トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

フィリップ・バグビーとトインビー博士

トインビー博士関連の様々な関連書籍を読んでいくと、最もインパクトのある鋭い本質をついた批判を提出した人物としてとりあげられるのがフィリップ・バグビーです。

バグビーについては、日本のトインビー研究において大事な役割を果たされた、山本新先生、堤彪先生の高い評価に基づく紹介があります。ただ、バグビー自身は、本格的に文明の研究にとりかかろうとした直前に、40歳という若さで夭折しているために、現在残されているのは、序説ともいうべき一冊の著作のみです。その一冊とは、

Philip Bagby ,Culture and History : Prolegomena to the Comparative Study of Civilizations , University of California Press , Berkeley and Los Angels , 1958

日本においては創文社より、1976年に、フィリップ・バグビー「文化と歴史ー文明の比較研究序説」として、先ほど挙げた山本新先生、堤彪先生によって翻訳・出版されています。訳者あとがきの中で堤先生はつぎのように述べて紹介しておられます。

「著者フィリップ・バグビーは、「文明の比較研究序説」という副題が示唆しているように、これから、本腰を据えて文明の比較研究に着手しようとしていた。本書は、いわば、そのための準備作業であり、足固めであった。かれは、タルコット・パーソンズらの仕事に象徴されるような、方法論重視の知的雰囲気のなかで育ち、文化や社会の科学にとって、方法論がいかに重要であるかとよく知っていた。いってみれば、方法論的な基盤のうえに立つ、新しい研究法の洗礼を受けていたのである。だから、文明の比較研究という総合論的な学問分野に足を踏み入れる決心をしたとき、かれは、この研究を科学的基礎のうえに据えるにはどうしたらよいかを、あらかじめ考えておかないわけにはいかなかった。この分野は、基礎がまだ踏みかためられていない、とかれは感じていたので、その必要性は、なおさらのこと強く意識された。」

「かれは明確な方法論的意識をもって、この課題に立ち向かい、従来の歴史学や歴史哲学のあり方にたいする批判的反省と、それまでに達成された文化人類学の成果とを総合することによって、この課題に応えた。『文化と歴史ー文明の比較研究序説』という表題は、端的にこの事情を語ろうとしたものに他ならない」

社会学における基礎的概念の明確さや分析の精緻さは、定評のあるところである。バグビーも、もちろん、この点はよく承知していた。だがかれは、総合的全体としての文明、つまりは文明社会の文化という総体的な人間的事象を対象とするには、全体観的な視角が必要であり、そのためには、むしろ、文化人類学で発展してきた文化の概念のほうが有効である、と判断したのである。名目的にはどうあれ、かれには、社会学の関心はヨーロッパ社会に極限されており、そのうえ、ますます全体観的な方向を見失い、非歴史的・静態的になりつつあると見えたからである。かれの眼底にやきついていたのは、なによりもまず、個々の統合体としての文化や文明の存在であり、それらの示す異質性であった」

「では、生粋のバージニアっ子バグビーが、どうして文化や文明の異質性に着目するようになったのであろうか。これを明らかにしてくれるのが、かれの経歴である。かれは、最初から学究の道を歩んだわけではなかった。学生時代には外交官を志望していたからである。だから、かれは1939年にハーヴァード大学を卒業すると、引き続き外交官になるための研修に励んだ。かれは、合衆国のカサブランカ駐在副領事として、その経歴の第一歩を踏み出している。その後カルカッタに転じ、第二次世界大戦中は軍務にも服した。除隊後ふたたび外務畑に戻り持ち前の勤勉ぶりを発揮して、旧イタリア植民地関係の専門家となった。といえば、かれがなぜ異質の文化や文明の存在に開眼したかは、いわずとも明らかであろう。いろいろな異質の文化や文明に触れ、かれがいわゆる『カルチュアル・ショック』を経験しなかったはずはないからである」

「それと同時に、かれは、激動期のさなかにあって、世界大戦の本質やアメリカ、ひいては人類の運命に深い関心を払わないわけにはいかなかったことだろう。こうした運命への関心は、必然的に歴史への関心を呼び覚ますのが常である。かれのなかで、「文化と歴史」が結びつくのは、こうした原体験があったと想定するも、あながち無理ではあるまい。彼は深く心に期するところがあって、1949年に職を辞し、学究へと方向を転換した。母校のハーヴァード大学や、留学先のローマ大学とオックスフォード大学で、本格的に人類学と歴史学を学びなおして、1956年、オックスフォード大学から学位 Doctor of  Phirosophy を受けた。その二年後、かれは処女作である本書を世に問いながら、その直後、40歳の若い生涯を閉じた。1958年9月20日のことであった。」

「トインビーによれば『タイムズ』紙が彼の死を報じた日は、奇しくも本書「文化と歴史」の書評が、『タイムズ文芸付録』に載った日でもあったという(完訳版第23巻「再考察3」1196頁注2)・・・・《中略》・・・・トインビーはバグビーの死を深く悼み、この証言に、こう言葉を続けている。『これは人間的事象の組織的研究者にとって、思いがけぬ損失であった。バグビーは、非常に有能であるとともに、非常に明晰な頭脳の持ち主であった。かれが通常の天寿を全うしていたら、世に出たかれの序説〔本書:「文化と歴史」〕が約束していた、さらに大きな成果を達成したことであろう。わたしは、かれの著作を、かれがわたしの著作を評価したよりもずっと高く評価している。バグビーの年齢で死んでいたら、わたしはこの書物〔『歴史の研究』〕の最初の10巻の覚え書き以上のものは、なにも残さなかっただろう。』ちなみに、トインビーがその覚え書きを書き上げたのは、39歳の夏のことであり、『歴史の研究』の原稿を書き始めるのが、40歳のときのことである。」

「バグビーは本書で意図したことは、最初に触れたように、『文明の比較研究』の基礎固めをすることであった。もっと具体的にいえば、それは主題と有効に取り組むための、しっかりとして概念的枠組みを準備するということにほかならない(本書23頁)。これが、先行者たち、とくに直接の先行者であるトインビーの研究の仕方に触発された作業であったことは、いま述べたとおりである。この作業を進めるに当たって、かれは、まず科学的な歴史、歴史のより合理的で科学的な理解の本質解明をめざして、『歴史』の語義をを探り、歴史家たちの実際の仕事の仕方を分析する。かれは、自分の追求しようとしている『文明の比較研究』という主題が、『狭い意味での歴史に関するさまざまな一般化』を定式化する課題を負うと考えている(本書24頁)からである。このように、おのれの対象とするものが『歴史』に属すると考えている点では、かれはショペングラーやトインビーと異なるところはない。ショペングラーの主著『西洋の没落』Oswald Spengler , Der Untergang des Abendlandes , 1918-23  の副題は、『世界史の形態学概説』Umrisse einner Morphologie der Weltgeschichte であり、トインビーの主著の表題は、いうまでもなく、『歴史の研究』である。三者の異なるところは、それぞれの知的状況を反映して、対象への接近の仕方を、それぞれ哲学的、あるいは歴史的、あるいはまた科学的と考えている点である。だが、対象そのものが、本質的に違うわけではない。」

堤先生の「あとがき」をかなり長く引用させていただきましたが、バグビーという気鋭の学究の思いと、トインビー博士との関係が明白になっていると思います。バグビーが進もうとしている研究への先行者として、トインビー博士が存在する。しかし、「歴史の研究」が30年近い年月をかけて全巻が世にでてきた段階から、一般市民層の爆発的とも言うべき好意的な受け止めに反比例するかのように、とくに学者層を中心に強い反発と批難の声が上がっている。その批難の声は、一般市民層からの賞賛の声が高まれば高まるほど、反対に高くなっていく。その状況を受けての、バグビーのいらだちが率直に表明されている部分が「文化と歴史」の中にあります。

「トインビーは、きわめて無分別で非科学的なやり方で研究に着手することによって、文明の比較研究に大きな害を及ぼし、こうした企て全体の信用を失墜させることに力を貸してきた。ショペングラーと較べてさえ、かれは科学以前の道徳論的な歴史哲学の方向に一歩逆戻りしている。〔『歴史の研究』の〕後のほうの諸巻〔第7~10巻〕における黙示録的ヴィジョンが示しているように、かれはもともと預言者、それも〈近代ヨーロッパの歴史学徒〉の仮面をかぶった預言者なのである」(『文化と歴史』186頁)

またほぼ同趣旨の内容をタイムズ文芸付録の書評のなかで、つぎのように書いています。

「トインビー博士の中心命題を評価し、その経験的妥当性を検証しようとすると、われわれは自分の引き受けた課題が実行できないことに気づく。かれの主要概念は、どれ一つとして、十分よく定義されていないので、われわれは、それがいつ当てはまり、いつ当てはまらないかと判断することができない」(『トインビー研究』別巻79頁)

この批判は、トインビー博士の『歴史の研究』に対する本質的な批判として大きな意義があると感じます。トインビー博士は、この批判を受けて『歴史の研究』12巻として『再考察』を1960年代に著しました。この『再考察』の内容は、従来からの批判を受けて、真摯に様々な課題を根底から考え直し、誤りは率直に認め訂正していますが、自分の学問の骨子にあたる部分は、丁寧にしかし断固として主張しています。その結果としてトインビー史学はこの『再考察』において面目を一新しているといっても良いと考えます。そのきっかけとして数々のトインビー批判、その中でもバグビーの批判は、トインビー博士の創造的な〝応戦〟を引き出した正当なる〝挑戦〟として、確かに高く評価できると考えます。

それでは、バグビーのトインビー批判の根幹はどこにあるのでしょうか。それは、先に引用した文章に明らかなように、敢えて言えば「トインビー博士の世界史は〝科学的〟ではない」ということであり、それが信用を失墜させている根本原因であるということです。たしかに「比較文明」という学問を“科学”として成立させるためには、その出発点において、まず第一に『文明』『文化』という根本概念の定義が不可欠であり、その部分がしっかりと確立されない限り、『文明』に関しての合理的な論理展開に基づく学問の構築は困難であるように思われます。しかし私見を述べさせていただければ、この考え方のプロセスこそ現代科学技術文明の明暗を画する部分であり、トインビー博士の中心命題としてむしろ意図的に避けてきた部分であるということです。この部分に対するトインビー博士の考え方については、『歴史の研究』の中で何回も言及されていますし、トインビー博士のほぼ人生最後の著作となった、池田博士との『21世紀への対話』の中でも論究されていますので引用します。

「池田:あらゆる存在は、それをどの角度から把握するかによって、種々の姿を呈します。宇宙、自然、人間生命などについても、それらへのアプローチの仕方によって、人間の眼に映る様相は異なってきます。万物の様相についての、人間の認識の仕方が異なるというだけではすむならば、話は簡単です。しかし、認識は必ず人間に影響を与え、思考作用から行動まで左右します。極端な例かもしれませんが、人間生命をたんなる物質の運動形態にすぎないなどと認識してしまった場合、生命の尊厳性などは一顧だもされないことになるでしょう。とするならば、可能であるかどうかは別として――厳密な
意味でいった場合――万物のありのままの姿を、そのもの自体に即して、ありのままに描き出し、認識しようとする努力が必要ではないかと思います。
 そこで、万物を、できるだけそのものに即して把握しようとすれば、分析を総合との両方の作業が行われなければならないでしょう。つまり、部分を注視するとともに、全体観を見失ってはならないということです。また、たんに静的に見るのではなく、時間的な流れを考慮に入れて、動的に認識することが必要でしょう。
 
トインビー:ただいまのご提言は、事物の実相を把握するには二つの条件が必要であるということでした。一つは、部分を微視的に見るだけでなく、全体を巨視的に見る必要もあるということ、もう一つは、時間の次元において事物を動的に見る必要があるということでした。私はいま、これらの条件を主張してくださったことに、励まされる思いです。なぜなら、私自身、現代西欧の思潮に反発してきた結果、これら二つの条件の重要性を感ずるようになっているからです。
 
池田:なるほど、よくわかります。そのなかで、博士はとくにどのような点から、二つの見方の重要性を感じましたか。
 
トインビー:私の見解では、現代の西欧思想は極端な専門化を推し進めてきたために毒されています。そもそも、人間精神に映る実在の一断片の像が歪んでとらえられるのは、次のような場合です。すなわち、その一断片を恣意的に周囲の環境から切り離し、あたかも一個の独立した全体像ででもあるかのように、また、あたかも、より包括的な何ものかの不可分の一部ではないかのように――事実はそうであるのに――考えて研究する場合がそれです。
 私はまた、現代西欧の社会学的分析は、現実からかけ離れたものだと思っています。これは、生命がまるで静的生命ででもあるかのように、人間事象を過去や未来から切り離し、非現実的な瞬間的断面において分析しているためです。しかし、現実には、生命は動的なものであり、時間の流れのなかで流動的にとらえなければ、ありのままの姿を見ることはできません。」
 
ここに述べられているトインビー博士の視点は、トインビー博士の中心命題として、その主著「歴史の研究」の冒頭からしっかりと主張され、最終的にトインビー博士の全ての著作、言行に一貫している大事な命題です。
学問における科学的方法論、現象の一部分を限定して切り取り、科学的合理性によって客観的な整合性を持った認識を確立する。この方法論は自然科学においては、有効性を発揮し、現在にいたる自然科学を中心とした学問の発達を支えてきました。しかし、そこには重要な条件がありました。その条件とは、確立された認識の体系が、検証可能であるということです。自然科学の世界では、当然の条件であり、事象の観察、仮説の確立、実験での確認と一連の検証・プロセスをへて科学的な真理は確立され一般に認められます。しかし、このプロセスが有効なのは、実験可能な対象に限定されます。対象が無生物であるならば、この条件は比較的通し易いのですが、対象が生命をもつものになり、さらに人間となると、実験での確認は難しくなります。ほとんど、不可能であると言っても良いと思います。人類の歴史を総体として、地球上の全範囲、文明の始まりから全て取り上げて考察しようという意図に対して、先ほどの科学的アプローチは、その扱う対象を考えていくと、ほとんど 有効性を発揮できないの当然です。人間社会の歴史を解明する社会科学方法論として提出された、マックス・ウェーバーによる「理念型」的な把握にしても厳密に考えると、あくまでも現実を捨象した観念による創作物であり、歴史的現実とはかならずしもしっかりと適合していません。
いわゆる「科学的」な探求プロセスは、人類の歴史を総体として、地球上の全範囲、文明の始まりから全て取り上げて考察しようという「文明論」的なアプローチにはなじまない。というよりはこの方法論によっては、ほぼ不可能であるということです。しかし、この不可能を可能にすることによって、「文明論」を社会学文化人類学に匹敵するいわゆる「科学」として認知させようというのがバグビーの意図であり、その考察のスタートとして取り組んだのが「文化と歴史」であることは間違いありません。
 その思いと意気込みがあふれているこの著作は、バグビーのトインビー博士に対する強い批判の思いで書かれていますが、その思いは真摯であり、トインビー博士が目指してきた「文明」を中心に世界史を構築し、その中で全人類が「一つの家族のように平和に暮らせる社会」を構築する方途を発見したいとの意図に基づく「文明論」への道を継承してくれる可能性を感じさせる点において唯一無二に近い存在として認識されていたことは間違いないと思います。
それでは、トインビー博士はどのような方法論によって、先の「文明」を中心に世界史を構築し、その中で全人類が「一つの家族のように平和に暮らせる社会」を構築する方途を発見したいとの意図を実現しようとしていたのでしょうか。「科学的」方法論を意図的に否定した後、トインビー博士が取った方法論として、再考察の21巻に次のように語っています。敢えて言えば、きわめてオーソドックスな歴史学の方法論です。
 
 一つの現象を説明するための第一歩は、その前後関係を発見することである。
 『意味の探求は、総合を免れることはできない。より広い文脈のなかに置いて、初めて或ることの意味が理解できるからである。(Cohen, op. cit., p.33.)』

『一つの事実は、他の事実と関係づけられるか、或いはより大きな体系の一部とな らない限り、確証もしくは理解し得るものにはならない。(Ibid.)』

 この点を私自身の著作から敢えて例証するならば、「歴史の研究」第一巻~第十巻は、それだけを取り上げてのでは理解することのできないより狭い分野のための枠組みとして、「理解可能な研究の分野」を見いだそうとする二つの企てを軸にしていると言いたい。

探求の出発点は、多かれ少なかれ自足的な歴史研究の分野 ー現代の西欧の歴史家が通常研究の単位としている国家がその部分となるような研究分野を探求することであった。このような国家的単位は不十分であると私は感じていた。何故なら、それは私には自足的ではないように思われたからである。そして自足的でないということは、それが何かもっと大きなものの断片であるに違いないということを意味するであろう。私はこのより大きな研究単位を、私が「文明」と名付けた社会の種のなかに見いだした

文明は、その発生、成長、挫折を研究している限りでは、理解可能な研究単位であるように私には思われた。しかしその解体を研究する段になると、この段階では、文明の歴史は ー近代西欧世界の一部分である国家の歴史と同様にそれだけを切り離してのでは理解可能ではないということが判った

解体しつつある文明は、他の一つ或いはそれ以上の文明と密接な関係を結びがちであった。そして文明間のこのような出会いは、もう一つの種の世界、すなわち高等宗教を生んだ。探求の初めに私は高等宗教を民族国家とかその他の地方国家の変種と同様に、文明の観点から説明しようとしていた。諸文明の歴史の概観の最後の段階に於いて、私はこのような高等宗教の見方は結局それを十分に説明するものではないと確信するようになった。

なるほど高等宗教は、解体期の文明が変容して、そこから若い世代の新しい文明が出現する「蛹(さなぎ)」の役を果たした。また、なるほどこれは諸文明の歴史に於いて高等宗教が果たした役割であった。しかし、高等宗教自体の歴史のなかでは、この役割は付随的な役割であっただけでなく、それはそれ自身の使命を果たすという本来の仕事から高等宗教を逸脱させる傾向があるという意味に於いて、実際困った偶然であることが判った。私が、国家以外の種と他の大きさ単位のために十分な前後関係を提供する、したがって十分な説明を提供する・・・たとえば文明の説明の・・・理解可能な研究の分野の探究を続けなければならないとするならば、私は今や、これまでの作業計画を逆にすべきではないだろうかと自問しなければならなかった。一つの種の社会が、他の種の社会によって説明することができるなら、第一代と第二代の文明は、高等宗教勃興の予備段階として説明されるべきではないのか

私は探究の課程において、歴史研究の「理解可能な分野」が何であるかということについてこのように考え直したのであるが、この再考察は私に新しい出発点を与えた。そして説明の仕方を変える必要によって要求される見方の変化は、根本的な変化であった。クリストファー・ドーソンはこの変化を循環的方式から漸進的方式への変化と定義したが、それは正しい。実際この変化は非常に根本的だったので、多くの批評家はそれに驚き、一部の人々は、私は諸文明に関する私の最初の比較研究をここでやめて、宗教の見地から見た人間の歴史の意味に対する新しい探究を始めるべきであったと示唆した。(「歴史の研究」第21巻 p54~p56 )」 

この部分でトインビー博士が主張しているのは、一つの現象を説明するためには、その現象の前後関係を明らかにし、その関係性を叙述する中で、論理的に整合性があり、感覚的にも納得できる“説明”を提供することが必要であり、そこに歴史学の成否がかかっているということです。つまり、自然科学の方法論である事象の観察、仮説の確立、実験での確認と一連の検証・プロセスを経て、万人が納得する説明を確立する方法論ではなく、実験による確認が不可能である人間の歴史を対象とする歴史学においては、“事実”として検証、確認された“歴史的事実”を、その事実を含む、より大きな関係性とより広い文脈のなかにおいて検討し、納得できる説明として表現できたときに、始めてその歴史的な意味と意義がみえてくるという主張です。特に5000年にわたる人類の“文明”を検討の対象とするときにはこの方法論を徹底的に展開する以外にありません。バグビーがこの著書のなかで取り組んだ科学的説明を目指しての第一歩としての “文化” “文明”の定義もある意味では重要なことですが、それよりも大事なことは、考察の素材としての“歴史的事実”をしっかりと確認し、その“歴史的事実”をより大きな関係性と広い文脈の中で検討することであるとトインビー博士は主張しています。この方法論は、あらためて考えてみると歴史学の研究の方法論の基礎であり基本です。実際にトインビー博士の著作を読み進んでいくと、まず最初に圧倒されるのは、全世界に及ぶ、5000年以上にわたる文明段階での人類の歴史に関する圧倒的な知識量であり、あえて自らの価値意識を明確にされた人間としての認識の深さです。いわゆる科学的な学問方法論においては、自らの価値判断を学問の世界に持ち込むことは科学としての客観性を壊してしまう基本的なタブーとされています。しかし、トインビー博士自身が次のように語られています。

“学問は「感情をまじえず、一党一派に偏せず、公平無私であなければならない」(『21世紀への対話[上]』183頁)が、例外がある。「ヒトラーによるユダヤ人の大量虐殺といった問題になると話は別でした。これに関しては公平無私ということはありえない、と私には思えたのです。もし、このユダヤ人大量虐殺を、まるで天気予報でもやるような調子で、感情をまじえずに書いたとしたら、それはこの虐殺問題を公正に記録したことにはなりません。」(同184頁)人間社会の出来事を論ずる時には「完全に感情を抜きにして不偏不党になることは不可能だということです。・・・これが、私にとっての中道でした」(同185頁)”

人間世界を対象とする学問である “歴史学” には、学問の客観性以前に人間としての価値判断が求められる要素がしっかりと存在する。その上で対象である人間世界の歴史的事実に対して、納得できる説明を可能にするために、量的にも多量に、質的にも深く歴史的事実に精通していくか。この点において間違いなくトインビー博士は “20世紀最大の歴史家”であり、今後もこのレベルの歴史家は登場しえないと思います。

次章では、トインビー博士が “20世紀最大の歴史家” であることを、さらに具体的な例を挙げながら論じていきたいと思います。その具体例として、ショペングラー、バグビー、トインビー博士が共通して扱いに苦慮している紀元前一千年期から紀元後一千年にかけて地中海東岸を中心に存在(?)し、大きな歴史的な影響を後世に残している、トインビー博士が「シリアック文明」と名付けた文明を取り上げながら考えていきたいと思います。現在、大きな価値と影響をもっている、ユダヤ教キリスト教イスラム教等の高等宗教、また漢字圏を除けばほとんどの民族・国家の言語の筆記用の手段となっているアルファベットを生み出した文明ですが、政治的にも民族的にも複雑で簡単に扱うことができません。しかし、世界史の根幹をなす重要な意義を持っていることは間違いありません。その検討に入っていきたいと思います。