トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

トインビー博士の文明研究の出発点    「ツキディデス体験」

 

  トインビー博士が、全世界・全時代(5000年前から現代まで)の歴史研究を「文明」の比較によって、始めることを決意することになった原体験が、いわゆる「ツキディデス体験」です。

  1914年の第一次世界大戦勃発のとき、オックスフォード大学古典学科のチューターとして、学生にツキディデス(古代ギリシャの歴史家)を講義していた、当時25歳であったトインビー博士は、第一次世界大戦勃発の報道を聞き、強く感じるものがありました。

 その具体的な状況と思いを、1947年に出版された「Civilization in Trial」(邦訳「試練に立つ文明」)の中に書いています。翻訳は当時京都大学教授であった深瀬基寛氏であり、1952年の出版となっています。分かり易さをもとめた訳ですが、現在読んでみると若干違和感を感じるところがあります。トインビー博士の原文を並べてみますので、参照してみてください。

「1914年の大戦は、はからずもわたくしが『ベイオリル学寮』の学生相手に「古典学科」のために、ツキディデスを講釈している真っ最中にわたくしに追いすがったのであります。この時突然わたくしの蒙が啓かれたのであります。現在この世界においてわたくしたちが現に経験しつつある経験は、すでにとうの昔にツキディデスが彼の世界において経験ずみのものだったのです。いまやわたくしは新しい目をもって彼、ツキディデスを再読しつつあったのであります。――――かつてツキディデスに彼の著作の原動力を提供したところのかの歴史的危機なるものに、めぐりめぐって今度はわたくし自身が突入する順番となったその時までに夢にも気づかなかったような意味合いを彼の単語の一つ一つの中に読み取り、夢にも感じなかったような感じを彼の言葉づかいの背後に感じとったのであります。すでにこの問題については、ツキディデスがとうの昔に先手を打っているということがわかったのであります。ツキディデスと彼の世代は、わたくしとわたくしの世代よりも、お互いに別個に到達した歴史的経験の旅程においてすでに一歩を先んじていたのであります。実に彼の現在がわたくしの未来であったといってもよいのであります。しかしそのために、わたくしの世界を『近代』として、ツキディデスの世界を『古代』として記載する年代記学的な記号法が全く無意味になってしまいました。年代記学が何と言おうとも、ツキディデスの世界とわたくしの世界とは、哲学的には同時代であることがいまやはっきり証明されたのであります。そうして、もしもこれが、ギリシャ・ローマ世界と西欧の諸文明とのあいだの真の関係であるとするならば、われわれに知られているすべての文明のあいだの関係も同様の結果となってくるのではありますまいか。

The general war of 1914 overtook me expounding Thucydides to Balliol    undergraduates reading for Literae Humaniores ,and then suddenly my understanding was illuminated . The experience that we were having in our world now had been experienced by Thucydides in his world already. I was re-reading him now with a new perception -perceiving meanings in his words, and feeling behind his phrases, to which I had been insensible until I, in my turn, had run into that historical crisis that had inspired him to write his works. Tucydides, it now appeared, been over this ground before. He and his generation had been ahead of me and mine in the  stage of historical experience that we had respecttively reached; in fct, his present had been my future. But this made  nonsense of the chronological notation which registered my world as modern and Thucydides world as ancient. Whatever chronology might say, Thucydides world and my world had now proved to be philosophically comteporary. And if this were the true relation between the Graco-Roman and Western civilizations, might not the relation between all the civilization known to us turn out to be the same ?

この部分は、トインビー博士の「歴史の研究」を貫く発想の原点として、トインビー博士を扱ったほとんど全ての著作、論文において紹介されています。しかし、改めて読み込んでいくと、しっかり考えなければならないいくつかの論点が潜んでいるように感じます。

 まず、深瀬教授が哲学的には同時代であると日本語訳を与えていphilosophically comteporaryという語句の意味から検討しなければならないと思います。この部分に先立つ部分でトインビー博士は、「わたくしの世界を『近代』として、ツキディデスの世界を『古代』として記載する年代記学的な記号法が全く無意味になってしまいました

But this made  nonsense of the chronological notation which registered my world as modern and Thucydides world as ancient.と書いております。ツキディデスが紀元前441年のギリシャ世界におけるペロポネソス戦争の勃発に遭遇して感じ表現したものが、2355年後の1914年に、西欧世界での第一次世界大戦の勃発に遭遇してトインビー博士が感じたものと哲学的に同じものである。この直感は文明の比較相対を通して人類史を作り上げるというトインビー博士の確信につながっています。

 この哲学的同時代性が成り立つ基本的条件は、まず第一に「人間性の本質はどんなに時代が変化しようとも不変である」ということになります。年代記的な時代の変化はあるが人間性の本質は変化していない。その不変の本質の上に立って歴史を研究し、その有力な手段として比較相対を使うことが可能になるという結論になります。

 しかし、敢えて言えばこの結論の根拠は、トインビー博士が、古代ギリシャのツキディデスの著作を通してその時代を追体験したものと、20世紀の1914年に西欧のイギリスに生きて体験し感じている世界の比較にあります。すべてがトインビー博士の内面にある認識を基礎とした比較です。あくまでも主観的な確信であり、客観的ではないと批判することもできます。事実、トインビー批判のかなりのものがその論理を用いています。

トインビー博士の「歴史の研究」は、そのような主観的な思い込みとも言える内容を根拠にしているのか。ここで、私たちはこの「主観的な思い込み」がどこまで客観的な探求に耐えられるか、検証しなければならないと思います。稿をあらためて続けます。

 

 

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