トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

2021年第一回本部幹部会への池田先生のメッセージとトインビー史観

2021年の第一回本部幹部会への池田先生のメッセージをここに採録します。「トインビー随想」の中で取り上げさせていただく理由は、その内容がトインビー博士が生涯をかけて論じ残してきた内容とみごとに一致すると考えるからです。以下のメッセージの中で、下線を引き太文字で強調した部分は、私が感じた「一致する」と思う部分です。
 
まず全文そのものを転載します。
 
一、「青年」こそ「希望」の異名です。いかなる試練の嵐があろうとも、青年がたくましく応戦し、成長してくれるならば、無限の希望が生まれ広がるからです。新たな一年、我ら創価の大地には、いやまして凜々しく「青年」即「希望」の価値創造の連帯が躍動しています。
一、日蓮大聖人は、父君・母君のことを偲ばれつつ、法華経神力品の一節を引いておられます。「太陽と月の光明が諸々の闇を除くことができるように、妙法を受持し弘通する地涌の菩薩は、世間の中で行動して、衆生の闇を滅することができる」(御書903頁、趣意)と。民衆仏法の御本仏であられる大聖人は、末法濁悪の闇が最も深い時をあえて選ばれ、「民の子」として「民の家」に誕生されました。そして泥沼の如き現実社会に飛び込み、全民衆の苦悩を万年先、いな尽未来際まで照らし晴らす「太陽の仏法」を説き顕してくださったのです。
一、この「太陽の仏法」の赫々たる陽光を、二度の世界大戦に喘ぐ20世紀の闇に、黎明の如く決然と放っていかれたのが、牧口先生と戸田先生であります。創価の師弟は、「十界互具」「一念三千」という、人生観、社会観、宇宙観、まで明かした最極の哲理を掲げて、一人一人の胸奥から元初の希望・勝利の太陽を昇らせていきました。この人間革命と宿命転換の蘇生のドラマは、今や全地球で「月月日日に」(御書1190頁)、強く生き生きと繰り広げられているのであります。
一、今年は、大聖人のご生誕800年―――。私たちは不思議にも、「今この時」を選んで共に生まれ合わせ「世界広宣流布」の戦いを起こしております。久遠からのこの宿縁と使命を自覚するならば、何ものにも負けぬ偉大なる「地涌の菩薩」の勇気と智慧と慈悲が、一人一人に滾々(こんこん)と湧現しないわけがありません。日蓮仏法は、「世界平和」と「永遠の幸福」という、全人類が力を合わせて目指すべき境涯の最高峰を照らし出し、そこへ至る道筋まで明確に示しております。「衆生の闇」は、ますます深い。だからこそ、私たちは「立正安国」「立正安世界」の信念の行動を貫きながら、地域へ社会へ未来へ「太陽の仏法」の大光を、いよいよ、たゆまず明るく温かく、そして普く惜しみなく贈っていこうではありませんか!
一、60年前、第三代会長として最初に迎えた元日、私は学会常住の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」のご本尊の御前にて、宣言しました。「力の限り、戦いましょう!私は、この一年で百年分の歴史をつくります」と。そして年頭より関西を経由して九州へ入り、さらに東京・関東各地の支部結成を行って、初のアジア訪問へと出発しました。日本全国を駆け巡り、ヨーロッパを初訪問したのも、この年の秋です。「一年で百年分の歴史を」と誓った私の先駆の行動は、題目を唱え抜き、心で戸田先生と常に対話しながらの「不二の旅」でした。御聖訓には、「よき師匠と、よき弟子と、よき法と、この三つが寄り合って祈りを成就し、国土の大難をも払うことができるのである」(御書550頁)とあります。師弟不二」にして「異体同心」なれば、力が湧きます。友が広がります。諸天も動き、勝利の道が開かれます。あらゆる祈りを成就し、誓願の国土の安穏と繁栄を勝ち開いていくことができるのです
一、これからの十年は、まさに地球の大難をも払い、「生命尊厳」そして「人間革命」を基軸とした「新たな人類文明」を建設しゆく大事な大事な時であります。この十年を決しゆく勝負の一年、希望・勝利の「不二の旅」を共々に朗らかに決意し合って、私の年頭のメッセージとします。
 
以下、簡潔に説明してみます。
 
まず最初の、いかなる試練の嵐があろうとも、青年がたくましく応戦し、成長してくれるならば、無限の希望が生まれ広がるからです の部分です。
この部分は、トインビー世界史の中での歴史発展の方程式「挑戦と応戦」そのものです。トインビー博士の歴史観の根本となる視点です。この視点は「人間の内面の変化が社会的変化の原動力である」との視点でもあります。
 
次に、末法濁悪の闇が最も深い時をあえて選ばれ、「民の子」として「民の家」に誕生されました。そして泥沼の如き現実社会に飛び込み、全民衆の苦悩を万年先、いな尽未来際まで照らし晴らす「太陽の仏法」を説き顕してくださった と言う視点です。
トインビー博士の文明を単位としてみる世界史において、中国文明の影響のもと6世紀に単独の文明として成立したのが「日本文明」です。その日本文明が「break down」(挫折)したのが11世紀。日本史の上では、「保元・平治の乱」に象徴される武士勢力の台頭、仏教史の上での「白法穏滅・闘諍堅固」の「末法」の始まりとされる時期と一致します。トインビー博士の経験主義に立った歴史観では、400年という単位が文明のステージ転換の基本単位になります。日本文明の誕生から400年の11世紀がその最初のステージ転換であり、次のステージは「universal state」(世界国家)成立までの400年間。日本の歴史においては1600年の関ヶ原の戦いの結果として成立する徳川幕府による世界国家の成立です。ちなみにここでの“世界”とはその文明に属している人々の主観による世界全体です。当時の日本の言葉でいえば“天下”です。武士の時代に入って、徳川幕府の統一までの400年間は、鎌倉幕府室町幕府の時代として日本史の上では区分されます。しかし内実に立ち入ってみれば、この時代を通じて、公家勢力と武士勢力の抗争として記憶される承久の乱南北朝の騒乱、国内の大勢力が衝突する応仁の乱、群雄割拠の戦国時代とほとんど切れ間なく続く抗争の時代であり、この400年間は全体として動乱を基調とする時代と言って間違いありません。トインビー博士の文明のステージとしての“動乱時代”です。この動乱時代である1222年に、時代にあわせて出現された日蓮大聖人がそのほかの禅宗念仏宗の開祖と決定的に異なるところはまさに現実の一番厳しい民衆のただ中で、大乗仏教を学んだ者なら最高位の正しい教であるとの認識が共通していた法華経を一貫して説き続けられたことです。当然、現実のただ中ですから政治権力からの弾圧もあります。容易な道ではありません。これもトインビー博士が見てきた高等宗教の条件に一致します。池田先生の対談後、初めて英訳されて出版された「人間革命」の序文をトインビー博士は書かれておられますが、その中で明確にこの事実を書かれておられます。トインビー博士の歴史観のベースには、ギリシャ・ローマのヘレニック文明がありますが、その枠のなかで誕生したキリスト教についての記述と重ねてみると、このことはさらに深い意義をもつと思います。
 
次の「太陽の仏法」の赫々たる陽光を、二度の世界大戦に喘ぐ20世紀の闇に、黎明の如く決然と放っていかれたのが、牧口先生と戸田先生であります。創価の師弟は、「十界互具」「一念三千」という、人生観、社会観、宇宙観、まで明かした最極の哲理を掲げて、一人一人の胸奥から元初の希望・勝利の太陽を昇らせていきました との部分です。
この部分は、さらにトインビー博士の胸奥に響く大事な視点であると思います。この「二度の世界大戦に喘ぐ20世紀の闇」と真正面から取り組んだ学問的営為が、トインビー博士の世界史である「歴史の研究」です。同じ歴史的経験に生命をかけて取り組まれ、トインビー博士が高等宗教の中でも最も深い期待を寄せておられた大乗仏教の神髄である法華経の現代への復活のキイワードとして、「生命」の尊厳を根本として、社会のあらゆる分野の本質的課題の解決に取り組んできたのが創価の三代の師弟です。
 
さらに重要な部分と考えるのが次の、日蓮仏法は、「世界平和」と「永遠の幸福」という、全人類が力を合わせて目指すべき境涯の最高峰を照らし出し、そこへ至る道筋まで明確に示しております。さらに師弟不二」にして「異体同心」なれば、力が湧きます。友が広がります。諸天も動き、勝利の道が開かれます。あらゆる祈りを成就し、誓願の国土の安穏と繁栄を勝ち開いていくことができるのです との部分です。
この部分は、トインビー博士の世界史の中で指摘されている、文明発展の原動力としての「創造的個人」「創造的少数者」の役割と関係性につながります。まず「一人」から始まり、その「一人」から志を同じくする人間の連帯がうまれ、社会を変えていく。その目標はトインビー博士が、あえて「文明」の定義として表現されている「人類が一つの家族のように仲良く共に生きる世界の実現」と全く重なると思います。
 
これからの十年は、まさに地球の大難をも払い、「生命尊厳」そして「人間革命」を基軸とした「新たな人類文明」を建設しゆく大事な大事な時であります
最後のこの部分ははトインビー博士が根本の念願とし、書き残されたものと全く一致しています。この新たな人類文明」の成立こそトインビー博士が最後までもとめられていたことですあらためてトインビー博士が草の根をかき分けるように、日本の片隅に存在した創価学会・池田先生を探し出し、最後の重要な後世への遺言のように「21世紀への対話」を残されたことの意義を感じます。
 
 
 
 

トインビー史観を貫くもの

 トインビー博士の歴史観というと、即座に「文明」中心もしくは「高等宗教」中心の歴史観という答えが返ってきます。「20世紀最大の歴史家」と高く評価する声がある一方、専門家を自任する歴史学者の中からは、「アマチュア歴史家」「文明の墓掘り人」等、きわめて感情的で厳しい評価をする人が数多く存在します。大著「歴史の研究」の最終巻が刊行され全貌が明らかになった1950年代以降、一般の人々からの評判が高くななることと反比例して、感情的で否定的な評価が強くなっていきました。その後、1975年に死去されるまで、特に日本においては朝日、毎日、読売、日経などの新聞の新年の紙面等に、時代を分析し未来を展望するトインビー博士の寄稿が掲載されてきた。その名前は、老若男女を問わずほとんどの人の脳裏に収まっていると言って良い。まもなく死後50年の節目が、2025年にはやってくる。現在の時点でトインビー博士の歴史観は、どのように受け止め、評価することができるであろうか。そしてその評価の意義とは何であろうか。既存の歴史学の世界においては、トインビー博士を無視し続けており、現在のアカデミズムの世界にはトインビー史学はない。しかし、現在もなお評価し続けているのが創価学会である。老齢で世界への旅行が難しくなっていたトインビー博士が自ら手紙を書き、訪英と対談を提案され、その提案に応ずる形で、5月の時期を選んで、1972年、1973年と二年と続けて対談を実現した当時40代の創価学会の若きリーダー、池田大作。その対談の内容は日本語版は「21世紀への対話」、英語版は「Choose Life」と題されて出版され、創価学会の世界への発展と連動して、その後世界26言語に翻訳され出版されている。池田大作氏はその後、モスクワ大学北京大学、等の当時共産圏に属していた大学をはじめとして、アメリカのハーバード大学、カリフォルニア大学、ボローニア大学等の欧米の大学に招待され、講演している。さらに世界300をこえる大学、学術機関から名誉学術称号を受けている。2021年1月2日の段階で93歳になった池田大作氏。その生涯の、日本人としては驚異的な世界の学術界からの評価と顕彰は、その淵源をたどると間違いなくトインビー博士との対談、その内容を収めて出版された「21世紀への対話」(「Choose Life」)にたどり着く。その事実は、この世界での講演、顕彰の場で語られる推薦の言葉の中に明確である。20世紀後半から21世紀にかけての世界の中で、この客観的事実は重要な意味を持つ。しかし特に日本においては、この事実はマスコミ等を通じて表にでることはなく、大部分の日本人は、創価学会の指導者としての池田大作としては認識しているが、世界での客観的な評価は知らないし、知っていても、あえて故意に無視しようとしている。このような奇妙な状況がまだ続いている。

一方、世界の学術機関からの評価は高い。特に「核の時代」に入り、一歩方向を間違えれば全人類の滅亡もあり得る状況の中で、世界全人類の平和と安穏を願う心ある指導者、知識人はこぞって「21世紀への対話」(「Choose Life」)に語られ、記録されている、人類の方向を示す英知と慈愛の言葉に対して、賛同と共感の思いを表明している。

世界史教育とトインビー博士の歴史観

私が東京教育大学西洋史を卒業して、創価学園に奉職したのは、昭和48年の4月のことであった。それ以後、中学・高校の社会科教諭として、主に世界史を中心に授業を持つことになった。以後、定年退職後の管理職の時代を含めて45年近く教壇に立って世界史を教えることになった。大学時代の履修科目として日本史、東洋史、専門科目として西洋史の各時代を学ぶことにはなったが、教壇に立ってみる生徒が興味を持って歴史の世界に入ってくるまでの内容を持つ授業を毎日行うことは、さらにそれぞれの時代の内容に深く立ち入る事前の予習と組み立てが必要であり、連日、授業研究に必死に取り組むことになった。その際、必要な資料、文献の量はかなり多く、必死に取り組んでも、実体は自転車操業と言っても過言ではなく、とくに20代の後半はほとんどそのような日々であった。

日本において、世界史という科目は第二次世界大戦後の戦後教育の中で成立した科目であり、戦前の国史が日本史となり、西洋史東洋史が合体して世界史となった科目であり、世界史としての学問的な基礎があるわけではなく、必要に迫られて折衷案として生み出された科目といっても過言ではない。しかも、大学における歴史学はあくまでも科学的という名のもとの個別実証を中心とする歴史学であり、世界観に基づく歴史学は、カール・ポッパーが「歴史主義の貧困」の中で糾弾したマルクス主義史観など、今度は思想で現実を歪曲するような類の歴史観であり、多数の青年男女をその運動の中に吸収してきたが、結局は様々な矛盾から悲劇を招来するような歴史観であった。

人類は、16世紀の西欧人の世界進出以来、紆余曲折はあったが、世界の一体化にむけての動きを歩んだきた。特に産業革命以後の科学技術の生産活動への応用は、世界の一体化への動きを促進し、20世紀から21世紀に入ってその動きは一段と加速している。特にインターネットの発達は、情報面では人類を瞬時につなぐことを可能にしている。

まさに「世界史」「人類史」が強く求められる時代に入っている。

現代において高等宗教に求められる条件・・・・山本新先生の記述より(月刊世界政経1976年1月号「トインビーの歴史的宗教観」―文明興亡の鍵を宗教に求める巨人の最終史観)

 
山本新先生の記述(月刊世界政経1976年1月号「トインビーの歴史的宗教観」―文明興亡の鍵を宗教に求める巨人の最終史観―)を引用する。    
① 他の宗教を邪教のように悪しざまにののしってでなければ、自分の宗教の正しさが証明できないと思い込んでいる排他性、独善をやめて、他の宗教にも真理があることを謙虚に認めることである。これは容易なことではない。
② つぎに、宗教が現代の切実な問題とたえず折衝し、格闘していることである。これを無視したり、でなくてもさけたり、ごまかしたりしておれば、心ある人から信用されなくなり、人心をつかむことができず、時代の動きとかかわりのない形骸化、名目化したものになる。社会や文化の推進的な動きからとりのこされ、生命のない、時代錯誤な存在と化する。現在にいきているとは言いがたい。い。    
③ さいごに、高等宗教にまぶりついた付属物からその本質を剥離し、本質そのものを取り出すことである。                
 
…………(中略)…………高度宗教が生き延びるために満たすべき第一の条件は、排他性、独善性をこえて謙虚になるである。…………(中略)…………比較的わかりにくいと案ぜられる第二以下の条件について、すこし説明を加えたいと思う。現代の切実な問題をトインビーはいくつかあげている。その第一は「平和の維持」である。これは核戦争による人類の自滅をいかにしてさけるかである。現在人類がまだ生きているのは、不安定な核抑止力によってであり、偶発戦争はいつおこるかもしれない。……(中略)……これを最終的に集結させるには、世界政府をつくり、核武装をやめさせ、核エネルギーの管理をするほかはない。このような人類死活の問題に高度宗教はどれだけ取り組み、有効な発言なり、運動なりをしているであろうか。トインビーは、第二には「社会正義の促進」をあげる。社会正義とは、一口でいえば、平等のことである。高度宗教は社会的平等を促進しようとするなら、社会主義と火の出るような折衝をかさねなげればならない。宗教的社会主義を作るまでに格闘していかねば、階級対立にまともに取り組んだことにならない……(中略)……社会正義の問題は、階級問題だけではない。異民族と正しい関係に立つという民族問題もある。日本における朝鮮人問題に、宗教家が良心的に取り組んでいるかというと、これはもっと心細い。皆無に近いのではないか。……(中略)……高度宗教が生き延びるための「本質剥離」についてすこしばかり説明してみたい。……(中略)……他の文明へこの高度宗教を普及しようとするとき、文明の着色である付属物を本質からはがし、本質を取り出し、それだけ他の文明へ移植するのでなければ、本質と付属物を一緒にのみこませようとすると、必ず失敗する。     

「人間事象に基本活動があるか」 .……宗教こそ基本的活動 再考察23巻

歴史の研究、再考察23巻の補論の冒頭で、トインビー博士は「人間事象に基本的活動があるか」という題で短い論考を行っています。この論考では、人間の振るまいを記録する歴史の中で、旧石器時代の記録では、出土する痕跡がほとんど「道具」であることから、人間を「ホモ・ファーベル」と規定する考古学、文化人類学の傾向から論述を始められ、文字が使用され始める歴史時代に入ると、紀元前3000年ごろ、エジプトの上・下エジプトの統一を成し遂げたナルメル王の化粧板や、紀元前12世紀のアッシリアの諸王の浮き彫りに記録された内容は、「政治」を人間諸活動の中心にすえる傾向であり、その傾向は19世紀に、マルクスエンゲルスの天才が、経済が歴史の鍵であるという命題を提出するまで有力であったと記述されています。そしてつぎのように記述されていますので、引用します。
マルクスエンゲルスは歴史の提示に於ける伝統的な名誉ある座から政治をひきおろして、その代わりに経済を王座につける仕事にとりかかった。……(中略)……歴史の人間の生活必要物資の生産方法と、生産手段を管理する体制があいまって、人間生活における他の大部分のものを支配し決定するということである。権力の鍵は政治ではなくて経済である。人間事象を理解する鍵は経済を理解することである。今日マルクスイデオロギーを信奉しない多くの人々がこれらのマルクスの見解をとっている。……(中略)……経済が重要であると考え、産業労働者の苦しみを軽減するために何か根本的なことがなされなければならないと主張したマルクスは疑いもなく正しかった。この二つの点について全世界はマルクスに同意することができる。ただしそれだからといって、19世紀の工業労働者の苦しみに対する彼の治癒策が最良のものであるとか、経済は単に重要であるだけでなく、圧倒的に重要であるということについて彼に同意しなければならないということはない。経済が圧倒的に重要であるという命題に対する答えは、「人はパンだけで生きるのではない」(「申命記」第八章第三節。「マタイによる福音書」第四章第四節と「ルカによ福音書」第四章第四節に引用されている。)ということである。政治は人間の基本的な活動であるという命題は無効であることを証明することによって、マルクスはわれわれすべてに一つの貢献をしたとしても、経済は人間の基本的な活動であるという同じような命題も無効なのである。」(p1228~1230)
そして「人間事象に基本的活動があるか」の考察のしめくくりとして次のように記述されています。
「『人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる』(「申命記」第八章第三節)。ここに宗教は人間の基本的活動であると主張する声がある。そして相競うすべての声のうちで、確かにこれは最も強い声なのである。しかしその力は、宗教はわれわれの表のなかの他の活動と同列ではないという事実にあるのである。宗教は、宇宙の現象の背後にある絶対的な精神的実在と接触し、接触した時にこれと調和して生きようとする人間の試みである。この活動はあらゆるもののうちにある。それは他のすべてを包含する。さらにそれは人間の命の綱である。ひとたび生物が人間のように知性と自由意志を獲得するならば、この生物は神を求めて見出すか、さもなければ自滅しなければならないのである。『預言がなければ民はわがままにふるまう』(「箴言」第二十九章第十八節)。それ故、人間に基本的活動があるとするならばそれは宗教であろう。しかし宗教の主張は、それを超越する言葉で述べることによってのみ擁護することができるのである。宗教は人間の他のすべての活動をそのなかに包含するという意味に於いてのみ人間の基本的活動なのである。

「西欧文明は世界国家の段階にあるのか?」・引用「西欧の歴史と前途」歴史の研究再考察 P967

城川コメント:この部分のトインビー博士の記述は、最終的にはトインビー博士の文明を単位としてみてきた世界史にとって、決定的で重要な視点の転換になっています。まず第一に現在、地球全体を覆うかたちで展開しているのは16世紀の地理上の発見にはじまる西欧文明であり、この文明に他の文明からの様々な要素が流入し融合することによって、全人類は歴史上はじめて「世界文明」の時代に入ろうとしています。ここに従来の文明が辿ってきた「誕生」「成長」「挫折」「動乱時代」「世界国家」「崩壊」という段階を、現在の西欧文明を「足場」として構築中の「世界文明」にあてはめてみると、はたしてどの段階にあるのでしょうか。この段階を考える上で決定的に重要なことは、この西欧科学技術文明の発展によって人類は、「戦争」という制度を廃止する前に、全人類を滅亡させることのできる最終兵器としての「核兵器」を手にしてしまったということであり、したがって従来の文明が辿ってきた「動乱時代」「世界国家」という道は、現代においては全人類の滅亡への道であるということです。ここにおいてトインビー博士は、今の西欧文明がどの段階にあるのかということを見極めることは、現在姿を見せ始めた「世界文明」の行く末、言い換えれば人類の運命を見極める上で重要な意味を持つと指摘されています。その指標として「歴史の研究」の中で動乱時代のスタートとなる「break down(挫折)」を西欧の歴史のどこに設定すべきか。可能性のある歴史的事件を4つあげておられます。そして、最終的には「生存の道」を選ぶか「滅亡の道」を選ぶかの鍵は「人間の選択」にかかっているとの結論を出されています。この段階において重要なことはこの現代の「世界文明」の未来は決まっていないということであり、文明の未来はどこまでもオープンエンドであり、最終的には人類の選択にかかっているということです。ここにトインビー博士の「人間史観」の真骨頂があると思います。しからば、人類は何をなすべきか。トインビー博士の実質上最後の著作、「21世紀への対話」に、トインビー博士自身がつけられた題名は「Choose Life」であるということは深い意味があると思います。」
 
 われわれの知っている文明の大多数の歴史のように、西欧の歴史は今日まだ完結していない。それ故多くの可能な道を示唆するという形であっても、その前途を予想しようとすることは危険である。今日までの西欧史の型が、たとえばヘレニック文明やシナ文明のような他の文明――その歴史が終わり、したがって最初から最後までわれわれに判っている文明――の型とだいたい同じであるという確信が持てるとしても、人間事象の進路はあらかじめ決定されているのではなく、また必然ではなく、それ故過去の型は未来についての予言の根拠にはならないという私の主張が正しいとすれば――私は正しいと信じているが――、西欧史の未来の進路がヘレニック史やシナ史の道を辿ると予想すべき根拠はないであろう。このことが正しいとすれば、西欧文明がヘレニック文明やシナ文明のように世界国家になろうとしているかどうかを予言することはできないのである。そして、西欧事象の未来の進路がその時点までのヘレニック文明やシナ文明に共通の型に従うとして、西欧の世界国家がローマ帝国西部諸州に於けるヘレニック世界国家のように短命に終わるか、それともシナ世界国家のように長く続くかどうかを予言することはできないのである。
 
 われわれの生時に西欧と、そして西欧と共に世界が入った原子力時代には、世界国家を再び樹立することはできないように思われる――少なくとも標準な方法で。それ故その方法が生み出す標準的な形の、世界国家を樹立することはできないように思われる。過去に於いては、相次ぐ戦争の結果すべての強国が倒されて、ただ一つの勝者が勝ち残り、世界国家が樹立された。原子力兵器以前の時代に於いてさえ、政治的統一に達するこの方法は極めて破壊的であったので、――物質的破壊にとどまらず、さらに心理的に破壊的であったので、――この恐るべき経験を経た文明は治癒し難いほどの損傷を受けて現れるのが普通であった。原子力兵器の時代には、最終ラウンドまで残る国は一つもないであろう。勝者はなく、すべての交戦国はひとしく滅びるであろう。そして原子力戦争の第一ラウンドでさえ、交戦国だけでなく文明と人間と、そして多分この惑星上のすべての生物を抹消してしまうかもしれないのである。そうだからといって、人類は統一に達することができないということにはならない。史上初めて全人類が軍事面に於いて統一された現在、われわれが直面している選択は、統一まですすむか、それとも破滅するのかのいずれかである。社会が再び力によって統一されることはあり得ないように思われる。未来の戦争に於いて使われる力は原子力であり、それは社会を絶滅して、統一すべきものを何一つ残さないが故に、力による統一はあり得ないように思われるのである。
 
西洋文明の「挫折」は、どの時点か?
 
○「この世界の主要な制度は都市国家になるであろう」との推測をしても正しい...紀元14世紀初頭に西欧世界を眺めた観察者
        ↓
○当時北イタリアと中部イタリアの都市国家は地中海の商工業を支配していた。
ハンザ同盟市はバルト海スカンジナビアを支配していた。
○フランドルの都市国家はイギリスと北フランスの経済における強い力。
○中世西欧の歴史の初期から残存してきた鄙びた王国は、発芽しつつある都市国家組織の優位のもとに没落し、結局そのなかに吸収される運命にみえる
        ↑
        ↓ 
○ヘレニック史を知っている観察者は、これはヘレニック史の辿った型であると想起するであろう。
○そのことは西欧史の型も同じものになるであろうという彼の予想を強化したかもしれない。
ヴェネツィアジェノアの間のチオッジャ戦争〈1378~81〉〔この戦争で勝利を収めたヴェネツィアは、地中海および近東貿易の覇者になる〕は、
 ヘレニック文明の挫折を示した紀元前431~404のアテネペロポネソス戦争に対応するものと考えることができる。
        ↓
○ところが14世紀が終わらないうちに、中世西欧世界の都市国家は、つい先頃その明白な運命であると思われたものを失っていた。
        ↓
○15世紀が終わる頃までに、西欧世界の主要な政治制度は都市国家ではなくて、都市国家の能率と活力を吹き込まれて旧式の封建王国から作り出された
 民族国家であることがいかなる観察者にも明らかになった。
        ↓
○さらに2世紀が経過すると、14世紀初めにあのように確かなもののように見えた西欧の未来像は錯覚であったことが証明された。
 
 「挫折」と「解体」の観点から考える時、今日までの西欧史のなかに、それぞれ特定の年代を持ち、西欧史の或る特定の時点から眺める時、そのいずれもが西欧文明の「挫折」と「解体」の徴候を示すものと見做すことができる幾つかの歴史的な型があったことがわかる。
                  ↓
○14世紀のフランドルや北イタリアの都市国家のように、中世西欧世界の都市国家組織を西欧世界全体と同一視しても差し支えないとすれば...
西欧文明の挫折の時期は14世紀最後の25年間に置かなければならない(ヴェネツィアジェノアの間のチオッジャ戦争〈1378~81〉)
                  ↓
○ここに西欧文明の「挫折」の時期をおくと、およそ千八百年の間隔をおいてヘレニック史の年代と殆ど正確に対応する
○両文明の「成長期」はおよそ七百年(ヘレニック史では紀元前約1125~425、西欧史では紀元約675~1375)続いたことになる
 それぞれの「挫折」は、紀元前5世紀の終わりと紀元14世紀の終わりに起こったことになる
                  ↓
○それに続く「動乱時代」はどちらの場合もおよそ四百年続いたことになる
 ※ヘレニック史の場合は B.C.431~B.C.31、西欧史の場合は1379~1797
                  ↓
○「動乱時代」は「世界国家」の樹立によって終了する
 ※ヘレニック史の場合はアウグストゥスによる元首政(実質の帝政)の開始
西欧史で対応するものはナポレオンの業績。政治的統一を押しつけることによって、挫折した都市国家組織に平和をもたらした
                  ↓
○しかし、ヘレニック社会の歴史と中世の都市国家組織の歴史の間には著しい相違点がある。そして西欧史のこの挿話の非ヘレニック的性格は、西欧都市国家組織の挫折は西欧世界全体の挫折と同じではなかったこと、したがってその瓦解は西欧史の終末ではなかったことを明らかにしている
 
中世西欧の都市国家は、アレクサンドロス以前のヘレニック都市国家および孔子以前の中国の諸国家と、もう一つの重要な経験を共通に持つ  
                  ▼
文化的にはより低い水準にあるが、より高い軍事力を持ついくつかの国によって包囲されていた
 
この周辺の成り上がり者の強国は、イタリアとフランドルに対するヘゲモニーを巡って争った。それはちょうどアレクサンドロス以後のヘレニック世界の強国がエーゲ海シチリアに対するヘゲモニーをめぐって争ったのと同様であった。
※アレキサンドロスのディアドコイに相当すると認められるものは、カルル5世(スペイン連合王国のカルロス1世。ドイツ皇帝カルル5世として在位 1519~1556。ハプスブルク全家領とネーデルラントを相続)とフランソア1世(フランス王。在位1515~1547.イタリアに領主権確保をのぞみ、カルル5世との間に四回にわたるイタリア戦役を戦ったが、結局失敗)とヘンリー8世(イギリス王。在位1509~1547。前二者と結びあるいは戦う)
                  ↓
○しかし、ここで二つの歴史は決定的に異なる方向をとる
 
※ヘレニック史の流れの中では、周辺の新しい強国の一つであるローマが、ヘレニック史の「動乱時代」の始めから263年と経たないうちに――動乱時代の開始をB.C.431年とするならば――競争者をすべて打倒もしくは支配することに成功した。そしてそれ以降挑戦者のなかったローマの力は、ピドナにおけるマケドニアの敗北後百三十七年、アクティウムにおける勝利によって、エウフラテス河以西の全ヘレニック世界を政治的に統一したアウグストゥスの手中にあった。
 
※ナポレオンはフランスの力を自由に使うことができた。しかしフランスはそれまでに西欧世界で生き残った唯一の強国になることに成功していたわけではなかった。       ▼
ナポレオンの帝国は短期間しか続かなかったにもかかわらず、その歴史的使命を果たした。しかしその使命はアウグストゥスの帝国の使命とは全く異なっていた。それは中世西欧の都市国家の破片をを、17世紀末葉の精神的知的革命によって生み出された近代西欧世界に再び吸収することであった。流産した西欧の都市国家組織のこの最終的一掃は、西欧文明の一掃を意味するものではなく。それは西欧文明を強化した
 
○以上の考察(P972~974)は、中世西欧の都市国家組織の興起と没落は、西欧史における従属的な挿話であり、したがってその挫折と解体は西欧世界全体の挫折と解体を意味するものではないことを示している。しかしこの結論は、全体としてのこの社会はすでに同様に挫折しているかもしれないという問題を残している。
                 ↓
○われわれは西欧史の主流のなかに西欧文明の「挫折」を示しているかもしれないいくつかの出来事を考えることができる。
1)その一つは宗教改革....それまで教皇の主宰の下に西欧が享受していた教会の統一を破った。西欧キリスト教会連邦は、その時までの西欧キリスト教世界の主要な制度であった。したがってそれが宗教改革によって破壊されたことは、西欧文明の「挫折」を示すものと考えることができるかもしれない。
2)或いはまた、その「挫折」を示すものは、後の十六世紀におけるカトリックと新教の宗教戦争――国家間の戦争ならびに内戦――の勃発かもしれない。なぜならこれらの戦争に於いて宗教革命は暴力と苦悩という収穫を刈り入れたからである。
3)西欧文明の挫折を示すと考えられるもう一つの時期は、西欧の総力戦時代の始まりを画した1792年のフランスの民衆蜂起
4)もう一つは1914年の第一次世界大戦の勃発。
この戦争によって、カルノーの時代以来産業革命が作り出した武器を、総力戦が使うことになったのである。
5)もう一つは最初の原子爆弾が投下された1945年であろう。
                 ↓
○これらのそれぞれの時期が、西欧文明の「挫折」を示すものと見做される理由を十分に持っている。
 しかしこれらの相争う主張は、どれ一つとして1961年に位置する観察者によって承認されることはないであろう。
                 ↓
※すでに衰退し没落した文明の衰退と没落の比較から過去に何度も起こった解体の型が現れる。これらの衰亡を通観するとき、
過去に於いて一文明の「挫折」とその「世界国家」の樹立の間の通常の間隔はほぼ四百年であったことが判る。
                 ▼
この間隔が過去においてしばしば見られたということは、他の未完の文明の歴史に於いても同じ時間的な型が再現するもしくは再現しようとしているということの推定証拠にはならないのである。〔歴史における機械的法則の明確な否定
                 ▼
しかしこの点を留意するならば、この尺度――われわれの所有する唯一の尺度――を西欧の場合に適用して、それがどのように役立つかを調べることは多分正当であろう。
 
★「挫折」から「世界国家の成立」まで約400年という、文明の経験則を西欧文明にあてはめて検証してみる
 
挫折」と認められる可能性のある西欧文明の歴史的出来事から約400年の出来事は?
※今日(再考察執筆当時1961年)までに、「西欧世界国家の樹立」がすでに既成事実となっていることが必要だがその事実はない
                 ▼
実際この世界国家は、二度の世界戦争の結果ドイツが樹立したかもしれないものであった。しかし二度ともドイツは敗れ、しかも二回目にはその敗北は第一回目よりも破滅的だった
城川コメントECCからECそしてEUへの動きをどう考えるか。1961年当時はその萌芽はあるが、まだ具体的になっていない。実際に現在のEUをみると、エマヌエル・トッドの表現では経済的には実質の“ドイツ帝国”である。ただ成立の過程は、軍事力による強制という、従来人類史のなかで繰り返された方法ではなく、理性に基づく合理的な話し合いが基本であった。トインビー博士が指摘されている核兵器出現後の人類の歴史の一つの重要な事例であると思われる。ただ、現状の民族主義に基づく各国の“反EU”の動きは、トインビー博士の人間史観の根幹をなす“宗教”もしくは“宗教の不完全な代換物”の意味をしっかりと例証している。〕 
2)十六世紀におけるカトリックと新教の宗教戦争
※この時から400年後に「世界国家」の実現が起きるとすれば、1960年代後半か1970年代前半に西欧世界国家が樹立されると予想しなければならない。
 しかし、現実の可能性としては、このことはすでに遅すぎるのである。何故なら1945年に原子力兵器が発明されており、原子力戦争の手段による統一は、社会そのものを絶滅させるが故にこの発明は西欧社会もしくは他のすべての社会を力ずくで統一することを不可能にしたからである。
 
城川コメント核兵器出現後の人類の歴史は、それまでの歴史における戦争という紛争対応の方式に心理的な強い制限をかけることとなった。この点につてはこのあとにトインビー博士の人間史観による深い洞察が続く〕
 
3)1792年のフランスの民衆蜂起
4)1914年の第一次世界大戦の勃発。
5)最初の原子爆弾が投下された1945年
                ↓
※結論は否定的であるように思われる。われわれは西欧世界国家の樹立を示すかもしれない時期として五つの時期を考えた。すなわち、ナポレオン時代、二度の世界戦争にまたがる時期、1970年の直前直後の時期、もっと将来の二つの時期――2192年頃(つまり1792年プラス400)と2134年頃(すなわち1914年プラス400年)――である。この五つの推定的な予想の最初の二つは、予想した時期に期待される事件が起こらなかったことによってすでに信頼性を失った。あとの三つは、原子力兵器の発明に先を越されたために問題にならなくなったように思われる
 
○今日までに西欧世界は近代において世界国家のなかに力ずくで統一される脅威を二度にわたって免れてきた。そしてそのいずれの場合に於いても同じ原因によって免れたのである。いずれの場合にも、統一の企てがなされる前に西欧世界は、大きな規模に拡大していて、これらの企てを望みのないものにしたのである。
 
○ナポレオンの時代に西欧世界がまだ西ヨーロッパに限られていたならば、ナポレオンのフランスは、フランスそのものと同じくらいの力をもつ同時代の他のヨーロッパ列強――ドナウ・ハプスブルク王国、大英帝国、プロシャ――を倒すことによって、力ずくで西欧を統一することに成功したかもしれない。             ▼
 ナポレオンのフランスの力をもってしてもナポレオンの事業が無理であった理由は、ナポレオンの頃までにフランスと対抗する列強との競争はすでに約300年続いており、その間に西欧はその境界を拡大していたことであった。
                       ▼
 東方では、非西欧国であるロシアが西欧の軍事的政治的闘技場に足を踏み入れ、力の均衡に新しい重みを投げ入れていた。
 西方では、イギリスが海洋に対する支配を獲得し、したがって15世紀末から次第に西欧に付け加えられていた広大な海外の領土の資源を支配することによってその力を著しく増していた。  
                       ▼
 ナポレオンが失敗したのは大陸ヒンターランドを持つロシアと海外のヒンターランドを持つイギリスの両方を相手にしなければならなかったからである。
 
ドイツがに二度の世界戦争に於いて失敗したのも、ナポレオン戦争におけるフランスの失敗と同じ原因によるものであった。
                       ▼
 1815年から1914年までに経過した百年間に於けるリオ・グランデ河以北の北米の開発と発展は、西欧世界の海外の部分の潜在戦争能力を、ヨーロッパの一国或いはヨーロッパ諸国を合わせても匹敵できないような水準に高めていたのである。
 
第二次世界大戦が終わる時までに、西欧世界の拡大は通信と戦争という技術的な面で極端に進んでいた。これらの面では、西欧の方式はその時までにこの遊星上の居住可能、通行可能な全表面に拡がっていた。同じ時までに新兵器が発明され、そのために西欧史上初めて西欧の一国が今や世界そのものと同じ拡がりを持つようになった西欧世界をさえ力ずくで統一することが可能になったのである
                      ▼
しかし、この新兵器はすべてを破壊する原子力兵器であったので、一つを除くすべての競争国を排除するという旧態依然たる目的にこの兵器を使いうる条件は、使用国がこの新兵器を単に所有するだけでなく、それを独占していることであった。1945――9年の間にはこの条件は満たされていた。この頃には合衆国が、そして合衆国だけが、原子力兵器を所有していた。
                      ▼
 ドイツもしくは日本が原子力兵器を所有し、しかもそれを独占して第二次世界大戦に勝っていたならば、この無類の軍事的好機を利用して、今度はは文字通り世界的な世界国家を伝統的な軍事手段によって樹立したであろうとわれわれは推測する。
                      ▼
 合衆国官民はこういうことをしなかったし、またその気にもならなかった。……合衆国に続いて今度はソヴィエト連邦が1949年に原子力兵器を手に入れた時、世界国家樹立の可能性は失せた。その時以来、この武器は人類に政治的統一を押しつける実際的な手段ではなくなり、文明と人類と生命そのものの存続に対する脅威になったのである
 
○こうして、力ずくで統一を押しつける可能性の消滅は、同意によって統一を達成することを人類の死活問題にしたのである。1949年という年は、人類の歴史に於いて一つの新しい時代を開いた。その時までは、旧石器時代の中頃に、人類がこの遊星上の他のあらゆる種類の生物と非生物的に対して決定的な優位を占めて以来、人類の存続は保証されていたのである。その時から1949年までの間、人間の犯罪と愚行は文明を破壊し、無数の男、女、子供に不必要不当な苦しみをもたらすことができ、また実際にもたらした。しかし原子力時代以前の技術をもって人間がなし得る最悪のことも、人類を破滅させるには十分ではなかった。原子力兵器が発明されるまで人間は少なくとも大量殺戮をおこなうことはできなかった。ところが依然として多くの地方国家に政治的に分割されている社会で、その社会が依然として相互に戦う習慣を持っている時代に、原子力兵器が発明され、それを一つ以上の国が手にいれたのである
 
合衆国ならびにソヴィエト連邦による原子力兵器の入手から発生する先例のない情勢は、国民ならびに政府の精神と想像力を強く動かしたようにおもわれる。
                    ▼
 1946年から1961年にかけて、過去に於いて戦争に発展したに違いないと思われる多くの国際的な事件や危機が平和を破ることなく克服された。
 そして朝鮮とヴェトナムに燃え上がった局地戦は、交渉によってどちらの側にも不満足な条件で停止された。このことは、原子力戦争の脅威の下で、政府も国民も敵国との外交関係の遂行に於いてより慎重になり、不慣れな自己抑制をおこなうように訓練されたことを示している。そして今度はこのことが、「共存」の継続をより可能性のあるものにした。両方の側が単なる共存を、二つの悪のうちの比較的小さい悪として不機嫌ながら受け入れたことは軽蔑してはならない恩恵であった。それは少なくとも一時的な猶予を人類に与えることを約束した
 
○以上の考察は、合衆国とソヴィエト連邦によってそれぞれ支配される二つの勢力圏の共存状態を、両者が不本意ながら認めることは良いことであるということを示している。しかしこれは、人類が満足することができる状態ではなかった。それは一時的な猶予でしかなく、しかもあてにならない猶予であった。政府と国民が原子力戦争を始める希望もしくは意図を持っていなかったとしても、戦争の偶発の可能性はあった(たとえば、下級将校が命令を誤解し、もしくは冷静さを失って偶発戦争を引き起こす可能性)。
また原子力兵器の製造がますます容易且つ安価になるにつれてそして多くの国が次から次へと少なくとも少数の原子力兵器を備えることに成功するにつれて、原子力兵器の発射が無責任な犯罪者や狂人によっておこなわれる可能性があった。それ故、国際的な協約による積極的な措置が絶対的に必要であった。
                        ↓
○必要な第一歩は、例外なしにすべての国が新しい原子力兵器のこれ以上の実験を止めることであった。
                       ▼
 このために当然必要なことは、すべての国にこの自己否定的な命令を忠実に履行させるために、査察を含む有効な国際管理の方式を確立すること
あった。                 
                       ▼
 次の措置は、合衆国とソヴィエト連邦以外のいかなる国も原子力兵器を所有しないという――これまた履行を確実にするための有効な取り決めを伴う ――協約であろう。                     ▼
 その次の措置は、ソヴィエト連邦と合衆国事態も原子力保有クラブに加わることであろう。
                        ↓
○そうした一連の国際的な協約は、原子力戦争(核戦争)の危険を払いのけるかもしれない。しかし人類の福祉のために原子力の利用を規制するという問題が依然として残るであろう。       
                       ▼
 軍事的な分野で何がおこるにせよ、或いは起こらないにせよ、建設的平和的な目的のための原子力の利用が急速に増大することは確実であるように思われた。                 
                       ▼      
 しかしこの利益は代償を伴う。原子の分裂から生まれるものは善のためにも悪のためにも強力であるばかりではなく、どのような目的に利用されよとも有毒であった。原子エネルギーの開発が解き放った毒からこの遊星上の生命体が汚染されるのを防止するためには、入念な高価な予防措置が必要であった。           
                       ▼
 そしてこの潜在的な脅威が、原子力の平和利用を既成するための、世界的な管轄権を持つ国際的な権威の樹立を要求したのである。
                       ▼
 そのような取り決めが実施されるとき、それを実施する権威もしくはそうした権威を持つ機関の集合組織は、実際のところ人類の最も緊急な共通問題を処理する権限を与えられる世界政府であろう。
                       ↓
○過去の世界国家の政府と違って、この世界政府は、仮説によって、力ずくで押しつけられるのではなく、同意によって樹立されるであろう。しかしそれでもそれは世界政府なのである。原子力時代には、究極的な大量殺戮に代わる唯一の可能な方法は、少なくともこの相互の同意による世界政府であるということに意見が一致するならばこの結論は重大な問題を提起するであろう。
○物理的自然に対する支配力の突然の、不吉な増大に内在する致命的な可能性から、人類が自らを救うために突然必要になった革命的な新しい制度を創造する力を、人類は紀元二十世紀の後半に所有していたであろうか
 
城川コメント:二十世紀最終盤でソ連ゴルバチョフによるグラスノスチペレストロイカ、それに続く奇跡とも思われる冷戦の終結ソ連邦の解体、ロシアの復活、アメリカとの核兵器削減の取り組み、トインビー博士がご存命なら何と思われコメントされたであろうか。また、この趣旨を世界的な宗教運動として展開され、毎年のSGI提言として具体的提言をつづけらている池田大作先生。トインビー博士との対談「21世紀への対話ゴルバチョフ氏との対談「20世紀の精神の教訓」を含めて世界の知者よ刮目せよと、声を大にして叫びたい〕
                     ↓
○必要とされる力は二種類――知的な力と道徳的な力――であった。そして現代の人類は必要な知的な力を全に十分にもっているのであった。
 人間の知力は、人類の共同作業を組織する社会的技術を、その補助になる交通の物的手段に必要な物理的技術を提供して、世界政府の実現を可能にした
                     ↓
○道徳的な力は限定的な要因であった。したがってこれが要点であった。個人間の協調を作りだすために要求される少量の善意が個人の魂のなかになければ、最も小さな規模の協力でさえ不可能であろう。こうして、人類の道徳的な力が十分であるか不十分であるかということが、今や人間の手に入った大きな新しい物質的な力が、善のために用いられるか悪のために用いられるかを決定するであろ
                        ↓
○この問題は、一般的に人類共通の人間性に関して問われなければならなかった。しかし二十世紀の状況のなかでは、西欧文明によって人間性に誘発された習慣と物の見方に関して特に問われなければならなかった。この文明は過去五千年の間に人間が作り出した多くの文明の一つにあるにすぎないということは事実であった。精神的な面では、西欧文明はこれまでのところ人類の少数者によって採用されたにすぎない。そして1683年のオスマンリの第二次ヴィエンナ包囲の失敗以来、西欧が享受してきた他の世界に対する技術的軍事的政治的経済的優位を、西欧は1917年のロシアに於ける共産主義革命以来
急速に失いつつあった。1961年までに、西欧の嘗ての優位は明らかに過ぎつつあった。しかしそれまでの二百五十年間に西欧のこの一時的な優位は他の世界の上に刻印を押した。そしてこの刻印は、西欧の優位が消滅した後も長く残るように思われたのである
                    ↓
○西欧はその短い支配期に技術面で世界を統一した。そしてその統一の過程はこの面に限られるものではなかった。何故なら、技術は軍事的技術を含んでおり、この軍事的技術は今や原子力兵器を作り出したからである。技術を発明することは困難なように見えるが、これを模倣によって発明者から習得することは比較的容易である。技術の優越に基づく優位は、それ故消耗資産である。西欧の優位が退潮しつつある理由は、ロシア人に始まるが、決してロシア人に終わらない非西欧諸民族が西欧起源の武器や他の道具の利用と習得に於いて西欧に劣らなくなったからであった
                    ↓
○しかし非西欧民族が利用してきた西欧文明の要素は西欧の技術だけではなかった。彼らの大部分は、西欧の科学を修得することなしには西欧の技術を習得することはできないことを悟った。    
                    ▼
 しかし西欧化をめざす人々は、西欧からの借用を、西欧科学とその実際的応用に限らなかった。
                    ▼
 彼らのなかには、西欧のイデオロギーに改宗した者もいた。インド人が採用した議会イデオロギーならびに、ロシア人と中国人が採用した共産主義イデオロギーはイギリスで作られた(カール・マルクス共産主義を製造した工房は、大英博物館であった)。議会主義と共産主義は政治制度である。
 しかし、それはまたそれ以上のものでもある。西欧の技術が西欧の科学を含んでいると同様に、西欧の政治制度は西欧の道徳的理想――相争う制度のなかに反映される相争う理想――を暗に含んでいるイデオロギーと理想は、その歴史を或る程度考慮することなしには理解することも評価することもできないのである。それ故、二十世紀に於いて全体としての世界の前途を評価するためには、西欧の精神史を考慮しなければならないのである
 
○西欧社会は、二十世紀の中頃までに、先行するヘレニック文明の瓦解に続く社会的文化的空白期から出現して以来、多くの異なる面に於ける多くの革命を経てきた。これらの相次ぐすべての西欧革命のうちで、今日までのところおそらく最も決定的で最も意義深いものは、17世紀末の精神的革命(注1である。ともかくこれは、二十世紀に於いて西欧そのものだけでなくその他の世界に最も継続的影響を及ぼしている革命である。
                    ▼
 17世紀の革命は西欧文明に新しい形と、そしてとりわけ新しい精神を与えた。それが史上初めて非西欧文明の後継者に、先祖伝来の遺産の代わりに進んで西欧文明を抱懐させたのであった。こうして17世紀の西欧の革命は、世界的な重要性を持つ文化的発展、すなわち世界の西欧化に道を開いたのであった。
                    ▼
 そして今度はこの発展が、17世紀以後の西欧文明を全人類共同の文明に変形させる道を開いたのである。来たるべきこの世界(オイクメニカル)文明は西欧に起源を持つものであるために、必然的に西欧の枠のなかで、そして西欧の基礎に基づいてその生涯を開始するであろう。そして当初のこの西欧の貢献は将来長く重要であり続けるように思われた。
                    ↓
○しかしながらまた、時間の経過とともに世界(オイクメニカル)文明以前の他の諸文明がなした貢献も、ますます重要になるように思われた(注2)。
                    ▼
西欧に発したこの世界(オイクメニカル)文明は、それに先立つすべての文明のすべての遺産の最良のものをやがて利用し同化し調和するであろうと期待することができるかもしれない(注3)。
                       
(注1)近代世界は15世紀のポルトガルとスペインではなくて、17世紀のオランダとイギリスに始まったと言う点で私はH・コーンと同意見である。(ならびに17世紀のフランスに始まったと私は付言したい)。さらにコーンは、この17世紀の精神的革命は、それまでの西欧キリスト教文明がヘレニック文明に対して持っていたと同じ関係を西欧キリスト教文明に対して持つ新しい文明の興起であるとさえ言っている。私はむしろ、それは西欧史に新しい一章を開いたものであり、世界(オイクメニカル)文明の究極の興起の道を用意したと言いたい
(注2)「近代西欧文明の地表上への伝搬は.....この文明を圧倒し、この文明を凌駕する新しい思想と信仰の体系を生み出す可能性をはらんでいる
   (B.Prakash in The Modern Review, November, 1953, p402
(注3)クリストファー・ドーソンは過去の諸文明のなかに、未来の世界(オイクメニカル)的社会を建設するためのモデルをみている。(The Dynamics of World History, p44
 
○そのような広汎な積極的な効果を生み出すことになる17世紀の西欧の革命は、否定的な運動として始まった。それはカトリックと新教の宗教戦争の邪悪、破壊性、愚かさに対する、そして政治的対立を軍事的な焔に煽り立てていたこの戦争に伴う神学論争の不毛性と不確実性に対する精神的反動として起こったのであった。                 
                   ▼
 17世紀の革命の父たちは、18世紀にその後を継いだ一部の人たちとは違って反宗教的ではなかった。それどころか、彼らの目的の一つは、宗教が完全に信用を失墜して捨てられるのを防ぐことであった。彼らは非宗教的な目的のために宗教が濫用されることを阻止することによって宗教を救おうとした。
                   ▼
 したがって彼らは宗教的寛容を擁護し、この目的への手段の一つとして、有害な神学論争から無害な科学研究へ、そして技術改善という実際的な目的のために科学上の発見を応用することへ人々の関心を引きつけることに努めたのであった。
 
○17世紀の西欧の革命が元来否定的であったことを私が強調しているのに対して、ハンス・コーンはその革命が発展させた美徳の積極性を強調している。この点について私はコーンと同意見である。私はこの革命の積極的な一面をもっと正当に評価すべきであった。コーンの批判に照らして今私は修正しよう
 寛容は良心の自由を意味し、良心の自由に対する新しい尊敬の念は人間の権利と権威に対する尊敬の念を意味した。それに伴って社会的責任、社会正義、人道的感情の新しい標準が生まれた。人みな同胞であるというこの新しい理想の立派な記念碑は奴隷売買と奴隷制そのものの廃止でああり、貧しく弱い者たちに対する保護の立法化であった。そして貧しく弱い者たちに対する保護の立法化は、やがて「福祉国家」に於いて形を整えるのである
                    ▼
 このことは、文明の恩恵をより広く普及させるという慈善的な積極的効果を生み、それはまた技術の進歩から生まれる富の増加によって実際に可能になったのであった。                  
                    ↓
○さらに、この成功には精神的原因だけでなく知的原因もあった。知的には、西欧の技術の進歩は科学を技術に応用したためであった。神学に対する崇拝からの転換として否定的に出発した近代西欧の科学の開拓は、強い好奇心と新しい批判的研究の精神を生んだ
                    ▼
 文芸復興も宗教革命も、西欧人の精神を外的権威に対する中世的な屈従から解放してはいなかった。文芸復興はキリスト教の知的権威を廃棄して、その代わりにギリシャ語とラテン語の古典を権威の座に据えた。宗教改革カトリック教会の権威に代えるに、聖書のテキストの知的権威と地方的世俗的な政府の権威をもってした(支配者が宗教を決定する)。おそらく17世紀の西欧の革命の最も基本的革命的な特色は、今や初めて西欧人の精神が敢えて意識的意図的に独力で考えるようになったことであった。古代人と近代人の戦いに於いて、西欧人はヘレニズムの文化的遺産から独立したことを宣言した
のである。そして今度は彼らは先祖が文芸復興の時におこなったように、一つの精神的隷属を他の隷属と取り換えるようなことはしなかった。
○私が「近代西欧の新しさ、偉大さ、独創性を過小評価しており」(コーン)、これは私が「18世紀の啓蒙主義と19世紀の自由主義からわれわれの近代世界が相続した世俗的な理想に対する共感」(F.H.Underhill in The Canadian Historical Review,vol.32, No.3, pp201-19, 私はこの共感を欠いているために「われわれの文明の力と弱さを正しく分析すること」ができないとアンダーヒルは主張している。)を欠いているからであると
いうことも事実かもしれない。また私は常に西欧を本来の場所に押し込めようと無駄な骨折りをしているとコーンは考えているが、それも事実かもしれない。コーンは西欧はすでにその傲慢を治療したと主張している。疑いもなく私は自分が「利我主義(nosism)という陰険な悪徳に屈服する危険に対して常に警戒してきた。疑いもなくこのために私は「後方に片寄る」傾向がある。私は15世紀のイタリアのギリシャ語とラテン語の古典教育影響によって、さらにこの方向へ引き寄せられている。何故なら、このために、私の頭とは言わないまでも私の心は書物合戦で「古代人」の味方をしているからである。それ故、私が西欧を不当に軽蔑しているというコーンやガイルの批難も或る程度当たっているかもしれない。
 私は彼らの批判を肝に銘じたほうがよいであろう。同時にまた私は、彼らの傾向は私の傾向とは正反対であるのだから、彼らもまた西欧に対する態度に於いておそらくあまりにも片寄っているのではないかと敢えて彼らに示唆するものである
                  ↓
○いまや17世紀西欧の革命以来経過した二百五十年間の間に、近代西欧は明るい面だけでなく暗い面も示したということ、またわれわれの時代に於いてこの暗い面は中世或いは宗教戦争の時代の西欧史のページの最も暗い面も示したということ、またわれわれの時代に於いてこの暗い面は中世或いは宗教戦争の時代の西欧史のページの最も暗い汚点よりもさらに暗いという事実をコーンとガイルは直視しようとしないように私には思われるのである。
                  ▼
 近代西欧の技術は、人類全体に文明の恩恵をもたらす力と共に、今や人類を抹殺する力をも獲得したのである。18世紀には戦争は職業軍人に限られ、しかも同意に基づく規則に従っておこなわれる争いになっていた。ところがその戦争が非戦闘員に対する無差別攻撃にまで堕落することによって人道的な感情の発達は帳消しにされてしまった。                
                  ▼
 人権と人間の権威に対する認識の前進は西欧社会がこれまでに生み出した最も悪質の圧政の押しつけによって帳消しにされてしまった。事実、過去250年間の西欧文明の歴史は、「歴史の進歩の主要な結果は功業と災厄の可能性を高めることである」というシンの示唆を裏付けているのである。
                  ↓
○ドイツのナチ運動は西欧の借り方に記入すべきではないとガイルは主張している。同様にコーンも、ファシズム共産主義は近代西欧文明の産物ではないと主張している。それらは近代西欧文明の拒否であり、中世への回帰であると言うのである。これは確かに苦痛ではあるが否定できない事実を直視することを拒むことである。コーンやガイルや私のような近代西欧の自由主義者リベラリスト)にとって、このように忌まわしいこれらのイデオロギーが、われわれの自由主義(リベラズム)と同じく近代西欧文明の産物でないとするならば、それは一体どこから生まれたのであろうか。
                  ▼
 それはロシア、インド、中国、イスラム世界や、もはや最も暗黒であるとはいえないアフリカのような大陸から来たものではないのである。ヒトラーズデーテン地方の人間であり、ムッソリーニはロマニア〔イタリア北東部〕の人間であった。マルクスエンゲルスはイギリスに定住して、そこでライフ・ワークを完成したラインランドの人間であった。ロシア人と中国人は決して独力で共産主義を発明することはなかったであろう。彼らが今日共産主義体制の下に生活している理由は、共産主義が西欧で発明されて、非西欧人が引き継ぐように既成の形でそこにあったからである。
                  ▼
 さらに近代のイデオロギーは、その最も特徴的な最も忌まわしい特色の幾つかに於いて、まぎれもなく近代西欧の刻印を帯びている。たとえば、その冷血性と強力な組織である。しかしながら、それは冷血性と狂信性をロベスピエール風に結びつけている。この矛盾した組み合わせの第二の要素は、17世紀西欧の革命以前の西欧史の時代の精神への回帰であると考えることがおそらく正しいであろう
 
○この点でコーンが正しければ、近代の西欧文明は、或る不完全さもしくは不十分さ、もしくは弱さを持っているに違いないのであり、これらの欠陥が、近代が一時的に抑圧し、乗り越えていた前時代の悪徳に向かう反動をついに生み出したということになるのである。そして、このことは、サンバーグが西欧の救済の希望を見出している17世紀と18世紀の「啓蒙主義」の復活だけでは十分でないことを意味する。実のところ、西欧文明の近代期が17世紀末に始まって以来常に消極的であった重大な点が一つある。それは宗教に対する態度である。
                  ▼
 17世紀の西欧の精神的革命の積極的な収穫であった自由主義人道主義は、その精神の力をキリスト教の倫理価値体系から得ていた。しかし「自由主義が衰退して、もはや世界を統一する力を持たなくなった今、近代世界のコスモポリタン的な文化は、霊魂を持たない肉体のようなものになった。....拡大したものは、第一に西欧の政治的経済的な力であり、第二に西欧の技術と科学であり、第三に西欧の政治制度と社会的理想
である。キリスト教も拡大しているが、その程度ははるかに小さい」(クリストファー・ドーソン The Dynamics of World History p408)
○なるほど宗教の分野に於いてさえ、西欧文明の近代期の業績は立派なものである。キリスト教の公的な教義は、教育のある西欧人の少数者の知的忠順を次第に失い、そうした少数者の数がますます増加しているこの近代に於いて、西欧人はキリスト教的な道徳的行為の規範にこのように近づいたことはこれまでにないと言ってもよいのである。(注1キリスト教のなかに潜在している社会動力論は西欧に於いてはアッシジの聖フランチェスコの時代以後はっきり現れ始めたとクリストファー・ドーソンは言っているが、私はこれに異論を唱えるわけではない。その始まりの時期を聖ベネディクトの頃
まで遡らせて、聖ベネディクトが昔ながらの田園的な生活様式のためにしたことを、聖フランチェスコは西欧の新しい都市生活様式のためにしたのだとも言えよう。しかし17世紀の西欧の精神的革命に続く世俗的な時代ほど、キリスト教の持つ社会的な含蓄が西欧に於いて広く認識され、本当に実践されたことはなかったことも事実であると私は思う。
 
○科学的発見の高まる強風は、伝統的宗教の籾殻を吹き飛ばしてしまった。そしてこのことによって、それは人類に役立ったのである。しかし風があまりにも強かったので、殻と共に穀粒をも吹き飛ばしてしまったのである。そして、このことは害になった。何故なら、科学もイデオロギー宗教に 代わるべきそれ自身の穀粒を持っていないからである。科学とイデオロギーの視野は高等宗教の視野とは異なり、宇宙の限界(限界があるとして)にはるかに及ばないこの地平線の彼方にあるものが、この神秘的な恐るべき宇宙の中核、すなわち人間にとって最も重要な部分なのである
                   ▼
 科学の地平線は自然の限界によって限られている。イデオロギーの地平線は人間の社会生活の限界によって限られている。しかし人間の霊魂の到達し得る範囲はこのような二つの限界のいずれにも限られないのである。人間はパン(と米)を食べて生きる社会的動物である。しかしまたそれ以上のものでもある。彼は自らを意識する知性と共に良心と意志を授かっている人格である。この精神的資質を授かっているいるために、彼はじぶんが生まれてきた宇宙と彼自身を調和させるために生涯努力する運命を担っている。彼のうまれながらの本能は、宇宙を自分の周りに回転させようとすることである。人生に於ける彼の精神的な仕事は、現象界のあらゆるものの真の中心である絶対的な精神的実在と調和するために自己中心性を克服することであるこの「唯一なるものの唯一なるものへの飛翔」が、人間の努力の目標なのであるこの目標に到達しようとする彼の願望が、妨碍(ぼうがい)物である自己中心性の障壁を突破するに十分な力を持つ唯一の動機である
                         
○なるほど宗教の分野に於いてさえ、西欧文明の近代期の業績は立派なものである。キリスト教の公的な教義は、教育のある西欧人の少数者の知的忠順を次第に失い、そうした少数者の数がますます増加しているこの近代において、西欧人はキリスト教的な道徳的行為の規範にこのように近づいたことはこれまでにないと言っても良いのである(注1)〔キリスト教のなかに潜在している社会動力論は西欧に於いてはアッシジのフランチェスコの時代以後はっきり現れ始めたとクリストファー・ドーソンは言っているが、私はこれに異論を唱えるわけではない。その始まりの時期を聖ベネディクトの頃まで遡らせて、聖ベネディクトが昔ながらの田園的な生活様式のためにしたことを、聖フランチェスコは西欧の新しい都市生活様式のためにしたのだとも言えよう。しかし17世紀の西欧の精神的革命に続く世俗的な時代ほど、キリスト教の持つ社会的な含蓄が西欧に於いて広く認識され、本当に実践されたことはなかったことも事実であると私は思う
 
○しかしながら、二百五十年にわたる宗教的寛容も、所詮は、宗教戦争によって招いた道徳的不信から西欧伝来の宗教を立て直す役には立たないのである。そしてこの道徳的不信の浸蝕的な影響は、科学的な物の見方の勝利がもららした知的懐疑主義によって強められた。キリスト教の教義や他の現存する高等宗教の教義は、その伝統的な形では宇宙の本質に関する科学的な見方とは相容れない。この伝統的な形ではこれらの宗教は以前のように人々の心と頭を再び捉えることはできないように思われる。そして、このことが可能であるとしても、それは確かに望ましいことではない(注2)私は伝統的
 形の宗教へ戻ることを予期してもいないし望んでもいないとコーンは指摘している
 
科学的発見の高まる強風は、伝統的宗教の籾殻を吹き飛ばしてしまった。そしてそのことによって、それは人類に役立ったのである。しかし風があまりにも強かったので、殻とともに穀粒をも吹き飛ばしてしまったのである。そして、このことは害になった。何故なら、科学もイデオロギーも、宗教に代わるべきそれ自身の穀粒を持っていないからである。科学とイデオロギーの視野は高等宗教の視野とは異なり、宇宙の限界(限界があるとして)にはるかに及ばない。この限られた地平線の彼方にあるものが、この神秘的な恐るべき宇宙の中核、すなわち人間にとって最も重要な部分なのである
                  ▼
 科学の地平線は自然の限界によって限られている。イデオロギーの地平線は人間の社会生活の限界によって限られている。しかし人間の霊魂の到達し得る範囲はこのような二つの限界のいずれにも限られないのである。人間はパン(と米)を食べて生きる社会的動物である。しかしまたそれ以上のものでもある。彼は自らを意識する知性と共に良心と意志を授かっている人格である。この精神的資質を授かっているために、彼は自分が生まれてきた宇宙と彼自身を調和させるために生涯努力する運命を担っている彼の生まれながらの本能は、宇宙を自分の周りに回転させようとすることである。人生に於ける彼の精神的な仕事は、現象界のあらゆるものの真の中心である絶対的な精神的実在と調和するために自己中心性を克服することである
 
○この「唯一なるものの唯一なるものへの飛翔(注1)〔プロティノス「エンネアデス」第四巻第九章第十一節が人間の努力の目標なのである。この
 目標に到達しようとする彼の願望が、妨碍物である自己中心性の障壁を突破するに十分な力を持つ唯一の動機である。この精神の重要な問題について、科学もイデオロギーも語るべき言葉を持たないのである(注2)〔キリスト教がヘレニック史に於いて演じた役割を共産主義が西欧史に於いて演じることはないであろうと私が考えるのはこの理由によるのであって、私の歴史哲学の論理的結果を避けているからではない。【B.Prakash in  The Modern Review ,November,1953,p402参照】〕
                           ↓
このことは、歴史的な高等宗教の保管者たちがその宗教の命ずるところをどんなに甚だしく濫用したにせよ、その命令そのものは失われていないことを意味するのである。歴史的な高等宗教が与え得るよりも効果的な精神的援助を人間の霊魂に与える新しい生き方を人類が与えられるのでなければそしてそれが与えられるまではその命令は失われ得ないのである
                  ▼
 西欧文明が現在衰退に向かっており、そしてこれを救うものは宗教への回帰であるということをコーンは認めたがらない。これについて私は、コーンが拒否するこの二つの命題は相互に依存するものではないと言いたい。西欧文明はわれわれの時代に衰退しつつあるのかもしれないし、そうでないかも しれない。現代の西欧人は自らの文明の前途を分析する立場にいないのである。しかしこの特定の文明の現在の見込みがどのようなものであるにせよ、宗教の本質が失われているとするならば、それを回復することは、いかなる時代、いかなる社会的状況に於いても必要なのである。それが必要とされるのは、人間はそれなしには生きることができないからである
                           ↓
その本質を回復するためには、われわれはそれを識別し、非本質的な添加物から切り離さなければならない。これはわれわれがわれわれ自身の危険にいて企てる仕事である。それはまたそうだからと言って回避することができない仕事でもある。それを回避することは、疑いもなくそれをそれを果たそうと企てるよりも危険な道である。この本質を識別する仕事は、一挙に永久的に完成することは決してできない。各世代がそれ自身のためにこの企てを繰り返さなければならないのである         ▼
 人間が永久に続けなければならないこの仕事に現在手をつけるにあたって、われわれは近代科学に或る程度の光を見出すことができる。しかしこの微光は微かなものであり、われわれを誤らせるかもしれない。先人と同じくわれわれは薄明のなかで働かなければならないのである。われわれの模索が、ニルヴァーナへの仏陀の道や唯一の真実なる神についての第二イザヤの洞察にわれわれを導くならば、われわれは幸運であろう
                  ↓
自己中心性との闘争および神との調和に対する探求は、人間の霊魂と神との間の問題である。神と人間とのこのような個人的な出会いが宗教の真の関心事である。そして宗教を世俗社会の目的に利用することはそれ自体無害で便利であるにせよ、宗教をそのような目的に利用することは宗教の誤用である。
 とは言うものの、人類の集団的な歴史は、個々の人間に対してなされる精神的要求と関係がある。行為は正しいにせよ間違っているにせよ、個人の行為であり、社会環境がどう変わろうと、正邪は常に不変であり続ける。しかし人間の歴史が始まって以来一つの不変の方向に絶えず進んできたようにわれる一つの社会的変化は、人間の集団的な力の累積的増加である。このことは、正しいことをなすにせよ、間違ったことをなすにせよ、その結果の大きさを、累積的に増大させる。そして正しいこと、もしくは間違ったことをなすことは、行為者以外の人々に影響を及ぼすのであるから、この社会的変化は個々の人間が背負う道徳的責任を増大させる。       
                   ▼
 彼の行動の結果が大きければ大きいほど、正しく行動することがますます強く要求されるのである。原子エネルギーの開発によって人類の集団的な力が良くも悪しくも突然千倍も増加した時代にあっては、普通の人間に要求される行動の規範は、過去に於いてごく少数の聖者たちが達した規範よりも低いものではあり得ないのである
 
原子力時代に於いては、単なる便法を冷静に考察する時、行動の規範の困難な向上が要求される。われわれが指摘したように、国民も政府もこのことに気づいた。そして彼らがこのことを意識していることは、戦後の世界http://ckantan.jp/dm/mob/dm_comfirm.jsp?cmcd=4100072559&cid=1811030049499689&epr1=0000012893地方国家群のうちで原子力兵器を手に入れた国が一つではなくなった時以来国際関係を処理するにあたって賢明さと自制心が増したことのなかに反映された。自己保存の代価は共存を互いに認めることであるということが認識された。そして自己保存への関心は非常に強かったので、原子力兵器で魔まま無三間武装して相互に敵対している諸国民は、しぶしぶながらこの代価を払う気になったのであった。
                 ▼
 しかし、便法の打算は災厄の日を送らせることができるにすぎないのである。人類が1945~9年という不吉な年に先立って、旧石器時代以来享受してきた存続の確実性を回復するためには、相互の愛という積極的な絆が、相互の恐怖が提供する消極的な抑止力に取って代わらなければならないだろう。或る批評家は、私が次のように主張していると正しくも報告している。
                 ▼
 「神的な必要に照らして、自由に結んだ盟約に於ける人間の意志の調和を通じて初めて、平和は人間の間に広まることができる」。実にこれこそ私の信念である。しかしもちろんそれは私の発見ではない。それは賢者や預言者たちの黄金の連鎖によってわれわれの時代に伝えられた託宣である。
 
ボエティウスの『哲学の慰め』のなかには、そのことを述べた古典的な一節がある。この書は、嘗てローマ帝国の西部であった地方に於けるヘレニズムの伝統の最後の保存者の一人の最後の遺言である。
                   ▼
……愛は天と地と海を支配し、それらをこの道に結ぶ。
ひと度愛がその手綱を放す時、それらの友情は戦いに代わり、
世界をさく。――静かな動きによってこそ世の秩序ある形を保とうものを。
愛によりすべての聖なる掟は作られ、婚姻の絆は結ばれ、 
愛によりまことある友情は結ばれる。天体を導くかの浄らなる愛に
心導かれる人こそ幸せならんものを。  

トインビー博士の文明の定義 再考察p508~p512

 この近代西欧の言葉は混成語である。それはラテン語の形容詞の語幹〔civil〕とフランス語の動詞接尾語〔1ze〕とラテン語の抽象名詞語尾〔tion〕―― 静的な状態ではなくて以前として進行中の過程を示す語尾――から成り立っている。この言葉を文字通りに解釈すると、ギリシャ・ローマ(私の用語ではヘレニック世界)の都市国家の市民たちによって達成されたような種類の文化を達成しようとする試みという意味になるはずである。実際、「文明」という言葉の文字通りの意味は、ヘレニック社会の歴史およびその社会とそれ以外の隣接社会との関係の歴史に於いて非常に重要な役割を演じたヘレニック化の過程を正確に描くものであろう。これはたとえば黒海沿岸のカッパドキアの農民の住民が、ポンペイウスによって経験させられた過程であった。ポンペイウスはこの王国をローマ領に併合した後、農村地域を数少ないヘレニック都市国家のどれかに所属させたのであった。
 実のところ、civilization という言葉はラテン語には持ち込まれなかった。それは近代フランス人の造語で、ジョンソン博士はこの言葉を彼の英語辞書に入れることを肯んじなかった。それ以来この疑似ラテン語、もしくはその同義語は、特定の時代に存在した文化の特定の種類もしくは一面という意味で、近代のすべたの国語に於いて使われるようになっている。現在の知識の段階では、文明時代はおよそ五千年前に始まったように思われる。しかし今これを書いているのは1959年1月である。そして現在では考古学の進歩は非常に急速なので、1959年が終わるまでにこの五千年という数字をもっと大きくしなければならない――しかも非常に大きくしなければならない――かもしれないのである。たとえば、エリコの遺跡の発掘をもう数ヶ月続ければ、文明時代の始まりはこれより数千年も前であったということになるかもしれないのである。
 文明を文化の一つの種類もしくは一つの局面として描き、文明が初めて出現した年代について論ずることは、文明の定義にすでに到達していることを暗に意味するすのかもしれない。私自身は、この言葉の用法をはっきり定義することなしにこの観念を扱っているというので批判されている。確かに私は本書第一巻で、文明と文化の文明以前の段階との差異に存する特色を確認することができるかどうかという問いを提起した。そしてその差異は制度や分業や社会的ミメシスがあるかないかという点にあるのではないと私は結論した。このような特色はあらゆる時期の人間社会の文化に共通していることを私は見出した。私は現存する文明以前の社会の現在の生活に於いて、ミメシスは先祖に向けられているが、現在文明の過程にある社会の現在の生活に於いては、ミメシスは未来の目標に向かう途上の指導者である創造的な人格に向けられていると指摘した。観察し得る現在のこの際も、私が求めている定義を提供するものではないことを私は認めた。現存する文明以前の社会は、今は静止しているが嘗ては動いていたに違いない。他方、現存する文明が常に動き続けるであろうときめてかかるべき根拠があるわけではなかった。実際、文明のなかには、現存する文明以前の種類の社会のように、すでに静的な状態に陥ってしまったものもあった。ここに於いて私は単数の形の文明の観念に対する定義を求めることを中断して、その代わりに複数形の文明 civilizaions の歴史の律動の研究にとりかかった。この探求は、本書の初めの十巻の残りの大部分を占めた。これはより有望な手続きであったと私は思う。一つの定義が当てはまる現象を調べ上げる前に定義を提出することは、予備的な研究を無駄にする危険に自分をさらすことである。今や批評家たちの挑戦に応ずる時である。しかし私はまず、他の研究者によって提出されている文明に関するいくつかの定義を報告しよう。
 たとえば、A.H.ハンソンは、文明以前の文化の文明への変貌の決定的な要因であったと彼が考える多くの変化を持ち出している。新しい技術の発見、分業の開始、経済的不平等の出現、社会の階級への分化、これらの新しい現象と原始的部族構造との対立、この対立を超克する手段としての国家の出現を彼は挙げている。R.J.ブレイドウッドは、八つの基準の組み合わせを提案している。すなわち十分に能率的な生産、都市化、正式に組織された国家、正式な法律(新しい道徳秩序の感覚を暗に意味する)、正式な公の計画と事業、社会的階級と階級制度、読み書きの能力、記念碑的芸術品の組み合わせである。パグビーは文化を文明と定義するための提案されているいくつかの基準を論評して、人口の大きさ、高度の分業という意味での複雑さ、読み書きの能力とを除外している。この三つのうちの最初の二つの基準は、恣意的な線を引くことを要求すると彼は正しくも論じている。読み書きの能力とい提案されている基準を論じて、かれは普通は文明として認めれている少なくとも一つの文化、すなわちアンデス文化は、読み書きのすべてを知らず、これに反して現存する社会のなかには文字を有してはいるが、他の点では前近代的な社会があると指摘している。さらに、インカ人は文字以外のものによる記録法である結び縄文字〔縄の種類・結び方・色などの配列で意味を表示した〕を持っていた。
 次のことをつけ加えてもよかろう。すなわち、読み書きの能力を持つ少なくとも一つの社会――西欧社会――も、右と同様に文字を使わないで記録する方法を広く用いた。それはイギリス王国の行政史の中世の時代に大蔵省で用いた割り符である。また多くの文明以前の社会や、一部に文明の過程にある社会は具象的な記録法――文字、絵画、刻印された印し、結んだ紐、刻み目をいれた棒、等々――を持たないで、人間の暗記力に頼った。暗記力の使用が視覚的な記憶術によって不必要にならない時、暗記力は視覚的な種類の記録に依存することに慣れている人々には異常に見えるような離れ業をおこなうことができるのである。アラビアやポリネシアの氏族の長い系譜や、ヒンズー教の膨大な経典は、何世紀にもわたって暗記によって保存され伝えられたのである。そしてイスラム世界ではハーフィズ――コーランを暗記している人という意味である――はまだよく見かける存在である。ついに文字を手に入れた嘗て読み書きのすべを知らなかった社会には、散文的な商用文書以外のものを記録するの文字を使うことを非常に嫌がる傾向がよく見られる。宗教的ならびに世俗的な律法や詩は、伝承の伝統的保管者がそれを文字に写す手段を手に入れて久しい後まで、口頭で伝えられることが時々あったのである。
 われわれは「文明」という言葉の語源から手掛かりを把むべきであり、文明を「都市に見出される種類の文化」と定義すべきであるとバグビーは提案している。そして彼は「都市」を「その住民の多く(或いはもっと正確に言うと大多数)が食料生産に従事していない住居集団」と定義することを提案している。ルイス・マンフォードの最も輝かしい研究は、文明の発達と都市生活の発達の間の関係の研究であるが、そのマンフォードは、都市が歴史に於いて演じた役割を私が無視していると批難している。この批難は多分正しいであろう。都市の役割に重要性を与えている点で、バグビーの勘は当たっているように思われる。農村生活から都市生活への変化の結果の位置基準からすれば小さい都市――でさえ、そこに定住するために家郷と職業を捨てた人々の生活と物の見方に革命的な影響を与えたであろう。この移住は、数時間或いは数分間の歩行にすぎなかったかもしれない。しかしその移住は、敢えてそれをおこなった人々を、はるか昔からの社会的文化的環境からきりはなしたであろう。彼らは他の村や他の部族から移住してきた人々と交わり、また生計の資を得るために農業以外の新しい方法を習得しなければならなかったであろう。この根こぎの過程は、心理的社会的変革を容易にしたであろう。この変革こそ私の示唆が正しいとするならば、文明以前の文化の段階から文明への事実上の移行を画するものである。この変革が与える状況の下で、変化しつつある社会に参加している人々の大多数は、先祖に向けられていたミメシスを、未来の新しい目標を志向している生ける指導者に向けるようになったであろう
 バグビーの指摘するところによると、農業共同社会はあらゆる文明の必要な一部ではあるが、「その生活は、文化的に都市に依存するようになったという事実によって、大きな変化を受けた」。今日われわれは、食糧生産者が世界の人口の少数者――しかもごく少数者――にすぎなくなるまでにその数を減少し、その上彼らが精神的な都会人なる状態に急速に近づきつつある。しかも最も初期の最も小さい都市でさえ、当時まだ圧倒的多数を占めていた農業人口に、強力な変貌作用を持つ影響力を及ぼしたに違いない。シュメル世界とヘレニック世界に於いて、また西欧世界に於いても現在西欧に見られる町と田舎の対照は、最近まではなかったのであり、町の住民は都市での工芸に十時するだけでなく、田畑でも――少なくとも収穫期には――働いたとH・フランクフォートは指摘している。しかし、このことはバグビーの論点を無効にするものではない。フランクフォート自身も指摘しているように、ヘレニック世界や中世西欧(とりわけ中世イタリア)の都市に於けると同じく、シュメル・アッカドの都市においても、「都市の物理的存在は、市の壁の内側に住むすべての人々の生活を支配するにっせつな共同体的親近性の外的な徴証にすぎない。都市はその市民を他の土地に住む人々から切り離す。それは彼らと外界の世界との関係を決定する。それは市民たちのうちに強い自意識を生み出すのである」
 こうしてバグビーの定義は、もう少しで的に命中するところまで来ているが、まだ十分ではない。また「文明」として知られている種類の文化の出現の同義語としてV・G・チャイルドは(「産業革命」にならって)「都市革命」という言葉を作っているが、これも十分ではない。都市がないにもかかわらず、文明の過程にあった社会がこれまでに存在したのである。たとえば中央アメリカ世界のマヤ地方には、神殿やその他の公共建造物が堂々たる群を成しているが、現代の考古学者の少なくとも一つの――しかも多分支配的な――学派は、これは儀式の中心地であるにすぎなく、そこには少数の僧侶や支配者やその近侍の者を除いて恒久的な住民はいなかったと信じている。さらにより適切なのは、次の言葉である。すなわち、「エジプトに於いては、この大きな変化は社会活動の都市への集中化を生み出さなかった。エジプトにも都市があったことは事実である。しかしただ一つの例外である首都を除くと、都市は田舎のための市場でしかなかったのである」。遊牧文化を文明のなかに数え入れることが正しいとするならば、この文化もまた都市を持たない文明の一つの事例であろう。もっとも、遊牧社会と、都市と農業の双方を所有している定住社会の間には、経済的な面で常に共生関係があったと私は信じているが。都市を持たない文明のこれらの例は、多分論議のあるものであろう。しかしそれは、文明を「都市に見出される種類の文化」と定義することが十分に正確でないことを示唆している。バグビーは「おそらく都市の住民がそのすべての時間を専門化に捧げて、かれらの文化を複雑にすることができるのは、食糧を直接生産する必要から解放されているからである」と述べているが、それはそれなりに確かに正しい。しかしわれわれはさらに進んで、文明を、食糧生産の仕事だけでなく、物質的な面で社会の生活を文明の水準に保つために営まなければならなりその他の経済活動――たとえば産業や貿易――から解放されている少数の人々がいる――どんなに少数でもよい――社会の状態と同一視しなければならない。
「余剰とそれが社会に及ぼす影響は・・・・非常に重要であり、文明のピークと経済的繁栄のピークの間には一致が見出され得るのである。余剰がなければ、社会の成員は瞑想、実験、思想の交換――変化の源泉――のための時間がなく、静的な状態に留まりがちである」
 これらの非経済的専門家――職業軍人、行政官、多分何者にもまして僧侶――は、われわれに知られている大部分の文明の事例に於いて、確かに都市居住者であった。しかし進んだ天文学的な知識と複雑な暦の技術を持つマヤの僧侶は非都市的社会環境に住む一団の非経済的専門家の一つの例であるかもしれない。このように考えるならば、文明の起源は都市の出現ではなくて、経済的不平等と社会の階級への分化――ハンソンの挙げている要因のうちの二つ――の出現にあったということになろうこの診断が正確であるならば、それは悲劇的な診断である。何故なら、それは文明は社会的不正に始まったことを意味し、またわれわれが知る限り、文明はそれ以外の方法では出現することができなかったことを意味しているからである。文明の残存している記録が遡る最も古い時代以来、社会的不正は文明の二つの明確な病弊の一つであった。もう一つの明確な病弊は戦争であった
 われわれの時代に文明は近年の西欧世界に於ける技術の空前の進歩の結果として危機に到達した。建設的な目的に使用するならば、技術は文明が始まって以来今や初めて、これまで少数の者の専有物であった文明の恩恵をまもなく全人類に提供することができる道を切り開いた。破壊的な目的に使用するならば、技術は人類と、そして多分他のすべての生物を間もなく地球の表面から抹殺することを可能にする前例のない道を切り開いた。この二つの可能な道は、文明が今や運命的な岐路に到達したことを暗示するものである。今や文明それ自身を破壊し――そしておそらくはわれわれをも破滅させる――われわれの手中にある道具にさせないためには、われわれは戦争という制度を廃止して、社会的不正を根本的に改革しなければならないのである。そしてこの仕事はどちらをとってみても、途方もなく大きな仕事である
 人類の現状は、①文明の目標は何かという問いと、さらに、②文明はこの文化の特定の種の力だけに頼って改革し救済することができるかどうかという問いを提起する。この第一の問いについて、私はフランクフォートと共に「食糧生産の増加と技術的進歩というような変化(共に確かに文明の興起と時を同じくしている)が……いかにして文明が可能になったかと説明する」という考えを拒否するものである。これに関連してフランクフォートが引用している一節で、A・N・ホワイトヘッドは確かに的を得ている。彼はこう言っている。
「高度の活動によって顕著な世界の各時代には、そしてその頂点を作り出した媒体のなかには、暗々裡に受け入れられて或る深遠な宇宙論的な見方がその時代の行動の源泉の上にそれ自身の刻印を残している」
クリストファー・ドーソンが、「あらゆる文明の背後には一つのヴィジョンがある」と言った時、彼は同じことを主張しているのである。私はこの考えを支持するものであるが、この考えにによると、経済的活動から解放された少数者が社会のなかにいるということは、文明の定義というよりは、むしろ文明の認識票なのである。ホワイトヘッドにならって、私も文明を精神的な観点から定義しよう。それは、全人類がすべてを包容する単一の家族の成員として協調して共存することのできる社会状態を作り出そうとする努力である、と定義することができるかもしれない。これが、これまで知られているすべての文明が意識的でないとにしても、無意識のうちに目指してきた目標であると私は信ずる
 第二の――文明はそれ自身の力だけで自らを救うことができるかという問い――は論議の余地の多い問いである。この問題について私が熟慮の結果得た答えは否定的である。文明はそれ自体の力だけではなく、高等宗教の力に頼ることによって初めて救われると私は信ずる。人類はこのように文明を超克することによって文明を救うことができるのであると私は信ずる。しかし高等宗教に助けを求めさえすれば、文明と宗教と、そして人類のために必ず未来を確保することができるとは私は信じない。現在、そして常に、未来は人間のために開かれており、未来をわれわれが望むものにすることは、少なくとも部分的にはわれわれに可能であると私は信ずる
 本書の最初の六巻には、「人間の努力の目標は何であるか」という問いに対する二つの異なる答えがあることをフレイ二は見出しているが、これは正しい。「一方では〝文明〟は究極的なものと考えられている」。他方では、「文明に於けるすべての成長は聖者を目指す進歩と同一視されている」。私のこの二つの答えの第二のものは、要するに、われわれが「文明」と呼ぶ特定の努力に於いて目指している人間の努力の目標は、文明そのものの彼方にあり、文明そのものよりも高いなにものかであるという信念の宣言である。この第二の答えは深く考えた上での私の答えであり、その後の再考も、私にこれを変える必要をいささかも感じさせない。