トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

『今、国体思想はどうなっているのか?』Toynbee asked to Prof. Kawai on 1967

 この表題は、当時78歳のトインビー博士がヴェロニカ夫人と共に、1967年、ご自身にとって三度目となる訪日の際に受けた印象を中心に書かれた、「日本の印象と期待」と題した文章の最後の章につけられた見出しです。この文章は、日本の毎日新聞に連載されました。
 「日本文明」との表現は当時の日本において、決して一般的な表現ではありません。その時から半世紀を経過し、21世紀に入っている現在においても日本人にとって違和感のある表現だと思います。日本人の一般的な感覚では、日本は世界で190以上ある「国」の一つであり、「文明」とは考えてはいないと思います。トインビー博士の日本に対する社交辞令に近い表現であると受け取れば、それ以上の展開は無意味であると思いますが、「文明」とは何なのか?日本は果たして「文明」といえる存在なのか?トインビー博士の生涯における学問的な積み重ねの中で考えてみると、重要な意味が見えてきます。その意義を探るために、まずトインビー博士と日本との関わりについて考えて見たいと思います。
 
この表題による記事は、この年の11月9日から12月13日にかけて毎日新聞に連載され当時大きな反響を呼びました。その内容は1983年に、「トインビー市民の会」が中心となってトインビー博士の日本の新聞・雑誌に対する寄稿をまとめ、経済往来社より発刊された「地球文明への視座」の中に収められています。
この連載は次のような言葉ではじまります。
私は前に日本を二回、最初は1929年、二度目は1956年に訪問している。私の日本経験は、こうして38年間におよぶ。現代の日本歴史において、これだけの時間が過ぎれば、日本人の生活には、どうころんでも、大きな変化があったことだろう。・・・・・・
この文章にあきらかですが、トインビー博士の来日は日本の歴史における大きな変革点である明治維新から始まる大日本帝国の挫折前のクライマックスの時期であるともいえる1929年に最初の訪日。第二次世界大戦における徹底的な敗北の結果、日本の歴史上始めて外国であるアメリカ軍の占領統治を経験し、平和憲法のもとに再出発して間もない1956年に第二回目の来日。戦後の復興が一段落し、経済面での高度成長期に入っていた1967年に第三回目の来日と、38年という間隔で日本の歴史始まって以来の激動期の中にある日本という「国」(もしくは「文明」)、その主体である日本人を観察することになりました。
 全世界の全時代にわたっての歴史、文字通りの意味における真実の「世界史」を構築されることを自らに課してこられたトインビー博士にとって、この38年間の日本の激動の歴史の意味は何か。この視点から見るとき日本の歴史の世界史の中における意味が見えてくると同時に、日本の進むべき未来の方向性も見えてくるはずです。
 
 トインビー博士の最初の日本訪問は、1929年(昭和4年)10月23日から11月9日まで京都で開催された太平洋問題調査会の第三回「太平洋会議」に参加するための、英国代表団の一員としての来日でした。この会議は、当時の国際連盟の事務次長も務めた新渡戸稲造が議長を務め、この回のテーマは「満州問題」でした。1905年の日露戦争後、南満州鉄道の権益をもとに中国東北部進出を進めていた日本帝国に対して、当該国である中国をはじめとして英米等を中心とする欧米各国からも強い懸念の思いが沸き起こっていました。この会議においては、日本の中国東北部進出を巡って日本と中国の代表の間に鋭い激しいやりとりがあったことが記録されています。英国代表団は終始冷静に第三者的な態度をとったようです。トインビー博士は、年長者の意向を意識して発言する日本の代表団の発言の様子と、年齢差などに頓着せず自分の考えを自信を持って語る中国の代表団の様子を比較し、日本と中国の国民性の違いについて感想を語っています。
 この会議に日本の代表団の一人として参加した、当時34歳の日本の若き政治学者であった蝋山政道氏に対して、トインビー博士は「日本はカルタゴの運命を・・・」と語ったことを、戦後刊行された中央公論社の『世界の名著』シリーズのなかの一冊、蝋山氏が編集の中心であった「トインビー」の解説の中に書かれています。
 何気ないひと言で、聞いた当初は深い意味はわからなかったと蝋山氏は記述しています。この一言は、その後「満州問題」が進展するなかで、中国との全面的な戦争になり、最終的には現代の「ローマ帝国」とも言えるアメリカ合衆国を中心とする欧米との戦いにまで発展し、結局は連合国相手の世界規模の大戦争に引きずり込まれ、結果として日本の歴史上で初めての徹底的な敗北に帰着した歴史の進行を経験し、この古代ギリシャ・ローマ文明(トインビー博士は〝ヘレニック文明〟と総称する)の歴史に記録された古代の海洋国家カルタゴの破滅の経緯に基づく歴史的洞察をもとにして、日本の破滅的敗北を予見したトインビー博士の発言は、蝋山氏の印象に強く残ることになったと記述されています。その思いもあって、蝋山氏は、太平洋戦争の敗戦後間もない時期にGHQの許可を取って、、トインビー博士の著書『歴史の研究』(サマヴィルによる縮刷版)を日本で最初に翻訳し紹介しています。
 1956年、トインビー博士は再び日本を訪問されます。これは自身のライフワークとして30年にわたって取り組み1954年に全巻完成し出版された、主著『歴史の研究』の内容について、あらためて『歴史の研究』で扱ってきた事実(全世界を舞台として全時代に及ぶ)について現地の様子を直接観察し、確認することを目的とした世界一周旅行でした。1955年にはそれまで勤めていた王立国際問題研究所の調査部長、およびロンドン大学国際史研究教授を辞任して、ロンドン大学の名誉教授となり、さらに1956年、名誉勲位保持者(C・H)に推薦され、さらにオックスフォード大学ベイオリルーコレッジの名誉フェローとなり、ご自身の人生における大きな節目を迎えられていたトインビー博士にとって、楽しみであるとともにご自身の考察を実際に現地において確認するための大事な世界一周旅行でした。
1956年2月から翌年8月まで、南米を最初の訪問地にして、ニュージーランド、オーストラリア、インドネシア、日本、東南アジア、インド、セイロン(スリランカ)、パキスタン、中東という東から西への順路で、研究観察を主眼とした世界一周旅行を計画し実行されました。60歳代後半にさしかかった段階での大旅行です。
 すでに世界的な名声を確立されたトインビー博士を、日本では朝野あげての大歓迎の体制でお迎えしました。日本滞在中は1929年の太平洋協議会に日本代表の一人として参加していた松本重治氏が館長を務めていた東京麻布の国際文化会館に宿泊され、当時の日本を代表する歴史学者との懇談、各地での講演、見学、天皇陛下との会見等、精力的な日程をこなされました。その時の印象をイギリスのガーディアン紙に寄稿したものをまとめたものが、1958年に旅行記『東から西へ』として出版されたものです。
 その中で、日本についての記述は、見出しをとりあげると「23.日本における過去と未来」「24.日本における宗教の前途」「25.北海道」の三カ所です。大歓迎を受け日本中を回られた精力的な行動からみると、日本人として正直なところ「日本についてはこれだけ?」と思ってしまうような内容です。しかしトインビー博士の生涯の研究内容から考えてみると、実はトインビー博士の歴史観の中核をなす観点からの重要な記述であることがわかってきます。トインビー博士が、日本の歴史に探りたかったものは何か。それは実はこの三カ所の記述の中に明確に表現されています。最初の「23.日本における過去と未来」の中の冒頭は次のような記述で始まります。
 
『そしてその倒れ方はひどかった』(マタイ福音書)敗戦後11年の日本を訪れた西欧人の旅行者の耳に、この聖書の言葉が鳴り響く。訪問者の気づくこの国をひっくり返した大事件は、日本帝国の倒潰でも、広島と長崎の上空における原子爆弾の爆発でもない。これらの事件もまた、歴史的なできごとであったには相違ない。日本帝国は、倒潰する前には、中国、フィリピン、インドシナ、マラヤ、インドネシアビルマの各地に進出していた。日本に二個の爆弾が投下されたことによって、戦争という制度と人類の運命の歴史に新たな局面が開かれた。しかし、そのほかになお、1945年に日本において倒れたものがあった。そして、それは明治時代の日本精神であった。これがいまなお日本の到る所に反響を呼び起こしつつある倒潰である。長崎は再建され、1956年のいま、もし知らなかったならば、1945年にそこに何が起こったか、想像もつかないくらいである。
 しかし、日本人の戦前の思想的世界の崩壊は、いまなお空白のままになっている精神的真空状態を後に残した。いやでもその存在に気づかないわけにゆかず、また、それがやがて何によって満たされるのか、考えてみないわけにゆかない。それが満たされることは間違いがないように思われる―自然は物理的真空だけでなしに、精神的真空をも忌み嫌うものであるからして。
 
この文章において、トインビー博士が、どのような観点で1956年の日本をみているのかが明白になっています。トインビー博士は、日本の歴史始まって以来の破局的な経験となる全世界を敵として戦い、その結果ほぼ全てを失い、占領者のもとに置かれた日本の経験を、『そしてその倒れ方はひどかった』(マタイ福音書と聖書の一節を引きながら表現されます。「敗戦後11年の日本を訪れた西欧人の旅行者の耳に、この聖書の言葉が鳴り響く」とつづけられた後、何が倒れたかを確認していきます。まず最初に「訪問者の気づくこの国をひっくり返した大事件は、日本帝国の倒潰でも、広島と長崎の上空における原子爆弾の爆発でもない」と述べられます。日本帝国の崩壊という、具体的な事実ではないし、人類史上はじめて広島・長崎において核兵器が使われたことではないとします。もっとも、広島・長崎において核兵器が戦争に使われたことは、「日本に二個の爆弾が投下されたことによって、戦争という制度と人類の運命の歴史に新たな局面が開かれた」として、その人類史における歴史的意味をあらためて確認されています。その重要性は否定しないが、そのことよりもより、より本質的な意義をもつできごととして、トインビー博士はつぎのように記述しています。
しかし、そのほかになお、1945年に日本において倒れたものがあった。そして、それは明治時代の日本精神であった。これがいまなお日本の到る所に反響を呼び起こしつつある倒潰である」
この倒潰とは、日本人の精神の根幹にあたる部分の倒潰、具体的に言えば明治時代以来の日本精神、さらに言えば天皇を現人神とし、神道を根幹に儒教倫理を織り込んだ神国日本思想、「国体思想」ということになります。
さらに次のように記述を続けられています。
しかし、日本人の戦前の思想的世界の崩壊は、いまなお空白のままになっている精神的真空状態を後に残した。いやでもその存在に気づかないわけにゆかず、また、それがやがて何によって満たされるのか、考えてみないわけにゆかない。それが満たされることは間違いがないように思われる―自然は物理的真空だけでなしに、精神的真空をも忌み嫌うものであるからして。」
ここに記述されているのは、挫折による精神的空白状態は必ず何かによって満たされることになる。物理的な真空が必ず何かによって満たされるということと同じレベルの確実さで、精神的真空も必ず何かによって満たされることになるという確信です。
それでは、第二次世界大戦敗北後の日本人の精神的空白状態を埋めることになるのは何なのか。このあとトインビー博士は、戦後10年の1957年の段階で、民衆のレベルで影響力をもっている思想・宗教の検討を始められます。
 
 
 
 この視点こそ、トインビ史観の根幹を構成する視点です。「試練にたつ文明」「歴史の研究」「一歴史家の宗教観」「ハンニバルの遺産」「ヘレニズム」「現代が受けている挑戦」等、トインビー博士の主要な著作において、講演・講義の記録、学術論文、概説書、旅行記、また対談形式の著作等、発表の形式は様々ですが、究極のトインビー博士の主張はこの下線を引いたテーゼに集約されます。この内容はトインビー博士の人生最後の著作となった池田先生との「21世紀への対話」の結論とも重なります。
「21世紀への対話」の前書きに、トインビー博士の手によって両者の一致した結論として列記されていますが、ごく短く集約すると、
 
1.宗教を持つことが人間の根本である。
2.宗教には高低がある。
3.宗教はまず自然の諸力の崇拝からスタートする。
4.「文明」の開始は、人間の集団力の崇拝のスタートとなる。
5.人間の集団力の崇拝は、絶対者としての「国家」間の戦争へとつながる。
6.紀元前一千年紀の中頃、世界の各地に「高等宗教」が生まれる。
7.高等宗教は、人間の魂を「究極の実在」に直接触れさせる宗教。
8.個人の魂が直接「究極の実在」にふれることが、一切の人権の原点。
9.「高等宗教」は「文明」と「文明」の衝突の結果生まれてくる。
10.文明同士の衝突の結果、敗北した文明の中から「高等宗教」は生まれる。
11.「高等宗教」は最下層の民衆の自発的な運動として生まれてくる。
12.民衆の無意識層からの要請に応えて、「創造的個人」が思想・教法を説く。
13.全人類への布教を目指す「世界宗教」としての「高等宗教」が大事。
14.戦争が全人類の滅亡につながる「核時代」。
15.「核時代」における「高等宗教」の条件は?
16.高等宗教のなかでも、世界布教の段階で非暴力を貫いた「大乗仏教」に注目。
17.現代の「高等宗教」は、過去から引きずる非本質的部分を剥ぎ取る必要がある。
18.現代の「高等宗教」は人類が直面している諸課題に答える必要がある。
19.①人間と環境の関係②人間と人間との関係③人間個人の心と身体の関係
20.以上三つの関係に、的確な回答を用意する必要がある。
21.「世界文明」の構築こそ人類の緊急の課題。
22.「文明」とは『全人類が一つの家族のように仲良く生きることをめざすこと』。
22.「世界国家」か「世界宗教」か?
23.「世界国家」への道は、人類滅亡の核戦争につながる。
24.地域的に遍在する「世界宗教」も人類の分断につながる。
25.「ディアスポラ」の形態をとる「世界宗教
26.世界192カ国(現在の国連加盟国数)に広がるSGI
 
 
 
 
この質問を最初に切り出されたということは、第二次世界大戦後の日本に対するトインビー博士の関心に直接につながる質問であり、それは同時に博士の文明史観の究極的な結論にかかわる重要な質問です。
ここで言う『国体思想』とは、明治維新以来、日本国家統合の原理として、日本古来の神道思想を背景として象徴として天皇をおく、日本的なナショナリズムの思想です。この国体思想についてトインビー博士自身が、1956年の日本訪問を含む「歴史の研究」刊行後の世界一周旅行の旅行記である『東から西へ』の中で日本に関する部分の冒頭で語っています。
 
百年前に日本の指導者がかれらの先輩の鎖国政策を棄て、近代西欧文明の実用面を全面的に取り入れることを決意したとき、かれらはかれらの伝統的な精神生活を放棄するつもりはなかった。では、つぎつぎに層をなして堆積している神道と仏教と儒教をどう処理すればよいか。かれらは儒教の倫理と神道の儀式とを融合して、天皇崇拝を信仰の中心とする、かなり人為的な新たな混合宗教を作り上げた
 
 トインビー博士が認識されている『国体思想』とは、日本版のナショナリズムの根本を形成する混合宗教であり、第二次世界大戦において、最後はたった一国で当時のほぼ全世界を意味する米国を中心とする連合国との壊滅的かつ悲劇的な戦争を経験し、人類史上最初に原子爆弾による非人道的な攻撃を経験した上で無条件降伏をするという結末に至る、明治以来の日本帝国を主導した思想でした。トインビー博士の書かれた旅行記「東から西へ」の中、日本を扱っている部分では、壊滅的な敗北という歴史的事実によって、この『国体思想』に対する信仰が根本的に揺らぎ、日本人の生き方を規定してきた思想が喪失したことによって発生した日本人の心の内面の空白を、どの宗教、思想が埋めることになったかという点に関して、第二次世界大戦終了後11年たった1956年の段階での日本人の心の状況を探求されています。
 トインビー博士は、若き学生時代においては合理主義の観点から宗教を否定する「不可知論」の立場をとっておられました。しかしその後のご自身の世界史研究を通じての考察と、ご自身の人生において遭遇した様々な宗教的経験を通しての最終的な結論として、人間である以上、全ての人にとって『宗教』は必ず必要なものであるという宗教観を持つにいたっておりました。その観点からみれば、かつてヘレニック文明(ギリシャ・ローマ文明)とシリアック文明の『文明の衝突』から、激しい徹底的な抵抗の結果、決定的な敗北を経験することになったユダヤ人の中からイエス・キリストが登場し、キリスト教という『高等宗教・世界宗教』が生まれてきた歴史事象と類比できる、第二次世界大戦において日本文明と西欧文明の『文明の衝突』を経験し、ユダヤ人の文明的経験にも匹敵する徹底的な敗北の経験をすることになった日本人の中から、さきのイエス・キリストのように、新しい時代に人類の救世の道を説く個人と、その人物が説く内容を中心に新たな『高等宗教・世界宗教』が生まれてくる蓋然性について思索を進めておられたと推定することができます。アメリカの歴史学会の重鎮であり、トインビー家の依頼でトインビー博士の伝記を執筆したマクニールは、次のように記述しています。
           
・・・From Toynbee's point of view,Soka Gakkai was exactly what his vision of the historical moment expected, for it was a new church, arising on the fringes of the "post-Christian" world, appealing principally to an internal proletariat, and deriving part of its legitimacy from an ancient and persecuted faith.Comparisons with early Christian history fairly leap to mind, and in a preface he wrote for the English traslation of one of  Ikeda's books Toynbee explicitely compared the world misson of Soka Gakkai with the Christian Church on the eve of its coming to power in the Roman Empire.
  〔仮訳〕トインビーの見解では、創価学会はまさに彼の観点による歴史的瞬間に期待されたものでした。それは新しい〝Church〟(一定の教義に基づく意見を共有する組織化された宗教集団)であり、「ポストクリスチャン」(キリスト教の影響が及ばなくなった)世界の周辺に生まれ、主に内的プロレタリアート(その社会の中で経済的にも政治的にも権利を持たない疎外された階層)に訴え、古代の迫害された信仰からその正当性を分有する集団ということになります。(創価学会)と初期のキリスト教の歴史との比較は、実際に(トインビーの)頭に浮かび、池田の本の一つを英語に翻訳する際に、彼が書いた序文の中で、ローマ帝国で権力を握る前夜のキリスト教会と比較して、創価学会の世界的使命を明確に語っています 。        『ARNOLD J. TOYNBEE  A.LIFE』 (1989) p272
 
 1956年の世界一周旅行後に出版された旅行の印象記「東から西へ」に書かれた日本に関する記事は、明らかにそのトインビー博士の関心を反映していると言って良いと思います。この1956年の来日の際には、トインビー博士の希望で当時の日本における日本史、東洋史西洋史の学者たちとの会合が設定され、日本史の和歌森太郎東洋史貝塚茂樹、西洋思想史の桑原武夫を始めととして、当時の日本の代表的な学者たちとの質問・懇談会が開催されました。その様子を桑原武夫氏は、自らが監修・翻訳に携わった図説『歴史の研究』の訳者あとがきの中においてつぎのように書いておられます。
 
1956年、京都で学者たちとの会合がもたれたとき、トインビーが当時目新しかったテープレコーダーを廻しつつ、長時間疲れを見せず意見交換したのは壮観であったが、そのさい彼がもっとも熱心に質問をくりかえしたのは大乗仏教についてであった。日本の近代化についても関心を示したが大衆社会的状況ならびに大衆文化についてはほとんど興味をおこさなかった。」 
 
この記事からも、当時のトインビー博士の日本に対する関心の中心が何であったは明確であると思います。               
 トインビー博士の歴史研究の根本的な動機は、ご自身が様々な著作ではっきりと述べられているように、第一次世界大戦という世界戦争に直面し、1915年から1916年のわずか2年のあいだに、ウインチェスター校時代の級友の半数が戦死するという深刻な体験に対しての人間としての〝応答〟としてスタートしています。ある歴史学者はトインビー博士の文章を具体的にあげ、次のように書いています。
 
「The shock of the Great War instilled in Toynbee a profound need to comprehend and confront the crisis that had afflicted the modern West. .........The war also gave Toynbee a sense of mission . Disqualified for military service because of dysentery . Toynbee would always regard himself as a fortunate survivor of a conflict that took the lives of half 〔...let that sink in:half !ー〕his classsmates .
Their deaths would always grieve him; as a survivor he would always fell that his declinig years were a gift that must be used in the service of  humanity.[Toynbee wrote]“the longer I live, the greater grows  my grief and indignation at the wicked cutting short  of all those lives. ..... The writing  of 〔A Study of History〕has been one of my responses to the challenge that has been presented to me by senseless criminality of human affirs.”」
【仮訳】
第一次世界大戦の衝撃により、トインビーは現代の西側諸国を苦しめた危機を理解し、それに立ち向かう必要性を強く感じました。 …………戦争はトインビーに使命感を与えた。(ギリシャでの研修旅行で罹患した)赤痢 で 兵役 を免除された トインビーは、いつも自分のことを、クラスメートの半分の命を奪った紛争の幸運な生存者だと考えていました。彼らの死はいつも彼を悲しませた。 生存者として、彼は自分のその後の人生の年月を人類への奉仕に使われなければならない贈り物であるといつも思い込んでいた。 . ..... 「歴史の研究」の執筆は、人間事象の無意味な犯罪性(戦争)によって私に提示された挑戦に対する応戦の 1 つでした。〕
【Marvin Perry, Arnold Toynbee and Crisis of the West,pp.1f.; A Study of History;The One-Volume Edition Illustrated,p 11.】
 
 この人類の業としての戦争を、慣れ親しんだ貴重な友人達を短期間に大量に失うこととなった深刻な問題として真剣に受け止めるところから発したトインビー博士の歴史に対する研究は、人類の歴史を全世界、全時代にわたって総体として、あるがままに受け止め、その中で“戦争のない世界を構築するための根本の方途は何か”という問題意識が常に通奏低音のように響いている研究となりました。
 フィールドを限定して個別実証を重ねるとという方法論に基づいて、価値自由的に記述するいわゆる近代歴史学からみれば異端である方法論であり、さらこの方法論において必然的に伴うこととなった全世界・全時代にわたる知識量の膨大さは、専門的な歴史学者にとっても個人として理解できる範囲をはるかに越えるものとなりました。第二次世界大戦直後の米国において出版された、サマヴィルの縮刷版『歴史の研究』が一般読書人に好意的に受け止められ、ベストセラーになっていく状況に反比例するように、専門的な歴史学者からは感情的とも言える否定的な膨大な量の反論が寄せられるようになりました。その後は専門的な歴史学者からは全面的無視が現在まで続いているといっても間違いはないと思います。
 専門的な歴史学者からの評価が低い「歴史の研究」は、歴史研究としては学問的には無価値なのか。この問いに対して答えを出すためには、先ほどあげたトインビー博士の歴史研究の結果である「歴史の研究」と、トインビー博士が生計を立てるために取り組むこととなった王立国際問題研究所での仕事の結果である「国際問題大観」の両著作をしっかりと読み解く必要があります。ほぼ20年にわたって並行して進められたこの二つの仕事は、「歴史の研究」においては原著の英語版で大部の著作が12冊、完全な翻訳としては世界で唯一と言っても良い日本語訳で同じく大部の著作が26冊になります。王立国際問題研究所での契約上の義務として、その年間の全世界にわたる国際問題の概観をトインビー博士が1人で執筆するという形で、毎年一冊づつ刊行された「国際問題大観」は、第二次世界大戦をはさむ時代における国際問題の優れた概観として各国の指導者層にうけいれられました。ドイツのヒットラーがこの愛読者の一人であり、トインビー博士の非公式なドイツ訪問の情報を察知したヒットラー総督府にトインビー博士を呼び、ドイツの東方政策について2時間にわたって話し続けたというエピソードを、トインビー博士自身が回顧録に書いておられます。
 さきにあげた究極の問題意識、“戦争のない世界を構築するための根本の方途は何か”に基づく研究は、全世界・全時代の歴史事象を対象とする研究であり、その世界史研究の理解可能な認識の範疇として設定することになったのが“文明”という単位です。さらにその“文明”に生気を与える根本が“宗教”であり、近代以後の世俗化(secularization)の中でキリスト教に代わって人々の心を占めることになった誤った宗教としてのナショナリズム国家主義こそ、20世紀を“戦争の世紀”とした元凶であるという認識を得るに至ります。
 
 現代社会において宗教はどのような形をとり、どのような役割を果たしているのか。そのことについては、「21世紀への対話」の第二章 「宗教の役割」の中の2 「近代西欧の三宗教」で取り上げられ論じられています。この対話は池田先生の次のような語りだし、問題提起からはじまります。その部分を引用してみます。
 
  「池田 宗教は常に文明の源泉であり、創造性の原動力となってきましたが、これに反して近代以後の西欧文明は、むしろ宗教からの離脱を起点としているいわば非宗教的文明とみることができます。これは否めない事実であると思いますし、実際に本来の意味での〝宗教〟の喪失が賛否両方の意味で、議論の的となっています。しかし、もう一歩〝宗教〟の概念を広げて考えてみると、近代科学技術文明も、それなりの〝宗教〟をもっているとみることができると思うのです。たとえば、物質的な富への憧憬、科学の進歩への信念といったものは、現代人の〝宗教〟となっていると言えるのではないでしょうか。」
 
この問いかけに対して、トインビー博士は次のように応答されます。
 
「トインビー つまり、近代西欧は、宗教をもつことをやめたのではなく、もつところの宗教を変えたのだとお考えなのですね。まったく同感です。私も、人間は宗教や哲学なしには生きていけないと信じています。宗教・哲学という二つの観念形態の間には、明確な区別はありません。」
 
   この応答に対して、池田先生はさらに深く展開して、次のように問いかけます。
 
「池田 宗教の本質的なものは、人間の生き方に関する思想的側面であるはずです。この観点から現代人の物質的富への憧憬や科学的進歩への信念といったものをみると、それが現代文明において果たしている役割は、まさに宗教と何ら変わるところがないように思われるのです。このことは、近代の科学技術文明というものを把握し、今日の課題である文明の転換の道を思索するうえで、重要な意味をもつと思います。そして、そこから――あたかもエジプトにおいてファラオの信仰からキリスト教へ、さらにイスラム教へと変転が主なわれたように、あるいはヨーロッパにおいて宗教改革がおこなわれたように――現代文明における宗教的変革の道も、あきらかになってくると思います。」
 
この問いかけに対して、さらにトインビー博士は次のように応答されます。その応答は単なる質問に対する答えの域を越え、自身の歴史観の根幹にふれるテーマとして、むしろ熱を込めて展開されているようにも感じます。
 
  「トインビー 西欧文明は、いまや近代的な装いをこらして全世界に――あるいは力ずくで、あるいは自主的な形で――普及していますから、この近代西欧の宗教、ないし諸宗教を見極め、評価することが重要になってきます。一文明における宗教はその文明の生気の源泉であり、この宗教への信仰が失われるとき、文明の崩壊とすげ替えがなされる――このことが、私の信ずるように正しいとすれば、全世界がある程度西欧化している今日、西欧諸民族の近代宗教史こそが、人類全体の現状を認識し、その未来を展望するカギとなるでしょう。西欧文明は、かつてギリシャ・ローマ世界の宗教・哲学がキリスト教にその地位を奪われたとき、このギリシャ・ローマ文明に代わって登場してきました。キリスト教は、以後、西欧の主要な宗教として――いや、事実上、その唯一の宗教として――17世紀の後半まで存続してきました。しかし、17世紀も終幕に近づくと、キリスト教は、その長期にわたる西欧知識階層への支配力を失い始めました。そして、その後三世紀の間に、キリスト教の退潮傾向はますます広汎なものとなり、西欧社会の全階層にまで及びました。また、これと時を同じくして、人類の多数者たる非西欧諸民族の間に、近代西欧の制度、思想、理想――これはむしろ、逆に理想の喪失と言うべきでしょうが――などが広まったため、これら非西欧諸民族は古来の宗教・哲学による支配力から解き放たれました。つまり、ロシアでは東方正教キリスト教の、トルコではイスラム教の、また中国では儒教の、支配力がそれぞれ失われたのです。私の西洋史観では、17世紀におけるおける西欧の宗教的変革は、かつて四世紀にローマ帝国キリスト教化した後の西洋史の流れの中で、最も大きな、また最も重要な分岐点でした。つまり、この17世紀の区切り目は、私のみるところ、それ以前の宗教改革で西欧キリスト教会がカトリックプロテスタントの二派に分裂したこと、さらにそれ以前のルネッサンスギリシャ・ローマ文明が、どちらかといえば皮相的な形で西欧社会に復興したことなどに比べると、はるかに重要な歴史的事件なのです。
 
   この視点は、トインビー博士の歴史観の根幹をなす視点であると考えて間違いないと思います。人間における思想・宗教の重要性を確認した上で、それが人間の集団生活・社会のなかでどのように影響するかを、文明という枠組みを基本ベースとして、歴史的経緯の中で考察する。特に二度にわたる世界大戦を自身の生涯の中で経験し、いまや一歩間違えれば全人類の核戦争による絶滅の可能性があるという段階にまで達した人類の運命を心配されているトインビー博士にとって、切実な課題として存在したのだと思います。
 この視点は、現在のスタンダードとなっている歴史観とは大きく異なる内容です。現在の、歴史学が前提としている歴史観は、基本的には近代西欧中心の進歩史観であるといっても良いと思います。近代の、まさに17世紀以降の西欧の優位を背景として、西欧発の資本主義の発達を前提とし、その進歩と同時の現象として登場するナショナリズム、その基盤としての近代合理主義に基づく啓蒙思想、西欧的な自由主義、議会民主主義の発展進歩を人類全体の目指すべき理想として設定し、そのゴールに向かっての諸段階の中に、世界の〝諸国〟を位置づけていく。これに異を唱えるのが、平等を基本とし、資本主義、自由主義を敢えて否定する共産主義ですが、その内容に立ち入ってみると先にあげた資本主義と同様に、人類の歴史をある理想に向かっての進歩の過程とみる進歩思想です。 トインビー博士の歴史観は、上記の視点の前提条件としての〝宗教改革〟〝ルネサンス〟の重要性よりも、〝17世紀の西欧の宗教的改革〟の重要性を指摘します。この〝17世紀の西欧の宗教的改革〟と具体的にはどんな歴史事象だったのでしょうか。この指摘を受けて池田先生は次のように展開します。
 
  「池田 たしかに、17世紀には、キリスト教が世俗世界における立場を揺るがせ、諸学問に対する教権を失わせるような、画期的な事件が相ついで起こっています。17世紀の前半には三十年戦争があり、宗教上の見解の相違を政治的・軍事的力によって争った、最後の惨劇が展開された時代です。そしてこれを契機として、それ以後、宗教上の争いに政治権力が介入することはしないという原則が、しだいに打ち立てられたわけです。また、ガリレオコペルニクスの地動説を支持して宗教裁判にかけられたのも、17世紀前半のことです。デカルトが近代合理主義哲学の基礎を打ち立てたのが、やはり17世紀の前半でした。ニュートンが活躍したのも、17世紀の後半から18世紀の初めにかけてです。 こうした思想上の発展をみると、17世紀には、ルネッサンス宗教改革よりもはるかに大きい転換がなされたという博士の所説は、十分に納得できます。たしかに、ルネッサンス宗教改革は、キリスト教思想の内側での変革であり、キリスト教信仰そのものを揺るがした事件とはいえません。これに対して、17世紀の種々の変革は、キリスト教信仰と政治との関係、キリスト教神学と科学その他の学問との関係において、キリスト教そのものの座を危うくする変革であったということができますね。」
           
  ここに述べられているのは、池田先生のきわめて正確な17世紀西欧の思想・宗教・政治に対する理解です。ルネッサンス宗教改革はあくまでもキリスト教思想の内側での変革であり、キリスト教信仰そのものを揺るがした事件とはいえないという認識の上に立って、17世紀に起こった従来なら文化史の流れの中で論じられる、デカルトの近代合理主義哲学、コペルニクスの地動説、それに続くガリレオの宗教裁判等の持つ根本的な歴史的意義を正確に捉えられています。その正確な歴史的事実の認識を踏まえられて、トインビー博士は最終的には、自身の歴史観の総括とも言える次のような表現で答えられます。
           
「トインビー 17世紀に起こった宗教上の変革は、たんに消極的な出来事、つまりキリスト教の後退として、誤って解釈されてきました。すなわち、人間性は宗教的空白を嫌うものであること、したがってまた、一社会内で古来の宗教が衰退すると、早晩それに代わる一つないし複数の宗教が必ず興ってくるということに対して、認識がなされていなかったのです。私の見解では、17世紀におけるキリスト教の後退によって西欧に生じた空白は、三つの別の宗教の台頭によって埋められました。その一つは、技術に対する科学の組織的応用から生まれる進歩の必然性への信仰であり、もう一つはナショナリズム(国家主義)であり、他の一つが共産主義です。」
           
  このあと、トインビー博士は複数の宗教が同じ社会のなかに存在することになった、17世紀以降の西欧の状況についてのべると同時に、非キリスト教国においていくつかの宗教が共存してきたことを肯定的に述べます。この内容を受けて池田先生は、日本の状況をあげながらさらに説明を加えます。
           
  「池田 日本では、非常に仏教に篤信な人も、神道に篤信な人も、伝統的に他の宗教の信仰者に対して寛容でしたし、多くの場合、一人のなかにおいて、仏教と神道儒教が共存してきたことさえあります。しかも、これらの古来の宗教は、日本人の内に、博士があげられたキリスト教後退後の三つの信仰のうちの二つ――つまり科学技術の進歩に対する信仰とナショナリズム――とも、顕著な形で同居してきました。周知の通り、ナショナリズムと最も明白な形で結びついたのが神道でした。これは明治維新から第二次大戦の終わりまで、日本帝国主義の精神的支柱となってきました。敗戦によって、神道の象徴的意味と、そのナショナリズムとの結託は破綻しましたが、まったく消えてしまったわけではありません。神道はまた、科学技術の進歩とも奇妙に結びついています。最新の技術設備をもつ工場やビルディングに、神道の祠が設けられていることは珍しくありませんし、現代技術の粋をつくして建てる鉄筋コンクリート・ビル着工にあたって、神道による〝清め〟の儀式が、伝統的な儀式にのっとって行われています。こうした事例からみますと、日本の場合、科学技術に対する信仰とか、ナショナリズム共産主義は、伝統的宗教の後退による精神的空白を埋めるものというのとは、少し意味が違うようです。そこが、自身における精神的な対決のうちから、新しい精神と人生の拠りどころを求め、これを確立していったヨーロッパ人の場合と異なる点だと思います。
           
  この池田先生の指摘を受け、トインビー博士はさらに詳しく「近代西欧の三宗教」成立の歴史的情況を説明します。その内容は、歴史とはあくまでも〝人間〟の営為が根本として形成されるものとみる、トインビー博士の歴史観が具体例を通して述べられます。この視点は、歴史を何か客観的な法則や、超越的な存在者によって人間の外部から働きかけられて進行するものとする視点とは全く正反対の視点です。危機的状況にある現代文明を、人間を始めとして全ての存在にとってより良き方向に変える必要性が存在する現在、変革の主体者としての〝人間〟。われわれ人類の中の目覚めた者にとって重要な支えとなる思想であると思います。
 
「トインビー たしかに、状況の違いはあるようです。しかし、その点についてさらに比較検討を進めるため、科学的進歩への信仰やナショナリズム共産主義が、ヨーロッパ諸民族の思考や信仰に重要な位置を占めるに至ったいきさつを、若干詳しく述べて見たいと思います。まず、科学的進歩に対する近代西欧の信仰が意識的に確立されたのは、1661年にイギリス学士院が設立されたのと同時と考えてよいでしょう。イギリス学士院は、17世紀の自国の内紛に驚惑し、その政治上の成り行きに幻滅したイギリスの知識階層によって設立されました。これらの知識人は、イギリスにおいて国内紛争をつのらせたのは、神学上の論争であることに気づきました。彼らは、この種の論争はキリスト教の権威を落とし、世間にも害を及ぼすものだと考えました。また、争点となっている問題が、合理的に納得のいく形で解決されるものでなく、そのため知的にも結論に到達できるものではないと考えました。彼らのこの考え方は正しかったといえます。このため、イギリス学士院の設立には、知的関心の方向を神学から科学へと変え、実際の行動を、宗教や政治の紛争から技術面の発達へと転じることによって、そうした弊害を和らげようとする意図がこめられていました。設立者たちは、科学を組織的に技術面に応用することによって、かつていない技術の進歩を実現する可能性があることを予知していたわけです。彼らは、技術の進歩が、必ずや福祉面の向上につながるものと想定していました。しかし、彼らにも盲点がありました。それは、あらゆる力は――科学的に進歩した技術が生み出す力を含めて――すべて倫理的には中性のものであり、したがって、使い方によって善にも悪にもなりうるという点でした。この彼らの理想にのっとった宗教――科学的進歩への信仰――は、1945年に致命的な打撃を受けました。それは、科学が原子の構造を発見し、この発見が技術に応用されて核分裂によるエネルギー放出をもたらし、それがただちに悪用されて二個の原爆がつくられ、広島と長崎に投下されされたときのことです。」
           
  「池田 科学者たちは、二度にわたる世界大戦を体験するまで、真の意味で、科学的進歩のもつそうした両面性に、深刻な認識をもっていなかったようです。二つの大戦には、経済力と科学技術の総力が注がれましたが、その結果、人類が得たものは、悲惨きわまる災禍でしかなかったわけです。」
 
「トインビー 次に、西欧の伝統的宗教にとって代わった第二の宗教、つまりナショナリズムは、地方社会における人間の集団力を信仰の対象とするものです。科学の進歩に対する信仰とは違って、ナショナリズムは新しい宗教ではありません。それは、古来の宗教が復活したものです。すなわち、ナショナリズムは、キリスト教以前のギリシャ・ローマ世界における都市国家の宗教だったのです。この宗教は、ルネッサンス期に西欧で甦りました。そして、このギリシャ・ローマ的な政治的宗教のルネッサンスにおける復活は、ギリシャ・ローマ風の文学、美術、建築などの復興よりも、はるかに強い影響力を持ち続けています。」
           
この部分をある程度の実感をもってうけとめるには、ギリシャ・ローマ世界の歴史に対する知識とルネンサンス期のイタリアの都市国家の抗争に関する知識を前提として必要とします。トインビー博士の学歴のなかで明白なように、パブリックスクール時代の古代ギリシャ語、ラテン語の習得を通しての古典古代に関する教育、さらにオックスフォード大学での人文主義の教育を通して身につけることになる、教養・リベラルアーツがベースとなって理解できる内容となります。さらにトインビー博士の記述の引用を続けます。
           
  「近代西欧ナショナリズムは、ギリシャ・ローマの政治理念や制度によって感化されつつも、キリスト教の活動性と狂信性を受け継いでいます。それが、アメリカ独立戦争フランス革命において実践に移されたとき、ナショナリズムは、きわめて高い感染度をもっていることがわかったわけです。今日では、この狂信的ナショナリズムが、人類全体のおそらく九割の人々がもつ宗教のうち、おそらく九割を占めるものとなっています。」
           
   この部分も、従来の世界の歴史の教育の中で強調されている内容と真っ向から衝突する部分です。従来の世界史教育の中では、アメリカ独立とフランス革命はハイライトされる特筆すべき事件として扱われています。近代の自由民主主義のイデオロギー、それに基づく議会民主主義、その根幹をなす根本法としての憲法の確立、先ほど池田先生とトインビー博士が論じてきた17世紀の脱キリスト教段階、いわゆる〝世俗化〟された〝市民社会〟の基本構造のスタートを確立した事件として特別の意義をこめて記述されます。7月4日のアメリカ独立記念日は、今現在もアメリカ合衆国アイデンティティーの根幹を祝う重要行事ですし、それは7月14日のフランス革命記念日フランス共和国における意味と同等の意味を持っています。しかし、トインビー博士はきびしく断罪します。たしかに、〝戦争〟という観点からみるとき、アメリカ独立戦争フランス革命は重要な画期となります。〝ナショナリズム〟という〝宗教〟によって根源的なエネルギー放出を受け、鼓舞された国民を主役とする戦争は従来からの戦争の状況を一変させることになりました。
           
「トインビー 近代西欧ナショナリズムは、ギリシャ・ローマの政治理念や制度によって感化されつつも、キリスト教の活動性と狂信性を受け継いでいます。それが、アメリカ独立戦争フランス革命において実践に移されたとき、ナショナリズムは、きわめて高い感染度をもっていることがわかったわけです
           
 このトインビー博士の指摘は重要です。戦争における残虐度は、その戦争にかける思い込みの深さに比例する部分があります。平常の歴史記述では、なかなか記述されませんが、アメリカ独立戦争フランス革命とそれに続くナポレオン戦争の時代へと、戦争に対する国民の動員体制、また個々の戦争における非人間性はそれまでの戦争とは様相を一変します。
 科学技術の進歩による兵器の発達と連動して、そのあと19世紀、20世紀へと人類は〝戦争〟の時代を迎えます。〝核兵器〟という究極の兵器が誕生し、可能性としての人類滅亡の段階に入った現在、よりよき〝平和〟の時代へと人類の宿命を転換するためにもこの原点を確認することには重要な意味があります。この部分において、17世紀以降、西欧において人々の9割以上のなかのさらに9割の人々、ということは大部分の人々の内面に強い力を持つ〝宗教〟としての〝ナショナリズム〟についての記述は重要です。この視点は未だに世界の人々の理解を得ているとは言えません。むしろ、現在においても〝宗教〟としての〝ナショナリズム〟こそ世界全体で大きな影響力を持っています。その出発点となるアメリカ独立戦争フランス革命という事件を例証としてあげ、その危険性を指摘されるトインビー博士の歴史観。現在地球上に存在する人類がその意義をどう捉え、世界平和への動きとして実践化していくか。そこには、越えなければならない大きなハードルがあります。この指摘のあと、トインビー博士は第三の宗教として〝共産主義〟をとりあげます。
 
  「トインビー また、17世紀の思想から生じた空白を埋めることになった、第三の宗教である共産主義は、文明そのものと同じくらい古くから存在していた社会的不公正に対する、一つの反動です。キリスト教にせよ他の共産主義以前の宗教にせよ、理論上では、みな社会的不公正を指弾してきました。しかし、この点に関しては、いずれの宗教の理論もいまだ実践に移されたことがありません。共産主義が、この点で既存のあらゆる宗教を批判したのは、たしかに当を得ています。しかし、その共産主義は、社会的不公正の撲滅に注意と努力を集中するあまり、キリスト教のならわしであった不寛容性と、ユダヤ系の全宗教に特有な排他性に陥ってしましました。事実、共産主義キリスト教から派生した一つの異端宗教であり、従来の異端宗教と同じく、キリスト教の体制者が無視してきた、特定のキリスト教戒を強調しています。すなわち、共産主義における神話は、ユダヤ教キリスト教の神話が、無神論的な言葉に訳し変えられたものです。たとえば、『唯一全能の神ヤーヴェ』は『歴史的必然』へと訳し変えられ、『選ばれた民』は歴史的必然によって勝利を運命づけられた『プロレタリアート』に、また『一千年王国』は最終的な『国家の消滅』へと訳し変えられているのです。共産主義はまた、全人類を改宗させる使命があるという信念をも、キリスト教から受け継いでいます。ただし、キリスト教共産主義だけが、このような伝道的性格の宗教というわけではないことはいうまでもありせん。イスラム教、仏教、それに科学的進歩への信仰も、同じような使命感に立つ伝道的宗教です。」
           
   このトインビー博士の視点は、共産主義思想の持つ根源的性格を的確に指摘されています。19世紀の資本主義の誕生、発展の歴史に対して、西欧における1830年の7月革命、1848年の2月革命、1871年のパリコミューン、1917年のロシア革命と、いわゆる〝市民革命〟と表裏の関係で社会主義的・共産主義的な運動が連動します。現代においても、重要な社会勢力としての社会主義者共産主義者が存在しています。人類社会の未来を構想する上での重要な思想として多数の人々から認識されていることは間違いありません。その思想の根源的性格を〝宗教〟として認識し、同時にその問題点を明確にしています。いずれにしてもキリスト教の影響が低下した西欧近世の17世紀以降の歴史的流れを「近代西欧の三宗教」との関係において考えていくことは、結局は〝宗教〟の歴史的意義を真剣に考察し、人間社会にとっての〝宗教〟の必要性とそのあるべき方向性を確認する作業がどうしても必要になります。  この内容を受けて、池田先生は根源的な考察を加えて展開されます。その考察をうけてトインビー博士も求められる未来の宗教について考察を述べていかれます。
 
「池田 私は、古い宗教、つまりキリスト教イスラム教、仏教に比べて、新しい宗教、つまり科学の進歩への信仰、ナショナリズム共産主義がもっている、一つの共通事項があると思います。それは、古い宗教がいずれも人間の欲望を規制し、自己を制御することを基調としていたのに対して、新しい宗教は欲望を解放し、充足する手段として生まれた、あるいは用いられてきた性格があるということです。私はこの基本的な性格のなかに、これらの新しい宗教が直面している問題の本質があると思うのです。」
           
「トインビー そのご指摘は正しいと思います。したがって、私は新しい種類の宗教が必要だと感ずるのです。近代西欧に起源をもつ現代文明の世界的普及によって、人類はいま、歴史上初めて社会的に一体化されています。そして、現在の宗教がいずれも満足のいくものではないことがわかったため、人類の未来の宗教は一体何なのかという疑問が生じているのです。この未来の宗教は、しかし、必ずしもまったく新しい宗教である必要はありません。それは古い宗教の一つが、新しく変形したものである場合も考えられます。ただし、そうした古い宗教の一つが、人類の新たな要求に応える形で復興したとしても、それはおそらく、すでにほとんど見分けがつかなほど抜本的に変形したものになっているものと思われます。その理由は、現代における人間生活の諸条件が、すでに抜本的に変わってきているからです。新しい文明を生み出し、それを支えていくべき未来の宗教というものは、人類の生存をいま深刻に脅かしている諸悪を対決し、これらを克服する力を、人類に与えるものでなければならないでしょう。これら諸悪のうち最も恐るべきものは、人類の歴史のなかで最も古くからあるものです。すなわち、生命そのものと同じくらい歴史の古い貪欲であり、文明と同じくらい歴史の古い戦争と社会的不公正です。そしてまた、これらとほとんど変わらないほど恐ろしい新たな悪は、人間が己れの欲望を満足させるために、科学を技術に応用して作りだした、人為的環境です。」
           
 この内容は、重要な意味を持っています。トインビー博士は、現代文明が陥っている危機的状況を人類にとってより良き方向に変化させていく根源として、〝宗教〟の重要性を指摘します。しかし、現在存在している諸宗教がそのままの姿で通用するとは考えていません。
 その宗教の備えるべき条件として、『新しい文明を生み出し、それを支えていくべき未来の宗教というものは、人類の生存をいま深刻に脅かしている諸悪を対決し、これらを克服する力を、人類に与えるものでなければならない』と明確に定義され、さらにその〝諸悪〟について具体的に指摘しています。その〝諸悪〟とは、『これら諸悪のうち最も恐るべきものは、人類の歴史のなかで最も古くからあるものです。すなわち、生命そのものと同じくらい歴史の古い貪欲であり、文明と同じくらい歴史の古い戦争と社会的不公正です。そしてまた、これらとほとんど変わらないほど恐ろしい新たな悪は、人間が己れの欲望を満足させるために、科学を技術に応用して作りだした、人為的環境です』と述べられています。現代の世界において、地球規模の問題群が指摘され、様々な提言、政策、試行が世界的規模で実施されていますが、その内容を集約するとここでトインビー博士が指摘されている内容に明確に収まります。その内容を受けて、池田先生は次のように要約されます。責任ある宗教者としての立場からの回答は、回答の内容の具体的実践へとつながることになります。
 
「池田 まったく、その通りだと思います。新しい文明を生み、それを支えていくべき宗教が対決しなければならない諸悪を、生命につきまとう貪欲と、文明につきまとう戦争および社会的差別、そして人為的環境に分類されたのも、私の考えている点と一致します。貪欲は人間の自己の内面にあるものであり、戦争や社会的差別は人間対人間、つまり社会の次元にあるものであり、環境破壊は人間対自然の関係に生じる問題です。」
           
  この池田先生による要約は、トインビー博士の見解をさらに普遍化しています。トインビー博士が指摘された諸悪をさらに具体化し、解消への道程が想像できるような内容として止揚されています。トインビー博士が人類の歴史の中でも最も古くからあると指摘された貪欲を生命につきまとうものとされて取り上げ、文明がスタートし、人間社会が集団による力を発揮する段階で生じてくる諸悪として戦争と社会的差別をあげ、自信をつけた人間が自分中心となり、いままで自分をはぐくんでくれた自然環境を破壊する傾向を、人間対自然の関係の中で取り上げる。この視点を、仏法者としての視点からさらに展開します。
 
「池田 貪欲は人間の自己の内面にあるものであり、戦争や社会的差別は人間対人間、つまり社会の次元にあるものであり、環境破壊は人間対自然の関係に生じる問題です。この自己――社会――環境という三つの範疇について、仏法では〝三世間〟として説き明かしています。人間の自己との関係において生ずる多様性を〝五陰世間〟といい、人間と他の人間あるいは社会との関係におけるそれを〝衆生世間〟、そして人間と自然的環境との関係におけるそれを〝国土世間〟といっております。ここで〝世間〟とは差別、多様性という意味ですが、これら三つの〝世間〟が生命存在にとって不可欠の要素だというのです。しかも、それらのいずれにおける事象も、すべて他の二つに関連してくるわけです。結局、私は、この三つの関係を正常なものとすることに、最大の努力を注がなければならないと信ずるのです。そして、そのためには、人間一人一人が、自己の生命の内奥からの変革をめざさなければならないでしょう。これを可能にする宗教こそ、未来に望まれる真の宗教たりうると思います。」
           
   新しい文明の根本としての宗教、人類世界の諸悪を解消する根本の原動力としての新しい宗教の備えるべき条件を具体的に考察していくと、その条件は実は互いに関連していることが判明します。そして、つきつめていくとこれらの問題は、一人一人の人間の自己の生命の内奥からの変革を必要としている。つまり、すべての鍵は一人一人の人間の変革にある。この結論は、トインビー博士が生涯をかけて追求されてきた課題の究極の回答を示しています。
 
 冒頭のトインビー博士の『今、国体思想はどうなっているのか?』という質問は、自身の経験と歴史研究の根本的な結論を踏まえた質問であることは間違いありません。この質問に対して河合氏は次のように答えています。
英語の会話は軽い冗談から始まるので、私は「近頃の日本の若者にとって、国体とは〝国民体育大会〟のことだ」とまず答えました。そのうえで、戦後の新憲法下で主権は国民に移ったものの、家庭内における家父長的な慣習、企業組織や村落における人間関係など、国体思想の影響は形を変えて残っており、そうした構造を克服していけるかが課題であると答えました。
 この回答は、多少的外れであると思います。トインビー博士の質問の意図を考えると、かつての大日本帝国のOS(オペレーティング・システム)であった『国体思想』に代わる、戦後20年立った1967年段階での、日本人のOSとしての思想・宗教の所在を確認したいという思いが言外に強くあると思って間違いないと思います。
 
先にあげた質問に続いて、トインビー博士が発した二つ目の質問は、『創価学会ファシスト』でした。
その質問を受けて、河合氏は次のように答えています。
 
当時、一部の新聞が「公明党ファシスト政党だ」と騒ぎ立てていたので、そうした報道の真偽を確かめたかったのでしょう。それまで何人かの学会員と接してきた私は、創価学会が現世的な利益を肯定していることを知っていましたので、安易に命を捨ててお国のために尽くすような行動に走ることはないだろうと答えました。加えて、創価学会は戦時中に治安維持法によって迫害された組織です。戦前への復帰を望むわけがなく、それどころか、民衆に自立心と誇りを与えていると思うと答えたのです。大阪や京都の学会員との交流を通して、庶民的で現実主義的な関西人が創価学会公明党を支えていたという印象も強くありました。」
 
 この質問とこの回答は一見すると、この当時の一般的な世評を元にした、普通の質問と回答のように思います。当時、日本の社会において、ジャーナリックな興味の対象として、その戦後の日本における急速な拡大と、男子青年部の役職名における分隊長、隊長、部隊長、参謀等の旧軍隊組織の借用利用などの表面的な印象から「創価学会はファッショである」と言うレッテルを貼って批難中傷する新聞、雑誌における記事が散見される時代でもありました。このトインビー博士の直裁な質問も、当時の欧米の一般的な新聞、雑誌における記事の内容を反映していると思います。その質問に対する河合氏の回答は、バランスのとれた客観的な観察と評価に基づく、公平な回答であると感じます。
 ただ、ここで指摘しておかなければならないのは、トインビー博士はこの段階で、すでに1929年に太平洋協議会の英国代表の一人として来日し、まさに「国体思想」をよりどころにして中国東北部満州)、さらに中国侵攻に取りかかろうとする前夜の段階の日本の状況をしっかりと感じ、認識する直接的な機会を持っていたこと。さらに戦後の1956年には、先ほど記載したように、日本を訪問し二ヶ月にわたって日本各地を直接見学し、「歴史の研究」刊行後の世界一周旅行の旅行記である『東から西へ』を執筆されており、『国体思想』について十分な考察に基づく正確な認識を持っておられたということです。
 いわば、この1967年におけるトインビー博士の質問は、世界文明史の上における日本文明の現時点の状況に関する十分な考察を終了した上で、キリスト教の発生と類比できる現象としての『創価学会』の出現と拡大に、明確に焦点を絞りつつある段階での確認に近い質問であるということになると思います。