トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

トインビー博士とパブリック・スクールの教育

 トインビー博士の生涯において、決定的な影響を与えた要素をたどってみたとき、やはり、トインビー博士が12歳から18歳までの最も多感な青少年時代を過ごしたウインチェスター・カレッジでの生活を挙げないわけにはいかないと思います。

 まず第一に、その中でつちかった友との一生涯にわたる友情、また先生方との深いかかわりが挙げられると思います。第一次世界大戦という思いもかけなかった歴史的出来事に遭遇することによって、このつながりは深い意味を持ち、トインビー博士に生涯にわたる影響を与えることになります。

 さらにウインチェスター校を初めとして当時のパブリックスクールの教授内容の中心であった人文主義教育が与えた影響。このことはトインビー博士自身が回想録で、具体的に書いておられますが、カリキュラムの大部分をギリシャ語・ラテン語を占めるという教育を受けることによって、今生きている西欧文明の歴史を、すでに完結し、誕生から崩壊までを総体として見ることができる別の文明と比較対照してみることが可能になり、文明を単位とする人類史、真実の意味での世界史を論じ、研究することが可能になりました。

 さらに日本では意外と論究されませんが、キリスト教的な紳士を生み出すことを目指す教育が挙げられると思います。19世紀のパブリックスクールは、今私たちが想像する以上に宗教的な雰囲気が強くあり、ラグビー、サッカー、クリケット等の〝ゲーム〟を重視し〝フェアー〟であることを最高の価値として、「マスキュラー・クリスチャニティー」(日本語に直訳すると〝筋肉的キリスト教〟となります)を志向する教育が理想とされました。パブリックスクールの歴史の中で、必ずその名前がでてくるラグビー校のトーマス・アーノルド校長、その時の在校生で、これも必ず名前がでる小説「トム・ブラウンの学校生活」の著者でもあるトマス・ヒューズが描写する当時のパブリックスクールの様子は、まさにこの理想を目指す過程を生き生きと描写しています。

 これらの要素が融合して、パブリックスクールの生徒一人一人の人格として形成されていきました。個性の違いはあっても、いわゆる〝ジェントルマン〟という言葉に象徴される19世紀後半から20世紀前半にかけてのイギリスにおいて理想として志向すべきとされた指導者像です。それぞれの要素の影響は、最終的には一個の人格として集約される総合的なものと思いますが、ここでは個々の要素を具体的にみていくことによって、トインビー博士に対する影響を考えていきたいと思います。

 まず、この12歳から18歳の最も多感な時期を親元を離れ、共同生活を送ることに生み出される生涯の強い友情と連帯意識です。今の日本の学齢に当てはめると、中学校入学から高校卒業まで、いわば子供から大人へと変わっていく身体的にも精神的にも大きく変化して行く時期です。私自身は、このような共同生活を経験することはできませんでしたが、私が勤務した私立学校、創価学園においては創立当初から全国に開かれた生徒寮をもち、生徒の共同生活の場である寮が教育の根幹に組み込まれていました。そこに寮担当の教員として勤めた経験から、寮生活から生まれる生涯の友情、連帯意識の強さを心からの感動と尊敬の念をもって語ることができます。この共同生活を共にした人たちは、一生涯にわたって強い友情連帯をもって生き抜いていおられることは間違いありません。トインビー博士が70代の後半に出版された「回想録」は、「寄宿学校」と題する、ウインチェスターでの思い出から書き始められます。

ウインチェスターから私は生涯の宝を三つもらってでた。われわれに教育を与えて くれた創立者たるウィカムのウイリアム〔生誕1324年~死没1404年、1382年・イギリス最初のパブリックスクールであるウィンチェスター・カレッジを創立した〕に対して、5世紀以上もの隔たりを越えて結んだ父子の関係。当時の副校長〔ということは学校の寮監ということであったが〕でのちに私の卒業後校長になったM.J.レンドール先生に対する尊敬と賞讃と愛情。同年配の多くの人々に対する深い友情。この三つである。この友情は、兄弟の間の血縁関係と同じくらい親密で永続的なものであった。生涯の友エディ・モーガンにはじめて出会ってから数分後、私は第九室に立って、デイビット・デイヴィスを初めて眺めていた。彼は五番で入学したのだと思う。エディ・モーガンと私はまだ生きている。デイビットは、私より六ヶ月若かったのに、もう生きていない。しかし1902年から1964年まで、デイビットと私は決して別れたことがなかった。われわれは一緒にウィンチェスターとオックスフォードを卒業し、身体的に不適格であったために二人とも第一次世界大戦で戦死することを免れ、ロンドンで活動している時期には毎週一回昼食を共にしたものであった。」(回想録Ⅰp10)

さらに続けて、トインビー博士の歴史研究を貫く原点としての「戦争に対する根底的な否定」が生まれた原体験としての同世代の友人への思いを語られます。

「われわれの世代で学校に通った者のうち、およそ半ばは第一次世界大戦で命を落とした。おそらくこのために、生き残った者たちのきずなは以前にもましてなおさら緊密なものになったのであろう。しかしわれわれのうちで天寿を全うした者と時ならずして生命を絶たれた者との間で、そのきずなはこの上なく緊密なものであったし、今もそうなのである。・・・・(中略)・・・・半数も死んだのでなかったなら、著名な人々の数は少なくとも現在の二倍になっていよう。たとえば、ボビー・パーマーは今日保守党の長老政治家になっていよう。G.L.チーズマンは、フラッカーロとデ・サンクティスの死後現存するローマ史家としては、疑問の余地なく世界で最もすぐれた学者になっていよう。・・・・(中略)・・・・ウィンチェスターを出たとき、私はギリシャ語の二行連句を作って、そこで受けた古典教育と創立者に対する敬愛の念にもかかわらず、そこを去るのがうれしいと宣言した。後にオックスフォードで私は第二の二行連句を書いて、第一のものを取り消した。そのときにはもうウィンチェスターの部族的な律法の支配下には暮らしておらず、ウィンチェスターで結んだ友情が私にとって貴重な宝であることを悟っていたのである。」(回想録Ⅰp13)

トインビー博士の自宅のマントルピース(暖炉)の上には、若くして命を第一次世界世界大戦で失った友人の写真額が20あまり飾られていたということは、その部屋で対談された池田大作先生の感想の中に印象深く書かれています。そして、なぜ優秀な青年たちが戦死しなければならなかったかについても触れられています。先ほど冒頭にあげたパブリックスクールの人材像、その生き方の理想としての「ノブレス・オブリューズ」を貫こうとする生き方は、多数のパブリックスクール出身の青年に、国家の一大事としての戦争、第一次世界大戦に、自ら志願して出征する道を選ばせました。

刀槍・弓矢が中心の武器である中世の騎士の時代ならいざ知らず、機関銃等の機械的な大量殺人兵器が、科学の発達によって次々と戦場に登場した第一次世界大戦においては、個人的な勇気を持って戦陣の先頭をきる生き方は自らの命と引き換えの、無謀ともいえる生き方になっていました。パブリックスクール出身で自ら志願した青年は、まず最下位の将校として任官、十人前後の兵を率いる小隊長として戦場の最前線で戦いに参加することが多く、パブリックスクールで培ってきた理想のとおりに勇気を持って戦闘の先頭に立った彼らの戦死率は非常に高いものがありました。結局、1914年の戦争の勃発から1年以内に、トインビー博士の同級生の半数が戦死する結果となりました。トインビー博士は、この事実とご自身が受けた衝撃を繰り返し、繰り返し語っておられます。その様子は、まさに〝通奏低音〟のようにトインビー博士の全生涯にわたる著作の中で一貫しています。この戦死率の高さについても次のように言及されています。

「私自身が衝撃を受けてこのこの伝統的な態度(戦争を必要悪として肯定する生き方)からはっきりと押し出されたのは、学校時代に得ていた同年配の友人のおよそ半数が第一次世界大戦で殺戮されたためである。彼ら〔=私たち〕が属していた世代と社会階級は、あの戦争のときのイギリス軍のうちで最も多くの戦死者を出した。彼らは職業軍人ではなく、臨時に少尉の地位を与えられた志願兵であった。そして第一次世界大戦においては、この地位を与えられるということは死刑の宣告を受けることにも等しかったのである。彼らの多くは、『戦争を終えるための戦争』において、自分を犠牲にしているのだと信じつつ生命を投げ出した。私自身は偶然の出来事〔ギリシャ研究旅行中にかかった赤痢の後遺症のため兵役不適と判断される〕のために1969年にもまだ生きている。こうして生きてきた結果、私は戦争を黙認する伝統的な態度から、絶対反対の立場に転向したのである。戦争は立派な制度でもなければ微罪でもなくて罪悪である、と私は1914年に確信するようになった。1945年以後は、もし人類が依然としてこの罪悪を犯し続けるなら早晩、集団自殺を遂げることになろうと確信している。」(回想録Ⅱp38)

  トインビー博士の著作として有名な「歴史の研究」、執筆に30年以上の歳月を費やしたトインビー博士の主著ですが、この大部の著書を締めくくるにあたって、末尾の部分に「感謝の言葉」を記されています。丁寧な心遣いにあふれた文章が続きますが、その中で実名をしっかりとあげて、20代前半で戦死した友人のことを記されています。 引用します。
「『時』の緩慢な仕事であり、したがって、人生のあらゆる偶然と転変に左右される地味な事業のうちに、全く『記念碑を残さない者』もいる。本『研究』の筆者を63歳まで生き延びさせた偶然の戯れは、38年前に以前に戦死した彼の同輩や友人の生命を断ち切った。30年以上の歳月を要した彼の著作を完成しようとする今、彼は若くして死んだ ガイ・レナード・チーズマン  Guy Leonard Chesman,  レズリー・ウィテカー・ハンターLeslie Whitaker Hunter,  アレグザンダー・ダグラス・ギレスピーAlexander Douglas Gillespie,  ロバート・ハミルトン・ハッチソンRobert Hamilton Huchison,    アーサー・イネス・アダムArthur Innes Adam,   ウイルフルド・マックス・ラングドンWilfrid Max Langdon,    フィリップ・アントニー・ブラウンPhilip Anthony Brown,     アーサー・ジョージ・ヒースArthur George Heath,    ロバート・ギブソンRobert Gibson,
およびジョン・ブラウンJohn Brown,の戦死によって世界が失った、ついに書かれなかった著作のことを考えずにはいられない。これらの人々は、文明時代の始まり以来戦われてきた戦争に於いて生命を中途で断ち切られた、無数の勇敢な、自己を犠牲に捧げた青年―――この世は彼らの住む所ではなかった―――の十人の代表にすぎなかった。第一次世界大戦に於いて若くして軍人として生命を捧げたこれらの学者は、生き残った彼らの友人の心と記憶のなかに生き続けている。そして、生き残った者の一人である筆者の生涯と著作は、言葉に言いあらわすことができないくらいに多く、これらの若くして死んだ仲間の不断の記憶に負っている」(「歴史の研究」完訳版20巻 p441)
トインビー博士の生涯に於いて、敢えて既存の歴史研究の道を取らず、全人類の全時代にわたる歴史を、文明の比較・検討を通して表現しようとされた根本の目的が明確に表現されていると思います。

 今から100年以上も前の戦争のことであり、特に日本の場合は日英同盟を口実に参戦しましたが、主戦場のヨーロッパでの戦争に陸上戦力は参加せず、海上戦力の応援にとどめ、一方アジア太平洋地域では南洋諸島および中国青島のドイツの権益を攻略してその手に収め、戦争状態にある当時の最先進国地帯であるヨーロッパの生産活動が戦時体制で手一杯である状況下で、代行の生産で〝漁夫の利〟とも言うべき莫大な利益が転がり込み、いわゆる〝成り金〟が輩出するという状況が現出しました。さらに悪い言葉で表現すれば〝火事場泥棒〟とも表現できると思いますが、アジア・アフリカの諸国の中で西欧と肩をならべるまでに力をつけ、アジア・アフリカ諸国民の希望の星となっていた日本が、その期待の思いに反して自らも欧米列強と同じ帝国主義国家として利益を追求し、悪名高い対中国21箇条要求をつきつけるという出来事が象徴するように自国の利益を追求することに熱心に取り組む。いまから考えるとその後の傀儡国家・満州国の成立からその延長上の日中戦争、さらにアメリカ合衆国との対立から結果的には全世界の主要国と戦うことになり最終的に日本の歴史始まって以来の徹底的な敗戦と、破局を経験する方向への第一歩を明確に歩み出したのが、第一次世界大戦における日本であったと思います。従って日本人にとっては、遠いヨーロッパでの戦争であり、直接的な経験に基づく印象が薄いいわばよそごとの戦争だったと思います。

この戦争を契機としてヨーロッパで成立した数々の小説、例えばマルタン・デュガールの「チボー家の人々トーマス・マンの「魔の山」等に盛り込まれたような個人の運命と歴史的な出来事との邂逅、そこに生まれる存在をかけての思考とは無縁の世界であったと思います。また第一次世界大戦から第二次世界大戦に及ぶ二十世紀前半の〝30年戦争〟を、全人類的な経験としての西洋科学技術文明の破局として捉え、根底的なパラダイムの変換の必要を志向する数々の業績、例えばユング深層心理学における無意識層への取組み、カール・バルトにおける神学。ショペングラーの「西欧の没落」、そこで認識される「文明」単位での世界史の探究としてのトインビー博士の「歴史の研究」。これらの業績を虚心坦懐に受け止めると、二十世紀前半の第一次、第二次世界大戦がもつ究極の悲劇的体験としての意味の解明を契機とした「文明」的衝撃の大きさが見えてきます。

トインビー博士にとっての第一次世界大戦は、まず具体的には開戦後一年間のうちに、クラスの友人の半数を失うという経験からスタートしました。この経験は、単に個人的な経験の次元にとどまらず、ヨーロッパの人々にとっての文明観、世界観の根底を揺るがす根本的な経験として、トインビー博士の生涯の学問的営為の原動力となり、世界の歴史を探究するなかで〝戦争〟と〝差別〟という人間社会の根底的な二大害悪をなくす道をさぐるというトインビー博士の生涯の根本テーマとなりました。ここにいたって、いわゆる価値自由、「科学」的な記述において要求される客観性から離れることになります。論じている対象を正確に天気予報のように記述するのではなく、戦争は〝悪い〟〝差別〟は悪いとの良い悪いの価値判断が記述・論考の中に加わることになります。その善し悪しの判断は、核兵器という人類全体の絶滅をもたらす黙示録的兵器が登場した現在において重要な判断であると思いますし、心ある人びとの賛同を得ることを確信します。