トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

トインビー博士の「シリアック文明」について

  トインビー博士が亡くなられて、すでに45年(1975年逝去)も経過していますが、この間、『文明』を単位として、世界の歴史を見ていく研究、論述は、遅々として進んでいないと言っても良いと思います。1970年代以降、トインビー博士に関して文明評論家的な取り上げ方は散見されますが、しかし、「歴史学」「考古学」の学問的な成果をしっかりと踏まえ、その基盤の上で「文明」を単位として世界史学を展開する視点からの論述は皆無に近いと思います。したがって、トインビー博士が達成した「歴史の研究」に、真の意味で迫る研究は未だに存在しないと言っても良いと思います。

ただし、中には明確に文明論的アプローチをとった考察もあります。1990年代、いわゆる「冷戦」終結後の世界に一つの衝撃をあたえた、ハンチントン博士の「文明の衝突」は、方法論としての文明論的なアプローチをしっかりと把握した上で世界情勢、国際関係の分析を展開しています。

また、比較的、最近の考察では京都大学名誉教授である中西輝政氏の「国民の文明史」があります。21世紀に入った2003年に「新しい歴史教科書を作る会」編として扶桑社から出版され、2015年にPHP文庫として再出版されました。その中で、中西氏は、現在の段階で存在している文明としての「日本文明」に焦点をあて、その特性の検討を中心として、論を進めています。しかし、前半部分で、かなり丁寧に『文明』を単位として歴史を見ていくことの必要性を論じ、従来の文明論研究の歴史を、ショペングラー、トインビー、バグビー、ハンチントン等を取り上げて論述しており、『文明』単位の歴史の見方を確認する上では、有効性が高いと思います。

また、ハンチントンは20世紀の後半、存在している文明として中国、日本、インド、イスラム、西欧、東方正教会ラテンアメリカ、アフリカをあげます。いずれにしても、『文明』としての日本のあり方については、中西先生の問題意識 を待つまでもなく今後の世界を展望し、その中での日本の方向性を確認する上で重要な意味を持っていると思います。このことについてはまたあらためて、考える機会を持ちたいと思います。

ここで、触れたいのはバグビーの視点によって、厳しく“非科学的”であると断定されたトインビー博士の視点を、文明を扱う具体的な例証をふまえながら検討していきたいと思います。バグビーは次のように書いています。

トインビーは、きわめて無分別で非科学的なやり方で研究に着手することによって、文明の比較研究に大きな害を及ぼし、こうした企て全体の信用を失墜させることに力を貸してきた。ショペングラーと較べてさえ、かれは科学以前の道徳論的な歴史哲学の方向に一歩逆戻りしている。〔『歴史の研究』の〕後のほうの諸巻〔第7~10巻〕における黙示録的ヴィジョンが示しているように、かれはもともと預言者、それも〈近代ヨーロッパの徒〉の歴史学者の仮面をかぶった預言者なのである」(『文化と歴史』186頁)

この、ある意味では鋭い追求に対して、前稿(「フィリップ・バグビーとトインビー博士」)において、トインビー博士の視点は、歴史学の基本をしっかりと踏まえた視点であると書きました。その視点とは、人間世界の歴史的事実に対して納得できる説明を可能にするために、量的にも多量に、質的にも深く、歴史的事実に精通していくことを大前提に、歴史的事実をしっかりとふまえ、その前後関係の解明を通して記述を組み立てていくということでした。バグビーの批判は、「後のほうの諸巻〔第7~10巻〕における黙示録的ヴィジョンが示しているように、かれはもともと預言者それも〈近代ヨーロッパの歴史学徒〉の仮面をかぶった預言者なのである」という箇所において、トインビー博士が、第二次世界大戦を経験した上で執筆された後のほうの諸巻〔「歴史の研究」原本 第7~10巻〕に見られる雰囲気を “黙示録的ビジョン” と表現し、トインビー博士を “〈近代ヨーロッパの歴史学徒〉の仮面をかぶった預言者 というきわめて強い表現で批難しています。歴史学者ではないという批難は、トインビー博士にとってご自身の人生そのものを否定されることに等しいかなり強い表現であると思います。この批難は当たっているのでしょうか。

歴史学の専門論文を読み込んでいくと、科学的であろうとする強い動機は、専門分野をできるだけ狭く絞り、その分野についての原資料にしっかりとあたり、先行論文をしっかりと読み込み、さらに歴史学的に矛盾のない論理を組みたて記述をする。いわば職人の仕事に属するていねいな仕事をしなければなりません。その結果が一つ一つの論文でです。そのような専門歴史学者の世界から、トインビー博士の「歴史の研究」を見たとき、まず率直な思いとして、一人の歴史学者としての専門性の範囲を大幅に超え、自在に世界の歴史を記述することに対しての違和感、というよりも嫌悪感が先立つのではないかと思います。しかし、この批難はあまりにも感情的です。このことを具体的に検討するためには、トインビー博士の主著「歴史の研究」を丁寧に読み解いていくことが、まず第一に必要なことであると思います。

ここで、まず前提となる『文明』について検討を加えてみたいと思います。世界史の上において存在した『文明』として、トインビー博士は23の文明を数えあげており、その中には日本文明も入っています。またバグビーは大文明と周辺文明という立て分けを設定したうえで、大文明として中国、インド、バビロニア、近東、エジプト、古典、西欧、中米、ペルーの九つをあげ、大文明としての中国文明を設定した上で、その周辺文明として日本文明を設定します。大文明とそれに影響を受けて成立した周辺文明の立て分けというバグビーの視点に影響を受けたと言われていますが、トインビー博士は従来設定していた23の文明を再検討し、1961年に刊行された「再考察」および1972年に刊行された「図説歴史の研究」の中において、“衛星文明”という位置づけで日本文明を取り上げ、これがトインビー博士の最終的な文明の設定となりました。

世界地誌、世界史の予備知識がないと、煩瑣な事項の羅列のように勘違いされてしまいますが、実際には厳密な学術研究の結果を丁寧に読み込み、さらにしっかりと考察されたものです。多少、煩瑣になりますが、『文明』の検討、理解においては必須と思いますので引用します。トインビー博士が「再考察23巻」で検討をし、最終的に認定された文明は以下のようになります。

Ⅰ.十分に開花した文明

A . 独立した文明

 *他の文明と親縁関係を持たない文明

  その文明の成立にあたって大きな影響を与えた文明が存在しない文明のことです

1.中央アメリ

これは元の表にあった「マヤ」文明と「メキシコ」文明と「ユカタン」文明を含むだけでなく、元の表では考慮していなかったメキシコ高原とグァテマラ高地の中央アメリカ古典期を含む

いわゆる、メソアメリカ文明です。前古典期とされる前1200年ころからのオルメカ、古典期とされる紀元前後からのテオティワカン、マヤ、紀元後7世紀頃からのトルテカ、後古典期とよばれる紀元後11世紀ころからのアステカなどが代表ですが紀元後16世紀からスペインの侵略を受けて征服され破壊されました

2.アンデス

いわゆる「インカ帝国」で文明全体の政治的統一(universal state)の段階を経験する文明です

中央アンデス地帯の海岸部、山岳部を中心として紀元前3000年ごろから神殿が作られはじめたが、土器が製作され始めるのは前1800年ごろからでした。その後海岸部にはモチェ、ナスカ社会、高原部にはティワナク社会が成立、7世紀になるとワリ社会、12世紀ごろからはチム―王国が現在のペルー北海岸を支配した。15世紀になるとインカが南北4000キロにわたる大帝国を築きあげたが、16世紀スペイン人の侵略によって崩壊しました

     *他の文明に対して「子の関係」にない文明

   成立にあたって、大きな影響を与えた文明「親」文明が確認できない文明です

3.シュメル・アッカド

これは元の表のシュメル文明とバビロニア文明を含む。ティグリス・エウフラテス流域の独自の文明の最後の時期の文明であるバビロニア文明は、その霊感(インスピレーション)において依然としてシュメル的であった。アッシュールバニパル(アッシリア帝国のB.C7世紀の王)の図書館は、シュメール語で書かれたテキストとシュメル語の辞書を蔵していた。それにもかかわらず、その頃にはシュメル語が「死語」になって千年以上も経っていたことを考えると、紀元前7世紀にアッシリアティグリス・ユーフラテス中流)とバビロニアティグリス・ユーフラテス下流)に広がっていた文明に「シュメル」という名をつけることは誤りであろう。ハンムラビ(B.C17世紀のバビロニア)時代以来、シュメル文明の生ける伝達具として、セム系のアッカド語がシュメル語に取って代わっていた。したがって紀元後1世紀までその特性を失わなかった(楔形文字の使用等)文明の全期間を示すには、「シュメル」という名よりもシュメル・アッカドという名の方が啓発的である。

紀元前3000年ころ、ティグリス川、ユーフラテス川の河口地域に成立した最古の文明、いわゆるメソポタニア文明です

4.エジプト

紀元前3000年ごろの、ナルメル王による、上・下エジプトの統一から文明全体の政治的統一(universal state)が存在した文明としてトインビー博士は考えています。紀元前4世紀のアケメネス朝の征服によってエジプト人による支配は終わりを告げたと言われています

5.エーゲ

これは元の表の「ミノス」文明だけでなく、当時の大陸ヨーロッパ・ギリシャのエーゲ文明の一種である「ヘラディック」文化と、「ミノス」と「ヘラディック」双方の最後の時期の文化である「ミュケナイ」文化を含んでいる。

地中海東部のエーゲ海に散在する島々、その中でも大きなクレタ島クノッソス宮殿の発掘(ミノス文明)、さらにギリシャ本土のミュケナイアナトリアの沿岸のトロイなど、考古学の黎明期に話題を提供した画期的な発掘成果に引きずられる形で認識され別々の文明として表現されていたものの全体像を「エーゲ」として示されました。先の「中央アメリカ」との視点と同じ現実に即した判断です。紀元前3200年ごろのキュクラデス(ヘラディック)文明から始まり、紀元前1200年頃、ミケーネ(ミュケナイ)文明の破壊で終焉を迎えました

6.インダス

インド西部インダス川流域および並行して流れていたとされる(現在では痕跡のみ)ガッガル・ハークラ川周辺に、紀元前2600年から紀元前1800年の間栄えた文明です。

7.シナ

これは元の表の「シナ」文明だけでなく、第七巻~第十巻(原本)のシナ以前の「商」文明のみならず、「極東」文明(本体)を含んでいる。

元の表では、トインビー博士は中国における文明を、夏王朝・殷王朝、から始まり、周王朝時代の春秋戦国時代が「動乱時代」、秦漢帝国の成立をもって「世界国家」とみるサイクルで「シナ」文明。五胡十六国魏晋南北朝時代を「動乱時代」とし隋唐帝国の成立をもって次の「世界国家」とみる「極東」文明としてきました。しかし再考の結果、別の文明とみるよりも中国の歴史の一貫性を重視すべきであるして、あらためて「シナ(china)」文明として再設定しました。

  *他の文明に対して「子の関係」にある文明(第1群)

8.シリアック(シュメル・アッカド、エジプト、ヒッタイトの子)

9.ヘレニック(エーゲの子)

10.インド(インダスの子)

  これは元の「インド」文明だけではなく、「ヒンズー」文明を含んでいる。

トインビー博士は、当初、仏典でいう十六王国時代を統一に先立つ「動乱時代」、アショーカ大王のマウルヤ朝を「世界国家」として『インド』文明を設定し、その後の動乱を経て、統一を回復したグプタ朝を「世界国家」として『ヒンズー』文明を想定していた。しかし、再考の結果『シナ』文明と同じく一貫性を重視して一つの文明として『インド』文明を再定義しました。

   *他の文明に対して「子の関係」にある文明(第二群)

11.正教キリスト(シリアックとヘレニックの子)

12.西欧    (      〃      )

13.イスラム  (      〃      ) 

B.衛星文明

14.ミシシッピ (中央アメリカの衛星)

15.「西南」  (    〃    )

  すなわち、現在のアメリカ合衆国南西部のコロンブス以前の文明である

16.北アンデス (アンデスの衛星)

  現在のエクアドルとコロンビアにおける文明である

17.南アンデス (アンデスの衛星)

  現在の北チリと北西アルゼンチンにおける文明である

? エラム  (シュメル・アッカドの衛星)

18.ヒッタイト(シュメル・アッカドの衛星)

? ウラルトゥ(シュメル・アッカドの衛星)

19.イラン(最初はシュメル・アッカドの、次いでシリアックの衛星)

20.   朝鮮    (シナの衛星)

21.   日本    (シナの衛星)

22.   ヴェトナム (シナの衛星)

? イタリア (ヘレニックの衛星)

これは紀元前最後の千年期にイタリアに移住したエトルリア人と、以前からイタリアに住み着いていた諸民族の共通の文明ということになろう。彼らの文明のなかの共通の要素(たとえばクマーエのアルファベットを知っていたこと)は、ヘレニック文明に起源を持っていた。ヘレニック時代のイタリアの文明はヘレニック文明に負うところが非常に大きかったので、イタリアはこの時代にはヘレニック世界の一衛星というよりは、むしろその一地方であったと見なす方が有益であるように思われる。確かにヘレニック文明は衛星を得たが、それはようやくアレクサンドロス以後の時代になってからであった。その時代に、シュメル・アッカド文明とエジプト文明とシリアック文明は、その特性を失う前にヘレニック文明の衛星になったのである。ヘレニック文明はシリアック文明をそれ自身の場に引き入れた結果、その特性を失ってヘレニック・シリアック文化合成体になったのである。

23.東南アジア(最初はインドの、次いでインドネシアとマラヤだけはイスラムの衛星)

24.チベット(インドの衛星)

大乗仏教チベットに於ける形のものに改宗したモンゴル人とカルムック人を含む。

25.ロシア(最初は正教キリスト教の、次いで西欧の衛星)

17世紀末葉以来西欧文明の場に引き入れられたのは、ロシア文明だけではなかった。ロシア以外の正教キリスト教民族のうちの二つ――――ギリシャ人とセルビア人――――はロシア人と同じくらい早くから西欧化し始めた。それ以来、非西欧社会は次々とロシア人にならった。実際1961年に文明期の社会にせよ、文明以前の社会にせよ、ある程度西欧文明の衛星になっていない現存する非西欧社会を見出すことは困難であった。しかしシリアック文明がヘレニック文明の場に引き入れた後に起こったことによって判断すると、非西欧社会と西欧社会のこの関係は一時的なものであったということになるかも知れない。この歴史的な先例に照らしてみると、西欧文明とその衛星文明が混合して、全ての文明から寄与を得た新しい世界(オイクメ二カル)文明になることもあり得るように思われるのである。

Ⅱ 流産した文明

・第一次シリアック(エジプト文明によって消滅させられた)

ネストリウス派キリスト教イスラム文明によって消滅させられた)

 私の元の表では「極東キリスト教文明」と名付けられた流産した文明である 

・単性論派キリスト教イスラム文明によって消滅させられた)

・極西キリスト教(西欧文明によって消滅させられた)

・スカンディナヴィア(西欧文明によって消滅させられた)

  O.ヘーファルは、私が極西キリスト教とスカンディナヴィア文明を流産した文明として分類しているのは正しいかと問うている。彼はこの二つの文明が背後に長い歴史を持っていたと指摘している。私もそれに同意する。しかし私のみるところでは、紀元5世紀以前のアイルランドと9世紀以前のスカンディナヴィアはまだ文明以前の段階にあった。

・中世西欧都市国家組織(近代西欧文明によって消滅させられた)     

 

 

 

 

具体的に検討するために、いわゆる『シリアック文明』について検討してみたいと思います。トインビー博士が設定した『シリアック文明』は、現在のところトインビー博士のみが設定している文明です。その上、トインビー博士に対する批判が集中している焦点の文明ですが、『文明』から『高等宗教』中心へと変化するトインビー博士の『歴史の研究』においては重要な意味を持つ文明です。トインビー博士が人類の歴史全体を、綿密に検討して設定した23の文明のなかで、最重要の意義を持つ文明であるといっても間違いではないでしょう。何故ならば、過去にその本源をしっかりと持っている現象で、現在の世界に存在している客観的な意味で最も重要な現象は何かという観点から明らかになってくると思います。それは、宗教です。その中でもトインビー博士が高等宗教としてあげているキリスト教イスラム教、この両宗教は現在の世界において、世界宗教として多くの信者を抱え、世界の多くの活動に大きな影響をあたえています。この両宗教成立に大きな役割を果たしたユダヤ教を含めた発祥の地であり、発祥の歴史的な背景となった文明ということになるからです。トインビー博士はシリアック文明について次のように書いています。(「歴史の研究」第22巻 再考察)

「本書では、Syriac という言葉を、ヘレニック文明とほぼ同じ時代にシリアに生まれた文明を名づけるという異なる目的のために使っている。・・・・・『シリアック』文明の元来の郷土であったシリアは、最も広い意味におけるシリアである。すなわち、西南のエジプト文明の領域と東南のシュメル・アッカド文明の間の全領域である。エジプトに対しては、その境界は、大シリアの西南端の居住可能な地点であるラファを、ナイル・デルタの東北隅のかつての砦であるペルシュムから分かっている百マイルの幅を持つ砂漠によって明瞭に区切られている。シュメル・アッカド世界に対してはその境界はもっと曖昧である。しかしこの方面のシリアの境界を定めることはできる。すなわちそれは、いずれにせよティグリス河とエウフラテス河の下流領域にある沖積地方と、モスル市と同緯度のティグリス河とこの方面のイラン高原の西南部周辺の間のアッシリアの肥沃な雨の多い土地を含んではいないのである。北では大シリアの境界は、アナトリア高原の東南部と接続しているアルメニアアナトリア高原の南部境界によってはっきり定められる。コンマゲネと東(低地)キリキアだけでなくティグリス河上流流域も、このように限定されるシリアの境界内に入るであろう。一方南では、境界は明確ではない。ここではシリアはアラビアに溶け込んでいる。トランスヨルダンのギリアド高原は、アンモン、モアブ、ミディアン、ヒジャーズ、アシール、ヤーマンを通ってほとんどアデンの見えるところまで切れ目なく南方および西南方に向かって延びている。私の見るところでは、紀元前第二千年期の後半に大シリアにおいて形成されたシリアック文明は、その後この長く延びているシリアの東部にまで広がっていった。南アラビアのアルファベットで書かれた最古の碑文に対する最近の推定年代から判断すると、このことは紀元前千年期が始まって間もなく起こった。「シリアック」文明の元来の郷土は、現在のシリア、レバノン、ヨルダン、イスラエルの諸国と、メルジナから東に向かってティグリス河上流流域までの南トルコの細い地域と、西アラビア南部のヒンターランドを合わせた地域にほぼ一致するのである。一部の学者はエーゲ海域のヘレニック文明と同時代のシリアの文明に統一性があったことを認めない。この問題は本章の後段で論じられる。一方この時代のシリアが――統一していようが、多様であろうが――実り豊かな強力な文明的な事業と業績が営まれた土地であったことを否定する学者はいないであろう。たとえば、シリアから発してヘレニック世界に及ぼされた影響がほとんどどの時期にも強力、且つ重大であったことを認めずに、ヘレニック史の歩みをたどることはできない。紀元前八世紀以前ではないにしても、紀元前八世紀にはヘラス人はフェニキア文字の形だけではなく、名称も含めてフェニキア人の発明したアルファベットをシリアから取り入れた。紀元前八世紀以後彼らは西部地中海水域の支配をめぐってフェニキア人と競争を始めた。この競争は五百年以上も続いて、ついに第一次および第二次ローマ・カルタゴ戦争(ポエニ戦争)でローマが勝利を得た結果、この争いはヘレニズムの勝利となって決着を見たのである。紀元前七世紀にはフェニキア人がヘラスに伝えた「東洋的」な様式からヘレニック芸術は霊感を得た。全ヘレニック史における最も運命的なひとつの出来事は、紀元前二世紀にシリア体腔部に起こったヘレニズムとユダヤ教の間の思想的宗教的衝突であった。ユダヤにおけるユダヤ教徒の反ヘレニック抵抗運動は非常に強く、セレウコス王国の軍事的政治的な力に助けられたユダヤユダヤ人ヘレニストの、ユダヤをその固有のユダヤ教的伝統からヘレニズムに改宗させようとする企てに打ち勝った。紀元前二世紀におけるヘレニズムの文化的政治的敗北によって一切が終わらなかったが故に、この出会いは運命的であった。政治的敗北はつかのまのことであった。何故なら、まず紀元前(B.C.)142ー141年に、そして最後に紀元前(B.C.)129年にセレウコス政府から独立を勝ち得たユダヤユダヤ人国家は、紀元前(B.C.)63年にはローマに従属することになり、パレスチナユダヤ教徒の政治的ナショナリズムは、結局紀元後(A.D.)66ー70年と紀元後(A.D.)132-135年のローマ・ユダヤ戦争に於いて粉砕された――しかも決定的に粉砕された――からである。しかし、征服されたユダヤは征服者たるヘレニック世界の人々を宗教的な面で虜(とりこ)にした。ヘレニック世界は結局ユダヤ起源の宗教に改宗した。この宗教は神学と視覚芸術の分野ではヘレニズムと妥協したにもかかわらず、その霊感と教理においては本質的にユダヤ的であり、ユダヤ的であり続けた。そしてこのヘレニック世界のキリスト教への改宗がヘレニック文明の終末になった。改宗の結果ヘレニズムはその特性を失ったのであった。」                             

 

        

 

 

 

     

フィリップ・バグビーとトインビー博士

トインビー博士関連の様々な関連書籍を読んでいくと、最もインパクトのある鋭い本質をついた批判を提出した人物としてとりあげられるのがフィリップ・バグビーです。

バグビーについては、日本のトインビー研究において大事な役割を果たされた、山本新先生、堤彪先生の高い評価に基づく紹介があります。ただ、バグビー自身は、本格的に文明の研究にとりかかろうとした直前に、40歳という若さで夭折しているために、現在残されているのは、序説ともいうべき一冊の著作のみです。その一冊とは、

Philip Bagby ,Culture and History : Prolegomena to the Comparative Study of Civilizations , University of California Press , Berkeley and Los Angels , 1958

日本においては創文社より、1976年に、フィリップ・バグビー「文化と歴史ー文明の比較研究序説」として、先ほど挙げた山本新先生、堤彪先生によって翻訳・出版されています。訳者あとがきの中で堤先生はつぎのように述べて紹介しておられます。

「著者フィリップ・バグビーは、「文明の比較研究序説」という副題が示唆しているように、これから、本腰を据えて文明の比較研究に着手しようとしていた。本書は、いわば、そのための準備作業であり、足固めであった。かれは、タルコット・パーソンズらの仕事に象徴されるような、方法論重視の知的雰囲気のなかで育ち、文化や社会の科学にとって、方法論がいかに重要であるかとよく知っていた。いってみれば、方法論的な基盤のうえに立つ、新しい研究法の洗礼を受けていたのである。だから、文明の比較研究という総合論的な学問分野に足を踏み入れる決心をしたとき、かれは、この研究を科学的基礎のうえに据えるにはどうしたらよいかを、あらかじめ考えておかないわけにはいかなかった。この分野は、基礎がまだ踏みかためられていない、とかれは感じていたので、その必要性は、なおさらのこと強く意識された。」

「かれは明確な方法論的意識をもって、この課題に立ち向かい、従来の歴史学や歴史哲学のあり方にたいする批判的反省と、それまでに達成された文化人類学の成果とを総合することによって、この課題に応えた。『文化と歴史ー文明の比較研究序説』という表題は、端的にこの事情を語ろうとしたものに他ならない」

社会学における基礎的概念の明確さや分析の精緻さは、定評のあるところである。バグビーも、もちろん、この点はよく承知していた。だがかれは、総合的全体としての文明、つまりは文明社会の文化という総体的な人間的事象を対象とするには、全体観的な視角が必要であり、そのためには、むしろ、文化人類学で発展してきた文化の概念のほうが有効である、と判断したのである。名目的にはどうあれ、かれには、社会学の関心はヨーロッパ社会に極限されており、そのうえ、ますます全体観的な方向を見失い、非歴史的・静態的になりつつあると見えたからである。かれの眼底にやきついていたのは、なによりもまず、個々の統合体としての文化や文明の存在であり、それらの示す異質性であった」

「では、生粋のバージニアっ子バグビーが、どうして文化や文明の異質性に着目するようになったのであろうか。これを明らかにしてくれるのが、かれの経歴である。かれは、最初から学究の道を歩んだわけではなかった。学生時代には外交官を志望していたからである。だから、かれは1939年にハーヴァード大学を卒業すると、引き続き外交官になるための研修に励んだ。かれは、合衆国のカサブランカ駐在副領事として、その経歴の第一歩を踏み出している。その後カルカッタに転じ、第二次世界大戦中は軍務にも服した。除隊後ふたたび外務畑に戻り持ち前の勤勉ぶりを発揮して、旧イタリア植民地関係の専門家となった。といえば、かれがなぜ異質の文化や文明の存在に開眼したかは、いわずとも明らかであろう。いろいろな異質の文化や文明に触れ、かれがいわゆる『カルチュアル・ショック』を経験しなかったはずはないからである」

「それと同時に、かれは、激動期のさなかにあって、世界大戦の本質やアメリカ、ひいては人類の運命に深い関心を払わないわけにはいかなかったことだろう。こうした運命への関心は、必然的に歴史への関心を呼び覚ますのが常である。かれのなかで、「文化と歴史」が結びつくのは、こうした原体験があったと想定するも、あながち無理ではあるまい。彼は深く心に期するところがあって、1949年に職を辞し、学究へと方向を転換した。母校のハーヴァード大学や、留学先のローマ大学とオックスフォード大学で、本格的に人類学と歴史学を学びなおして、1956年、オックスフォード大学から学位 Doctor of  Phirosophy を受けた。その二年後、かれは処女作である本書を世に問いながら、その直後、40歳の若い生涯を閉じた。1958年9月20日のことであった。」

「トインビーによれば『タイムズ』紙が彼の死を報じた日は、奇しくも本書「文化と歴史」の書評が、『タイムズ文芸付録』に載った日でもあったという(完訳版第23巻「再考察3」1196頁注2)・・・・《中略》・・・・トインビーはバグビーの死を深く悼み、この証言に、こう言葉を続けている。『これは人間的事象の組織的研究者にとって、思いがけぬ損失であった。バグビーは、非常に有能であるとともに、非常に明晰な頭脳の持ち主であった。かれが通常の天寿を全うしていたら、世に出たかれの序説〔本書:「文化と歴史」〕が約束していた、さらに大きな成果を達成したことであろう。わたしは、かれの著作を、かれがわたしの著作を評価したよりもずっと高く評価している。バグビーの年齢で死んでいたら、わたしはこの書物〔『歴史の研究』〕の最初の10巻の覚え書き以上のものは、なにも残さなかっただろう。』ちなみに、トインビーがその覚え書きを書き上げたのは、39歳の夏のことであり、『歴史の研究』の原稿を書き始めるのが、40歳のときのことである。」

「バグビーは本書で意図したことは、最初に触れたように、『文明の比較研究』の基礎固めをすることであった。もっと具体的にいえば、それは主題と有効に取り組むための、しっかりとして概念的枠組みを準備するということにほかならない(本書23頁)。これが、先行者たち、とくに直接の先行者であるトインビーの研究の仕方に触発された作業であったことは、いま述べたとおりである。この作業を進めるに当たって、かれは、まず科学的な歴史、歴史のより合理的で科学的な理解の本質解明をめざして、『歴史』の語義をを探り、歴史家たちの実際の仕事の仕方を分析する。かれは、自分の追求しようとしている『文明の比較研究』という主題が、『狭い意味での歴史に関するさまざまな一般化』を定式化する課題を負うと考えている(本書24頁)からである。このように、おのれの対象とするものが『歴史』に属すると考えている点では、かれはショペングラーやトインビーと異なるところはない。ショペングラーの主著『西洋の没落』Oswald Spengler , Der Untergang des Abendlandes , 1918-23  の副題は、『世界史の形態学概説』Umrisse einner Morphologie der Weltgeschichte であり、トインビーの主著の表題は、いうまでもなく、『歴史の研究』である。三者の異なるところは、それぞれの知的状況を反映して、対象への接近の仕方を、それぞれ哲学的、あるいは歴史的、あるいはまた科学的と考えている点である。だが、対象そのものが、本質的に違うわけではない。」

堤先生の「あとがき」をかなり長く引用させていただきましたが、バグビーという気鋭の学究の思いと、トインビー博士との関係が明白になっていると思います。バグビーが進もうとしている研究への先行者として、トインビー博士が存在する。しかし、「歴史の研究」が30年近い年月をかけて全巻が世にでてきた段階から、一般市民層の爆発的とも言うべき好意的な受け止めに反比例するかのように、とくに学者層を中心に強い反発と批難の声が上がっている。その批難の声は、一般市民層からの賞賛の声が高まれば高まるほど、反対に高くなっていく。その状況を受けての、バグビーのいらだちが率直に表明されている部分が「文化と歴史」の中にあります。

「トインビーは、きわめて無分別で非科学的なやり方で研究に着手することによって、文明の比較研究に大きな害を及ぼし、こうした企て全体の信用を失墜させることに力を貸してきた。ショペングラーと較べてさえ、かれは科学以前の道徳論的な歴史哲学の方向に一歩逆戻りしている。〔『歴史の研究』の〕後のほうの諸巻〔第7~10巻〕における黙示録的ヴィジョンが示しているように、かれはもともと預言者、それも〈近代ヨーロッパの歴史学徒〉の仮面をかぶった預言者なのである」(『文化と歴史』186頁)

またほぼ同趣旨の内容をタイムズ文芸付録の書評のなかで、つぎのように書いています。

「トインビー博士の中心命題を評価し、その経験的妥当性を検証しようとすると、われわれは自分の引き受けた課題が実行できないことに気づく。かれの主要概念は、どれ一つとして、十分よく定義されていないので、われわれは、それがいつ当てはまり、いつ当てはまらないかと判断することができない」(『トインビー研究』別巻79頁)

この批判は、トインビー博士の『歴史の研究』に対する本質的な批判として大きな意義があると感じます。トインビー博士は、この批判を受けて『歴史の研究』12巻として『再考察』を1960年代に著しました。この『再考察』の内容は、従来からの批判を受けて、真摯に様々な課題を根底から考え直し、誤りは率直に認め訂正していますが、自分の学問の骨子にあたる部分は、丁寧にしかし断固として主張しています。その結果としてトインビー史学はこの『再考察』において面目を一新しているといっても良いと考えます。そのきっかけとして数々のトインビー批判、その中でもバグビーの批判は、トインビー博士の創造的な〝応戦〟を引き出した正当なる〝挑戦〟として、確かに高く評価できると考えます。

それでは、バグビーのトインビー批判の根幹はどこにあるのでしょうか。それは、先に引用した文章に明らかなように、敢えて言えば「トインビー博士の世界史は〝科学的〟ではない」ということであり、それが信用を失墜させている根本原因であるということです。たしかに「比較文明」という学問を“科学”として成立させるためには、その出発点において、まず第一に『文明』『文化』という根本概念の定義が不可欠であり、その部分がしっかりと確立されない限り、『文明』に関しての合理的な論理展開に基づく学問の構築は困難であるように思われます。しかし私見を述べさせていただければ、この考え方のプロセスこそ現代科学技術文明の明暗を画する部分であり、トインビー博士の中心命題としてむしろ意図的に避けてきた部分であるということです。この部分に対するトインビー博士の考え方については、『歴史の研究』の中で何回も言及されていますし、トインビー博士のほぼ人生最後の著作となった、池田博士との『21世紀への対話』の中でも論究されていますので引用します。

「池田:あらゆる存在は、それをどの角度から把握するかによって、種々の姿を呈します。宇宙、自然、人間生命などについても、それらへのアプローチの仕方によって、人間の眼に映る様相は異なってきます。万物の様相についての、人間の認識の仕方が異なるというだけではすむならば、話は簡単です。しかし、認識は必ず人間に影響を与え、思考作用から行動まで左右します。極端な例かもしれませんが、人間生命をたんなる物質の運動形態にすぎないなどと認識してしまった場合、生命の尊厳性などは一顧だもされないことになるでしょう。とするならば、可能であるかどうかは別として――厳密な
意味でいった場合――万物のありのままの姿を、そのもの自体に即して、ありのままに描き出し、認識しようとする努力が必要ではないかと思います。
 そこで、万物を、できるだけそのものに即して把握しようとすれば、分析を総合との両方の作業が行われなければならないでしょう。つまり、部分を注視するとともに、全体観を見失ってはならないということです。また、たんに静的に見るのではなく、時間的な流れを考慮に入れて、動的に認識することが必要でしょう。
 
トインビー:ただいまのご提言は、事物の実相を把握するには二つの条件が必要であるということでした。一つは、部分を微視的に見るだけでなく、全体を巨視的に見る必要もあるということ、もう一つは、時間の次元において事物を動的に見る必要があるということでした。私はいま、これらの条件を主張してくださったことに、励まされる思いです。なぜなら、私自身、現代西欧の思潮に反発してきた結果、これら二つの条件の重要性を感ずるようになっているからです。
 
池田:なるほど、よくわかります。そのなかで、博士はとくにどのような点から、二つの見方の重要性を感じましたか。
 
トインビー:私の見解では、現代の西欧思想は極端な専門化を推し進めてきたために毒されています。そもそも、人間精神に映る実在の一断片の像が歪んでとらえられるのは、次のような場合です。すなわち、その一断片を恣意的に周囲の環境から切り離し、あたかも一個の独立した全体像ででもあるかのように、また、あたかも、より包括的な何ものかの不可分の一部ではないかのように――事実はそうであるのに――考えて研究する場合がそれです。
 私はまた、現代西欧の社会学的分析は、現実からかけ離れたものだと思っています。これは、生命がまるで静的生命ででもあるかのように、人間事象を過去や未来から切り離し、非現実的な瞬間的断面において分析しているためです。しかし、現実には、生命は動的なものであり、時間の流れのなかで流動的にとらえなければ、ありのままの姿を見ることはできません。」
 
ここに述べられているトインビー博士の視点は、トインビー博士の中心命題として、その主著「歴史の研究」の冒頭からしっかりと主張され、最終的にトインビー博士の全ての著作、言行に一貫している大事な命題です。
学問における科学的方法論、現象の一部分を限定して切り取り、科学的合理性によって客観的な整合性を持った認識を確立する。この方法論は自然科学においては、有効性を発揮し、現在にいたる自然科学を中心とした学問の発達を支えてきました。しかし、そこには重要な条件がありました。その条件とは、確立された認識の体系が、検証可能であるということです。自然科学の世界では、当然の条件であり、事象の観察、仮説の確立、実験での確認と一連の検証・プロセスをへて科学的な真理は確立され一般に認められます。しかし、このプロセスが有効なのは、実験可能な対象に限定されます。対象が無生物であるならば、この条件は比較的通し易いのですが、対象が生命をもつものになり、さらに人間となると、実験での確認は難しくなります。ほとんど、不可能であると言っても良いと思います。人類の歴史を総体として、地球上の全範囲、文明の始まりから全て取り上げて考察しようという意図に対して、先ほどの科学的アプローチは、その扱う対象を考えていくと、ほとんど 有効性を発揮できないの当然です。人間社会の歴史を解明する社会科学方法論として提出された、マックス・ウェーバーによる「理念型」的な把握にしても厳密に考えると、あくまでも現実を捨象した観念による創作物であり、歴史的現実とはかならずしもしっかりと適合していません。
いわゆる「科学的」な探求プロセスは、人類の歴史を総体として、地球上の全範囲、文明の始まりから全て取り上げて考察しようという「文明論」的なアプローチにはなじまない。というよりはこの方法論によっては、ほぼ不可能であるということです。しかし、この不可能を可能にすることによって、「文明論」を社会学文化人類学に匹敵するいわゆる「科学」として認知させようというのがバグビーの意図であり、その考察のスタートとして取り組んだのが「文化と歴史」であることは間違いありません。
 その思いと意気込みがあふれているこの著作は、バグビーのトインビー博士に対する強い批判の思いで書かれていますが、その思いは真摯であり、トインビー博士が目指してきた「文明」を中心に世界史を構築し、その中で全人類が「一つの家族のように平和に暮らせる社会」を構築する方途を発見したいとの意図に基づく「文明論」への道を継承してくれる可能性を感じさせる点において唯一無二に近い存在として認識されていたことは間違いないと思います。
それでは、トインビー博士はどのような方法論によって、先の「文明」を中心に世界史を構築し、その中で全人類が「一つの家族のように平和に暮らせる社会」を構築する方途を発見したいとの意図を実現しようとしていたのでしょうか。「科学的」方法論を意図的に否定した後、トインビー博士が取った方法論として、再考察の21巻に次のように語っています。敢えて言えば、きわめてオーソドックスな歴史学の方法論です。
 
 一つの現象を説明するための第一歩は、その前後関係を発見することである。
 『意味の探求は、総合を免れることはできない。より広い文脈のなかに置いて、初めて或ることの意味が理解できるからである。(Cohen, op. cit., p.33.)』

『一つの事実は、他の事実と関係づけられるか、或いはより大きな体系の一部とな らない限り、確証もしくは理解し得るものにはならない。(Ibid.)』

 この点を私自身の著作から敢えて例証するならば、「歴史の研究」第一巻~第十巻は、それだけを取り上げてのでは理解することのできないより狭い分野のための枠組みとして、「理解可能な研究の分野」を見いだそうとする二つの企てを軸にしていると言いたい。

探求の出発点は、多かれ少なかれ自足的な歴史研究の分野 ー現代の西欧の歴史家が通常研究の単位としている国家がその部分となるような研究分野を探求することであった。このような国家的単位は不十分であると私は感じていた。何故なら、それは私には自足的ではないように思われたからである。そして自足的でないということは、それが何かもっと大きなものの断片であるに違いないということを意味するであろう。私はこのより大きな研究単位を、私が「文明」と名付けた社会の種のなかに見いだした

文明は、その発生、成長、挫折を研究している限りでは、理解可能な研究単位であるように私には思われた。しかしその解体を研究する段になると、この段階では、文明の歴史は ー近代西欧世界の一部分である国家の歴史と同様にそれだけを切り離してのでは理解可能ではないということが判った

解体しつつある文明は、他の一つ或いはそれ以上の文明と密接な関係を結びがちであった。そして文明間のこのような出会いは、もう一つの種の世界、すなわち高等宗教を生んだ。探求の初めに私は高等宗教を民族国家とかその他の地方国家の変種と同様に、文明の観点から説明しようとしていた。諸文明の歴史の概観の最後の段階に於いて、私はこのような高等宗教の見方は結局それを十分に説明するものではないと確信するようになった。

なるほど高等宗教は、解体期の文明が変容して、そこから若い世代の新しい文明が出現する「蛹(さなぎ)」の役を果たした。また、なるほどこれは諸文明の歴史に於いて高等宗教が果たした役割であった。しかし、高等宗教自体の歴史のなかでは、この役割は付随的な役割であっただけでなく、それはそれ自身の使命を果たすという本来の仕事から高等宗教を逸脱させる傾向があるという意味に於いて、実際困った偶然であることが判った。私が、国家以外の種と他の大きさ単位のために十分な前後関係を提供する、したがって十分な説明を提供する・・・たとえば文明の説明の・・・理解可能な研究の分野の探究を続けなければならないとするならば、私は今や、これまでの作業計画を逆にすべきではないだろうかと自問しなければならなかった。一つの種の社会が、他の種の社会によって説明することができるなら、第一代と第二代の文明は、高等宗教勃興の予備段階として説明されるべきではないのか

私は探究の課程において、歴史研究の「理解可能な分野」が何であるかということについてこのように考え直したのであるが、この再考察は私に新しい出発点を与えた。そして説明の仕方を変える必要によって要求される見方の変化は、根本的な変化であった。クリストファー・ドーソンはこの変化を循環的方式から漸進的方式への変化と定義したが、それは正しい。実際この変化は非常に根本的だったので、多くの批評家はそれに驚き、一部の人々は、私は諸文明に関する私の最初の比較研究をここでやめて、宗教の見地から見た人間の歴史の意味に対する新しい探究を始めるべきであったと示唆した。(「歴史の研究」第21巻 p54~p56 )」 

この部分でトインビー博士が主張しているのは、一つの現象を説明するためには、その現象の前後関係を明らかにし、その関係性を叙述する中で、論理的に整合性があり、感覚的にも納得できる“説明”を提供することが必要であり、そこに歴史学の成否がかかっているということです。つまり、自然科学の方法論である事象の観察、仮説の確立、実験での確認と一連の検証・プロセスを経て、万人が納得する説明を確立する方法論ではなく、実験による確認が不可能である人間の歴史を対象とする歴史学においては、“事実”として検証、確認された“歴史的事実”を、その事実を含む、より大きな関係性とより広い文脈のなかにおいて検討し、納得できる説明として表現できたときに、始めてその歴史的な意味と意義がみえてくるという主張です。特に5000年にわたる人類の“文明”を検討の対象とするときにはこの方法論を徹底的に展開する以外にありません。バグビーがこの著書のなかで取り組んだ科学的説明を目指しての第一歩としての “文化” “文明”の定義もある意味では重要なことですが、それよりも大事なことは、考察の素材としての“歴史的事実”をしっかりと確認し、その“歴史的事実”をより大きな関係性と広い文脈の中で検討することであるとトインビー博士は主張しています。この方法論は、あらためて考えてみると歴史学の研究の方法論の基礎であり基本です。実際にトインビー博士の著作を読み進んでいくと、まず最初に圧倒されるのは、全世界に及ぶ、5000年以上にわたる文明段階での人類の歴史に関する圧倒的な知識量であり、あえて自らの価値意識を明確にされた人間としての認識の深さです。いわゆる科学的な学問方法論においては、自らの価値判断を学問の世界に持ち込むことは科学としての客観性を壊してしまう基本的なタブーとされています。しかし、トインビー博士自身が次のように語られています。

“学問は「感情をまじえず、一党一派に偏せず、公平無私であなければならない」(『21世紀への対話[上]』183頁)が、例外がある。「ヒトラーによるユダヤ人の大量虐殺といった問題になると話は別でした。これに関しては公平無私ということはありえない、と私には思えたのです。もし、このユダヤ人大量虐殺を、まるで天気予報でもやるような調子で、感情をまじえずに書いたとしたら、それはこの虐殺問題を公正に記録したことにはなりません。」(同184頁)人間社会の出来事を論ずる時には「完全に感情を抜きにして不偏不党になることは不可能だということです。・・・これが、私にとっての中道でした」(同185頁)”

人間世界を対象とする学問である “歴史学” には、学問の客観性以前に人間としての価値判断が求められる要素がしっかりと存在する。その上で対象である人間世界の歴史的事実に対して、納得できる説明を可能にするために、量的にも多量に、質的にも深く歴史的事実に精通していくか。この点において間違いなくトインビー博士は “20世紀最大の歴史家”であり、今後もこのレベルの歴史家は登場しえないと思います。

次章では、トインビー博士が “20世紀最大の歴史家” であることを、さらに具体的な例を挙げながら論じていきたいと思います。その具体例として、ショペングラー、バグビー、トインビー博士が共通して扱いに苦慮している紀元前一千年期から紀元後一千年にかけて地中海東岸を中心に存在(?)し、大きな歴史的な影響を後世に残している、トインビー博士が「シリアック文明」と名付けた文明を取り上げながら考えていきたいと思います。現在、大きな価値と影響をもっている、ユダヤ教キリスト教イスラム教等の高等宗教、また漢字圏を除けばほとんどの民族・国家の言語の筆記用の手段となっているアルファベットを生み出した文明ですが、政治的にも民族的にも複雑で簡単に扱うことができません。しかし、世界史の根幹をなす重要な意義を持っていることは間違いありません。その検討に入っていきたいと思います。     

 

 
 
 

            

 

 

 

 

「現代が受けている挑戦」を読む

「現在が受けている挑戦」は英文の原題が「CHANGE AND HABIT」です。トインビー博士の著作は、ほとんど全てがオックスフォード大学出版から出されていますが、この著作は同出版局から1965年に出版されています。

この本が成立した由来は、前書きに簡単に記されています。そのまま引用します。

「この本の大部分は、私が、1964年の最後の三ヶ月に、コロラドデンバー大学で、1965年の最初の三ヶ月に、フロリダ州、サラソタのニュー・カレッジとテネシー州、スワニーの南部大学で行った講義でした。この講義のためのノートが、本を書く出発点に私をたたせた。しかし講義そのものが、この本が分けられているような章立となって再構成されたのではない。書いているうちに、内容は再び整理された」

この時期のアメリカは、ソ連との「冷戦」時代のまっただ中であり、核兵器による人類滅亡の可能性が現実のものとして重くのしかかってきている状況でありました。このような状況の中で、トインビー博士が生涯の仕事として取り組み発表してきた「歴史の研究」での問題意識をふまえ、さらにこの時すでに70代の半ばにさしかかっている博士が、自分が死んだ後の世界の行く末についての責任感の思いから語り論じているのが本書の内容の骨子であると思います。

この後のトインビー博士は、1968年の日本訪問、そのあとで日本で聞いた創価学会池田大作会長に1969年対談の申し込みの書簡を送り、その上で1972年、73年の対談の実現となり、その結果をまとめた対談集「21世紀への対話」(英文のタイトルでは「Choose Life」生の選択)の発刊、ご自身の1975年の死去と続くのですが、その一連の最晩年の行動の動機にあたるものと、その動機を生み出す根源となった問題意識がこの著作の中に明確に記されていると思います。トインビー博士は明確に、つぎのように語っています。

「人間存在の最も重要な印である人間性の精神的な特質は人間の労働による物質的生産物からではなくて人間の隣人との、自分自身との、そして世界における究極の精神的な実在との精神的な遭遇を通して知られる」

「宗教の歴史に目を向けると、ここには進歩と加速度とがともに見出される。宗教の発達には三つの段階がある。最初は人間以外のものの崇拝であり、これは人間がまだ人間以外のものに左右されていた長い時代――人間の歴史上最も長い期間である――に起こったものである。しかし自分自身が統御しているものを崇拝するということはあり得ない。したがって、人間も『自然』に対する優勢を確立した亊に気がつくと、被征服者になった『自然』への崇拝を人間に勝利をもたらした集団的な人力への崇拝の下位においた。そして共同体を神にまつることは個人にとっては奴隷の身分を意味し、それはナチス体制下のドイツの民衆の経験や、社会生活を営む昆虫の共同体内で個々の昆虫が演じる犠牲的な役割にはっきりみられる。また宗教の進歩で第三の段階は宇宙の人間的なものと非人間的なものを含めたあらゆる現象の背後にある究極の霊的な実在(ultimate spiritual reality)に個々の人間を直接に触れさせることによって共同体への蟻のような隷属から解放する高等宗教の出現である。この解放のビジョンが殉教者たちに人間的な権威への服従が神への義務と相容れないと信じた時、人間的な権威への服従を拒んですすんで死を選ばしめたのである。」

この記述は、トインビー博士の世界史を貫く根本の考察を要約する形で述べておられます。エディンバラ大学でトインビー博士が行ったギフォードレクチャーの内容は著作としては「一歴史家の宗教観」として公刊されていますが、その内容は上記の要約に尽きます。さらに具体的に高等宗教の比較相対まで踏み込んでいるのが、主著「歴史の研究」の最後の部分、また「回想録」の最後の部分にもあります。トインビー博士の世界史の根本的な考察であることは間違いありません。もっと単純化して言えば、トインビー博士の世界史は、人類が一つの家族のようになる世界平和を実現するための方途を全世界の5千年の文明の歴史に探る世界史であり、その根本的な解決法は高等宗教に求める以外にないとの主張にあります。歴史を社会科学として「価値自由」の方法論から客間中立的な視点から組み立てる主張とは正反対のところにあります。人類の平和的な共存こそ一切の根本的価値であり、その価値を最大限に掲げている世界史であるところに最大の価値があると私は思います。          

     

「文明」から「高等宗教」への力点の変化・・・トインビー博士の世界史研究、第二次世界大戦をはさんでの変化

トインビーは、「文明」を単位として歴史をみることについて、「歴史の研究」の再考察21巻につぎのように論述しています。

 「 一つの現象を説明するための第一歩は、その前後関係を発見することである。

『意味の探求は、総合を免れることはできない。より広い文脈のなかに置いて、初めて或ることの意味が理解できるからである。(Cohen, op. cit., p.33.)』

『一つの事実は、他の事実と関係づけられるか、或いはより大きな体系の一部とならない限り、確証もしくは理解し得るものにはならない。(Ibid.)』

この点を私自身の著作から敢えて例証するならば、「歴史の研究」第一巻~第十巻は、それだけを取り上げてのでは理解することのできないより狭い分野のための枠組みとして、「理解可能な研究の分野」を見いだそうとする二つの企てを軸にしていると言いたい。探求の出発点は、多かれ少なかれ自足的な歴史研究の分野 ー現代の西欧の歴史家が通常研究の単位としている国家がその部分となるような研究分野を探求することであった。このような国家的単位は不十分であると私は感じていた。何故なら、それは私には自足的ではないように思われたからである。そして自足的でないということは、それが何かもっと大きなものの断片であるに違いないということを意味するであろう。私はこのより大きな研究単位を、私が「文明」と名付けた社会の種のなかに見いだした

文明は、その発生、成長、挫折を研究している限りでは、理解可能な研究単位であるように私には思われた。しかしその解体を研究する段になると、この段階では、文明の歴史は ー近代西欧世界の一部分である国家の歴史と同様にそれだけを切り離してのでは理解可能ではないということが判った。解体しつつある文明は、他の一つ或いはそれ以上の文明と密接な関係を結びがちであった。そして文明間のこのような出会いは、もう一つの種の世界、すなわち高等宗教を生んだ。探求の初めに私は高等宗教を民族国家とかその他の地方国家の変種と同様に、文明の観点から説明しようとしていた。諸文明の歴史の概観の最後の段階に於いて、私はこのような高等宗教の見方は結局それを十分に説明するものではないと確信するようになった。なるほど高等宗教は、解体期の文明が変容して、そこから若い世代の新しい文明が出現する「蛹(さなぎ)」の役を果たした。また、なるほどこれは諸文明の歴史に於いて高等宗教が果たした役割であった。しかし、高等宗教自体の歴史のなかでは、この役割は付随的な役割であっただけでなく、それはそれ自身の使命を果たすという本来の仕事から高等宗教を逸脱させる傾向があるという意味に於いて、実際困った偶然であることが判った。私が、国家以外の種と他の大きさ単位のために十分な前後関係を提供する、したがって十分な説明を提供する・・・たとえば文明の説明の・・・理解可能な研究の分野の探究を続けなければならないとするならば、私は今や、これまでの作業計画を逆にすべきではないだろうかと自問しなければならなかった。一つの種の社会が、他の種の社会によって説明することができるなら、第一代と第二代の文明は、高等宗教勃興の予備段階として説明されるべきではないのか

私は探究の課程において、歴史研究の「理解可能な分野」が何であるかということについてこのように考え直したのであるが、この再考察は私に新しい出発点を与えた。そして説明の仕方を変える必要によって要求される見方の変化は、根本的な変化であった。クリストファー・ドーソンはこの変化を循環的方式から漸進的方式への変化と定義したが、それは正しい。実際この変化は非常に根本的だったので、多くの批評家はそれに驚き、一部の人々は、私は諸文明に関する私の最初の比較研究をここでやめて、宗教の見地から見た人間の歴史の意味に対する新しい探究を始めるべきであったと示唆した。(「歴史の研究」第21巻 p54~p56 )

 

このトインビー博士の論述は、博士の生涯にわたる世界史研究を考える上で、重要な意義を持ちます。

トインビー博士の大著「歴史の研究」の記述を順を追ってたどっていきますと、第二次世界大戦前に記述された部分においては、文明の「誕生」「成長」「挫折」の各段階を設定することが中心となります。時間的にはエジプト文明以降5000年、空間的には全地球という範囲で検討し、最終的には21の文明を確認し設定することになります。「誕生」「成長」「挫折」という段階で、それぞれの文明を比較検討するにあたっては、「文明の哲学的同時代性」という視点、つまりどの文明も人間の社会的営為における本質的な共通性を持ち、比較検討が可能であるとの認識(この認識に確信を与えているのはトインビー博士のいわゆる“ツキディデス”体験ですが)をよりどころとしての歴史的事実の検討が続きます。文明と文明の比較検討ですので、人間としての普遍的な共通点を踏まえて論じていても、結果として人間の歴史における個々の「文明」の特徴、個性の認識を中心として、それぞれの文明の独立性への認識が強まることになります。したがって、ショペングラーをはじめとして、比較文明論的な立場にたつ人びとの文明観に共通する、個々の文明の独立性を強調する傾向が強くでてきます。歴史はある目的に向かっての変化・進化の過程そのものであるとのユダヤキリスト教的な歴史観とは異なる、ギリシャ・ローマ時代の一般的な歴史観である円環史観的な視点につながることにもなります。

先の引用文の中にあるクリストファー・ドーソンを引いての一節「クリストファー・ドーソンはこの変化を循環的方式から漸進的方式への変化と定義したが、それは正しい」はまさにそのことを言っています。そして 「それは正しい」と断定するトインビー博士の世界史はこの段階から、歴史を高等宗教の漸進的な進化とみる一種の進歩史観と変貌したと見るべきだと思います。                       

ハンチントンの「文明の衝突」における「文明」中心の見方とトインビー史観

 

 

「文明」とは何か? その客観的な定義を巡る問題は、トインビーの「歴史の研究」に対する数ある批判の中でも、代表的な批判点です。トインビーはこの批判点に対して当初は、「理解可能な歴史の範囲」と定義を与えています。

 その検証として、英国の一つ一つの歴史的事件を近代から中世へと時代を遡る形で取り上げて、それぞれの歴史的事件が本質的な意義まで含めて、本当の意味で理解可能になるためには、その事象・事件を、どの程度の空間的、時間的範囲まで検討しなければならないかを確認していきます。古代、ローマ帝国の一属州としてブリタニアと呼ばれた時代は、ギリシャ・ローマの文明、ヘレニック文明の範囲にあるのは当然ですが、その後の時代の英国における歴史的事件は、結局、西ヨーロッパのキリスト教世界というバックグラウンドを認識の範囲において検討しないかぎり、本質的な意味での理解は不可能であると結論しています。つまりイギリスの歴史は、ブリテン島の地理的範囲に限定した理解では、完全な論究ができないということです。

この本質的意味での理解が可能な範囲、つまり「理解可能な歴史の範囲」が「文明」であると著書「歴史の研究」の中で、定義を与えています。しかし、この「理解可能な歴史の範囲」という定義は、客観的な定義を求める批判者を納得させることはできませんでした。「科学」において求められる客観的な定義として、数学、物理学の自然科学のレベルとは言いませんが、社会科学、人文科学という多少主観性が許されると思われる部門での定義としても、曖昧さが残る定義であり、言わば「歴史の研究」という大部の著作を書き進めて行く上での、当面の作業仮説のようにも思われます。実際のところ、トインビー博士は、「再考察」の文明の定義を扱う部分の記述においては、「歴史の研究」の冒頭部においては厳密に客観的な定義することを敢えてせず、まず「理解可能な歴史の範囲」として定義して、その定義する「文明」の内容の確認と研究に踏み込んでいったのが1~10巻の内容であると記述しています。

トインビー博士は人生の最終段階の著作「図説・歴史の研究」において「文明」の定義の一節を設けています。「図説・歴史の研究」は、原著「歴史の研究」のダイジェスト版であると共に、理解を助ける目的で図版が付け加えられているものですが、そこにおける「文明」の定義は「人類全体が、すべてを包含する単一家族の成員として、仲良く一緒に暮らしてゆける社会状態を創りだそうとする努力」とされています。

an endevoar to create a state of society in which the whole of Mankind will be able to live together in harmony, as members of a single all-inclusive familyそれを文明の定義としうるかもしれない。これこそ、私たちの知る限りでの全ての文明が、よし意識はしなかったにせよ、無意識的にめざしてきた目標であったと、私は信じる。(トインビー)

この定義は「歴史の研究」の第12巻「再考察」(英語版)での定義をそのまま引用したものです。「再考察」では、“都市”の存在を“文明”の条件とする等、従来ほぼ定説となっているいくつかの定義を検討した上で退け、あらゆる文明において人間が意識的もしくは無意識的に目指していたものとして「人類全体が、すべてを包含する単一家族の成員として、仲良く一緒に暮らしてゆける社会状態を創りだそうとする努力」をとりあげます。そして、その「努力」をもって文明の定義としています。この人間の主体的な努力を組み込んだ「文明」の定義は、客観的な定義を求める批判者を納得させることは難しいと思いますが、トインビー博士の最終的な後世への提言として受け取れば、本当に含蓄深い定義であると思います。

ハンチントンに関しては、その「文明の衝突」の中で、「文明の性質」と題する章をつぎの文章で始めています。

人類の歴史は文明の歴史である。それ以外の見かたで人類社会の発展を考えることはできない歴史は古代シュメールやエジプトの文明から古代ギリシャ・ラテン、中央アメリカの文明へ、さらにはキリスト教イスラム教の文明へと何世代もの文明を経て、なお連綿と続く中国文明ヒンドゥー文明を通じてつながってきた。有史以来、文明は人びとに最も広い意味でのアイデンティティーを与えてきた。その結果、文明の起源や出現、興隆、相互作用、成功、衰退、滅亡が、卓越した歴史家や社会学者や人類学者によって詳細に研究されてきた

この文章において、ハンチントンは「人類の歴史は文明の歴史である」と断定して考察をスタートさせています。その中で、文明の起源や出現、興隆、相互作用、成功、衰退、滅亡と言う表現で、吉本隆明氏の「段階」にあたる時間的な変化の過程を確認しています。「段階」論を時間的な変化の過程におけるステージと考えると、文明の起源や出現、興隆、相互作用、成功、衰退、滅亡というステージ構成は段階とほぼ同様の意義を持つように思われます。「段階」論がないという批判の当否をこえて、吉本隆明氏の視点にある「国家間の戦争を無化して、人間同士の集団的な殺傷を止めさせるためには、日本の非戦憲法の方向しかない。日本の非戦憲法だけが、唯一、現在と未来の人類の歴史のあるべき方向を指していることは疑問の余地がない。」と言う視点は、大事な視点でありその方向の実現については、人類の大多数の人々が各論においては違いがあっても、総論としては望んでいることだと思いますので、貴重な視点であると思います。

この視点を実現するための世界歴史の状況確認の方法論として、ハンチントン、トインビーの「文明」を中心にすえた論考をもう少し深めていきたいと思います。

ハンチントンは、先の文章をさらにつぎのように続けています。

これらの学者をはじめとする著述家 【原文では具体的に名前を挙げています。ここでは列記しておきます。Max Weber , Emiel Durkheim , Oswald Spengler , Pitirim Sorokin , Arnold Toynbee , Alfred Weber , A.L. Kroeber , Philp Bagby , Carroll Quigley , Rushton Coulborn , Christopher Dowson , S.N. Eisenstadt , Fernand Braudel , William H. MacNeil , Adda Bozeman , Immanuel Wallerstein , and Felipe Fernandez-Armesto 】膨大な知識にあふれ、精緻な論文で文明の比較分析をおこなった。そのような文献に見られる観点、方法論、焦点、概念は多種多様である。だが、文明の性質、アイデンティティー、変遷に関する中心的な主張はおおむね一致している

 上記・下線部分の見解に基づき、ハンチントンは「文明」という概念、用語・用法に関して、さきに列記したマックス・ウエーバーから始まる 学者・著述家の視点の中で、ほぼ一致していると考えることが可能な視点をあげていきます。ここにまとめられ列記されている視点は、トインビー博士が「歴史の研究」、さらにその最終章である「再考察」において展開している視点とほぼ一致しています。ここで列記しながら確認していきたいと思います。

《 ①  単数形の文明と複数形の文明ははっきりと区別される……文明という考え方は、18世紀フランスの思想家によって「未開状態」の対極にあるものとして展開された。・・・・文明化することは善であり、未開の段階にとどまることは悪である・・・・しかし、それと同時に、人々はしだいに複数形の文明について語るようになった・・・・世界にはいくつもの文明があって、それぞれに独自のやりかたで文明化していたのだ。・・・・・・(略)・・・・・・》

 単数形の「文明」。英語でいえば a Civilization は、近代初期の西欧人の自意識を反映する表現で、何が善で何が悪であるかという価値観を含んでいます。自分たち西欧人は進歩の先頭を進んでいるのであり、より良き善を象徴していると考えていました。未開の段階は悪であり、唯一の救済宗教であるキリスト教の伝道こそが、未開の悪が善に変わる唯一の道である。この思いは大航海時代ポルトガル、スペインの航海者たちが、いのちをかけて未知の世界へ進出する動機の全てとは言えませんが、かなりの部分を占めていたことは間違いないと思います。

 その結果として遭遇することになったインド、中国、日本などの東洋の文明。キリスト教の存在はないが、それぞれの伝統的宗教・文化のもとに進化をとげてきた成熟した文明が存在する。その発見の驚きと認識の深まりが、複数形の文明 Civilizations  の存在を認め、その中の一つとして自らの西洋文明を認識し位置づけるという方向へ進ませることになったのだと思います。さらに20世紀の、第一次・第二次の世界大戦という、単数形の文明観を根底から揺るがす歴史的な経験をすることによって、トインビーに代表されると言って良いと思いますが、文明を根本として世界史を見ていく方向性が注目されるようになったのだと思います。

しかし、21世紀に入った現在においても、この「文明」中心の見方は少数派です。世界中で、国連加盟国ベースでも192カ国が存在します。そして、それぞれの国が自らのアイデンティティーをかけて、自国中心の物語を作り上げようとしている。この傾向とはうらはらに、グローバルという言葉に象徴される経済面を中心とする人類の一体化への動きが加速していく。この相反する現象のねじれと対立の最も悲劇的な結末が戦争です。核兵器の時代に入った今、戦争は人類の滅亡を意味します。国家という「戦争」の単位を止揚していく視点、方途は何か。吉本隆明氏においても、トインビー博士の世界史「歴史の研究」においても、ハンチントンの「文明の衝突」においても、共通の強い問題意識であることは間違いありません。

《 ②  文明は文化の総体だとされているが,ドイツではそうではない19世紀ドイツの思想家は文明と文化をはっきりと区別して、文明は機械、技術、物質的要素にかかわるものであり、文化は価値観や理想、高度に知的・芸術的・道徳的な社会の質にかかわるものだとした。この区別のしかたは、ドイツ思想界には根付いたが、それ以外の場所では受け入れられなかった。……(略)……このように、文明と文化を区別しようという動きは一般受けせず、ドイツ以外は、「ドイツのように文化をその土台である文明と切り離したいと願うのは欺瞞だ」とブローデルの意見に全面的に賛成している。》

 ドイツにおける文化 Kultur  と、文明 Zivilisation の字義の違いについての言及です。欧米圏においては英語の culture  ,   Civilization  を代表として、ドイツ語のKultur  と、文明 Zivilisation の字義とはほぼ正反対というよりも、Civilization はculture を包含した総合的な上位概念として使われます。この考えてみれば、基本的な事実の確認をなぜ取り上げなければならないかという理由は、文明論的考察の上においてマックス・ウエーバー、ショペングラー等、ドイツ文化圏からの考察が重要性を持っているからだと思います。

 さきほどハンチントンブローデルの意見を引用して述べた、精神的要素が多い文化を、文明より価値があるものとして土台としての文明から切り離すという、いわばドイツ的傾向については19世紀前半のドイツ浪漫主義までさかのぼってみるのが一般的です。フランス革命を契機に、いち早く国民国家を成立させたフランス。産業革命後、資本主義国家として急速に世界帝国として発展しつつあったイギリスに対して、19世紀後半まで政治的統一ができず、フランス、イギリスの後塵をこうむることとなったドイツとしての対抗意識を根底とした19世紀前半のドイツ浪漫主義の運動。精神的な成果に高い価値を見出す意識はそこから胚胎したもののように感じます。

 日本人として注意しなければならないことは、ドイツ語の書籍の翻訳においてこの意義をふまえず、Kultur 、 Zivilisation を単純に文化文明と訳すことによって、意味合いが大きく変わってしまうことに気づかない翻訳が存在することです。個人的なことですが、ドイツ語からの翻訳文で、本来「文明」の内容にあたると思われる内容を「文化」と表現された文章を読み、混乱した経験が一度ならずありました。一見、小さなことのようですが、ここでハンチントンが取り上げたことの意義は大きいと思います。文明、文化という用語の意義を正確にとらえていくことは、「文明」という視点を根本にすえて、人類の歴史を人類出現以来の時間軸において、また全地球規模の空間的的広がりの中で捉えて検討していく上で必須の作業過程であると思います。

先の文章に続いて、ハンチントンは文明と文化についてつぎのように書いています。文明と文化という用語の意味を確定し、「文明」を単位として世界史を考えて行く上で、重要な部分なので、少し長文になりますが引用します。

《 文明と文化は、いずれも人々の生活様式全般を言い、文明は文化を拡大したものである。いずれも『価値観、規範、社会制度、ある社会で何世代にもわたって最も重要視されてきた思考様式』を含んでいる。ブローデルにとって、文明とは「ある空間、『ある文化の領域』」であり、「文化的な特徴と現象の集合」である。ウォーラースタインは文明を定義して、「世界観や生活習慣、組織、文化(物質的な文化と高度な文化もあわせて)などの特定の連鎖であり、それはある種のまとまった歴史を形成し、その他の同様な現象と(かならずしも同時ではないが)共存する」と述べている。ドーソンによれば、文明とは「特定の民族が生み出す文化的な創造性の、特殊かつ独特なプロセス」の産物であり、一方でデュルケームとモースにとってそれは「ある数の民族を取り巻く一連の道徳的環境であり、それぞれの民族の文化は全体を構成する特殊なかたちにすぎない」のである。ショペングラーにとって、文明とは「文化の必然的な運命・・・人類という進化した種に可能な最も外面的かつ人工的な状態・・・できかけのもののあとにできた結果」である。ともあれ、文化は文明の定義のほぼすべてに共通するテーマである。文明を定義する主要な文化的要素とは何か?スパルタ人に向かって、彼らをペルシャに売りはしないと保証したとき、アテナイ人は以下のように伝統的なやりかたでそれを述べた。

たとえわれわれがそうしたいと思っても、大いに考えるべきことがたくさんあって、許されないからだ。第一に、最も重要なのは、神々の像と焼き払われて廃墟と化した神殿である。そのような罪を犯した男と仲直りするなどもってのほかで、われわれは力のかぎり復讐しなければならない。第二に、ギリシャ人種は血も同じなら言語も同じである、そして神々の神殿もいけにえの儀式も共通しており、生活習慣も似ている。アテナイ人にとって、こうした人々を裏切るのはよくないことだろう。

血統、言語、生活様式ギリシャ人種のあいだで共通しており、ペルシャ人をはじめとする非ギリシャ人種とはこれらの点で違っていた。しかし、文明を定義するあらゆる客観的な要素のなかで最も重要なのは、アテナイ人が強調したように、宗教である。人類の歴史における主要な文明は世界の主要な宗教とかなり密接に結びついている。そして、民族性と言語が共通していても宗教が違う人びとはたがいに殺しあう場合があり、レバノンや旧ユーゴスラビアインド亜大陸で起こったことはそのあらわれである。同じ人種に属する人びとが文明によってはっきりと切り離されることもあれば、異なる人種に属する人びとが文明によって統合されることもある。キリスト挙とイスラム教など、特にさかんに布教活動を行う宗教はさまざまな人種からなる社会を包含している人間の集団の最も重要な特徴は、その価値観、信仰、社会制度、社会構造であって、体格や頭部の形や肌の色ではないのだ。》

 この部分の例証としての引用、ツキディデスの「ペロポネソス戦争史」からの引用ですが、お互いに相争っている戦争の当事者・敵としてのスパルタ人に対してアテネ人が、ペルシアとの「文明」の違いとしての言語・宗教を強調することによって、互いの同一性を強調し信用させようとする。ここに、人間集団における「文明」の意義をとらえるとともに、構成要素として根本的な宗教をとらえて説明しています。この部分はトインビー博士の世界史の問題意識に直接通ずる大事な指摘であると思います。

 トインビー博士の「ツキディデス体験」から始まる世界史研究において、「文明」の過程を示す指標として頻繁に登場するのはギリシャ・ローマ文明、いわゆる「ヘレニック文明」です。さらに敷衍していえば、トインビー博士の世界史研究の前期と後期を画する重大な転換、高等宗教史観への変化は、時間的・地理的にはヘレニック文明の中にあるキリスト教に対する視点の変化が根本になっています。具体的には、当初、文明を構成する一要素としてとらえていた宗教の中には、それ自体が独立した社会として存在し文明を越える存在である高等宗教と名付けられるものが存在する。

トインビー博士によると、社会とは人間と人間の間のネットワークということになります。文明の盛衰を越えた永続的なネットワークとしての高等宗教。高等宗教は全人類への布教拡大を使命としますから、その運動の中に、部族、国家、民族のような地方的なつながりを越えて、全人類を一つの家族のように結びつける鍵があり、平和を目指す努力、つまり「全人類が一つの家族のように仲良く生きていこうとする方向を目指す努力」というトインビー博士が「文明」に与えた定義を実現する究極的な鍵がある。トインビー博士は、この高等宗教への着眼から第二次世界大戦後の様々な活動を始めたと言ってもよいと思います。この点については、さらに深めて論じていきたいと思います。

《 ③第三に、文明は包括的である。つまり、文明を構成する単位のどれひとつとして、それを包含する文明との関連を見ずには十分に理解することができない。トインビーが主張するように、文明は「他の文明に包含されることなく包含する」のだ。文明は「総体」なのである。・・・(略)・・・文明は最も範囲の広い文化的なまとまりである。・・・・(略)・・・・・・ヨーロッパの地域社会は共有する文化的な特徴によって、中国やヒンドゥー教の社会とははっきりと区別される。しかし、中国人もヒンドゥー教徒も西欧人も、それより広い文化的まとまりの一部を構成しているわけではない。彼らは文明を構成しているのである。すなわち、文明は人を文化的に分類する最上位の範疇であり、人類を他の種と区別する特徴を除けば、人のもつ文化的アイデンティティーの最も広いレベルを構成している文明の輪郭を定めているのは、言語、歴史、宗教、生活習慣、社会制度のような共通した客観的な要素と、人びとの主観的な自己認識の両方である。》

 

「他の文明に包含されることなく包含する」、文明を構成する文化的要素は、他の文明に包含されることなく包含されている。この「包含する」という動詞の主語にあたる存在が「文明」ということになります。

 

 

              

 

吉本隆明「 超『戦争論』(2002年刊)」と ハンチントンの「文明の衝突」

 

 表題の著書は、2002年に刊行されたものであり、聞き手の田近伸和氏の問いに答える形で、吉本隆明氏が世界情勢から日本の現状に対して余すところなく語り論じているものです。

 本書が出版された2002年の前年2001年9月11日には、イスラム教を背景とするアルカイダによるニューヨークの世界貿易センター等へのテロがあり、アメリカ合衆国は報復としてアフガニスタンへの軍事侵攻を実施していました。

 かつてイラクのクエート侵攻に際して、多国籍軍と称するアメリカを中心とする軍事オプションに、憲法上の理念から自衛隊を派遣せず、その代償として多額の資金援助をした日本政府。しかし、その精一杯の“貢献”が感謝されることなく、逆に国際的な批判を受けることになった日本。その現実に直面して生じたトラウマともいうべき心情が起因して、2001年の9・11以降、日本国憲法第九条の改憲論から、集団自衛権論議まで、保守論壇を中心の議論が湧き上がっていた最中でした。     

 その中にあって、吉本隆明氏は、自分の原体験と思索をしっかりと踏まえながら、目の前に展開する現実に、未来への展望を踏まえて鋭く切り込んでいきます。そのまえがきでつぎのように語っています。

国家間の戦争を無化して、人間同士の集団的な殺傷を止めさせるためには、日本の非戦憲法の方向しかない。日本の非戦憲法だけが、唯一、現在と未来の人類の歴史のあるべき方向を指していることは疑問の余地がない。それなのに、日本の政治家や政党は、そのことを国際的に提起しようともせず、かえって、最悪の歴史、最悪の未来をもたらす傾向に追従しようとさえするのか? 人類は紛争を導く要因を動物社会よりももっと複雑に抱え込んでしまった。この難問を、誰でも、肩の荷を降ろして休み休み考えるところまでもっていきたいというのが、この本のモチーフであった。

この「超『戦争論』」は、上下二冊からなりますが、下の最終章は「21世紀の『世界の行方』を読み解く」と言う表題です。その中に、「9・11」後の世界に湧き上がってきた様々な論調の一つとして、ハンチントンの「文明の衝突」の再評価を取り上げています。

1998年に刊行されたハンチントンの「文明の衝突」は、冷戦の終結ソ連の崩壊という20世紀の大きな歴史の変換点に立つ人類にとって、大きなインパクトを与える論考でした。1992年のフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」的な見方。ソ連の崩壊、冷戦の終結を、一方の陣営であるアメリカ合衆国を中心とする自由主義陣営の勝利としてとらえ、歴史は最終的な段階に達したという見方に対して、全世界を俯瞰するような視点として「文明」単位の観点を設定し、世界の状況を論じたのがハンチントンの「文明の衝突」でした。

ハンチントンは、アメリカの政治にも大きな影響力をもつ知識人としてキッシンジャーと並び称される人です。「文明の衝突」は、冷戦終結後の緊張緩和を期待する世論の傾向に“水を差す”傾向の論調として、一定のインパクトを世界に与えました。しかし、世界の論調としてはその評価は限定的でした。冷戦終結後、一人勝ちのようにみえるアメリカを中心としたグローバル資本主義新自由主義を根本とした世界秩序の形成がますます進行するかのように見えていたのです。

ところが、2001年の「9・11」によって、事態は一変します。国家単位ではアメリカ合衆国にかなう国などないイスラム文明。そのイスラム文明を背景とすると自称するテロ勢力が、アメリカ合衆国の資本主義の象徴である世界貿易センタービルを、航空機というこれもアメリカの世界的影響力の象徴と言えるものをハイジャックし、衝突させることによって跡形もなく破壊するという二重三重に象徴的な事件が発生したのです。この出来事は、ハンチントンが「文明の衝突」で確認し強調した世界認識と、近未来に対する展望をあらためて再認識させることになりました。

2002年の「超『戦争論』の発刊時において、このハンチントンの「文明の衝突」の再認識はひとつのトレンドになりつつありました。この内容については、「超『戦争論』」の中で吉本隆明氏に対する聞き手役を務めている田近信和氏による要約がありますので引用します。

 ハンチントンは、その「文明の衝突」論において、「21世紀の世界は、民主主義によって一つの世界が生まれるのではなく、数多くの文明間に起因する、分断された世界」になり、「この新しい世界において、地域の政治は民族中心の政治に、世界政治は文明を中心とする政治になる。超大国同士の抗争にとってかわって、文明の衝突が起こる」と予測しています。東西の冷戦時代においては、アメリカとソ連という二つの超大国が支配する二極体制だったけれども、「今、現出しつつある世界の力の構造はもっと複雑であり、一極・多極体制」というものであると、ハンチントンは指摘します。一極というのは、現在、唯一の超大国であるアメリカのことであり、現在のような「一極・多極体制」は過去にモデルがなく、この「一極・多極体制」が十年か二十年続いたあと、真の多極体制に移行していくだろう、とハンチントンは予測しています。ハンチントンは、「現在は、文化ないし文明という要素によって国家の行動が決定される傾向が強まり、国家は主に世界の主要な文明ごとにまとまっている」と述べ、現在、世界には八つの主要文明がある、としています。西欧文明、東方正教会文明、中華文明、日本文明、イスラム文明、ヒンドゥー文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明が、ハンチントンがいう八つの主要な文明です。ハンチントンは「いかなる文化あるいは文明でも、中心的な要素は言語と宗教」であって、東西の冷戦が終わってから、世界は「文化や文明の境界線に沿って本質的に再構成された」と述べています。そして、ハンチントンは、「新しい世界の最も危険な対立は、異なる文化的な統一体に属する人々の間でおこるだろう」「最も危険な文化の衝突は、文明と文明の断層線(フォールライン)に沿って起こる」と予測するわけです。

この要約を示し、田近氏は吉本隆明氏につぎのように、問いかけます。

アメリカでの同時多発テロ事件のあと、ハンチントンの「文明の衝突」論が注目されたのは、この同時多発テロ事件が、ハンチントンが予測した事態の象徴的な現れである、と見なされたからです。アメリカでの同時多発テロ事件についてのマスコミの論調や知識人たちの解説には、ハンチントンのこの「文明の衝突」論が、少なからず影響を与えているように見受けられます。ハンチントンの「文明の衝突」論については、どう思われますか?

この問いに対する吉本隆明氏の答えをつぎに掲げてみます。

僕は、世界の構図をつくるためには、空間的な視点と時間的な視点、その両方の視点が必要だと考えています。つまり、空間軸と時間軸との二重性でもって、世界を捉えるということです。空間的に見れば、アメリカ、ヨーロッパ、中近東、東アジア、アフリカなどの諸国は、みんな、それぞれの地域性、地域的特色があって、差異はいろいろあります。でも、歴史という時間軸に沿って、「段階」といる観点から見ると、差異だけでなく、共通点もいろいろ見えてくるんですよ

 

この指摘に続いて、吉本隆明氏は「段階」という視点を説明していきます。この視点は吉本隆明氏独自のものですが、説明を読んでいくと本人も認めておられますが、あきらかにヘーゲルマルクスの視点を焼き直したもののように感じます。

たしかにヘーゲルマルクスという、19世紀の西欧に育ち、その思考が20世紀に大きな影響力を持った人たちの思考の特色は、弁証法的な論理で歴史的現実の時間的変化を捉え、歴史はある目的に向かっての進歩であるとする歴史観に特色がありました。その進歩史観を前提として、時間軸に立脚した段階論が成立します。マルクス唯物史観は、その典型です。

もっともこの史観は、ユダヤキリスト教的な思考(ヘブライズム)に典型的にみられる歴史観です。人類の歴史は絶対的な創造神による「神の国」という目的に向かって進行する過程であり、終末における最後の審判によって全ての人が、天国か地獄に振り分けられる。ヘーゲルマルクスの史観は、意識的か無意識かは分かりませんが、結果として「神の国」史観の裏返しであるとの指摘が、ベルジャーエフをはじめとして様々な思想家からからあり、トインビーもその見解をとっています。

19世紀から20世紀にかけての時代の主潮は、 科学の進歩と人類社会の進歩がしっかりと結びつき一致していると信じられていた時代でした。限界がないように思われる科学の 進歩・発展の連鎖は、歴史には目的があり、人間の社会はその目的に向かって進行しているという考え方を裏付けるものとして大きな影響力を発揮しました。「進歩史観」は、西欧における様々な自由を求めての革命運動、また共産主義社会主義の革命運動の基本認識を提供するイデオロギーとして全世界の青年の心をつかみ、歴史の主体者としての使命感を与え、実践を支え後押した原動力であったことは間違いありません。その結果成立したと言って良い、ソビエト連邦とという壮大な文明的実験は、最終的に自由と平等という人間社会に本質的に存在する矛盾点を克服できずに、21世紀を目前に挫折し崩壊しました。

21世紀に入った現在、特に経済活動を中心として、世界全体の一体化が進行する段階に人類はさしかかっており、世界全体を捉える視点が必要条件となっています。改めて、確認するまでもないことですが、人間社会全体の認識のためには、地理学に象徴される空間の広がりを通しての認識、もう一つは歴史学に象徴される時間軸を通しての認識があります。空間の広がりからみる認識と時間軸に立って事象の経過をみる認識は、人文、社会、自然の科学に共通の人間の認識の基本です。古来、いかなる時代のいかなる認識でも、この二つの観点が貫かれていると言って良いと思います。

ハンチントンの「文明の衝突」は、冷戦終結ソ連崩壊後の国際情勢を、地球全体を俯瞰して把握し、その根本構造を示そうとしているものであり、空間的な認識が先行するのは当然であると思います。したがって「段階」論という時間軸がないという吉本隆明氏の批判は、批判のための批判とは言いませんが、自身の段階論の論理に対する思いが優先しており、「文明の衝突」に対する本格的な批判になっていないと思います。

この時「文明の衝突」が話題になったのは、イスラム世界をバックにしたテロリストたちが引き起こした衝撃的な事件を通して、その動機を探る中で行き着いたイスラム文明と西欧文明との対立構造を巡る関心を通してでした。「文明の衝突」をよく読んでいくと、ハンチントン論議の主眼は「文明」という視点の設定にあることが見えてきます。社会主義陣営と自由主義陣営の対立構造としての“冷戦”の段階が終了し、つぎの時代に向かっての視点を構築する上で、ハンチントンが現段階の世界の構造を捉えるための視点として「文明」という視点を設定したことの有効性をまず検証してみたいと思います。      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

「戦争」に対するトインビー博士の行動

前回のブログではトインビー博士の原点としての体験を踏まえた、博士の「戦争」に反対する思いと決意についてふれました。今回は、その決意に基づいて、どう行動し、戦ってきたかについて同じく「回想録」の中から引用します。

p110

戦争を廃止するために働くには、私がおこなったよりもいっそう直接的な方法がある。チャタムハウスの『国際問題大観』を執筆するのに三十三年を費やす代わりに、国際連盟国際連合の職員になることを志願しても良かったはずだ。しかし知的な仕事は、それ自体本質的な価値を有していることを別にしても、行動のための必要な基盤である、と私は信じているので、あくまで『大観』を続けることによってわれわれの時代の(いや実際のところ戦争が始まって以来のあらゆる時代の主たる害悪の正体をあばくのを手伝っていることになる、と私は常に感じていた。そればかりではない。この悪しき制度がそれを作り出したわれわれを抹殺する前に、それを制御しようとするのを手伝っているのだ、ということもつねに感じていたのである。

p111

戦争に対する私個人の戦いにおいては、私は全面廃止論者である。・・・・(中略)・・・・ ところが私の判断では、戦争は奴隷制と同じく、妥協のあり得ない社会悪である。通常兵器を残しておきながら原子兵器を廃止することや、兵器の量を減らしても残りのものを使用することをやめない、といったことが効果的であるとは私は信じない。私のめざすところは戦争の全面的廃止であって、それ以下のものではない。

しかし私は廃止論者ではあるが、平和主義者ではない。もし1931年に満州に関して日本と戦争したり、1935年にエチオピアに関してイタリアと戦争したり、1938年にチェコスロバキアに関してドイツと戦争したりするための投票の機会を与えられていたなら、私はこの三つの苦しい場合のいずれにおいても戦争に賛成する投票をしたことであろう。戦争に賛成する投票をしたであろうというのは、戦争を始めようとしている軍国主義者に対して何の軍事的抵抗もおこなわないことは、正しくもなければ分別のあることでもないと信じるからである。この場合のディレンマは苦しいものである。なぜなら、一方では、軍事侵略に対して抵抗しなければ世界を軍国主義者の手中に引き渡してしまうことになるし、また一方では、侵略に対して「聖戦」をおこなうなら、こちらの戦争がどれくらいの間聖戦であり続けるか予言できないからである。たとえ戦争を終わらせるために戦争をしているのであっても、戦争をおこなうときには、悪に対する解毒剤として悪を用いているわけである。そしてこの勝負においては、さいころベルゼブル〔魔王。『マタイによる福音書』〕に有利なように詰め物がしてある。人類の長い「悲しみの道」の途上において、「戦争を終わらせるための戦争」〔第一次世界大戦は一般にこう呼ばれた〕をどれほどおこなわなければならないか、わからないのである。第一次世界大戦を終わらせるために命を投げ出した私と同年輩の人々は、これが生存者とその子孫が目にする最後の戦争になると信じつつ死んでいった。こうして、戦争という古い制度を廃止しようする際、気がついてみると矛盾と挫折の中にはまり込んでいるのである。

p112

この経験は人をひるませるものである。しかしこれに立ち向かわねばならない。というのはそれは人生の苦しい事実の一つが持つ一面だからである。この事実とは、各世代は先人から伝え残された業〈カルマ〉という荷を負っているということである。現存する世代は自由な身で生き始めるわけではない。過去によって捕らえられた者として生き始めるのである。さいわいなことに、この囚人は無力ではない。受け継いだ慣習のかせをこわす能力を持っている。しかしこれをこわすには大いなる努力によるほかない。また全部をこわすことができるわけではない。人間の自由は錯覚ではないが、決して全面的ではあり得ないのである。

今問題にしている場合について見ると、平和的な政治的行為によって戦争を廃止する自由は、たしかにある。国家間の戦争という制度は、地方主権という制度の寄生虫である。寄生虫は寄主がなければ生き残れない。そしてわれわれは地方主権を平和的に廃止することができる。地方国家が全体の従属的な一部として存在し続けながら、その主権を引き渡す―――こういう世界的な連邦を自発的に作ればよいのである。これが、ライオネル・カーティスの唱えた、戦争という問題の積極的な解決法である。世界連邦の構成の細部については、教条的になる必要はないし、またそうあるべきではない。しかし何らかの形で、これを達成するために努めるべきである。原子力時代にあっては、これが大量殺戮に代わる人類の唯一の道のように見える。