トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

「日本国憲法第九条」に対するトインビー博士の見解  

 現在、ロシアによるウクライナ軍事侵攻が継続中です。すでに2月24日の侵攻開始以来、133日を超えています(7月7日現在)。連日の具体的な戦況の報道とともに、その事実を日本人としてどう受け止め考えるべきかという論議も進んでいます。その論議の中で、この事象の意味を深く捉え、二十世紀の前半に連続した二つの世界大戦後の国際秩序の崩壊、もしくは崩壊のはじまりとみる視点があります。
 国際連合という第二次世界大戦戦勝国連合を基盤とする体制は、米、露、中、英、仏の五大国の軍事力を基盤とした一致した制裁を、国際秩序維持のために最終的には想定している体制です。その五大国の中のロシアの隣国に対する軍事侵攻という事実は、その構造を崩壊させた衝撃的な事実であり、この戦争がいつまで続くかは今のところ未知数ですが、どんな形で終わるにせよ、間違いないのは五つの国家が保証する国際平和維持の体制が終わりを告げたという事実です。
それでは、最強国家アメリカ合衆国による〝パックス・アメリカーナ〟は成立するのか?これも無理であろうという現実が目の前にあります。アメリカが核兵器を独占していた1945年から1949年の状況なら、その可能性はありましたが、現在すでに北朝鮮のような規模的には中レベルの国が核兵器を所有している段階では、それも不可能です。
このような国際情勢の中で、間違いなく全人類の滅亡という事態が想定される核戦争を回避し「全人類が一つの家族のように仲良く共存していく世界」をいかにして実現していくか。この「全人類が一つの家族のように仲良く共存していく世界」とは、トインビー博士が「文明」に対して与えた定義です。言い換えると全人類の滅亡に向かう方向に進むか、本質的な意味での「文明」の道を行くか。今回のロシアのウクライナ侵攻はその岐路に立つ人類の現実を明確に示すことになったと思います
 日本においても自国の防衛にたいする論議が高まってきています。その中で論議は文明論的かつ地政学的な課題、日本の国際世界における立ち位置に関する議論も高まりを見せてきています。その視点の上に立ってどのような国を目指すべきか。議論を進めていくと、最終的には、根本法としての日本国憲法において規定された戦争放棄の規定をどう考えるべきか?様々な課題を論議する中で、集約点として必ず論じられる根本的課題です。
 自民党の党綱領の中には「自主憲法制定」があります。立民、共産の主張の対極ともいえる内容です。その中にあって、自民党と連立し政権を担ってきた公明党の考え方はどうなのか?公明党はどのような方向の国を目指しているのか。創立者である池田先生の考え方は?
 このような問題を考える上で、重要な示唆を与えるのが晩年、池田先生と対談し「21世紀への対話」を残されたトインビー博士の考え方です。
 トインビー博士は、1967年の三度目の日本訪問のあと、11月9日から12月13日にかけて毎日新聞に連載された『日本の印象と期待』の中で、この問題にしっかりと意見を表明しています。55年前に書かれたものですが、今、時にあたって再読してみると、その見識の深さと示された方向性にあらためて感動しています。全文をここに記載します。
 
日本国憲法第九条と私」(『地球文明への視座』p61~)
 戦後制定され、現在効力を有している日本国憲法第九条で、日本は主権国家の伝統的特権の一つである戦争に訴える権利を放棄している。それどころか、日本はこの条文で、再び武装せず、他国と戦争することを可能ならしめるような戦力を持たないという意志を宣言しているのである。
 私が聞いているところでは、現行日本国憲法に対して日本人の間には批判があり、その論拠は、現行憲法は日本国民の自発的意志の産物ではなく、日本がまだ米国の軍事占領かにあって、第二次大戦の敗戦のショックから心理的に立ち直っていない時期に、米国の後見によって起草されたものだ、という点にある。その結果、当然日本の批判者の間では、日本の憲法はそのあるべき姿について、日本人の考えよりも米国人の考えを反映しているという議論がなされている。米国が干渉せず、日本人だけに単独で憲法を作らせていれば、日本国憲法は現在のような形にはならなかったであろう、というわけだ。
 憲法を全体としてとらえてみれば、あるいはそうかもしれない。憲法起草に当たって米国人が第九条を承認した、あるいは示唆、推進さえしたというのもまた本当かもしれない。しかし私は推察するのだが、おそらく独特な議院内閣制に関する条文とは違って、この第九条は、少なくとも当時の日本で支配的だった世論を忠実に反映しているのではあるまいか。したがって、たとえば米国人が起草に全然タッチしなかったとしても、この条文はどのみち憲法に取り入れられていたのではあるまいか。
 1945年の降伏後、日本には真剣かつ圧倒的に強力な反戦感情があった、というのが私の印象である。そのころ日本人の心を同時に襲った二つの深刻な体験を考えれば、これはほとんど避けられないものであったろう。
 そのうちの一つは、軍国主義のむさしさが劇的に証明されたことであった。1945年、日本は1894年以来中国、ロシア、米国、英国、オランダ、それに事実上フランスにも勝利を重ねて積み上げてきた戦果を一挙に失った。勝利の連続のあと、日本の〝武器をもった強者〟はもっと強力な敵に出くわしたわけである。真珠湾コレヒドールで日本が米国を打ち負かしたことが歴史的なものであったのは事実である。この米国の敗北は西洋世界の不敗の幻想を永遠に打ちくだいた。しかし、この米国の敗北は西洋世界の不敗の幻想を永遠に打ちくだいた。しかし、この出来事は、第二次世界大戦における日本、米国の遭遇という短編物語の終末を意味するものではなかった。この大戦といえるドラマの中では、日本による米国の敗北は、ただの第一幕にしか過ぎなかったのである。最終幕で、日本は米国に敗北し、この幕切れは戦いのきびしい試練を経たこの両交戦国にとって、決定的かつ終局的なものであった。
 軍国主義の皮肉な運命がこれほどはっきりと白日のもとにさらされたことは、いまだかつてなかったが、それは日本人の心底に深い印象を残したに違いない。もちろんこれまで軍国主義的傾向を有していた人々が、こういった教訓を与えられたのは、これが世界歴史上初めてではない。この体験が日本独自のものであったというのではないが、同時に、日本を襲ったもっと別の体験が、日本独自のものであったのであり、現在もまた独自であり続けているのである。
 新しい原子兵器の攻撃を受けたという体験は、戦争そのものの制度に新しい様相をもたらした。この新しい武器の発明と使用は、戦争の破壊性と非人間性を、これまで受け入れ得る悪、あるいは間違って受け入れ得るとみなされていた悪といった水準から、種類のまるで違った程度にまで押し上げてしまった。1945年、広島と長崎に落とされた二個の原子爆弾が戦争というものの性質を変えてしまったことは、広く世界で認められている。しかし、これは日本国民によって実際に体験されたことなのであり、この体験からくる恐怖が、半世紀(1895年の日清戦争から1945年の太平洋戦争の敗北まで)にわたって成功し続けていた軍国主義の破産といった皮肉な結果と結びつけば、だれでも現行日本国憲法第九条のような条項を憲法の中に挿入したくなることは間違いない。
 この条項が日本の戦後の憲法に書き込まれたと言うことは、日本の歴史のみでなく、世界の歴史にとっても歴史的な出来事であった。一つの強国が、戦争に訴えるという伝統的な権利を自発的に放棄したのだった。これはかつてなかったことであり、戦争の性格の根本的な変化に応じていまや起こったのである。
 第九条は、戦争の正確に根本的な変化が起こったという、すべての国の人々の共通の認識の象徴であり、日本人なみならず、他の国民にも、戦争の性格の変化に応じた行動を起こすよう促しているのである。したがって、現在日本で進行している第九条の将来に関する論議は、単に日本だけの国内問題ではない。もし第九条が将来にわたって維持されるならば――つまり、その精神において、また実行の面において、ただ紙の上に書かれていると言うだけでなく――それは他の主権国家がおそらく、遅かれ早かれ、したがうことになる模範例となり続けるであろう。しかし一方、もし第九条が、紙の上で廃止されないまでも実質的に無視されてしまうならば、人類の不安定な未来に投げかけられた希望の光は消滅してしまうであろう。
 日本政府の表向きの政策は、いぜんとして第九条維持である。しかし本条の但し書きはすでにほとんど破滅点に達している。日本が国内の法と秩序を守るために軍事力をもつことが、第九条に違反しないことは明白である。この軍事力を自衛のためにいわゆる〝通常兵器〟をもって強化し、同様兵器を用いる仮想侵略者に相対することもまた合法であろう。しかし朝鮮戦争の期間およびその後、日本の新しい軍隊は、米国の圧力のもとに(それまでの米政策の不吉な転換である)自衛のための必要を越えた強さにまで増強された。第九条はすでに実行の面で侵されている。日本にはこれだけ戦力が増強された以上、第九条を憲法の中にとどめておくことは不誠実であると論ずる人々がいる。また不誠実さを認めたうえで(否定することはできまいが)第九条を正式に廃止したのでは際限もない再軍備のためにトビラをあけ放つことになるから、これはより小さな悪であると論ずる人もいる。どんなにうまくいっても、微妙かつ不幸の現在の状況のもとでは、この二つの議論のうちでは、第九条廃止に反対する論の方が説得力があるように私には思われる。
 確実と思われることが一つある。もし日本が現在以上に軍事力を増強するならば、第九条はもう維持できない。そして佐藤首相の最近のワシントン訪問以来、日本政府が、日本の軍事力を再び増強するよう米国政府の圧力をまたしても受けていることが明らかとなってきた。佐藤首相は、第九条を廃止する動機(動議?)を出さないと明確に言明する一方で、もし日本がこれまで以上に自衛に対する責任感を示すならば、米国は他の場合よりも早く譲歩して、占領中の沖縄を日本に返還する見込みがあると指摘した。沖縄の人々、すべての日本国民はできるだけ早急に沖縄の日本復帰を実現したいと熱心に願っている。したがって、日本の再軍備促進とひきかえに、と米国政府がいまや露骨にほのめかしている政治的なエサは魅力的なものである。そしてまた、この魅力が第九条を危機におとしいれていることは明らかだ。
 しかし日本が、この米国のエサをのみこむのは、大変な間違いであると考えられる理由がたくさんある。
 理由の第一は、米国が沖縄を遅かれ早かれ返還するのは確実である。米国はこれら諸島を併合したわけではないし、日本の潜在主権が残っていることも認めている。日本人が、なかんずく沖縄住民が、潜在主権が早く有効な主権に移行するのを望むのは当然である。しかし、日本主権の早期復活の代わりに、米国が要求している対価は、どのみち満たされるに決まっている日本人の願望を早めに満たすために支払うにしては高価すぎる。
 理由の第二は、日本がいま軍事力を再度増強したにしても、沖縄早期返還の〝早期〟という言葉に対する米国の解釈は不確定である。ベトナム戦争がいつまで続くかは予言し得ない。ベトナム戦争が続くかぎり、米国が沖縄を日本に返還することは、はなはだあり得ないのである。
 理由の第三は、これ以上日本が軍事力を増強することは、中国の猜疑心と怒りを刺激しよう。この点について日本人は、米国が西独を説得して再軍備させ、北大西洋条約機構NATO)現役メンバーにすることに成功したあとの、西独・ソ連関係の不幸な結果に注意すべきである。
 西独再軍備は、第一、第二次世界大戦におけるソ連領土の広大な地域に対するドイツの軍事侵攻、占領という苦痛に満ちた記憶をロシア人の心に呼びさました。ロシア人はいま(ポーランド人やチェコスロバキア人も同様)米国はいつか西独の軍隊の手綱を解き放って三回目の東欧攻撃――それも今度は米国の巨大な潜在的軍事力で支援されて――に出るのを許そうとしているのではないかと疑っている(私はこの疑いが誤りだと信じてはいるが)。こうしたソ連ポーランドチェコの反応の結果、東独の西独との統一の可能性は、いまや地平線のはるかかなたに去っている。
 さて、戦後のソ連・ドイツ関係の歴史におけるこの不幸な既成事実を、まだいぜんとして問題の解決していない中国・日本関係にあてはめてみよう。この二つのケースは全く似通っている。1840年天保十一年)のアヘン戦争以来、日本は中国の外国侵略者のうち最も新しく、最も恐ろしく、最も破壊的だった1931年(昭和6年)から1945年(同20年)の間の出来事は、中国人の心に怒りと猜疑心の遺産を残したことは間違いない。日本国憲法第九条は、こうした中国人の感情に対しては最高の解毒剤なのである(もちろん第九条が誠意をもって履行されると仮定しての話だ)。もし日本が第九条を踏みにじるようなことがあれば、日本の不吉な意図に対する中国の猜疑心は再びよみがえるであろう。そしてもし第九条侵害が、米国の圧力で実行されでもしたら、この中国の猜疑心はさらに激しさを増すだろう。西独の誤りから適宜な教訓をくみとるべきである。同じような誤りを犯してはならない。
 理由の第四は、仮に日本が、米国の圧力によって第九条をい踏みにじり、その結果、中国との関係を妥協的に処理することになったとしても、日本はいかなる国家目的のためにも、その増強された軍事力を実際に使用するだけの力を持ち得ないであろう。
 通常兵器による武装は、いかに巨大なものであろうとも、原子力兵器による攻撃に対しては防衛力となり得ない。すなわち、日本が米国の命令によって、通常兵器による武力増強を進めるならば、日本は中国が核報復に踏み切る危険を犯すことになるのである。通常兵器しか持っていない国で、日本を攻撃する意思や力を持っている国は、世界中捜してもありはしないと思う。したがって増強された日本陸軍、海軍、空軍が、自らの国土を守るために動員されることは、まったくありそうもないことである。
 これに反して、米国の東アジアにおける軍事目的に奉仕すべく利用されることは避けられそうにない。実際には大陸中国の東方および南方の国境の周辺に米国が哨兵を配置している中国〝封じ込め〟用のアジア軍守備隊として組み込まれていることに気がつくであろう。この米国の目的には、すでに韓国、台湾、南ベトナムの軍隊が奉仕しているが、これらの軍隊は、それぞれの国にとって、経済上はもちろん、政治上の負債である。こうした米国の目的に奉仕するために自国の軍隊が動員されることが、日本に国家的満足感をもたらすはずがない。
 第九条を廃棄するよう日本に序言することが、なぜ誤りであるかという理由を、以上四つほどあげたが、これらの理由は、相互に結び合って争う余地のないものだと私には思われる。同時に、佐藤首相がジョンソン米国大統領同様に、その見解の中で、今日の日本は自国の防衛に対する責任感を十分に示していないのではないかと示唆した点を無視することは誤りであろう。
 第九条は米国の〝核のカサ〟の保護のもとで制定され、順守されてきた(順守されてきたという限りでは)。日本がこの保護に対して支払った代価は、米国の沖縄列島における事実上の(法律上の権利としてではないが)主権の行使であり、核兵器発射台の設置であった。私の判断では、中国が核兵器を獲得する瞬間までは、これは日本にとっては疑いもなく安い取引であった。これは現在でも安い取引であるかもしれないし、来たるべきいつかの日のためにも安い取引であり続けるかもしれない。
 それには二つの理由が考えられる。第一は中国が米国、日本あるいは他の国に対して核兵器を使う気があるという証拠がない。第二に仮に中国が最後には核兵器を使う気があったとしても、予見できる将来のいつの日か、それをあえて使うということはありそうもない。たしかにありそうもない。なぜならわれわれが予見し得る範囲では、米国の核戦力は中国のそれに対して圧倒的優位を保ち続けるであろうからだ。とはいうものの、いまや大陸中国核兵器を手に入れたという事実は、それがいまのところ小規模なものであるとはいえ、日本にとっては中国の意図をさぐり、中国が核兵器を所有しているというきびしい事実に対処する自分自身の政策を決定することが、必要になったということを意味する。これは中国がその核兵器を使うか否かにかかわらず必要なことなのである。
 終局的には、大陸中国核兵器を使うつもりなのだろうか。中国は使うまいというのが私の推測であるが、もちろんこの推測に対する反論は自由である。もし使う気がないとすれば、これを開発する気になったのはなぜであるか。大陸中国は貧しく、かつ後進国である。中国は建設的経済開発のため、わずかな余剰生産のすべてをつぎ込まねばならない(巨大な人口を生存させるために基本的な必要なものを満たしたあとに、なにほどかでも余剰があるならばの話だが)。核兵力の建設は明らかに大陸中国にとっては分を越したぜいたくである。中国にとってそれが分を越しているとすれば、それにもかかわらず現に遂行しているのは、中国がその高価な生産物を使用することを真剣に考慮している証拠である(ともみられよう)し、その生産物は明らかに兵器として使用されるものであることを忘れてはならぬ。したがって大陸中国の意図は、邪悪なものであるということが立証されるはずである。
 このような議論は、人間の理性が100パーセント合理的なものであるなら説得力を持つのだが、本当のところは、人間の理性は90パーセントまで非合理なものであり、ために議論は無意味になる。この無意味さはフランスの場合にも例証されている。大陸中国同様フランスも、余裕もないのに原子力兵器の装備を進めている。フランスがこの武器を使って他国に攻撃をしかける意図があるとは、世界中のだれも考えはしないし、核抑止力を備え、先回りして敵意をむき出しにしていなければどこかの核武装国に攻撃されるとフランスが予想しているとは思いはしない。フランスの動機ははっきりしている。フランスが核武装であがなおうとしているのは、国家の威信の回復である。
 フランスの核武装は、フランスが第二次大戦中、英国と米国から受けたと、正しいにしろ間違っているにしろ、信じている屈辱に対するしっぺ返しである。〝アングロサクソン民族〟に対するこのフランスの信号は、翻訳すると次のようになる。
 「しかり、フランスは1940年(昭和15年)に崩壊した。そこであなた方はフランスを除外した。あなた方は、フランスが大国であるという長年の地位を永久に喪失したと考えた。ところでフランスは、いまやあなた方が誤っていたことを示している。フランスのこの核武装はその証拠である」と。
 確かにこれは、フランスが核兵器を持った動機である。この動機がバカらしいからといって、フランスの動機がこうだとわれわれが言うのが間違っているという証拠にはならない。人間性には、このようなバカらしい面があるものだ。英国は核兵器についてフランスよりもっと愚かだった。英国もまた核兵器を持つ余裕はなかった。英国もまた犯罪的な目的のためではなく、単なる威信のために核兵器を持ったのだ。そして英国がフランスとは違って、どんなひどい屈辱も受けなかったことを考え合わせれば、英国の愚かさは、フランスのそれよりも許し難いわけだ。
 フランスの例からの類推で、中国の動機もフランスのそれと同様にバカらしいが、悪意のあるものではない。この動機は、ありそうなことのように思われる。 なぜかといえば、中国は1840年(天保十一年)から1945年(昭和二十年)までに、フランスが1940年(昭和十五年)に受けたような屈辱を受けたからであり、また1949年(昭和二十四年)以降、むかし欧州の列強と日本が中国を遇していたと同様な攻撃的な方法で、大陸中国を扱っていたからである。したがって私は、中国の現在の核による再武装を日本および西欧列強――とりわけ米国――に対するフランス風の信号だと解釈するのである。つまり「あなた方は、1840年以来、中国が〝中華王国〟であるという歴史的な地位を永遠に喪失したものと仮定した。だがあなたは間違っていた。いま私たちは、あなた方にそれを示しているのだ」と。
 核兵器を持つ大陸中国の動機と意図についてのこの解釈は、他の代わりうる可能性よりも、はるかに当たっていると私には思われる。しかしこの解釈は確実ではなく、想像に過ぎない。中国が何を思っているのか、だれ一人確かなことは知らない。そしてこの中国のナゾが、厄介な問題を日本に提起しているのだ。それらの問題はことに厄介である。なぜなら日本は、中国の行動が結局感情的な身ぶりではなく、真剣な挑戦であるかもしれないのに、その中国の行動に対して、可能ないくつかの対応策を選ぶ自由を自分自身持っていないことに気づくかもしれないからである。
 日本は核武装することによって(これは日本の現在の生活水準を犠牲にすることによってのみ可能なのだが)中国の核武装にしっぺ返しをする技術的な能力と経済的な資源を持っている。日本の能力は、現在容易に、そして急速に中国に追いつき、追い越し、今後長期にわたってリードをたもつことができるほどすぐれている。しかし佐藤首相は、日本が核武装しなければならないということは問題外だ、と明白に言明しており、首相のこの言明は、いくつかの理由からみて、間違いなく正しかった。
 まず第一に、米国が日本の核武装に賛成することはありそうもないように思われる。第二に、日本の世論がこれを承認するよう説得されることも全くあり得ないように思われる。私は、原子力戦争の犠牲者であったという日本国民の経験が、同じような非人道的な扱いを人類に対して加える手段を冷酷に持とうとすることを妨げると信ずる。日本人は〝核武装に対してアレルギーを起こしているように思われる〟と、ある米国人が最近不満を述べたと伝えられた。もし米国民が、日本人が米国から受けた経験を彼ら自身が持っていれば、彼らも核武装に対してアレルギーになっていたであろう
 しかし、米国が日本の核武装に賛成し、日本人がそれを承認したと想像しよう。それでもまだ日本には核武装をしてはならない理由があるようだ。もし日本が核武装をすることによって、大陸中国核武装にしっぺ返しをするとすれば、これは間違いなく、両国間の将来の親善へのすべての希望を失わせることになろう。これはまた大陸中国を刺激して、その意図を変えさせるかもしれない。中国が核兵器を、どちらかといえば、残忍な紅衛兵ポスターばりの手の込んだ高価な形で使う――現在のところ中国がそのように核兵器を使うことはありそうなことだが、そうではなく、その核兵器を日本に対して致命的な武器として使うよう決定させるかもしれない。
 このようにみてくると、日本が核兵器武装しないだろうことは、実際上は確かだと考えられうる。しかし、これはいぜんとして日本にとって若干厄介な問題を未解決のままにしている。日本がいぜんとして、米国の〝核のカサ〟の保護のもとに留まろうとするのか。これは日本にとってよい取引ではなくなるかもしれない。カサは、もしそれが避雷針に変わるならば、財産から負担に変わってしまうものだ。とすれば、日本にとって米国のカサから抜けだし、軍事的には無防備だが、まる裸で――まさにその理由で挑発的でないため軍事的には安全である――原っぱにたつことが賢明であろう。
 私の判断では、これは日本のとりうる一番賢明な選択だと思われるが、私は日本が自由にこの選択をすることができないような予感がする。米国がかつてカサであった避雷針を、いやがる日本の頭上にさし続けようと強要するだろうことは、まったくありそうなことに思える。わかりやすく言えば、もし米国が沖縄を日本の有効な主権のもとに戻すと決めたとき、米国は日本に対して、沖縄に核兵器の発射基地を維持することを主張することは、まったくありそうなことに思える。そしてもし米国がこれを主張すれば、日本には米国が思う通りにすることを拒む力はないだろう。
 日本の軍事的情勢は、このように、まったくといって良いほど厄介だ。日本は二つの押し合った人間の割れ目に閉じこめられているのだ。日本はそこで押しつぶされることはあっても、そこから脱出することはできない。実際のところ日本は、日本よりも強大な列国のなすがままであり、中国がしようと選ぶこと、米国がしようと選ぶことが、日本にとって大論争を招くことでも、彼らの行動を、日本は制御することはもちろん、その行動に恐らく影響を与えることすらできまい。