トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

世界史としてのトインビー史学・・・J.フォークト「世界史の課題」(1961)より

 世界史としての「トインビー史学」に着目し、いち早く著書「世界史の課題」においてとりあげた人がドイツの歴史学者 J.フォークトです。副題に “ランケからトインビーまで” と掲げているように、西欧の歴史学において課題としての「世界史」を追求してきた流れを、近代歴史学の基本を築いたランケから丁寧にたどりながら年代順に取り上げていきます。
 フォークトは1895年に生まれ、ベルリン大学においてローマ史の研究で著名なエドアート・マイヤーに教えを受けました。その後、1923年にチューリンゲン大学の講師としてスタートし、1926年には同大学の古代史の教授に就任し、その後ドイツ国内の大学の教授を歴任しましたが、この「世界史の課題」を発表した時点ではチューリンゲン大学の教授の地位にありました。年齢的にも、同じ古代史の研究者としてもトインビー博士と思いが通じるところがあったのでしょうか、「比較文明学会」の立ち上げにおいては、トインビー博士と一緒に尽力しています。
 全十章からなる本書は、とりあげている名前を列挙してみても、ランケ、ブルクハルト、オーギュスト・コントカール・マルクス、マックス・ヴェーヴァー、カール・ランプレヒト、ニコライ・ダニレーフスキー、エルンスト・トレルチ、アルフレート・ヴェーバー、ピエール・ド・シャルダンカール・ヤスパース、クリストファー・ドーソン、等々。この時点までの西欧文明圏における世界史的探求をほぼもれなく網羅しています。ちなみに全十章のうち、第四章と五章をオスヴァルト・シュペングラーに、第八章と九章をアーノルド・J・トインビーにあてています。出版年は1961年ですが、論述は「世界史」を考える上では現在においても重要な価値を持つ論考であると思います。 
 この著作以後現在までの世界史的取り組みとして評価を受けているのは、トインビー博士の伝記を執筆しているアメリカ合衆国のマクニールの「世界史」、さらに最近で言えば「サピエンス全史」を書いているユヴァル・ノア・ハラリ等が有名ですが、強い反感と賛同が相半ばするトインビー史学に対するような評価は起きていないと感じています。
 J.フォークト「世界史の課題」の中で、トインビー史学を取り上げた部分を引用します。
 
p177 
第一次世界大戦後における学問の状況の特異性は、生の哲学社会学とから、人類的事件の全体のうちに何らかの組織原理を見出そうとする、最初の大きな心みが生まれたことである。専門的歴史科学は、これらの理論に大いに狼狽したが、ようやく、アーノルド・J・トインビーの世界史の体系によって、歴史の概観という、今や自己の領域に燃え移ってきた問題の解決に、乗り出すこととなった。トインビーのこの重大な試みは、広い範囲の知識人に、とりわけアングロ=サクソン系の世界に、大きな影響をあたえたが、さらに、ショペングラーよりも持続的に、歴史科学の国際的な活動を刺激し、今日でも依然として世界史の問題の学問的な討議に支配的な影響をおよぼしている。トインビーは歴史家仲間の間でも専門家と見られる人である。・・・・・・・
 
p179
第一次大戦の勃発した頃、彼はツキヂィデスの史書を研究していた。そして今や、かれの眼には、ギリシャ都市国家の間の闘争は、同じ民族世界、同じ文化世界に所属する諸国家の、内乱のように映じたのである。そこから、かれの心の次のような疑問が起こってきた、ヨーロッパ諸国家の殺戮戦も、本来その諸国民はすべて同一の種族に属しているから、内乱を意味するものではなかろうか。さらにまた、紀元前五世紀のギリシャ世界に進行していた歴史の全経過は、現在は、現在ヨーロッパの内部に起こっている出来事と一致し、したがって、哲学的な意味において、それらはたがいに同時代ではなかろうか、と。
 
p180
そして今や、彼自身が新たに世界史を解釈しようとする計画を抱いたとき、シュペングラーとは方法上異なったやり方で進もうと考えたのある。「私は、ドイツ的なアープリオリの方法がすでに生き詰まった場合にも、イギリス的な経験主義にはそれ以上の何ができるかを、つまり、たがいに排斥しあう二つの可能性が事実の光に照らされたとき、それらが何処までこのような吟味に耐え得るかを、試して見たかったのである」(『試練に立つ文明』)見聞をひろめ、重要な事実に精通する機会に不足ななかった。トインビーは、イギリス国際問題研究所(the Royal Institute of International Affairs)の協力者となり、年鑑『国際問題の概観 Survey of International Affairs』を数年度にわたった主宰することによって、世界政策の諸問題に通暁するようになった。さらに、第二次大戦中には、からは外務省調査局の仕事を担当した。こうして、かれの経験の範囲は古代文化から現代史にまで拡大されていったのである。
 
p183
古代ギリシャ=ローマ文化――トインビーの表現にしたがえばヘレニック社会(Hellenic Society)――は、古クレタのミノス文明の遺産から生まれ、前九世紀から五世紀までのギリシャ人の業績にうかがわれるように、急速な成長を遂げる。ギリシャ人は、さしあたり村落を都市に、さらに都市国家に、まとめることによって、その定住地を確保する。次いで、その増大する人口のために、地中海海域への植民を通じて、あらたな活動領域を開拓する。そして、植民が四囲の世界の抵抗に遭って行き詰まったときには、すでにかれらは、経済革命によって、つまり農業の集約化と輸出産業の創出によって、新たな生の可能性を獲得していたのである。最後に、彼らはペルシャ人の攻撃を、多くの都市国家の間に結ばれた同盟によって、また共同防衛の組織化によって阻止する。四度にわたる四囲の世界の挑戦も、ギリシャ人の創造的な改革によって、見事に応戦されたのである。けれども、その後に、かれらの文化〔=文明〕に危機が到来する。ペロポネソス戦争はこの社会の曲がり角と見られなければならない。広大な世界に散在するギリシャに、国際的な組織を基礎とする、政治的な統合をあたえるという課題に直面した時、指導的地位にあった政治家たちはみずからの無能をさらすことになったのである。さらにまた、覇権を握る都市国家は、自分自身がどうしようもない障害物であることを、暴露した。アテナイは、たしかに過去においては偉大な都市連合を成就したが、今度はその覇権を専制へと堕落させた。都市国家相互間に闘争が発生し、ペロポネソス戦争ギリシャ社会の内乱となった。こうして、アレクサンダー大王によっても食い止められなかった、衰亡は開始された。この沈みゆく文化世界に、ローマ人によって、はじめて世界国家があたえられた。そしてその上に、かなり長い時期にわたって、安寧が保たれた、とはいえ、ローマ人たちもまた、かれれの不断の統制によっても、各都市から自治権をうばうことはできなかったのである。
 
略言すれば、世界組織の創造に努力する(ヘレニック文明)の歴史は、ペリクレス時代の春の日差しの中にも、またアントニウス時代の小春日和の陽光の中にも、常に暗い陰のつきまとう、一編の悲劇である〈「歴史の研究」原本第四巻、p214〉」
 
最後に、崩壊の過程が続くー内部的には、国家と文化〔=文明〕とから人口のかなりの部分が精神的に離れてゆくことによって、また外部的には、文化〔=文明〕領域から刺激と恩恵をわけあたえられるだけではもはや満足しなくなった、異民族が来襲することによって。
とはいえ、徹頭徹尾人間のドラマとして論じられたこの古代ギリシャ=ローマ(ヘレニック文明)の社会劇が、はたして、現に伝わる個々の史実に合致しているかどうかは、疑問である。だが、今のところは、まだこの問題はとりあげないでおこう。それよりも、ここにすでに明らかなことは、古代史たちの研究から得られたこのモデルが、歴史世界のもろもろの文化〔=文明〕をあつかったトインビーの理論全体を大幅に規定しているという事実である。たしかにトインビーは、古代ギリシャローマ文化(ヘレニック文明)以外の歴史過程からも、驚くべきほどに豊富で詳細な資料を収集している。それに加えてかれは、今世紀になってから世界的規模にまだ拡大された政治の舞台に、また一般に現実の諸問題に精通しており、そのことはかれにとって有利な条件となっている。だが、それにもかかわらず、彼の思想を結実させたものは、このような歴史的認識だけではなかった。さらにそこに働くものとしては詩人的な直覚、神話的な諸形象、諸世界宗教からの啓示さえもが、考慮に入れられなければならないだろう。ゲーテファウストベルグソン哲学、聖書、さらに極東の聖教すらも、かれの自家薬籠中のものだった。したがって、トインビーのたぐい稀な才能は、豊富な学識、生き生きとした空想力、そしてまた総合への烈しい衝動を本質的特性としていたのである。