トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

トインビー博士と創価学会

●トインビー博士と大乗仏教日蓮仏法、創価学会

★トインビー博士が、東洋の国の一宗教者である私に、なぜ、対談を希望されたのであろうか。博士からの手紙にもあったように来日された際(1967年)に、創価学会の宗教運動についていろいろ耳にされ、興味をいだかれたのも一つの理由であるにちがいない。また、『ザ・タイムズ』などにも、創価学会についての紹介の記事があったりして、私どもの主張する仏教の実践活動に関心をもたれたようだ。

★博士は、前々から、やはり仏教に深い関心をもっていたようだ。かつて来日をされたとき(1956年)、京都大学歴史学者や哲学者を交えて、長時間のディスカッションをされたことがある。その時、同席された深瀬基寛氏が、博士の第一印象を次のように記されている。『この日、問題となったたくさんの論題を取り上げる紙数もないがその一つは日本の学者の立場でしばしば矛盾と感じられる、科学的実証精神の必要と危機の克服としての宗教的精神の必要とがいずれもトインビーによって強力に肯定されていることであった』(社会思想社編『トインビー・人と思想』)。また「トインビーが最も日本の学者から聴取したいと思っておられるのは、仏教に関することであるらしい」(同)と。
(トインビー博士との五日間〈1973年の文章〉「ヒューマニティーの世紀へ」より)

★1956年、京都で学者たちとの会合がもたれたとき、トインビーが当時目新しかったテープレコーダーを廻しつつ、長時間疲れを見せず意見交換したのは壮観であったが、そのさい彼がもっとも熱心に質問をくりかえしたのは大乗仏教についてであった。日本の近代化についても関心を示したが、戦後の大衆社会的状況ならびに大衆文化についてはほとんど興味をおこさなかった。
                (図説『歴史の研究』訳者あとがきより 桑原武夫氏)

★これまで私は、数多くの著名人とお会いしてきた。なかでも、イギリスに来ると印象深く思い起こすのは、やはりトインビー博士である。長時間にわたる対談を終えた最後の一夕、私は博士夫妻と、別れを惜しみつつ、ロンドン市内のレストランで食事をともにした。私の妻や、秋山栄子SGI婦人部長の亡き父君・秋山富哉さんらも同席していたと思う。ちょうど、今日と同じ、風そよぐ五月のことであった。その折、博士がしみじみと語った姿が胸深く残っている。私は、博士が人生をどう深く生きようかと常に模索されていた謙虚な姿勢と信念に、感動を禁じえなかった。
「私が若ければ、東洋の仏法の神髄を探求し、実践し、行動したかった」
「私は、一応、歴史家、哲学者として名を成し、尊敬を受けている。しかし、仏法をたもち、実践するあなたのほうが、どれほど幸せだあるか。私は心ひそかに思っています」
私たちはさらに、正しい宗教と永遠の生命観について、率直に語り合った。そして一つの結論にいたった。「真実の信仰は、三世につながる幸福のための戦いである」と。
トインビー博士との対談の、もっとも重要な結論の一つがここにあった。
              (イギリス最高会議:1989.5.23ロンドン)

★「創価学会は、既に世界的出来事である」これは、今から約30年前の1972年に、20世紀最大の歴史家トインビー博士が、ある書籍の「序」によせられた言葉である。その書籍とは、私の著作の外国語出版「第一号」となった、英語版の小説『人間革命』第1巻であった。
さらに、博士は「(日蓮大聖人は)自分の思い描く仏教は、すべての場所の人間仲間を救済する手段であると考えた」と、日蓮仏法の世界性を高く宣揚されながら、こう指摘されておられた。「創価学会は、人間革命の活動を通し、その日蓮の遺命を実行している」と。
偉大な博士が洞察された、創価学会の「世界宗教」としての輝きは今、大光となって地球を包み始めている。(聖教新聞:2001.11.7「新・随筆人間革命」より)

★トインビー博士は、学究の積み重ねからくる信念を、いささかも揺るがすことはない。「創価学会に、そしてあなたに多くの批判があることはよく分かっています」と、笑っておられた。そして「しかし、私はそのような皮相な論議は、なんら本質とは関わりのないことを、よく存じております」と。
(トインビー博士との五日間〈1973年の文章〉「ヒューマニティーの世紀へ」より)