トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

トインビー博士の「シリアック文明」について

  トインビー博士が亡くなられて、すでに45年(1975年逝去)も経過していますが、この間、『文明』を単位として、世界の歴史を見ていく研究、論述は、遅々として進んでいないと言っても良いと思います。1970年代以降、トインビー博士に関して文明評論家的な取り上げ方は散見されますが、しかし、「歴史学」「考古学」の学問的な成果をしっかりと踏まえ、その基盤の上で「文明」を単位として世界史学を展開する視点からの論述は皆無に近いと思います。したがって、トインビー博士が達成した「歴史の研究」に、真の意味で迫る研究は未だに存在しないと言っても良いと思います。

ただし、中には明確に文明論的アプローチをとった考察もあります。1990年代、いわゆる「冷戦」終結後の世界に一つの衝撃をあたえた、ハンチントン博士の「文明の衝突」は、方法論としての文明論的なアプローチをしっかりと把握した上で世界情勢、国際関係の分析を展開しています。

また、比較的、最近の考察では京都大学名誉教授である中西輝政氏の「国民の文明史」があります。21世紀に入った2003年に「新しい歴史教科書を作る会」編として扶桑社から出版され、2015年にPHP文庫として再出版されました。その中で、中西氏は、現在の段階で存在している文明としての「日本文明」に焦点をあて、その特性の検討を中心として、論を進めています。しかし、前半部分で、かなり丁寧に『文明』を単位として歴史を見ていくことの必要性を論じ、従来の文明論研究の歴史を、ショペングラー、トインビー、バグビー、ハンチントン等を取り上げて論述しており、『文明』単位の歴史の見方を確認する上では、有効性が高いと思います。

また、ハンチントンは20世紀の後半、存在している文明として中国、日本、インド、イスラム、西欧、東方正教会ラテンアメリカ、アフリカをあげます。いずれにしても、『文明』としての日本のあり方については、中西先生の問題意識 を待つまでもなく今後の世界を展望し、その中での日本の方向性を確認する上で重要な意味を持っていると思います。このことについてはまたあらためて、考える機会を持ちたいと思います。

ここで、触れたいのはバグビーの視点によって、厳しく“非科学的”であると断定されたトインビー博士の視点を、文明を扱う具体的な例証をふまえながら検討していきたいと思います。バグビーは次のように書いています。

トインビーは、きわめて無分別で非科学的なやり方で研究に着手することによって、文明の比較研究に大きな害を及ぼし、こうした企て全体の信用を失墜させることに力を貸してきた。ショペングラーと較べてさえ、かれは科学以前の道徳論的な歴史哲学の方向に一歩逆戻りしている。〔『歴史の研究』の〕後のほうの諸巻〔第7~10巻〕における黙示録的ヴィジョンが示しているように、かれはもともと預言者、それも〈近代ヨーロッパの徒〉の歴史学者の仮面をかぶった預言者なのである」(『文化と歴史』186頁)

この、ある意味では鋭い追求に対して、前稿(「フィリップ・バグビーとトインビー博士」)において、トインビー博士の視点は、歴史学の基本をしっかりと踏まえた視点であると書きました。その視点とは、人間世界の歴史的事実に対して納得できる説明を可能にするために、量的にも多量に、質的にも深く、歴史的事実に精通していくことを大前提に、歴史的事実をしっかりとふまえ、その前後関係の解明を通して記述を組み立てていくということでした。バグビーの批判は、「後のほうの諸巻〔第7~10巻〕における黙示録的ヴィジョンが示しているように、かれはもともと預言者それも〈近代ヨーロッパの歴史学徒〉の仮面をかぶった預言者なのである」という箇所において、トインビー博士が、第二次世界大戦を経験した上で執筆された後のほうの諸巻〔「歴史の研究」原本 第7~10巻〕に見られる雰囲気を “黙示録的ビジョン” と表現し、トインビー博士を “〈近代ヨーロッパの歴史学徒〉の仮面をかぶった預言者 というきわめて強い表現で批難しています。歴史学者ではないという批難は、トインビー博士にとってご自身の人生そのものを否定されることに等しいかなり強い表現であると思います。この批難は当たっているのでしょうか。

歴史学の専門論文を読み込んでいくと、科学的であろうとする強い動機は、専門分野をできるだけ狭く絞り、その分野についての原資料にしっかりとあたり、先行論文をしっかりと読み込み、さらに歴史学的に矛盾のない論理を組みたて記述をする。いわば職人の仕事に属するていねいな仕事をしなければなりません。その結果が一つ一つの論文でです。そのような専門歴史学者の世界から、トインビー博士の「歴史の研究」を見たとき、まず率直な思いとして、一人の歴史学者としての専門性の範囲を大幅に超え、自在に世界の歴史を記述することに対しての違和感、というよりも嫌悪感が先立つのではないかと思います。しかし、この批難はあまりにも感情的です。このことを具体的に検討するためには、トインビー博士の主著「歴史の研究」を丁寧に読み解いていくことが、まず第一に必要なことであると思います。

ここで、まず前提となる『文明』について検討を加えてみたいと思います。世界史の上において存在した『文明』として、トインビー博士は23の文明を数えあげており、その中には日本文明も入っています。またバグビーは大文明と周辺文明という立て分けを設定したうえで、大文明として中国、インド、バビロニア、近東、エジプト、古典、西欧、中米、ペルーの九つをあげ、大文明としての中国文明を設定した上で、その周辺文明として日本文明を設定します。大文明とそれに影響を受けて成立した周辺文明の立て分けというバグビーの視点に影響を受けたと言われていますが、トインビー博士は従来設定していた23の文明を再検討し、1961年に刊行された「再考察」および1972年に刊行された「図説歴史の研究」の中において、“衛星文明”という位置づけで日本文明を取り上げ、これがトインビー博士の最終的な文明の設定となりました。

世界地誌、世界史の予備知識がないと、煩瑣な事項の羅列のように勘違いされてしまいますが、実際には厳密な学術研究の結果を丁寧に読み込み、さらにしっかりと考察されたものです。多少、煩瑣になりますが、『文明』の検討、理解においては必須と思いますので引用します。トインビー博士が「再考察23巻」で検討をし、最終的に認定された文明は以下のようになります。

Ⅰ.十分に開花した文明

A . 独立した文明

 *他の文明と親縁関係を持たない文明

  その文明の成立にあたって大きな影響を与えた文明が存在しない文明のことです

1.中央アメリ

これは元の表にあった「マヤ」文明と「メキシコ」文明と「ユカタン」文明を含むだけでなく、元の表では考慮していなかったメキシコ高原とグァテマラ高地の中央アメリカ古典期を含む

いわゆる、メソアメリカ文明です。前古典期とされる前1200年ころからのオルメカ、古典期とされる紀元前後からのテオティワカン、マヤ、紀元後7世紀頃からのトルテカ、後古典期とよばれる紀元後11世紀ころからのアステカなどが代表ですが紀元後16世紀からスペインの侵略を受けて征服され破壊されました

2.アンデス

いわゆる「インカ帝国」で文明全体の政治的統一(universal state)の段階を経験する文明です

中央アンデス地帯の海岸部、山岳部を中心として紀元前3000年ごろから神殿が作られはじめたが、土器が製作され始めるのは前1800年ごろからでした。その後海岸部にはモチェ、ナスカ社会、高原部にはティワナク社会が成立、7世紀になるとワリ社会、12世紀ごろからはチム―王国が現在のペルー北海岸を支配した。15世紀になるとインカが南北4000キロにわたる大帝国を築きあげたが、16世紀スペイン人の侵略によって崩壊しました

     *他の文明に対して「子の関係」にない文明

   成立にあたって、大きな影響を与えた文明「親」文明が確認できない文明です

3.シュメル・アッカド

これは元の表のシュメル文明とバビロニア文明を含む。ティグリス・エウフラテス流域の独自の文明の最後の時期の文明であるバビロニア文明は、その霊感(インスピレーション)において依然としてシュメル的であった。アッシュールバニパル(アッシリア帝国のB.C7世紀の王)の図書館は、シュメール語で書かれたテキストとシュメル語の辞書を蔵していた。それにもかかわらず、その頃にはシュメル語が「死語」になって千年以上も経っていたことを考えると、紀元前7世紀にアッシリアティグリス・ユーフラテス中流)とバビロニアティグリス・ユーフラテス下流)に広がっていた文明に「シュメル」という名をつけることは誤りであろう。ハンムラビ(B.C17世紀のバビロニア)時代以来、シュメル文明の生ける伝達具として、セム系のアッカド語がシュメル語に取って代わっていた。したがって紀元後1世紀までその特性を失わなかった(楔形文字の使用等)文明の全期間を示すには、「シュメル」という名よりもシュメル・アッカドという名の方が啓発的である。

紀元前3000年ころ、ティグリス川、ユーフラテス川の河口地域に成立した最古の文明、いわゆるメソポタニア文明です

4.エジプト

紀元前3000年ごろの、ナルメル王による、上・下エジプトの統一から文明全体の政治的統一(universal state)が存在した文明としてトインビー博士は考えています。紀元前4世紀のアケメネス朝の征服によってエジプト人による支配は終わりを告げたと言われています

5.エーゲ

これは元の表の「ミノス」文明だけでなく、当時の大陸ヨーロッパ・ギリシャのエーゲ文明の一種である「ヘラディック」文化と、「ミノス」と「ヘラディック」双方の最後の時期の文化である「ミュケナイ」文化を含んでいる。

地中海東部のエーゲ海に散在する島々、その中でも大きなクレタ島クノッソス宮殿の発掘(ミノス文明)、さらにギリシャ本土のミュケナイアナトリアの沿岸のトロイなど、考古学の黎明期に話題を提供した画期的な発掘成果に引きずられる形で認識され別々の文明として表現されていたものの全体像を「エーゲ」として示されました。先の「中央アメリカ」との視点と同じ現実に即した判断です。紀元前3200年ごろのキュクラデス(ヘラディック)文明から始まり、紀元前1200年頃、ミケーネ(ミュケナイ)文明の破壊で終焉を迎えました

6.インダス

インド西部インダス川流域および並行して流れていたとされる(現在では痕跡のみ)ガッガル・ハークラ川周辺に、紀元前2600年から紀元前1800年の間栄えた文明です。

7.シナ

これは元の表の「シナ」文明だけでなく、第七巻~第十巻(原本)のシナ以前の「商」文明のみならず、「極東」文明(本体)を含んでいる。

元の表では、トインビー博士は中国における文明を、夏王朝・殷王朝、から始まり、周王朝時代の春秋戦国時代が「動乱時代」、秦漢帝国の成立をもって「世界国家」とみるサイクルで「シナ」文明。五胡十六国魏晋南北朝時代を「動乱時代」とし隋唐帝国の成立をもって次の「世界国家」とみる「極東」文明としてきました。しかし再考の結果、別の文明とみるよりも中国の歴史の一貫性を重視すべきであるして、あらためて「シナ(china)」文明として再設定しました。

  *他の文明に対して「子の関係」にある文明(第1群)

8.シリアック(シュメル・アッカド、エジプト、ヒッタイトの子)

9.ヘレニック(エーゲの子)

10.インド(インダスの子)

  これは元の「インド」文明だけではなく、「ヒンズー」文明を含んでいる。

トインビー博士は、当初、仏典でいう十六王国時代を統一に先立つ「動乱時代」、アショーカ大王のマウルヤ朝を「世界国家」として『インド』文明を設定し、その後の動乱を経て、統一を回復したグプタ朝を「世界国家」として『ヒンズー』文明を想定していた。しかし、再考の結果『シナ』文明と同じく一貫性を重視して一つの文明として『インド』文明を再定義しました。

   *他の文明に対して「子の関係」にある文明(第二群)

11.正教キリスト(シリアックとヘレニックの子)

12.西欧    (      〃      )

13.イスラム  (      〃      ) 

B.衛星文明

14.ミシシッピ (中央アメリカの衛星)

15.「西南」  (    〃    )

  すなわち、現在のアメリカ合衆国南西部のコロンブス以前の文明である

16.北アンデス (アンデスの衛星)

  現在のエクアドルとコロンビアにおける文明である

17.南アンデス (アンデスの衛星)

  現在の北チリと北西アルゼンチンにおける文明である

? エラム  (シュメル・アッカドの衛星)

18.ヒッタイト(シュメル・アッカドの衛星)

? ウラルトゥ(シュメル・アッカドの衛星)

19.イラン(最初はシュメル・アッカドの、次いでシリアックの衛星)

20.   朝鮮    (シナの衛星)

21.   日本    (シナの衛星)

22.   ヴェトナム (シナの衛星)

? イタリア (ヘレニックの衛星)

これは紀元前最後の千年期にイタリアに移住したエトルリア人と、以前からイタリアに住み着いていた諸民族の共通の文明ということになろう。彼らの文明のなかの共通の要素(たとえばクマーエのアルファベットを知っていたこと)は、ヘレニック文明に起源を持っていた。ヘレニック時代のイタリアの文明はヘレニック文明に負うところが非常に大きかったので、イタリアはこの時代にはヘレニック世界の一衛星というよりは、むしろその一地方であったと見なす方が有益であるように思われる。確かにヘレニック文明は衛星を得たが、それはようやくアレクサンドロス以後の時代になってからであった。その時代に、シュメル・アッカド文明とエジプト文明とシリアック文明は、その特性を失う前にヘレニック文明の衛星になったのである。ヘレニック文明はシリアック文明をそれ自身の場に引き入れた結果、その特性を失ってヘレニック・シリアック文化合成体になったのである。

23.東南アジア(最初はインドの、次いでインドネシアとマラヤだけはイスラムの衛星)

24.チベット(インドの衛星)

大乗仏教チベットに於ける形のものに改宗したモンゴル人とカルムック人を含む。

25.ロシア(最初は正教キリスト教の、次いで西欧の衛星)

17世紀末葉以来西欧文明の場に引き入れられたのは、ロシア文明だけではなかった。ロシア以外の正教キリスト教民族のうちの二つ――――ギリシャ人とセルビア人――――はロシア人と同じくらい早くから西欧化し始めた。それ以来、非西欧社会は次々とロシア人にならった。実際1961年に文明期の社会にせよ、文明以前の社会にせよ、ある程度西欧文明の衛星になっていない現存する非西欧社会を見出すことは困難であった。しかしシリアック文明がヘレニック文明の場に引き入れた後に起こったことによって判断すると、非西欧社会と西欧社会のこの関係は一時的なものであったということになるかも知れない。この歴史的な先例に照らしてみると、西欧文明とその衛星文明が混合して、全ての文明から寄与を得た新しい世界(オイクメ二カル)文明になることもあり得るように思われるのである。

Ⅱ 流産した文明

・第一次シリアック(エジプト文明によって消滅させられた)

ネストリウス派キリスト教イスラム文明によって消滅させられた)

 私の元の表では「極東キリスト教文明」と名付けられた流産した文明である 

・単性論派キリスト教イスラム文明によって消滅させられた)

・極西キリスト教(西欧文明によって消滅させられた)

・スカンディナヴィア(西欧文明によって消滅させられた)

  O.ヘーファルは、私が極西キリスト教とスカンディナヴィア文明を流産した文明として分類しているのは正しいかと問うている。彼はこの二つの文明が背後に長い歴史を持っていたと指摘している。私もそれに同意する。しかし私のみるところでは、紀元5世紀以前のアイルランドと9世紀以前のスカンディナヴィアはまだ文明以前の段階にあった。

・中世西欧都市国家組織(近代西欧文明によって消滅させられた)     

 

 

 

 

具体的に検討するために、いわゆる『シリアック文明』について検討してみたいと思います。トインビー博士が設定した『シリアック文明』は、現在のところトインビー博士のみが設定している文明です。その上、トインビー博士に対する批判が集中している焦点の文明ですが、『文明』から『高等宗教』中心へと変化するトインビー博士の『歴史の研究』においては重要な意味を持つ文明です。トインビー博士が人類の歴史全体を、綿密に検討して設定した23の文明のなかで、最重要の意義を持つ文明であるといっても間違いではないでしょう。何故ならば、過去にその本源をしっかりと持っている現象で、現在の世界に存在している客観的な意味で最も重要な現象は何かという観点から明らかになってくると思います。それは、宗教です。その中でもトインビー博士が高等宗教としてあげているキリスト教イスラム教、この両宗教は現在の世界において、世界宗教として多くの信者を抱え、世界の多くの活動に大きな影響をあたえています。この両宗教成立に大きな役割を果たしたユダヤ教を含めた発祥の地であり、発祥の歴史的な背景となった文明ということになるからです。トインビー博士はシリアック文明について次のように書いています。(「歴史の研究」第22巻 再考察)

「本書では、Syriac という言葉を、ヘレニック文明とほぼ同じ時代にシリアに生まれた文明を名づけるという異なる目的のために使っている。・・・・・『シリアック』文明の元来の郷土であったシリアは、最も広い意味におけるシリアである。すなわち、西南のエジプト文明の領域と東南のシュメル・アッカド文明の間の全領域である。エジプトに対しては、その境界は、大シリアの西南端の居住可能な地点であるラファを、ナイル・デルタの東北隅のかつての砦であるペルシュムから分かっている百マイルの幅を持つ砂漠によって明瞭に区切られている。シュメル・アッカド世界に対してはその境界はもっと曖昧である。しかしこの方面のシリアの境界を定めることはできる。すなわちそれは、いずれにせよティグリス河とエウフラテス河の下流領域にある沖積地方と、モスル市と同緯度のティグリス河とこの方面のイラン高原の西南部周辺の間のアッシリアの肥沃な雨の多い土地を含んではいないのである。北では大シリアの境界は、アナトリア高原の東南部と接続しているアルメニアアナトリア高原の南部境界によってはっきり定められる。コンマゲネと東(低地)キリキアだけでなくティグリス河上流流域も、このように限定されるシリアの境界内に入るであろう。一方南では、境界は明確ではない。ここではシリアはアラビアに溶け込んでいる。トランスヨルダンのギリアド高原は、アンモン、モアブ、ミディアン、ヒジャーズ、アシール、ヤーマンを通ってほとんどアデンの見えるところまで切れ目なく南方および西南方に向かって延びている。私の見るところでは、紀元前第二千年期の後半に大シリアにおいて形成されたシリアック文明は、その後この長く延びているシリアの東部にまで広がっていった。南アラビアのアルファベットで書かれた最古の碑文に対する最近の推定年代から判断すると、このことは紀元前千年期が始まって間もなく起こった。「シリアック」文明の元来の郷土は、現在のシリア、レバノン、ヨルダン、イスラエルの諸国と、メルジナから東に向かってティグリス河上流流域までの南トルコの細い地域と、西アラビア南部のヒンターランドを合わせた地域にほぼ一致するのである。一部の学者はエーゲ海域のヘレニック文明と同時代のシリアの文明に統一性があったことを認めない。この問題は本章の後段で論じられる。一方この時代のシリアが――統一していようが、多様であろうが――実り豊かな強力な文明的な事業と業績が営まれた土地であったことを否定する学者はいないであろう。たとえば、シリアから発してヘレニック世界に及ぼされた影響がほとんどどの時期にも強力、且つ重大であったことを認めずに、ヘレニック史の歩みをたどることはできない。紀元前八世紀以前ではないにしても、紀元前八世紀にはヘラス人はフェニキア文字の形だけではなく、名称も含めてフェニキア人の発明したアルファベットをシリアから取り入れた。紀元前八世紀以後彼らは西部地中海水域の支配をめぐってフェニキア人と競争を始めた。この競争は五百年以上も続いて、ついに第一次および第二次ローマ・カルタゴ戦争(ポエニ戦争)でローマが勝利を得た結果、この争いはヘレニズムの勝利となって決着を見たのである。紀元前七世紀にはフェニキア人がヘラスに伝えた「東洋的」な様式からヘレニック芸術は霊感を得た。全ヘレニック史における最も運命的なひとつの出来事は、紀元前二世紀にシリア体腔部に起こったヘレニズムとユダヤ教の間の思想的宗教的衝突であった。ユダヤにおけるユダヤ教徒の反ヘレニック抵抗運動は非常に強く、セレウコス王国の軍事的政治的な力に助けられたユダヤユダヤ人ヘレニストの、ユダヤをその固有のユダヤ教的伝統からヘレニズムに改宗させようとする企てに打ち勝った。紀元前二世紀におけるヘレニズムの文化的政治的敗北によって一切が終わらなかったが故に、この出会いは運命的であった。政治的敗北はつかのまのことであった。何故なら、まず紀元前(B.C.)142ー141年に、そして最後に紀元前(B.C.)129年にセレウコス政府から独立を勝ち得たユダヤユダヤ人国家は、紀元前(B.C.)63年にはローマに従属することになり、パレスチナユダヤ教徒の政治的ナショナリズムは、結局紀元後(A.D.)66ー70年と紀元後(A.D.)132-135年のローマ・ユダヤ戦争に於いて粉砕された――しかも決定的に粉砕された――からである。しかし、征服されたユダヤは征服者たるヘレニック世界の人々を宗教的な面で虜(とりこ)にした。ヘレニック世界は結局ユダヤ起源の宗教に改宗した。この宗教は神学と視覚芸術の分野ではヘレニズムと妥協したにもかかわらず、その霊感と教理においては本質的にユダヤ的であり、ユダヤ的であり続けた。そしてこのヘレニック世界のキリスト教への改宗がヘレニック文明の終末になった。改宗の結果ヘレニズムはその特性を失ったのであった。」