トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

「現代が受けている挑戦」について

邦訳「現代が受けている挑戦」の原題は「Change and Habit...THE CHALLENGE OF OUR TIME」であり、1966年トインビー博士が77歳のときの出版です。
 前書きにありますが、基になっているのは1964年の秋から冬にかけてアメリカ合衆国コロラド州デンバー大学で、1965年の最初の三ヶ月に、フロリダ州サラソタのニュー・カレッジとテネシー州スワニーの南部大学で行った講義の内容で、その講義の準備に用意したノートが著作の出発点となったと記述されております。
 その記述を読み進めていくと、トインビー博士がこの段階にいたる生涯の各段階において記述してきた内容がさらに深められて展開されていることが良く分かります。「挑戦と応戦」という概念、また「宇宙の背後の根源的実在」、人間と人間との関係・ネットワークからみる「社会」等、重要な視点はほぼ完全に網羅されていますが、重要なことは、その一つ一つの概念・用語が、ここに至るまでのトインビー博士の生涯における博士自身の「経験」に基づいているということです。このことは、トインビー博士の生涯を順を追って辿ってくるとよくわかってきます。そのようにみてくると、トインビー博士の構築した世界は、博士自身が記述しているように、あくまでも「経験論」的であるということです。トインビー博士が「歴史の研究」の記述に取り組むにあたって、文明単位の歴史認識の先駆者としてのオズワルド・ショペングラーの概念から演繹的に結論にいたる「大陸合理論」的な論述ではなく、経験的事実から結論を帰納する「イギリス経験論」の方法論であえて取り組むと言明した通り、見事に「経験論」的な、言い換えれば「歴史学」的な取り組みとなっています。
 トインビー博士を評して「二十世紀最大の歴史学者」という表現がなされます。当の歴史学者達からは「しろうと歴史学者」とか「神秘論者」「宗教偏重」等のあらゆる非難中傷を加えられており、できれば「歴史学者」の仲間に入れたくないとの扱いを受けてきましたが、虚心坦懐にその生涯にわたる事績を著作を中心に、さらにトインビー博士の伝記的事実を重ねて辿っていくと、そこで明白になってくるのはあくまでも「経験・事実」を正確に踏まえ、その帰納の上に考察を重ねていく「歴史学者」の姿です。
 しかし、その誠実な仕事が逆に「理解」を難しくしている部分があることも、残念なことですが事実としてあると思います。トインビー博士は歴史的事実を例証として正確にあげているのですが、「しろうとではわからない。専門家でも理解できない」との批判があるように、文明の始まりから始まって現代にいたるまでの時間軸の幅で、ある時は古代エジプトの最初の統一者である「ナルメル王」から始まって古代ペルシャのダレイオス一世、さらにトルコの建国の父とされるケマルパシャ、古代中国の漢の高祖劉邦などを同じ次元で引用して例証するとなると、歴史的背景を知らない「しろうと」にとっては、ほとんど理解不能の世界となります。また歴史学における専門家とは、世界史という観点からは、きわめて狭い範囲の専門家ですので先ほどのような例証は、自分の専門分野とその周辺および関連分野については単なる知識以上の見識をもって判断できるでしょうが、その例証を全世界・全時代の範囲から取り上げて縦横無尽に論証されると、理解不能の部分がでてきますので、結局は「しろうと」と同じレベルで理解不能の世界に入ってしまいます。
 トインビー博士が特に歴史学者から批判されることが多い素因はこのあたりにあると思います。しかし、日本において第二次世界大戦後、高等学校の教科として登場した「世界史」の教師として、大学在籍次の専攻(私は東京教育大学の史学科・西洋史専攻)を越えて、文字通り全時代の全世界の歴史を教えることを一貫して要求されてきた私の眼から見て、トインビー博士の歴史的事実の取り上げ方は実に公平であり歴史家として見事であると感じます。トインビー博士ご自身が明確に書かれておりますが、自らの生い育った文明である西欧文明、また当時の西欧における教育の基本とされた人文主義(フマニズム)の内容としての〝古典古代〟ギリシャ・ローマへの知識への傾きを意識的に修正して、人間が生存する全世界(オイクメネー)を俯瞰し、どの文明も平等に見ていこうとする努力は感動的です。もちろん、分野によってトインビー博士の歴史的事実の知識の濃淡はあります。当然、いわゆるヘレニック文明、ギリシャ・ローマに関しては質量ともに圧巻ですし、西欧文明に関しても全く同様です。インドについては、イギリスの統治の関係からか豊富な知識をお持ちですし、ローマ帝国の東方部分、ビザンチン帝国さらにロシアについては、もともとロンドン大学時代の教授内容と重なります。ただ、中国・日本・朝鮮の知識については、先にあげた部分と比較して、若干厚みに欠けるように感じます。しかし、比較対象する上では、必要にして十分であると感じます。晩年の仕事の中で、若泉敬教授と「未来を生きる」、最終的な仕事になった池田大作先生との「21世紀への対話」等、日本人を対談の相手としての仕事が多くなるのは、そのあたりに誘因があるのかもしれません。
トインビー博士による「現代が受けている挑戦」。この題名は原題の『CHANGE AND HABIT』の副題として続いている『The Challnge of Our Time』の直訳ですが、この著作全体を丹念に読み込んでいくと、トインビー博士がつけた『CHANGE AND HABIT』の題名には、核兵器の時代に入った人類が課題としてつきつけられている「戦争」の廃止等に象徴される全人類的な課題を『The Challnge』として受け止め、いかに『Response』していくかということに焦点があり、最終的な解決の方向性は、人類一人一人の生き方の根本的な改革にかかっているとのトインビー博士の思いを象徴している言葉が、題名である『CHANGE AND HABIT』であるということが見えてきます。 〝人類よ。自らの慣習的な生き方を根本的に変革せよ〟とのトインビー博士の主張がそのまま題名になっていると感じます。
 
p20
人間の第一の特性は意識である。人間の自分自身についての意識、および自分自身の外側の「世界」、同じ人間仲間や生物、あるいは無生物の人間以外の存在が認められる「世界」についての意識である。
意識は選択の可能性を示していて、選択の意思を呼び起こす。そして意志という能力があるように見えるのは、――それが事実か錯覚であるかは別として、――人間の第二の精神的な特質である。
こういった特質の第三は善悪の識別である。この識別能力は人間の選択能力中に含まれていて、人間の選択行為はすべてなんらかの度合いにおいてほんのわずかであるにせよ生と善とのそして一方では死と悪との間の選択なのである。善と悪の区別はあらゆる人間についてあらゆる時と場所において見られるもののようである。この善悪の区別は事実、人間共通の性質というものを考える場合には本質的普遍的な特徴の一つと思われる。
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人間の精神的な特質の第四は宗教である。そしてこれは選択の意志と同様に意識が発見したものに対する精神的な反応である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「世界」の観察可能の断片を説明するものは全体として宇宙の本性に、あるいは何らかの人間よりも偉大な精神的な存在、「世界」の背後に「世界」を超越して存在し、恐らく「世界」の存在の源であるところの存在の本性にあるに違いないと考えるであろう。そして出てくる結論は、人間の生命とその背景をなすものは神秘であるということである。この結論に対する感情の反応は屈辱感と畏怖感である。私たちは人間が環境を支配するのではないことを認めなければならず、性質と働きの理解できない力によって生命を与えられた結果として環境のなかに存在する人間を私たち一人一人が見出すことになる。
人間が環境の主人ではないという認識は、人間に自分を捉えている神秘的な力との触れあいを渇仰させる。その動機は人間のもう一つの特性である単なる好奇心ではない。人間を超えた力とのつながりを求める動機は可能なかぎりこれらの力と調和を保って生きたいという願望にある。人間がこのように望むわけは人間とその運命を最終的に決定するものは人間自身ではなくて、それがなんであるにせよ、これら究極の霊的な力であることを認識しているからである。
このような衝動はすべての人間に共通であり、歴史上のすべての宗教はこの衝動を表現し、それを満たそうという試みなのである。