分をある程度の実感をもってうけとめるには、ギリシャ・ローマ世界の歴史に対する知識とルネンサンス期のイタリアの都市国家の抗争に関する知識を前提として必要とします。トインビー博士の学歴のなかで明白なように、パブリックスクール時代の古代ギリシャ語、ラテン語の習得を通しての古典古代に関する教育、さらにオックスフォード大学での人文主義の教育を通して身につけることになる、教養・リベラルアーツがベースとなって理解できる内容となります。さらにトインビー博士の記述の引用を続けます。
           
  「近代西欧ナショナリズムは、ギリシャ・ローマの政治理念や制度によって感化されつつも、キリスト教の活動性と狂信性を受け継いでいます。それが、アメリカ独立戦争フランス革命において実践に移されたとき、ナショナリズムは、きわめて高い感染度をもっていることがわかったわけです。今日では、この狂信的ナショナリズムが、人類全体のおそらく九割の人々がもつ宗教のうち、おそらく九割を占めるものとなっています。」
           
   この部分も、従来の世界の歴史の教育の中で強調されている内容と真っ向から衝突する部分です。従来の世界史教育の中では、アメリカ独立とフランス革命はハイライトされる特筆すべき事件として扱われています。近代の自由民主主義のイデオロギー、それに基づく議会民主主義、その根幹をなす根本法としての憲法の確立、先ほど池田先生とトインビー博士が論じてきた17世紀の脱キリスト教段階、いわゆる〝世俗化〟された〝市民社会〟の基本構造のスタートを確立した事件として特別の意義をこめて記述されます。7月4日のアメリカ独立記念日は、今現在もアメリカ合衆国アイデンティティーの根幹を祝う重要行事ですし、それは7月14日のフランス革命記念日フランス共和国における意味と同等の意味を持っています。しかし、トインビー博士はきびしく断罪します。たしかに、〝戦争〟という観点からみるとき、アメリカ独立戦争フランス革命は重要な画期となります。〝ナショナリズム〟という〝宗教〟によって根源的なエネルギー放出を受け、鼓舞された国民を主役とする戦争は従来からの戦争の状況を一変させることになりました。
           
「トインビー 近代西欧ナショナリズムは、ギリシャ・ローマの政治理念や制度によって感化されつつも、キリスト教の活動性と狂信性を受け継いでいます。それが、アメリカ独立戦争フランス革命において実践に移されたとき、ナショナリズムは、きわめて高い感染度をもっていることがわかったわけです
           
 このトインビー博士の指摘は重要です。戦争における残虐度は、その戦争にかける思い込みの深さに比例する部分があります。平常の歴史記述では、なかなか記述されませんが、アメリカ独立戦争フランス革命とそれに続くナポレオン戦争の時代へと、戦争に対する国民の動員体制、また個々の戦争における非人間性はそれまでの戦争とは様相を一変します。
 科学技術の進歩による兵器の発達と連動して、そのあと19世紀、20世紀へと人類は〝戦争〟の時代を迎えます。〝核兵器〟という究極の兵器が誕生し、可能性としての人類滅亡の段階に入った現在、よりよき〝平和〟の時代へと人類の宿命を転換するためにもこの原点を確認することには重要な意味があります。この部分において、17世紀以降、西欧において人々の9割以上のなかのさらに9割の人々、ということは大部分の人々の内面に強い力を持つ〝宗教〟としての〝ナショナリズム〟についての記述は重要です。この視点は未だに世界の人々の理解を得ているとは言えません。むしろ、現在においても〝宗教〟としての〝ナショナリズム〟こそ世界全体で大きな影響力を持っています。その出発点となるアメリカ独立戦争フランス革命という事件を例証としてあげ、その危険性を指摘されるトインビー博士の歴史観。現在地球上に存在する人類がその意義をどう捉え、世界平和への動きとして実践化していくか。そこには、越えなければならない大きなハードルがあります。この指摘のあと、トインビー博士は第三の宗教として〝共産主義〟をとりあげます。
 
  「トインビー また、17世紀の思想から生じた空白を埋めることになった、第三の宗教である共産主義は、文明そのものと同じくらい古くから存在していた社会的不公正に対する、一つの反動です。キリスト教にせよ他の共産主義以前の宗教にせよ、理論上では、みな社会的不公正を指弾してきました。しかし、この点に関しては、いずれの宗教の理論もいまだ実践に移されたことがありません。共産主義が、この点で既存のあらゆる宗教を批判したのは、たしかに当を得ています。しかし、その共産主義は、社会的不公正の撲滅に注意と努力を集中するあまり、キリスト教のならわしであった不寛容性と、ユダヤ系の全宗教に特有な排他性に陥ってしましました。事実、共産主義キリスト教から派生した一つの異端宗教であり、従来の異端宗教と同じく、キリスト教の体制者が無視してきた、特定のキリスト教戒を強調しています。すなわち、共産主義における神話は、ユダヤ教キリスト教の神話が、無神論的な言葉に訳し変えられたものです。たとえば、『唯一全能の神ヤーヴェ』は『歴史的必然』へと訳し変えられ、『選ばれた民』は歴史的必然によって勝利を運命づけられた『プロレタリアート』に、また『一千年王国』は最終的な『国家の消滅』へと訳し変えられているのです。共産主義はまた、全人類を改宗させる使命があるという信念をも、キリスト教から受け継いでいます。ただし、キリスト教共産主義だけが、このような伝道的性格の宗教というわけではないことはいうまでもありせん。イスラム教、仏教、それに科学的進歩への信仰も、同じような使命感に立つ伝道的宗教です。」
           
   このトインビー博士の視点は、共産主義思想の持つ根源的性格を的確に指摘されています。19世紀の資本主義の誕生、発展の歴史に対して、西欧における1830年の7月革命、1848年の2月革命、1871年のパリコミューン、1917年のロシア革命と、いわゆる〝市民革命〟と表裏の関係で社会主義的・共産主義的な運動が連動します。現代においても、重要な社会勢力としての社会主義者共産主義者が存在しています。人類社会の未来を構想する上での重要な思想として多数の人々から認識されていることは間違いありません。その思想の根源的性格を〝宗教〟として認識し、同時にその問題点を明確にしています。いずれにしてもキリスト教の影響が低下した西欧近世の17世紀以降の歴史的流れを「近代西欧の三宗教」との関係において考えていくことは、結局は〝宗教〟の歴史的意義を真剣に考察し、人間社会にとっての〝宗教〟の必要性とそのあるべき方向性を確認する作業がどうしても必要になります。  この内容を受けて、池田先生は根源的な考察を加えて展開されます。その考察をうけてトインビー博士も求められる未来の宗教について考察を述べていかれます。
 
「池田 私は、古い宗教、つまりキリスト教イスラム教、仏教に比べて、新しい宗教、つまり科学の進歩への信仰、ナショナリズム共産主義がもっている、一つの共通事項があると思います。それは、古い宗教がいずれも人間の欲望を規制し、自己を制御することを基調としていたのに対して、新しい宗教は欲望を解放し、充足する手段として生まれた、あるいは用いられてきた性格があるということです。私はこの基本的な性格のなかに、これらの新しい宗教が直面している問題の本質があると思うのです。」
           
「トインビー そのご指摘は正しいと思います。したがって、私は新しい種類の宗教が必要だと感ずるのです。近代西欧に起源をもつ現代文明の世界的普及によって、人類はいま、歴史上初めて社会的に一体化されています。そして、現在の宗教がいずれも満足のいくものではないことがわかったため、人類の未来の宗教は一体何なのかという疑問が生じているのです。この未来の宗教は、しかし、必ずしもまったく新しい宗教である必要はありません。それは古い宗教の一つが、新しく変形したものである場合も考えられます。ただし、そうした古い宗教の一つが、人類の新たな要求に応える形で復興したとしても、それはおそらく、すでにほとんど見分けがつかなほど抜本的に変形したものになっているものと思われます。その理由は、現代における人間生活の諸条件が、すでに抜本的に変わってきているからです。新しい文明を生み出し、それを支えていくべき未来の宗教というものは、人類の生存をいま深刻に脅かしている諸悪を対決し、これらを克服する力を、人類に与えるものでなければならないでしょう。これら諸悪のうち最も恐るべきものは、人類の歴史のなかで最も古くからあるものです。すなわち、生命そのものと同じくらい歴史の古い貪欲であり、文明と同じくらい歴史の古い戦争と社会的不公正です。そしてまた、これらとほとんど変わらないほど恐ろしい新たな悪は、人間が己れの欲望を満足させるために、科学を技術に応用して作りだした、人為的環境です。」
           
 この内容は、重要な意味を持っています。トインビー博士は、現代文明が陥っている危機的状況を人類にとってより良き方向に変化させていく根源として、〝宗教〟の重要性を指摘します。しかし、現在存在している諸宗教がそのままの姿で通用するとは考えていません。
 その宗教の備えるべき条件として、『新しい文明を生み出し、それを支えていくべき未来の宗教というものは、人類の生存をいま深刻に脅かしている諸悪を対決し、これらを克服する力を、人類に与えるものでなければならない』と明確に定義され、さらにその〝諸悪〟について具体的に指摘しています。その〝諸悪〟とは、『これら諸悪のうち最も恐るべきものは、人類の歴史のなかで最も古くからあるものです。すなわち、生命そのものと同じくらい歴史の古い貪欲であり、文明と同じくらい歴史の古い戦争と社会的不公正です。そしてまた、これらとほとんど変わらないほど恐ろしい新たな悪は、人間が己れの欲望を満足させるために、科学を技術に応用して作りだした、人為的環境です』と述べられています。現代の世界において、地球規模の問題群が指摘され、様々な提言、政策、試行が世界的規模で実施されていますが、その内容を集約するとここでトインビー博士が指摘されている内容に明確に収まります。その内容を受けて、池田先生は次のように要約されます。責任ある宗教者としての立場からの回答は、回答の内容の具体的実践へとつながることになります。
 
「池田 まったく、その通りだと思います。新しい文明を生み、それを支えていくべき宗教が対決しなければならない諸悪を、生命につきまとう貪欲と、文明につきまとう戦争および社会的差別、そして人為的環境に分類されたのも、私の考えている点と一致します。貪欲は人間の自己の内面にあるものであり、戦争や社会的差別は人間対人間、つまり社会の次元にあるものであり、環境破壊は人間対自然の関係に生じる問題です。」
           
  この池田先生による要約は、トインビー博士の見解をさらに普遍化しています。トインビー博士が指摘された諸悪をさらに具体化し、解消への道程が想像できるような内容として止揚されています。トインビー博士が人類の歴史の中でも最も古くからあると指摘された貪欲を生命につきまとうものとされて取り上げ、文明がスタートし、人間社会が集団による力を発揮する段階で生じてくる諸悪として戦争と社会的差別をあげ、自信をつけた人間が自分中心となり、いままで自分をはぐくんでくれた自然環境を破壊する傾向を、人間対自然の関係の中で取り上げる。この視点を、仏法者としての視点からさらに展開します。
 
「池田 貪欲は人間の自己の内面にあるものであり、戦争や社会的差別は人間対人間、つまり社会の次元にあるものであり、環境破壊は人間対自然の関係に生じる問題です。この自己――社会――環境という三つの範疇について、仏法では〝三世間〟として説き明かしています。人間の自己との関係において生ずる多様性を〝五陰世間〟といい、人間と他の人間あるいは社会との関係におけるそれを〝衆生世間〟、そして人間と自然的環境との関係におけるそれを〝国土世間〟といっております。ここで〝世間〟とは差別、多様性という意味ですが、これら三つの〝世間〟が生命存在にとって不可欠の要素だというのです。しかも、それらのいずれにおける事象も、すべて他の二つに関連してくるわけです。結局、私は、この三つの関係を正常なものとすることに、最大の努力を注がなければならないと信ずるのです。そして、そのためには、人間一人一人が、自己の生命の内奥からの変革をめざさなければならないでしょう。これを可能にする宗教こそ、未来に望まれる真の宗教たりうると思います。」
           
   新しい文明の根本としての宗教、人類世界の諸悪を解消する根本の原動力としての新しい宗教の備えるべき条件を具体的に考察していくと、その条件は実は互いに関連していることが判明します。そして、つきつめていくとこれらの問題は、一人一人の人間の自己の生命の内奥からの変革を必要としている。つまり、すべての鍵は一人一人の人間の変革にある。この結論は、トインビー博士が生涯をかけて追求されてきた課題の究極の回答を示しています。
 
 冒頭のトインビー博士の『今、国体思想はどうなっているのか?』という質問は、自身の経験と歴史研究の根本的な結論を踏まえた質問であることは間違いありません。この質問に対して河合氏は次のように答えています。
英語の会話は軽い冗談から始まるので、私は「近頃の日本の若者にとって、国体とは〝国民体育大会〟のことだ」とまず答えました。そのうえで、戦後の新憲法下で主権は国民に移ったものの、家庭内における家父長的な慣習、企業組織や村落における人間関係など、国体思想の影響は形を変えて残っており、そうした構造を克服していけるかが課題であると答えました。
 この回答は、多少的外れであると思います。トインビー博士の質問の意図を考えると、かつての大日本帝国のOS(オペレーティング・システム)であった『国体思想』に代わる、戦後20年立った1967年段階での、日本人のOSとしての思想・宗教の所在を確認したいという思いが言外に強くあると思って間違いないと思います。
 
先にあげた質問に続いて、トインビー博士が発した二つ目の質問は、『創価学会ファシスト』でした。
その質問を受けて、河合氏は次のように答えています。
 
当時、一部の新聞が「公明党ファシスト政党だ」と騒ぎ立てていたので、そうした報道の真偽を確かめたかったのでしょう。それまで何人かの学会員と接してきた私は、創価学会が現世的な利益を肯定していることを知っていましたので、安易に命を捨ててお国のために尽くすような行動に走ることはないだろうと答えました。加えて、創価学会は戦時中に治安維持法によって迫害された組織です。戦前への復帰を望むわけがなく、それどころか、民衆に自立心と誇りを与えていると思うと答えたのです。大阪や京都の学会員との交流を通して、庶民的で現実主義的な関西人が創価学会公明党を支えていたという印象も強くありました。」
 
 この質問とこの回答は一見すると、この当時の一般的な世評を元にした、普通の質問と回答のように思います。当時、日本の社会において、ジャーナリックな興味の対象として、その戦後の日本における急速な拡大と、男子青年部の役職名における分隊長、隊長、部隊長、参謀等の旧軍隊組織の借用利用などの表面的な印象から「創価学会はファッショである」と言うレッテルを貼って批難中傷する新聞、雑誌における記事が散見される時代でもありました。このトインビー博士の直裁な質問も、当時の欧米の一般的な新聞、雑誌における記事の内容を反映していると思います。その質問に対する河合氏の回答は、バランスのとれた客観的な観察と評価に基づく、公平な回答であると感じます。
 ただ、ここで指摘しておかなければならないのは、トインビー博士はこの段階で、すでに1929年に太平洋協議会の英国代表の一人として来日し、まさに「国体思想」をよりどころにして中国東北部満州)、さらに中国侵攻に取りかかろうとする前夜の段階の日本の状況をしっかりと感じ、認識する直接的な機会を持っていたこと。さらに戦後の1956年には、先ほど記載したように、日本を訪問し二ヶ月にわたって日本各地を直接見学し、「歴史の研究」刊行後の世界一周旅行の旅行記である『東から西へ』を執筆されており、『国体思想』について十分な考察に基づく正確な認識を持っておられたということです。
 いわば、この1967年におけるトインビー博士の質問は、世界文明史の上における日本文明の現時点の状況に関する十分な考察を終了した上で、キリスト教の発生と類比できる現象としての『創価学会』の出現と拡大に、明確に焦点を絞りつつある段階での確認に近い質問であるということになると思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
 
 
 
 
   

ゴルバチョフ元ソ連大統領の死去に思う

この文章を執筆中の2022年9月9日の段階で本年の2月24日に開始されたロシアとウクライナの戦争はまだ続いています。この戦争については開始以来6ヶ月を経過して、さまざまな視点からの論評がなされてきました。この間、先月にはこのロシアの動きの起点となる歴史の変動のスタートとなるソ連の崩壊、解体のきっかけとなったペレストロイカの立役者であった、ソ連邦最後の大統領ゴルバチョフ氏が96歳の天寿を全うされました。氏は、昨年2021年の5月3日・創価学会の日、創価学会母の日によせて、長文のメッセージを池田先生の創価学会に寄せられました。その中において「自分のやってきたことは池田先生の思想の枝葉の一つである」と語られ、ペレストロイカの歴史的意義が究極の人類的価値に基づく、人権思想の展開であったことを述べられ、人類史の上におけるペレストロイカの歴史的意義を強調されました。ソ連が崩壊した1991年から約30年が経過した現在、あえて振りかえってみると、一瞬見えた、人類の理想の輝き、胸躍るような思いは戦争の報道の彼方に消えてしまったようです。この30年間を振り返ると、ゴルバチョフさんが池田先生との対談「20世紀の精神の教訓」のなかで、たびたび触れられておられるように、自発的に情報を公開し、平和への道、核軍縮への道へと舵を切ったロシアの動きを正しく評価せず、単純に冷戦という世界的な対立抗争のアメリカを中心とした西欧の自由と民主主義の一方的な勝利として単純に認識し、唯一の世界覇権国家として振る舞おうとするアメリカ合衆国、さらにそれに連なる西欧陣営の動きは世界に様々な混乱をもたらしてきました。その混乱について詳論はしませんが、その行為に対する一つの「応答(レスポンス)」が今回のロシアによるウクライナへの軍事侵攻であることは間違いありません。またその状況を、もう少しうがった見方をしてみると、ロシアはアメリカによって軍事侵攻という最終手段を使わざるを得ないような方向へ追い込まれていったと言う見方も成り立つかとも思います。しかし、20世紀に人類が経験した二つの世界大戦という人類史上未曾有の悲劇、人間の何千万単位での大量死という現実に対して、その悲劇を二度と繰り返してはならないと、〝英知〟を集約して作られたシステム、国際連合による世界平和維持のシステムにおいて鍵を握っている常任理事国が起こした〝戦争〟はそのシステムの崩壊を象徴している事実であることは間違いありません。今、ゴルバチョフさんの死を前にして、もう一度、ペレストロイカの歴史的意義に立ち返り、発想し行動すべき段階がやってきているように強く感じています。

1889年にイギリスに生まれたことの影響

「歴史の研究」23巻・再考察 P1129
今や私は二度の世界戦争を生き、この第二の戦争がついに原子力兵器の発明と使用に至ったのを目にした。それ以来われわれは、それよりはるかに破壊的な爆弾を地表のあらゆる地点から他のどの地点へも送ることのできるロケットを発明した。私が生まれた時代の結果であるこの経験が多くの問題に対する私の態度を彩っていると私の批評家は指摘している。これは現代だけでなく人間の歴史全体に関係のある問題である。私は戦争を憎悪するが、同時に戦争の研究に非常に興味を持ち、それに非常に大きな注意を払っている。同時にまた私は、武力の行使が人間の歴史の歩みに決定的な影響を与えたとは認めたくない。概して私は、あらゆる種類の動的要因――軍事ならびに経済、技術の要因――の影響を最小限に評価し、精神的要因の影響を大きく考えている。
特に私は苦悩を称揚し、苦悩が時としてもたらす創造的な精神的結果を強調する。
政治に適用される時、この私の態度は私に時と所を問わず、あらゆる形のナショナリズムに敵意をいだかせた。私自身の時代の世界で私は極端なナショナリズムであるイタリアのファシズムとドイツのナチズムを批難するだけではなく、イギリス、フランス、オランダの植民地主義を批難し、大量殺戮をおこない、この惑星の表面を居住不可能にする危険を冒して世界制覇をめぐる競争に合衆国とソヴィエト連邦を駆立てる精神を私は批難する。私は統一を強く望み、世界が主権を持つ地方国家に分裂していることを悲しむ。

アレキサンドル・カザコフ「ウラジーミル・プーチンの大戦略」より  ロシアにおけるビザンツ帝国の遺産

 
 現在、世界中のニュースでほぼ一日中24時間と言って良いくらい関心を集め、取り上げられているのは、2022年2月24日に開始されたロシアによるウクライナ侵攻です。現在なお進行中であり、結末はまだみえていません。
 ニュースの取り扱いは、SNS等で送られてきた、現地の生々しいショットの放映を中心に、コメンテーターのコメントが加えられたニュース映像であり、日本のマスコミの取り扱いは、ほぼアメリカというよりは、アメリカの現バイデン民主党政権の主張にそった内容です。「アメリカ独立革命」に始まる「自由と民主主義」という普遍的な価値の守り手として自らを位置づけ「Manifest Destiny」を標榜する、価値観の視点から、ラインホルト・ニーバーの定義によれば自らを〝光の子〟絶対的な「善」として設定し、対立する勢力を自らに跪かない限り絶対の「悪」として位置づけて弾劾し徹底して攻撃することを継続しています。しかし、自らは決してロシアとの直接対決はせず、ウクライナに対してひたすら武器を供給しています。ロシアに対する制裁手段としての経済制裁はむしろ西欧世界における急激なインフレーションとなり、ブーメランのように返ってきています。結局、同じスラブ系であるロシア人とウクライナ人の生命を何万と言う単位で犠牲にして事態は長期化の様相を呈し、現時点ではその出口はみえていません。
 
〝戦争の世紀〟20世紀の反省を踏まえて、主権国家単位での生存と平和を保証する組織として設立された国際連合は、この原則を破る国家に対して、懲罰としての諸策、最終段階での軍事的制裁をも想定しています。そのことを保証する中心の組織として、第二次世界大戦戦勝国である米、露、中、英、仏の5カ国を構成メンバーとする国連安全保障理事会があります。その安全保障理事会においては、〝常任理事国〟の一致の条件(一国でも不賛成の国があれば成立しませんので〝拒否権〟と呼ばれます)を規定していますが、第二次世界大戦後の冷戦時においては、米ソの対立のため、ソ連崩壊後の今日においても五大国の意見の一致は難しく、有効に機能したことはないと言っても良いと思います。ソ連邦の崩壊からすでに30年が経過しました。現在、国際関係においては、大国としての基盤を備えるに至った中国も含めた諸大国が自国の勢力圏を争う〝新帝国主義〟の時代となり、さらに複雑な機能障害に陥っているように見えます。まして、その理念・原則を常任理事国の一つであるロシアが踏みにじるというような事態になると、国連の機能不全状態が白日のもとにさらされることになりました。
 
 この事態は、現在のNPT条約上、核兵器保有をみとめられた先の5大国の異常な振る舞いであり、全人類の滅亡の可能性にもつながる本質的な意味での危機事態です。それでは、この事態の解決の方向性は? どんなに考えても簡単に結論のでる問題ではありません。ロシアを批判して、国内の反対世論に期待すべきでしょうか?経済面での制裁処置を究極にまでに高めるべきでしょうか?ウクライナ義勇兵、武器援助をはじめとする武力による支援を強力に行うべきでしょうか?このすべての可能性についての報道が今さかんに行われていますが、どれも決定的な解決手段とはならないことは明白です。
 
 それでは、どのような対応策があるのか。この間の報道で、主にYouTubeでの報道ですが、丹念に探してみると馬淵元駐ウクライナ大使を始めとして、篠原常一郎氏の連日の発信、さらに新党大地の月例公開講演会での佐藤優氏の話とか、これはと思われる視点をもつものがいくつかあります。さらに検索を重ねていくと、たとえば「論座」「潮」における塩原俊彦氏の記事、「プレジデントオンライン」における佐藤優氏の投稿記事等、など、ロシア側の論理も押さえた上で、今後の見通しについての客観的な優れた記事があります。しかし、残念ながらこれらの記事の視点についも感情的な反感による批判の感想が集中しています。大手メディア、マスコミの報道は、欧米を中心としたメディア発信のものが中心になっており、映像的には個人が様々な個々の状況に接して、その一瞬を切り取ったSNSからの発信を織り交ぜての報道になっていますので、インパクトの強い映像が中心であり、そこにいたる事情や背景も含めての根本的かつ根源的な認識を得るのは本当に難しい状況があります。またロシア発のニュースはほとんど無視され、〝人道的感情〟を安易によりどころとした感情的な情報が飛び交っています。その中からどう正しい事実を確認し真実をつかんで、正しく考えることができるか。今、求められているのは人類の歴史を踏まえ、人間の本質をしっかりと踏まえたうえでの事実に対する深い考察です。
 
 その中で、ユーチューブに、「伊藤貫の真剣な雑談」第七回「文明の衝突とロシア国家哲学」と題する映像が6月25日にアップされました。約73分におよぶ大学の講義並の時間をとった内容は、プーチン大統領のロシアがウクライナ侵攻を決断するにいたるまでの重要な判断材料となった、ソヴィエト連邦崩壊後の30年にわたるアメリカ合衆国によるロシア政策と、その功罪です。米ワシントン滞在が30年をこえる国際政治アナリストである伊藤貫氏が、現地アメリカの直接の情報を通して、分析し表明する見解は、現在のアメリカの主要メディアの見解にかかっているバイアスを超え、真実の状況を示しています。さらにその情報をほぼそのまま提供している状況である日本の大手メディアではほぼ聞くことのできない内容です。その中においては、オリヴァー・ストーン監督の「プーチン・インタビュー」、シカゴ大学ミアシャイマー教授の見解、さらにフランスの人口学者エマニュエル・トッド氏の見解、さらに「文明の衝突」を書いたハンチィントンの見解等を取り上げたうえで、キッシンジャーをはじめ、この30年間におよぶ米国外交の当時者である米国国務省、CIAの担当者の自伝のなかに問題への言及をさぐり、また米国主要メディアに掲載されたインタビュー記事を縦横に引用しての内容は、説得力があります。
 さらに圧巻は、プーチン大統領の思想とその背景の分析です。日本の報道では、プーチン大統領の出自として、やたらにKGBに焦点をあてて、秘密主義・陰謀工作・独断専制等のイメージを作ろうとする傾向がありますが、伊藤貫氏の分析は、プーチン大統領の出自をていねいにたどり、その背景にある「ロシア文明」の発想に言及していきます。イリイン、ソルジェニチィン等のプーチン大統領が良く引用し学ぶように教唆している文学者とのつながりとその意義を明確にしています。伊藤貫氏の分析から、見えてくるのはロシアという国のもつ根本的な要素としての「ロシア文明」、西欧文明とは明らかに異なる原理に基づく文明の存在であり、その原理の上に立って発想し、戦略的方針、戦術的な方針を立て行動するプーチンの実像です。
 
 アレキサンドル・カザコフ「ウラジーミル・プーチン大戦略」は2021年7月に日本語に翻訳され出版されました。著者のアレキサンドル・カザコフ氏は、佐藤優氏が作家としてデビューし評価を受けた著書「自壊する帝国」の中で、モスクワ大時代からの友人として〝サーシャ〟として登場します。私にとっては、その後継続して佐藤優氏の著書を連続して読み始めるきっかけとを与えてくれた本です。そこに描写されたソ連崩壊後の2500倍にも達するハイパーインフレの中で苦闘するロシアの状況を象徴するような人物として印象深い人物であり、エリチィン政権下でのロシアの様子とともに強く印象に残っています。あとがきに著者と佐藤優ソ連崩壊後のロシアから始まる両者の深い関係を語る、長文の解説があるので引用します。
本書の著者アレクサンドル・ユリエヴィッチ・カザコフ君(いつもサーシャという愛称で呼んでいるので、この解説でもサーシャと記す)は私の親友だ。私がモスクワの日本大使館に1987年8月から95年3月までの七年八ヶ月勤務していたときにできた生涯付き合うことになる友人の一人だ。その中でもサーシャは別格だ。なぜなら他の友人は、大使館で私が勤務するようになってから仕事を通じて知り合ったのに対して、サーシャは私がモスクワ国立大学に留学しているときにできた友人で、仕事上の利害関係を持っていなかったからだ。・・・・・・(中略)・・・・・・確かにサーシャが言う通り、今から三十数年まえに二人で真剣に議論した内容が、『ウラジーミル・プーチン大戦略』では、より精緻に展開されている。私なりの言葉で、要約してみよう。サーシャは、プーチンがロシア人の集合的無意識を体現していると考える。それは、『ロシアは帝国でなければロシアではない』と言うテーゼだ。ソ連崩壊前後に欧米諸国(西側)は、ロシアを国民国家(ネーション・ステイト)に再編しようとした。それはモザイク状にさまざまな民族と宗教が分布するロシアの死を意味する。ゴルバチョフ政権末期とエリツィン政権時代が『混乱の九十年代』となったのは、ロシアが帝国であることを放棄しようとしたからだ。ロシアにとって、最大の脅威は、ロシア民族主義ナショナリズム)だ。プーチンは、移民を排除し、ロシア人だけによるロシアを形成しようとする排外主義的民族主義を最も危険視している。その理由は、民族主義ロシア帝国を分解させ、民族間の反目を煽ることになるからだ。帝国としてのロシアを維持するためにプーチンはロシア・ナショナリズムに反対するのである。
ここでサーシャは、二つのロシア人概念を分けて考える。第一が、ルースキーだ。これは民族的なロシア人で、ロシア語を話すロシア正教徒の人々だ。これに対応する国家名がルーシ(古代ロシア国家の名称)だ。第二がロシヤーニンだ。これはロシア皇帝に忠誠を誓う臣民という意味で、民族的、人種的、宗教的帰属は問題にならない。これに対応する国名がロシアである。ロシアという名称自体が、国民国家ではなく、帝国を表しているのだ。・・・・・(後略)・・・・・・ 」
 
 この佐藤氏による解説を読んでいくと、現在のロシアのプーチン大統領は民族国家という枠ではなく、複数の民族をその版図内におさめる〝帝国〟という枠で、ロシアの方向性を構想していることがわかります。そのロシアにおける〝帝国〟という思想・概念に、意識的にも無意識的にも大きな基盤を提供しているのが〝ロシアにおけるビザンツ帝国の遺産〟であることは明白です。その根幹のエートスを構成するのが〝モスクワこそ第三のローマ〟とするロシア正教です。この認識は実は75年前、1947年にトインビー博士が著書『試練に立つ文明』のなかで「ロシアにおけるビザンチン帝国の遺産」として示している見解と一致しています。この1947年の段階においては、第二次世界大戦後の米ソ冷戦の当初期であり、共産主義自由主義というイデオロギー対立ソヴィエトとアメリカの対立の根本であり、この段階でロシアという固有名詞を使ってその根源をビザンチン帝国に探る視点は特にソビエトの知識人からも反論を持って迎えられました。しかし、トインビー博士の視点はさらに一歩深く考察を進めると、ロシアは西欧とは異なる文明であり、ロシア文明は世界に存在する西欧、ロシア、インド、中国、日本等の文明の一つであるとする文明論的考察の可能性に導きます。
 
 この〝サーシャ〟による、プーチン大統領ビザンツ帝国に関する認識を記述した部分を以下に引用します。
「・・・・このことから次のことを認めざるを得ない。ビザンツ帝国は、それ自身の、そして自身を取り巻く空間を組織化するモデルと、この組織づくりのための戦略を作り上げたが、それは今日の世界において、とりわけロシアにとってはなおのこと必要とされものである。
ここにおいて、先述の映画『帝国の滅亡、ビザンツの教訓』〔「教訓」という言葉がここでは最も重要だ〕の脚本を書いたヴラディカ・チーホンに同意せざるを得ない。そして本書は、ロシアの最高統治者であるウラジーミル・プーチンがこれを理解していると言うことを述べたものなのである。
 本書で取り上げたテーマはそれぞれが個別に詳細な検討を要するものであることは承知のうえで、プーチンの戦略の宝庫であるビザンツの源流についての論考を手短に総括しておく。ビザンツ帝国が戦略地政学的に脆弱な状態にあり、あらゆる戦線で絶えず戦争を行うにはリソースが足りなかったことが、ビザンツ帝国をして、外交で戦略の宝庫を拡充させ、戦略の及ぶ空間を、見渡せる限りのエクメーネ(北アフリカからスカンジナビアまで、ピレネー半島からカスピ海沿岸のステップまで)に拡張させることになった。そのことが、帝国が大戦略を実施するその時々において、シナリオの数を格段に増やすことになった。ビザンツ戦略の根底には正教の信仰があり、然るべくして使命が形作られた。だからこそ、そしてその結果、ビザンツプーチン大戦略にとってのモデルとなり、インスピレーションの源ともなったのである。・・・(中略)・・・・・・アメリカやヨーロッパの人々は、自分たちとグレードゲームを行っているのは「ヨーロッパ人」のプーチンクレムリンの「ドイツ」人)だと考えるが、実際のところ、グレードゲームを行っているのは、「北の狐」(ナポレオンがクトゥーゾフ将軍のことをこう評した)なのであり、中国と西欧の学び舎で選択的に学び終えた、真にビザンツ的な戦家家なのである。」
 
 トインビー博士の「ロシアにおけるビザンチン帝国の遺産」という講演を元にした論述は、博士の著作の『〝Civilization on Trial〟「試練に立つ文明」』の中に収められています。英文による〝ACKNOWLEDGMENTS〟の中には、この論述についてA.J.Toynbeeの署名を記して、次のような記述があります。
……Rossia`s Byzatine Heritage, published in Horizon of August 1947, is based on a course of two lecutures deliverd in April 1947 at the University of  Tronto on the Armstorong Founation.
1947年、カナダのトロント大学での講義で、ロシアについての考察? しかし、現時点で振り返ると1947年という年は、1949年にソ連が原爆実験に成功し核保有国としてアメリカ合衆国の独占状態を破り核大国の道を歩み始める直前であり、カナダはソ連からの迫害を逃れたウクライナ人が多数移住した国でした。
今回のウクライナ問題について重要な役割を果たしているとされる、アメリ国務省の次官であるヌーランド女史はその祖父がウクライナ出身であり、2014年のロシアによるクリミア併合の結果につながる契機となったといわれる、ウクライナにおける〝マイダン革命〟の動きの中で、当時オバマ政権のもとで国務省次官補であった彼女が具体的に大きな役割を果たしたことは周知の事実です。
 ロシアとウクライナとの関係、カナダにおけるウクライナ亡命者の存在、移民の国であるアメリカ合衆国におけるネオコンと呼ばれる人々、その人々がアメリカ合衆国エスタブリッシュメントとして、特に国家官僚として外交の上において果たしてきた役割を考えるとき、そのヨーロッパでの出自まで考えることによって、現在、目の前で起こっている事件の真実の背景が見えてくるように思えてなりません。
 トインビー博士の「ロシアにおけるビザンチン帝国の遺産」の内容は、ギリシャとローマからなるヘレニック文明、後継帝国としてのビザンチン帝国を考察の基盤において、キリスト教において西欧に展開されるローマン・カソリックビザンチン帝国で展開されるギリシャ正教ロシア正教等の東方キリスト教との関係について論じていきます。さらに世俗権力の頂点としての〝皇帝〟とキリスト教との関係を、西欧とビザンツ帝国との関係、さらに7世紀以降、急速に勃興するイスラム教。そのイスラム帝国であるオスマン・トルコとの関係。とくに1453年のコンスタンティノープル陥落以降の、東方キリスト教の首位者の変遷の結果、〝第三のローマ〟を呼称するロシアにおける〝皇帝〟《ツアーリ》の位置づけの内面的な意味にふれていきます。この根源的な内面的矜持が、ピョートル大帝以後の西欧文明の吸収、さらに第一次世界大戦におけるロシア帝国の崩壊に代わって権力を掌握したボリショビキ革命、反西欧文明的なマルクス主義のもとに成立したソヴィエト連邦がロシア人にとって持っている内面的意味についてふれていきます。この論考の冒頭でトインビー博士は次のように書かれています。
今日のロシアの社会体制〔1947年段階でソ連の体制〕は――細目の外面的事項まで全部はおそらく含まないにしても、少なくとも重大な事柄の大部分においては――ロシアの過去とは縁もゆかりも一切断ち切ってしまったと主張しています。また西欧人もボルショヴィークの言葉を真に受けて、ロシアはその主張を文字通り実行したものと思い込んでいます。われわれはそれをまに受けて身震いしたのであります。しかし一歩立ちどまって反省してみると、われわれが祖先から受け継いだ遺産を放棄するということはそれほど容易なことではありません。われわれが過去を放棄しようとすると、自然はホラティウスも知っていたように、姿を変えたのはほんのうわべばかりで、こっそりとわれわれの懐に舞い戻ってくるくせ者なのであります。」(p228)
「過去一千年近くのあいだ、ロシア人は、筆者の見るところでは、西欧文明ではなくて、ビザンチン文明の一員であったと考えるのであります。このビザンチン文明は、われわれの文明と姉妹関係に立つ一つの社会であって、われわれと同じくギリシャ・ローマ文明を父としていますが、それにもかかわらずわれわれの文明とは別個の文明であります。ビザンチン文明に属する諸民族の一員であるロシア人は、われわれ西欧世界に圧倒されるという脅威に対して、いつも強硬な抵抗を示してきましたが、同様な抵抗を今日なお続けています。西欧に征服され無理に同化させられることをまぬがれようとして、彼らは再三西欧の技術的学問を身につけることを強いられてきたのであります。この『離れ業』はロシアの歴史において少なくとも前後二回――最初はピーター大帝によって、次にはボルショヴィークによって――繰り返しなし遂げられました。・・・ところがせっかくボルショヴィークが年来の宿望を果たしたと思ったら、こんどは西欧が原子爆弾の製造のこつを発見することによって、またもやロシアを出し抜いてしまったのであります。」(p230)
西欧人はロシアが侵略者であるという一個の観念をもっています。西欧的な眼を通して眺めるならば、実際ロシアはどこから見てもそうとしか見えません。・・・・・・(中略)・・・・それがロシア人の眼には、景色はまったく反対に映るのです。ロシア人は自分たちが絶えず西欧からの侵略の犠牲者であると考えています」(p232)
このあと、トインビー博士は、キエフ公国からはじまるロシアの歴史を具体的にひもとながら、この西欧とロシアの認識の違いについて記述していきます。今回のウクライナ侵攻についても、この正反対の認識が双方にあることが、断片的なニュース等を通じても明白にわかります。どちらの認識が現実なのか。トインビー博士は次のように結論されています。
「数世紀にわたる二つのキリスト教世界のあいだの戦争の歴史において、どちらかといえば、むしろロシアのほうが侵略の犠牲者であり、西欧の方が侵略者である歩合いの方が多いというのが真相といってもいいでありましょう」(p234)
この指摘は、冷戦初期の1947年における考察です。その一瞬の状況を分析するのに、トインビー博士は、ノルマン人によるキエフ公国の成立の含めた約1000年にわたるロシアの歴史を考察の対象とします。
航行しうる内陸水路の支配権を獲得し、かくしてヒンターランドのスラブ人の原住民に対する支配権を確立することによって、曲がりなりにも一個のロシア国家の端緒を開いた『ヴァラング人』《一般的には、スウェーデンヴァイキングの事であると現代では解釈されている。》はもともとシャルルマーニュ帝のもとにおける西欧キリスト教世界の北進によって刺激され、西方に向かうと同時に東方にも移動せしめられたスカンジナビアの蛮人であったようであります。母国にとどまったその子孫は西欧キリスト教に改宗して、彼らは彼らで、後代のスウェーデン人としてロシアの西方の地平線上に姿を現わしました、つまり彼らはロシア人から見れば、侵略根性をなおされることなしに異端者となった異教徒だったのです。さらにまた十四世紀においてロシアのもとの領地の最良の部分――白ロシアベラルーシ)とウクライナのほとんど全部――がロシア正教キリスト教世界から切りとられて、リトアニア人とポーランド人に征服されることにより西方キリスト教世界に併合されたのであります。(十四世紀にポーランド人が征服した、ガリシアのもとのロシア領は、1939年~45年の大戦が終局に近くなるまでロシアに取り戻されなかった。)
なかでも1453年のコンスタンティノープル陥落以降の、ギリシャ正教という東方キリスト教世界における中心者であるコンスタンティノープル大司教が、イスラム教を奉じるオスマン・トルコの政治的支配に屈せざるを得ない状況の中での、モスクワを中心としたロシアの役割の変化について論じています。
1453年以来、ロシアはイスラム教徒の支配下にない『正教キリスト教国』のなかで唯一の重要な国家でありました。また、トルコ人によるコンスタンティノープルの占領は、『イワン雷帝』が一世紀後にカザンをタタール人から奪い取ったとき、彼によって劇的に復讐されたのであります。この事件は、ビザンチウムの遺産に対する要求において、ロシアがさらに一歩を進めたことを意味しています。・・・・・・・・・・ロシア人は自分が何をしているかを十分自覚していました。たとえば十六世紀において、ロシアの政策はモスコーの大公、バジル三世〔その治世はイワン三世と四世の治世にはさまれている〕にあてられた修道者、ブスコスのテオフィルスの一通の公開状の有名な一節のなかに、注目すべき明確さと自信とをもって述べられています。
“『古きローマの教会』はその異端のために倒れた。『第二のローマ』なるコンスタンティノープルの門は神を信ぜぬトルコ人の斧によって、伐り倒された。しかし『モスコーの教会』、『新しいローマの教会』は太陽よりも輝かしく全宇宙に光被している。・・・・・二つの『ローマ』は倒れたが『第三のローマ』は厳然として立っている。第四の『ローマ』は存在しえない。”
かくのごとくことさらに、はっきりした自覚をもってビザンチウムの遺産を要求することにおいて、ロシア人はなによりも先に、西欧に対するビザンチウムの伝統的態度というものをそのまま引き取ったことになるのであります。そうしてこのことは、1917年の『革命』以前のみならず、その以後においても、ロシア人自身の西欧に対する態度に甚大な影響を与えているのであります。
このトインビー博士の記述は、1947年のソヴィエト・ロシアの存在をもとにした考察です。そしてその時から75年を経過した現在、プーチン・ロシアの現在の行動の根本において同じように厳然と生きているように感じます。さらにトインビー博士は次のように続けています。
今日のマルクス主義マルクス主義のロシアにもなおいまだにその影響を失っていないように見えるビザンチウム以来のロシアの遺産について、われわれはもう少し立ち入って研究してみましょう。ビザンチウムの歴史の第一章をなす中世初期の小アジアコンスタンティノープルにおけるギリシャ時代を回顧してみるとき、このわれわれの姉妹社会のいちじるしい特色は何でありましょう。(すでに述べたような)ビザンチウムがあらゆる場合に善玉だという確信と、全体主義国家の制定との二つの特色が他にもまして顕著であります。」
この後続いて、ローマ帝国のコンスタンチヌス帝による首都の遷都、ギリシャ語世界であるビザンチウムへの遷都、そしてコンスタンティノープルの成立等からはじまるキリスト教の東方への展開、いわゆる「ギリシャ人によるキリスト教ローマ帝国」である東ローマ帝国ビザンツ帝国の成立をたどりながら、西方の西欧世界に展開したキリスト教のイニシアティブのもと成立した、カール大帝シャルルマーニュ)のローマ帝国〈トインビー博士は「幸運なる失敗」と表現していますが〉後の西欧の状況。常に教会権力が世俗権力に対して優位にたつ、もしくは教会権力と世俗権力が楕円の二つの焦点のように緊張をもちながら関係しあう関係に論及されます。「幸運なる失敗」と表現されているのは、この「権威」と「権力」の緊張関係の中で、現在の『西欧キリスト教文明』の性格が形成され、近世以降のキリスト教の“世俗化”の中で近代合理主義に基づく啓蒙思想による“自由と民主主義”を大義名分とする西欧世界が形成されていきます。現在、“世界の覇者”としてその軍事力を背景に、全世界にその価値観に基づく体制を作り上げようとしているアメリカ合衆国がその先頭にいます(特に米国内の民主党が主導しています。トランプ前大統領の“アメリカ第一主義”はその対極です)。
今回のロシアによるウクライナ侵攻は、1648年以来のウエストファリア体制。主権国家ベースでの国際秩序を大きく揺るがし、国家連合である国際連合による平和維持システムの破綻と言っても良い重要な歴史的事件であり、人類の未来に暗い影を落としています。さらにつけ加えて言えば、佐藤優氏が、今回のロシアによるウクライナ侵攻を読み解く上で、レーニンの「帝国主義」が重要であると指摘し、今回のウクライナにおける状況はロシア帝国主義とアメリカを中心とした西欧の国家群の“帝国主義”のウクライナにおける勢力圏の奪い合いとみるべきであるとしていることに大事な視点があるように感じます。
この現状をどう認識し未来への展望を切り開くか。トインビー博士は、この1947年の段階ですでに「歴史の研究」の前半部を「文明」中心の視点で書き上げ、出版されています。20世紀からすでに21世紀に入った現在、この地球上に存在する文明は、トインビー博士の設定した諸文明がその輪郭を増してきたように感じます。具体的には、最近の200年間、主導権を握ってきた西欧文明、つぎにロシア文明、イスラム文明、インド文明、中国文明、そして日本文明、朝鮮文明、ベトナム文明です。
 
 それぞれの文明が、歴史的な変遷の中で培ってきた伝統を持ち、その伝統の成立の根源には必ず「宗教」があります。〝世俗化〟と呼ばれる現象によって影響力が低下しているように感じられる反面、現在のアメリカ合衆国に明確なように社会を動かす根底の存在としての「宗教」の役割がさらに重要性を増してきているようにも感じます。
「宗教」の“質”がその文明の性格と方向性を決めるというのもトインビー博士の重要な結論であり、この1947年以後発行された「歴史の研究」の後半部では「高等宗教」に視点が据えられることになります。そして、その結論をさらに深めていく過程で、トインビー博士自身のイニシアティブで実現したのが、日本の宗教指導者である創価学会池田大作会長との対談であり、その内容が共著である「21世紀への対話」です。その実現からすでに50年の年月が経過しました。
この50年の間に、いまから30年前には、ソヴィエト連邦の崩壊、いわゆる冷戦の終結がありました。その事実を受けてフランシス・フクヤマ氏が著したのが「歴史の終わり」です。アメリカ型自由主義の勝利を記述したこの著作は当時、大きな話題になりました。また1996年にはハンチントンによる「文明の衝突」が発表されました。21世紀初頭の現在の状況を佐藤優氏は“新帝国主義”の時代と表現しましたが、この“帝国主義”を担う存在は、ほぼ現在の超大国ハンチントンによる“文明”と重なります。アメリカ、EU(西欧諸国連合)、ロシア、インド、中国、朝鮮そして日本。この国々というよりも、諸文明の衝突、きしみ合いが、アメリカ・西欧諸国を一方の勢力として対中国、対ロシアの状況におい次第に形づくられようとしています。この21世紀の諸文明は、日本をのぞけば、いずれも「核兵器」を所有し、“文明の衝突”は最悪の想定として、全人類の滅亡を意味する世界最終戦争=核戦争につながる可能性があることは、現在、全人類の共通認識になっています。「核兵器」を所有しない唯一つの文明が『日本』です。「民族」「国家」がそのまま「文明」と重なる唯一の存在が『日本』です。国家の交戦権を否定し、さらに防衛目的以外の軍隊を持たないと明確に規定した憲法を持つ国です。
今回のロシアのウクライナ侵攻によって、現在「日本」がかかえる問題が再び浮上して論議が始まろうとしています。現在、日本においては、憲法を改正して交戦権を規定し、軍隊をもつことを明白にして自らを守る体制を確立すべきであると主張する人々、国家主義的な主張をする人が次第に増加しつつあります。その中には、今回のウクライナのケースのように、アメリカ合衆国はいざという時にはあてにならない。結局、アメリカの「核の傘」といっても、日本有事の場合は機能しない。とくに、侵略の当事国が「核大国」の場合は、核戦争を恐れたアメリカは戦わない。したがって、日本も独自に核兵器の開発に乗り出すべきであるとまで主張する人もいます。その方向にゆくべきでしょうか?
しかし、少し思いをいたせば日本独自の核兵器所有論の論議は、大事な本質が抜けています。トインビー博士は日本の9条に特色を持つ日本国憲法について、この方向こそ人類が生き残る唯一の方向であり、“押しつけられた”憲法であるとの視点については、強く反論し、自らの1929年、1956年、1967年の訪日の際、日本人と直接語りあったなかで、この憲法はあの核兵器の洗礼をうけるまで徹底的に戦い敗北した日本人の正直な思いを正確に反映したものであると断言しています。世界の五つの文明の明確な一つであって、国家が文明と重なる日本。この日本の今後の立ち位置はあくまでも核兵器をもたずに、世界平和の方向へ世界をリードしていく重要な使命のある文明としてスタートするときが今到来したと強く感じてなりません。
 
 
 日蓮仏法の実践者であった宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩は、読む人が読むと日蓮仏法の根本である法華経に登場する不軽菩薩の振る舞いであることがすぐにわかります。どんな人間にも平等に最高に尊貴な仏の生命がある。そのことに対する尊敬の思いを担業礼拝の実践にこめ、いくら迫害されようとめげずに賢く行動し、目的の成就まで不退転の行動を、あくまでも非暴力の実践の中でつらぬく。そのような日本文明=日本国であってほしい。私も強く願っております。
 
 
 現今進行中の、ロシア・ウクライナ戦争から、大きな話題につなぎましたが、これは単なる空理・空論ではありません。その解決の鍵をトインビー博士およびその博士が最後に使命を託した池田先生が率いる創価学会SGIが握っていることを最後に記しておきます。    
               2022年7月9日 
 
 
 
 

「現代が受けている挑戦」について

邦訳「現代が受けている挑戦」の原題は「Change and Habit...THE CHALLENGE OF OUR TIME」であり、1966年トインビー博士が77歳のときの出版です。
 前書きにありますが、基になっているのは1964年の秋から冬にかけてアメリカ合衆国コロラド州デンバー大学で、1965年の最初の三ヶ月に、フロリダ州サラソタのニュー・カレッジとテネシー州スワニーの南部大学で行った講義の内容で、その講義の準備に用意したノートが著作の出発点となったと記述されております。
 その記述を読み進めていくと、トインビー博士がこの段階にいたる生涯の各段階において記述してきた内容がさらに深められて展開されていることが良く分かります。「挑戦と応戦」という概念、また「宇宙の背後の根源的実在」、人間と人間との関係・ネットワークからみる「社会」等、重要な視点はほぼ完全に網羅されていますが、重要なことは、その一つ一つの概念・用語が、ここに至るまでのトインビー博士の生涯における博士自身の「経験」に基づいているということです。このことは、トインビー博士の生涯を順を追って辿ってくるとよくわかってきます。そのようにみてくると、トインビー博士の構築した世界は、博士自身が記述しているように、あくまでも「経験論」的であるということです。トインビー博士が「歴史の研究」の記述に取り組むにあたって、文明単位の歴史認識の先駆者としてのオズワルド・ショペングラーの概念から演繹的に結論にいたる「大陸合理論」的な論述ではなく、経験的事実から結論を帰納する「イギリス経験論」の方法論であえて取り組むと言明した通り、見事に「経験論」的な、言い換えれば「歴史学」的な取り組みとなっています。
 トインビー博士を評して「二十世紀最大の歴史学者」という表現がなされます。当の歴史学者達からは「しろうと歴史学者」とか「神秘論者」「宗教偏重」等のあらゆる非難中傷を加えられており、できれば「歴史学者」の仲間に入れたくないとの扱いを受けてきましたが、虚心坦懐にその生涯にわたる事績を著作を中心に、さらにトインビー博士の伝記的事実を重ねて辿っていくと、そこで明白になってくるのはあくまでも「経験・事実」を正確に踏まえ、その帰納の上に考察を重ねていく「歴史学者」の姿です。
 しかし、その誠実な仕事が逆に「理解」を難しくしている部分があることも、残念なことですが事実としてあると思います。トインビー博士は歴史的事実を例証として正確にあげているのですが、「しろうとではわからない。専門家でも理解できない」との批判があるように、文明の始まりから始まって現代にいたるまでの時間軸の幅で、ある時は古代エジプトの最初の統一者である「ナルメル王」から始まって古代ペルシャのダレイオス一世、さらにトルコの建国の父とされるケマルパシャ、古代中国の漢の高祖劉邦などを同じ次元で引用して例証するとなると、歴史的背景を知らない「しろうと」にとっては、ほとんど理解不能の世界となります。また歴史学における専門家とは、世界史という観点からは、きわめて狭い範囲の専門家ですので先ほどのような例証は、自分の専門分野とその周辺および関連分野については単なる知識以上の見識をもって判断できるでしょうが、その例証を全世界・全時代の範囲から取り上げて縦横無尽に論証されると、理解不能の部分がでてきますので、結局は「しろうと」と同じレベルで理解不能の世界に入ってしまいます。
 トインビー博士が特に歴史学者から批判されることが多い素因はこのあたりにあると思います。しかし、日本において第二次世界大戦後、高等学校の教科として登場した「世界史」の教師として、大学在籍次の専攻(私は東京教育大学の史学科・西洋史専攻)を越えて、文字通り全時代の全世界の歴史を教えることを一貫して要求されてきた私の眼から見て、トインビー博士の歴史的事実の取り上げ方は実に公平であり歴史家として見事であると感じます。トインビー博士ご自身が明確に書かれておりますが、自らの生い育った文明である西欧文明、また当時の西欧における教育の基本とされた人文主義(フマニズム)の内容としての〝古典古代〟ギリシャ・ローマへの知識への傾きを意識的に修正して、人間が生存する全世界(オイクメネー)を俯瞰し、どの文明も平等に見ていこうとする努力は感動的です。もちろん、分野によってトインビー博士の歴史的事実の知識の濃淡はあります。当然、いわゆるヘレニック文明、ギリシャ・ローマに関しては質量ともに圧巻ですし、西欧文明に関しても全く同様です。インドについては、イギリスの統治の関係からか豊富な知識をお持ちですし、ローマ帝国の東方部分、ビザンチン帝国さらにロシアについては、もともとロンドン大学時代の教授内容と重なります。ただ、中国・日本・朝鮮の知識については、先にあげた部分と比較して、若干厚みに欠けるように感じます。しかし、比較対象する上では、必要にして十分であると感じます。晩年の仕事の中で、若泉敬教授と「未来を生きる」、最終的な仕事になった池田大作先生との「21世紀への対話」等、日本人を対談の相手としての仕事が多くなるのは、そのあたりに誘因があるのかもしれません。
トインビー博士による「現代が受けている挑戦」。この題名は原題の『CHANGE AND HABIT』の副題として続いている『The Challnge of Our Time』の直訳ですが、この著作全体を丹念に読み込んでいくと、トインビー博士がつけた『CHANGE AND HABIT』の題名には、核兵器の時代に入った人類が課題としてつきつけられている「戦争」の廃止等に象徴される全人類的な課題を『The Challnge』として受け止め、いかに『Response』していくかということに焦点があり、最終的な解決の方向性は、人類一人一人の生き方の根本的な改革にかかっているとのトインビー博士の思いを象徴している言葉が、題名である『CHANGE AND HABIT』であるということが見えてきます。 〝人類よ。自らの慣習的な生き方を根本的に変革せよ〟とのトインビー博士の主張がそのまま題名になっていると感じます。
 
p20
人間の第一の特性は意識である。人間の自分自身についての意識、および自分自身の外側の「世界」、同じ人間仲間や生物、あるいは無生物の人間以外の存在が認められる「世界」についての意識である。
意識は選択の可能性を示していて、選択の意思を呼び起こす。そして意志という能力があるように見えるのは、――それが事実か錯覚であるかは別として、――人間の第二の精神的な特質である。
こういった特質の第三は善悪の識別である。この識別能力は人間の選択能力中に含まれていて、人間の選択行為はすべてなんらかの度合いにおいてほんのわずかであるにせよ生と善とのそして一方では死と悪との間の選択なのである。善と悪の区別はあらゆる人間についてあらゆる時と場所において見られるもののようである。この善悪の区別は事実、人間共通の性質というものを考える場合には本質的普遍的な特徴の一つと思われる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人間の精神的な特質の第四は宗教である。そしてこれは選択の意志と同様に意識が発見したものに対する精神的な反応である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「世界」の観察可能の断片を説明するものは全体として宇宙の本性に、あるいは何らかの人間よりも偉大な精神的な存在、「世界」の背後に「世界」を超越して存在し、恐らく「世界」の存在の源であるところの存在の本性にあるに違いないと考えるであろう。そして出てくる結論は、人間の生命とその背景をなすものは神秘であるということである。この結論に対する感情の反応は屈辱感と畏怖感である。私たちは人間が環境を支配するのではないことを認めなければならず、性質と働きの理解できない力によって生命を与えられた結果として環境のなかに存在する人間を私たち一人一人が見出すことになる。
人間が環境の主人ではないという認識は、人間に自分を捉えている神秘的な力との触れあいを渇仰させる。その動機は人間のもう一つの特性である単なる好奇心ではない。人間を超えた力とのつながりを求める動機は可能なかぎりこれらの力と調和を保って生きたいという願望にある。人間がこのように望むわけは人間とその運命を最終的に決定するものは人間自身ではなくて、それがなんであるにせよ、これら究極の霊的な力であることを認識しているからである。
このような衝動はすべての人間に共通であり、歴史上のすべての宗教はこの衝動を表現し、それを満たそうという試みなのである。