トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

トインビー博士がなし遂げたもの

トインビー博士のなし遂げたもの
戦争に対する絶対反対の強い姿勢が生涯の学問研究の根本的動機
通奏低音のように、繰り返し繰り返し生涯にわたって著作の中にあらわれてくる
パブリックスクール ウィンチェスター校での経験より強く影響を受けているもの
友人を第一次世界大戦最初の2年間で半数を失う
ウィンチェスター校のホームページにいまだに写真入りで、第一次世界大戦での戦没者の紹介がある
トインビー博士、生涯最後の会合 ウィンチェスター校での式典 ラテン語でスピーチ
一生涯の強い友情の絆
自宅のマントルピースの上の写真立て
具体名をあげて、言及される。exチーズマン……・etc
なぜ多数の戦死者がごく短期間に、パブリックスクールの出身者から出たのか
映画「1917年」
イギリスジェントルマンイデーの悲劇
その後の著作の中で繰り返しそのことに言及される。
この体験が持つ重要性……トインビー博士の人間としての生き方の基底に常にあるもの「戦争に対する絶対反対の思い」
その後のトインビー博士の人生の岐路での判断・学問の方向性の判断において常に基底となっている

トインビー博士の戦争に対する考察→戦争を引き起こす根本の原動力としての人間の自己中心性・欲望に注目
人間の集団力による成功体験=集団力の崇拝=国家の偶像化・崇拝“国家主義は誤った宗教である”
第一次世界大戦=神格化された国家同士の戦い+自然科学の進歩による破壊力・殺傷力の飛躍的拡大
トインビー博士の最初の本格的著作“Nationality & war”1915 において何が論じられているか
春日潤一論文2005の趣旨
単純な国家主義的な視点ではない
戦争勃発とともに志願するかどうかの葛藤(母は志願を進める←→妻及びその母は止める)
志願書に赤痢の病歴を期して出願→兵役免れる
圧倒的な大部分の友人が志願する中で、戦争に参加していない〝負い目〟を意識させざるをえない
ナショナリティと戦争』トインビー博士が25歳の1914年10月ごろから書き始め1915年1日に出版
〝国家を持つ権利を主張して烈しく衝突しある諸ネーションにどのようない領土を分割し、対立を調停するかという問題について、ヨーロッパの各地域の地政学的・歴史的分析を通して彼なりの考えを述べてもの〟
マクニールの解釈によれば、トインビーなりの方法(学問的な方法)で平和へ貢献すると言う思いと共に、結果として兵役を忌避していることに対する負い目を軽減したいという思いがあったのではないか
ショーヴィニスム(Chauvinism)〔排外的愛国主義〕、ジンゴイズム(Jingoism)〔好戦的愛国主義〕、プロシャ主義(Prussianism)〔軍国主義〕など幾多の名におけるナショナリズムの悪の要素は、戦争という災難をもたらし、またもたらす可能性のある現在のヨーロッパ文明においては同一のものである。もしも私たちの目的が戦争を防ぐことにあるならば、そのようにする道はナショナリティからこの悪を追放することである。(NW,10-11)
国民国家は、実在するもっとも偉大かつもっとも危険な社会的達成である」(NW、481)とのトインビー博士の命題は、このアンヴィヴァレンスという点において、『ナショナリティと戦争』における国家観を端的に要約している(春日論文、p293)
ヘレニック文明の都市国家の崇拝→世界国家ローマの神格化
抗争の連続=“動乱時代”→或る世界(文明)全体を統一し支配する国家勢力が成立する“Universal State”まで続く ex: Pax Romana
文明の二大害悪=“戦争”と“社会的不平等”
“Universal State”は永遠ではない→人間の自己中心性・欲望が根底にある限りは、常に崩壊・破局へ向かって進む→文明の衰退・崩壊
今まで地球上に存在した文明でこの運命を免れたものは存在しない
オックスフォードのチューターをやめる決断
ロザリンド・マリーとの結婚←→生涯、独身を貫くことが基本であるチューターであることの矛盾
イギリス社会、その知性の象徴であるオックスフォード大学のチューターであることのステータスを捨てる決断
19,20世紀の欧米の学問界の基本的方向性=自然科学の発展の原動力としての“科学的思考”→人文科学においても強い影響性
マックス・ウェーバー「歴史は科学か」←→マルクス主義歴史観“唯物弁証法”の影響力の増大
科学の方法論=自然科学においては→事実の客観的な観察→観察できるように事象を細分化→仮説の設定→論証→結論→実験による検証→法則として確定
この影響を強く受けて、人文科学としての歴史学=事実の収集・客観的なテクニカルタームとしての概念の定義→仮説の設定→論証→結論→実験は不可能
トインビー博士は、この支配的な風潮に強く反発→「歴史の研究」の冒頭部分に記述
人間の行動が作り上げる事実を記録したもの=歴史→人間の行動が生み出す世界→行動の結果は一定ではない→同じ行動でも結果は全てことなる
“挑戦”と“応戦”の用語を用いて表現される
この過程が表現されたものとしてトインビー博士はゲーテの「ファウスト」、聖書の「ヨブ記」を引用される
第二次世界大戦後は、ユング博士の深層心理学の世界にそのよりどころを求める
ユング博士もトインビー博士の仕事の意義を正確に把握
人間の行動の根拠としての深層心理→人間の合理的自我の奥底にあるもの→深層心理から現れるもの
ユング博士の第一次世界大戦に対する論究→“ヴォーダン”現代史によせて
トインビー博士、ユング博士に共通するもの
人間の深層心理から湧き上がる人間社会の現象としての“宗教”に焦点をあてる
トインビー博士→歴史学から深層心理の世界へ
ユング博士→深層心理学の世界から歴史学の世界へex 錬金術グノーシス……etc
両博士とも、この追求の中で仏教、特に大乗仏教に強い関心と親近感
トインビー博士が池田先生との対談を万難を排して追求された前提
“専門”歴史家の違和感・トインビー史観批判の前提
“専門”心理学者の違和感・ユング心理学批判の前提

総合的・全世界的な視野に立つ歴史・世界史の研究に進む=第一次世界大戦に象徴される戦争の悲劇克服の視点を求めて
ガーディアン紙の特派員としての記事を書くときの決断
文明中心の歴史研究を始めようという決断……・1922年「歴史の研究」の基本構想
ショペングラー『西洋の没落』の影響は?
「The Western Question in Greece and Turkey : A Study in the contact of civilizations」1922
ロンドン大学をやめることになる決断
帰国後、マンチェスターガーディアン紙に、ギリシャ側からだけでなく、トルコ側にも取材し公平に記事にする
コライス記念講座の教授
19世紀以来、バイロン以来、ギリシャに好意的なイギリス世論の流れ
発表後、世論また講座のスポンサーのギリシャ側から強い非難をあびる
ロンドン大学の教授を辞任しなければならなかった理由
チャタムハウスでの「Survey of international affers」の仕事
第二次世界大戦後の「文明」中心から「高等宗教」中心の観点の変化の判断の根本にあるもの
戦後のマスコミに寄稿される際のトインビー博士の論調の基本
ベトナム戦争に対する姿勢
「再考察」において強調して検討されているもの
「文明」の定義
「シリアック文明」の確認
「ヘレニック文明」の確認
「西欧文明の前途」
文明の前途はオープンエンド→他律的決定論ではない
文明の前途は、「人間」の主体的な選択によって決まる
ヘレニック文明の通史としての「ヘレニズム」の論調
トインビー博士の歴史研究論文「ハンニバルの遺産」の論調
人生の最終段階において、創価学会の池田会長との対談を求められた根本動機

 

 


ルネサンス以来のパブリックスクールの“人文主義教育”
古典語の徹底した教育
ラテン語ギリシャ語の古典語教育
ギリシャ語、ラテン語の授業がカリキュラムの大半を占める
古典語を読みこなすだけではなく、同じように表現できることまでを求める
古典語教育の優等生としてのトインビー博士
集団生活に慣れないトインビー少年は、その反動として古典語に没頭する
予習を先の先まですすめる。
古典語の最優等生としてのトインビー少年
オックスフォード大学への道
オックスフォード大学での最高位の立場・待遇としてのフェロー・チューターへの道
トインビー博士にとっては、古典古代世界、古代ギリシャローマ世界を全体として殆ど自分が生きてきた世界のように感じ考えることができる世界
第一次世界大戦勃発時、1914年における“ツキディデス体験”の基本にあるもの
オックスフォード大学のフェローの道を自ら辞退した動機
オルテガ・イ・ガセット「世界史の一解釈」p24→evernote
18,19世紀の大英帝国。全世界に展開しあらゆる地球上の文明と接触し、植民地を統治する人材の要件。そのための教育。
古典教育の効用・・・トインビー博士の記述より「再考察」p1068~p1089→evernote
現在、自分が属している“文明”を客観的に見る視点を「古典」教育は与える
その“文明”の誕生から滅亡までの過程を全体として見ることができる
歴史というものは“人間”の営為なのであるということ文学・歴史を通して自然に理解できる
“人間”史観への道
文明の比較・検討の際の有力な基礎となる

戦争廃止への道を歴史の中で探求する
どうすれば戦争のない世界をつくることができるか
戦争は何故起こるのか
「歴史の研究」の執筆
文明発祥とともに、人類の“業”として存在する戦争と不平等を根絶するための方途を歴史に探り求める
1921年マンチェスターガーディアンの特派員としてギリシャ・トルコ戦争の現場へ
戦場で若きトルコ兵、ギリシャ兵の死体を目にする→“文明”中心の歴史研究を決意する
帰途の車中(オリエント急行?)の中で、文明を単位としての「歴史の研究」の目次・便概を作る
途中、第二次世界大戦での戦時任官中をはさんで30年間にわたる「歴史の研究」の執筆
最初の目次と全く同じ
トインビー博士の救済のために作られたチャタムハウスのなかのポジション


トインビー博士は“歴史家”なのか“比較文明論者”なのか
文明単位での歴史研究にとりかかる動機として
第一次世界大戦での友人たちの死をきっかけとして
近代の戦争の主体としての“国家”に対する疑問
国家主義は誤った宗教である
1914年の大戦勃発時のツキディデス体験
実質上、心のふるさとのようになっている古典古代が崩壊するスタートとみるアテネとスパルタの対立
ペロポネソス戦争の勃発がヘレニック文明崩壊のスタート時点 
break down とは
今まで順調に動いてきたものが挫折する。うまく動かなくなる。 
哲学的同時代性
第一次世界大戦の勃発はペロポネソス戦争の勃発と“哲学的”には同じ歴史的段階といえるのではないか
トインビー博士の脳裏に浮かんだ強い力をもつ想念
アテネとスパルタが当時の代表的なポリス
都市国家ポリスを政治的単位として、古代ギリシャ語という共通の言語、ホメロスの長編詩、オリンポスの十二神への信仰、デルフォイの神託、オリンピアード等、共通の基盤を持つ古代ギリシャ人の集合→この集合を何と呼ぶか?→“包含されずに包含するもの”=“文明”→ギリシャ文明?
西欧における“古典古代”=ルネサンス以来の復興人文主義リベラルアーツ、普遍的な教養の源泉とされるギリシャとローマ
“古典古代”とはギリシャ語、ラテン語の習得、肉化を通じて、自らの教養の源泉とすべき世界=パブリックスクールの教育の根幹
ギリシャ・ローマ世界と全体としてみたとき、見えてくる“包含されずに包含するもの”としてのまとまり“ギリシャ・ローマ文明”
総合的な通称としてトインビー博士“ヘレニック文明”と名付ける
1914年の段階で、トインビー博士は“文明”を意識していたかどうか
1915年の初めての本格的な著作「Nationality & the War」
従来、この著作の表題からか、この著作においては、まだ国家中心の視点をとっているとされてきた
しかし、原著にあたると第一次世界大戦当時の“西欧”を代表する国家としては当時の英国の敵国であったドイツが中心
しかも、国家をこえた第一次世界大戦勃発の基本要因としての、パンゲルマン主義、パンスラブ主義、パンイスラム主義の分析が中心である
パンゲルマン主義、パンスラブ主義、パンイスラム主義は、ハンチントンの指摘を待つまでもなく“文明”を育てる基本の要素
事実、後の「歴史の研究」においては西欧文明、ロシア文明、イスラム文明のそれぞれの担い手として登場する
したがって、この著作においては、従来の視点とは異なり、すでに“文明”中心の視点の萌芽がみられると考えたほうが良いのではないか
また、重要なのはトインビー博士の歴史研究の根本動機としての「戦争」に対する否定の思いが明白である
第一次世界大戦第二次世界大戦後のパリ講和会議にイギリス代表団の一員として参加
外交的な努力、理性的な努力で戦争を防止することができるのか。結論として否定的
第一次世界大戦後に作られた平和のための〝賢人会議〟ドイツ代表はマックス・ウェーバー、フランス代表はアンリ・ベルグソン、イギリス代表はトインビー博士

国際関係論の専門家としてのトインビー博士
チャタムハウスでの33年
チャタムハウスの設立の経緯とその役割
「歴史の研究」と「国際問題大観」を並行してとりくんでいくことの意義
その一年間に全世界でおこった国際関係上の出来事をすべてトインビー博士“一人”で集約し記述したものを刊行物として出版する
良き協力者としてのヴェロニカ女史
「国際問題大観」高い評価→exヒトラーが会見を求めてくる
現代の問題を扱う際には、そこに至る歴史的背景の理解が不可欠
世界史としての歴史の研究には、現在の人間社会の活動の理解が必須
トインビー博士「どちらが欠けても、どちらも完成できなかった」と述懐
 
太平洋協議会、イギリス、アメリカ、中国、日本、他太平洋に利権・関心を持つ国の賢人会議、議長新渡戸稲造
トインビー博士、イギリス代表団の一員として1929年の京都会議に参加するために訪日。
満州をめぐる中国と日本の論者、松岡洋右、松本重治、蝋山政道論議を聞き、日本を待っているのは〝カルタゴの運命〟と蝋山氏に語る
蝋山政道氏、近衛内閣のブレーンとして大東亜共栄圏構想をくみたてる
蝋山氏、第二次大戦後、最初の「歴史の研究」邦訳の取り組みの動機は、トインビー博士との出会いの時のひと言にある

松本重治氏、国際文化会館の理事長として1956年のトインビー博士とヴェロニカ夫人の来日を迎える
日本の朝野をあげての大歓迎、各所での日本の歴史学会の代表的な学者との長時間の本格的な懇談
「図説歴史の研究」のあとがきで桑原健夫氏が書いてあること。トインビー博士の京都大学関係者(当時の京大の最高レベルの学者、貝塚茂樹、桑原健夫氏等)との対話の中で、トインビー博士が質問したことの中心は大乗仏教に関することが多かった。池田先生が随想の中で記述されている。
トインビー博士の大乗仏教への強い関心。

パブリックスクールの宗教的な環境

サマーヴィルの縮刷版の完成 1946年
欧米の市民層からのブーム的な受け止め
「歴史の研究」全巻のの完成
各界の専門的学者からの批判の嵐
クリストファー・ドーソンの批判

「一歴史家の宗教観」エディンバラ大学、ギフォードレクチャーでの連続講演(1952年~1953年)をまとめたもの
人類史における「宗教」の歴史的な変遷を語る。自然諸力の崇拝段階→集団的な人間力の崇拝(文明段階)→高等宗教(文明と文明との衝突、敗北した文明の最下層の人々の苦悩の中から生まれる)
高等宗教、宇宙の背後の根源的実在と一人一人の人間が直接接触する宗教
人類史上の高等宗教として、ユダヤ教キリスト教イスラム教、小乗仏教ヒンズー教大乗仏教をあげる。
高等宗教のうち、ユダヤ教ヒンズー教は特定の民族とのつながりが深すぎ、普遍性をもつことが難しい。
キリスト教イスラム教は布教活動のなかで武力を用いたことがあり、戦争そのものを否定しなければ人類滅亡の事態が待っている現代の核兵器の時代には難しい部分がある。
小乗仏教釈尊の説いたことの部分観。大乗仏教釈尊の説いたことを説いているが論理的矛盾がある。最終的な到達段階としての仏になる前の菩薩。ほとんど仏の段階にまできているのに、衆生救済のために現世界にとどまる。そのことは衆生への愛のためだというが、衆生への愛は煩悩ではないか。このことは全ての煩悩を断じるという仏の条件と矛盾するのではないか。
以上の疑問に対して、「21世紀への対話」の中で、池田先生は「菩薩仏」のありかたを通して答えられる。
この宗教に関する見解は、トインビー博士の全著作の中で繰り返し言及される。「歴史の研究」「一歴史家の宗教観」「回想録」「現代が受けている挑戦」等

トインビー博士自身の宗教観、普通の国教会信徒、不可知論者、をへて超合理主義者として宗教的存在、宇宙の背後の根源的実在を確信する。
第一次世界大戦直後のロンドンで経験した宇宙の根源的実在と邂逅体験(「歴史の研究」の最後に記載される)
トインビー博士の宗教観については、「一歴史家の宗教観」の第二版(トインビー博士の死後発刊される)に付されたヴェロニカ夫人の序文に記述。同時にトインビー博士の未発表の文章「GROPINGS IN THE DARK」を収録。
「文明」としての日本への関心
“単独の文明”としての日本
文明としての日本の経験 開国か攘夷か ←→ ヘロデ派かゼロド派か
明治政府の統治の根本としての人工の宗教「国家神道
文明の衝突”としての「太平洋問題」「中国問題」「朝鮮問題」←朝河貫一「日本の禍機」、新渡戸稲造大川周明
カルタゴの運命」1929年太平洋協議会の際、蝋山政道に語ったトインビー博士の言葉
カルタゴの運命」の運命とは?
ヘレニック文明とシリアック文明との軋轢、その戦闘的集約点、「文明の衝突」としてのローマ・カルタゴ戦争(ポエニ戦争
ヘレニック文明とシリアック文明との軋轢、その戦闘的集約点としてのヘブライ人とのローマ・ユダヤ戦争→マサダの戦い
ヘレニック文明とシリアック文明との接触、その宗教的結果としてのキリスト教の成立
敗北した文明で苦しむ最下層の人々「内的プロレタリアート」の自発的運動として“高等宗教”は生まれる→キリスト教の成立
著作「戦争と文明」「ヘレニズム」「ハンニバルの遺産」の意味
第二次世界大戦での日本、最終的には世界の全ての文明と戦うことになる
日本における“敗戦”の経験の持つ意味
人類最初の核兵器を経験する
憲法第9条
日本文明における“敗戦”の苦悩の中から、いかなる“高等宗教”が生まれようとしているか
1956年の訪日の際の印象を綴ったトインビー博士の旅行記「東から西へ」。日本の敗戦は、明治維新以来国家神道のもとひた走ってきた〝日本文明〟の根本原理の挫折として捉える。
国家神道は、日本本来の神道儒教的徳目を加え、天皇を神として根本にすえた明治維新以来の人工的宗教としてとらえる。
敗北の結果、今まで信じてきた国家神道に対する不信が生まれ、日本人の心の中に生じた〝魂〟の空白状態をいかなる宗教が埋めるのかという視点で1956年(昭和31年)当時の日本社会の様子を観察し記述する。既存の仏教、キリスト教、などには否定的見方。最後にいわゆる〝新興宗教〟の盛んな様子を記述、創価学会に注目する端緒。
1967年(昭和42年)三度目の来日。創価学会に注目する。戦後の日本で、若きリーダーのもと、民衆の中で急速に発展。大乗仏教の精髄、法華経を根本とする日蓮の思想を根幹とし、単に宗教だけでなく、政治、文化などの人間社会の全分野に、宗教を根幹として展開を試みている。
「現代が受けている挑戦」(1966年)において記述されている、トインビー博士が現代社会における高等宗教に求める必須の条件。
山本新先生の記述(月刊世界政経1976年1月号「トインビーの歴史的宗教観」―文明興亡の鍵を宗教に求める巨人の最終史観―)を引用する。    
①他の宗教を邪教のように悪しざまにののしってでなければ、自分の宗教の正しさが証明できないと思い込んでいる排他性、独善をやめて、他の宗教に  も真理があることを謙虚に認めること。これは容易なことではない。                                    
②つぎに、宗教が現代の切実な問題とたえず折衝し、格闘していることである。これを無視したり、でなくてもさけたり、ごまかしたりしておれば、心  ある人から信用されなくなり、人心をつかむことができず、時代の動きとかかわりのない形骸化、名目化したものになる。社会や文化の推進的な動き  からとりのこされ、生命のない、時代錯誤な存在と化する。現在にいきているとはいいがたい。                        
③さいごに、高等宗教にまぶりついた付属物からその本質を剥離し、本質そのものを取り出すことである。                    ………(中略)…………高度宗教が生き延びるために満たすべき第一の条件は、排他性、独善性をこえて謙虚になるである。…………(中略)…………比較的わかりにくいと案ぜられる第二以下の条件について、すこし説明を加えたいと思う。現代の切実な問題をトインビーはいくつかあげている。その第一は「平和の維持」である。これは核戦争による人類の自滅をいかにしてさけるかである。現在人類がまだ生きているのは、不安定な核抑止力によってであり、偶発戦争はいつおこるかもしれない。……(中略)……これを最終的に集結させるには、世界政府をつくり、核武装をやめさせ、核エネルギーの管理をするほかはない。このような人類死活の問題に高度宗教はどれだけ取り組み、有効な発言なり、運動なりをしているであろうか。トインビーは、第二には「社会正義の促進」をあげる。社会正義とは、一口でいえば、平等のことである。高度宗教は社会的平等を促進しようとするなら、社会主義と火の出るような折衝をかさねなげればならない。宗教的社会主義を作るまでに格闘していかねば、階級対立にまともに取り組んだことにならない……(中略)……社会正義の問題は、階級問題だけではない。異民族と正しい関係に立つという民族問題もある。日本における朝鮮人問題に、宗教家が良心的に取り組んでいるかというと、これはもっと心細い。皆無に近いのではないか。……(中略)……高度宗教が生き延びるための「本質剥離」についてすこしばかり説明してみたい。……(中略)……他の文明へこの高度宗教を普及しようとするとき、文明の着色である付属物を本質からはがし、本質を取り出し、それだけ他の文明へ移植するのでなければ、本質と付属物を一緒にのみこませようとすると、必ず失敗する。
1969年に、トインビー博士から池田大作先生へ対談を求める一通の手紙。
池田大作先生の文章
昭和44年(1969年)の初秋、私は、トインビー博士から一通の手紙を頂いた。『前回、訪日のおり(注・昭和42年【1967年】)創価学会並びにあなたの事について、多くの人々から聞きました。以来、あなたの思想や著作に強い関心をもつようになり、英訳の著作や講演集を拝見しました。これは提案ですが、私個人としてあなたをロンドンにご招待し、我々二人で現在、人類の直面する基本的な諸問題について、対談をしたいと希望します。時期的にはいつでも結構ですが、あえて選ばれるとすれば五月のメイフラワータイムが最もよいと思います』(9月23日付)世界史的眼光で歴史を鳥瞰し、社会と文化を把握し、人間事象の背後の本質に肉薄する“20世紀最大の歴史家”と称される博士。その学問的情熱と、研ぎ澄まされた歴史的洞察と、該博な知識に、私は以前から注目していたし、人びとが方位喪失して悲しく生きる今の世にあっては、博士の巨視観による歴史哲学に、耳を傾ける必要を感じていた。
私自身としては、この手紙を読んで、過分な申し出に、すぐにでもお応えしようと思った。しかし、なにせ私個人も仕事が多繁を極め、スケジュールもぎっしりと詰まっていたので、その時は残念ながら遠慮せざるを得なかったしだいである。だが、その後もいくたびか博士から対談の希望が寄せられた。博士御自身も日本がお好きのようで、来日を考えておられたと推察するが、老齢のため、長途の旅は御無理であったようだ。というわけで、私の方からお伺いして、昨年(1972年)の五月の対談となったのである。そして今年(1973年)の三月、博士から、再び丁重な招請状を頂いた。『今年も、イギリスを訪れる時間をお取りになれるでしょうか。もし、あなた並びに奥様の日程が許されるならば、なにとぞ、来たる五月にぜひ御来訪いただきたいと思います。私達にとって、共通の関心事である多くの討議すべき問題があり、ぜひその機会をもちたいと思います。そのためには、私達の間に、個人的な会見が必要であると信ずるからです』(73年3月12日付) 私は、昨年に引き続き、今年もトインビー博士との対話を行うべく、ロンドンに向かった。〔中略〕第一回対談の前から、対談を効果的に進めるため、私は仕事の合間を見つけて、博士との往復書簡を通して、博士の質問にも答えつつ、なお自分自身の見解も述べてきたが、それは幾たびも続けなければならなくなった。博士も誠意あふれる姿勢で応えられたのである。時には静かな郊外の家に赴いて、思索を重ねながら執筆されたともうけたまわり、その真摯な姿勢に頭の下がる思いがした。
対談の要請の手紙の時点で、トインビー博士が見ていた創価学会 
「日本文明」としての日本は、第二次世界大戦において最終的には西欧、ロシア、中国に代表される文明を全て相手として戦うことになってしまった。
日本は西欧文明を代表する現代のローマ帝国とも言えるアメリカ合衆国と戦い、人類史上はじめての原子爆弾の投下を含め、全国土の都市に対する無差別の爆撃によって完全に破壊され、かつてのカルタゴのように完璧に破壊され占領された。
このことは、1929年の太平洋会議のさい、蝋山政道氏に語ったことが現実になったということであった。
カルタゴは、フェニキア人の作ったセム系の言葉を話す〝シリアック文明〟に属する国であり、地中海の支配を巡って〝ヘレニック文明〟に属するギリシャ・ローマと長年にわたって抗争を繰り返してきた。
「世界史」の上では、ギリシャとローマを別々のカテゴリーで扱おうとするヨーロッパ人の伝統があり、トインビー博士のように一つのヘレニック文明として設定することに根強い抵抗があり、トインビー史観にたいする批判点の一つ。
批判点の根拠として最も強く主張されているのは、後世にも大きな影響を残した〝ローマ法〟の体系の独自性と完成度。この点に関してトインビー博士は批判点に答えた「再考察」のなかで、ローマ法はローマ独自の独創性ではなく、同じ状況に達すれば〝ヘレニック〟の他の共同体にも起こり得たことであると反論。自説を変更していない。
〝シリアック文明〟については、地中海東岸の諸民族のうち、キリスト教を通して西欧文明に大きな影響を与えたヘブライ人を単独で独自のものとして扱ってきた西欧の学者たちから、フェニキア人をふくめた〝シリアック文明〟の設定に強い抵抗感と批判。
トインビー博士は、現在のイスラム文明にも通ずるセム語系の諸民族を総体として〝シリアック文明〟として認識することは、ユダヤ教キリスト教イスラム教という主要高等宗教を生んだ母体として大きな意味を持つとして「再考察」の中で再確認。
しかし再考察の中で、アッバース以来のイスラム文明は独自の文明として、シリアック文明から外す
〝ヘレニック文明〟〝シリアック文明〟の衝突の中から、キリスト教イスラム教が生まれる。アレクサンドロスの遠征によって、東方インド世界に拡大したヘレニック文明とインド文明の接触の中から大乗仏教が生まれる。この部分はトインビー史観の中心的なテーゼの根幹をなる歴史的な考察。
この同じテーゼの20世紀での類比としての、日本文明と西欧文明の衝突としての第二次世界大戦、太平洋戦争。
古代において敗北し苦難を経験したシリアック文明の最下層の民衆の中からキリスト教が生まれてきたように、敗北した日本文明の苦難を経験している最下層の民衆の中から新時代の要請に応える高等宗教が生まれてくるのではないかというトインビー博士の見通しと期待。1956年の訪日、1967年の訪日で一番確認したかったことでないか。そのような直接の記述はないが、蓋然性は高い。現在、唯一のトインビー博士の伝記であるマクニールの「トインビー」において、対談のいきさつについて事実の誤認はあるが、そのような趣旨の記述。
その期待に沿う形で登場してきた創価学会。その若き指導者としての池田先生。
1969年、トインビー博士より池田先生に対談を求める一通のエアメール。
1972年、1973年、二度の対談。
1975年、トインビー博士と池田先生との対談「21世紀への対話」の出版。
トインビー博士の人生の総決算としての「21世紀への対話」。
「21世紀への対話」の中で、トインビー博士が最終的な結論に至ったこと。前書きで博士自身が記述。


トインビー博士の歴史観と仏法史観・創価史観

第一次世界大戦第二次世界大戦という人類史上未曾有の大量殺戮が行われ、核兵器という究極兵器が出現した20世紀前半の課題を真剣に受け止められ、、西欧文明をリードしている強国であるイギリスの中でも最高のエリートの道を歩んでいたにもかかわらず、あえてその道を外れても、この“戦争”という人類の宿痾を解消する方途を人類の歴史に求め、大著「歴史の研究」(「A SUDY OF HISTORY」)を30年以上の歳月をかけて著述し、同時に「国際問題大観」(「SURVEY of INTERNATINAL AFFAIRS」)の執筆を通して、また戦時のイギリス外務省の勤務を通して現実の国際関係の状況をつぶさにに確認し、人類世界から“戦争”をなくする方途を最終的には,新しい“高等宗教”に求め、その究極の結論を、21世紀を超えて未来の人類社会にまで届けるために、自らの学問探究の結論として次の人類の運命を開くと確信した大乗仏教系の高等宗教である創価学会池田大作氏と対談し「21世紀への対話」(「CHOOSE LIFE」)を残された。

“人間革命の新たな文明”建設を  2021年1月8日付け聖教 池田先生 第一回本部幹部会へのメッセージ

「太陽の仏法」の赫々たる陽光を、二度の世界大戦に喘ぐ20世紀の闇に、黎明の如く決然と放っていかれたのが、牧口先生と戸田先生であります。創価の師弟は、「十界互具」「一念三千」という、人生観、社会観、宇宙観、まで明かした最極の哲理を掲げて、一人一人の胸奥から元初の希望・勝利の太陽を昇らせていきました(2021年1月本部幹部会・池田先生メッセージ)