トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

クリストファー・ドーソンのトインビー批判

クリストファー・ドーソンは1889年10月12日、イギリスに生まれ、ウィンチェスター校・オックスフォード大学と、1889年4月14日生まれのトインビー博士とは、同年の生まれであるばかりでなく学歴も共通しています。もっともトインビー博士は、ウインチェスター校にストレートではなく一年遅れて入学していますから、同窓であっても同級生ではなかったかもしれません。また、ドーソンはカソリックの立場に立った歴史家・文明論者としても有名であり、「Dynamics of World History」をはじめとして数々の著書があります。ここで引用するのは「Danamics of World History」の中のトインビー批判の一節です。
 クリストファー・ドーソンの批判は、第二次世界大戦後の1954年に、トインビー博士の「歴史の研究」のⅦ巻からⅩ巻が発刊され、第二次大戦前に出版されたⅠ巻からⅥ巻に加えられて、全10巻が完結した段階で書かれました。第二次世界世界大戦後、サマーヴィルによって「歴史の研究」の縮刷版が1946年に出版され、欧米の市民層から爆発的ともいうべき好意的な受け止めをされていたトインビー史観でしたが、全巻が完結した1954年以降、専門の歴史学者を中心として批判が集中しました。19世紀以来の伝統的な科学的方法論に基づいて研究を進めてきた歴史学者にとって、トインビー博士の「歴史の研究」は、驚天動地と言っても良い内容であり、批判が集中するのは当然であったかも知れません。この批判の嵐の後、専門の歴史学者からは、ほとんど意識的に無視されるかたちとなって、今日に至っています。
このクリストファー・ドーソンの批判は、トインビ―史観の本質をよくとらえ、丁寧に書かれていると思います。その意味で、トインビー博士の「歴史の研究」の概論を確認する上で役に立つと思います。以下、引用しながらその観点からコメントを書いていきます。
トインビー研究別巻p91
「トインビー博士の『歴史の研究』は、最後の四分冊〔1954年・全部で10巻になる英語版完成〕の出版によって完結された。いまや、博士の研究全体を包括的に考察して、その意義と価値についてなんらかの意見を述べるということが可能になった。しかし、これは容易な仕事ではない。あれほどの博識と確信をもって書かれた六千頁にのぼる一大研究を軽々しく批判することは許されない。かといって、同じ分野の研究者たちの批判にたよるということもほとんど不可能である。すくなくとも我が国〔イギリス〕では、そのような研究者があまり見当たらない。
まず思い当たることは、この研究が、一方では、とくにアメリカでは、非常な人気を博しているのに、他方では、とくに我が国〔イギリス〕では、歴史の専門家から冷淡に、あるいは過酷なまでに、批判されているという事実である。このことは、今日まで文明なるものが歴史研究でとりあつかうべき適当な問題であると見なされなかった点から考えるならば、別に不思議なことではなさそうである。歴史学は、民俗と国家、政府と制度、などをとりあつかい、文明の研究は、もっぱら哲学者や社会学者の手にゆだねられてきた
このような研究体制は、歴史家が同一の文明の伝統を享受しているヨーロッパの諸国だけを問題とし、東方世界の研究は植民史の枠内でとりあつかわれるといった過去の時代には、相当の成果をあげえた。しかしながら、今日では、このような研究体制で問題を究明せんとすることは、もはや不可能である。近代史は、ヨーロッパ諸国間の抗争や接触と同じ位、ないしはそれ以上に、諸文明間の抗争や接触を重視しなければならない。今日、一般の人々は、いまや歴史の舞台の主役として台頭しつつある世界の偉大な各種の社会について知りたがっている。しかるに、一般の歴史書は、こういった読者の期待に添いえない現状にある。といったようなことが、トインビー博士の研究を明白に意義づけており、また博士の研究が広く人気を博している主な理由の一つでもある。われわれは、博士の結論に賛成であると否とを問わず、歴史研究は文明の研究を包含してしかるべきであるということ、ならびに、西欧およびアメリカの諸国や人民の研究に限定された歴史は一面的かつ不完全であるということ、を認めるべきである。」
この部分において、トインビー博士の「歴史の研究」において、「理解可能な歴史の範囲」としてとりあげられ、「歴史の研究」の基本的な歴史認識のカテゴリーとなっている「文明」単位での歴史認識が、専門の歴史学者にとって強い違和感と抵抗を感ずるかを論じています。しかし、クリストファー・ドーソンは「文明」単位の歴史認識の必然性を時代の変化をふまえて肯定しています。
トインビー研究別巻p92
「さて、トインビー博士が、現存する東・西側両文明、ならびにそれぞれの先行文明、の比較研究を試みられたのであれば、まことに有益な貢献をされたといえよう。ところが実際には、それ以上のことを試みられたのである。博士は、あらゆる文明の興亡を決定する法則を発見し、諸文明の将来に関する予想を立てるために、かつて存在したあらゆる文明の研究を試みられたのであ。これこそは、30有余年の昔に、かのオズワルト・ショペングラーが試みたと同じ試みである。この二人の著者の気質や哲学は、著しく相違している。にもかかわらず、トインビー氏の理論の原形は、ショペングラーの文化形態論とかなり類似している。この二人の著者は、文明の画一性を否定する点において一致しており、両者はいずれも、諸文明をば、文明相互の関係においても、また諸文明が多分発生したと思われる原始社会の社会からも、はっきりと区別される自律的な実体であると考えている。しかし、トインビー氏は同氏の21の諸文明を同等にして同時的な同種類の単位(ユニット)とは見なしてはいるが、それは、文化(ドイツ語における文化は英語圏の文明と同じ意味)をばまったくの生物学的な意味における有機体としてとりあつかい、一コの文化(文明)の歴史は、一人の人間あるいは一匹の動物、一本の木、一輪の花の歴史とまったく同じようなものである」とするショペングラーの説ほど極端ではない。
ショペングラーが彼の理論を編み出すために用いた確固たる論理、あるいは自分の理論を説明するために駆使した奇想と文体とは、きわめて印象深いものである。さりながら、その素晴らしい構成も、明らかな誤謬のために損なわれている。もし、各文化(文明)が完全に自己充足せる小宇宙であり、それぞれが独自の、そして相互に伝搬することの不可能な芸術・宗教・哲学・科学などを具備しているとすれば、歴史家はいかにしてそれ固有の文化(文明)を外部に取り出してその生成の全過程を外部から知ることができるであろうか。この点で、ショペングラーの歴史哲学は自己矛盾に陥っているといわざるをえない。個人は、いかなる状況の下においても、自己が所属している文化(文明)の限界をけっして超越しえないことを示しながら、それと同時に、世界のありとあらゆる文化(文明)を外部から眺め、それらの文化(文明)の興亡と、それらの生命の循環の全進化を支配しようなどというごとき大それたことを試みて、ショペングラーは自分自身の法則を中途半端のものたらしめてしまっている。」
この部分から、クリストファー・ドーソンの批判点が表現されてきます。「歴史の研究」が「文明」単位の認識を進めるのは良いが、そこにショペングラー流の有機体に擬した文明の発展過程を持ち込むことは誤りであるとしています。しかし、この部分について考える上で重要なことは、トインビー博士の「歴史の研究」は、1914年のいわゆるツキディデス体験を原点としているということです。ウィンチェスター校・オックスフォード大学でのギリシャ語とラテン語を通しての古代ギリシャローマ世界〝古典古代〟の徹底的な教育、トインビー博士自身も回想しておられますが、ほとんどその時代に生きていると同じレベルにまで習得することを要求する教育でした。その基盤があった上で、1914年の第一次世界大戦の勃発の瞬間を経験したところに、この〝哲学的同時代性〟とトインビー博士が表現されている内容が成立します。事実、「歴史の研究」の前半は、文明の誕生、成長・発展、「break down」と表現されている挫折、文明内の諸勢力が争う動乱時代、その中の有力な勢力による、その文明全体の軍事的な統一、その後の衰退、滅亡と進行していく「文明」の諸段階を検討していきますが、その際に指標として使われているのがいわゆる〝古典古代〟、具体的にはギリシャ・ローマ文明である「ヘレニック文明」です。トインビー博士はヘレニック文明の諸段階との比較検討から、その他の諸文明を認定・検討しています。誕生から崩壊までの一連の段階が明確に認識できる「ヘレニック文明」を指標とする段階では「文明」諸段階の認識が目立つのはやむを得ないと考えます。
トインビー研究別巻p93
「トインビー氏は、〔ショペングラーの〕この哲学的な「離れ業(tour de force)」が不合理であるということを認識している。トインビー氏は、ショペングラーとは違った方法でこのことを試みている。だが、すべての文明には共通の要素が存在するということ、すわわち、科学や倫理は個々の文明の限界を超越しているという事実、は否定していない。ところで、この場合、例の21の文明はなぜいかなる意味においても同等であるといえるのであろうか。すくなくとも、その理由は理解しがたい。なぜなら、それらが、科学的業績とか倫理的発展の面において、同じ水準にあるなどというようなことは、とうてい考えられない。仮に一歩譲って、各文明が、それぞれ他の文明におよぼしたと思われる寄与・貢献だけではなしに、一コの全体としてそれ自体のために研究するに値する理解可能な研究領域であるとしても、すべての文明を哲学的に同等なものとして見なすことは、とうてい不可能である。それは、ちょうど、われわれが国家というものを自治的な政治的実体として研究するとしても、国家という国家が政治的・社会的発展の面において相互にいずれも同等であるというわけにはゆかぬのと同じである。
かように、トインビー博士のはじめの数巻においては、私は、同氏の判断の基礎になる道徳的絶対論と同氏の理論に現れている文化的相対説とを調和させることの困難さに当惑せざるを得なかったしかしながら、この問題は、すくなくとも最後の完結部に当たる四巻(1956年に出版された7,8,9,10巻)の出版によって、解決されるにいたった。トインビー氏は、これらの新しい諸巻の最初の部分で、すなわち、「世界国家」(universal state)と「世界教会」(universal church)という問題に関する箇所において、新しい原理を披瀝している。その原理は、同氏が初期の見解を根本的に修正したことを示し、かつショペングラー流の同等の諸文化(文明)の相対的現象学から19世紀の観念論的哲学者たちの歴史哲学へと同氏の「歴史の研究」が変質していったことを意味している
すでに第五巻において予見されていたこの変化は、諸文明が哲学的に同等のものであるという同氏の初期の理論が放棄されたことを明示するとともに、高等社会を代表し、諸文明に対してはちょうど原始社会に対する高等社会と同じような関係にある「高等宗教」において具現化された質的原理を導入したことを示しているかくしてトインビー氏の歴史理論は、ショペングラー説のごとき循環論に陥ることなく、原始社会から出発して第一代、第二代の文明を経て、歴史が究極的なゴールを見出している高等宗教へと向上する漸進的な一連の四つの世界を舞台とするにいたるのである。同氏自身の言葉を借りるならば、歴史研究は「われわれが探求しはじめたころの近代西欧世界の地方的な諸国家のごとくに、今度は諸文明がわれわれにとって理解可能な研究領域とならなくなってしまい、宗教の進歩に役立つということを除けばその歴史的意義を喪失してしまったという点」(Ⅶ,p.449.)に到達したのである。」
この部分でクリストファー・ドーソンは、トインビー博士の「歴史の研究」の前半であるⅠ巻からⅥ巻までの部分と、第二次世界大戦後に著された第Ⅶ巻から第Ⅹ巻までの部分の変化を正確に捉えています。「高等宗教」「世界国家」の検討段階でトインビー博士は熟考した結果として、それまで一つの「文明」のなかの一要素としてとらえていた「高等宗教」を、「文明」とは別の独立した存在として考え直しました。クリストファー・ドーソンは、それまでの認識を180度変更したことになる、「文明」と「高等宗教」との関係の逆転は、トインビ―史観における革命的変化であるということを強調しています。
この部分に注目したということは、クリストファー・ドーソンの従来からの視点、宗教に重要な歴史的意義と意味を見る視点が働いているようにも思います。トインビー博士も、のちの「再考察」の中で、このクリストファー・ドーソンの文章をそのまま引用して、その論点の意義を論じています。
よくトインビー博士の歴史観は前半の「文明」中心から、後半は「高等宗教」中心に変化したと言われますが、そのことの意義を正確にクリストファー・ドーソンは捉えていると思います。時代的にも空間的にも同等の立場で並列している「文明」を単位とするかぎり、歴史の進行は繰り返しを基本とする「循環論」的になります。しかし「高等宗教」を文明の進行とは別の次元で進化するものとすると、歴史はある目標に向かって進化していくとする「進化」の過程を踏まえる思想になっていきます。これは「神の国」を目指す、ユダヤ教キリスト教イスラム教に共通する、またキリスト教を裏返しにしたといわれるマルクス主義哲学の理想の「共産主義社会」をめざす進歩の発想につながります。
この視点を敷衍していくと、重要な観点がつぎつぎと生まれていきます。
まず、ここでトインビー博士が「文明」と「高等宗教」の関係を考察する上で、重要な考察の材料としているのが「ヘレニック文明」とキリスト教の関係です。今から1300年前に崩壊した「ヘレニック文明」の時代にすでに存在しキリスト教は、さらに現在に於いても、多数の人々の生き方に対して重要な影響力を及ぼして存在しています。西欧文明が成立する上での重要な構成要素として、ギリシャ・ローマ文明の文化的遺産をあらわす「ヘレニズム」キリスト教の要素をあらわす「ヘブライズム」、この二つの要素を表現して「二つのH」と通称することがあります。まさにこの事実についての考察が、トインビー博士が「文明」と「高等宗教」の関係性についての認識を転換する上で、重要な意味を持っていたと思います。
さらに、キリスト教を生み出す母体となったのは、ヘブライ人の宗教経験です。ヘブライ民族には、周辺の大国にその運命を左右される過酷な歴史的経験、アッシリアによるイスラエル人の捕囚、新バビロニアによるユダヤ人の捕囚があり、ユダヤ教キリスト教イスラム教などの「一神教」を生み出す上で重要な意味をもつ歴史的経験となっています。
さらに、ペルシャ帝国によって解放されて故地に帰還したあと、支配的な影響力をもってヘブライ人の世界に浸透しつつあったヘレニック文明受容の可否を巡っての「ヘロデ王」に象徴される受容賛成派と「ゼロド派」に象徴される受容拒否派との対立。この歴史的な事実・経験は、文明の接触、受容、対立抗争について貴重な例証・経験として重要な意味をもっています。とくに16世紀の西欧人の世界進出以来、西欧文明をいかに受け止めるかが、それぞれの文明の根本課題となっている現在、この経験は実際的な意味をもっています。世界史を考察するときに、日本文明における19世紀・江戸時代末期の「攘夷」か「開国」化の対立。朝鮮文明における19世紀「独立党」「事大党」の対立、中国文明における「洋務運動」とそれに反発する「西太后」を中心とする派の対立、イスラム文明におけるオスマン・トルコの数々の西洋化の運動とそれに反発する勢力との対立、インドにおけるセポイの反乱に象徴される反発とその後のインド独立においてのガンジーの運動、ロシアにおけるピョートル大帝の改革にはじまる西欧文明の受け止めから始まるスラブ愛国派と近代化を目指す勢力との対立、ロシア革命もその西欧化の動きに対するロシア人の応答の一つであると、トインビー博士は明確にその認識を持って論じています。
さらに、キリスト教の成立を考えた時、支配勢力としての「ヘレニック文明」と被支配者としてのヘブライ人、フェニキア人、アラム人が含まれる「シリアック文明」との接触から生じる歴史現象を、しっかりと考察していくことも重要です。この「シリアック文明」は、セム語族に属するアラム語を日常の共通語として主に地中海東岸に紀元前後に成立した文明とトインビー博士は設定します。この中には現在、ほとんどの国で使用されている「アルファベット」の使用を開始したフェニキア人、ユダヤ教キリスト教を開始したヘブライ人等、現在にも大きな影響をもつ民族が含まれます。「文明」と「文明」の接触は、利害上の対立関係から軍事的な「衝突」に発展して行く場合があります。この場合は原理とする信条が異なる「文明」と「文明」との衝突は、妥協を許さない相手に対する徹底的な破壊に至ることがあります。トインビー博士自身は、後に「ハンニバルの遺産」という著作でこの状況を、学問的な論文として扱い論じています。また第二次世界大戦の最終段階で、世界の全ての諸文明を代表する国家と戦い、人類初の核兵器を使用されることによって、国土を完全に破壊されることになった「日本文明」の運命についても、1929年の時点で「哲学的同時代性」の視点を援用して「カルタゴの運命」と重なる日本の運命について論及しています。
さらに、この文明の接触・衝突が生み出すことになった宗教的経験から生まれてきたキリスト教をトインビー博士は「高等宗教」とします。「高等」という価値判断を下す根拠について、トインビー博士はその歴史的意義をしっかりと論じています。つまり、文明の衝突は徹底的な破壊まで進行する悲劇も生むが、その一方で、その敗北した文明の中から、この歴史的な悲劇を根底的に止揚する可能性を持つ普遍的な「高等宗教」を生み出す可能性がある。この部分がトインビー博士の歴史観の究極的な意義であることは間違いありません 。
 クリストファー・ドーソンの分析はさらに続きます。
トインビー研究別巻p96
これは、革命的な変化である。その意味を十分に評価するには、第七巻の第七表に順を追って配列されている諸文明および諸宗教に関する詳細な表を研究しなければならない。その表はトインビー博士の新しい理論が、いかに当初の二十一の独立した同等の文化系列を変形させたかということを示している。それは、六つの段階に配列されている。・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この詳細なる文明と宗教との分類は、きわめて複雑であるがために、われわれがそれを細部にわたって綿密に理解するには、そうとうな研究が必要である。しかし、すくなくとも、文明が興亡する循環運動そのものが歴史の全体ではないということは明白である。循環運動は、世界宗教によって代表されている精神的普遍性という、より高等な原理に従属している。そこで、歴史は今一度進歩的かつ合目的的なものになるわけである。すなわち、ヘーゲルのごとき19世紀の観念的哲学者が考えたような精神的進化の過程をたどるもの、とされるのである。・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・
にもかかわらず、トインビー博士の歴史哲学の結論は、ズブの素人や職業的歴史家のいずれによっても受け入れられないだろう、と私は考える。それは、ズブの素人にはあまりにも難解かつ学究的でありすぎるるし、職業的歴史家にはあまりにも思弁的かつ観念的でありすぎる。トインビー氏が到達した占めて二十三の諸文明の分類方式に同意するような歴史家は、ほとんどないであろう。中国文化の三つないしは四つの連続的な諸様相から三つの個別的な文明を創り出すことは、独断的であるように思われる。同様のことが、同氏のいわゆる三つのキリスト教文明―――西欧文明・東方正教文明・ロシア正教文明―――についてもいいうるわけである。もし、これらのすべてが別個の文明として分類されるのであれば、なぜ朝鮮の文明と日本の文明とが同一視されねばならぬのか。また、きわめて特殊なチベットビルマやシャムの文明が、なぜ同氏のリストでは個々ににとりあつかわれていないのか。これでは、チベットないしはビルマがインドに近接している以上に、ロシアがヨーロッパに近接し、また回教ペルシャが回教シリアに近接している、というようなことになりかねない。」
この部分の朝鮮文明、日本文明は当初、中国文明の影響を強く受けた極東文明として提示されました。このような扱いに対するクリストファー・ドーソンの指摘は、トインビー博士にとって貴重な指摘として、最終的には「再考察」「図説・歴史の研究」において訂正されています。ちなみに、トインビー博士が最新の考古学の成果を反映して文明表を変更したのは1970年代までです。とくに南北アメリカの諸文明、アジアの文明については大きく変更しました。また、インド、中国の文明については幾つかに分けていたものを一つとする、一貫性を強調する判断に変更しました。1970年代以降、21世紀の今日まで50年近くの年月が流れ、その間、考古学は着実に進展し、一例をあげれば中央・南アメリカでの知見は確実に拡大し年代も大きくさかのぼって、すでに古代エジプト文明と同時代にまでさかのぼることができる遺跡も発掘されています。したがって、世界の諸「文明」を確認・確定するためには、学問の進展を待って常に変更を加えて行く必要があります。「文明」については、このような可変的な要素が或る存在であると認識していくことが大事になってくと思います。トインビー博士も、最終的にはそのように考えられていたと思います。
 トインビー研究別巻p97
しかしながら、歴史家がとくに反対していると思われるのは、第三代文明も高等宗教にとって代わられるとするトインビー氏の見方である。この理論に従うと、文明というものは、第二代の段階において高等宗教を生み出すことによって、その目的を達成してしまったということになる。同氏によれば、文明は、そうすることによってそれ自体の使命を果たし、新たなるより高等な形式の社会―――すなわち、世界教会―――にとって代わられるのである。それゆえに、第三代文明は歴史的機能を有しない。すなわち、それらは、初期の歴史的段階の徒らなる反復にすぎないから、歴史家にとってはなんら本質的価値を有しない。すなわち、それらは、初期の歴史的段階の徒らなる反復にすぎないから、歴史家にとってはなんら本質的価値を有さぬ存在と化してしまう。同氏が説明しているように、その歴史的過程は、四つの段階から成り立っている。つまり、⑴原始社会、⑵第一代文明、⑶第二代文明、⑷高等宗教、という四つの段階のみから成り立っている。
さて私は、この見解が歴史家一般からはげしく攻撃されることは必至であると考える。なぜなら、これらの第三代文明こそは、近代科学化された歴史研究の主要な領域だからである。・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・
たしかに私は、大多数の近代史家に逆らうことになるかも知れぬが、トインビー博士の、文明は宗教に役立つために存在するのであって、宗教が文明に奉仕するために存在するのではないという中心命題に同意したいと思ってい。だからといって、このことは、なにも直ちに、文明は消滅して教会にとって代わられねばならないということを意味してるのではない。これと同様のことが、マルクスの歴史理論において、国家は消滅して階級のない社会にとって代わられると予想されている関係にもいいうるわけである。人間がこの世に存在するかぎりは、文明とか文化が存在するはずである。従って、文明が世界宗教の真理を受け入れるとしても、そのことはかならずしも文明を教会たらしめてしまうことを意味しない。」
この部分で、クリストファー・ドーソンは、トインビ―史観の「高等宗教」と「文明」とに関する観点に賛成しています。さまざまな批判論がトインビー博士の史観に対して加えれていますが、「たしかに私は、大多数の近代史家に逆らうことになるかも知れぬが、トインビー博士の、文明は宗教に役立つために存在するのであって、宗教が文明に奉仕するために存在するのではないという中心命題に同意したいと思っている」とまで言っているのは、クリストファー・ドーソンのみであるように思います。カソリックという宗教的な立脚点を持つクリストファー・ドーソンにとっては、この自身の意見表明は自然であると思います。しかし、そうだからと言って、トインビー博士の視点に完全に賛成しているわけではありません。いくつかの重要な疑問点をあげています
トインビー研究別巻p99
「さらに私は、トインビー博士の歴史から神学への還元法(ロジャー・ベーコンの表現を借りた)が、歴史家よりも、神学者や比較宗教の研究者から、はげしく反対されるであろうと想像する。事実、神学者の批判は、歴史家の批判と軌を一にしている。歴史家がトインビー氏の例の文明の表を受け入れがたいと考えているように、神学者たちも同氏の第一代宗教に関する表に驚かざるをえないであろう。まず第一に、同氏が現存する宗教の範疇を四つだけすなわち、キリスト教イスラム教・ヒンズー教大乗仏教の四つだけに限定している理由を理解することが困難である。ユダヤ教を現存する宗教の一つとして認めることに反対する神学者は、ほとんどいないはずである。仏教の場合でも、いまなおセイロン・ビルマ・シャム・カンボジアなどで支配的な宗教となっている仏教の一種を除外しているがこときことは、独断的すぎるように思われる。この仏教の方が、すでに中国や朝鮮ではほとんど死滅してしまって、現在わずかに日本とチベットとネパールのみに存続しているにすぎない大乗仏教よりは、はるかに活気がある。」
この部分では、高等宗教としてトインビ―博士があげているのがなぜ、四つの宗教に限定されるのかということについて、疑問を投げかけています。とくにトインビー博士がユダヤ教を高等宗教のリストから外したこと、小乗仏教を無視してこの時点では確かにクリストファー・ドーソンの指摘の通りの状況であった大乗仏教を選んだことについて、強い疑問を発しています。
トインビー研究別冊p100
「もちろん、極東の宗教―――すなわち、ヒンズー教大乗仏教―――は、トインビー博士の宗教的混合主義の典型にかなり適合している。だが、これらの宗教が同氏の説に合致しているわけは、歴史の意義を否定し、永遠と宇宙とが相互に継承し合って眩惑的な錯綜を生じて、神の単一性と仏陀の歴史的人格とが、仏陀とか菩薩とか、男神・女神・半神・精霊などのごとき漠然とした神話的人物の存在によって見失われているような宇宙論かつ神話的幻想ともいうべき夢の世界を創造している点にある。他方、西欧の三つの高等宗教―――すなわち、ユダヤ教キリスト教イスラム教―――は、それとはまったく異なった途を歩んできている。それらの宗教そのものは、創始者たちの歴史的現実と密接不可分な関係にあり、しかも神とその民との間には独特の関係が樹立されている、といった存在である。であるから、この二つの異なったタイプの諸宗教を対象とした混合主義なるものは、必然的に一神教的な宗教の否定を意味し、汎神論的ないしは多神教的宗教による吸収を意味しているわけである。もちろん、そういった過程は、考えられないこともない。しかしわれわれは、それが可能であると推定する歴史的根拠や、そういった過程が望ましいとか正当であるとする推測する神学的根拠を持ち合わせていない。これまでの歴史の主要な傾向は、そのお人好しの競争相手を犠牲にすることによって、急速にその勢力範囲を拡大し続けてきたのである。」
この部分において、トインビー博士が高等宗教としたキリスト教イスラム教、ヒンズー教大乗仏教の四つの宗教について、なぜ四つだけのなかという疑問と共に、さらにヒンズー教大乗仏教という他の宗教に寛容な二つの高等宗教を選別したのかという点について、疑問を呈していますトインビー博士の原文の論旨を辿ってくると、トインビー博士が「高等宗教」を他の諸宗教から分別した理由は明確です。「歴史の研究」の最後の部分、イギリスのエディンバラ大学のギフォード講演に招待されて、1952年から53年にかけて講演した結果を出版した「一歴史家の宗教観」の最後の部分、また回想禄の最後でもこの件を論じています。一貫してトインビー博士が判断の基準としているのはどの宗教が「戦争に対する反対」の姿勢を貫いているかという点です。この基準で、歴史の事実を通して判断していった時、ある特定の民族にのみ限定されているという視点でユダヤ教は外れますし、歴史上の様々な事件を通してキリスト教イスラム教は外れます。この、クリストファー・ドーソンの文章の中でいみじくも表現されたように、
この二つの異なったタイプの諸宗教を対象とした混合主義なるものは、必然的に一神教的な宗教の否定を意味し、汎神論的ないしは多神教的宗教による吸収を意味しているわけである。もちろん、そういった過程は、考えられないこともない。しかしわれわれは、それが可能であると推定する歴史的根拠や、そういった過程が望ましいとか正当であるとする推測する神学的根拠を持ち合わせていない。これまでの歴史の主要な傾向は、そのお人好しの競争相手を犠牲にすることによって、急速にその勢力範囲を拡大し続けてきたのである。」と明確に歴史的な経緯を指摘されたように、ヒンズー教大乗仏教の現実は、この文章が書かれた1954年の時点では、その通りであったと思います。1956年にトインビー博士は訪日されます。その際、日本の朝野をあげての歓迎体制の中で、当時の日本を代表する歴史学者と長時間の懇談、質疑応答の機会がもたれました。その様子は、当時の雑誌記事やさまざまな著作の中に反映されていますが、なかでも桑原健夫が図説「歴史の研究」の後書きに書いて或る文章が印象的です。桑原健夫氏はトインビー博士の質問のほとんどが大乗仏教に関するものであったと書いておられます。また、日本訪問を含む旅の様子は「東から西へ」という旅行記として出版されました。その中で日本については、第二次世界大戦の敗戦という事実に対して、日本人の宗教的な応答を、日本におけるキリスト教、既成仏教、新興宗教の動きについて主に記述しています。経済的な復興、政治的な問題については、ほとんど触れていません。トインビー博士の歴史家としての関心のあり方を象徴している部分であると思います。
文明の衝突の結果として、軍事的に徹底的に敗北した「文明」の宗教的な「応戦」として「高等宗教」が、「最下層の民衆の中からの自発的な動き」として登場するというトインビー博士の歴史観にそって考えていったとき、トインビー博士の人生最後の大きな仕事として考えられる、創価学会池田大作会長との対話を、トインビー博士が自ら求めて行った意味が見えてくるように思います。
この途にいたるさまざま判断の段階でトインビー博士が用いている基準は一貫して「戦争否定」です。「21世紀への対話」と日本語名がついていますが、トインビー博士自身が選んだ名称は旧約聖書から選んだ「Choose Life」です。現在においては、戦争は最終的には核戦争であり、勝者敗者をこえて全人類滅亡につながる「死」の選択です。人類は「生」を選ぶために、何を選ぶべきか。この題名には深い意味があり、私たちに選択を迫っていると思います。