トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

高等宗教とは何か 「現代が受けている挑戦」p87.L9~ より      

もし、世界国家の複数性が人間の分裂の習慣の根強さを証明するものならば、高等宗教の複数性は同じことをさらにはっきりと示している。
ある宗教が高等なものであるとされるのは、人間の魂を宇宙の背後にある究極の霊的な実在(Ultimate spiritual reality)に直接触れさせようとするということによってである
この二千五百年ほどの間に見られた高等宗教の出現は、先人類(プレサピエンス)が人間になった原始時代の異変以来、現在に至るまでの人間の歴史における最も重要な、最も革命的な出来事である。高等宗教が人間の魂を宇宙の背後にある究極の霊的な実在(Ultimate spiritual reality)に直接触れさせる限りでは、人間の魂を人間が属する社会への隷従から解放する。これまで社会はその成員に全面的な忠節を要求した。高等宗教の出現で、個人は自分への人間の要求と神の要求が矛盾すると判断したら、どんな危険を冒してでも人間より神に従う自由を与えられた。この危険を伴う精神的な自由が生きていく上でのあらゆる世俗的な面での自由の源泉である。高等宗教は解放という救済を成し遂げた。しかし各種の高等宗教はそれぞれ別個に、その目的は同一でありながら違った道を通ってそれをなしとげたのである。
 masatoshi sirokawaの個人的感想
この部分、本当に大事なことであると個人的には強く思っています。私自身の人生を振り返った時、歴史の研究、西洋史、世界史の方向を進むことを決めた一つの重要な要素として、高校時代の世界史の授業の読書課題で出会った書籍があります。世界史の読書課題で選んだ図書がたまたま身近にあった歴史小説ポンペイ最後の日」でした。そこで古代ローマに興味を持ち始め、当時読書の目標としていた「岩波百冊の本」の中に、古代ローマの時代を扱っている「クオ・ヴァディス」という岩波文庫の一冊を見つけ、読み始めました。この作品はションキヴィッチという作家の作品であり、第一回のノーベル文学賞を授賞していることはあとがきで知りましたが、最も心を動かされたのは、この小説の最終場面で、聖ペテロがローマでのキリスト教徒迫害を逃れ、アッピア街道を南に下っているとき突然、イエス=キリストが現れ「クオ・ヴァディス  ドミネ?」(主よどこにいかれるのか)と問いかけるペテロに対して「おまえがローマの民を見捨てるなら、私がローマに行って迫害を受けよう」と答え、その答えを聞いたペテロが心を変え、ローマに向かって戻っていき、迫害の結果殉教するという場面でした。当時自身の信仰として、父が入会していた創価学会の信仰をどう受け止めるかについて、葛藤し逡巡していた自分にとって、信仰を基盤とした生き方、究極は死をも乗り越えていく生き方は、衝撃でした。考えてみると、創価学会の基盤としての日蓮仏法、牧口、戸田、池田の三代の会長に通底しているのはこの死をも乗り越える、主体者との信仰であることに気づき、自分自身として、主体的に創価学会の運動に関わっていこうという決心を固めることができました。
この一節でトインビー博士が書かれておられるように、
「高等宗教の出現で、個人は自分への人間の要求と神の要求が矛盾すると判断したら、どんな危険を冒してでも人間より神に従う自由を与えられた。この危険を伴う精神的な自由が生きていく上でのあらゆる世俗的な面での自由の源泉である。高等宗教は解放という救済を成し遂げた。」
この危険を伴う精神的な自由が生きていく上でのあらゆる世俗的自由の源泉であるという原理は、人類社会にとって根本的な価値を持っています。アメリカ「独立宣言」フランス「人権宣言」による啓蒙思想に基づく人権の宣言。その内容を法律として具体化した、アメリカ合衆国憲法からはじまる世界各国の憲法。世界史の教科書のなかで、重要な事項として、頁数の割合を多くして記述されている部分です。いまロシア、中国を〝権威主義国家〟と批判し、自身の陣営の価値観として〝自由と民主主義〟を掲げて武力行使を当然視するアメリカ合衆国。しかし、その国々の憲法を見比べると、文言上ではほぼ同じ、啓蒙思想からはじまる人権がうたわれています。しかし、その人権を人間社会において、本当に生きた現実にするためには、この権利を究極の局面においても自身の生命をかけても守り抜こうという強い生き方が求められます。そのためにはここでトインビー博士が書かれている、高等宗教を基盤とした人間群が必須条件になります。その方向へ人類をどうリードしていくのかが、現代における最も重要で差し迫った課題であることは間違いありません。
 
トインビー博士は、「歴史の研究」再考察の中において、キリスト教イスラム教の出現の基盤となったユダヤ教について論じています。その中にユダヤ教の歴史におけるローマ帝国との関係において、「平和主義」を貫いたパリサイ人の流れとキリスト教だけが後世に生き残ることができたとして、「高等宗教」と「平和主義」の関係について考察し、次のように書いておられます。
 
「このような非好戦的な政治的態度を維持した点で、パリサイ人はイエスキリスト教会と一致していた。そしてパリサイ派ユダヤ教キリスト教が共に生き残り、ハスモン族とゼロト主義者のユダヤ教が死に絶えたことは偶然ではない。このパリサイ派キリスト教的平和主義は、オイクメネー(人間が生活している全世界)の歴史的な心臓部が多くの圧倒的に強力な侵略的軍国主義的な〝帝国〟によって支配されていた時代には実際的な良識であった。しかし平和主義はまたあらゆる時代とあらゆる環境に於いて、高等宗教の正しい政策であった。しかもこれは常に正統な精神的な理由によってである。
 高等宗教の信者が政治に加わって武器を執る時、彼らはそのことによって彼らの宗教を台なしにし、不毛にするのである。そして彼らがその精力をそらした世俗的な目的の達成に成功すればするほど、ますますその宗教は効力を失い不毛になるのである。この真理は、ユダヤ教だけでなく、キリスト教イスラム教、ゾロアスター教シーク教の歴史に例証されている。パリサイ人の平和主義はユダヤ教がゼロト主義者と共に死に絶えるのを救ったのである