トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

「哲学的同時代性」文明比較研究の根拠 (1)

 前稿で、第一次世界大戦が勃発した1914年の夏、トインビー博士が感じた「これは、古代ギリシャで、ペロポネソス戦争の勃発に感じたツキディデスの思いと同じである」という認識がトインビー史学の出発点であることを書きました。そしてこの事実を表現して「哲学的同時代性」とされていることにもふれました。

 この「哲学的同時代性」をさらに考えていくと、古代ギリシャに対してのトインビー博士の認識のレベルも、第一次世界大戦勃発時(当時のトインビー博士にとっての現在)のヨーロッパに対する認識のレベルも、トインビー博士個人の認識の中に根拠をもつことであり、その概念が成立するためには、その点に対する解明が必要であるということを書きました。トインビー博士の内面に迫っての解明が必要になります。

 21世紀に生きている私たちにとって、紀元前441年のペロポネソス戦争も、トインビー博士が遭遇した1914年の第一次世界大戦も、まさに“年代記的事実”でしかありません。その単なる“年代記的事実”がトインビー博士にとってどのような意味をもっていたのかを解明することから、「哲学的同時代性」の根拠を示し解明していくという作業は可能になります。

 「哲学的同時代性」は、トインビー史学の基礎をなす大事な概念です。この作業に取り組まない限り、トインビー史観の解明はそのスタートからつまずくことになるでしょう。また、解明を避けて先に進んだとしても、豊かな実りを得ることはできないと思います。

 まず、第一に確認しなければならないことは、トインビー博士にとっての古代ギリシャに対する歴史的認識のレベルです。このことについて語るためには、トインビー博士が19世紀後半のイギリスで受けた教育内容を確認する必要があります。当時のイギリスにおける最高レベルの教育コースは、いわゆるパブリックスクールとよばれる私立の中等教育段階(日本の中学・高等学校の学齢とほぼ同じ)と、その後に続くオックスフォード大学、ケンブリッジ大学に象徴される高等教育段階に集約されます。このことは現在おいても変化がないように思われます。歴代のイギリスの指導者、首相の経歴をみるとその状況は明らかです。

 このパブリックスクールは、私費の個人教授が基本であった中世の段階で、費用を出すことができない貧しい家庭出身の優秀な生徒に教育の機会を与えるために、開設された中等教育段階の学校です。もともとは聖職者養成を目的としており、キリスト教の教義学習のため、必要なラテン語の文法を学ぶ学校でした。最古のパブリックスクールとして有名なのは、奇しくもトインビー博士の母校でもあるウィンチェスターカレッジです。1382年に創立された、この学校の創立者はスコラ哲学者として有名なウィリアム・オッカムであり、彼が奨学金基金としての土地を設定したことが現在に続くこの学校の基盤となりました。この奨学金を受けるためには厳しい試験を勝ち抜かなければなりませんが、トインビー博士は2年目にこの試験に合格することによって、1902年13歳でこのウィンチェスターカレッジの生徒、いわゆるウィッカミストとなることができました。その感謝の思いを、トインビー博士は520年前の創立者に寄せています。

 その後、トインビー博士は1907年に18歳でこの学校を卒業し、オックスフォード大学のベイオリル学寮に進学します。この6年間のウィンチェスターでの教育で、トインビー博士は何を身につけたのでしょうか。この疑問に答えるためには、当時のイギリスのパブリックスクールのカリキュラムを調べなければなりません。調べてみると、当時のパブリックスクールでは、ギリシャ語とラテン語という古典語の学習を中心としていたことがわかります。

 トインビー博士は、1969年、80歳のときに発刊した「回想録」のなかで、自ら振り返ってつぎののように述べています。

 第二章「ギリシャから受けた三つの教育」と題した最初に

『ウィンチェスターにいた頃には、未開社会の部族の制度のごときそこの諸制度の圧政(と私には感じられた)に対してたえず反抗していた、と私は告白した。

 しかしウィンチェスターが私に与えてくれた多くの贈り物のうちで、当時私が心の底からありがたいと思ったものが一つあった。それはそこで与えられたギリシャ・ラテンの語学および文学のこの上なく立派な教育であった。「軍隊コース」を除くと、1902-7年のウィンチェスターでの教育は、その十分の九まで古典教育であった。

 ラテン語ギリシャ語の教授がすばらしかったことの裏返しとして、他の学科は枯渇していた。たとえば、フランス語とドイツ語を同時に学ぶ時間は与えられていなかった。ドイツ語を学び始めたいと思うなら、フランス語を学ぶのをやめなければならなかった。その上この二つの言葉は、これまた「死語」であるかのごとく教えられたのである。・・・・(中略)・・・・このような知的損失の埋め合わせとして、ギリシャとラテンの古典の教授は私の時代のウィンチェスターではすばらしかった。

・・・・(中略)・・・・1902-7年にウィンチェスターにおいてわれわれが受けた教育は、ウィカムの考えていた教育ではなかった。それはグローシン〔1446~1519 。オックスフォードのギリシャ語の教師。エラスムスやモアの友〕の考えていた教育であった。グローシンはウィンチェスター校の卒業生で、イタリアの古典文学研究をイギリスへ持ち込んだ16世紀のイギリスの学者の一人である。われわれは20世紀の最初の10年代にウィンチェスターで。15世紀のイタリア・ルネサンスの完全な古典教育をまだ授けられていたのである。

 ギリシャ・ローマ世界の文明に対するわれわれの「文化受容」は徹底したもので・・(中略)・・・もちろん学生の大多数は、ギリシャ・ローマの文学は言うに及ばず、その言語においても、本当に通暁するほどのところまでにはゆかなかった。・・・(中略)・・・しかしながら、わたくしにとって幸せなことに(と思っているのだが)、私はこの古典教育に向いていないのでもない学生の一人であった。私はウィンチェスターで古典教育に反抗したことは一度もなかった。私はひたすらそれに専念し、全く本気で勉強した。実際のところ、あの部族的な生活様式に対して反抗したために、私は自分の内に閉じこもりかけていたのだが、この反抗が私を駆り立てて、ほとんど物に憑かれたように熱狂的に古典を修めさせたのである。学校の教育課程が要求しているよりもはるかに多くに余分の勉強をひそかに一人でおこなうことが、わずらわしい部族的生活から離脱するために私が発見した手段であった。・・・(中略)・・・ギリシャ・ラテンの古典が、われわれの教育過程の主要部を成していた。そしてこのために、実際に奇妙な結果が生じた。イタリアの古典研究家たちの目的は、ある所へもどるためにある所から出て行くということであった。彼らは、ギリシャ・ローマ世界という失われた地上楽園へもどるために、同時代の世界から知的・精神的に抜け出すことを求めていたのであった。この理想が、そのような望みを抱く者に対して要求したのは、ラテンとギリシャの著作者のものを学ぶだけでなく、彼らを模倣するーーーいや、いにしえの巨匠一人一人の文体の微妙なところまで再現するーーーこつを会得することであった。私はウィンチェスターで、バーク〔1729ー97。イギリスの政治家・著述家〕の演説のいったいいかほどの章句をキケロ風のラテン語に訳したことか。エマソン〔1803-82。アメリカの思想家・詩人〕の論文のいったいいかほどの章句をプラトン風のギリシャ語に訳したことか。またわれわれは、あらゆる種類のイギリスの詩を同じ部門に属するラテン語ギリシャ語の韻文に訳すことを、要求された。その上、このように「翻訳」することの骨のおれる訓練はただ予備的なものでしかなかった。われわれの古典教育の最後を飾るものは、ラテン語ギリシャ語の散文と韻文でわれわれ自身の創作を物することだったのである。・・・・(中略)・・・・20世紀の最初の10年代にイギリスで見事におこなわれていた古典教育によってわれわれが置かれた立場は、西暦紀元の最初の二世紀間に新アッティカ派が意識的にとった立場であった〔この頃の散文は擬古的になり、いわゆるアッティカ主義が流行した。プルタルコスや後出のディオン・クリュソストモスやアイリオスのアリステイデスらがこの中に入る〕。このアカデミックな学者たちは、今日私がアメリカでおこなっているのと同じように、公開演説をしてローマ帝国で生計を立てていた。しかし今の私と違って、彼らは同時代の問題については決して語らなかった。彼らも聴衆もそういう卑俗なことは容赦しなかったことであろう。彼らはマラトンの戦い〔アッティカ平原のマラトンで前490年にギリシャ軍がペルシャ軍を破った戦い〕とカイロネイアの戦い〔ボイオティアのカイロネイアで前338年にマケドニア軍がアテナイ軍を破った戦い〕の間の時代に断固としてわが身を置き、その短い時代の有名な政治家を具現してみせた。たとえば、前431年にスパルタと戦争を始めることがアテナイにとって是か非かを論じているペリクレス〔前495-429。アテナイの全盛時代を現出した政治家・将軍〕とか、前371年にエパミノンダス〔前418-362。テーバイの将軍・政治家。スパルタ軍をレウクトラに破った〕がペロピダス〔前364没、テーバイの将軍政治家〕を相手にして、それまで不敗のラケダイモン軍を奇襲し新しいテーバイ式急襲戦術で破ることができると考えて戦場でまみえる危険をあえて冒すべきかどうかを論じている、といったところである。

 1902-7年のウィンチェスターで、われわれ新々アッティカ派もまた古代ギリシャ史の「古典」時代に生きていた。・・・・(中略)・・・・実をいうと、われわれが生きていた時代ーーわずか10年後に死をもたらす廃墟となってわれわれの頭上にくずれ落ちようとしていた世界ーーが1904年にわれわれにとって真の世界でなかったのは、ローマ帝国初期の世界が「第二期ソフィスト」〔新アッティカ派〕の大家にとって真の世界でなかったのと同じことであった。われわれにとって真の世界とは、彼らにとっての真の世界と同一のものであった。それはアウグストゥスの世代に新アッティカ派が規範とみなしたギリシャの文学作品を生み出していた世界であった。彼らとわれわれが見るところでは、それはホメーロス叙事詩において生まれ出てデモステネス〔デモステネスの没年は前322年。その前年にアレクサンドロス大王が没している〕の最後の演説が述べられた突然の死に逢着した世界であった。・・・・(中略)・・・・

 これが、ギリシャから受けた最初の教育が私に及ぼした影響であった。この教育は私の生涯のうちの十二年を占めた。私がギリシャ語を学び始めた十歳のときから、オックスフォード大学の古典研究過程の最後の試験を受けた二十二歳のときに至る、重要な十二年間であった。ラテン語は七歳のときから学び始めていた。しかしそのずっと以前から、母は自分が歴史を学んでいたものだから、私に歴史を教えてくれた。

 そこで、私の心を最もひきつけていたギリシャ・ローマの世界に私が近づいたのは、文学を通してではなくて歴史を通してであった。オックスフォードでの最後の試験を受ける前に、私の学寮であるベイオリルは、私を古代ギリシャ・ローマ史の個人指導教師〈tutor・チューター〉および特別研究員〈fellow ・フェロー〉に任じていた。』

引用が長くなりましたが、この部分を読んでいただくと、トインビー博士にとって、いわゆるギリシャ・ローマ世界〔トインビー博士はこのギリシャ・ローマ世界を“ヘレニック文明”として、その一体性を主張しています〕がどのような意味を持っているのかが自然に理解することができると思います。

 当時のイギリスの最高レベルの教育を受けていくと自然に形成される精神世界。その教育は西欧文明の基本軸のひとつルネサンス以後の人文主義教育そのものです。ローマカソリックギリシャ正教典礼言語として使用されてはいますが、日常語としてはほとんど死語の状態にあるラテン語ギリシャ語の徹底的な教育。その中で自ら進んで徹底的に学ぶことによって、最優等生として高く評価されているトインビー博士。自らも、自分の心象は英語よりも、ギリシャ語によってよりよく表現できる語っているトインビー博士。この論証の冒頭の「哲学的同時代性」を成立させる、過去の時代の認識の基盤をなす重要な事実です。この点をまずしっかり認識することがトインビー史学の認識の第一歩です。

さらに稿をあらためて論考を続けます。