「日本文明とその将来」トインビー博士 1967年来日時の印象
「日本国憲法第九条」に対するトインビー博士の見解
高等宗教とは何か 「現代が受けている挑戦」p87.L9~ より
トインビー博士と池田先生の対談「21世紀への対話『Choose Life』」より50周年を迎えて
本年、2022年5月5日は、トインビー博士と池田先生との対談「21世紀への対話」『Choose Life』の対談が1972年の5月5日にイギリスのロンドンのトインビー博士の自宅でスタートして50年目の節目を迎えました。この日に向けて、東洋哲学研究所の研究員の皆さんの記念論文を収録した記念論文集「文明・歴史・宗教」が発刊されました。
冒頭に河合秀和氏の寄稿文が収録されています。その中で、河合氏は1967年の晩秋、2年半の英国留学を終えて、日本に帰国し大学教師となったばかりの時に、英国文化振興会の日本支部の代表者 E・F・トムリン氏から、トインビー博士が来日するので会わないかと言う誘いを受けたことを記しています。河合氏は次のように書いています。
「当時、大学の教師になったばかりの私は、比較政治という(日本で最初の)講座を担当していた。・・・〈中略〉・・・一国の歴史を国際政治の環境との関係で考え、古代政治も現代政治もいわば権力の作動という社会学的なパターンとして比較するトインビーの研究方法から多くを学んでいた」と。
河合氏はつづけて「私たちは、アメリカ大使館近くのしゃぶしゃぶ料亭で出会うことになった・・・〈中略〉・・・料亭は薄暗かったが、トインビーの眼光は鋭かった。『いま、国体思想はどうなっているか』というのがトインビーの最初の質問で会った。・・・〈中略〉・・・トインビーの質問に対して私は、もともと天皇制国家であった日本は、未だに大中小の無数の天皇たちが天皇崇拝と愛国主義を競い合うような社会であることをまず話した。さらに、戦後の新憲法の下で、頂点に立つ天皇が主権を失いその主権が国民に移ったとしても、これら無数の天皇は家庭内の家父長支配者として、あるいは企業組織や村落の指導者として縦の人間関係のなかに残っており、自由と民主主義がこの天皇制国家の残滓を克服していけるかどうかが当面の問題点であると答えた。 二番目の質問は、『創価学会はファシストか』であった。私は、創価学会は戦時中に治安維持法によって迫害された組織であり、戦前への復帰ではなく、むしろ立ち直りつつある新たな中流階級に自立心と誇りを与える運動を起こしていると思うと答えた。そして、とくに天皇制と軍国主義を支える地盤であった日本の農村では、戦後のマッカーサーの農地改革によって生活水準が高まったが、これはドイツの中流階級と農民がヒトラーを支持した状況とはまったく異なると思うと話した。重要な質問はこの二つだけであったと記憶している」
ここに記されたトインビー博士の質問と河合氏の回答には重要な意味があると思います。この河合氏との対談の二年後、1969年9月に、トインビー博士は自ら池田先生宛の手紙を書き、対談をすることを申し入れています。この河合氏の記述からわかってくることは、少なくとも対談の申し入れが行われる二年前からトインビー博士は「創価学会」という日本の〝新興宗教〟団体に強い関心をもって、情報を集めていたことになります。さらに先の二つの質問でわかるのは、まずトインビー博士は日本について戦前の日本の国家としての根本思想であった国家神道をベースにした〝国体思想〟が日本の決定的な敗北のあと日本人の中にどのように残っているのか、それとも影響力を失っているのか。また、日本の民衆の中の思想的な動きとして、戦後急速に発展したいわゆる〝新興宗教〟、その中でも急激な拡大を遂げ政治の世界にも代表を送ることになった創価学会に強い関心を持っていることがわかります。
このような関心は、実はこれよりも前、1956年の2月にイギリスを出発し、翌年の1957年8月に帰国することになった〝世界一周旅行〟の印象を綴った旅行記『東から西へ』の中で、日本の国際文化会館の招待を受け、戦後約十年の段階で来日したときの日本の印象を記述した部分に、その関心の原点がトインビー博士自身によって、綴られています。
この段階で1989年生まれのトインビー博士は、すでに78歳。数ある批判はあっても、歴史家として、いわば〝功成り名を遂げ〟世界的な知名度が確立した有名人でした。そのトインビー博士が、「創価学会」という極東の新興宗教団体に、単なる関心以上の強い興味を示すということとは、いかなる意味があったのか?
この意味を理解するためには、単に、この時点に限定したトインビー博士の興味・関心だけではなく、1929年・太平洋協議会へ英国代表団の一員として来日したときから始まり、1956年の第二回の来日時における日本に対する観察、それに基づく見解、さらにその前後のトインビー博士の著作における見解等、トインビー博士の生涯の事績・思想をも踏まえた探求が必要になってくると思います。さらに考察を加えてみると、第二次世界大戦後、日本の歴史上経験したことのない敗戦と他国軍による占領という状態のなかにおかれていた日本人がとった行動について、トインビー博士はいかなる視点をもって注目していたかという点が重要であると思います。
トインビー博士が1925年以降「国際問題大観」の年次総括報告の単独執筆者として世界全体の国際問題について観察し記述してきた方法論は、歴史家として「歴史の研究」において追求してきた方法論と重なると言ってもよいと思います。まず「国家」単位ではなく「文明」を単位とした考察であること、その考察については、常に全時代・全世界を対象とした「世界史」を基盤とすること。その中においては、1940年の5月23日にトインビー博士を講師として実施されたオックスフォード大学のSheldonian ThetreでのBurge Memorial lecture【この内容は1947年に刊行された『試練に立つ文明』のなかに「キリスト教と文明」“Christianity and Civilization”という題で収録されています】で初めて表明された「高等宗教」の発達を助け育てることが「文明」の大事な役割であると言う主張が反映されます。この主張は「歴史の研究」の後半部の主題です。
この視点で「世界史」を考察してみると、世界史上の「高等宗教」としてトインビー博士があげているのは、小乗仏教、大乗仏教、ヒンズー教、ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教です。さらに核戦争による人類絶滅の可能性が明確になった現代において戦争という人類世界の宿痾を克服し、平和をもたらす可能性を作り上げるために最も必要とされる世界宗教化した高等宗教として、トインビー博士がさらに分別されているのが大乗仏教、キリスト教、イスラム教の三つです。その中でも特に注視されていたのが、最古の高等宗教・世界宗教であり、その布教の過程で暴力による強制という手段と無縁であった大乗仏教の存在でした。ただし、世界宗教としての高等宗教は世界史上において、大乗仏教、キリスト教、イスラム教の三つしかありません。さらに、その出現の状況を世界史の中で確認していくと、これら三つの世界宗教化した高等宗教は、「文明」と「文明」の衝突の結果として出現していることがわかります。代表的なキリスト教を例にとると、この宗教は「ヘレニック文明(ギリシャ・ローマ文明)」と「シリアック文明(地中海東岸の諸民族、ヘブライ人、アラム人等の属する文明)」の衝突の結果、決定的敗北を経験したヘブライ人の最下層の庶民の自発的運動として始まり世界宗教化したものです。その歴史観で、20世紀の世界をみたとき「文明」と「文明」の衝突は存在するのか?決定的な「文明」的敗北を経験したのはどの「文明」か?「文明的敗北」とは、「文明」が成り立つうえで根幹となる統合原理としての思想・宗教の敗北ということになります。さきにあげた1967年の河合氏とトインビー博士のやりとりのなかで、トインビー博士が発した日本における「国体」に関する質問、「創価学会」に関する質問は、「日本文明」における統合原理としての「国体思想」の状況、最下層の民衆の自発的運動として、この1967年〔昭和42年〕の段階でその存在が明確に認識できるようにまで拡大した「創価学会」の思想的背景についてであることは、この段階でのトインビー博士の関心がどこにあったのを明確に示していると思います。
この年、1967年(昭和42年)の段階における創価学会は、第三代会長に就任して7年目の池田先生のもと、拡大につぐ拡大の戦い〝折伏大行進〟を展開した結果、第二代戸田先生の時代の最晩年に達成した75万世帯の約10倍となる600万世帯を達成していました。この急速な拡大の動きの中で、創価学会は非難中傷の嵐にさらされていました。 その中でも、代表的な中傷が〝病人と貧乏人〟の集まりが創価学会だというものであり、急速な拡大に対しては〝暴力宗教〟のレッテルをはることでした。
私ごとになりますが、わが一家の創価学会とのかかわりは、父〔1913(大正2 )年生まれ〕が、1957(昭和32)年に創価学会に入信したことから始まります。当時10歳であった私もその状況は鮮明に記憶していますが、世間一般の当時の創価学会に対する非難中傷は厳しく、子供心にも大変な会に入ってしまったという印象を受けたことを覚えています。しかし父は本気でした。父の世代の前後の世代、大正生まれの世代は、日本帝国の満州事変、日華事変とよばれる中国との戦争から始まり、その後のアメリカとの太平洋戦争、を通して、最終的に1945(昭和20)年の決定的な敗北にいたる約10年をほぼ戦場で過ごすことになった世代です。父の20代はほぼ戦場にありました。北海道の留萌で貧しい船員の子供として生まれた父は、経済的には上級の学校への進学は困難でしたが、尋常小学校の成績が良かったので応援してくれる有力者があり、当時の日本のそのような状況の子供が進学する道、師範学校を目指したいと思ってい父の思いとは異なりましたが、商業学校へ経済的な応援を得て進学することができました。さらに、その上の段階である当時日本に三校しかなかった高等商業学校の一つ、小樽高商へ推薦をうけて進学することができました。そのような高等教育を受けた青年は、予備士官学校を経て将校となる道が開かれており、父もその課程を経て日本軍の将校となりました。十年近くを最前線の中国で戦うことになった父は、文字通り満身創痍の状態で日本に帰ってきました。私が子供のとき父と一緒に風呂に入ると、父の体にはおでこと尻のところに弾丸のあとがありました。父はよくおでこの弾痕は鉄兜を貫通して入ってきた弾丸がぐるっと頭のまわりを回ってまた入ってきたところからでていったと笑っていました。また尻の弾痕は、尻であったために致命傷にならずに済んだようです。また戦場での様子についてはほとんど話しませんでしたが、私の印象に強く残っているのは、映画の戦場で砲撃を受けて兵士が倒れるシーンのところで、「実際の戦場で砲弾の直撃を受けたら、その瞬間人間のからだはバラバラの肉片になって飛び散る」とぽつんと語っていたシーンです。本物の戦場と映画等の作られた戦場のシーンの違いを語っていました。
64歳でこの世を去った父でしたが、その最終段階でわかったことですが、学生時代、結核を罹患した父は肺の機能が片肺しかなく、その状態での従軍はかなり苦しかったのではないかと思います。父は最終的には中国の済南で終戦を迎えましたが、その段階で階級は中尉、中隊長として百名前後の部下を率いていたそうです。しかし、父が言うには上級の将校から疎外されていたため、父の所属していた連隊が当時安全と考えられていた満州に移動する際、父の中隊だけが現地に残されたのでそうです。なぜ父の中隊だけが残されたのか。日中戦争では、広大な大陸、圧倒的多数の中国人の中で戦っていた日本軍は、鉄道の路線と駅しか実効支配が及ばず、よく「点と線」と言いますが鉄道路線の沿線と駅をやっと抑えている状態で、最終段階ではそれも厳しい情勢になっていました。その中にあって、これも父の言っていたことですが、父の中隊は現地の中国人に決して無法なことせず人間として対等に接していたそうです。そのおかげかどうかはわかりませんが、なぜか父の中隊の守備範囲だけが破壊活動を免れる状態が続いており、「おまえの中隊だけ現地に残れ」と、連隊の中で父の中隊だけが現地に残ることになったとということです。済南という地は、現在でもそうですが、中国の南北と東西を結ぶ鉄道路線が交差する交通上の重要地点です。その重要地点に取り残された単独の中隊、大変不安な状況だったと思いますが、まもなく日本は無条件降伏しました。満州に移動した連隊の主力には、その後、ソ連軍との戦闘、降伏、シベリア抑留という運命が待っていたそうですが、父の中隊は中国軍によって武装解除された後、比較的早く日本に帰ることができたとのことです。
帰国後、父は北海道の釧路で母と結婚し、私を長男に三人の男の子が生まれます。私は昭和22年(1947年)生まれですので、まさに〝団塊の世代〟のスタートの団塊の一人です。小学校、中学校、高等学校と進学の各段階で、校舎の増築、定員増を経験し、大学受験は日本の受験の歴史で空前の倍率を経験しました。本年で後期高齢者の仲間入りです。〝ゆりかごから墓場まで〟という英国の社会福祉のスローガンがありましたが、私たち団塊の世代は、数が多いが故に〝ゆりかごから墓場まで〟つねに競争の場にさらされ、また格好の金儲けのターゲットにされるという生涯を送ることになりました。論より証拠、いわゆる〝オレオレ詐欺〟などはまさに金儲けの対象として考えられている格好の例だと思います。いま日中、テレビをつけるとコマーシャルのほとんど全てが健康関係の器具、薬品、そして墓園の紹介です。なぜこんなに多いのか?理由は明瞭です。対象の数が多いからです。なぜ多いのか?一時期にたくさん生まれたからです。なぜ一時期にたくさん生まれたのか?戦争に行っていた若者が帰還し、一斉に結婚し、一斉に子供が生まれたからです。なぜ一斉に?皆、兵隊として戦争に行っていたからです。
この人口ピラミッドの年齢構成の偏りは戦争が原因です。この現象は第一次世界大戦後のヨーロッパで、また第二次世界大戦後の全世界でおきました。
ロシアにおけるビザンチン帝国の遺産
現在、世界中のニュースでほぼ一日中24時間と言って良いくらい関心を集め、取り上げられているのは、2月24日(2022年)に開始されたロシアによるウクライナ侵攻です。現在なお進行中であり、結末はまだみえていません。ニュースの取り扱いは、SNS等で送られてきた、現地の生々しいショットの放映を中心に、コメンテーターのコメントが加えられたニュース映像であり、日本のマスコミの取り扱いは、ほぼアメリカというよりは、アメリカの現バイデン民主党政権の主張にそった内容です。「アメリカ独立革命」に始まる「自由と民主主義」という普遍的な価値の守り手として自らを位置づけ「Manifest Destiny」を標榜する、価値観の視点からは、自らを一方的な「善」として設定し、対立する勢力を自らに跪かない限り絶対の「悪」として位置づけて弾劾し徹底して攻撃することを継続します。はたして、この姿勢から、次の時代の展望はひらけるのでしょうか。
〝戦争の世紀〟20世紀の反省を踏まえて、主権国家の独立をベースとし、その国家単位での生存の保証の組織として設立された国際連合は、この原則を破る国家に対して、懲罰としての諸策、最終段階での軍事的制裁をも想定し加えるまでに至る、組織として、米、露、中、英、仏の第二次世界大戦の戦勝国の共同歩調を保証するための〝常任理事国〟の一致の条件(一国でも不賛成の国があれば成立しませんので〝拒否権〟と呼ばれます)を規定していますが、第二次世界大戦後の冷戦時においては米ソの対立のため、ソ連崩壊後の今日においても五大国の意見の一致は難しく、有効に機能したことはないと言っても良いと思います。ソ連邦の崩壊からすでに30年が経過しました。現在、国際関係においては、大国としての基盤を備えるに至った中国も含めた〝新帝国主義〟の時代となり、さらに複雑な機能障害に陥っているように見えます。まして、その理念・原則を常任理事国の一つであるロシアが踏みにじるというような事態になると、国連の機能不全状態が白日のもとにさらされることになりました。
この事態は、現在の核兵器保有国の異常な振る舞いであり、全人類の滅亡の可能性にもつながる本質的な意味での〝重要危機事態〟です。それでは、この事態の解決の方向性は? どんなに考えても簡単に結論のでる問題ではありません。ロシアを批判して、国内の反対世論に期待すべきでしょうか?経済面での制裁処置を究極にまでに高めるべきでしょうか?ウクライナに義勇兵、武器援助をはじめとする武力による支援を強力に行うべきでしょうか?このすべての可能性についての報道が今さかんに行われていますが、どれも決定的な解決手段とはならないことは明白です。
それでは、どのような対応策があるのか。この間の報道で、主にYouTubeでの報道ですが、丹念に探してみると馬淵元駐ウクライナ大使を始めとして、篠原常一郎氏の連日の発信、さらに新党大地の月例公開講演会での佐藤優氏の話とか、これはと思われる視点をもつものがいくつかあります。さらに検索を重ねていくと、たとえば「論座」「潮」における塩原俊彦氏の記事、「プレジデントオンライン」における佐藤優氏の投稿記事等、など、ロシア側の論理も押さえた上で、今後の見通しについての客観的な優れた記事があります。しかし、残念ながらこれらの記事の視点についも感情的な反感による批判の感想が集中しています。
大手メディア、マスコミの報道は、欧米を中心としたメディア発信のものが中心になっており、映像的には個人が様々な個々の状況に接して、その一瞬を切り取ったSNSからの発信を織り交ぜての報道になっていますので、インパクトの強い映像が中心であり、そこにいたる事情や背景も含めての根本的かつ根源的な認識を得るのは本当に難しい状況があります。またロシア発のニュースはほとんど無視され、〝人道的感情〟を安易によりどころとしたフェイクニュースが飛び交っています。その中からどう正しい事実を確認し真実をつかんで、正しく考えることができるか。今、求められているのは人類の歴史を踏まえ、人間の本質をしっかりと踏まえたうえでの事実に対する深い考察です。
この問題をどう考えれば良いかと、悩む中でいきついたのがトインビー博士の「ロシアにおけるビザンチン帝国の遺産」という講演でした。この講演は、博士の著作の『〝Civilization on Trial〟「試練に立つ文明」』の中に収められています。英文による〝ACKNOWLEDGMENTS〟の中には、この講演についてA.J.Toynbeeの署名を記して、次のような記述があります。
……Rossia`s Byzatine Heritage, published in Horizon of August 1947, is based on a course of two lecutures deliverd in April 1947 at the University of Tronto on the Armstorong Founation.
1947年、カナダのトロント大学での講義で、ロシアについての考察? しかし、現時点で振り返ると1947年という年は、1949年にソ連が原爆実験に成功し核保有国としてアメリカ合衆国の独占状態を破り核大国の道を歩み始める直前であり、カナダはソ連からの迫害を逃れたウクライナ人が多数移住した国でした。
今回のウクライナ問題について重要な役割を果たしているとされる、アメリカ国務省の次官であるヌーランド女史はその祖父がウクライナ出身であり、2014年のロシアによるクリミア併合の結果につながる契機となったといわれる、ウクライナにおける〝マイダン革命〟の動きの中で、当時オバマ政権のもとで国務省次官補であった彼女が具体的に大きな役割を果たしたことは周知の事実です。
ロシアとウクライナとの関係、移民の国であるアメリカ合衆国におけるネオコンと呼ばれる人々、その人々がアメリカ合衆国のエスタブリッシュメントとして、特に国家官僚として外交の上において果たしてきた役割を考えるとき、そのヨーロッパでの出自まで考えることによって、現在、目の前で起こっている事件の真実の背景が見えてくるように思えてなりません。
トインビー博士の「ロシアにおけるビザンチン帝国の遺産」の内容は、ギリシャとローマからなるヘレニック文明、後継帝国としてのビザンチン帝国を考察の基盤において、キリスト教において西欧に展開されるローマン・カソリック、ビザンチン帝国で展開されるギリシャ正教とロシア正教等の東方キリスト教との関係について論じていきます。さらに世俗権力の頂点としての〝皇帝〟とキリスト教との関係を、西欧とビザンツ帝国との関係、さらに7世紀以降、急速に勃興するイスラム教。そのイスラム帝国であるオスマン・トルコとの関係。とくに1453年のコンスタンティノープル陥落以降の、東方キリスト教の首位者の変遷の結果、〝第三のローマ〟を呼称するロシアにおける〝皇帝〟《ツアーリ》の位置づけの内面的な意味にふれていきます。この根源的な内面的矜持が、ピョートル大帝以後の西欧文明の吸収、さらに第一次世界大戦におけるロシア帝国の崩壊に代わって権力を掌握したボリショビキ革命、反西欧文明的なマルクス主義のもとに成立したソヴィエト連邦がロシア人にとって持っている内面的意味についてふれていきます。この論考の冒頭でトインビー博士は次のように書かれています。
「今日のロシアの社会体制〔1947年段階でソ連の体制〕は――細目の外面的事項まで全部はおそらく含まないにしても、少なくとも重大な事柄の大部分においては――ロシアの過去とは縁もゆかりも一切断ち切ってしまったと主張しています。また西欧人もボルショヴィークの言葉を真に受けて、ロシアはその主張を文字通り実行したものと思い込んでいます。われわれはそれをまに受けて身震いしたのであります。しかし一歩立ちどまって反省してみると、われわれが祖先から受け継いだ遺産を放棄するということはそれほど容易なことではありません。われわれが過去を放棄しようとすると、自然はホラティウスも知っていたように、姿を変えたのはほんのうわべばかりで、こっそりとわれわれの懐に舞い戻ってくるくせ者なのであります。」(p228)
「過去一千年近くのあいだ、ロシア人は、筆者の見るところでは、西欧文明ではなくて、ビザンチン文明の一員であったと考えるのであります。このビザンチン文明は、われわれの文明と姉妹関係に立つ一つの社会であって、われわれと同じくギリシャ・ローマ文明を父としていますが、それにもかかわらずわれわれの文明とは別個の文明であります。ビザンチン文明に属する諸民族の一員であるロシア人は、われわれ西欧世界に圧倒されるという脅威に対して、いつも強硬な抵抗を示してきましたが、同様な抵抗を今日なお続けています。西欧に征服され無理に同化させられることをまぬがれようとして、彼らは再三西欧の技術的学問を身につけることを強いられてきたのであります。この『離れ業』はロシアの歴史において少なくとも前後二回――最初はピーター大帝によって、次にはボルショヴィークによって――繰り返しなし遂げられました。・・・ところがせっかくボルショヴィークが年来の宿望を果たしたと思ったら、こんどは西欧が原子爆弾の製造のこつを発見することによって、またもやロシアを出し抜いてしまったのであります。」(p230)
「西欧人はロシアが侵略者であるという一個の観念をもっています。西欧的な眼を通して眺めるならば、実際ロシアはどこから見てもそうとしか見えません。・・・・・・(中略)・・・・それがロシア人の眼には、景色はまったく反対に映るのです。ロシア人は自分たちが絶えず西欧からの侵略の犠牲者であると考えています。」(p232)
このあと、トインビー博士は、キエフ公国からはじまるロシアの歴史を具体的にひもとながら、この西欧とロシアの認識の違いについて記述していきます。今回のウクライナ侵攻についても、この正反対の認識が双方にあることがニュース等で明白にわかります。どちらの認識が現実なのか。トインビー博士は次のように結論されています。
「数世紀にわたる二つのキリスト教世界のあいだの戦争の歴史において、どちらかといえば、むしろロシアのほうが侵略の犠牲者であり、西欧の方が侵略者である歩合いの方が多いというのが真相といってもいいでありましょう。」(p234)
この指摘は、冷戦初期の1947年における考察です。その一瞬の状況を分析するのに、トインビー博士は、ノルマン人によるキエフ公国の成立の含めた約1000年にわたるロシアの歴史を考察の対象とします。
「航行しうる内陸水路の支配権を獲得し、かくしてヒンターランドのスラブ人の原住民に対する支配権を確立することによって、曲がりなりにも一個のロシア国家の端緒を開いた『ヴァラング人』《一般的には、スウェーデン・ヴァイキングの事であると現代では解釈されている。ロシアでは15世紀までスウェーデン人をヴァリャーグと呼んでいた。実のところは、民族系統については不明との説もあり、ノルマン人と似た習俗があったとされ、一般的に東スラヴ人による呼称でゲルマン人の一派を指し、スカンディナヴィアから出てロシア平原に出現したヴァイキングの事とされているが、物的証拠の乏しさもあり、あくまで移動ルートは推測である。【ウィキペディアより】》はもともとシャルルマーニュ帝のもとにおける西欧キリスト教世界の北進によって刺激され、西方に向かうと同時に東方にも移動せしめられたスカンジナビアの蛮人であったようであります。母国にとどまったその子孫は西欧キリスト教に改宗して、彼らは彼らで、後代のスウェーデン人としてロシアの西方の地平線上に姿を現わしました、つまり彼らはロシア人から見れば、侵略根性をなおされることなしに異端者となった異教徒だったのです。さらにまた十四世紀においてロシアのもとの領地の最良の部分――白ロシア(ベラルーシ)とウクライナのほとんど全部――がロシア正教派キリスト教世界から切りとられて、リトアニア人とポーランド人に征服されることにより西方キリスト教世界に併合されたのであります。(十四世紀にポーランド人が征服した、ガリシアのもとのロシア領は、1939年~45年の大戦が終局に近くなるまでロシアに取り戻されなかった。)」
なかでも1453年のコンスタンティノープル陥落以降の、ギリシャ正教という東方キリスト教世界における中心者であるコンスタンティノープルの大司教が、イスラム教を奉じるオスマン・トルコの政治的支配に屈せざるを得ない状況の中での、モスクワを中心としたロシアの役割の変化について論じています。
「1453年以来、ロシアはイスラム教徒の支配下にない『正教キリスト教国』のなかで唯一の重要な国家でありました。また、トルコ人によるコンスタンティノープルの占領は、『イワン雷帝』が一世紀後にカザンをタタール人から奪い取ったとき、彼によって劇的に復讐されたのであります。この事件は、ビザンチウムの遺産に対する要求において、ロシアがさらに一歩を進めたことを意味しています。・・・・・・・・・・ロシア人は自分が何をしているかを十分自覚していました。たとえば十六世紀において、ロシアの政策はモスコーの大公、バジル三世〔その治世はイワン三世と四世の治世にはさまれている〕にあてられた修道者、ブスコスのテオフィルスの一通の公開状の有名な一節のなかに、注目すべき明確さと自信とをもって述べられています。
“『古きローマの教会』はその異端のために倒れた。『第二のローマ』なるコンスタンティノープルの門は神を信ぜぬトルコ人の斧によって、伐り倒された。しかし『モスコーの教会』、『新しいローマの教会』は太陽よりも輝かしく全宇宙に光被している。・・・・・二つの『ローマ』は倒れたが『第三のローマ』は厳然として立っている。第四の『ローマ』は存在しえない。”
かくのごとくことさらに、はっきりした自覚をもってビザンチウムの遺産を要求することにおいて、ロシア人はなによりも先に、西欧に対するビザンチウムの伝統的態度というものをそのまま引き取ったことになるのであります。そうしてこのことは、1917年の『革命』以前のみならず、その以後においても、ロシア人自身の西欧に対する態度に甚大な影響を与えているのであります。」
このトインビー博士の記述は、1947年のソヴィエト・ロシアの存在をもとにした考察です。そしてその時から75年を経過した現在、プーチン・ロシアの現在の行動の根本において同じように厳然と生きているように感じます。さらにトインビー博士は次のように続けています。
「今日のマルクス主義のマルクス主義のロシアにもなおいまだにその影響を失っていないように見えるビザンチウム以来のロシアの遺産について、われわれはもう少し立ち入って研究してみましょう。ビザンチウムの歴史の第一章をなす中世初期の小アジアとコンスタンティノープルにおけるギリシャ時代を回顧してみるとき、このわれわれの姉妹社会のいちじるしい特色は何でありましょう。(すでに述べたような)ビザンチウムがあらゆる場合に善玉だという確信と、全体主義国家の制定との二つの特色が他にもまして顕著であります。」
この後続いて、ローマ帝国のコンスタンチヌス帝による首都の遷都、ギリシャ語世界であるビザンチウムへの遷都、そしてコンスタンティノープルの成立等からはじまるキリスト教の東方への展開、いわゆる「ギリシャ人によるキリスト教・ローマ帝国」である東ローマ帝国、ビザンツ帝国の成立をたどりながら、西方の西欧世界に展開したキリスト教のイニシアティブのもと成立した、シャルルマーニュ・カール大帝のローマ帝国(トインビー博士は「幸運なる失敗」と表現していますが)後の西欧の状況。常に教会権力が世俗権力に対して優位にたつ、もしくは教会権力と世俗権力が楕円の二つの焦点のように緊張をもちながら関係しあう関係に論及されます。「幸運なる失敗」と表現されているのは、この「権威」と「権力」の緊張関係の中で、現在の『西欧キリスト教文明』の性格が形成され、近世以降のキリスト教の“世俗化”の中で近代合理主義に基づく啓蒙思想による“自由と民主主義”を大義名分とする西欧世界が形成されていきます。現在、“世界の覇者”としてその軍事力を背景に、全世界にその価値観に基づく体制を作り上げようとしているアメリカ合衆国がその先頭にいます(特に米国内の民主党が主導していますが、トランプ前大統領の“アメリカ第一主義”はその対極です)。
今回のロシアによるウクライナ侵攻は、1648年以来のウエストファリア体制。主権国家ベースでの国際秩序を大きく揺るがし、国家連合である国際連合による平和維持システムの破綻と言っても良い重要な歴史的事件であり、人類の未来に暗い影を落としています。さらにつけ加えて言えば、佐藤優氏が、今回のロシアによるウクライナ侵攻を読み解く上で、レーニンの「帝国主義」が重要であると指摘し、今回のウクライナにおける状況はロシア帝国主義とアメリカを中心とした西欧の国家群の“帝国主義”のウクライナにおける勢力圏の奪い合いとみるべきであるとしていることに大事な視点があるように感じます。
この現状をどう認識し未来への展望を切り開くか。トインビー博士は、この1947年の段階ですでに「歴史の研究」の前半部を「文明」中心の視点で書き上げ、出版されています。20世紀の現在、トインビー博士が設定するこの地球上に存在する文明は、まず西欧文明、つぎにイスラム文明、ロシア文明、インド文明、中国文明、そして日本文明、朝鮮文明、ベトナム文明です。それぞれの文明が、歴史的な変遷の中で培ってきた伝統をもつとともに、その文明の成立には必ず「宗教」があります。その「宗教」の“質”がその文明の性格と方向性を決めるというのもトインビー博士の重要な結論であり、この1947年以後発行された「歴史の研究」の後半部では「高等宗教」に視点が据えられることになります。そして、その結論をさらに深めていく過程で、トインビー博士自身のイニシアティブで実現したのが、日本の宗教指導者である創価学会の池田大作会長との対談であり、その内容が共著である「21世紀への対話」です。その実現からすでに50年の年月が経過しました。
この50年の間に、ソヴィエト連邦の崩壊、いわゆる冷戦の終結がありました。その事実を受けてフランシス・フクヤマ氏が著したのが「歴史の終わり」です。アメリカ型自由主義の勝利を記述したこの著作は当時、大きな話題になりました。また1996年にはハンチントンによる「文明の衝突」が発表されました。21世紀初頭の現在の状況を佐藤優氏は“新帝国主義”の時代と表現しましたが、この“帝国主義”を担う存在は、ほぼ現在の超大国、ハンチントンによる“文明”と重なります。アメリカ、EU(西欧諸国連合)、ロシア、インド、中国、朝鮮そして日本。この国々というよりも、諸文明の衝突、きしみ合いが、アメリカ・西欧諸国を一方の勢力として対中国、対ロシアの状況におい次第に形づくられようとしています。この21世紀の諸文明は、日本をのぞけば、いずれも「核兵器」を所有し、“文明の衝突”は最悪の想定として、全人類の滅亡を意味する世界最終戦争=核戦争につながる可能性があることは、現在、全人類の共通認識になっています。「核兵器」を所有しない唯一つの文明が『日本』です。「民族」「国家」がそのまま「文明」と重なる唯一の存在です。国家の交戦権を否定し、さらに防衛目的以外の軍隊を持たないと明確に規定した憲法を持つ国です。
今回のロシアのウクライナ侵攻によって、現在「日本」がかかえる問題が再び浮上して論議が始まろうとしています。現在、日本においては、憲法を改正して交戦権を規定し、軍隊をもつことを明白にして自らを守る体制を確立すべきであると主張する人々、国家主義的な主張をする人が次第に増加しつつあります。その中には、今回のウクライナのケースのように、アメリカ合衆国はいざという時にはあてにならない。結局、アメリカの「核の傘」といっても、日本有事の場合は機能しない。とくに、侵略の当事国が「核大国」の場合は、核戦争を恐れたアメリカは戦わない。したがって、日本も独自に核兵器の開発に乗り出すべきであるとまで主張する人もいます。その方向にゆくべきでしょうか?
しかし、少し思いをいたせば日本独自の核兵器所有論の論議は、大事な本質が抜けています。トインビー博士は日本の9条に特色を持つ日本国憲法について、この方向こそ人類が生き残る唯一の方向であり、“押しつけられた”憲法であるとの視点については、強く反論し、自らの1929年、1956年、1967年の訪日の際、日本人と直接語りあったなかで、この憲法はあの核兵器の洗礼をうけるまで徹底的に戦い敗北した日本人の正直な思いを正確に反映したものであると断言しています。世界の五つの文明の明確な一つであって、国家が文明と重なる日本。この日本の今後の立ち位置はあくまでも核兵器をもたずに、世界平和の方向へ世界をリードしていく重要な使命のある文明としてスタートするときが今到来したと強く感じてなりません。
日蓮仏法の実践者であった宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩は、読む人が読むと日蓮仏法の根本である法華経に登場する不軽菩薩の振る舞いであることがすぐにわかります。どんな人間にも平等に最高に尊貴な仏の生命がある。そのことに対する尊敬の思いを担業礼拝の実践にこめ、いくら迫害されようとめげずに賢く行動し、目的の成就まで不退転の行動を、あくまでも非暴力の実践の中でつらぬく。そのような日本文明=日本国であってほしい。私も強く願っております。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
現今進行中の、ロシア・ウクライナ戦争から、大きな話題につなぎましたが、これは単なる空理・空論ではありません。その解決の鍵をトインビー博士およびその博士が最後に使命を託した池田先生が率いる創価学会・SGIが握っていることを最後に記しておきます。
2022年5月25日