トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

現代において高等宗教に求められる条件・・・・山本新先生の記述より(月刊世界政経1976年1月号「トインビーの歴史的宗教観」―文明興亡の鍵を宗教に求める巨人の最終史観)

 
山本新先生の記述(月刊世界政経1976年1月号「トインビーの歴史的宗教観」―文明興亡の鍵を宗教に求める巨人の最終史観―)を引用する。    
① 他の宗教を邪教のように悪しざまにののしってでなければ、自分の宗教の正しさが証明できないと思い込んでいる排他性、独善をやめて、他の宗教にも真理があることを謙虚に認めること。これは容易なことではない。                                    
② つぎに、宗教が現代の切実な問題とたえず折衝し、格闘していることである。これを無視したり、でなくてもさけたり、ごまかしたりしておれば、心ある人から信用されなくなり、人心をつかむことができず、時代の動きとかかわりのない形骸化、名目化したものになる。社会や文化の推進的な動きからとりのこされ、生命のない、時代錯誤な存在と化する。現在にいきているとは言いがたい。い。    
③ さいごに、高等宗教にまぶりついた付属物からその本質を剥離し、本質そのものを取り出すことである。                
 
…………(中略)…………高度宗教が生き延びるために満たすべき第一の条件は、排他性、独善性をこえて謙虚になるである。…………(中略)…………比較的わかりにくいと案ぜられる第二以下の条件について、すこし説明を加えたいと思う。現代の切実な問題をトインビーはいくつかあげている。その第一は「平和の維持」である。これは核戦争による人類の自滅をいかにしてさけるかである。現在人類がまだ生きているのは、不安定な核抑止力によってであり、偶発戦争はいつおこるかもしれない。……(中略)……これを最終的に集結させるには、世界政府をつくり、核武装をやめさせ、核エネルギーの管理をするほかはない。このような人類死活の問題に高度宗教はどれだけ取り組み、有効な発言なり、運動なりをしているであろうか。トインビーは、第二には「社会正義の促進」をあげる。社会正義とは、一口でいえば、平等のことである。高度宗教は社会的平等を促進しようとするなら、社会主義と火の出るような折衝をかさねなげればならない。宗教的社会主義を作るまでに格闘していかねば、階級対立にまともに取り組んだことにならない……(中略)……社会正義の問題は、階級問題だけではない。異民族と正しい関係に立つという民族問題もある。日本における朝鮮人問題に、宗教家が良心的に取り組んでいるかというと、これはもっと心細い。皆無に近いのではないか。……(中略)……高度宗教が生き延びるための「本質剥離」についてすこしばかり説明してみたい。……(中略)……他の文明へこの高度宗教を普及しようとするとき、文明の着色である付属物を本質からはがし、本質を取り出し、それだけ他の文明へ移植するのでなければ、本質と付属物を一緒にのみこませようとすると、必ず失敗する。

「人間事象に基本活動があるか」 .……宗教こそ基本的活動 再考察23巻

歴史の研究、再考察23巻の補論の冒頭で、トインビー博士は「人間事象に基本的活動があるか」という題で短い論考を行っています。この論考では、人間の振るまいを記録する歴史の中で、旧石器時代の記録では、出土する痕跡がほとんど「道具」であることから、人間を「ホモ・ファーベル」と規定する考古学、文化人類学の傾向から論述を始められ、文字が使用され始める歴史時代に入ると、紀元前3000年ごろ、エジプトの上・下エジプトの統一を成し遂げたナルメル王の化粧板や、紀元前12世紀のアッシリアの諸王の浮き彫りに記録された内容は、「政治」を人間諸活動の中心にすえる傾向であり、その傾向は19世紀に、マルクスエンゲルスの天才が、経済が歴史の鍵であるという命題を提出するまで有力であったと記述されています。そしてつぎのように記述されていますので、引用します。
マルクスエンゲルスは歴史の提示に於ける伝統的な名誉ある座から政治をひきおろして、その代わりに経済を王座につける仕事にとりかかった。……(中略)……歴史の人間の生活必要物資の生産方法と、生産手段を管理する体制があいまって、人間生活における他の大部分のものを支配し決定するということである。権力の鍵は政治ではなくて経済である。人間事象を理解する鍵は経済を理解することである。今日マルクスイデオロギーを信奉しない多くの人々がこれらのマルクスの見解をとっている。……(中略)……経済が重要であると考え、産業労働者の苦しみを軽減するために何か根本的なことがなされなければならないと主張したマルクスは疑いもなく正しかった。この二つの点について全世界はマルクスに同意することができる。ただしそれだからといって、19世紀の工業労働者の苦しみに対する彼の治癒策が最良のものであるとか、経済は単に重要であるだけでなく、圧倒的に重要であるということについて彼に同意しなければならないということはない。経済が圧倒的に重要であるという命題に対する答えは、「人はパンだけで生きるのではない」(「申命記」第八章第三節。「マタイによる福音書」第四章第四節と「ルカによ福音書」第四章第四節に引用されている。)ということである。政治は人間の基本的な活動であるという命題は無効であることを証明することによって、マルクスはわれわれすべてに一つの貢献をしたとしても、経済は人間の基本的な活動であるという同じような命題も無効なのである。」(p1228~1230)
そして「人間事象に基本的活動があるか」の考察のしめくくりとして次のように記述されています。
「『人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる』(「申命記」第八章第三節)。ここに宗教は人間の基本的活動であると主張する声がある。そして相競うすべての声のうちで、確かにこれは最も強い声なのである。しかしその力は、宗教はわれわれの表のなかの他の活動と同列ではないという事実にあるのである。宗教は、宇宙の現象の背後にある絶対的な精神的実在と接触し、接触した時にこれと調和して生きようとする人間の試みである。この活動はあらゆるもののうちにある。それは他のすべてを包含する。さらにそれは人間の命の綱である。ひとたび生物が人間のように知性と自由意志を獲得するならば、この生物は神を求めて見出すか、さもなければ自滅しなければならないのである。『預言がなければ民はわがままにふるまう』(「箴言」第二十九章第十八節)。それ故、人間に基本的活動があるとするならばそれは宗教であろう。しかし宗教の主張は、それを超越する言葉で述べることによってのみ擁護することができるのである。宗教は人間の他のすべての活動をそのなかに包含するという意味に於いてのみ人間の基本的活動なのである。

「西欧文明は世界国家の段階にあるのか?」・引用「西欧の歴史と前途」歴史の研究再考察 P967

城川コメント:この部分のトインビー博士の記述は、最終的にはトインビー博士の文明を単位としてみてきた世界史にとって、決定的で重要な視点の転換になっています。まず第一に現在、地球全体を覆うかたちで展開しているのは16世紀の地理上の発見にはじまる西欧文明であり、この文明に他の文明からの様々な要素が流入し融合することによって、全人類は歴史上はじめて「世界文明」の時代に入ろうとしています。ここに従来の文明が辿ってきた「誕生」「成長」「挫折」「動乱時代」「世界国家」「崩壊」という段階を、現在の西欧文明を「足場」として構築中の「世界文明」にあてはめてみると、はたしてどの段階にあるのでしょうか。この段階を考える上で決定的に重要なことは、この西欧科学技術文明の発展によって人類は、「戦争」という制度を廃止する前に、全人類を滅亡させることのできる最終兵器としての「核兵器」を手にしてしまったということであり、したがって従来の文明が辿ってきた「動乱時代」「世界国家」という道は、現代においては全人類の滅亡への道であるということです。ここにおいてトインビー博士は、今の西欧文明がどの段階にあるのかということを見極めることは、現在姿を見せ始めた「世界文明」の行く末、言い換えれば人類の運命を見極める上で重要な意味を持つと指摘されています。その指標として「歴史の研究」の中で動乱時代のスタートとなる「break down(挫折)」を西欧の歴史のどこに設定すべきか。可能性のある歴史的事件を4つあげておられます。そして、最終的には「生存の道」を選ぶか「滅亡の道」を選ぶかの鍵は「人間の選択」にかかっているとの結論を出されています。この段階において重要なことはこの現代の「世界文明」の未来は決まっていないということであり、文明の未来はどこまでもオープンエンドであり、最終的には人類の選択にかかっているということです。ここにトインビー博士の「人間史観」の真骨頂があると思います。しからば、人類は何をなすべきか。トインビー博士の実質上最後の著作、「21世紀への対話」に、トインビー博士自身がつけられた題名は「Choose Life」であるということは深い意味があると思います。」
 
 われわれの知っている文明の大多数の歴史のように、西欧の歴史は今日まだ完結していない。それ故多くの可能な道を示唆するという形であっても、その前途を予想しようとすることは危険である。今日までの西欧史の型が、たとえばヘレニック文明やシナ文明のような他の文明――その歴史が終わり、したがって最初から最後までわれわれに判っている文明――の型とだいたい同じであるという確信が持てるとしても、人間事象の進路はあらかじめ決定されているのではなく、また必然ではなく、それ故過去の型は未来についての予言の根拠にはならないという私の主張が正しいとすれば――私は正しいと信じているが――、西欧史の未来の進路がヘレニック史やシナ史の道を辿ると予想すべき根拠はないであろう。このことが正しいとすれば、西欧文明がヘレニック文明やシナ文明のように世界国家になろうとしているかどうかを予言することはできないのである。そして、西欧事象の未来の進路がその時点までのヘレニック文明やシナ文明に共通の型に従うとして、西欧の世界国家がローマ帝国西部諸州に於けるヘレニック世界国家のように短命に終わるか、それともシナ世界国家のように長く続くかどうかを予言することはできないのである。
 
 われわれの生時に西欧と、そして西欧と共に世界が入った原子力時代には、世界国家を再び樹立することはできないように思われる――少なくとも標準な方法で。それ故その方法が生み出す標準的な形の、世界国家を樹立することはできないように思われる。過去に於いては、相次ぐ戦争の結果すべての強国が倒されて、ただ一つの勝者が勝ち残り、世界国家が樹立された。原子力兵器以前の時代に於いてさえ、政治的統一に達するこの方法は極めて破壊的であったので、――物質的破壊にとどまらず、さらに心理的に破壊的であったので、――この恐るべき経験を経た文明は治癒し難いほどの損傷を受けて現れるのが普通であった。原子力兵器の時代には、最終ラウンドまで残る国は一つもないであろう。勝者はなく、すべての交戦国はひとしく滅びるであろう。そして原子力戦争の第一ラウンドでさえ、交戦国だけでなく文明と人間と、そして多分この惑星上のすべての生物を抹消してしまうかもしれないのである。そうだからといって、人類は統一に達することができないということにはならない。史上初めて全人類が軍事面に於いて統一された現在、われわれが直面している選択は、統一まですすむか、それとも破滅するのかのいずれかである。社会が再び力によって統一されることはあり得ないように思われる。未来の戦争に於いて使われる力は原子力であり、それは社会を絶滅して、統一すべきものを何一つ残さないが故に、力による統一はあり得ないように思われるのである。
 
西洋文明の「挫折」は、どの時点か?
 
○「この世界の主要な制度は都市国家になるであろう」との推測をしても正しい...紀元14世紀初頭に西欧世界を眺めた観察者
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○当時北イタリアと中部イタリアの都市国家は地中海の商工業を支配していた。
ハンザ同盟市はバルト海スカンジナビアを支配していた。
○フランドルの都市国家はイギリスと北フランスの経済における強い力。
○中世西欧の歴史の初期から残存してきた鄙びた王国は、発芽しつつある都市国家組織の優位のもとに没落し、結局そのなかに吸収される運命にみえる
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○ヘレニック史を知っている観察者は、これはヘレニック史の辿った型であると想起するであろう。
○そのことは西欧史の型も同じものになるであろうという彼の予想を強化したかもしれない。
ヴェネツィアジェノアの間のチオッジャ戦争〈1378~81〉〔この戦争で勝利を収めたヴェネツィアは、地中海および近東貿易の覇者になる〕は、
 ヘレニック文明の挫折を示した紀元前431~404のアテネペロポネソス戦争に対応するものと考えることができる。
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○ところが14世紀が終わらないうちに、中世西欧世界の都市国家は、つい先頃その明白な運命であると思われたものを失っていた。
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○15世紀が終わる頃までに、西欧世界の主要な政治制度は都市国家ではなくて、都市国家の能率と活力を吹き込まれて旧式の封建王国から作り出された
 民族国家であることがいかなる観察者にも明らかになった。
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○さらに2世紀が経過すると、14世紀初めにあのように確かなもののように見えた西欧の未来像は錯覚であったことが証明された。
 
 「挫折」と「解体」の観点から考える時、今日までの西欧史のなかに、それぞれ特定の年代を持ち、西欧史の或る特定の時点から眺める時、そのいずれもが西欧文明の「挫折」と「解体」の徴候を示すものと見做すことができる幾つかの歴史的な型があったことがわかる。
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○14世紀のフランドルや北イタリアの都市国家のように、中世西欧世界の都市国家組織を西欧世界全体と同一視しても差し支えないとすれば...
西欧文明の挫折の時期は14世紀最後の25年間に置かなければならない(ヴェネツィアジェノアの間のチオッジャ戦争〈1378~81〉)
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○ここに西欧文明の「挫折」の時期をおくと、およそ千八百年の間隔をおいてヘレニック史の年代と殆ど正確に対応する
○両文明の「成長期」はおよそ七百年(ヘレニック史では紀元前約1125~425、西欧史では紀元約675~1375)続いたことになる
 それぞれの「挫折」は、紀元前5世紀の終わりと紀元14世紀の終わりに起こったことになる
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○それに続く「動乱時代」はどちらの場合もおよそ四百年続いたことになる
 ※ヘレニック史の場合は B.C.431~B.C.31、西欧史の場合は1379~1797
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○「動乱時代」は「世界国家」の樹立によって終了する
 ※ヘレニック史の場合はアウグストゥスによる元首政(実質の帝政)の開始
西欧史で対応するものはナポレオンの業績。政治的統一を押しつけることによって、挫折した都市国家組織に平和をもたらした
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○しかし、ヘレニック社会の歴史と中世の都市国家組織の歴史の間には著しい相違点がある。そして西欧史のこの挿話の非ヘレニック的性格は、西欧都市国家組織の挫折は西欧世界全体の挫折と同じではなかったこと、したがってその瓦解は西欧史の終末ではなかったことを明らかにしている
 
中世西欧の都市国家は、アレクサンドロス以前のヘレニック都市国家および孔子以前の中国の諸国家と、もう一つの重要な経験を共通に持つ  
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文化的にはより低い水準にあるが、より高い軍事力を持ついくつかの国によって包囲されていた
 
この周辺の成り上がり者の強国は、イタリアとフランドルに対するヘゲモニーを巡って争った。それはちょうどアレクサンドロス以後のヘレニック世界の強国がエーゲ海シチリアに対するヘゲモニーをめぐって争ったのと同様であった。
※アレキサンドロスのディアドコイに相当すると認められるものは、カルル5世(スペイン連合王国のカルロス1世。ドイツ皇帝カルル5世として在位 1519~1556。ハプスブルク全家領とネーデルラントを相続)とフランソア1世(フランス王。在位1515~1547.イタリアに領主権確保をのぞみ、カルル5世との間に四回にわたるイタリア戦役を戦ったが、結局失敗)とヘンリー8世(イギリス王。在位1509~1547。前二者と結びあるいは戦う)
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○しかし、ここで二つの歴史は決定的に異なる方向をとる
 
※ヘレニック史の流れの中では、周辺の新しい強国の一つであるローマが、ヘレニック史の「動乱時代」の始めから263年と経たないうちに――動乱時代の開始をB.C.431年とするならば――競争者をすべて打倒もしくは支配することに成功した。そしてそれ以降挑戦者のなかったローマの力は、ピドナにおけるマケドニアの敗北後百三十七年、アクティウムにおける勝利によって、エウフラテス河以西の全ヘレニック世界を政治的に統一したアウグストゥスの手中にあった。
 
※ナポレオンはフランスの力を自由に使うことができた。しかしフランスはそれまでに西欧世界で生き残った唯一の強国になることに成功していたわけではなかった。       ▼
ナポレオンの帝国は短期間しか続かなかったにもかかわらず、その歴史的使命を果たした。しかしその使命はアウグストゥスの帝国の使命とは全く異なっていた。それは中世西欧の都市国家の破片をを、17世紀末葉の精神的知的革命によって生み出された近代西欧世界に再び吸収することであった。流産した西欧の都市国家組織のこの最終的一掃は、西欧文明の一掃を意味するものではなく。それは西欧文明を強化した
 
○以上の考察(P972~974)は、中世西欧の都市国家組織の興起と没落は、西欧史における従属的な挿話であり、したがってその挫折と解体は西欧世界全体の挫折と解体を意味するものではないことを示している。しかしこの結論は、全体としてのこの社会はすでに同様に挫折しているかもしれないという問題を残している。
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○われわれは西欧史の主流のなかに西欧文明の「挫折」を示しているかもしれないいくつかの出来事を考えることができる。
1)その一つは宗教改革....それまで教皇の主宰の下に西欧が享受していた教会の統一を破った。西欧キリスト教会連邦は、その時までの西欧キリスト教世界の主要な制度であった。したがってそれが宗教改革によって破壊されたことは、西欧文明の「挫折」を示すものと考えることができるかもしれない。
2)或いはまた、その「挫折」を示すものは、後の十六世紀におけるカトリックと新教の宗教戦争――国家間の戦争ならびに内戦――の勃発かもしれない。なぜならこれらの戦争に於いて宗教革命は暴力と苦悩という収穫を刈り入れたからである。
3)西欧文明の挫折を示すと考えられるもう一つの時期は、西欧の総力戦時代の始まりを画した1792年のフランスの民衆蜂起
4)もう一つは1914年の第一次世界大戦の勃発。
この戦争によって、カルノーの時代以来産業革命が作り出した武器を、総力戦が使うことになったのである。
5)もう一つは最初の原子爆弾が投下された1945年であろう。
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○これらのそれぞれの時期が、西欧文明の「挫折」を示すものと見做される理由を十分に持っている。
 しかしこれらの相争う主張は、どれ一つとして1961年に位置する観察者によって承認されることはないであろう。
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※すでに衰退し没落した文明の衰退と没落の比較から過去に何度も起こった解体の型が現れる。これらの衰亡を通観するとき、
過去に於いて一文明の「挫折」とその「世界国家」の樹立の間の通常の間隔はほぼ四百年であったことが判る。
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この間隔が過去においてしばしば見られたということは、他の未完の文明の歴史に於いても同じ時間的な型が再現するもしくは再現しようとしているということの推定証拠にはならないのである。〔歴史における機械的法則の明確な否定
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しかしこの点を留意するならば、この尺度――われわれの所有する唯一の尺度――を西欧の場合に適用して、それがどのように役立つかを調べることは多分正当であろう。
 
★「挫折」から「世界国家の成立」まで約400年という、文明の経験則を西欧文明にあてはめて検証してみる
 
挫折」と認められる可能性のある西欧文明の歴史的出来事から約400年の出来事は?
※今日(再考察執筆当時1961年)までに、「西欧世界国家の樹立」がすでに既成事実となっていることが必要だがその事実はない
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実際この世界国家は、二度の世界戦争の結果ドイツが樹立したかもしれないものであった。しかし二度ともドイツは敗れ、しかも二回目にはその敗北は第一回目よりも破滅的だった
城川コメントECCからECそしてEUへの動きをどう考えるか。1961年当時はその萌芽はあるが、まだ具体的になっていない。実際に現在のEUをみると、エマヌエル・トッドの表現では経済的には実質の“ドイツ帝国”である。ただ成立の過程は、軍事力による強制という、従来人類史のなかで繰り返された方法ではなく、理性に基づく合理的な話し合いが基本であった。トインビー博士が指摘されている核兵器出現後の人類の歴史の一つの重要な事例であると思われる。ただ、現状の民族主義に基づく各国の“反EU”の動きは、トインビー博士の人間史観の根幹をなす“宗教”もしくは“宗教の不完全な代換物”の意味をしっかりと例証している。〕 
2)十六世紀におけるカトリックと新教の宗教戦争
※この時から400年後に「世界国家」の実現が起きるとすれば、1960年代後半か1970年代前半に西欧世界国家が樹立されると予想しなければならない。
 しかし、現実の可能性としては、このことはすでに遅すぎるのである。何故なら1945年に原子力兵器が発明されており、原子力戦争の手段による統一は、社会そのものを絶滅させるが故にこの発明は西欧社会もしくは他のすべての社会を力ずくで統一することを不可能にしたからである。
 
城川コメント核兵器出現後の人類の歴史は、それまでの歴史における戦争という紛争対応の方式に心理的な強い制限をかけることとなった。この点につてはこのあとにトインビー博士の人間史観による深い洞察が続く〕
 
3)1792年のフランスの民衆蜂起
4)1914年の第一次世界大戦の勃発。
5)最初の原子爆弾が投下された1945年
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※結論は否定的であるように思われる。われわれは西欧世界国家の樹立を示すかもしれない時期として五つの時期を考えた。すなわち、ナポレオン時代、二度の世界戦争にまたがる時期、1970年の直前直後の時期、もっと将来の二つの時期――2192年頃(つまり1792年プラス400)と2134年頃(すなわち1914年プラス400年)――である。この五つの推定的な予想の最初の二つは、予想した時期に期待される事件が起こらなかったことによってすでに信頼性を失った。あとの三つは、原子力兵器の発明に先を越されたために問題にならなくなったように思われる
 
○今日までに西欧世界は近代において世界国家のなかに力ずくで統一される脅威を二度にわたって免れてきた。そしてそのいずれの場合に於いても同じ原因によって免れたのである。いずれの場合にも、統一の企てがなされる前に西欧世界は、大きな規模に拡大していて、これらの企てを望みのないものにしたのである。
 
○ナポレオンの時代に西欧世界がまだ西ヨーロッパに限られていたならば、ナポレオンのフランスは、フランスそのものと同じくらいの力をもつ同時代の他のヨーロッパ列強――ドナウ・ハプスブルク王国、大英帝国、プロシャ――を倒すことによって、力ずくで西欧を統一することに成功したかもしれない。             ▼
 ナポレオンのフランスの力をもってしてもナポレオンの事業が無理であった理由は、ナポレオンの頃までにフランスと対抗する列強との競争はすでに約300年続いており、その間に西欧はその境界を拡大していたことであった。
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 東方では、非西欧国であるロシアが西欧の軍事的政治的闘技場に足を踏み入れ、力の均衡に新しい重みを投げ入れていた。
 西方では、イギリスが海洋に対する支配を獲得し、したがって15世紀末から次第に西欧に付け加えられていた広大な海外の領土の資源を支配することによってその力を著しく増していた。  
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 ナポレオンが失敗したのは大陸ヒンターランドを持つロシアと海外のヒンターランドを持つイギリスの両方を相手にしなければならなかったからである。
 
ドイツがに二度の世界戦争に於いて失敗したのも、ナポレオン戦争におけるフランスの失敗と同じ原因によるものであった。
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 1815年から1914年までに経過した百年間に於けるリオ・グランデ河以北の北米の開発と発展は、西欧世界の海外の部分の潜在戦争能力を、ヨーロッパの一国或いはヨーロッパ諸国を合わせても匹敵できないような水準に高めていたのである。
 
第二次世界大戦が終わる時までに、西欧世界の拡大は通信と戦争という技術的な面で極端に進んでいた。これらの面では、西欧の方式はその時までにこの遊星上の居住可能、通行可能な全表面に拡がっていた。同じ時までに新兵器が発明され、そのために西欧史上初めて西欧の一国が今や世界そのものと同じ拡がりを持つようになった西欧世界をさえ力ずくで統一することが可能になったのである
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しかし、この新兵器はすべてを破壊する原子力兵器であったので、一つを除くすべての競争国を排除するという旧態依然たる目的にこの兵器を使いうる条件は、使用国がこの新兵器を単に所有するだけでなく、それを独占していることであった。1945――9年の間にはこの条件は満たされていた。この頃には合衆国が、そして合衆国だけが、原子力兵器を所有していた。
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 ドイツもしくは日本が原子力兵器を所有し、しかもそれを独占して第二次世界大戦に勝っていたならば、この無類の軍事的好機を利用して、今度はは文字通り世界的な世界国家を伝統的な軍事手段によって樹立したであろうとわれわれは推測する。
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 合衆国官民はこういうことをしなかったし、またその気にもならなかった。……合衆国に続いて今度はソヴィエト連邦が1949年に原子力兵器を手に入れた時、世界国家樹立の可能性は失せた。その時以来、この武器は人類に政治的統一を押しつける実際的な手段ではなくなり、文明と人類と生命そのものの存続に対する脅威になったのである
 
○こうして、力ずくで統一を押しつける可能性の消滅は、同意によって統一を達成することを人類の死活問題にしたのである。1949年という年は、人類の歴史に於いて一つの新しい時代を開いた。その時までは、旧石器時代の中頃に、人類がこの遊星上の他のあらゆる種類の生物と非生物的に対して決定的な優位を占めて以来、人類の存続は保証されていたのである。その時から1949年までの間、人間の犯罪と愚行は文明を破壊し、無数の男、女、子供に不必要不当な苦しみをもたらすことができ、また実際にもたらした。しかし原子力時代以前の技術をもって人間がなし得る最悪のことも、人類を破滅させるには十分ではなかった。原子力兵器が発明されるまで人間は少なくとも大量殺戮をおこなうことはできなかった。ところが依然として多くの地方国家に政治的に分割されている社会で、その社会が依然として相互に戦う習慣を持っている時代に、原子力兵器が発明され、それを一つ以上の国が手にいれたのである
 
合衆国ならびにソヴィエト連邦による原子力兵器の入手から発生する先例のない情勢は、国民ならびに政府の精神と想像力を強く動かしたようにおもわれる。
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 1946年から1961年にかけて、過去に於いて戦争に発展したに違いないと思われる多くの国際的な事件や危機が平和を破ることなく克服された。
 そして朝鮮とヴェトナムに燃え上がった局地戦は、交渉によってどちらの側にも不満足な条件で停止された。このことは、原子力戦争の脅威の下で、政府も国民も敵国との外交関係の遂行に於いてより慎重になり、不慣れな自己抑制をおこなうように訓練されたことを示している。そして今度はこのことが、「共存」の継続をより可能性のあるものにした。両方の側が単なる共存を、二つの悪のうちの比較的小さい悪として不機嫌ながら受け入れたことは軽蔑してはならない恩恵であった。それは少なくとも一時的な猶予を人類に与えることを約束した
 
○以上の考察は、合衆国とソヴィエト連邦によってそれぞれ支配される二つの勢力圏の共存状態を、両者が不本意ながら認めることは良いことであるということを示している。しかしこれは、人類が満足することができる状態ではなかった。それは一時的な猶予でしかなく、しかもあてにならない猶予であった。政府と国民が原子力戦争を始める希望もしくは意図を持っていなかったとしても、戦争の偶発の可能性はあった(たとえば、下級将校が命令を誤解し、もしくは冷静さを失って偶発戦争を引き起こす可能性)。
また原子力兵器の製造がますます容易且つ安価になるにつれてそして多くの国が次から次へと少なくとも少数の原子力兵器を備えることに成功するにつれて、原子力兵器の発射が無責任な犯罪者や狂人によっておこなわれる可能性があった。それ故、国際的な協約による積極的な措置が絶対的に必要であった。
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○必要な第一歩は、例外なしにすべての国が新しい原子力兵器のこれ以上の実験を止めることであった。
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 このために当然必要なことは、すべての国にこの自己否定的な命令を忠実に履行させるために、査察を含む有効な国際管理の方式を確立すること
あった。                 
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 次の措置は、合衆国とソヴィエト連邦以外のいかなる国も原子力兵器を所有しないという――これまた履行を確実にするための有効な取り決めを伴う ――協約であろう。                     ▼
 その次の措置は、ソヴィエト連邦と合衆国事態も原子力保有クラブに加わることであろう。
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○そうした一連の国際的な協約は、原子力戦争(核戦争)の危険を払いのけるかもしれない。しかし人類の福祉のために原子力の利用を規制するという問題が依然として残るであろう。       
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 軍事的な分野で何がおこるにせよ、或いは起こらないにせよ、建設的平和的な目的のための原子力の利用が急速に増大することは確実であるように思われた。                 
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 しかしこの利益は代償を伴う。原子の分裂から生まれるものは善のためにも悪のためにも強力であるばかりではなく、どのような目的に利用されよとも有毒であった。原子エネルギーの開発が解き放った毒からこの遊星上の生命体が汚染されるのを防止するためには、入念な高価な予防措置が必要であった。           
                       ▼
 そしてこの潜在的な脅威が、原子力の平和利用を既成するための、世界的な管轄権を持つ国際的な権威の樹立を要求したのである。
                       ▼
 そのような取り決めが実施されるとき、それを実施する権威もしくはそうした権威を持つ機関の集合組織は、実際のところ人類の最も緊急な共通問題を処理する権限を与えられる世界政府であろう。
                       ↓
○過去の世界国家の政府と違って、この世界政府は、仮説によって、力ずくで押しつけられるのではなく、同意によって樹立されるであろう。しかしそれでもそれは世界政府なのである。原子力時代には、究極的な大量殺戮に代わる唯一の可能な方法は、少なくともこの相互の同意による世界政府であるということに意見が一致するならばこの結論は重大な問題を提起するであろう。
○物理的自然に対する支配力の突然の、不吉な増大に内在する致命的な可能性から、人類が自らを救うために突然必要になった革命的な新しい制度を創造する力を、人類は紀元二十世紀の後半に所有していたであろうか
 
城川コメント:二十世紀最終盤でソ連ゴルバチョフによるグラスノスチペレストロイカ、それに続く奇跡とも思われる冷戦の終結ソ連邦の解体、ロシアの復活、アメリカとの核兵器削減の取り組み、トインビー博士がご存命なら何と思われコメントされたであろうか。また、この趣旨を世界的な宗教運動として展開され、毎年のSGI提言として具体的提言をつづけらている池田大作先生。トインビー博士との対談「21世紀への対話ゴルバチョフ氏との対談「20世紀の精神の教訓」を含めて世界の知者よ刮目せよと、声を大にして叫びたい〕
                     ↓
○必要とされる力は二種類――知的な力と道徳的な力――であった。そして現代の人類は必要な知的な力を全に十分にもっているのであった。
 人間の知力は、人類の共同作業を組織する社会的技術を、その補助になる交通の物的手段に必要な物理的技術を提供して、世界政府の実現を可能にした
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○道徳的な力は限定的な要因であった。したがってこれが要点であった。個人間の協調を作りだすために要求される少量の善意が個人の魂のなかになければ、最も小さな規模の協力でさえ不可能であろう。こうして、人類の道徳的な力が十分であるか不十分であるかということが、今や人間の手に入った大きな新しい物質的な力が、善のために用いられるか悪のために用いられるかを決定するであろ
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○この問題は、一般的に人類共通の人間性に関して問われなければならなかった。しかし二十世紀の状況のなかでは、西欧文明によって人間性に誘発された習慣と物の見方に関して特に問われなければならなかった。この文明は過去五千年の間に人間が作り出した多くの文明の一つにあるにすぎないということは事実であった。精神的な面では、西欧文明はこれまでのところ人類の少数者によって採用されたにすぎない。そして1683年のオスマンリの第二次ヴィエンナ包囲の失敗以来、西欧が享受してきた他の世界に対する技術的軍事的政治的経済的優位を、西欧は1917年のロシアに於ける共産主義革命以来
急速に失いつつあった。1961年までに、西欧の嘗ての優位は明らかに過ぎつつあった。しかしそれまでの二百五十年間に西欧のこの一時的な優位は他の世界の上に刻印を押した。そしてこの刻印は、西欧の優位が消滅した後も長く残るように思われたのである
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○西欧はその短い支配期に技術面で世界を統一した。そしてその統一の過程はこの面に限られるものではなかった。何故なら、技術は軍事的技術を含んでおり、この軍事的技術は今や原子力兵器を作り出したからである。技術を発明することは困難なように見えるが、これを模倣によって発明者から習得することは比較的容易である。技術の優越に基づく優位は、それ故消耗資産である。西欧の優位が退潮しつつある理由は、ロシア人に始まるが、決してロシア人に終わらない非西欧諸民族が西欧起源の武器や他の道具の利用と習得に於いて西欧に劣らなくなったからであった
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○しかし非西欧民族が利用してきた西欧文明の要素は西欧の技術だけではなかった。彼らの大部分は、西欧の科学を修得することなしには西欧の技術を習得することはできないことを悟った。    
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 しかし西欧化をめざす人々は、西欧からの借用を、西欧科学とその実際的応用に限らなかった。
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 彼らのなかには、西欧のイデオロギーに改宗した者もいた。インド人が採用した議会イデオロギーならびに、ロシア人と中国人が採用した共産主義イデオロギーはイギリスで作られた(カール・マルクス共産主義を製造した工房は、大英博物館であった)。議会主義と共産主義は政治制度である。
 しかし、それはまたそれ以上のものでもある。西欧の技術が西欧の科学を含んでいると同様に、西欧の政治制度は西欧の道徳的理想――相争う制度のなかに反映される相争う理想――を暗に含んでいるイデオロギーと理想は、その歴史を或る程度考慮することなしには理解することも評価することもできないのである。それ故、二十世紀に於いて全体としての世界の前途を評価するためには、西欧の精神史を考慮しなければならないのである
 
○西欧社会は、二十世紀の中頃までに、先行するヘレニック文明の瓦解に続く社会的文化的空白期から出現して以来、多くの異なる面に於ける多くの革命を経てきた。これらの相次ぐすべての西欧革命のうちで、今日までのところおそらく最も決定的で最も意義深いものは、17世紀末の精神的革命(注1である。ともかくこれは、二十世紀に於いて西欧そのものだけでなくその他の世界に最も継続的影響を及ぼしている革命である。
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 17世紀の革命は西欧文明に新しい形と、そしてとりわけ新しい精神を与えた。それが史上初めて非西欧文明の後継者に、先祖伝来の遺産の代わりに進んで西欧文明を抱懐させたのであった。こうして17世紀の西欧の革命は、世界的な重要性を持つ文化的発展、すなわち世界の西欧化に道を開いたのであった。
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 そして今度はこの発展が、17世紀以後の西欧文明を全人類共同の文明に変形させる道を開いたのである。来たるべきこの世界(オイクメニカル)文明は西欧に起源を持つものであるために、必然的に西欧の枠のなかで、そして西欧の基礎に基づいてその生涯を開始するであろう。そして当初のこの西欧の貢献は将来長く重要であり続けるように思われた。
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○しかしながらまた、時間の経過とともに世界(オイクメニカル)文明以前の他の諸文明がなした貢献も、ますます重要になるように思われた(注2)。
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西欧に発したこの世界(オイクメニカル)文明は、それに先立つすべての文明のすべての遺産の最良のものをやがて利用し同化し調和するであろうと期待することができるかもしれない(注3)。
                       
(注1)近代世界は15世紀のポルトガルとスペインではなくて、17世紀のオランダとイギリスに始まったと言う点で私はH・コーンと同意見である。(ならびに17世紀のフランスに始まったと私は付言したい)。さらにコーンは、この17世紀の精神的革命は、それまでの西欧キリスト教文明がヘレニック文明に対して持っていたと同じ関係を西欧キリスト教文明に対して持つ新しい文明の興起であるとさえ言っている。私はむしろ、それは西欧史に新しい一章を開いたものであり、世界(オイクメニカル)文明の究極の興起の道を用意したと言いたい
(注2)「近代西欧文明の地表上への伝搬は.....この文明を圧倒し、この文明を凌駕する新しい思想と信仰の体系を生み出す可能性をはらんでいる
   (B.Prakash in The Modern Review, November, 1953, p402
(注3)クリストファー・ドーソンは過去の諸文明のなかに、未来の世界(オイクメニカル)的社会を建設するためのモデルをみている。(The Dynamics of World History, p44
 
○そのような広汎な積極的な効果を生み出すことになる17世紀の西欧の革命は、否定的な運動として始まった。それはカトリックと新教の宗教戦争の邪悪、破壊性、愚かさに対する、そして政治的対立を軍事的な焔に煽り立てていたこの戦争に伴う神学論争の不毛性と不確実性に対する精神的反動として起こったのであった。                 
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 17世紀の革命の父たちは、18世紀にその後を継いだ一部の人たちとは違って反宗教的ではなかった。それどころか、彼らの目的の一つは、宗教が完全に信用を失墜して捨てられるのを防ぐことであった。彼らは非宗教的な目的のために宗教が濫用されることを阻止することによって宗教を救おうとした。
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 したがって彼らは宗教的寛容を擁護し、この目的への手段の一つとして、有害な神学論争から無害な科学研究へ、そして技術改善という実際的な目的のために科学上の発見を応用することへ人々の関心を引きつけることに努めたのであった。
 
○17世紀の西欧の革命が元来否定的であったことを私が強調しているのに対して、ハンス・コーンはその革命が発展させた美徳の積極性を強調している。この点について私はコーンと同意見である。私はこの革命の積極的な一面をもっと正当に評価すべきであった。コーンの批判に照らして今私は修正しよう
 寛容は良心の自由を意味し、良心の自由に対する新しい尊敬の念は人間の権利と権威に対する尊敬の念を意味した。それに伴って社会的責任、社会正義、人道的感情の新しい標準が生まれた。人みな同胞であるというこの新しい理想の立派な記念碑は奴隷売買と奴隷制そのものの廃止でああり、貧しく弱い者たちに対する保護の立法化であった。そして貧しく弱い者たちに対する保護の立法化は、やがて「福祉国家」に於いて形を整えるのである
                    ▼
 このことは、文明の恩恵をより広く普及させるという慈善的な積極的効果を生み、それはまた技術の進歩から生まれる富の増加によって実際に可能になったのであった。                  
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○さらに、この成功には精神的原因だけでなく知的原因もあった。知的には、西欧の技術の進歩は科学を技術に応用したためであった。神学に対する崇拝からの転換として否定的に出発した近代西欧の科学の開拓は、強い好奇心と新しい批判的研究の精神を生んだ
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 文芸復興も宗教革命も、西欧人の精神を外的権威に対する中世的な屈従から解放してはいなかった。文芸復興はキリスト教の知的権威を廃棄して、その代わりにギリシャ語とラテン語の古典を権威の座に据えた。宗教改革カトリック教会の権威に代えるに、聖書のテキストの知的権威と地方的世俗的な政府の権威をもってした(支配者が宗教を決定する)。おそらく17世紀の西欧の革命の最も基本的革命的な特色は、今や初めて西欧人の精神が敢えて意識的意図的に独力で考えるようになったことであった。古代人と近代人の戦いに於いて、西欧人はヘレニズムの文化的遺産から独立したことを宣言した
のである。そして今度は彼らは先祖が文芸復興の時におこなったように、一つの精神的隷属を他の隷属と取り換えるようなことはしなかった。
○私が「近代西欧の新しさ、偉大さ、独創性を過小評価しており」(コーン)、これは私が「18世紀の啓蒙主義と19世紀の自由主義からわれわれの近代世界が相続した世俗的な理想に対する共感」(F.H.Underhill in The Canadian Historical Review,vol.32, No.3, pp201-19, 私はこの共感を欠いているために「われわれの文明の力と弱さを正しく分析すること」ができないとアンダーヒルは主張している。)を欠いているからであると
いうことも事実かもしれない。また私は常に西欧を本来の場所に押し込めようと無駄な骨折りをしているとコーンは考えているが、それも事実かもしれない。コーンは西欧はすでにその傲慢を治療したと主張している。疑いもなく私は自分が「利我主義(nosism)という陰険な悪徳に屈服する危険に対して常に警戒してきた。疑いもなくこのために私は「後方に片寄る」傾向がある。私は15世紀のイタリアのギリシャ語とラテン語の古典教育影響によって、さらにこの方向へ引き寄せられている。何故なら、このために、私の頭とは言わないまでも私の心は書物合戦で「古代人」の味方をしているからである。それ故、私が西欧を不当に軽蔑しているというコーンやガイルの批難も或る程度当たっているかもしれない。
 私は彼らの批判を肝に銘じたほうがよいであろう。同時にまた私は、彼らの傾向は私の傾向とは正反対であるのだから、彼らもまた西欧に対する態度に於いておそらくあまりにも片寄っているのではないかと敢えて彼らに示唆するものである
                  ↓
○いまや17世紀西欧の革命以来経過した二百五十年間の間に、近代西欧は明るい面だけでなく暗い面も示したということ、またわれわれの時代に於いてこの暗い面は中世或いは宗教戦争の時代の西欧史のページの最も暗い面も示したということ、またわれわれの時代に於いてこの暗い面は中世或いは宗教戦争の時代の西欧史のページの最も暗い汚点よりもさらに暗いという事実をコーンとガイルは直視しようとしないように私には思われるのである。
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 近代西欧の技術は、人類全体に文明の恩恵をもたらす力と共に、今や人類を抹殺する力をも獲得したのである。18世紀には戦争は職業軍人に限られ、しかも同意に基づく規則に従っておこなわれる争いになっていた。ところがその戦争が非戦闘員に対する無差別攻撃にまで堕落することによって人道的な感情の発達は帳消しにされてしまった。                
                  ▼
 人権と人間の権威に対する認識の前進は西欧社会がこれまでに生み出した最も悪質の圧政の押しつけによって帳消しにされてしまった。事実、過去250年間の西欧文明の歴史は、「歴史の進歩の主要な結果は功業と災厄の可能性を高めることである」というシンの示唆を裏付けているのである。
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○ドイツのナチ運動は西欧の借り方に記入すべきではないとガイルは主張している。同様にコーンも、ファシズム共産主義は近代西欧文明の産物ではないと主張している。それらは近代西欧文明の拒否であり、中世への回帰であると言うのである。これは確かに苦痛ではあるが否定できない事実を直視することを拒むことである。コーンやガイルや私のような近代西欧の自由主義者リベラリスト)にとって、このように忌まわしいこれらのイデオロギーが、われわれの自由主義(リベラズム)と同じく近代西欧文明の産物でないとするならば、それは一体どこから生まれたのであろうか。
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 それはロシア、インド、中国、イスラム世界や、もはや最も暗黒であるとはいえないアフリカのような大陸から来たものではないのである。ヒトラーズデーテン地方の人間であり、ムッソリーニはロマニア〔イタリア北東部〕の人間であった。マルクスエンゲルスはイギリスに定住して、そこでライフ・ワークを完成したラインランドの人間であった。ロシア人と中国人は決して独力で共産主義を発明することはなかったであろう。彼らが今日共産主義体制の下に生活している理由は、共産主義が西欧で発明されて、非西欧人が引き継ぐように既成の形でそこにあったからである。
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 さらに近代のイデオロギーは、その最も特徴的な最も忌まわしい特色の幾つかに於いて、まぎれもなく近代西欧の刻印を帯びている。たとえば、その冷血性と強力な組織である。しかしながら、それは冷血性と狂信性をロベスピエール風に結びつけている。この矛盾した組み合わせの第二の要素は、17世紀西欧の革命以前の西欧史の時代の精神への回帰であると考えることがおそらく正しいであろう
 
○この点でコーンが正しければ、近代の西欧文明は、或る不完全さもしくは不十分さ、もしくは弱さを持っているに違いないのであり、これらの欠陥が、近代が一時的に抑圧し、乗り越えていた前時代の悪徳に向かう反動をついに生み出したということになるのである。そして、このことは、サンバーグが西欧の救済の希望を見出している17世紀と18世紀の「啓蒙主義」の復活だけでは十分でないことを意味する。実のところ、西欧文明の近代期が17世紀末に始まって以来常に消極的であった重大な点が一つある。それは宗教に対する態度である。
                  ▼
 17世紀の西欧の精神的革命の積極的な収穫であった自由主義人道主義は、その精神の力をキリスト教の倫理価値体系から得ていた。しかし「自由主義が衰退して、もはや世界を統一する力を持たなくなった今、近代世界のコスモポリタン的な文化は、霊魂を持たない肉体のようなものになった。....拡大したものは、第一に西欧の政治的経済的な力であり、第二に西欧の技術と科学であり、第三に西欧の政治制度と社会的理想
である。キリスト教も拡大しているが、その程度ははるかに小さい」(クリストファー・ドーソン The Dynamics of World History p408)
○なるほど宗教の分野に於いてさえ、西欧文明の近代期の業績は立派なものである。キリスト教の公的な教義は、教育のある西欧人の少数者の知的忠順を次第に失い、そうした少数者の数がますます増加しているこの近代に於いて、西欧人はキリスト教的な道徳的行為の規範にこのように近づいたことはこれまでにないと言ってもよいのである。(注1キリスト教のなかに潜在している社会動力論は西欧に於いてはアッシジの聖フランチェスコの時代以後はっきり現れ始めたとクリストファー・ドーソンは言っているが、私はこれに異論を唱えるわけではない。その始まりの時期を聖ベネディクトの頃
まで遡らせて、聖ベネディクトが昔ながらの田園的な生活様式のためにしたことを、聖フランチェスコは西欧の新しい都市生活様式のためにしたのだとも言えよう。しかし17世紀の西欧の精神的革命に続く世俗的な時代ほど、キリスト教の持つ社会的な含蓄が西欧に於いて広く認識され、本当に実践されたことはなかったことも事実であると私は思う。
 
○科学的発見の高まる強風は、伝統的宗教の籾殻を吹き飛ばしてしまった。そしてこのことによって、それは人類に役立ったのである。しかし風があまりにも強かったので、殻と共に穀粒をも吹き飛ばしてしまったのである。そして、このことは害になった。何故なら、科学もイデオロギー宗教に 代わるべきそれ自身の穀粒を持っていないからである。科学とイデオロギーの視野は高等宗教の視野とは異なり、宇宙の限界(限界があるとして)にはるかに及ばないこの地平線の彼方にあるものが、この神秘的な恐るべき宇宙の中核、すなわち人間にとって最も重要な部分なのである
                   ▼
 科学の地平線は自然の限界によって限られている。イデオロギーの地平線は人間の社会生活の限界によって限られている。しかし人間の霊魂の到達し得る範囲はこのような二つの限界のいずれにも限られないのである。人間はパン(と米)を食べて生きる社会的動物である。しかしまたそれ以上のものでもある。彼は自らを意識する知性と共に良心と意志を授かっている人格である。この精神的資質を授かっているいるために、彼はじぶんが生まれてきた宇宙と彼自身を調和させるために生涯努力する運命を担っている。彼のうまれながらの本能は、宇宙を自分の周りに回転させようとすることである。人生に於ける彼の精神的な仕事は、現象界のあらゆるものの真の中心である絶対的な精神的実在と調和するために自己中心性を克服することであるこの「唯一なるものの唯一なるものへの飛翔」が、人間の努力の目標なのであるこの目標に到達しようとする彼の願望が、妨碍(ぼうがい)物である自己中心性の障壁を突破するに十分な力を持つ唯一の動機である
                         
○なるほど宗教の分野に於いてさえ、西欧文明の近代期の業績は立派なものである。キリスト教の公的な教義は、教育のある西欧人の少数者の知的忠順を次第に失い、そうした少数者の数がますます増加しているこの近代において、西欧人はキリスト教的な道徳的行為の規範にこのように近づいたことはこれまでにないと言っても良いのである(注1)〔キリスト教のなかに潜在している社会動力論は西欧に於いてはアッシジのフランチェスコの時代以後はっきり現れ始めたとクリストファー・ドーソンは言っているが、私はこれに異論を唱えるわけではない。その始まりの時期を聖ベネディクトの頃まで遡らせて、聖ベネディクトが昔ながらの田園的な生活様式のためにしたことを、聖フランチェスコは西欧の新しい都市生活様式のためにしたのだとも言えよう。しかし17世紀の西欧の精神的革命に続く世俗的な時代ほど、キリスト教の持つ社会的な含蓄が西欧に於いて広く認識され、本当に実践されたことはなかったことも事実であると私は思う
 
○しかしながら、二百五十年にわたる宗教的寛容も、所詮は、宗教戦争によって招いた道徳的不信から西欧伝来の宗教を立て直す役には立たないのである。そしてこの道徳的不信の浸蝕的な影響は、科学的な物の見方の勝利がもららした知的懐疑主義によって強められた。キリスト教の教義や他の現存する高等宗教の教義は、その伝統的な形では宇宙の本質に関する科学的な見方とは相容れない。この伝統的な形ではこれらの宗教は以前のように人々の心と頭を再び捉えることはできないように思われる。そして、このことが可能であるとしても、それは確かに望ましいことではない(注2)私は伝統的
 形の宗教へ戻ることを予期してもいないし望んでもいないとコーンは指摘している
 
科学的発見の高まる強風は、伝統的宗教の籾殻を吹き飛ばしてしまった。そしてそのことによって、それは人類に役立ったのである。しかし風があまりにも強かったので、殻とともに穀粒をも吹き飛ばしてしまったのである。そして、このことは害になった。何故なら、科学もイデオロギーも、宗教に代わるべきそれ自身の穀粒を持っていないからである。科学とイデオロギーの視野は高等宗教の視野とは異なり、宇宙の限界(限界があるとして)にはるかに及ばない。この限られた地平線の彼方にあるものが、この神秘的な恐るべき宇宙の中核、すなわち人間にとって最も重要な部分なのである
                  ▼
 科学の地平線は自然の限界によって限られている。イデオロギーの地平線は人間の社会生活の限界によって限られている。しかし人間の霊魂の到達し得る範囲はこのような二つの限界のいずれにも限られないのである。人間はパン(と米)を食べて生きる社会的動物である。しかしまたそれ以上のものでもある。彼は自らを意識する知性と共に良心と意志を授かっている人格である。この精神的資質を授かっているために、彼は自分が生まれてきた宇宙と彼自身を調和させるために生涯努力する運命を担っている彼の生まれながらの本能は、宇宙を自分の周りに回転させようとすることである。人生に於ける彼の精神的な仕事は、現象界のあらゆるものの真の中心である絶対的な精神的実在と調和するために自己中心性を克服することである
 
○この「唯一なるものの唯一なるものへの飛翔(注1)〔プロティノス「エンネアデス」第四巻第九章第十一節が人間の努力の目標なのである。この
 目標に到達しようとする彼の願望が、妨碍物である自己中心性の障壁を突破するに十分な力を持つ唯一の動機である。この精神の重要な問題について、科学もイデオロギーも語るべき言葉を持たないのである(注2)〔キリスト教がヘレニック史に於いて演じた役割を共産主義が西欧史に於いて演じることはないであろうと私が考えるのはこの理由によるのであって、私の歴史哲学の論理的結果を避けているからではない。【B.Prakash in  The Modern Review ,November,1953,p402参照】〕
                           ↓
このことは、歴史的な高等宗教の保管者たちがその宗教の命ずるところをどんなに甚だしく濫用したにせよ、その命令そのものは失われていないことを意味するのである。歴史的な高等宗教が与え得るよりも効果的な精神的援助を人間の霊魂に与える新しい生き方を人類が与えられるのでなければそしてそれが与えられるまではその命令は失われ得ないのである
                  ▼
 西欧文明が現在衰退に向かっており、そしてこれを救うものは宗教への回帰であるということをコーンは認めたがらない。これについて私は、コーンが拒否するこの二つの命題は相互に依存するものではないと言いたい。西欧文明はわれわれの時代に衰退しつつあるのかもしれないし、そうでないかも しれない。現代の西欧人は自らの文明の前途を分析する立場にいないのである。しかしこの特定の文明の現在の見込みがどのようなものであるにせよ、宗教の本質が失われているとするならば、それを回復することは、いかなる時代、いかなる社会的状況に於いても必要なのである。それが必要とされるのは、人間はそれなしには生きることができないからである
                           ↓
その本質を回復するためには、われわれはそれを識別し、非本質的な添加物から切り離さなければならない。これはわれわれがわれわれ自身の危険にいて企てる仕事である。それはまたそうだからと言って回避することができない仕事でもある。それを回避することは、疑いもなくそれをそれを果たそうと企てるよりも危険な道である。この本質を識別する仕事は、一挙に永久的に完成することは決してできない。各世代がそれ自身のためにこの企てを繰り返さなければならないのである         ▼
 人間が永久に続けなければならないこの仕事に現在手をつけるにあたって、われわれは近代科学に或る程度の光を見出すことができる。しかしこの微光は微かなものであり、われわれを誤らせるかもしれない。先人と同じくわれわれは薄明のなかで働かなければならないのである。われわれの模索が、ニルヴァーナへの仏陀の道や唯一の真実なる神についての第二イザヤの洞察にわれわれを導くならば、われわれは幸運であろう
                  ↓
自己中心性との闘争および神との調和に対する探求は、人間の霊魂と神との間の問題である。神と人間とのこのような個人的な出会いが宗教の真の関心事である。そして宗教を世俗社会の目的に利用することはそれ自体無害で便利であるにせよ、宗教をそのような目的に利用することは宗教の誤用である。
 とは言うものの、人類の集団的な歴史は、個々の人間に対してなされる精神的要求と関係がある。行為は正しいにせよ間違っているにせよ、個人の行為であり、社会環境がどう変わろうと、正邪は常に不変であり続ける。しかし人間の歴史が始まって以来一つの不変の方向に絶えず進んできたようにわれる一つの社会的変化は、人間の集団的な力の累積的増加である。このことは、正しいことをなすにせよ、間違ったことをなすにせよ、その結果の大きさを、累積的に増大させる。そして正しいこと、もしくは間違ったことをなすことは、行為者以外の人々に影響を及ぼすのであるから、この社会的変化は個々の人間が背負う道徳的責任を増大させる。       
                   ▼
 彼の行動の結果が大きければ大きいほど、正しく行動することがますます強く要求されるのである。原子エネルギーの開発によって人類の集団的な力が良くも悪しくも突然千倍も増加した時代にあっては、普通の人間に要求される行動の規範は、過去に於いてごく少数の聖者たちが達した規範よりも低いものではあり得ないのである
 
原子力時代に於いては、単なる便法を冷静に考察する時、行動の規範の困難な向上が要求される。われわれが指摘したように、国民も政府もこのことに気づいた。そして彼らがこのことを意識していることは、戦後の世界http://ckantan.jp/dm/mob/dm_comfirm.jsp?cmcd=4100072559&cid=1811030049499689&epr1=0000012893地方国家群のうちで原子力兵器を手に入れた国が一つではなくなった時以来国際関係を処理するにあたって賢明さと自制心が増したことのなかに反映された。自己保存の代価は共存を互いに認めることであるということが認識された。そして自己保存への関心は非常に強かったので、原子力兵器で魔まま無三間武装して相互に敵対している諸国民は、しぶしぶながらこの代価を払う気になったのであった。
                 ▼
 しかし、便法の打算は災厄の日を送らせることができるにすぎないのである。人類が1945~9年という不吉な年に先立って、旧石器時代以来享受してきた存続の確実性を回復するためには、相互の愛という積極的な絆が、相互の恐怖が提供する消極的な抑止力に取って代わらなければならないだろう。或る批評家は、私が次のように主張していると正しくも報告している。
                 ▼
 「神的な必要に照らして、自由に結んだ盟約に於ける人間の意志の調和を通じて初めて、平和は人間の間に広まることができる」。実にこれこそ私の信念である。しかしもちろんそれは私の発見ではない。それは賢者や預言者たちの黄金の連鎖によってわれわれの時代に伝えられた託宣である。
 
ボエティウスの『哲学の慰め』のなかには、そのことを述べた古典的な一節がある。この書は、嘗てローマ帝国の西部であった地方に於けるヘレニズムの伝統の最後の保存者の一人の最後の遺言である。
                   ▼
……愛は天と地と海を支配し、それらをこの道に結ぶ。
ひと度愛がその手綱を放す時、それらの友情は戦いに代わり、
世界をさく。――静かな動きによってこそ世の秩序ある形を保とうものを。
愛によりすべての聖なる掟は作られ、婚姻の絆は結ばれ、 
愛によりまことある友情は結ばれる。天体を導くかの浄らなる愛に
心導かれる人こそ幸せならんものを。  

トインビー博士の文明の定義 再考察p508~p512

 この近代西欧の言葉は混成語である。それはラテン語の形容詞の語幹〔civil〕とフランス語の動詞接尾語〔1ze〕とラテン語の抽象名詞語尾〔tion〕―― 静的な状態ではなくて以前として進行中の過程を示す語尾――から成り立っている。この言葉を文字通りに解釈すると、ギリシャ・ローマ(私の用語ではヘレニック世界)の都市国家の市民たちによって達成されたような種類の文化を達成しようとする試みという意味になるはずである。実際、「文明」という言葉の文字通りの意味は、ヘレニック社会の歴史およびその社会とそれ以外の隣接社会との関係の歴史に於いて非常に重要な役割を演じたヘレニック化の過程を正確に描くものであろう。これはたとえば黒海沿岸のカッパドキアの農民の住民が、ポンペイウスによって経験させられた過程であった。ポンペイウスはこの王国をローマ領に併合した後、農村地域を数少ないヘレニック都市国家のどれかに所属させたのであった。
 実のところ、civilization という言葉はラテン語には持ち込まれなかった。それは近代フランス人の造語で、ジョンソン博士はこの言葉を彼の英語辞書に入れることを肯んじなかった。それ以来この疑似ラテン語、もしくはその同義語は、特定の時代に存在した文化の特定の種類もしくは一面という意味で、近代のすべたの国語に於いて使われるようになっている。現在の知識の段階では、文明時代はおよそ五千年前に始まったように思われる。しかし今これを書いているのは1959年1月である。そして現在では考古学の進歩は非常に急速なので、1959年が終わるまでにこの五千年という数字をもっと大きくしなければならない――しかも非常に大きくしなければならない――かもしれないのである。たとえば、エリコの遺跡の発掘をもう数ヶ月続ければ、文明時代の始まりはこれより数千年も前であったということになるかもしれないのである。
 文明を文化の一つの種類もしくは一つの局面として描き、文明が初めて出現した年代について論ずることは、文明の定義にすでに到達していることを暗に意味するすのかもしれない。私自身は、この言葉の用法をはっきり定義することなしにこの観念を扱っているというので批判されている。確かに私は本書第一巻で、文明と文化の文明以前の段階との差異に存する特色を確認することができるかどうかという問いを提起した。そしてその差異は制度や分業や社会的ミメシスがあるかないかという点にあるのではないと私は結論した。このような特色はあらゆる時期の人間社会の文化に共通していることを私は見出した。私は現存する文明以前の社会の現在の生活に於いて、ミメシスは先祖に向けられているが、現在文明の過程にある社会の現在の生活に於いては、ミメシスは未来の目標に向かう途上の指導者である創造的な人格に向けられていると指摘した。観察し得る現在のこの際も、私が求めている定義を提供するものではないことを私は認めた。現存する文明以前の社会は、今は静止しているが嘗ては動いていたに違いない。他方、現存する文明が常に動き続けるであろうときめてかかるべき根拠があるわけではなかった。実際、文明のなかには、現存する文明以前の種類の社会のように、すでに静的な状態に陥ってしまったものもあった。ここに於いて私は単数の形の文明の観念に対する定義を求めることを中断して、その代わりに複数形の文明 civilizaions の歴史の律動の研究にとりかかった。この探求は、本書の初めの十巻の残りの大部分を占めた。これはより有望な手続きであったと私は思う。一つの定義が当てはまる現象を調べ上げる前に定義を提出することは、予備的な研究を無駄にする危険に自分をさらすことである。今や批評家たちの挑戦に応ずる時である。しかし私はまず、他の研究者によって提出されている文明に関するいくつかの定義を報告しよう。
 たとえば、A.H.ハンソンは、文明以前の文化の文明への変貌の決定的な要因であったと彼が考える多くの変化を持ち出している。新しい技術の発見、分業の開始、経済的不平等の出現、社会の階級への分化、これらの新しい現象と原始的部族構造との対立、この対立を超克する手段としての国家の出現を彼は挙げている。R.J.ブレイドウッドは、八つの基準の組み合わせを提案している。すなわち十分に能率的な生産、都市化、正式に組織された国家、正式な法律(新しい道徳秩序の感覚を暗に意味する)、正式な公の計画と事業、社会的階級と階級制度、読み書きの能力、記念碑的芸術品の組み合わせである。パグビーは文化を文明と定義するための提案されているいくつかの基準を論評して、人口の大きさ、高度の分業という意味での複雑さ、読み書きの能力とを除外している。この三つのうちの最初の二つの基準は、恣意的な線を引くことを要求すると彼は正しくも論じている。読み書きの能力とい提案されている基準を論じて、かれは普通は文明として認めれている少なくとも一つの文化、すなわちアンデス文化は、読み書きのすべてを知らず、これに反して現存する社会のなかには文字を有してはいるが、他の点では前近代的な社会があると指摘している。さらに、インカ人は文字以外のものによる記録法である結び縄文字〔縄の種類・結び方・色などの配列で意味を表示した〕を持っていた。
 次のことをつけ加えてもよかろう。すなわち、読み書きの能力を持つ少なくとも一つの社会――西欧社会――も、右と同様に文字を使わないで記録する方法を広く用いた。それはイギリス王国の行政史の中世の時代に大蔵省で用いた割り符である。また多くの文明以前の社会や、一部に文明の過程にある社会は具象的な記録法――文字、絵画、刻印された印し、結んだ紐、刻み目をいれた棒、等々――を持たないで、人間の暗記力に頼った。暗記力の使用が視覚的な記憶術によって不必要にならない時、暗記力は視覚的な種類の記録に依存することに慣れている人々には異常に見えるような離れ業をおこなうことができるのである。アラビアやポリネシアの氏族の長い系譜や、ヒンズー教の膨大な経典は、何世紀にもわたって暗記によって保存され伝えられたのである。そしてイスラム世界ではハーフィズ――コーランを暗記している人という意味である――はまだよく見かける存在である。ついに文字を手に入れた嘗て読み書きのすべを知らなかった社会には、散文的な商用文書以外のものを記録するの文字を使うことを非常に嫌がる傾向がよく見られる。宗教的ならびに世俗的な律法や詩は、伝承の伝統的保管者がそれを文字に写す手段を手に入れて久しい後まで、口頭で伝えられることが時々あったのである。
 われわれは「文明」という言葉の語源から手掛かりを把むべきであり、文明を「都市に見出される種類の文化」と定義すべきであるとバグビーは提案している。そして彼は「都市」を「その住民の多く(或いはもっと正確に言うと大多数)が食料生産に従事していない住居集団」と定義することを提案している。ルイス・マンフォードの最も輝かしい研究は、文明の発達と都市生活の発達の間の関係の研究であるが、そのマンフォードは、都市が歴史に於いて演じた役割を私が無視していると批難している。この批難は多分正しいであろう。都市の役割に重要性を与えている点で、バグビーの勘は当たっているように思われる。農村生活から都市生活への変化の結果の位置基準からすれば小さい都市――でさえ、そこに定住するために家郷と職業を捨てた人々の生活と物の見方に革命的な影響を与えたであろう。この移住は、数時間或いは数分間の歩行にすぎなかったかもしれない。しかしその移住は、敢えてそれをおこなった人々を、はるか昔からの社会的文化的環境からきりはなしたであろう。彼らは他の村や他の部族から移住してきた人々と交わり、また生計の資を得るために農業以外の新しい方法を習得しなければならなかったであろう。この根こぎの過程は、心理的社会的変革を容易にしたであろう。この変革こそ私の示唆が正しいとするならば、文明以前の文化の段階から文明への事実上の移行を画するものである。この変革が与える状況の下で、変化しつつある社会に参加している人々の大多数は、先祖に向けられていたミメシスを、未来の新しい目標を志向している生ける指導者に向けるようになったであろう
 バグビーの指摘するところによると、農業共同社会はあらゆる文明の必要な一部ではあるが、「その生活は、文化的に都市に依存するようになったという事実によって、大きな変化を受けた」。今日われわれは、食糧生産者が世界の人口の少数者――しかもごく少数者――にすぎなくなるまでにその数を減少し、その上彼らが精神的な都会人なる状態に急速に近づきつつある。しかも最も初期の最も小さい都市でさえ、当時まだ圧倒的多数を占めていた農業人口に、強力な変貌作用を持つ影響力を及ぼしたに違いない。シュメル世界とヘレニック世界に於いて、また西欧世界に於いても現在西欧に見られる町と田舎の対照は、最近まではなかったのであり、町の住民は都市での工芸に十時するだけでなく、田畑でも――少なくとも収穫期には――働いたとH・フランクフォートは指摘している。しかし、このことはバグビーの論点を無効にするものではない。フランクフォート自身も指摘しているように、ヘレニック世界や中世西欧(とりわけ中世イタリア)の都市に於けると同じく、シュメル・アッカドの都市においても、「都市の物理的存在は、市の壁の内側に住むすべての人々の生活を支配するにっせつな共同体的親近性の外的な徴証にすぎない。都市はその市民を他の土地に住む人々から切り離す。それは彼らと外界の世界との関係を決定する。それは市民たちのうちに強い自意識を生み出すのである」
 こうしてバグビーの定義は、もう少しで的に命中するところまで来ているが、まだ十分ではない。また「文明」として知られている種類の文化の出現の同義語としてV・G・チャイルドは(「産業革命」にならって)「都市革命」という言葉を作っているが、これも十分ではない。都市がないにもかかわらず、文明の過程にあった社会がこれまでに存在したのである。たとえば中央アメリカ世界のマヤ地方には、神殿やその他の公共建造物が堂々たる群を成しているが、現代の考古学者の少なくとも一つの――しかも多分支配的な――学派は、これは儀式の中心地であるにすぎなく、そこには少数の僧侶や支配者やその近侍の者を除いて恒久的な住民はいなかったと信じている。さらにより適切なのは、次の言葉である。すなわち、「エジプトに於いては、この大きな変化は社会活動の都市への集中化を生み出さなかった。エジプトにも都市があったことは事実である。しかしただ一つの例外である首都を除くと、都市は田舎のための市場でしかなかったのである」。遊牧文化を文明のなかに数え入れることが正しいとするならば、この文化もまた都市を持たない文明の一つの事例であろう。もっとも、遊牧社会と、都市と農業の双方を所有している定住社会の間には、経済的な面で常に共生関係があったと私は信じているが。都市を持たない文明のこれらの例は、多分論議のあるものであろう。しかしそれは、文明を「都市に見出される種類の文化」と定義することが十分に正確でないことを示唆している。バグビーは「おそらく都市の住民がそのすべての時間を専門化に捧げて、かれらの文化を複雑にすることができるのは、食糧を直接生産する必要から解放されているからである」と述べているが、それはそれなりに確かに正しい。しかしわれわれはさらに進んで、文明を、食糧生産の仕事だけでなく、物質的な面で社会の生活を文明の水準に保つために営まなければならなりその他の経済活動――たとえば産業や貿易――から解放されている少数の人々がいる――どんなに少数でもよい――社会の状態と同一視しなければならない。
「余剰とそれが社会に及ぼす影響は・・・・非常に重要であり、文明のピークと経済的繁栄のピークの間には一致が見出され得るのである。余剰がなければ、社会の成員は瞑想、実験、思想の交換――変化の源泉――のための時間がなく、静的な状態に留まりがちである」
 これらの非経済的専門家――職業軍人、行政官、多分何者にもまして僧侶――は、われわれに知られている大部分の文明の事例に於いて、確かに都市居住者であった。しかし進んだ天文学的な知識と複雑な暦の技術を持つマヤの僧侶は非都市的社会環境に住む一団の非経済的専門家の一つの例であるかもしれない。このように考えるならば、文明の起源は都市の出現ではなくて、経済的不平等と社会の階級への分化――ハンソンの挙げている要因のうちの二つ――の出現にあったということになろうこの診断が正確であるならば、それは悲劇的な診断である。何故なら、それは文明は社会的不正に始まったことを意味し、またわれわれが知る限り、文明はそれ以外の方法では出現することができなかったことを意味しているからである。文明の残存している記録が遡る最も古い時代以来、社会的不正は文明の二つの明確な病弊の一つであった。もう一つの明確な病弊は戦争であった
 われわれの時代に文明は近年の西欧世界に於ける技術の空前の進歩の結果として危機に到達した。建設的な目的に使用するならば、技術は文明が始まって以来今や初めて、これまで少数の者の専有物であった文明の恩恵をまもなく全人類に提供することができる道を切り開いた。破壊的な目的に使用するならば、技術は人類と、そして多分他のすべての生物を間もなく地球の表面から抹殺することを可能にする前例のない道を切り開いた。この二つの可能な道は、文明が今や運命的な岐路に到達したことを暗示するものである。今や文明それ自身を破壊し――そしておそらくはわれわれをも破滅させる――われわれの手中にある道具にさせないためには、われわれは戦争という制度を廃止して、社会的不正を根本的に改革しなければならないのである。そしてこの仕事はどちらをとってみても、途方もなく大きな仕事である
 人類の現状は、①文明の目標は何かという問いと、さらに、②文明はこの文化の特定の種の力だけに頼って改革し救済することができるかどうかという問いを提起する。この第一の問いについて、私はフランクフォートと共に「食糧生産の増加と技術的進歩というような変化(共に確かに文明の興起と時を同じくしている)が……いかにして文明が可能になったかと説明する」という考えを拒否するものである。これに関連してフランクフォートが引用している一節で、A・N・ホワイトヘッドは確かに的を得ている。彼はこう言っている。
「高度の活動によって顕著な世界の各時代には、そしてその頂点を作り出した媒体のなかには、暗々裡に受け入れられて或る深遠な宇宙論的な見方がその時代の行動の源泉の上にそれ自身の刻印を残している」
クリストファー・ドーソンが、「あらゆる文明の背後には一つのヴィジョンがある」と言った時、彼は同じことを主張しているのである。私はこの考えを支持するものであるが、この考えにによると、経済的活動から解放された少数者が社会のなかにいるということは、文明の定義というよりは、むしろ文明の認識票なのである。ホワイトヘッドにならって、私も文明を精神的な観点から定義しよう。それは、全人類がすべてを包容する単一の家族の成員として協調して共存することのできる社会状態を作り出そうとする努力である、と定義することができるかもしれない。これが、これまで知られているすべての文明が意識的でないとにしても、無意識のうちに目指してきた目標であると私は信ずる
 第二の――文明はそれ自身の力だけで自らを救うことができるかという問い――は論議の余地の多い問いである。この問題について私が熟慮の結果得た答えは否定的である。文明はそれ自体の力だけではなく、高等宗教の力に頼ることによって初めて救われると私は信ずる。人類はこのように文明を超克することによって文明を救うことができるのであると私は信ずる。しかし高等宗教に助けを求めさえすれば、文明と宗教と、そして人類のために必ず未来を確保することができるとは私は信じない。現在、そして常に、未来は人間のために開かれており、未来をわれわれが望むものにすることは、少なくとも部分的にはわれわれに可能であると私は信ずる
 本書の最初の六巻には、「人間の努力の目標は何であるか」という問いに対する二つの異なる答えがあることをフレイ二は見出しているが、これは正しい。「一方では〝文明〟は究極的なものと考えられている」。他方では、「文明に於けるすべての成長は聖者を目指す進歩と同一視されている」。私のこの二つの答えの第二のものは、要するに、われわれが「文明」と呼ぶ特定の努力に於いて目指している人間の努力の目標は、文明そのものの彼方にあり、文明そのものよりも高いなにものかであるという信念の宣言である。この第二の答えは深く考えた上での私の答えであり、その後の再考も、私にこれを変える必要をいささかも感じさせない。

感想 『ヘレニズム』(城川)

感想 『ヘレニズム』(城川)
 
「ヘレニズム」を再度読了する。トインビー博士のこの書物は、ホーム・ユニバーシティ叢書の一冊として、岳父ギルバート=マレーの推薦によって、トインビー博士が1914年以前に執筆に取りかかったものであるが、途中二つの世界大戦やトインビー博士自身の「歴史の研究」の執筆等の事情によって中断され、ギルバート=マレーの死亡後の1959年に刊行されたものである。この段階でのトインビー博士は、「歴史の研究」全巻の発刊によって全貌を見せたトインビー史学に対して、一般読者からの好意的受け取りに反して、専門歴史学者を先頭に感情的ともいえる反論、論難がわき起こっていた時期であり、本書は単に、一般読者を対象とした平易な概説書という基本的前提を超える重要な意味を持つことになった。
 「歴史の研究」に於けるトインビー史学の根本テーマは「文明」単位の歴史の捉え方であり、その「文明」の比較・対照である。さらに文明と文明の接触によって、現在にまで人類社会に大きな広がりと影響を持つ「高等宗教」が成立するという視点であり、「文明」と「宗教」という語句にトインビー史学の意義が象徴されると言って過言ではない。その諸文明の比較の前提もしくは標準となっているのが、ギリシャ、ローマを一体の文明とする「ヘレニック文明」である。トインビー史学においては、諸文明を比較する指標として「ヘレニック文明」の各段階の歴史的事実が、縦横無尽に用いられる。したがって、この「ヘレニズム」という著書は、英文の題名が「Hellenism:The History of a civilization」であり、”The History of a civilization”という副題は、副題を超えた重要な意義を持っていると思われてならない。「ヘレニック文明」は、その成立から成長、挫折、崩壊まで一貫してみることができ、いわゆる「古典古代」として、現在、世界的な規模で覆い、圧倒的な影響力をもっている「西欧文明」がその模範(classic)とした時期がある文明である。15世紀以降、ルネサンスにおいて蘇ったとされる「古典古代」は、その後の西欧の歴史において、美術等の分野において影響を与えたが、ギリシャ・ローマの古典探究を中心とした「人文主義」は特に西欧の学校教育のカリキュラムに強い影響を与えることになった。その一つの典型例が19世紀にいたるイギリスのパブリックスクールの教育であり、その中でもウィンチェスター校からオックスフォード大学へのコースを、自他ともに認める優等生として進んだトインビー博士にとっての人格の根幹を形成する教養そのものであった。本書を一読してまず最初に感ずるのは、概説書、通史というかたちを取っているが、専門書のレベルの考察が正確になされており、執筆の基盤となっているトインビー博士のヘレニック社会に対する知識と見識の深さをあらためて感ずることになる。特に、トインビー博士の著作に共通することであるが、地理的な知識のレベルが深く、正確である。前書きにトインビー博士自身が、この著作で扱っている地域の中で、実際に訪れたことのある地域を列挙されているが、殆ど全ての地名が網羅されている。文章を読めば実感されるが、「現地を訪れ自らの五感で対象をつかむ」ことを、ほぼ100パーセント実行されている。本当に賞賛に値することと言わねばならない。
 記述された「ヘレニズム」は、通史としては超一流の内容である。私自身、学生時代以来、古典古代・ギリシャ・ローマの通史を多数読んできたが(世界史の教師として当然であるが)、このトインビー博士の「ヘレニズム」は間違いなく、この時代に関して最高の「通史」である。その理由としては、従来のいわゆる「通史」は、執筆者の専門分野の影響をどうしても受けてしまう。法制史、政治史、経済史、文化史、宗教史等、それぞれの執筆者が通ってきた学問世界のルートが、総合的に記述しているつもりでも、微妙な偏りとして文章記述の上にあらわれてしまう。読む側からすれば、一目瞭然である。それに対して、トインビー博士の記述は、あくまでも歴史形成の主体としての人間、社会を構成する人間と人間のネットワークの結節点としての人間に焦点をあて、人間生活の基本としての経済活動、その活動が展開される枠組みとしての政治活動、社会規範の具体的展開としての法、一人一人の市民が具体的な行動を選択する上での精神的な基盤、哲学、思想、宗教のかかわりと役割を、あくまでも一人の人間に即して記述していく。そのバランスは本当に見事である。分かり易いと同時に、本当に深い。特にトインビー博士の文明比較の根拠としての「哲学的同時代性」が、具体的な事例を通して明確に理解できる。いわゆるトインビー博士の「ツキディデス体験」、1914年の第一次世界大戦勃発時にオックスフォード大学でツキディデスの著作を講義していたトインビー博士が感じた感覚、「ヘレニック文明」と「西欧文明」が同じ「Break Down 」(挫折)の段階にさしかかっているといる感覚。その内実を具体的な史実の記述によって理解することができる。
また、第二次世界大戦後に、「歴史の研究」の記述の上で顕著になってくる視点の変化。「高等宗教」は「文明」を育む「蛹」ではなく、むしろ「文明」の興亡は「高等宗教」を生み、発展させていくためにあるという視点を証明する具体的事実としてのキリスト教大乗仏教成立の経緯についても、具体的な歴史の事実によって明確にされている。通史の強みは、事実を時系列で流れとして扱うことによって生じる明確さだと思うが、「高等宗教」の成立という大きなテーマ、従来の通史では政治・経済の流れとは別個に扱われ、社会的な意義が今ひとつはっきりしないテーマが、同時代の人間社会の全ての要素とのつながりの中で扱われ、人間社会での「宗教」の意味が明確に見えてくる。トインビー史学の一番重要な強調点を自然に理解することができる。
 さらに、トインビー史学の基本的な立脚点としての人間主義、「人間社会における根本的罪悪としての社会的不平等と戦争」を悪として認識し、反対していく視点が一貫して通奏低音のように事実の記述の背後に流れている。近代における歴史学は、あくまでも「科学」として客観性を要求し執筆者の価値判断を排除する。しかし、トインビー博士はかつて「人間性に反する行為をあたかも客観的な出来事として淡々と書いていくことは私にはできない」として、ギリシャ軍によるトルコ人の虐殺の記事を、英国のマンチェスター・ガーディアン紙上に書き、結果としてロンドン大学教授を辞職せざるを得なくなる経験をされているが、この「ヘレニズム」の文章の中でも、その視点は一貫している。この時代を扱った著作に、プルタルコスによる「対比列伝」いわゆる「プルターク英雄伝」があるが、トインビー博士の記述の中においては、ことさらに英雄視することなくバランスをもって取り上げられている。
 
p15,L17~
・・・文明におけるヘレネスの実験は、たとえなんの残存効果がなかったとしても、人類史の魅惑的な挿話であったといえよう。しかし回顧してみると、われわれは、キリスト教大乗仏教、および他の高等諸宗教、特にカナンとインドにおける、ヘレニズムと同時代の二つの文明とヘレニズムとの出会いから生じたイスラム教と仏教以後のインド教の観念および理想におよぼしたヘレニズムの貢献には、後代の人びとにとって意義と価値があるということを、今や知ることができる。これらの高等宗教は、今日の人間生活における最大の精神力であって、ヘレニズムは、それらに及ぼした影響のうちになお生きている。高等宗教に対するヘレニズムの貢献は、消極的でもあり積極的でもあった。その最大の消極的貢献は、人間崇拝の欠陥を悲劇的に証明したことであり、その最大の積極的貢献は、受肉という反ユダヤ的観念をユダヤ教へ注入することを通して、キリスト教を呼び起こしたことであった。
 
p14.L10~
・・・ついにはヘレネス社会の半分の魂をとらえたキリスト教ユダヤ教の変形であった。そして、この変身はユダヤ人からみれば、ユダヤ教が護持したもののまさに正反対のものであったヘレネスの観念を、ユダヤ教に注入することによってもたらされたのであった。キリスト教の信仰によれば自身の姿に人間を創造したイスラエルの神は、受肉して人間となった自分自身によって、その被造物たる人間のための救済手段をも用意した。ユダヤ人にとって、神の受肉というこの革命的なキリスト教の教義は、ヘレネスの異教におけるすべての誤謬のうち最もいまわしいものの一つである神話を、冒涜的にユダヤ教の内にもちこむことであった。これは、神性についての人間の表象をきよめ高めるための、長期の、そして困難な苦闘のうちにユダヤ教が達成したあらゆるものへの裏切りであった、正統派のユダヤ人ならば、だれもそれをすることはできなかったであろう。この大罪は、紀元前最後の世紀のはじめの頃におけるガリラヤ地方のユダヤ教への改宗以前の千年紀の四半期のあいだヘレネスの影響下にあったガリラヤ人によってのみ犯されえたものであろう。キリスト教の教義と観念へのヘレニズムの影響は実に深いものであった。なぜなら、神は人間になることにおいて、人間の逃れることのできない運命である苦悩に自己をさらしたからである。なるほど、人間崇拝のうちに隠されている苦しむ神という表象がヘレネスの人間崇拝者たちによってしりぞけられたことは事実である。聖パウロは、十字架にかけられたキリストというのは、ユダヤ人にとって躓きであるうえに、ヘレネスからみれば、愚劣だということに気づいていた。ヘレネスの論理は、この点においては、女と農民の下層社会の宗教に対するヘレネス教養人の軽蔑に屈服した。しかしながら、受肉というヘレネスの観念のユダヤ教への注入は、その悲劇的な死と勝利の復活とがヘレネス社会の巨大な下層の人びとの心に対する支配力をけっして失ってはいなかった神の崇拝を、今度はキリスト教においてふたたび表面に持ち出すという効果をもたらした。・・・・・・
 
 

「21世紀への対話」におけるトインビー博士の生涯の課題への結論

  1975年に出版された池田大作先生との「21世紀への対話」は、結果としてトインビー博士の人生最後の思索の結論を表明することになった著作です。

 遺著として1976年刊行の「人類と母なる大地」をあげることもできますが、この著作は編年体の形で世界全体の歴史を古い時代から順に1974年まで記述する「世界史」の試みです。主著「歴史の研究」は〝文明〟中心の世界史への試みですが、トインビー博士は最後の著作で編年体の世界史を記述しました。このことは多くのトインビー研究家を戸惑わせることであり、現在唯一に近いトインビー博士の伝記である「Toynbee」〔完全な翻訳はないが、創価大学名誉教授の浅田氏による要約がある〕のなかでも、著者のマクニール自身が評価に迷っている様子がうかがわれます。実際、読んでみますと敢えていえば、日本の高校の世界史教科書の記述の流れにトインビー博士の豊富で深い歴史的な知識を加えて書かれた通史の試みです。あえて日本の高校の世界史教科書と書いたのは、現在の世界全体を見渡して各国の歴史教科書を見たとき、全世界の地域について公平に満遍なく取り上げて記述している教科書は、おそらく日本の現行世界史教科書が一番優れていると思われるからです。

 したがって、最晩年の1972年、1973年のそれぞれ5月にロンドンのトインビー博士の自宅で行われた対談をもとに編集され一冊の書籍として出版された「21世紀への対話」(英語版「Choose Life 」)に取り上げられている内容は、トインビー博士の生涯の思索の結論であるとして間違いないと思います。このことは、翻訳された著作『歴史の研究』、『試練に立つ文明』、『世界と西欧』、『東から西へ』、『一歴史家の宗教観』、『歴史の教訓』、『戦争と文明』、『ヘレニズム』、『アジア高原の旅』、『オクサスとジャムナ』、『アメリカと世界革命』、『現代西欧文明の実験』、『現代人の疑問』、『交遊録』、『回顧録』、『未来を生きる』、『死について』、『爆発する都市』を経て『21世紀への対話』までを読んでみたとき明らかになってきます。1975年10月にトインビー博士が逝去されたのちにも『図説・歴史の研究』が邦訳刊行されましたが、この『図説・歴史の研究』は内容的には、従来刊行された『歴史の研究』の要約に図版を添えて、理解を深めてもらおうという内容であり『歴史の研究』の『再考察』〔完訳版『歴史の研究』21,22,23巻〕の内容を大きく超えるものではありません。各著作を通読していきますと、トインビー博士が継続的に思索し、折々の著作の中で提示している根本的なテーマの中には、最終的な結論を出されていないテーマがあります。いずれも根源的なテーマです。

 思いつくところを、列記します。いずれもトインビー博士が『21世紀への対話』の序文の中で、ご自身と池田先生との認識が一致した部分として明記されております。その文章を次に引用します。

まず、二人は宗教こそが人間生活の源泉であると信ずる点で同じ見解にたっている。

また、人間は宇宙の万物を利用しようとする生来の傾向性を克服すべく不断の努力を払わなくてはならず、むしろ己れを自在に宇宙万物に捧げしめ、もって自我を〝究極の実在〟に合一させるべきである、とする点でも二人は同意見である。ここに〝究極の実在〟というのは、仏教徒にとっては〝仏界〟のことである

この〝究極の実在〟が人間の姿をした人格神でない、と信ずる点でも立場を同じくしている。

二人の共著者は、さらにカルマ(宿業)の実在を信ずる点でも同じ立場に立っている。

二人の共著者の見解では、人間にとっての永久の精神的課題は、己れの自我を拡大し、その自己中心性 (エゴチィズム)を〝究極の実在〟と同じ広がりのものにすることである。・・・・(中略)・・・・しかして、それは厳しい精神的努力によって現実生活に生かされる必要が、どうしてもあるのである。

こうした個々の人間による精神的努力こそ、社会を向上させる唯一の効果的な手段である。人間同士の関係は人間社会を構成する網状組織(ネットワーク)であるが、諸制度の改革というものは、それらがいま述べた個々の人間による精神変革の兆候として、かつその結果として現れてきたとき、初めて有効たりうるのである。

人類共通の諸問題が現今かくも普遍化しているのは、ひとえに過去五百年間にわたる西欧諸民族の活動の拡大により、世界大の技術的、経済的関係の網状組織(ネットワーク)が作られた歴史上の所産なのである。技術や経済の関係が密接になれば、政治、倫理、宗教における関係も、当然密接になる。事実、現在われわれは一つの共通的な世界文明の誕生を目撃しているが、これは西欧起源の技術という枠組みの中で生まれながらも、いまやあらゆる歴史的地域文明からの寄与によって精神的にも豊穣化されつつある。池田大作とアーノルド・トインビーの世界観にみられるじつに多くの共通点を幾分なりとも説明づけるものは、あるいはこうした人類史における最近の傾向なのかもしれない。

それを説明づけるもう一つのものとしては、二人の共著者がその哲学論、宗教論を交わすにあたって人間本性中の意識下の心理層にまで分け入り、そこにいつの時代、いかなる場所においてもあらゆる人間に共通する、人間本性の諸要素というべきものに到達していることが考えられよう。すなわち、人間本性の諸要素といえども、やはり森羅万象の根源をなる究極の存在基盤から発生した存在だからである。

以上、トインビー博士自身が序文の中で挙げておられる内容をそのまま引用しました。この内容は、トインビー博士の生涯の研究の中で一貫して追及されてきた根本的なテーマを含んでいます。それぞれのテーマに関して、さらに補足的に敷衍して論じていきたいと思います。

まず、最初に述べられている『宗教こそが人間生活の源泉であると信ずる』と言う点については、トインビー博士の生涯の業績の根本をなす著作「歴史の研究」の約30年にわたる綿密で精細な「文明」を中心とした研究の最終的な結論です。この結論にいたるまでの思考の過程は、博士自身が様々な部分で記述しています。1939年に発刊された「歴史の研究」の前半部分、10巻からなる原著英語版のⅠ~Ⅵ巻の部分においては宗教はあくまでもそれぞれの文明の文化的構成要素であり、政治制度、経済制度、などと同等の文明の手段として位置づけられていました。しかし、研究の過程で文明の挫折、解体を論究する段階に至って、とくに文明と「高等宗教」の関係を考える段階で、文明と宗教の関係を考え直し修正しました。「文明」と宗教、特に「高等宗教」と認定できる宗教との関係において、目的と手段が180度逆転する大きな修正でした。この点について「再考察」の中で、次のように記述しています。

「わたしは自分の手がかりにしたがって、高等宗教を文明と呼ばれる種類の社会がそれ自身の再生産のために備える機構として見た。わたしは高等宗教を、解体期の文明がその崩壊の最後の段階においてはいりこみ、そしてそこから新しい文明がその後に生まれる“蛹”と見なした。高等宗教の歴史的な役割にかんするこのような見方は、シュペングラーやバグビーの見解のなかにわたしが見る同じ根本的な誤りの一変種であった、とわたしは今では思っている。それは高等宗教はそれ自身と異なる種類の社会に役立つがゆえに意義があるのであると想定していた。わたしはわたし自身の出発点から出発して、いくつかのこまかい点についてシュペングラーやバグビーとは異なる発見に到達した。高等宗教は、ある一つの文明の内部に生まれたと考える代わり、それはつねに二つ、もしくはそれ以上の文明の出会いから生まれ、そしてこの出会いの前にはつねにそれらの文明のすくなくとも一つに挫折と解体があったとわたしは考えた『再考察』p177
 
「宗教にたいするわたしの態度がかつては功利主義的であったとしても今ではそうではない。いずれにせよ、現在の態度にたいする判断がどのようなものであるにせよ、宗教はそれ自体で一つの目的である。なぜなら、それはこの世の何者よりも人間にとってさらに重大な事柄を問題にしているからである。これが高等宗教を生んだ発見――――あるいは啓示――――であった。高等宗教を非宗教的な目的に役立つように利用することは、宗教が文化の全構成の不可分の一部である原始的な状態に逆戻りすることである。この社会的な逆転は、わたしには精神的退歩であるように思われる」『再考察』p178~p179 注(1)     
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

トインビー博士とパブリック・スクールの教育

 トインビー博士の生涯において、決定的な影響を与えた要素をたどってみたとき、やはり、トインビー博士が12歳から18歳までの最も多感な青少年時代を過ごしたウインチェスター・カレッジでの生活を挙げないわけにはいかないと思います。

 まず第一に、その中でつちかった友との一生涯にわたる友情、また先生方との深いかかわりが挙げられると思います。第一次世界大戦という思いもかけなかった歴史的出来事に遭遇することによって、このつながりは深い意味を持ち、トインビー博士に生涯にわたる影響を与えることになります。

 さらにウインチェスター校を初めとして当時のパブリックスクールの教授内容の中心であった人文主義教育が与えた影響。このことはトインビー博士自身が回想録で、具体的に書いておられますが、カリキュラムの大部分をギリシャ語・ラテン語を占めるという教育を受けることによって、今生きている西欧文明の歴史を、すでに完結し、誕生から崩壊までを総体として見ることができる別の文明と比較対照してみることが可能になり、文明を単位とする人類史、真実の意味での世界史を論じ、研究することが可能になりました。

 さらに日本では意外と論究されませんが、キリスト教的な紳士を生み出すことを目指す教育が挙げられると思います。19世紀のパブリックスクールは、今私たちが想像する以上に宗教的な雰囲気が強くあり、ラグビー、サッカー、クリケット等の〝ゲーム〟を重視し〝フェアー〟であることを最高の価値として、「マスキュラー・クリスチャニティー」(日本語に直訳すると〝筋肉的キリスト教〟となります)を志向する教育が理想とされました。パブリックスクールの歴史の中で、必ずその名前がでてくるラグビー校のトーマス・アーノルド校長、その時の在校生で、これも必ず名前がでる小説「トム・ブラウンの学校生活」の著者でもあるトマス・ヒューズが描写する当時のパブリックスクールの様子は、まさにこの理想を目指す過程を生き生きと描写しています。

 これらの要素が融合して、パブリックスクールの生徒一人一人の人格として形成されていきました。個性の違いはあっても、いわゆる〝ジェントルマン〟という言葉に象徴される19世紀後半から20世紀前半にかけてのイギリスにおいて理想として志向すべきとされた指導者像です。それぞれの要素の影響は、最終的には一個の人格として集約される総合的なものと思いますが、ここでは個々の要素を具体的にみていくことによって、トインビー博士に対する影響を考えていきたいと思います。

 まず、この12歳から18歳の最も多感な時期を親元を離れ、共同生活を送ることに生み出される生涯の強い友情と連帯意識です。今の日本の学齢に当てはめると、中学校入学から高校卒業まで、いわば子供から大人へと変わっていく身体的にも精神的にも大きく変化して行く時期です。私自身は、このような共同生活を経験することはできませんでしたが、私が勤務した私立学校、創価学園においては創立当初から全国に開かれた生徒寮をもち、生徒の共同生活の場である寮が教育の根幹に組み込まれていました。そこに寮担当の教員として勤めた経験から、寮生活から生まれる生涯の友情、連帯意識の強さを心からの感動と尊敬の念をもって語ることができます。この共同生活を共にした人たちは、一生涯にわたって強い友情連帯をもって生き抜いていおられることは間違いありません。トインビー博士が70代の後半に出版された「回想録」は、「寄宿学校」と題する、ウインチェスターでの思い出から書き始められます。

ウインチェスターから私は生涯の宝を三つもらってでた。われわれに教育を与えて くれた創立者たるウィカムのウイリアム〔生誕1324年~死没1404年、1382年・イギリス最初のパブリックスクールであるウィンチェスター・カレッジを創立した〕に対して、5世紀以上もの隔たりを越えて結んだ父子の関係。当時の副校長〔ということは学校の寮監ということであったが〕でのちに私の卒業後校長になったM.J.レンドール先生に対する尊敬と賞讃と愛情。同年配の多くの人々に対する深い友情。この三つである。この友情は、兄弟の間の血縁関係と同じくらい親密で永続的なものであった。生涯の友エディ・モーガンにはじめて出会ってから数分後、私は第九室に立って、デイビット・デイヴィスを初めて眺めていた。彼は五番で入学したのだと思う。エディ・モーガンと私はまだ生きている。デイビットは、私より六ヶ月若かったのに、もう生きていない。しかし1902年から1964年まで、デイビットと私は決して別れたことがなかった。われわれは一緒にウィンチェスターとオックスフォードを卒業し、身体的に不適格であったために二人とも第一次世界大戦で戦死することを免れ、ロンドンで活動している時期には毎週一回昼食を共にしたものであった。」(回想録Ⅰp10)

さらに続けて、トインビー博士の歴史研究を貫く原点としての「戦争に対する根底的な否定」が生まれた原体験としての同世代の友人への思いを語られます。

「われわれの世代で学校に通った者のうち、およそ半ばは第一次世界大戦で命を落とした。おそらくこのために、生き残った者たちのきずなは以前にもましてなおさら緊密なものになったのであろう。しかしわれわれのうちで天寿を全うした者と時ならずして生命を絶たれた者との間で、そのきずなはこの上なく緊密なものであったし、今もそうなのである。・・・・(中略)・・・・半数も死んだのでなかったなら、著名な人々の数は少なくとも現在の二倍になっていよう。たとえば、ボビー・パーマーは今日保守党の長老政治家になっていよう。G.L.チーズマンは、フラッカーロとデ・サンクティスの死後現存するローマ史家としては、疑問の余地なく世界で最もすぐれた学者になっていよう。・・・・(中略)・・・・ウィンチェスターを出たとき、私はギリシャ語の二行連句を作って、そこで受けた古典教育と創立者に対する敬愛の念にもかかわらず、そこを去るのがうれしいと宣言した。後にオックスフォードで私は第二の二行連句を書いて、第一のものを取り消した。そのときにはもうウィンチェスターの部族的な律法の支配下には暮らしておらず、ウィンチェスターで結んだ友情が私にとって貴重な宝であることを悟っていたのである。」(回想録Ⅰp13)

トインビー博士の自宅のマントルピース(暖炉)の上には、若くして命を第一次世界世界大戦で失った友人の写真額が20あまり飾られていたということは、その部屋で対談された池田大作先生の感想の中に印象深く書かれています。そして、なぜ優秀な青年たちが戦死しなければならなかったかについても触れられています。先ほど冒頭にあげたパブリックスクールの人材像、その生き方の理想としての「ノブレス・オブリューズ」を貫こうとする生き方は、多数のパブリックスクール出身の青年に、国家の一大事としての戦争、第一次世界大戦に、自ら志願して出征する道を選ばせました。

刀槍・弓矢が中心の武器である中世の騎士の時代ならいざ知らず、機関銃等の機械的な大量殺人兵器が、科学の発達によって次々と戦場に登場した第一次世界大戦においては、個人的な勇気を持って戦陣の先頭をきる生き方は自らの命と引き換えの、無謀ともいえる生き方になっていました。パブリックスクール出身で自ら志願した青年は、まず最下位の将校として任官、十人前後の兵を率いる小隊長として戦場の最前線で戦いに参加することが多く、パブリックスクールで培ってきた理想のとおりに勇気を持って戦闘の先頭に立った彼らの戦死率は非常に高いものがありました。結局、1914年の戦争の勃発から1年以内に、トインビー博士の同級生の半数が戦死する結果となりました。トインビー博士は、この事実とご自身が受けた衝撃を繰り返し、繰り返し語っておられます。その様子は、まさに〝通奏低音〟のようにトインビー博士の全生涯にわたる著作の中で一貫しています。この戦死率の高さについても次のように言及されています。

「私自身が衝撃を受けてこのこの伝統的な態度(戦争を必要悪として肯定する生き方)からはっきりと押し出されたのは、学校時代に得ていた同年配の友人のおよそ半数が第一次世界大戦で殺戮されたためである。彼ら〔=私たち〕が属していた世代と社会階級は、あの戦争のときのイギリス軍のうちで最も多くの戦死者を出した。彼らは職業軍人ではなく、臨時に少尉の地位を与えられた志願兵であった。そして第一次世界大戦においては、この地位を与えられるということは死刑の宣告を受けることにも等しかったのである。彼らの多くは、『戦争を終えるための戦争』において、自分を犠牲にしているのだと信じつつ生命を投げ出した。私自身は偶然の出来事〔ギリシャ研究旅行中にかかった赤痢の後遺症のため兵役不適と判断される〕のために1969年にもまだ生きている。こうして生きてきた結果、私は戦争を黙認する伝統的な態度から、絶対反対の立場に転向したのである。戦争は立派な制度でもなければ微罪でもなくて罪悪である、と私は1914年に確信するようになった。1945年以後は、もし人類が依然としてこの罪悪を犯し続けるなら早晩、集団自殺を遂げることになろうと確信している。」(回想録Ⅱp38)

  トインビー博士の著作として有名な「歴史の研究」、執筆に30年以上の歳月を費やしたトインビー博士の主著ですが、この大部の著書を締めくくるにあたって、末尾の部分に「感謝の言葉」を記されています。丁寧な心遣いにあふれた文章が続きますが、その中で実名をしっかりとあげて、20代前半で戦死した友人のことを記されています。 引用します。
「『時』の緩慢な仕事であり、したがって、人生のあらゆる偶然と転変に左右される地味な事業のうちに、全く『記念碑を残さない者』もいる。本『研究』の筆者を63歳まで生き延びさせた偶然の戯れは、38年前に以前に戦死した彼の同輩や友人の生命を断ち切った。30年以上の歳月を要した彼の著作を完成しようとする今、彼は若くして死んだ ガイ・レナード・チーズマン  Guy Leonard Chesman,  レズリー・ウィテカー・ハンターLeslie Whitaker Hunter,  アレグザンダー・ダグラス・ギレスピーAlexander Douglas Gillespie,  ロバート・ハミルトン・ハッチソンRobert Hamilton Huchison,    アーサー・イネス・アダムArthur Innes Adam,   ウイルフルド・マックス・ラングドンWilfrid Max Langdon,    フィリップ・アントニー・ブラウンPhilip Anthony Brown,     アーサー・ジョージ・ヒースArthur George Heath,    ロバート・ギブソンRobert Gibson,
およびジョン・ブラウンJohn Brown,の戦死によって世界が失った、ついに書かれなかった著作のことを考えずにはいられない。これらの人々は、文明時代の始まり以来戦われてきた戦争に於いて生命を中途で断ち切られた、無数の勇敢な、自己を犠牲に捧げた青年―――この世は彼らの住む所ではなかった―――の十人の代表にすぎなかった。第一次世界大戦に於いて若くして軍人として生命を捧げたこれらの学者は、生き残った彼らの友人の心と記憶のなかに生き続けている。そして、生き残った者の一人である筆者の生涯と著作は、言葉に言いあらわすことができないくらいに多く、これらの若くして死んだ仲間の不断の記憶に負っている」(「歴史の研究」完訳版20巻 p441)
トインビー博士の生涯に於いて、敢えて既存の歴史研究の道を取らず、全人類の全時代にわたる歴史を、文明の比較・検討を通して表現しようとされた根本の目的が明確に表現されていると思います。

 今から100年以上も前の戦争のことであり、特に日本の場合は日英同盟を口実に参戦しましたが、主戦場のヨーロッパでの戦争に陸上戦力は参加せず、海上戦力の応援にとどめ、一方アジア太平洋地域では南洋諸島および中国青島のドイツの権益を攻略してその手に収め、戦争状態にある当時の最先進国地帯であるヨーロッパの生産活動が戦時体制で手一杯である状況下で、代行の生産で〝漁夫の利〟とも言うべき莫大な利益が転がり込み、いわゆる〝成り金〟が輩出するという状況が現出しました。さらに悪い言葉で表現すれば〝火事場泥棒〟とも表現できると思いますが、アジア・アフリカの諸国の中で西欧と肩をならべるまでに力をつけ、アジア・アフリカ諸国民の希望の星となっていた日本が、その期待の思いに反して自らも欧米列強と同じ帝国主義国家として利益を追求し、悪名高い対中国21箇条要求をつきつけるという出来事が象徴するように自国の利益を追求することに熱心に取り組む。いまから考えるとその後の傀儡国家・満州国の成立からその延長上の日中戦争、さらにアメリカ合衆国との対立から結果的には全世界の主要国と戦うことになり最終的に日本の歴史始まって以来の徹底的な敗戦と、破局を経験する方向への第一歩を明確に歩み出したのが、第一次世界大戦における日本であったと思います。従って日本人にとっては、遠いヨーロッパでの戦争であり、直接的な経験に基づく印象が薄いいわばよそごとの戦争だったと思います。

この戦争を契機としてヨーロッパで成立した数々の小説、例えばマルタン・デュガールの「チボー家の人々トーマス・マンの「魔の山」等に盛り込まれたような個人の運命と歴史的な出来事との邂逅、そこに生まれる存在をかけての思考とは無縁の世界であったと思います。また第一次世界大戦から第二次世界大戦に及ぶ二十世紀前半の〝30年戦争〟を、全人類的な経験としての西洋科学技術文明の破局として捉え、根底的なパラダイムの変換の必要を志向する数々の業績、例えばユング深層心理学における無意識層への取組み、カール・バルトにおける神学。ショペングラーの「西欧の没落」、そこで認識される「文明」単位での世界史の探究としてのトインビー博士の「歴史の研究」。これらの業績を虚心坦懐に受け止めると、二十世紀前半の第一次、第二次世界大戦がもつ究極の悲劇的体験としての意味の解明を契機とした「文明」的衝撃の大きさが見えてきます。

トインビー博士にとっての第一次世界大戦は、まず具体的には開戦後一年間のうちに、クラスの友人の半数を失うという経験からスタートしました。この経験は、単に個人的な経験の次元にとどまらず、ヨーロッパの人々にとっての文明観、世界観の根底を揺るがす根本的な経験として、トインビー博士の生涯の学問的営為の原動力となり、世界の歴史を探究するなかで〝戦争〟と〝差別〟という人間社会の根底的な二大害悪をなくす道をさぐるというトインビー博士の生涯の根本テーマとなりました。ここにいたって、いわゆる価値自由、「科学」的な記述において要求される客観性から離れることになります。論じている対象を正確に天気予報のように記述するのではなく、戦争は〝悪い〟〝差別〟は悪いとの良い悪いの価値判断が記述・論考の中に加わることになります。その善し悪しの判断は、核兵器という人類全体の絶滅をもたらす黙示録的兵器が登場した現在において重要な判断であると思いますし、心ある人びとの賛同を得ることを確信します。