トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

ハンチントンの「文明の衝突」における「文明」中心の見方とトインビー史観

 

 

「文明」とは何か? その客観的な定義を巡る問題は、トインビーの「歴史の研究」に対する数ある批判の中でも、代表的な批判点です。トインビーはこの批判点に対して当初は、「理解可能な歴史の範囲」と定義を与えています。

 その検証として、英国の一つ一つの歴史的事件を近代から中世へと時代を遡る形で取り上げて、それぞれの歴史的事件が本質的な意義まで含めて、本当の意味で理解可能になるためには、その事象・事件を、どの程度の空間的、時間的範囲まで検討しなければならないかを確認していきます。古代、ローマ帝国の一属州としてブリタニアと呼ばれた時代は、ギリシャ・ローマの文明、ヘレニック文明の範囲にあるのは当然ですが、その後の時代の英国における歴史的事件は、結局、西ヨーロッパのキリスト教世界というバックグラウンドを認識の範囲において検討しないかぎり、本質的な意味での理解は不可能であると結論しています。つまりイギリスの歴史は、ブリテン島の地理的範囲に限定した理解では、完全な論究ができないということです。

この本質的意味での理解が可能な範囲、つまり「理解可能な歴史の範囲」が「文明」であると著書「歴史の研究」の中で、定義を与えています。しかし、この「理解可能な歴史の範囲」という定義は、客観的な定義を求める批判者を納得させることはできませんでした。「科学」において求められる客観的な定義として、数学、物理学の自然科学のレベルとは言いませんが、社会科学、人文科学という多少主観性が許されると思われる部門での定義としても、曖昧さが残る定義であり、言わば「歴史の研究」という大部の著作を書き進めて行く上での、当面の作業仮説のようにも思われます。実際のところ、トインビー博士は、「再考察」の文明の定義を扱う部分の記述においては、「歴史の研究」の冒頭部においては厳密に客観的な定義することを敢えてせず、まず「理解可能な歴史の範囲」として定義して、その定義する「文明」の内容の確認と研究に踏み込んでいったのが1~10巻の内容であると記述しています。

トインビー博士は人生の最終段階の著作「図説・歴史の研究」において「文明」の定義の一節を設けています。「図説・歴史の研究」は、原著「歴史の研究」のダイジェスト版であると共に、理解を助ける目的で図版が付け加えられているものですが、そこにおける「文明」の定義は「人類全体が、すべてを包含する単一家族の成員として、仲良く一緒に暮らしてゆける社会状態を創りだそうとする努力」とされています。

an endevoar to create a state of society in which the whole of Mankind will be able to live together in harmony, as members of a single all-inclusive familyそれを文明の定義としうるかもしれない。これこそ、私たちの知る限りでの全ての文明が、よし意識はしなかったにせよ、無意識的にめざしてきた目標であったと、私は信じる。(トインビー)

この定義は「歴史の研究」の第12巻「再考察」(英語版)での定義をそのまま引用したものです。「再考察」では、“都市”の存在を“文明”の条件とする等、従来ほぼ定説となっているいくつかの定義を検討した上で退け、あらゆる文明において人間が意識的もしくは無意識的に目指していたものとして「人類全体が、すべてを包含する単一家族の成員として、仲良く一緒に暮らしてゆける社会状態を創りだそうとする努力」をとりあげます。そして、その「努力」をもって文明の定義としています。この人間の主体的な努力を組み込んだ「文明」の定義は、客観的な定義を求める批判者を納得させることは難しいと思いますが、トインビー博士の最終的な後世への提言として受け取れば、本当に含蓄深い定義であると思います。

ハンチントンに関しては、その「文明の衝突」の中で、「文明の性質」と題する章をつぎの文章で始めています。

人類の歴史は文明の歴史である。それ以外の見かたで人類社会の発展を考えることはできない歴史は古代シュメールやエジプトの文明から古代ギリシャ・ラテン、中央アメリカの文明へ、さらにはキリスト教イスラム教の文明へと何世代もの文明を経て、なお連綿と続く中国文明ヒンドゥー文明を通じてつながってきた。有史以来、文明は人びとに最も広い意味でのアイデンティティーを与えてきた。その結果、文明の起源や出現、興隆、相互作用、成功、衰退、滅亡が、卓越した歴史家や社会学者や人類学者によって詳細に研究されてきた

この文章において、ハンチントンは「人類の歴史は文明の歴史である」と断定して考察をスタートさせています。その中で、文明の起源や出現、興隆、相互作用、成功、衰退、滅亡と言う表現で、吉本隆明氏の「段階」にあたる時間的な変化の過程を確認しています。「段階」論を時間的な変化の過程におけるステージと考えると、文明の起源や出現、興隆、相互作用、成功、衰退、滅亡というステージ構成は段階とほぼ同様の意義を持つように思われます。「段階」論がないという批判の当否をこえて、吉本隆明氏の視点にある「国家間の戦争を無化して、人間同士の集団的な殺傷を止めさせるためには、日本の非戦憲法の方向しかない。日本の非戦憲法だけが、唯一、現在と未来の人類の歴史のあるべき方向を指していることは疑問の余地がない。」と言う視点は、大事な視点でありその方向の実現については、人類の大多数の人々が各論においては違いがあっても、総論としては望んでいることだと思いますので、貴重な視点であると思います。

この視点を実現するための世界歴史の状況確認の方法論として、ハンチントン、トインビーの「文明」を中心にすえた論考をもう少し深めていきたいと思います。

ハンチントンは、先の文章をさらにつぎのように続けています。

これらの学者をはじめとする著述家 【原文では具体的に名前を挙げています。ここでは列記しておきます。Max Weber , Emiel Durkheim , Oswald Spengler , Pitirim Sorokin , Arnold Toynbee , Alfred Weber , A.L. Kroeber , Philp Bagby , Carroll Quigley , Rushton Coulborn , Christopher Dowson , S.N. Eisenstadt , Fernand Braudel , William H. MacNeil , Adda Bozeman , Immanuel Wallerstein , and Felipe Fernandez-Armesto 】膨大な知識にあふれ、精緻な論文で文明の比較分析をおこなった。そのような文献に見られる観点、方法論、焦点、概念は多種多様である。だが、文明の性質、アイデンティティー、変遷に関する中心的な主張はおおむね一致している

 上記・下線部分の見解に基づき、ハンチントンは「文明」という概念、用語・用法に関して、さきに列記したマックス・ウエーバーから始まる 学者・著述家の視点の中で、ほぼ一致していると考えることが可能な視点をあげていきます。ここにまとめられ列記されている視点は、トインビー博士が「歴史の研究」、さらにその最終章である「再考察」において展開している視点とほぼ一致しています。ここで列記しながら確認していきたいと思います。

《 ①  単数形の文明と複数形の文明ははっきりと区別される……文明という考え方は、18世紀フランスの思想家によって「未開状態」の対極にあるものとして展開された。・・・・文明化することは善であり、未開の段階にとどまることは悪である・・・・しかし、それと同時に、人々はしだいに複数形の文明について語るようになった・・・・世界にはいくつもの文明があって、それぞれに独自のやりかたで文明化していたのだ。・・・・・・(略)・・・・・・》

 単数形の「文明」。英語でいえば a Civilization は、近代初期の西欧人の自意識を反映する表現で、何が善で何が悪であるかという価値観を含んでいます。自分たち西欧人は進歩の先頭を進んでいるのであり、より良き善を象徴していると考えていました。未開の段階は悪であり、唯一の救済宗教であるキリスト教の伝道こそが、未開の悪が善に変わる唯一の道である。この思いは大航海時代ポルトガル、スペインの航海者たちが、いのちをかけて未知の世界へ進出する動機の全てとは言えませんが、かなりの部分を占めていたことは間違いないと思います。

 その結果として遭遇することになったインド、中国、日本などの東洋の文明。キリスト教の存在はないが、それぞれの伝統的宗教・文化のもとに進化をとげてきた成熟した文明が存在する。その発見の驚きと認識の深まりが、複数形の文明 Civilizations  の存在を認め、その中の一つとして自らの西洋文明を認識し位置づけるという方向へ進ませることになったのだと思います。さらに20世紀の、第一次・第二次の世界大戦という、単数形の文明観を根底から揺るがす歴史的な経験をすることによって、トインビーに代表されると言って良いと思いますが、文明を根本として世界史を見ていく方向性が注目されるようになったのだと思います。

しかし、21世紀に入った現在においても、この「文明」中心の見方は少数派です。世界中で、国連加盟国ベースでも192カ国が存在します。そして、それぞれの国が自らのアイデンティティーをかけて、自国中心の物語を作り上げようとしている。この傾向とはうらはらに、グローバルという言葉に象徴される経済面を中心とする人類の一体化への動きが加速していく。この相反する現象のねじれと対立の最も悲劇的な結末が戦争です。核兵器の時代に入った今、戦争は人類の滅亡を意味します。国家という「戦争」の単位を止揚していく視点、方途は何か。吉本隆明氏においても、トインビー博士の世界史「歴史の研究」においても、ハンチントンの「文明の衝突」においても、共通の強い問題意識であることは間違いありません。

《 ②  文明は文化の総体だとされているが,ドイツではそうではない19世紀ドイツの思想家は文明と文化をはっきりと区別して、文明は機械、技術、物質的要素にかかわるものであり、文化は価値観や理想、高度に知的・芸術的・道徳的な社会の質にかかわるものだとした。この区別のしかたは、ドイツ思想界には根付いたが、それ以外の場所では受け入れられなかった。……(略)……このように、文明と文化を区別しようという動きは一般受けせず、ドイツ以外は、「ドイツのように文化をその土台である文明と切り離したいと願うのは欺瞞だ」とブローデルの意見に全面的に賛成している。》

 ドイツにおける文化 Kultur  と、文明 Zivilisation の字義の違いについての言及です。欧米圏においては英語の culture  ,   Civilization  を代表として、ドイツ語のKultur  と、文明 Zivilisation の字義とはほぼ正反対というよりも、Civilization はculture を包含した総合的な上位概念として使われます。この考えてみれば、基本的な事実の確認をなぜ取り上げなければならないかという理由は、文明論的考察の上においてマックス・ウエーバー、ショペングラー等、ドイツ文化圏からの考察が重要性を持っているからだと思います。

 さきほどハンチントンブローデルの意見を引用して述べた、精神的要素が多い文化を、文明より価値があるものとして土台としての文明から切り離すという、いわばドイツ的傾向については19世紀前半のドイツ浪漫主義までさかのぼってみるのが一般的です。フランス革命を契機に、いち早く国民国家を成立させたフランス。産業革命後、資本主義国家として急速に世界帝国として発展しつつあったイギリスに対して、19世紀後半まで政治的統一ができず、フランス、イギリスの後塵をこうむることとなったドイツとしての対抗意識を根底とした19世紀前半のドイツ浪漫主義の運動。精神的な成果に高い価値を見出す意識はそこから胚胎したもののように感じます。

 日本人として注意しなければならないことは、ドイツ語の書籍の翻訳においてこの意義をふまえず、Kultur 、 Zivilisation を単純に文化文明と訳すことによって、意味合いが大きく変わってしまうことに気づかない翻訳が存在することです。個人的なことですが、ドイツ語からの翻訳文で、本来「文明」の内容にあたると思われる内容を「文化」と表現された文章を読み、混乱した経験が一度ならずありました。一見、小さなことのようですが、ここでハンチントンが取り上げたことの意義は大きいと思います。文明、文化という用語の意義を正確にとらえていくことは、「文明」という視点を根本にすえて、人類の歴史を人類出現以来の時間軸において、また全地球規模の空間的的広がりの中で捉えて検討していく上で必須の作業過程であると思います。

先の文章に続いて、ハンチントンは文明と文化についてつぎのように書いています。文明と文化という用語の意味を確定し、「文明」を単位として世界史を考えて行く上で、重要な部分なので、少し長文になりますが引用します。

《 文明と文化は、いずれも人々の生活様式全般を言い、文明は文化を拡大したものである。いずれも『価値観、規範、社会制度、ある社会で何世代にもわたって最も重要視されてきた思考様式』を含んでいる。ブローデルにとって、文明とは「ある空間、『ある文化の領域』」であり、「文化的な特徴と現象の集合」である。ウォーラースタインは文明を定義して、「世界観や生活習慣、組織、文化(物質的な文化と高度な文化もあわせて)などの特定の連鎖であり、それはある種のまとまった歴史を形成し、その他の同様な現象と(かならずしも同時ではないが)共存する」と述べている。ドーソンによれば、文明とは「特定の民族が生み出す文化的な創造性の、特殊かつ独特なプロセス」の産物であり、一方でデュルケームとモースにとってそれは「ある数の民族を取り巻く一連の道徳的環境であり、それぞれの民族の文化は全体を構成する特殊なかたちにすぎない」のである。ショペングラーにとって、文明とは「文化の必然的な運命・・・人類という進化した種に可能な最も外面的かつ人工的な状態・・・できかけのもののあとにできた結果」である。ともあれ、文化は文明の定義のほぼすべてに共通するテーマである。文明を定義する主要な文化的要素とは何か?スパルタ人に向かって、彼らをペルシャに売りはしないと保証したとき、アテナイ人は以下のように伝統的なやりかたでそれを述べた。

たとえわれわれがそうしたいと思っても、大いに考えるべきことがたくさんあって、許されないからだ。第一に、最も重要なのは、神々の像と焼き払われて廃墟と化した神殿である。そのような罪を犯した男と仲直りするなどもってのほかで、われわれは力のかぎり復讐しなければならない。第二に、ギリシャ人種は血も同じなら言語も同じである、そして神々の神殿もいけにえの儀式も共通しており、生活習慣も似ている。アテナイ人にとって、こうした人々を裏切るのはよくないことだろう。

血統、言語、生活様式ギリシャ人種のあいだで共通しており、ペルシャ人をはじめとする非ギリシャ人種とはこれらの点で違っていた。しかし、文明を定義するあらゆる客観的な要素のなかで最も重要なのは、アテナイ人が強調したように、宗教である。人類の歴史における主要な文明は世界の主要な宗教とかなり密接に結びついている。そして、民族性と言語が共通していても宗教が違う人びとはたがいに殺しあう場合があり、レバノンや旧ユーゴスラビアインド亜大陸で起こったことはそのあらわれである。同じ人種に属する人びとが文明によってはっきりと切り離されることもあれば、異なる人種に属する人びとが文明によって統合されることもある。キリスト挙とイスラム教など、特にさかんに布教活動を行う宗教はさまざまな人種からなる社会を包含している人間の集団の最も重要な特徴は、その価値観、信仰、社会制度、社会構造であって、体格や頭部の形や肌の色ではないのだ。》

 この部分の例証としての引用、ツキディデスの「ペロポネソス戦争史」からの引用ですが、お互いに相争っている戦争の当事者・敵としてのスパルタ人に対してアテネ人が、ペルシアとの「文明」の違いとしての言語・宗教を強調することによって、互いの同一性を強調し信用させようとする。ここに、人間集団における「文明」の意義をとらえるとともに、構成要素として根本的な宗教をとらえて説明しています。この部分はトインビー博士の世界史の問題意識に直接通ずる大事な指摘であると思います。

 トインビー博士の「ツキディデス体験」から始まる世界史研究において、「文明」の過程を示す指標として頻繁に登場するのはギリシャ・ローマ文明、いわゆる「ヘレニック文明」です。さらに敷衍していえば、トインビー博士の世界史研究の前期と後期を画する重大な転換、高等宗教史観への変化は、時間的・地理的にはヘレニック文明の中にあるキリスト教に対する視点の変化が根本になっています。具体的には、当初、文明を構成する一要素としてとらえていた宗教の中には、それ自体が独立した社会として存在し文明を越える存在である高等宗教と名付けられるものが存在する。

トインビー博士によると、社会とは人間と人間の間のネットワークということになります。文明の盛衰を越えた永続的なネットワークとしての高等宗教。高等宗教は全人類への布教拡大を使命としますから、その運動の中に、部族、国家、民族のような地方的なつながりを越えて、全人類を一つの家族のように結びつける鍵があり、平和を目指す努力、つまり「全人類が一つの家族のように仲良く生きていこうとする方向を目指す努力」というトインビー博士が「文明」に与えた定義を実現する究極的な鍵がある。トインビー博士は、この高等宗教への着眼から第二次世界大戦後の様々な活動を始めたと言ってもよいと思います。この点については、さらに深めて論じていきたいと思います。

《 ③第三に、文明は包括的である。つまり、文明を構成する単位のどれひとつとして、それを包含する文明との関連を見ずには十分に理解することができない。トインビーが主張するように、文明は「他の文明に包含されることなく包含する」のだ。文明は「総体」なのである。・・・(略)・・・文明は最も範囲の広い文化的なまとまりである。・・・・(略)・・・・・・ヨーロッパの地域社会は共有する文化的な特徴によって、中国やヒンドゥー教の社会とははっきりと区別される。しかし、中国人もヒンドゥー教徒も西欧人も、それより広い文化的まとまりの一部を構成しているわけではない。彼らは文明を構成しているのである。すなわち、文明は人を文化的に分類する最上位の範疇であり、人類を他の種と区別する特徴を除けば、人のもつ文化的アイデンティティーの最も広いレベルを構成している文明の輪郭を定めているのは、言語、歴史、宗教、生活習慣、社会制度のような共通した客観的な要素と、人びとの主観的な自己認識の両方である。》

 

「他の文明に包含されることなく包含する」、文明を構成する文化的要素は、他の文明に包含されることなく包含されている。この「包含する」という動詞の主語にあたる存在が「文明」ということになります。