トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

実在との一体化 体験

トインビー博士の “実在との一体化” 体験 *J・フォークト「世界史の課題」における言及
*1895年ドイツ生まれ チューリンゲンおよびベルリン大学エドアート・マイヤーに学ぶ 執筆当時チューリンゲン大教授
 
p221 
第10巻(英語版)の自伝的な部分で、時折かれは、かれの夢想、幻想のことにふれている。なかでも、次の報告は私にとって意味深いものに思える。
第一次世界大戦終了後間もないある午後のことだった。当時ロンドンにいた私は、バッキンガム宮殿通りを、ヴィクトリア駅の西側の壁に沿って南に向かって歩いていた。・・・と、その時、私は自分が歴史の中のあれこれにではなく、現にある、過去にあった、そしてまた将来あるであろう一切のものに繋がっていることに気づいた。その瞬間私は、巨大な奔流となって私の身内を流れていく歴史の経過と、この幅広い流れの中に一つの波となって押し流されていく私自身の生の経過を同時に感じたのである』
私は歴史家のこのような告白を無価値なものとは思われない。またピエテル・ガイルの言うように、それによってトインビーが妄想の世界に生きる予言者としての性格をもつことになるとも思われない。
p222
・・・けれども、トインビーが歴史叙述(Historie)と歴史叙述を越えたもの(Metahistorie)を混同し人間の精神化の道程を救済史として理解する場合には、そこにはかれ生来の直覚が働いていることを認めざるを得ない。トインビーの歴史思想は世俗的な事件と霊魂の救済とを厳格に区別したアウグスティヌスの流れを汲むものでは決してない。むしろそこにはグノーシス派のキリスト教が想い合わされるであろう。
 
P139
On each of the six occasions just recorded, the writer had been rapt into a momentary communion with the actors in a particular historic event through the effect upon his imagination of a sudden arresting view of the scene in which this long-past action had taken place.
But there was another occasion on which he had been vouchsafed a larger and a stranger experience. In London in the southern section of the Buckingham Palace Road, walking southward along the pavement skirting the west wall of Victoria Station, the writer, once, one afternoon not long after the end of the First World Warーhe had failed to record the exact date had found himself in communion, not just with this or that episode in History, but with all that hail been, and was, and was to come. In that instant he was directly aware of the passage of History gently flowing through him in a mighty current, and of his own life welling like a wave in the flow of this vast tide. The experience lasted long enough for him to take visual note of the Edwardian red brick surface and white stone facings of the station wall gliding past him on his left, and to wonder half amazed and half amused—why this incongruously prosaic scene should have been the physical setting of a mental illumination. An instant later, the communion had ceased, and thedreamer was back again in the every-day cockney world which was 1 native social milieu and of which the Edwardian station wall was characteristic period piece.
A sense of personal communion with all men and women at all time and places, which outranges the gamut of an historian's prose, is articilate in a poem which was already familiar and dear to the writer of this Study at the time when that ineftable experience travelled through him.
 

完訳版「歴史の研究」22巻 p258
いずれにおいても、筆者は遠い昔に或る歴史的事件の起こった場所を見て突然想像力をかき立てられ、一瞬われを忘れてその事件の当事者との精神的交わりを経験したのである。
しかし、もっと大きな且つもっと不思議な経験が与えられた場合がもう一つあった。正確な日付は記録しておかなかったが・・・・
第一次世界大戦が終わってから間のない或る午後、ロンドンのバッキンガム宮殿通りの南の部分で、ヴィクトリア駅の西壁に沿った歩道を歩いていたときに、筆者は歴史の或る特定の事件だけではなく、かつてあったこと、現にあること、やがて起ころうとするすべてと交わっているという感じがしたことがある。その瞬間歴史の経過が巨大な流れになり彼を通り抜けて静かに流れていることを、そして、彼自身の生涯がその巨大な流れのなかの一つの波のように沸き上がってくるものであることをただちに悟った。その経験は相当長く続き、ヴィクトリア駅のエドワード朝風の赤煉瓦の外壁と白石の化粧仕上げが彼の左手を過ぎていくのを、半分は驚き、半分は楽しみながら、何故、この不似合いな散文的な場面が精神的啓示の物理的舞台装置になったのであろうといぶかるだけの時間があった。一瞬ののち、その交わりは終わり、夢想した筆者は再び日常のコックニーの世界に戻ったのであるが、そこが彼の生まれつきの社会環境であり、エドワード朝風の駅の壁面はその特有の時代的産物であった。
歴史家の散文の範囲を越えるあらゆる時と場所のあらゆる時と場所のあらゆる人との直接の交わりの意識は、あの言葉に言い表し難い経験が、本「研究」の筆者に起こった時に、すでに彼がよく知り大切にしていた一篇の詩のうちによく表現されている・・・・・
 
麗澤大学出版会版 p298
日本の禅は、明快な体系を示す。精神集中の訓練と修練、やがて思考の超越、しかるのち霊感の突発。だが、一般の日本人は、日本文化が西洋人に多くのものをもたらすことができるということをほとんど信じていない。
例。アーノルド・トインビー教授は、日本国内でも国外でも、しばしば日本人のインタビューをうけている。彼自身も悟りに匹敵する経験を有する。それは、かれの全生涯に影響し、「歴史の研究」の発想のもとにもなった。ほんの二、三秒続いたことが、彼の一生を完全に変えた。先ごろ私は、彼にこの経験についてきいてみた。するとトインビーは、それに先だって長い間歴史の意味を考えていたと言った。そして、この経験が彼に歴史の意味を啓示したばかりか、さらに、彼自身が歴史であるということを示した。
「ごく短い、宇宙との同一性の経験でした。それは、死に対する私の態度を大きく変えました。今では私は死が消滅ではなくて、私が経験した宇宙との同一性の復元となることを知っています」
私はトインビー教授に、その言葉は禅でいう「天地と我と同根。万物と我と一体」とほぼ同じだと言って、誰か日本人がそのことを指摘したことはないかと質問した。教授の言によれば、先ほどのような考えを文章にも書いているにもかかわれらず、日本では、訪問先の禅の研究会においてさえも、そのような問題提起はうけたことがないと言い、自分の考えが日本の禅の流れのなかでよく知られていることだということを聞いて実に興味深い、ともらした。なぜ日本人は誰も教授とそのことを論じ合わなかったのか。
これに関連して、トインビー教授のイギリス人同僚の一人が、専門研究書にそのような記述をしたのは歴史家としておかしいと批判した。すでに述べたように、この種のことがらは、現在のイギリスの知識人の風土にはなじまないのである。
 
 
「人間革命」第五巻 旧版p23
昭和26年 東京 神田
戸田はこの頃、天啓というより他にない、不思議な瞬間をもった。――二月初旬の厳寒の日である。風はなかったが、凍りつくような寒さが、吐く白い息にみられた。
日暮れに近い午後、戸田はひとり事務所を出て、すたすたと駅の方へ足を運んでいった。空は妙に明らんで明るく、冬にはめずらしい夕焼けである。吐く息は白いのに、彼はなぜか寒さを感じない。空はあくまでも、異様に明るく思われるのであった。まるで夏の夕空といってよい。
彼は、奇異な思いに駆られたのであろう。――空の遠くに眼を放った時、彼のの胸は急に大きな広がりをもったように、それがそのまま空へ空へと、みるみる広がっていくような想いがした。
その途端、燦爛たる世界がにわかに彼を包んだのである。彼の脚は、平静に地上を踏んでいて、なんの変化もなかったが、彼は見た。そして瞬間に思いだした。――あの牢獄で知った喜悦の瞬間を・・・・いままた彼は体験したのである。
彼の生命は、虚空に宇宙的な広がりをもち、無限の宇宙は、彼の胸の方寸におさまっていた。彼は心で唱題し、おさえがたい歓喜に身をふるわせて。生命の輝くばかりな充実感を自覚したまま、遍満する永遠の一瞬を苦もなく感得したのである。
彼は、ふと立ち止まり、あたりを見わたした時、灰色の街路と、侘しい家並みと、背を丸くして道ゆく人々が目についた。彼は、われに還ったものの、いま全生命に知った実感は消えることなく、彼の胸の底で燃焼していたのである。そして、一切の羈絆のことごとくが、洗い流されたように、彼の頭から消えていった。彼は口には出さなかったが、心でいくたびも繰り返していった。
「ありがたい。なんとありがたいことか!おれは厳然と守られている。おれの生涯は、第五本尊様をはなれては存在しないのだ」
黄昏に近い、あわただしい路上である。夜学に急ぐ学生たちが、後から後から群れをなして、彼とすれちがっていった。
 

トインビー史観とは何か

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トインビー史観とは何か
 
 
 
トインビー史観とは、20世紀最高の歴史家と呼ばれるイギリス生まれのA.J.トインビー博士の歴史観である。21世紀に入っても未だに評価が定まらず、特に〝専門的歴史家〟からは様々な誹謗中傷に近い扱いを受けており、1950年代から70年代にかけての世間一般のさまざまな人からの評判と人気と好対照をなす状況は未だに続いている。さらに最近は、全体としての人文系の学問に対する関心の減少、というよりも国立大学の人文系の学部の淘汰の方針等、日本においてもさらに無関心の状況は進展している。その中で、かつては日本の錚々たる文化人が集結し、市民レベルでのトインビー研究の拠点でもあった「トインビー市民の会」が解散し、その構成メンバーの中の有志の皆さんによって作られた「トインビー地球市民の会」も2015年には解散し、今やトインビー研究そのものが消え去るのではないかというような現実がある。
 
 しかし、一方では2020年からの文部科学省の学習指導要領改訂の方針の一つとして世界史必修はなくなるが、あらたな科目として高校段階での「歴史総合」が設定され、近現代史に焦点を合わせて今までの世界史と日本史を総合した視点で書かれる歴史教科が加えられることになっている。この現象を大きく時代相の変化の視点でとらえてみる時、大学入試での教科として用いられたことから始まった、いわゆる「暗記科目」としての歴史から、人間社会の本来的な「歴史」探究の動機「われわれはどこから来て、どこへ向かうのか」という根底的な疑問に対する回答としての「歴史」を要求する深い次元での要求が静かに進行していると思えてならない。特に今回の指導要領の改定は、日本の教育界での今までの知識注入型の教育体系を大きく変化させるために、大学入試という根源的な部分にも手をつけ、アクティブな「学び」を定着させようという強い問題意識が根底にあるだけに、今まで何度か、繰り返してきた「改革」「反動」というリズムを超克する可能性を十分にもっていると考えられる。さらに、航空機利用の利便性の大幅な向上、またインターネットに象徴される情報関連のテクノロジーの進化を基盤とした〝グローバル化〟の進行は、〝人類が一つの家族のように仲良く生活すること〟とのトインビー博士の「文明」の定義の方向への有力な推進要因でもあるが、その一方、世界192カ国・地域がそれぞれの主権を主張し、その中でも有力な国・地域がそれぞれの個別の利益を最大限に主張し、その利益追求のためには力の行使もよしとする〝新帝国主義〟の時代相も明確になりつつある。この状況は、トインビー博士が人類の歴史を「文明」を単位として研究した結果確認された、今までの人類の歴史が示している二者択一の方向性の一つであり、国家同士の争いから始まり、強大な国が最終的にノックアウト的に全ての国を支配する「世界帝国」への道である。「核兵器」が拡散し、世界で複数の国が保有している現代、「世界帝国」への道は人類滅亡への道である。偶発的な核戦争が相互の対抗的な核兵器の使用によって全面的な核戦争に拡大し、最終的に全人類の滅亡、地球上からの消滅という事態を招くという恐怖の未来図は、「核の冬」という衝撃的な予想をシナリオの根本にすえた、かつてのNHK特集「核戦争後の世界」で示され、衝撃の反応が広がった。ゴルバチョフソ連書記長の登場、ペレストロイカの進行の中で、「ソ連崩壊」「冷戦終了」をきっかけとする「デタント」のムードの中で、一時盛り上がった世界平和への期待も、「9.11」以後の展開の中で大幅に後退。逆に従来からの「大国」が国家意識高揚の手段として、自国の歴史の意識的再編成を図り、自国の教育現場で教科書として使用する。そのことによっていわゆる特定の歴史事象に対する解釈、見解の相違に起因する「歴史問題」が国家間の重要な外交課題として浮上する。東アジアでいえば日本と韓国との間の「慰安婦」「徴用工」問題、日本と中国とのあいだの「南京大虐殺」等の問題である。この意識の面での対立は、武力を表にした対立へと展開可能性を常にはらんでいる。日本と中国の間の尖閣列島をめぐる領有権の問題、南沙諸島に対する中国と周辺諸国との対立、東アジアにおいても火種はつねに存在し、進展している。
 
 
 
戦前の近衛内閣のブレーンとして、満州問題に直接関わっていた蝋山政道氏は、1929年の太平洋問題協議会の京都会議において、イギリス代表としての王立国際問題研究所(通称:チャタムハウス)の一員として来日したトインビー博士との出会いを経験した。その際の一言、「日本はカルタゴの運命を・・・」の意味を、現実の歴史の推移を通して深く実感し、トインビー史観の奥深さに感動し、占領軍の印刷統制があった時期に「歴史の研究」(サマヴィル縮刷版)の翻訳を自ら引き受け発刊する。その後、中央公論社の「世界の名著」シリーズの一巻として「歴史の研究」を出版する際にも編集の中心者として、出版に携わる。その経緯を中公版:世界の名著「歴史の研究」の解説の中に書いておられます。
 
 
 
p7 世界の名著「トインビー」の序文
 
アーノルド・ジョーゼフ・トインビーにわたくしが親しく接する機会をえたのは1929年(昭和4年)、たまたま、その年の秋に京都で開かれた第三回太平洋問題調査会国際会議の際であった。それがトインビーとわたくしの出会いであった。トインビーがはるばる極東の旅にやってきたのは、かれがその調査部長をつとめていた王立国際問題研究所が、太平洋問題調査会の英国評議会の中心であったためであり、彼も英国代表の一人として来日したのである。・・・・・・第三回太平洋問題会議が満州問題を主題として京都で開かれるにいたった理由は、その前回の会議・・1927年のホノルル会議・・で、議題になかった満州問題が会議の最中たまたまその後に柳条溝事件の前触れになった済南事件が起こったため、中国代表から緊急動議として提起されたことから始まる。しかし、本格的討議は結局二年後に開かれる京都会議の議題として行われることになった。このホノルル会議に偶然の関係からヨーロッパ留学の帰国の途中出席したわたくしは、この京都会議のために「満州における日本の地位」という報告を用意させられ、会議に参加した。この満州問題を討議する京都会議で、はじめてトインビーと出会ったのである。そのとき、トインビーはわたくしより年上だが、年齢はまだ四十で、それほどの年でもないのに、その当時すでに頭髪に霜をまじえていた。彼は、イギリス人としても比較的ことば少ないほうであって、社交のへたなわれわれに対して気取らない態度であたたかい親しさを示し、日本人のだれからも気持ちのよい印象がいだかれた。しかし、会議の席上ではあまり発言もせず、静かに沈黙を守っていた。おそらく、当時国際政治問題としての満州問題にたいしては、治外法権問題などとは違って英国代表は当時の英国政府の立場を反映して、比較的消極的な態度を示していた。ワシントン海軍条約以後、一般に、極東の政治情勢について比較的慎重な態度をとってきた英国の代表者としては、当然のことであったかもしれない。
 
ところで、トインビーの脳裡にうかんでいた当時の極東のイメージと、満州問題にたいする日本政府の政策や松岡洋右のような日本代表の言動にみられるそれとは、まったく性質の異なったものであった。彼がわれわれ日本人にもらしたことばは、日本は一つの歴史的な運命的岐路に立っているということであった。『満州問題にたいする日本の責任は大きい、それは日本の運命を決する』というトインビーの厳粛な一言である。それがどういう意味か、またどんな理由があるのか、彼の説明をきく余裕もなかった。わたくし自身、満州問題を研究して十年になっていたのに、そんな深刻さを感じもしなかった。しかし、その後の推移につれて、このトインビーとの出会いをその後の自分の境涯において不動のものにしたのは、この簡単な一言であったのである。
 
トインビーは、京都会議後二年もたたないうちに勃発した満州事変の直後、京都会議でわれわれに伝えたかんたんな一言の意味を解明するかのように、太平洋問題調査会の機関誌に、「次の戦争・・・ヨーロッパかアジアか」(1934年)という一文を発表した。これを読んでわたくしは、われわれとトインビーとのあいだに比較にならないほど思考力と想像力に相違があることに気がついた。それは現代史、いな歴史そのものの理解の尺度でもある。彼の眼中には、日本も中国もイギリスも、またアメリカもソビエト連邦も、孤立的には存在してはいなかった。彼の見ていたものは西欧文明であり、東洋文明であり、そしてその接触交渉であり、その帰結であった。その尺度はギリシャ・ローマの文明、いな全ての既存文明の生起興亡の理論であった。彼が満州問題にたいする日本の責任の重大性について語った背後には、日本にして一歩を誤らんか、そこをみまうものは、ローマ帝国と戦ったカルタゴの運命である、という洞察があった。日本はたんに中国と戦うのではなく、アメリカやソビエト連邦のような、二十世紀の産業的ローマ帝国と戦うことになるのであるという、世界文明の視野にたった歴史の教訓が彼の念頭に去来していたのである。
 
それ以後の歴史の進展は、トインビーの予言した方向に進む。柳条溝事件を契機とする満州事変の勃発、国際連盟からの脱退、日華事変への拡大、太平洋戦争への発展、そして最後に原子爆弾ソビエト連邦の参戦によってポツダム宣言の受諾、終戦となり、占領下におかれるにいたった。そのときはじめて、十六年前、われわれ日本人に対して、みずからの過誤によって不幸な運命を招かないように、警告を与えてくれたトインビーのことが思い出され、それ以来、わたくしにとって忘れがたいものとなった。
 
 
 
この文章の中で、蝋山氏が触れている「次の戦争・・・ヨーロッパかアジアか」という論文は、1934年、カナダで開催された英連邦会議でのトインビー博士の講演を元にしている。カナダやオーストラリアなど太平洋の周りにある英連邦国の意識、「潜在的大日本帝国の進出に対する危機感を持っているが、シーパワーの時代であり太平洋が障壁となって具体的な危険はないだろう」との楽観論に対する警告となっている。この文章の中で、トインビー博士は時代がシーパワーの時代から航空機の時代に入っていること、航空機の時代の戦争は世界のどこにいようと楽観できる国はない。空からの攻撃・侵略は常にあり得る時代に入っていることを警告的に述べられ、その後の第二次世界大戦、特に「太平洋戦争」として日本と連合国の間に現実化する戦争の推移をほぼ予言されている。また、蝋山氏が日本の運命を予言した言葉として感動している満州問題にたいする日本の責任は大きい、それは日本の運命を決する』『日本にして一歩を誤らんか、そこをみまうものは、ローマ帝国と戦ったカルタゴの運命である』
 
 
 
 
 
 
 
 トインビー博士の主著「歴史の研究」は、「理解可能な歴史の範囲」として「文明」を設定したところが、本質的に優れているところだと考えます。よくショペングラーの「西欧の没落」の亜流のように論ずる学者もいますが、トインビー博士の設定は人類の歴史の全範囲(地理的にも年代的にも)の客観的な知識(20世紀前半から1970年代までの歴史学の成果を網羅する)を基盤として論じられていると云う意味で比類がありません。歴史学者の批判に十分に耐える学問的基盤を踏まえております。いわゆる〝歴史学者〟のトインビー史学への批判の角度として、専門的な歴史研究の視点からの事実認識の誤りを根拠にした論議がありますが、実際に批判論文を詳細に読み込んでいくとトインビー博士の論証の深さに批判者自身の事実認識が及んでいないことが原因であることが多いと思います。トインビー博士自身が批判論文を詳細に読み解き、必要なところは事実をもって反論し、或る場合には批判の正当性を認め自説を変更することに躊躇しないなど誠実に取り組んだ結果が、1960年代、ご自身の70歳代前半に取りくんだ「再考察」ですが、読み解くたびに学問の世界に対する誠実さと、学識の深さを感じ、襟を正さずにはおられません。
 
 また当時の世界の覇者としての大英帝国の最高学府であるオックスフォード大学での最優秀生としての経歴も大きな意味を持ってくると思います。現在の世界情勢の分析の最高の権威として、キッシンジャーやハンティントン等に代表される米国のハーバード大学の出身者の発言が重視されるのは、本人達の見識は勿論ですが、現実の世界政治を動かしている米国の政治の中枢に常に係わっている環境がもつ力もあると思います。全く同じことがトインビー博士にも言えると思います。20世紀に入って急速に一体化する世界の動きの中枢を担う「覇権国」の中枢にいることが持っている意義は本当に大きなものがあると感じます。トインビー博士は、「歴史の研究」の執筆と平行して1920年代から1950年代にかけて「国際問題概観」を毎年、執筆されていますが、「二つのS・・・平行して推進した、Studyの「S」とSurveyの「S」がなければ両方とも不可能であったろう」と述べておられる通り、トインビー博士にとって変化する国際情勢を敏感に観ずることができる環境にいたことは、歴史の研究にとって大きな意義を持っていたと感じます。象徴的な事象を挙げてみますと、トインビー博士は第一次、第二次世界大戦の講和会議であるパリでの会議にイギリス代表団の一員として参加されています。また戦前の日本の運命を大きく方向づけることになった満州事変に関する「リットン調査団」の調査結果は、イギリスにおいてはまず「チャタムハウス」で発表されています。
 
 現実の事態の推移を、歴史の事象と関連づけて見ていくことは、トインビー史観の骨髄とも云うべき方法論です。トインビー博士はよく「哲学的同時代性」(philosophical contemporary)という言葉で、このことを表現されています。トインビー史学においては、文明という単位で世界史の中の事象を見つめ、全人類史を通して21から23の「文明」を設定し、その比較・対称を基本的な方法論として「歴史の研究」を進めていきます。現在の世界において、その優勢に陰りが見えてきていますが、20世紀初頭の世界で圧倒的優勢を誇っていた「西欧文明」。本来「文明」(civilization)とは、慣用されてきた原義をたどれば、比類のない高さに達したと自負していた近代の西欧人の意識を反映した言葉であり、「文明」と「野蛮」という対句で論じられる言葉であったようです。その「文明」という語にあたる内実を、全世界、全時代の人類の歴史のなかに求めていく。そのこと自体が、現在にまで影響を引きずっている「白人優越主義」「アーリア民族優越主義」などの根拠のない優越意識に対する根底的な視点からの否定であり、全人類を平等にみるトインビー博士の意識が反映していると思います。
 
 また今回の「カルタゴの運命」というキーワードは、その後の現実の歴史の進行を見事に象徴する言葉であり、その後の日本の歴史をたどってみれば、満州事変、日中戦争アメリカとの太平洋戦争と続き、最終的にはアメリカを中心とする全世界(連合国=United Nations=“国連”)との戦争に、引きずり込まれる日本の歴史の経緯に重なります。第一次ポエニ戦争では、地中海西部のシチリア島をめぐる経済的な利害の対立を中心とする戦争であったものが、第二次ポエニ戦争では稀代の戦術的な天才、カルタゴハンニバルとの消耗戦にと発展し、ローマが辛うじて勝利したとはいえ、イタリア半島が戦場化し、自営農民を基盤とする従来のローマ市民の協同体は根底から破壊されます。その結果、ローマは必要以上にカルタゴを恐怖し、敵視し、ローマは遂に命乞いをする無力化したカルタゴを残酷な手段で地上から抹殺してしまいます。この史実の経緯は、特に1944年11月からの日米戦争、特に日本の都市部にたいする「戦略爆撃」また1945年の8月の広島、長崎への原子爆弾の投下は、ほとんど抵抗する力を失った日本の非戦闘員に対するホロコーストとも言える非人道的行為であり、その本質においては第三次ポエニ戦争でのローマの振る舞いと通底しています。第二次大戦後の連合国占領下のいわゆる「おしつけ憲法」の核心、現在の日本国憲法の第九条は、歴史的な比較を試みれば、徹底した非軍事化をカルタゴに強制したローマの「恐怖心」に匹敵する心情をアメリカがもっていたからという類推が成り立つと思います。
 
 さらに敷衍して云えば、「カルタゴの運命」という言葉は、実はトインビー史観の根幹部分を象徴する言葉でもあります。1934年の論文で最後に触れられているのは、実は勝利者としてのローマのたどった歴史を、1934年の時点でトインビー博士が来たるべき世界戦争(第二次世界大戦)の勝利者として判断しているアメリカの運命と重ねておられます。ローマはポエニ戦争の勝利後、地中海全域の制海権を握り、征服戦争の連続の中で、社会の構造の変化と連動して政治の仕組みが変質し、富と権力が極端に偏在することになり、強力な軍隊の力を背景とする独裁政治、いわゆる「帝政」が成立します。その結果、ローマは地中海を「我らの海」とする地中海周辺の全陸上を支配する国家として「帝国」化し、帝国内にはごく一握りの支配階級と、戦争の影響を直接・間接に受けて没落した自営農民、征服された他民族からなる属州民、戦争捕虜等からなる奴隷など、トインビー博士の定義する「内的プロレタリアート」、無権利で貧困に苦しむ人々が圧倒的多数を占める社会が成立します。第二次世界大戦後のアメリカ合衆国の全世界におけるプレゼンス、特に「冷戦」期における太平洋周辺での振る舞いは、朝鮮戦争ベトナム戦争をあげるまでもなく、まさにこの論文で予見している通りに進行してきたと思います。
 
 
 
トインビー博士の歴史観は、ここから本領を発揮していきます。『歴史の研究』と並ぶ、と言うよりも、トインビー博士が歴史研究の専門家として本格的な学術論文として執筆された『ハンニバルの遺産』のテーマは、勝利者であるローマ社会の中に、勝利者であることによって、どのような変化が生まれてきたかを、社会の構造、経済活動、宗教思想等、さまざまな視点で複眼的に論じたものであり、中でも「内的プロレタリアート」の中から高等宗教たるキリスト教が生まれてくる淵源をたどっていきます。それでは、「高等宗教」とはどのような宗教なのか?
 
 
 
再考察22巻 p570
 
高等宗教という言葉によって、個々の人間がたまたま加わっている特定の社会の媒介を通して彼らを絶対的な精神的実在と間接的に交わらせたに過ぎない古い形の宗教とは違って、人間を個々の人間として絶対的な精神的実在と直接的に交わらせるために作り出された宗教を私は意味している。これらの古い形の宗教は、或る特定の社会の文化の不可分の一部である。他方、高等宗教は、それが発生した特定の文化の結合構造から、或るものは部分的に、そして或るものは完全に脱けだしている。それはそれが袂を別った世俗的文化体系と、緊張した状態にある別個の明確な宗教的文化体系になった。こうして高等宗教の出現は、「宗教的」と「世俗的」、「精神的」と「現世的」、「神聖さ」と「不敬」の間に、これまで知られなかった区別を作り出した。
 
 
 
再考察21巻 p183
 
高等宗教は世俗的な社会的文化的束縛から自らを自由にするために絶えず努力しなければならない。高等宗教の本当の使命を果たすために、これは不可欠の条件だからである。この使命は人間相互の社会的文化的関係に直接の関心を払うことではない。その関心事は、個々の人間と超人間的精神的存在との関係であって、この存在について高等宗教は新しい直感を提供するのである。この直感を幻覚と考えてもよいし、実在に関する啓示もしくは発見と信じてもよい。現象についてのこの二つの解釈のどちらを選ぶかということは、われわれの基本的な前提によって決定され、またそれと相対的なものである。しかしどちらの解釈を取ろうと、現象についての四つの命題を受け入れることについてはわれわれの意見は多分一致するであろう。確かに議論の余地のないこの命題の第一は、高等宗教の信者は自分たちの宗教的経験が錯覚ではないと確信していることである。第二は、この確信が正しくても正しくなくても、それは山を動かす信念を彼らに与えることである。第三の命題は、高等宗教の信者たちが行った行為と彼らが作り上げた制度は、この種の宗教が初めて舞台に登場して以来、人間事象のパノラマの中で大きな地位を占めていることである。第四の命題は・・・・・・本章に於いて多少納得がいくように論証されていると私は思うが・・・・・・人間事象の研究に於いて高等宗教はただ特定の文明の産物もしくは部分として扱うのでは理解可能にはならないということである。高等宗教は少なくとも文明や文明以前の社会と同列に、そしてそれ以外のものの観点に従わせることのできない第一次的現象として扱う必要があるのである。
 
 合理主義的な人間事象の研究者は、この第四の命題を含めて以上四つの命題を受け入れても、彼らの哲学的立場を危うくしたり、彼らの確信に対して不忠実になることはないと私は信じる。しかしこのことを受け入れるとしても、高等宗教の源である確証不能な経験が真の洞察であるかないかという問題はやはり残るのである。現在では、この問いに対するわれわれの異なる答えを一致させることはできない。これはわれわれの力に余ることである。何故なら、このような様々の答えは、実在に関するわれわれの基本的な前提におけるまだ解消されていない対立と関係があるからである。
 
 実際、合理主義者と「超合理主義者」の間だけでなく、「超合理主義者」の陣営内部にも意見の相違があるのである。「超合理主義者」の間のこのような内輪の意見の相違は、私の見るところで家庭内の喧嘩である。そこから起こる見解の相違は顕著であるが、この相違を解消することができないとは私は思わない。何故ならそのような相違が基本的であるとは私は思わないからである。しかし勿論、まさしくこれこそ、歴史的な高等宗教の正統的な信者と元信者・・・・・・人間は宇宙における最高の精神的存在ではないと再び信じるようになったが、伝統的な形のこの信念に戻ったわけではない人々。*1 ・・・・・の間の論争点なのである。現在私はそのような不可知論的超合理主義者の一人であるが、これらの人々は現代の世界ではおそらく合理主義者よりも数が少ないであろう。「未来の主潮」になるのはこの二つの少数者のうちのどちらかであるのか、それとも膨大な数の正統派の人々*3なのか、或いは、まだ地平線上に姿を見せていない他の派の人々であるのか、現在のところわれわれには判らないのである。
 
 
 
*1 p143~5参照 ・・・私自身は、嘗ては信じる者であり、その後まず無条件の合理主義に改宗し、次で二つの留保条件を持つ「超合理主義的」見地に改宗した。(p144の内容で二つの留保条件を詳述。山本外吉論文においても引用がある。ヴェロニカ夫人による「一歴史家の宗教観」第二版の序文にも詳述)
 
*2 ウォーカー師とストレイチー(未完の批判)は、絶対的な意味における実在についての真理を語る知識の神による「放出」としての啓示の伝統的な見解を私が持っていないと判断しているが、それは正しい。したがって、私は「不可知論的」であるというのである。仏陀が自分の精神の努力によって悟りを開いたことは、ムハンマッドが大天使ガブリエルによって伝えられた神の教えによって悟りを開いたのど同じくらい確実であったと私は信じる。もし悟りを開くのが神によるものであるなら、それは或る一つの意味に於いてそうなのだと私は信じる。そしてこの意味においては、他のすべてのわれわれの経験に神的というこの形容詞を当てはめても同様に正しいのである。
 
*3 歴史的な高等宗教の正統的信者は、世界全体としてはまだ圧倒的多数を占めているが、西欧では多数であるとはいえ、圧倒的多数ではない。そして西欧の知識階級の間だけでは少数者であろう。
 
     
 
The higher religions are bound always to strive to keep themselves disengaged from secular social and cultural trammels because this is an indispensable condition for the fulfilment of their true mission.1 his mission is not concerned directly with human beings' social or cultural relations with each other: its concern is the relation between each individual human being and the trans-human spiritual presence, of which the higher religions offer a new vision. We may believe that this vision is an hallucination or we may believe that it is a revelation or dis­covery of Reality; our choice between these two interpretations of the phenomena will be determined by, and relative to, our fundamental presuppositions. But, whichever interpretation we adopt, we can per­haps agree upon accepting four propositions about the phenomena themselves. The first of these surely uncontroversial propositions is that the believers in the higher religions are convinced that their religious experience is not illusory. The second is that this conviction, whether justified or not, has given them the faith to move mountains. The third proposition is that the deeds which the adherents of the higher religions have done, and the institutions which they have built up, loom large in the panorama of human affairs since the date when religions of this kind first appeared on the scene.1 The fourth proposition—which has, I hope, been demonstrated more or less convincingly in this chapter一 is that, in a study of human affairs, the higher religions cannot be dealt with intelligibly simply as products or parts of particular civilizations.
 
do not necessarily coincide with those on the other. A politically ‘free’ church may become the preserve of a privileged class, and may even become an instrument for protecting and promoting this class,s worldly interests. The 'free,Protestant churches in the English-speaking countries and the Roman Catholic Church in France have, in our time, become, to some extent, the preserves and instruments of the Western middle class. Conversely, an 'established’ church may be a seed-bed, not only for worldliness, but for spirituality. In England, since the Reformation, spiritual prowess, insight, and leadership have not been confined to adherents of the 'free' churches.
 
 
 
They require to be dealt with, at least on a par with civilizations and with pre-civilizational societies, as primary phenomena that cannot be reduced to terms of anything other than themselves.
 
A rationalist-minded student of human affairs can, I believe, accept these propositions, including the fourth of them, without compromising his philosophical position or being untrue to his convictions. Acceptance still leaves open the question whether the unverifiable experiences, from which the higher religions have sprung, are or are not true insights. At the present day we cannot bring our conflicting answers to this question into agreement. This is beyond our power, because these various answers are relative to a still unreconciled difference in our fundamental pre­suppositions about Reality.
 
Indeed, there is disagreement not only between rationalists and ‘trans-rationalists’,but also inside the 1 trans-rationalist' camp. This domestic disagreement among 'trans-rationalists', is, as I see it, a family quarrel. The differences of view from which it arises are con­spicuous, but I do not believe that they are irreconcilable, because I do not believe that they are fundamental. But this, of course, is precisely the point of contention between orthodox adherents of the historic higher religions and ex-believers who have come again to believe that Man is not the highest spiritual presence in the Universe, yet have not returned to this belief in any of its traditional forms.1 Such agnostic2 ctrans-rationalists', of whom I am now one, are perhaps even fewer in number than the rationalists in the present-day world. At present we cannot tell whether one or other of these two present minorities, or the huge present orthodox majority,3 or some other sect, as yet not visible above irizon. is ‘the wave of the future,.
 
 
 
 
 
トインビー博士の史観は第二次世界大戦後、「高等宗教史観」に変化したと言われます。その転換についてトインビー博士自身は「再考察」の中で、次のように述べておられます。
 
 
 
 再考察21巻 p54~p56
 
一つの現象を説明するための第一歩は、その前後関係を発見することである。「意味の探求は、総合を免れることはできない。より広い文脈のなかに置いて、初めて或ることの意味が理解できるからである。(Cohen, op. cit., p.33.)」一つの事実は、他の事実と関係づけられるか、或いはより大きな体系の一部とならない限り、確証もしくは理解し得るものにはならない。(Ibid.)」この点を私自身の著作から敢えて例証するならば、「歴史の研究」第一巻~第十巻は、それだけを取り上げてのでは理解することのできないより狭い分野のための枠組みとして、「理解可能な研究の分野」を見いだそうとする二つの企てを軸にしていると言いたい。探求の出発点は、多かれ少なかれ自足的な歴史研究の分野 ー現代の西欧の歴史家が通常研究の単位としている国家がその部分となるような研究分野を探求することであった。このような国家的単位は不十分であると私は感じていた。何故なら、それは私には自足的ではないように思われたからである。そして自足的でないということは、それが何かもっと大きなものの断片であるに違いないということを意味するであろう。私はこのより大きな研究単位を、私が「文明」と名付けた社会の種のなかに見いだした。文明は、その発生、成長、挫折を研究している限りでは、理解可能な研究単位であるように私には思われた。しかしその解体を研究する段になると、この段階では、文明の歴史は ー近代西欧世界の一部分である国家の歴史と同様にそれだけを切り離してのでは理解可能ではないということが判った。解体しつつある文明は、他の一つ或いはそれ以上の文明と密接な関係を結びがちであった。そして文明間のこのような出会いは、もう一つの種の世界、すなわち高等宗教を生んだ。探求の初めに私は高等宗教を民族国家とかその他の地方国家の変種と同様に、文明の観点から説明しようとしていた。諸文明の歴史の概観の最後の段階に於いて、私はこのような高等宗教の見方は結局それを十分に説明するものではないと確信するようになった。なるほど高等宗教は、解体期の文明が変容して、そこから若い世代の新しい文明が出現する「蛹(さなぎ)」の役を果たした。また、なるほどこれは諸文明の歴史に於いて高等宗教が果たした役割であった。しかし、高等宗教自体の歴史のなかでは、この役割は付随的な役割であっただけでなく、それはそれ自身の使命を果たすという本来の仕事から高等宗教を逸脱させる傾向があるという意味に於いて、実際困った偶然であることが判った。私が、国家以外の種と他の大きさ単位のために十分な前後関係を提供する、したがって十分な説明を提供する・・・たとえば文明の説明の・・・理解可能な研究の分野の探究を続けなければならないとするならば、私は今や、これまでの作業計画を逆にすべきではないだろうかと自問しなければならなかった。一つの種の社会が、他の種の社会によって説明することができるなら、第一代と第二代の文明は、高等宗教勃興の予備段階として説明されるべきではないのか。私は探究の課程において、歴史研究の「理解可能な分野」が何であるかということについてこのように考え直したのであるが、この再考察は私に新しい出発点を与えた。そして説明の仕方を変える必要によって要求される見方の変化は、根本的な変化であった。クリストファー・ドーソンはこの変化を循環的方式から漸進的方式への変化と定義したが、それは正しい。実際この変化は非常に根本的だったので、多くの批評家はそれに驚き、一部の人々は、私は諸文明に関する私の最初の比較研究をここでやめて、宗教の見地から見た人間の歴史の意味に対する新しい探究を始めるべきであったと示唆した。
 
p27
 
・・・demanded by the necessity for a change explanation, was a radical one.  Christpher Dawson is right in defining it as a change from a cyclical system to a progressive system.・・・
 
 
 
「文明」と「高等宗教」の位置が逆転します。現『「文明」と「文明」との衝突の結果、敗北した文明の内的プロレタリアートの中から、全人類に普遍される高等宗教が生まれる』このテーゼがあてはまる歴史上の例として、ローマが破ったカルタゴのケースを取り上げることができるであろうか? この例証の前提条件として、まず「ヘレニック文明」とは何か。その代表としてローマ帝国を挙げることができるのか?また「シリアック文明」とは何か。その代表としてカルタゴを挙げることができるのか?という根本的課題を明らかにしていかなければなりません。この「ヘレニック文明」「シリアック文明」というトインビー博士の設定は、欧米の専門的学者が強く批判してきた部分であります。いわばトインビー批判の最重要論点であります。まず「ヘレニック文明」については、トインビー博士は20世紀前半の古典古代研究の最高権威とされているエデゥアルト・マイヤーへの感謝という形で次のように述べています。
 
 
 
完訳版「歴史の研究」p433~434
 
エデゥアルト・マイヤーは、彼の論文「古代史のあゆみ‥ヘラスとローマ」Der Gang der Alten Geschichte: Hellas und Rom'において、「ギリシャとローマ」の歴史が一つであること、そしてこの一つの歴史は、それ自体の「暗黒時代」、「中世」、および「近代」をもった、それだけで完全な全体であることを示すことによって、私が、歴史を「古代」、「中世」、「近代」の三幕から成る劇として示す、19世紀西欧の慣習的な提示法から離脱するのを助けてくれた。エデゥアルト・マイヤーが私に与えてくれた、このギリシャ・ローマの歴史一体観は私に、この一つの歴史を持つ社会を表す統一的な名称を求めさせた。私はそれを「ヘレニック文明」と呼ぶことにしたのであるが、いったん一つの文明が確認されると、他の二十の同じ種の社会が、私の歴史的視野のなかで次々に焦点を結んだ。
 
 
 
しかし、ギリシャとローマ、言語でみても同じインド=ヨーロッパ語族に属してはいるがギリシャ語、ラテン語という明確な違いのある言語を使用し、歴史的意味において文化芸術に優れているギリシャと、コロッセウムに代表される建築方面の才能、ローマ法に代表される法律、統治組織に才能を発揮したとされるローマを、同じ「ヘレニック文明」の中にまとめることができるのかという批判は強く、トインビー博士は「再考察」のなかでもしっかりとその批判点を取り上げ、反論しています。
 
 
 
 
 
 
 
その史実の「哲学的同時代性」を読み込むことができるは、「西欧文明」と「日本文明」の衝突としての「太平洋戦争」
 
「西欧文明」を代表するアメリカに敗北した「日本文明」である。その「日本文明」から現れてくる「高等宗教」とは何か?
 
 
 
1956年、「歴史の研究」完成後の実地見聞を目的としたトインビー博士夫妻の世界旅行
 
イギリス帰着後、出版された紀行文「東から西へ」の中で、日本について三つの論究。
 
・敗戦の最大の意義を、明治維新以後の日本において精神的支柱とし人工的に作成された「国家神道」への信仰の崩壊ととらえる。。
 
・「国家神道」への信仰の崩壊 によって生まれた日本人の「心の空白」。
 
・戦後の日本人の「心の空白」を埋めるのはどの宗教か? 既成仏教、キリスト教新興宗教の状況に関する考察と未来への展望
 
 
 
P109 『東から西へ』
 
「そしてその倒れ方はひどかった(マタイ福音書、第7章27節)」敗戦後11年の日本を訪れた西欧人の旅行者の耳に、この聖書の言葉が鳴り響く。訪問者の気づくこの国をひっくり返した大事件は、日本帝国の倒壊でも、広島と長崎の上空における原子爆弾の爆発でもない。これらの事件もまた、歴史的なできごとであったには相違ない。日本帝国は、倒壊する前には、中国、フィリピン、インドシナ、マラヤ、ビルマの各地に進出していた。日本に二個の原子爆弾が投下されたことによって、戦争という制度と人類の運命の歴史に新たな局面が開かれた。しかし、そのほかになお、1945年に日本において倒れたものがあった。そして、それは明治時代の日本精神であった。これがいまなお日本のいたるところに反響を呼び起こしつつある倒壊である。長崎は再建され、1956年のいま、もし知らなかったならば、1945年にそこに何が起こったか、想像もつかないくらいである。しかし、日本人の戦前の思想的世界の崩壊は、いまなお空白のままになっている精神的真空状態を後に残した。いやでもその存在に気づかないわけにゆかず、また、それがやがて何によって満たされるのか、考えてみないわけにゆかない。それが満たされることは間違いがないように思われる。
 
自然は物理的真空だけでなしに、精神的真空をも忌み嫌うものであるからして。・・・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
百年前に日本の指導者がかれらの先輩の鎖国政策を棄て、近代西欧文明の実用面を全面的に取り入れることを決意したとき、かれらはかれらの伝統的な精神生活を放棄するつもりはなかった。では、つぎつぎに層をなして堆積している異教(神道)と仏教と儒教をどう処理すればよいか。かれらは儒教の倫理と神道の儀式とを融合して、天皇崇拝を信仰の中心とする、かなり人為的な新たな混合宗教を作り上げた。日本は〝神国〟であり、外敵に侵されることがなく、やがていつか世界を支配する運命を担っている、という昔のおとぎ話に、公認の教義の地位が与えられた。この想像上の日本の国家的運命の崇拝は、1930年代の日本の軍国主義者たちの気分にぴったり合い、真珠湾攻撃後最初の1,2年のあいだは、これらの政治的おとぎ話のもっとも突飛なものまで、実現されそうに思われた。だからして、完全な敗北という結果に終わった戦況の逆転は、日本人に、現存のいかなる国民も受けたことのない大きなショックを与えた。伝説が事実によって否定された。日本の武装せる強き人は、かれよりも強い人間を挑発し、その前に屈服した。天皇はみづから国民に、神でないと宣言した。ほんの二、三日のうちに、思想的世界全体が霧散してしまった。どのような新たな世界観がそれに代わるべきか。これが日本人が今日なお取り組んでいる精神的問題なのである。
 
 
 
p113『東から西へ』
 
戦後の日本はいろいろな理由で興味のある国である。一つの理由は、戦後の世界の主要な問題のいくつかが、特に鋭い形で日本を悩ましており、それらの問題の内的本質を明るみにさらけ出しているという点にある。世界全体が今日、祖先伝来の宗教的伝統との接触を失った結果として、精神的窮乏の中に置かれている。日本は、この世界的な疾病の苦悩を特に強く嘗めている。日本の三つの伝統的信仰ー神道、仏教、儒教の三つーは、いずれも日本人の思想と感情をとらえる力を失ったように見える。
 
 神道は、豊作祈願として発足し、のちに天皇一身のうちに具現されている日本国家に対する政治的忠誠の、いわば政治的セメントの役を果たすように利用された原始宗教である。ギリシャ・ラテンの古典の教育を受けた西欧人には、この神道の両面は二つともおなじみのものである。日本の農村の農耕宗教の正確な描写を、聖アウグスティヌスの、ローマ宗教のそれに対応する層に関する有名な記述のうちに見いだすことができる。1945年に完全な崩壊を見た日本国崇拝は、原始キリスト教会の殉教者たちが拒否した、女神ローマと神格化されたカイサルの崇拝とほとんど同じものである。・・・・・政治的形態の神道は、すでにはるかにひどく信用を落としてしまっている。それは、1945年に日本を破局に導いた政治体制と結びついていた。だが、かりに日本国民の上にこの不幸をもたらさなかったとしても、政治的神道は存続することが困難であっただろう。その神話は近代科学精神と相容れない。日本が近代科学精神を受け入れた以上、結局はその政治的観念と理想とを、いつまでも古めかしい隔室に入れておくことができなくなったであろう。・・・・・・・・・・・・・・
 
政治的神道の没落は儒教に累を及ぼした。なぜなら、政治的神道は、その倫理面においては、事実上、日本的衣装をまとった儒教にほかならなかったからである。儒教は、家族の中の年長者、とりわけ家長としての父親と、国家によって代表される大きな家族の長として天皇に対する、絶対の、疑いをさしはさまない義務の意識を教え込む。1945年に突如不幸な終末を告げた、あの日本歴史の一時期中、政治的神道に応用された儒教の倫理基準は、個人に対して犠牲を要求した。事実によって、犠牲が無駄であり、イデオロギーがおとぎ話であったことが証明させたときに、一千年の日本の歴史においてはじめて、個人がその人権を主張するようになった。かれは自分のために生命と幸福を要求するようになったのである。・・・・・・・・・日本の家長も日本の国家の首長も、二度とふたたび半神としてうやまわれることはあるまい。将来の日本の家族は、因習的な義務のおきてによってではなく、自然の愛情によって結束が保たれるであろう。一家の中心になるのは、父親ではなくて母親であろう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
日本における仏教の前途はもっと明るいと思われるかも知れない。仏教は、キリスト教と違って、近代科学の見地と十分そりを合わせることのできる、合理的哲学である。・・・・・日本は1400年ものあいだ部分的に仏教国であった(これは、イギリスがキリスト教国になって以来の期間よりやや長い)。日本の家族はすべて、表向きは日本に無数にある仏教寺院のどれか一つに属している。一方、仏教は、1868年の明治維新後に神道が一新されたとき、公的には政治的神道と縁を断った。そのために、仏教は、1945年の明治的イデオロギーの没落には直接まきこまれなかった。仏教こそ、神道の神話と儒教倫理の崩壊によって生じた、精神的真空を埋めることができるのではないか。意外なことに、禅宗の精神修養に従うごく少数の人々を除き、仏教は今日の日本において重きをなしていない。・・・・今日の日本人の生活のなかでの仏教の実用的役割は、仏式葬儀を執り行って人をこの世から送り出すことである。・・・・・今日の日本において仏教は、日本国民が飢え求めている精神的かてを提供していない。・・・・・
 
日本人の精神的飢餓は、多数の新興宗教の出現によって示されている。新興宗教は600もあると言われ、日本は富裕な国でないにもかかわらず、それらは財政的にうまくいっているようである。一番数が多く熱心な支持者は中産階級の婦人であり、またそれらの教派の多くは婦人を教祖にしている。・・・・・(天理教の教義におけるキリスト教の影響にふれて)・・・・・それでは、現在生まれ出ようとして悪戦苦闘している新しい日本における、キリスト教そのものの前途はどうか。日本のキリスト教徒は今日、枢要な地位を占めている。しかし、言うまでもなく、かれらはごく少数であるにすぎず、今後も大規模な改宗が行われる見込みはないように思われる。にもかかわらず、キリスト教の精神が日本人の生活の中に浸透していき、徐々に伝統的な仏教の影響力に取って代わり、あるいは変化させはじめているように見える。心の意識的な表面では、現在の苦痛に満ちた模索はまだまだ続くかも知れない。しかし、もっと下の方の潜在意識のレベルでは、日本人はすでに生命のかてを見いだしつつあるのかも知れない。
 
 
 
(池田先生が、小説人間革命第一巻に書かれた国家神道) 
 
折も折、1945年(昭和20年)12月15日 GHQ(連合軍総司令部)は「神道を国家より分離する」との指令を発した。これで、伊勢神宮も、靖国神社も、国家の保護を断たれ、私的な一宗教団体にすぎなくなった。日本国民の大半が考えもしなかったことに、GHQは手を打ったのである、GHQは、この神道の問題、すなわち国家神道が、明治以来、日本の政治体制の根本原理となっていた事実を突き止めていたからである。これが、今後の日本の民主化にあって、最大の障壁となると見ていたのだ。物事は、常にその本質を論じ、見極めることが大事である。GHQは、よく本質を見極めていたといえる。神道を国家から分離する指令が発表されるや、神官や神道の信奉者たちは、大きなショックを受けた。だが、一般の民衆は、それほどの衝撃は受けなかった。ただ、戸田城聖一人が、敗戦の悲哀を超えて、なおかつ、わが意を得た快事であると喜んだ。彼は、日本の国が敗戦の道を突き進んでいった足跡を一つ一つたどってみた。そして神道が、明治初年の王政復古に際して、国家建設の礎石として利用されたことを、はっきりと再確認した。
 
 明治政権は、天皇の名のもとに国家統治を進めるうえで、「神」をもち出した。天皇を神格化することが、最良の方法と考えたわけである。そのために、千年以上も昔に編纂された『古事記』『日本書紀』等の神話が、その権威づけの根拠として使われた。「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治せ。行矣、宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」『日本書紀』に記された天照大神の神勅の一つである。後に学校教科書などでも、多く引用された一節である。天皇は神の子孫だというのだ。日本は、天照大神の子孫が王になって、永遠に治めるべき地だとしているのである。天皇による国家統治の原理として、これ以上の武器はない。これらの神話には、もともとは、古代国家のはつらつたる息吹が込められていたかもしれない。しかし、それが、そのまま近代国家で天皇を絶対とする、国家統治の根拠として使われた時に、既に挫折への第一歩は始まったといってよい。政府は、神道と称するわが国古来の原始宗教を、祭政一致の古代社会にならって、新国家のなかに取り入れていった。全国の神社は、天照大神を頂点として、そこに祭られた神が、天皇に近いか遠いかで、それぞれ格付けされ、国家管理のもとに置かれた。先祖を神として祭る神道を使って、天照大神の子孫ということになっている天皇を、国民が崇めていくようにしたのである。
 
 一方、1889年(明治22年)に発布された明治憲法では、天照大神の神勅を根拠にして、天皇の宗教的権威を、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と、第三条で明確に条文化した。天皇を絶対化し、国家統治の権力の一切を天皇に帰することによって、国家の統一、安泰を図ろうとしたのである。こうして、天皇という一人の人格において、政治と宗教は完全に一致してしまった。この天皇崇拝は、やがて、天皇そのものを現人神とする「宗教」になっていくのである。
 
 
この「人間革命第一巻」は、池田先生が昭和39年の連載開始から間もない時期、1964年から数年以内に書かれたものであり、この内容は戸田先生が常日頃「太平洋戦争は、日本の神道が、アメリカのプラグマティズムに破れた」と語っておられたこととも一致します。この視点は歴史研究における「思想、イデオロギー、宗教」の持つ意義を根底から変更するものであり、トインビー博士が再考察の中でしっかりと論証されておられる、自身の「歴史の研究」の「文明」中心から「高等宗教」中心への視点の変化、その中で展開されている「合理主義」から「超合理主義」への思想的立場の変換に対応するものです。
 
GHQの「神道分離令」の史実から論じられた、神道が戦前の日本においてもっていた機能に関する認識は、まさにトインビー博士の旅行記「東から西へ」に書かれている日本の本質に関する認識と見事に一致します。さらに、創価学会の初代会長牧口常三郎先生が、治安維持法に基づき逮捕され、最終的には獄死された「罪状」としての〝神札〟の拒否。このことは当時の日蓮正宗、宗門当局からの勧告を、日蓮仏法の本義から明確に拒否されたことに起因しますが、その行為そのものが宗教国家としての大日本帝国との本質的、かつ徹底的な対決であることを明確に証明していると思います。
 
さらに、トインビー博士の史観からみるとき、太平洋戦争は単にアメリカと日本の二国間の全面戦争の域を超えた、アメリカ合衆国が象徴する「西欧文明」と「日本文明」との文明間の対立であり、かつてローマ帝国が代表する「ヘレニック文明」と、カルタゴがその一つの象徴であった「シリアック文明」が対立抗争し、その結果として敗者の「シリアック文明」の中の、「内的プロレタリアート」の中からキリスト教という高等宗教、世界宗教が生まれてくる歴史的な事実と「哲学的同時代性」(Philosophical contemporary)を持つ歴史事象であるとみておられることは間違いないと思います。このことは、1957年、約一ヶ月にわたって日本に滞在され、日本全国の文字通り朝野を挙げての歓待、対応(天皇ともお会いし、また歴史学者を中心に当時の最高レベルの知識人と論議懇談される)という一般の海外来賓の訪日の歓迎レベルをかなり上回る対応を受けていながら、さきほど引用した文章しか残しておられない事実と符合すると思います。さらに言えば、先ほどの旅行記中の文章は、トインビー博士が日本に対して強く関心を持ち、思索しておられる根本的な内容であるということを証明していると思います。このことはトインビー博士の「歴史の研究」の根本テーマとも明確に一致していると思います。
 
それでは、二千年以上前のキリスト教にあたる存在は日本において存在するのか。またその萌芽を見出すことができるのか。この探究の様子は、当時トインビー博士と懇談した日本の学者グループの中心の一人で、後に図説「歴史の研究」の翻訳の監修を担当された桑原武男氏が、同書のあとがきの中に記述されておられます。
 
 
 
1956年、京都で学者たちとの会合がもたれたとき、トインビーが当時目新しかったテープレコーダーを廻しつつ、長時間疲れを見せず意見交換したのは壮観であったが、そのさい彼がもっとも熱心に質問をくりかえしたのは大乗仏教についてであった。日本の近代化についても関心を示したが、戦後の大衆社会的状況ならびに大衆文化についてはほとんど興味をおこさなかった。(図説『歴史の研究』訳者あとがきより)
 
 
 
トインビー博士と対談をさせた池田先生は、対談直後に「文芸春秋」の求めに応じて、『トインビー博士との五日間』〈1973年〉と題して寄稿していますが、その中で次のような指摘をされております。
 
 
 
博士は、前々から、やはり仏教に深い関心をもっていたようだ。かつて来日をされたとき(1956年)、京都大学歴史学者や哲学者を交えて、長時間のディスカッションをされたことがある。その時、同席された深瀬基寛氏が、博士の第一印象を次のように記されている。『この日、問題となったたくさんの論題を取り上げる紙数もないがその一つは日本の学者の立場でしばしば矛盾と感じられる、科学的実証精神の必要と危機の克服としての宗教的精神の必要とがいずれもトインビーによって強力に肯定されていることであった』(社会思想社編『トインビー・人と思想』)。また「トインビーが最も日本の学者から聴取したいと思っておられるのは、仏教に関することであるらしい」(同)と。
 
 
 
さらに、邦訳はないがトインビー博士の伝記としては唯一といってよい、アメリカの歴史学会の重鎮、マクニールの手によるトインビー博士の伝記「トインビー」では次のような記述があります。まず、トインビー史観にとっての創価学会の存在とはいかなるものであるのか。また、対談集「21世紀への対話」を残された池田大作先生に対する評価とは?
 
From Toynbee's point of view,Soka Gakkai was exactly what his vision of the historical moment expected, for it was a new church, arising on the fringes of the “post-Christian world , appealing principally to an internal proletariat, and deriving part of its legitimacy from an ancient and persecuted faith.〟
 
トインビーの視点からみて、創価学会はまさに、歴史的な時期としての(現在)に対する彼の洞察の中で期待していたものであった。それは新しい教会(→世界教会)であり、キリスト教の後の世界の周辺に立ち上がり、主に内的プロレタリアート(→社会構造の中に組み込まれてはいるがほとんど無権利状態におかれている人びと)にアピールし、その正当性は古い時代の迫害された信仰に由来する。
 
 
 
Comparisons with early Christian history fairly leap to mind ,and in a preface he wrote for the English translation of one of Ikeda's books Toynbee explicitely compared the world mission of Soka Gakkai with the Christian Church on the eve of its coming to power in the Romam Empire.
 
創価学会と)初期キリスト教史との比較は、かなり心躍る経験であり、トインビーは英訳された池田の著作の一つ(小説「人間革命」)に書いた序文の中で、明示的に創価学会の世界宣教(mission)とローマ帝国内において勢力となる前夜のキリスト教教会を比較している。
 
 
 
When an Englishman living in Japan reproached* him for his association with Ikeda, Toynbee defend himself, writing:"I agree with Soka Gakkai on religion as the most important thing in human life, and opposition to miliitarism and war. "
 
ある日本に住んでいるイギリス人が、トインビーの池田に対する親密さを咎めて書いた手紙〔I find your association with President Ikeda and his vast organization, that is not without its questionnable teachniques of coereed conversion and its fund raising potencials , just a little out of character  I find your association with President Ikeda and his vast organization, that is not without its questionnable teachniques of coereed conversion and its fund raising potencials , just a little out of character〕に対して、「私は創価学会が、宗教こそ人間の人生にとって最も重要であると言っていることに賛成するし、軍国主義と戦争に対して反対していることに賛成します」と返事を書いている。
 
 
 
To another remonstarance he replied:"Mr Ikeda's personality is strong and dynamic and such characters are often controversial.My own feeling for Mr.Ikeda is one of great respect and sympathy."
 
他の諫言、いさめに対して彼は「池田氏の個性は強力で、ダイナミックでありそのような性格はたびたび物議を醸すことがある。私自身は池田氏に対して、偉大な尊敬と共感を感じている」と答えている。
 
 
 
池田先生にとってのトインビー史観
 
創価学会にとってのトインビー史観
 
 
 
 
 
 
 
釈尊から始まる仏教の歴史
 
大乗仏教の成立に関するトインビー史観の視点
 
トインビー博士の思い・・・「起原前後の中央アジア、新疆に生まれたかった」
 
法華経について
 
ユング博士の仏教に対する言及
 
ユング博士の深層心理学における宗教[ ]
 
 
 
ユング博士の深層心理学における原型
 
ユング博士の原型におけるマンダラ(曼荼羅)について
 
法華経における原型的要素
 
曼荼羅シンボルの表現としての法華経・宝塔品
 
日蓮仏法における宝塔品
 
1944年11月18日の戸田先生の獄中の悟逹
 
1944年11月18日の牧口先生の獄死の意義
 
1944年4月のユング博士の大病、その際に感得した世界
 
ユング博士の深層心理学とトインビー史観
 
1944年とは?
 
日蓮仏法・撰時抄における「大闘睜」
 
石原莞爾の誤解、誤解の結果としての満州事変、日中戦争、太平洋戦争
 
「大闘睜」としての第二次世界大戦
 
日蓮仏法・立正安国論における「三災七難」
 
「他国侵略難」としての「太平洋戦争」
 
 
「文明」とは?
 
「文明」としてみた日本
 
1929年に来日されたトインビー博士、太平洋問題調査会
 
太平洋問題調査会とは?
 
1929年の太平洋問題調査会の論題としての「中国」と「日本」
 
トインビー博士の視点「日本」と「カルタゴ」の運命の “同時代性”
 
philosophical  contemporary
 
「シリアック」文明と「ヘレニック」文明の衝突としての「ポエニ」戦争
 
「シリアック」文明と「ヘレニック」文明の衝突の結果としての「高等宗教」の成立
 
「高等宗教」の代表としてのキリスト教
 
文明内の「disintegration」(崩壊=いままで保たれていた社会的な一体感が崩れていく)としての「支配的少数者」「内的プロレタリアート」の成立
 
社会のニ極化=「格差」の成立と拡大
 
「内的プロレタリアート」の中に広がるキリスト教
 
キリスト教の成立と広まり
 
キリスト教の体制化の起点としてのミラノ勅令(313年)
 
「高等宗教」とは?
 
 
 
 
 
 
 
1967年、若泉敬教授を窓口としての京都産業大学の日本への招待。
 
「西欧文明」と「日本文明」の衝突の結果、敗者の中の「内的プロレタリアート」の中で広がる「高等宗教」としてのSGI創価学会インターナショナル
 
1969年、池田大作先生との対談を強く望まれる手紙を自ら書かれる。
 
1972年、1973年、5月「最も良い季節」にロンドンで対談
 
自らの一生の学問的努力の総決算と未来人類への遺産としての継承を池田先生との対談にかけたトインビー博士。
 
1974年、「21世紀への対話」の成立とその世界的な影響
 
キリスト教SGI創価学会インターナショナル)の“同時代性”  philosophical comtemporary からの考察(小説「人間革命」の英語版の序文)
 
トインビー史観の結論を証明する事実として、SGI世界宗教化(2017年現在、世界192カ国に広まる)
 
「創造的個人」キリスト教成立に関してのパウロSGI成立に関しての池田大作先生の役割(佐藤優氏)
 
「創造的少数者」としてのキリスト教会、SGIの役割の共通点と相違点(ハービーコックス「世俗都市」)
 
仏法史観「時、応、機、報」 “衆生に機根あって仏を感ず” “仏感じてしかも応ず”
 
創価学会仏」 仏としての創価学会SGIの運動
 
キリスト教成立に関するトインビー史観の分析 “水底の密やかな動き” 深層流としての民衆の機根
 
キリスト教成立に関するユング心理学の分析 “原型を最もよく体現したイエスキリスト”
 
世界宗教とは、民衆の機根に応じた “法=思想”が“創造的個人”によって説かれる時発生する、民衆の中から自主的に始まる“爆発的拡大”の結果
 
 
 
 
窮極において歴史を作るものは実はこの水底のゆるやかな動き
 
水の底で活動し河底までしみ通る、ゆるやかな、眼にみえない、秤にかることのできない動き
 
その日その日のはなやかな出来事が遠近法においてそのあるべき真の大きさにまで縮まったとき、はじめて大きくその姿をあらわしてくるものはこの水底の動き
 
この視点こそ、池田先生が何回も引用されているトインビー博士の史観の根本です。「水底のゆるやかな動き」とは、具体的には何を表現しようとされているのか?池田先生の引用の視点には、第二次世界大戦後、完全に破壊され廃墟となった日本の一角から始まり、今や全世界にまで広まった創価学会SGIの運動。 戸田先生、池田先生の師弟の闘いからスタートした、一対一の対話の連鎖で、地道に着実に進展する民衆のレベルでの広宣流布運動、世界平和をめざしての世界宗教としての動きを根底においての譬喩として使われていると思います。そして、トインビー博士がこの表現の根拠とされておられるのは、この文章を綴られた1947年までに営々と深めてこられた「歴史の研究」の一つの結論。結局、歴史の根源的な意味とは「文明」と「文明」の出会い・遭遇(encounter)によって、高等宗教が生まれることであるとの視点があります。ヘレニック文明(ギリシャ=ローマ文明)とシリアック文明との遭遇から生まれるキリスト教、ヘレニック文明とインド文明との遭遇から生まれた大乗仏教を高等宗教の典型としてみるとき、その成立期において、特定の開祖の個人的な力量の発揮を可能にしたのは、「水底のゆるやかな動き」として表現する以外にないような民衆の心、魂(spirit)、深層心理の動きであるとの深い認識があると思います。この視点と同じ認識に立って、人間の深層心理に焦点をあて、その深い部分における根源的進化(元型における進化)に歴史の展開の根源を置くのがユング博士の心理学です。トインビー博士は、「歴史の研究」の後半部、特に第二次大戦後に書かれた原本の7巻から10巻において、ユング博士の心理学に言及することが多くなります。1947年に出版された講演集「試練に立つ文明」の中では、「もし第二次大戦前にユングの思想を知っていたら、歴史の研究の冒頭部で、『挑戦』と『応戦』の考え方を聖書の「ヨブ記」やゲーテの「ファウスト」の中での神とヨブやファウストの出会いを通して説明した部分をユングの思想を使って説明できた」とも書いておられます。ユング博士も弟子のフランツ博士に「トインビー博士は『元型』の歴史的変化をとらえていた」と語っています。この両者の認識の根底にあるのが、人間の歴史の展開の根底にあるのが無意識層の進化であり、その最高の表現が高等宗教であるとの認識です。トインビー博士は歴史の包括的な研究を通して高等宗教に行き着き、人間の内面に歴史の進化の原動力を置く方向で歴史理論を展開することになり、ユング博士は人間の心理の研究から深層心理の研究に行き着き、グノーシス派のキリスト教、中世の錬金術の研究という方向で人間の深層意識の歴史的発展のあとをたどるということになります。そして、最終的には両者とも東洋の宗教的伝統、特に仏教に強いシンパシーを示されます。また、両者とも第一次から第二次の世界大戦、「ヨーロッパを舞台として行われた31年戦争」の未曾有の災禍をしっかりとうけとめられて、自らの学問的営為の根源的動機とされておられます。人類を核兵器による全滅の運命から救い、全人類が一つの家族のように仲良く共存する世界を実現するためには何が必要なのかという高い問題意識に立っているのがトインビー博士とユング博士の研究です。その意味で、21世紀において、この両者の研究の持つ意味は本当に大きなものがあります。私は、この両者の学問の本質的な意義を、池田先生の著作、振る舞いによって知ることができました。池田先生は「生命を語る」「21世紀への対話」「法華経の知恵」等の著作の中で、この両者について何回も言及されておられます。またおりおりの随筆、講演、対談、メッセージの中でもたびたび取り上げられ言及されておられます。池田先生がこの両者を取り上げられる視点を敷衍すれば、トインビー博士、ユング博士の視点はほとんど仏法の視点と重なると理解することができると思います。「仏法」「仏教」の根幹にあるのは「仏」という窮極の人格です。その「仏」こそ宇宙生命の根本であり、人間一人一人の生命の中にも普遍的に存在し、その状態へ向かう努力が仏道修行であり、人生の目的としての仏界の人格化が「成仏」である。その目的に達するための社会的条件として、仏法においては「時応機法」の原理を説いてきました。現実の世界(娑婆世界)の中に生き、様々な困難、矛盾(四苦八苦)に苦しむ民衆(衆生)がいる。その人々(衆生)の現実からの救済を求める願いが、具体的な救済を実現してくれる理念(法)と、それを実現してくれる指導者(仏)を求める。その民衆の願望(機根)を感じ、それに応える(応)かたちで、指導者(仏)が出現し、救済のための原理・思想として法・思想を説く。この法理において重要なのは、民衆一人一人の根底の願いを感じることであり、その上に立って未来に向かっての方策を示し、自ら実践する指導者(仏)の存在です。さらに仏法においては、そのような諸条件がうまく整うこと(時)が、現実改革が進展する根本条件であると説きます。これが「時応機法」の原理ですが、そのスタートは民衆の深層意識レベルでの救済を求める願望(機根)です。トインビー博士が「窮極において歴史を作るものは実はこの水底のゆるやかな動き」と表現され、論じておられることは、この視点と重なってくると思います。また、この「時応機法」の原理を歴史的な事実の上でとらえたのが「歴史の研究」の根本的な意義であると言って過言ではないと思います。トインビー博士の「歴史の研究」で用いられる用語を「内的プロレタリアート」「創造的少数者」「創造的個人」「文明」「高等宗教」「世界教会」「文明の挫折」「文明と文明の遭遇」等と挙げ、その用語で表現しようとされている現実に戻って考えていくとき、それは明確であると思います。
 
  
 
あらためて「文明」とは?
 
トインビー博士の「文明」の定義「全人類が全てを包含する単一の家族の成員として協調して共存することができる社会状態を作り出そうとする努力である
 
ハンティントン「文明の衝突
 
あらためて「帝国主義」の時代としての現代
 
文明の衝突」を回避し、人類が「一つの家族」のようになっていくためには?
 
 
 
「高等宗教」の役割
 
The current threat to human personality is the larger the risk not to our ancestors were also exposed human beings at any time up to this since become a person. Threats against the physical survival of the human race, it is only incidental result of this spiritual crisis. Is the source of existence, by helping to regain contact with the ultimate spiritual reality is the source of salvation, the human raceisto lend the force to save themselves is the thing that can be only in higher religion. Conversion what is intended to form the core of things.
 
「人間の個性にたいする現在の脅威はわれわれの先祖がヒトになって以来、これまでいかなる時代にも人類がさらされたことのないほどの大きな危険である。人類の肉体的存続にたいする脅威はこの精神的危機の付随的結果であるにすぎない。存在の根源であり、救済の源である究極的な精神的実存との接触をとりもどすことを助けることによって、人類がみずからを救うことに力をかすことは高等宗教のみにできることなのである。回心こそ事の核心をなすものである。
 
 
 
「高等宗教」とは?
 
再考察 21巻 p157. L8~
 
一つの綱(クラス)としての高等宗教は、革命的な新しい出発であるその性格によって定義できるかもしれない。高等宗教は人間より高い精神的な存在について新しい洞察を得た。この存在はもはや人間の経済的政治的必要や活動の媒介を通して見られるのではなく、これを崇拝する地方的な人間の関心事にはその職掌がら関係のない力として直接に見られる。*1〔原始社会の世界観に於いては、人と自然と神は互いに未分化の状態にある。...現実にあるものと、あるべきものとの間の相克をめぐる精神の緊張は、エジプトにおいてもシュメルにおいても、「第一中間期」の経験の結果として初めて現れたようである(Chr.Dawson:The Dynamics of World History,p.116)。この革命的な精神的事件は、個々の人間の霊魂と自然界(そしてまた人間社会の世界)を超越する絶対的な精神的実在の間に直接的な交わりが確立されたという(真正のものであれ、或いは幻想の上だけのものであれ)経験であった。そしてこれは紀元前最後の千年紀から始まる(ibid.,pp.117-18.;cp.p.177)。「この決定的な一歩が最初に踏み出されたのはインドに於いてであった。そして実在についての新しい見方が実生活においてひたすらに追い求められたのは、インドに於いてであった。」(ibid.,p.118)〕このような力は超越的なものとして、或いは人間の心情に鋭敏に調子の合う内面的な経験に内在しているものとして人間に告示される。しかしどちらの方法をとるにせよ、人間に対していかなる債務も負っておらず、いかなる意味においても人間に依存していないこの存在は恩寵の行為によってその存在を感じさせるのである。この超人間的な精神的存在が、神としてその人格的な面に於いて経験されるのではなく、仏教の修行者の経験するように精神的存在の非人格的状態として経験されるとすれば、涅槃を探求するためには阿羅漢は社会からだけでなく、自分からも自分を切り離さなければならない。いずれの場合にも、超人間な精神的存在は、或る特定の地方的共同社会の高度に統合された生活から遊離し、そしてそれと共にその崇拝者たちもそのような生活から遊離する。そしてその遊離の結果、この存在の領域は今や地方国家や地域文明と一致するのではなくて、全世界と一致すると見做されるようになる。一方その崇拝者たちは、原理に於いても意図に於いても、すべての人間を包含する教会の成員であると感じるようになるのである。
 
 
 
再考察21巻 p158、L5~
 
要するに、高等宗教がその特殊の名に価するのは、それが神をもはや伝統的な観点から考えず、最高の自足的、偏在的なものと見做しているからである。伝統的な観点からすれば、神は地方的崇拝者たちの力になるように取り決められ、その領土に縛りつけられ、その境界を越えることができない。何故なら、隣接する土地には同種の地方的な神が存在していて、この神も、同様に狭く且つ油断なく境界線をめぐらしたその本拠において、同じような権利と義務を持っているからである。直接的に経験される超人間的な精神的存在が、仏陀のみたように、もはや人格的な神ではなくて非人格的な涅槃として見られるならば、この存在の直接的な直感が神的人格としての、神の伝統的な擬人像を消さない場合よりも、或る特定の社会の文化の結合構造からの遊離はより極端になるであろう。しかし、この存在に関する新しい経験の後になお人格的な一面が残るとしても、この新しい経験は、この新しい見方が得られた社会がそれまで持っていた包括的な文化的統合を破るという革命的な文化的社会的影響を持つであろう。事実、高等宗教の出現は、未分化の実在が意識の目覚めによって分割されるように統合された文化を分割させる。
 
 
 
再考察21巻 p159、L6 ~
 
もしこれが、高等宗教の本質であり、その及ぼす影響であるとするなら、高等宗教がそれ自身の独立した組織のなかにその社会的表現を見出し、また伝道活動に従事することは、高等宗教の性質に内在しているのであろう。超人間的な精神的存在が、人間の社会的必要と活動の媒介によってみられるのではなく、直接的に見られる時、この新しい見方を得た人間は、それに基づいて二つの新しい方法で行動せざるを得ないであろう。彼らは伝統的な社会的絆とは別個に、相互に新しい結びつきを作るであろう。そして新しい宗教の信奉者たちは啓示された、或いは彼らによって発見された実在に関する救済の真理を他の人々に伝えたいと望むであろう。全世界をその分野とするこの強い使命感の出現によって、一つの問題が提起される。すなわち、高等宗教の歴史や制度を、それ以前の宗教の歴史や制度と同じように、元来宗教的ではない、それまでに存在していた特定の社会の歴史や制度の枠のなかに収めることができるかどうかという問題である。高等宗教は新しい種類の社会として扱わなければならないのではないだろうか。したがって、十分にーすなわち理解できるようにー扱うためには、高等宗教はそれ自体以外のいかなる観点から扱うこともできない現象と見做さなければならないのではないだろうか。この問題の焦点をもっと尖鋭に絞ることができる。高等宗教は、それが出現した時に存在していた最高の文明の社会であった社会の文化の一部にすぎないかのように扱うことができるであろうか。それぞれの高等宗教は、或る特定の文明の所産の一つであり、表現の一つであって、それ以上の何ものでもないと見做すことができるであろうか。整理された精神をもつ合理主義者は、この問いは肯定的に答えることができないことを認めたがらないであろう。現象を損なうことなしに肯定の形で答えることができれば、これは単純さと明晰さの勝利になるからである。それが単純さに貢献する理由は、それは人間事象の研究者に、およそ五千年前に最古の文明が現れて以来の人間の歴史を、この種の社会ーこの種の社会だけーの比較研究という観点から扱い続けることを許すからである。それはまた確証できない宗教的経験によって保証される人間より高い精神的存在は、実在そのものであるか、それとも途方もない錯覚であるか、という論議の多い問いと取り組むことを依然として避けることを可能にするのである。
 
 
 
人間にとって、宗教とは?
 
ボードリアン図書館のトインビー資料、1974年の手紙のやりとりの途中に、タイプ原稿として収蔵日付なし 最後にArnold Toynbee の署名
 
 
 
I believe that religion is a built-in component of humam nature. People who have supposed that they could live without religion have in fact, always substituted a new religion or ideology for the one that they have discorded.
 
I think that , in the twenty-first century, the dogmatic element in religion ought be reduced, and the ethical and comtemplative element ought to be increased.
 
By the ethical element I mean precepts about social and personal conduct ; by the comtemplative element I mean the direct spiritual relation between a human being and ultimate spiritual reality in and behind the phenomenn .
 
I think that every human being should be instructed in the teaching of all the hiher religions, so that, when he has became adult, he may be able to choose for himself the particular religion, or combination of religions, that he finds most helpful and most congenial to him personaly.
 
There are bad religion and ideologies as well as good ones. People ought not to be instructed in the teaching of bad religions and ideologies. An agreement on deciding which are good and which are bad will be difficult, but it will be necessary.
 
宗教は人間性の、あらかじめ組み込まれた構成要素であるとわたくしは信じている。宗教なしに生きていると考えている人も実際には常に、新しい宗教もしくはイデオロギーを、彼がすてたもの(宗教)の代わりに用いている。21世紀の宗教においては、ドグマチックな要素は縮小すべきであり、倫理的や真剣に穏やかに深く考える要素は向上させるべきである。
 
倫理的要素ということは、社会的、個人的なふるまい、行動における考え方、行動の指針を意味し、comtemplative な要素ということは、現象の中もしくは背後に存在する窮極の spiritual (精神的もしくは魂の根本)な実在と人間が直接的にspiritual な関係、つながりをもつことを意味する。
 
わたくしは全ての人間が、全ての高等宗教の教えを教えられるべきであると考える。というのは、彼が大人になった時、自分の個性に対して最も適し、かつ役に立つ特別な宗教、もしくは宗教の結合したものを彼自身のために選ぶことができるために。
 
良い宗教、イデオロギーと同じように悪い宗教、イデオロギーがある。人々は悪い宗教、イデオロギーを教えられてはならない。どの宗教が悪くて、どの宗教が良いということを決定することについての同意は難しいということになるだろう。
 
しかし、それは必要なことである。
 
 
 
The higher religions are bound always to strive to keep themselves disengaged from secular social and cultural trammels because this is an indispensable condition for the fulfilment of their true mission.1 his mission is not concerned directly with human beings' social or cultural relations with each other: its concern is the relation between each individual human being and the trans-human spiritual presence, of which the higher religions offer a new vision. We may believe that this vision is an hallucination or we may believe that it is a revelation or dis­covery of Reality; our choice between these two interpretations of the phenomena will be determined by, and relative to, our fundamental presuppositions. But, whichever interpretation we adopt, we can per­haps agree upon accepting four propositions about the phenomena themselves. The first of these surely uncontroversial propositions is that the believers in the higher religions are convinced that their religious experience is not illusory. The second is that this conviction, whether justified or not, has given them the faith to move mountains. The third proposition is that the deeds which the adherents of the higher religions have done, and the institutions which they have built up, loom large in the panorama of human affairs since the date when religions of this kind first appeared on the scene.1 The fourth proposition—which has, I hope, been demonstrated more or less convincingly in this chapter一 is that, in a study of human affairs, the higher religions cannot be dealt with intelligibly simply as products or parts of particular civilizations.
 
 
 
do not necessarily coincide with those on the other. A politically ‘free’ church may become the preserve of a privileged class, and may even become an instrument for protecting and promoting this class,s worldly interests. The 'free,Protestant churches in the English-speaking countries and the Roman Catholic Church in France have, in our time, become, to some extent, the preserves and instruments of the Western middle class. Conversely, an 'established’ church may be a seed-bed, not only for worldliness, but for spirituality. In England, since the Reformation, spiritual prowess, insight, and leadership have not been confined to adherents of the 'free' churches.
 
 
 
They require to be dealt with, at least on a par with civilizations and with pre-civilizational societies, as primary phenomena that cannot be reduced to terms of anything other than themselves.
 
A rationalist-minded student of human affairs can, I believe, accept these propositions, including the fourth of them, without compromising his philosophical position or being untrue to his convictions. Acceptance still leaves open the question whether the unverifiable experiences, from which the higher religions have sprung, are or are not true insights. At the present day we cannot bring our conflicting answers to this question into agreement. This is beyond our power, because these various answers are relative to a still unreconciled difference in our fundamental pre­suppositions about Reality.
 
Indeed, there is disagreement not only between rationalists and ‘trans-rationalists’,but also inside the 1 trans-rationalist' camp. This domestic disagreement among 'trans-rationalists', is, as I see it, a family quarrel. The differences of view from which it arises are con­spicuous, but I do not believe that they are irreconcilable, because I do not believe that they are fundamental. But this, of course, is precisely the point of contention between orthodox adherents of the historic higher religions and ex-believers who have come again to believe that Man is not the highest spiritual presence in the Universe, yet have not returned to this belief in any of its traditional forms.1 Such agnostic2 ctrans-rationalists', of whom I am now one, are perhaps even fewer in number than the rationalists in the present-day world. At present we cannot tell whether one or other of these two present minorities, or the huge present orthodox majority,3 or some other sect, as yet not visible above irizon. is ‘the wave of the future,.
 
 
 
 
 
再考察21巻 p183
 
高等宗教は世俗的な社会的文化的束縛から自らを自由にするために絶えず努力しなければならない。高等宗教の本当の使命を果たすために、これは不可欠の条件だからである。この使命は人間相互の社会的文化的関係に直接の関心を払うことではない。その関心事は、個々の人間と超人間的精神的存在との関係であって、この存在について高等宗教は新しい直感を提供するのである。この直感を幻覚と考えてもよいし、実在に関する啓示もしくは発見と信じてもよい。現象についてのこの二つの解釈のどちらを選ぶかということは、われわれの基本的な前提によって決定され、またそれと相対的なものである。しかしどちらの解釈を取ろうと、現象についての四つの命題を受け入れることについてはわれわれの意見は多分一致するであろう。確かに議論の余地のないこの命題の第一は、高等宗教の信者は自分たちの宗教的経験が錯覚ではないと確信していることである。第二は、この確信が正しくても正しくなくても、それは山を動かす信念を彼らに与えることである。第三の命題は、高等宗教の信者たちが行った行為と彼らが作り上げた制度は、この種の宗教が初めて舞台に登場して以来、人間事象のパノラマの中で大きな地位を占めていることである。第四の命題は・・・・・・本章に於いて多少納得がいくように論証されていると私は思うが・・・・・・人間事象の研究に於いて高等宗教はただ特定の文明の産物もしくは部分として扱うのでは理解可能にはならないということである。高等宗教は少なくとも文明や文明以前の社会と同列に、そしてそれ以外のものの観点に従わせることのできない第一次的現象として扱う必要があるのである。
 
 合理主義的な人間事象の研究者は、この第四の命題を含めて以上四つの命題を受け入れても、彼らの哲学的立場を危うくしたり、彼らの確信に対して不忠実になることはないと私は信じる。しかしこのことを受け入れるとしても、高等宗教の源である確証不能な経験が真の洞察であるかないかという問題はやはり残るのである。現在では、この問いに対するわれわれの異なる答えを一致させることはできない。これはわれわれの力に余ることである。何故なら、このような様々の答えは、実在に関するわれわれの基本的な前提におけるまだ解消されていない対立と関係があるからである。
 
 実際、合理主義者と「超合理主義者」の間だけでなく、「超合理主義者」の陣営内部にも意見の相違があるのである。「超合理主義者」の間のこのような内輪の意見の相違は、私の見るところで家庭内の喧嘩である。そこから起こる見解の相違は顕著であるが、この相違を解消することができないとは私は思わない。何故ならそのような相違が基本的であるとは私は思わないからである。しかし勿論、まさしくこれこそ、歴史的な高等宗教の正統的な信者と元信者・・・・・・人間は宇宙における最高の精神的存在ではないと再び信じるようになったが、伝統的な形のこの信念に戻ったわけではない人々。*1 ・・・・・の間の論争点なのである。現在私はそのような不可知論的超合理主義者の一人であるが、これらの人々は現代の世界ではおそらく合理主義者よりも数が少ないであろう。「未来の主潮」になるのはこの二つの少数者のうちのどちらかであるのか、それとも膨大な数の正統派の人々*3なのか、或いは、まだ地平線上に姿を見せていない他の派の人々であるのか、現在のところわれわれには判らないのである。
 
 
 
*1 p143~5参照 ・・・私自身は、嘗ては信じる者であり、その後まず無条件の合理主義に改宗し、次で二つの留保条件を持つ「超合理主義的」見地に改宗した。(p144の内容で二つの留保条件を詳述。山本外吉論文においても引用がある。ヴェロニカ夫人による「一歴史家の宗教観」第二版の序文にも詳述)
 
*2 ウォーカー師とストレイチー(未完の批判)は、絶対的な意味における実在についての真理を語る知識の神による「放出」としての啓示の伝統的な見解を私が持っていないと判断しているが、それは正しい。したがって、私は「不可知論的」であるというのである。仏陀が自分の精神の努力によって悟りを開いたことは、ムハンマッドが大天使ガブリエルによって伝えられた神の教えによって悟りを開いたのど同じくらい確実であったと私は信じる。もし悟りを開くのが神によるものであるなら、それは或る一つの意味に於いてそうなのだと私は信じる。そしてこの意味においては、他のすべてのわれわれの経験に神的というこの形容詞を当てはめても同様に正しいのである。
 
*3 歴史的な高等宗教の正統的信者は、世界全体としてはまだ圧倒的多数を占めているが、西欧では多数であるとはいえ、圧倒的多数ではない。そして西欧の知識階級の間だけでは少数者であろう。
 
 
 
「文明」を基礎として「世界史」を構成する

トインビー博士がなし遂げたもの

トインビー博士のなし遂げたもの
戦争に対する絶対反対の強い姿勢が生涯の学問研究の根本的動機
通奏低音のように、繰り返し繰り返し生涯にわたって著作の中にあらわれてくる
パブリックスクール ウィンチェスター校での経験より強く影響を受けているもの
友人を第一次世界大戦最初の2年間で半数を失う
ウィンチェスター校のホームページにいまだに写真入りで、第一次世界大戦での戦没者の紹介がある
トインビー博士、生涯最後の会合 ウィンチェスター校での式典 ラテン語でスピーチ
一生涯の強い友情の絆
自宅のマントルピースの上の写真立て
具体名をあげて、言及される。exチーズマン……・etc
なぜ多数の戦死者がごく短期間に、パブリックスクールの出身者から出たのか
映画「1917年」
イギリスジェントルマンイデーの悲劇
その後の著作の中で繰り返しそのことに言及される。
この体験が持つ重要性……トインビー博士の人間としての生き方の基底に常にあるもの「戦争に対する絶対反対の思い」
その後のトインビー博士の人生の岐路での判断・学問の方向性の判断において常に基底となっている

トインビー博士の戦争に対する考察→戦争を引き起こす根本の原動力としての人間の自己中心性・欲望に注目
人間の集団力による成功体験=集団力の崇拝=国家の偶像化・崇拝“国家主義は誤った宗教である”
第一次世界大戦=神格化された国家同士の戦い+自然科学の進歩による破壊力・殺傷力の飛躍的拡大
トインビー博士の最初の本格的著作“Nationality & war”1915 において何が論じられているか
春日潤一論文2005の趣旨
単純な国家主義的な視点ではない
戦争勃発とともに志願するかどうかの葛藤(母は志願を進める←→妻及びその母は止める)
志願書に赤痢の病歴を期して出願→兵役免れる
圧倒的な大部分の友人が志願する中で、戦争に参加していない〝負い目〟を意識させざるをえない
ナショナリティと戦争』トインビー博士が25歳の1914年10月ごろから書き始め1915年1日に出版
〝国家を持つ権利を主張して烈しく衝突しある諸ネーションにどのようない領土を分割し、対立を調停するかという問題について、ヨーロッパの各地域の地政学的・歴史的分析を通して彼なりの考えを述べてもの〟
マクニールの解釈によれば、トインビーなりの方法(学問的な方法)で平和へ貢献すると言う思いと共に、結果として兵役を忌避していることに対する負い目を軽減したいという思いがあったのではないか
ショーヴィニスム(Chauvinism)〔排外的愛国主義〕、ジンゴイズム(Jingoism)〔好戦的愛国主義〕、プロシャ主義(Prussianism)〔軍国主義〕など幾多の名におけるナショナリズムの悪の要素は、戦争という災難をもたらし、またもたらす可能性のある現在のヨーロッパ文明においては同一のものである。もしも私たちの目的が戦争を防ぐことにあるならば、そのようにする道はナショナリティからこの悪を追放することである。(NW,10-11)
国民国家は、実在するもっとも偉大かつもっとも危険な社会的達成である」(NW、481)とのトインビー博士の命題は、このアンヴィヴァレンスという点において、『ナショナリティと戦争』における国家観を端的に要約している(春日論文、p293)
ヘレニック文明の都市国家の崇拝→世界国家ローマの神格化
抗争の連続=“動乱時代”→或る世界(文明)全体を統一し支配する国家勢力が成立する“Universal State”まで続く ex: Pax Romana
文明の二大害悪=“戦争”と“社会的不平等”
“Universal State”は永遠ではない→人間の自己中心性・欲望が根底にある限りは、常に崩壊・破局へ向かって進む→文明の衰退・崩壊
今まで地球上に存在した文明でこの運命を免れたものは存在しない
オックスフォードのチューターをやめる決断
ロザリンド・マリーとの結婚←→生涯、独身を貫くことが基本であるチューターであることの矛盾
イギリス社会、その知性の象徴であるオックスフォード大学のチューターであることのステータスを捨てる決断
19,20世紀の欧米の学問界の基本的方向性=自然科学の発展の原動力としての“科学的思考”→人文科学においても強い影響性
マックス・ウェーバー「歴史は科学か」←→マルクス主義歴史観“唯物弁証法”の影響力の増大
科学の方法論=自然科学においては→事実の客観的な観察→観察できるように事象を細分化→仮説の設定→論証→結論→実験による検証→法則として確定
この影響を強く受けて、人文科学としての歴史学=事実の収集・客観的なテクニカルタームとしての概念の定義→仮説の設定→論証→結論→実験は不可能
トインビー博士は、この支配的な風潮に強く反発→「歴史の研究」の冒頭部分に記述
人間の行動が作り上げる事実を記録したもの=歴史→人間の行動が生み出す世界→行動の結果は一定ではない→同じ行動でも結果は全てことなる
“挑戦”と“応戦”の用語を用いて表現される
この過程が表現されたものとしてトインビー博士はゲーテの「ファウスト」、聖書の「ヨブ記」を引用される
第二次世界大戦後は、ユング博士の深層心理学の世界にそのよりどころを求める
ユング博士もトインビー博士の仕事の意義を正確に把握
人間の行動の根拠としての深層心理→人間の合理的自我の奥底にあるもの→深層心理から現れるもの
ユング博士の第一次世界大戦に対する論究→“ヴォーダン”現代史によせて
トインビー博士、ユング博士に共通するもの
人間の深層心理から湧き上がる人間社会の現象としての“宗教”に焦点をあてる
トインビー博士→歴史学から深層心理の世界へ
ユング博士→深層心理学の世界から歴史学の世界へex 錬金術グノーシス……etc
両博士とも、この追求の中で仏教、特に大乗仏教に強い関心と親近感
トインビー博士が池田先生との対談を万難を排して追求された前提
“専門”歴史家の違和感・トインビー史観批判の前提
“専門”心理学者の違和感・ユング心理学批判の前提

総合的・全世界的な視野に立つ歴史・世界史の研究に進む=第一次世界大戦に象徴される戦争の悲劇克服の視点を求めて
ガーディアン紙の特派員としての記事を書くときの決断
文明中心の歴史研究を始めようという決断……・1922年「歴史の研究」の基本構想
ショペングラー『西洋の没落』の影響は?
「The Western Question in Greece and Turkey : A Study in the contact of civilizations」1922
ロンドン大学をやめることになる決断
帰国後、マンチェスターガーディアン紙に、ギリシャ側からだけでなく、トルコ側にも取材し公平に記事にする
コライス記念講座の教授
19世紀以来、バイロン以来、ギリシャに好意的なイギリス世論の流れ
発表後、世論また講座のスポンサーのギリシャ側から強い非難をあびる
ロンドン大学の教授を辞任しなければならなかった理由
チャタムハウスでの「Survey of international affers」の仕事
第二次世界大戦後の「文明」中心から「高等宗教」中心の観点の変化の判断の根本にあるもの
戦後のマスコミに寄稿される際のトインビー博士の論調の基本
ベトナム戦争に対する姿勢
「再考察」において強調して検討されているもの
「文明」の定義
「シリアック文明」の確認
「ヘレニック文明」の確認
「西欧文明の前途」
文明の前途はオープンエンド→他律的決定論ではない
文明の前途は、「人間」の主体的な選択によって決まる
ヘレニック文明の通史としての「ヘレニズム」の論調
トインビー博士の歴史研究論文「ハンニバルの遺産」の論調
人生の最終段階において、創価学会の池田会長との対談を求められた根本動機

 

 


ルネサンス以来のパブリックスクールの“人文主義教育”
古典語の徹底した教育
ラテン語ギリシャ語の古典語教育
ギリシャ語、ラテン語の授業がカリキュラムの大半を占める
古典語を読みこなすだけではなく、同じように表現できることまでを求める
古典語教育の優等生としてのトインビー博士
集団生活に慣れないトインビー少年は、その反動として古典語に没頭する
予習を先の先まですすめる。
古典語の最優等生としてのトインビー少年
オックスフォード大学への道
オックスフォード大学での最高位の立場・待遇としてのフェロー・チューターへの道
トインビー博士にとっては、古典古代世界、古代ギリシャローマ世界を全体として殆ど自分が生きてきた世界のように感じ考えることができる世界
第一次世界大戦勃発時、1914年における“ツキディデス体験”の基本にあるもの
オックスフォード大学のフェローの道を自ら辞退した動機
オルテガ・イ・ガセット「世界史の一解釈」p24→evernote
18,19世紀の大英帝国。全世界に展開しあらゆる地球上の文明と接触し、植民地を統治する人材の要件。そのための教育。
古典教育の効用・・・トインビー博士の記述より「再考察」p1068~p1089→evernote
現在、自分が属している“文明”を客観的に見る視点を「古典」教育は与える
その“文明”の誕生から滅亡までの過程を全体として見ることができる
歴史というものは“人間”の営為なのであるということ文学・歴史を通して自然に理解できる
“人間”史観への道
文明の比較・検討の際の有力な基礎となる

戦争廃止への道を歴史の中で探求する
どうすれば戦争のない世界をつくることができるか
戦争は何故起こるのか
「歴史の研究」の執筆
文明発祥とともに、人類の“業”として存在する戦争と不平等を根絶するための方途を歴史に探り求める
1921年マンチェスターガーディアンの特派員としてギリシャ・トルコ戦争の現場へ
戦場で若きトルコ兵、ギリシャ兵の死体を目にする→“文明”中心の歴史研究を決意する
帰途の車中(オリエント急行?)の中で、文明を単位としての「歴史の研究」の目次・便概を作る
途中、第二次世界大戦での戦時任官中をはさんで30年間にわたる「歴史の研究」の執筆
最初の目次と全く同じ
トインビー博士の救済のために作られたチャタムハウスのなかのポジション


トインビー博士は“歴史家”なのか“比較文明論者”なのか
文明単位での歴史研究にとりかかる動機として
第一次世界大戦での友人たちの死をきっかけとして
近代の戦争の主体としての“国家”に対する疑問
国家主義は誤った宗教である
1914年の大戦勃発時のツキディデス体験
実質上、心のふるさとのようになっている古典古代が崩壊するスタートとみるアテネとスパルタの対立
ペロポネソス戦争の勃発がヘレニック文明崩壊のスタート時点 
break down とは
今まで順調に動いてきたものが挫折する。うまく動かなくなる。 
哲学的同時代性
第一次世界大戦の勃発はペロポネソス戦争の勃発と“哲学的”には同じ歴史的段階といえるのではないか
トインビー博士の脳裏に浮かんだ強い力をもつ想念
アテネとスパルタが当時の代表的なポリス
都市国家ポリスを政治的単位として、古代ギリシャ語という共通の言語、ホメロスの長編詩、オリンポスの十二神への信仰、デルフォイの神託、オリンピアード等、共通の基盤を持つ古代ギリシャ人の集合→この集合を何と呼ぶか?→“包含されずに包含するもの”=“文明”→ギリシャ文明?
西欧における“古典古代”=ルネサンス以来の復興人文主義リベラルアーツ、普遍的な教養の源泉とされるギリシャとローマ
“古典古代”とはギリシャ語、ラテン語の習得、肉化を通じて、自らの教養の源泉とすべき世界=パブリックスクールの教育の根幹
ギリシャ・ローマ世界と全体としてみたとき、見えてくる“包含されずに包含するもの”としてのまとまり“ギリシャ・ローマ文明”
総合的な通称としてトインビー博士“ヘレニック文明”と名付ける
1914年の段階で、トインビー博士は“文明”を意識していたかどうか
1915年の初めての本格的な著作「Nationality & the War」
従来、この著作の表題からか、この著作においては、まだ国家中心の視点をとっているとされてきた
しかし、原著にあたると第一次世界大戦当時の“西欧”を代表する国家としては当時の英国の敵国であったドイツが中心
しかも、国家をこえた第一次世界大戦勃発の基本要因としての、パンゲルマン主義、パンスラブ主義、パンイスラム主義の分析が中心である
パンゲルマン主義、パンスラブ主義、パンイスラム主義は、ハンチントンの指摘を待つまでもなく“文明”を育てる基本の要素
事実、後の「歴史の研究」においては西欧文明、ロシア文明、イスラム文明のそれぞれの担い手として登場する
したがって、この著作においては、従来の視点とは異なり、すでに“文明”中心の視点の萌芽がみられると考えたほうが良いのではないか
また、重要なのはトインビー博士の歴史研究の根本動機としての「戦争」に対する否定の思いが明白である
第一次世界大戦第二次世界大戦後のパリ講和会議にイギリス代表団の一員として参加
外交的な努力、理性的な努力で戦争を防止することができるのか。結論として否定的
第一次世界大戦後に作られた平和のための〝賢人会議〟ドイツ代表はマックス・ウェーバー、フランス代表はアンリ・ベルグソン、イギリス代表はトインビー博士

国際関係論の専門家としてのトインビー博士
チャタムハウスでの33年
チャタムハウスの設立の経緯とその役割
「歴史の研究」と「国際問題大観」を並行してとりくんでいくことの意義
その一年間に全世界でおこった国際関係上の出来事をすべてトインビー博士“一人”で集約し記述したものを刊行物として出版する
良き協力者としてのヴェロニカ女史
「国際問題大観」高い評価→exヒトラーが会見を求めてくる
現代の問題を扱う際には、そこに至る歴史的背景の理解が不可欠
世界史としての歴史の研究には、現在の人間社会の活動の理解が必須
トインビー博士「どちらが欠けても、どちらも完成できなかった」と述懐
 
太平洋協議会、イギリス、アメリカ、中国、日本、他太平洋に利権・関心を持つ国の賢人会議、議長新渡戸稲造
トインビー博士、イギリス代表団の一員として1929年の京都会議に参加するために訪日。
満州をめぐる中国と日本の論者、松岡洋右、松本重治、蝋山政道論議を聞き、日本を待っているのは〝カルタゴの運命〟と蝋山氏に語る
蝋山政道氏、近衛内閣のブレーンとして大東亜共栄圏構想をくみたてる
蝋山氏、第二次大戦後、最初の「歴史の研究」邦訳の取り組みの動機は、トインビー博士との出会いの時のひと言にある

松本重治氏、国際文化会館の理事長として1956年のトインビー博士とヴェロニカ夫人の来日を迎える
日本の朝野をあげての大歓迎、各所での日本の歴史学会の代表的な学者との長時間の本格的な懇談
「図説歴史の研究」のあとがきで桑原健夫氏が書いてあること。トインビー博士の京都大学関係者(当時の京大の最高レベルの学者、貝塚茂樹、桑原健夫氏等)との対話の中で、トインビー博士が質問したことの中心は大乗仏教に関することが多かった。池田先生が随想の中で記述されている。
トインビー博士の大乗仏教への強い関心。

パブリックスクールの宗教的な環境

サマーヴィルの縮刷版の完成 1946年
欧米の市民層からのブーム的な受け止め
「歴史の研究」全巻のの完成
各界の専門的学者からの批判の嵐
クリストファー・ドーソンの批判

「一歴史家の宗教観」エディンバラ大学、ギフォードレクチャーでの連続講演(1952年~1953年)をまとめたもの
人類史における「宗教」の歴史的な変遷を語る。自然諸力の崇拝段階→集団的な人間力の崇拝(文明段階)→高等宗教(文明と文明との衝突、敗北した文明の最下層の人々の苦悩の中から生まれる)
高等宗教、宇宙の背後の根源的実在と一人一人の人間が直接接触する宗教
人類史上の高等宗教として、ユダヤ教キリスト教イスラム教、小乗仏教ヒンズー教大乗仏教をあげる。
高等宗教のうち、ユダヤ教ヒンズー教は特定の民族とのつながりが深すぎ、普遍性をもつことが難しい。
キリスト教イスラム教は布教活動のなかで武力を用いたことがあり、戦争そのものを否定しなければ人類滅亡の事態が待っている現代の核兵器の時代には難しい部分がある。
小乗仏教釈尊の説いたことの部分観。大乗仏教釈尊の説いたことを説いているが論理的矛盾がある。最終的な到達段階としての仏になる前の菩薩。ほとんど仏の段階にまできているのに、衆生救済のために現世界にとどまる。そのことは衆生への愛のためだというが、衆生への愛は煩悩ではないか。このことは全ての煩悩を断じるという仏の条件と矛盾するのではないか。
以上の疑問に対して、「21世紀への対話」の中で、池田先生は「菩薩仏」のありかたを通して答えられる。
この宗教に関する見解は、トインビー博士の全著作の中で繰り返し言及される。「歴史の研究」「一歴史家の宗教観」「回想録」「現代が受けている挑戦」等

トインビー博士自身の宗教観、普通の国教会信徒、不可知論者、をへて超合理主義者として宗教的存在、宇宙の背後の根源的実在を確信する。
第一次世界大戦直後のロンドンで経験した宇宙の根源的実在と邂逅体験(「歴史の研究」の最後に記載される)
トインビー博士の宗教観については、「一歴史家の宗教観」の第二版(トインビー博士の死後発刊される)に付されたヴェロニカ夫人の序文に記述。同時にトインビー博士の未発表の文章「GROPINGS IN THE DARK」を収録。
「文明」としての日本への関心
“単独の文明”としての日本
文明としての日本の経験 開国か攘夷か ←→ ヘロデ派かゼロド派か
明治政府の統治の根本としての人工の宗教「国家神道
文明の衝突”としての「太平洋問題」「中国問題」「朝鮮問題」←朝河貫一「日本の禍機」、新渡戸稲造大川周明
カルタゴの運命」1929年太平洋協議会の際、蝋山政道に語ったトインビー博士の言葉
カルタゴの運命」の運命とは?
ヘレニック文明とシリアック文明との軋轢、その戦闘的集約点、「文明の衝突」としてのローマ・カルタゴ戦争(ポエニ戦争
ヘレニック文明とシリアック文明との軋轢、その戦闘的集約点としてのヘブライ人とのローマ・ユダヤ戦争→マサダの戦い
ヘレニック文明とシリアック文明との接触、その宗教的結果としてのキリスト教の成立
敗北した文明で苦しむ最下層の人々「内的プロレタリアート」の自発的運動として“高等宗教”は生まれる→キリスト教の成立
著作「戦争と文明」「ヘレニズム」「ハンニバルの遺産」の意味
第二次世界大戦での日本、最終的には世界の全ての文明と戦うことになる
日本における“敗戦”の経験の持つ意味
人類最初の核兵器を経験する
憲法第9条
日本文明における“敗戦”の苦悩の中から、いかなる“高等宗教”が生まれようとしているか
1956年の訪日の際の印象を綴ったトインビー博士の旅行記「東から西へ」。日本の敗戦は、明治維新以来国家神道のもとひた走ってきた〝日本文明〟の根本原理の挫折として捉える。
国家神道は、日本本来の神道儒教的徳目を加え、天皇を神として根本にすえた明治維新以来の人工的宗教としてとらえる。
敗北の結果、今まで信じてきた国家神道に対する不信が生まれ、日本人の心の中に生じた〝魂〟の空白状態をいかなる宗教が埋めるのかという視点で1956年(昭和31年)当時の日本社会の様子を観察し記述する。既存の仏教、キリスト教、などには否定的見方。最後にいわゆる〝新興宗教〟の盛んな様子を記述、創価学会に注目する端緒。
1967年(昭和42年)三度目の来日。創価学会に注目する。戦後の日本で、若きリーダーのもと、民衆の中で急速に発展。大乗仏教の精髄、法華経を根本とする日蓮の思想を根幹とし、単に宗教だけでなく、政治、文化などの人間社会の全分野に、宗教を根幹として展開を試みている。
「現代が受けている挑戦」(1966年)において記述されている、トインビー博士が現代社会における高等宗教に求める必須の条件。
山本新先生の記述(月刊世界政経1976年1月号「トインビーの歴史的宗教観」―文明興亡の鍵を宗教に求める巨人の最終史観―)を引用する。    
①他の宗教を邪教のように悪しざまにののしってでなければ、自分の宗教の正しさが証明できないと思い込んでいる排他性、独善をやめて、他の宗教に  も真理があることを謙虚に認めること。これは容易なことではない。                                    
②つぎに、宗教が現代の切実な問題とたえず折衝し、格闘していることである。これを無視したり、でなくてもさけたり、ごまかしたりしておれば、心  ある人から信用されなくなり、人心をつかむことができず、時代の動きとかかわりのない形骸化、名目化したものになる。社会や文化の推進的な動き  からとりのこされ、生命のない、時代錯誤な存在と化する。現在にいきているとはいいがたい。                        
③さいごに、高等宗教にまぶりついた付属物からその本質を剥離し、本質そのものを取り出すことである。                    ………(中略)…………高度宗教が生き延びるために満たすべき第一の条件は、排他性、独善性をこえて謙虚になるである。…………(中略)…………比較的わかりにくいと案ぜられる第二以下の条件について、すこし説明を加えたいと思う。現代の切実な問題をトインビーはいくつかあげている。その第一は「平和の維持」である。これは核戦争による人類の自滅をいかにしてさけるかである。現在人類がまだ生きているのは、不安定な核抑止力によってであり、偶発戦争はいつおこるかもしれない。……(中略)……これを最終的に集結させるには、世界政府をつくり、核武装をやめさせ、核エネルギーの管理をするほかはない。このような人類死活の問題に高度宗教はどれだけ取り組み、有効な発言なり、運動なりをしているであろうか。トインビーは、第二には「社会正義の促進」をあげる。社会正義とは、一口でいえば、平等のことである。高度宗教は社会的平等を促進しようとするなら、社会主義と火の出るような折衝をかさねなげればならない。宗教的社会主義を作るまでに格闘していかねば、階級対立にまともに取り組んだことにならない……(中略)……社会正義の問題は、階級問題だけではない。異民族と正しい関係に立つという民族問題もある。日本における朝鮮人問題に、宗教家が良心的に取り組んでいるかというと、これはもっと心細い。皆無に近いのではないか。……(中略)……高度宗教が生き延びるための「本質剥離」についてすこしばかり説明してみたい。……(中略)……他の文明へこの高度宗教を普及しようとするとき、文明の着色である付属物を本質からはがし、本質を取り出し、それだけ他の文明へ移植するのでなければ、本質と付属物を一緒にのみこませようとすると、必ず失敗する。
1969年に、トインビー博士から池田大作先生へ対談を求める一通の手紙。
池田大作先生の文章
昭和44年(1969年)の初秋、私は、トインビー博士から一通の手紙を頂いた。『前回、訪日のおり(注・昭和42年【1967年】)創価学会並びにあなたの事について、多くの人々から聞きました。以来、あなたの思想や著作に強い関心をもつようになり、英訳の著作や講演集を拝見しました。これは提案ですが、私個人としてあなたをロンドンにご招待し、我々二人で現在、人類の直面する基本的な諸問題について、対談をしたいと希望します。時期的にはいつでも結構ですが、あえて選ばれるとすれば五月のメイフラワータイムが最もよいと思います』(9月23日付)世界史的眼光で歴史を鳥瞰し、社会と文化を把握し、人間事象の背後の本質に肉薄する“20世紀最大の歴史家”と称される博士。その学問的情熱と、研ぎ澄まされた歴史的洞察と、該博な知識に、私は以前から注目していたし、人びとが方位喪失して悲しく生きる今の世にあっては、博士の巨視観による歴史哲学に、耳を傾ける必要を感じていた。
私自身としては、この手紙を読んで、過分な申し出に、すぐにでもお応えしようと思った。しかし、なにせ私個人も仕事が多繁を極め、スケジュールもぎっしりと詰まっていたので、その時は残念ながら遠慮せざるを得なかったしだいである。だが、その後もいくたびか博士から対談の希望が寄せられた。博士御自身も日本がお好きのようで、来日を考えておられたと推察するが、老齢のため、長途の旅は御無理であったようだ。というわけで、私の方からお伺いして、昨年(1972年)の五月の対談となったのである。そして今年(1973年)の三月、博士から、再び丁重な招請状を頂いた。『今年も、イギリスを訪れる時間をお取りになれるでしょうか。もし、あなた並びに奥様の日程が許されるならば、なにとぞ、来たる五月にぜひ御来訪いただきたいと思います。私達にとって、共通の関心事である多くの討議すべき問題があり、ぜひその機会をもちたいと思います。そのためには、私達の間に、個人的な会見が必要であると信ずるからです』(73年3月12日付) 私は、昨年に引き続き、今年もトインビー博士との対話を行うべく、ロンドンに向かった。〔中略〕第一回対談の前から、対談を効果的に進めるため、私は仕事の合間を見つけて、博士との往復書簡を通して、博士の質問にも答えつつ、なお自分自身の見解も述べてきたが、それは幾たびも続けなければならなくなった。博士も誠意あふれる姿勢で応えられたのである。時には静かな郊外の家に赴いて、思索を重ねながら執筆されたともうけたまわり、その真摯な姿勢に頭の下がる思いがした。
対談の要請の手紙の時点で、トインビー博士が見ていた創価学会 
「日本文明」としての日本は、第二次世界大戦において最終的には西欧、ロシア、中国に代表される文明を全て相手として戦うことになってしまった。
日本は西欧文明を代表する現代のローマ帝国とも言えるアメリカ合衆国と戦い、人類史上はじめての原子爆弾の投下を含め、全国土の都市に対する無差別の爆撃によって完全に破壊され、かつてのカルタゴのように完璧に破壊され占領された。
このことは、1929年の太平洋会議のさい、蝋山政道氏に語ったことが現実になったということであった。
カルタゴは、フェニキア人の作ったセム系の言葉を話す〝シリアック文明〟に属する国であり、地中海の支配を巡って〝ヘレニック文明〟に属するギリシャ・ローマと長年にわたって抗争を繰り返してきた。
「世界史」の上では、ギリシャとローマを別々のカテゴリーで扱おうとするヨーロッパ人の伝統があり、トインビー博士のように一つのヘレニック文明として設定することに根強い抵抗があり、トインビー史観にたいする批判点の一つ。
批判点の根拠として最も強く主張されているのは、後世にも大きな影響を残した〝ローマ法〟の体系の独自性と完成度。この点に関してトインビー博士は批判点に答えた「再考察」のなかで、ローマ法はローマ独自の独創性ではなく、同じ状況に達すれば〝ヘレニック〟の他の共同体にも起こり得たことであると反論。自説を変更していない。
〝シリアック文明〟については、地中海東岸の諸民族のうち、キリスト教を通して西欧文明に大きな影響を与えたヘブライ人を単独で独自のものとして扱ってきた西欧の学者たちから、フェニキア人をふくめた〝シリアック文明〟の設定に強い抵抗感と批判。
トインビー博士は、現在のイスラム文明にも通ずるセム語系の諸民族を総体として〝シリアック文明〟として認識することは、ユダヤ教キリスト教イスラム教という主要高等宗教を生んだ母体として大きな意味を持つとして「再考察」の中で再確認。
しかし再考察の中で、アッバース以来のイスラム文明は独自の文明として、シリアック文明から外す
〝ヘレニック文明〟〝シリアック文明〟の衝突の中から、キリスト教イスラム教が生まれる。アレクサンドロスの遠征によって、東方インド世界に拡大したヘレニック文明とインド文明の接触の中から大乗仏教が生まれる。この部分はトインビー史観の中心的なテーゼの根幹をなる歴史的な考察。
この同じテーゼの20世紀での類比としての、日本文明と西欧文明の衝突としての第二次世界大戦、太平洋戦争。
古代において敗北し苦難を経験したシリアック文明の最下層の民衆の中からキリスト教が生まれてきたように、敗北した日本文明の苦難を経験している最下層の民衆の中から新時代の要請に応える高等宗教が生まれてくるのではないかというトインビー博士の見通しと期待。1956年の訪日、1967年の訪日で一番確認したかったことでないか。そのような直接の記述はないが、蓋然性は高い。現在、唯一のトインビー博士の伝記であるマクニールの「トインビー」において、対談のいきさつについて事実の誤認はあるが、そのような趣旨の記述。
その期待に沿う形で登場してきた創価学会。その若き指導者としての池田先生。
1969年、トインビー博士より池田先生に対談を求める一通のエアメール。
1972年、1973年、二度の対談。
1975年、トインビー博士と池田先生との対談「21世紀への対話」の出版。
トインビー博士の人生の総決算としての「21世紀への対話」。
「21世紀への対話」の中で、トインビー博士が最終的な結論に至ったこと。前書きで博士自身が記述。


トインビー博士の歴史観と仏法史観・創価史観

第一次世界大戦第二次世界大戦という人類史上未曾有の大量殺戮が行われ、核兵器という究極兵器が出現した20世紀前半の課題を真剣に受け止められ、、西欧文明をリードしている強国であるイギリスの中でも最高のエリートの道を歩んでいたにもかかわらず、あえてその道を外れても、この“戦争”という人類の宿痾を解消する方途を人類の歴史に求め、大著「歴史の研究」(「A SUDY OF HISTORY」)を30年以上の歳月をかけて著述し、同時に「国際問題大観」(「SURVEY of INTERNATINAL AFFAIRS」)の執筆を通して、また戦時のイギリス外務省の勤務を通して現実の国際関係の状況をつぶさにに確認し、人類世界から“戦争”をなくする方途を最終的には,新しい“高等宗教”に求め、その究極の結論を、21世紀を超えて未来の人類社会にまで届けるために、自らの学問探究の結論として次の人類の運命を開くと確信した大乗仏教系の高等宗教である創価学会池田大作氏と対談し「21世紀への対話」(「CHOOSE LIFE」)を残された。

“人間革命の新たな文明”建設を  2021年1月8日付け聖教 池田先生 第一回本部幹部会へのメッセージ

「太陽の仏法」の赫々たる陽光を、二度の世界大戦に喘ぐ20世紀の闇に、黎明の如く決然と放っていかれたのが、牧口先生と戸田先生であります。創価の師弟は、「十界互具」「一念三千」という、人生観、社会観、宇宙観、まで明かした最極の哲理を掲げて、一人一人の胸奥から元初の希望・勝利の太陽を昇らせていきました(2021年1月本部幹部会・池田先生メッセージ)

 

クリストファー・ドーソンのトインビー批判

クリストファー・ドーソンは1889年10月12日、イギリスに生まれ、ウィンチェスター校・オックスフォード大学と、1889年4月14日生まれのトインビー博士とは、同年の生まれであるばかりでなく学歴も共通しています。もっともトインビー博士は、ウインチェスター校にストレートではなく一年遅れて入学していますから、同窓であっても同級生ではなかったかもしれません。また、ドーソンはカソリックの立場に立った歴史家・文明論者としても有名であり、「Dynamics of World History」をはじめとして数々の著書があります。ここで引用するのは「Danamics of World History」の中のトインビー批判の一節です。
 クリストファー・ドーソンの批判は、第二次世界大戦後の1954年に、トインビー博士の「歴史の研究」のⅦ巻からⅩ巻が発刊され、第二次大戦前に出版されたⅠ巻からⅥ巻に加えられて、全10巻が完結した段階で書かれました。第二次世界世界大戦後、サマーヴィルによって「歴史の研究」の縮刷版が1946年に出版され、欧米の市民層から爆発的ともいうべき好意的な受け止めをされていたトインビー史観でしたが、全巻が完結した1954年以降、専門の歴史学者を中心として批判が集中しました。19世紀以来の伝統的な科学的方法論に基づいて研究を進めてきた歴史学者にとって、トインビー博士の「歴史の研究」は、驚天動地と言っても良い内容であり、批判が集中するのは当然であったかも知れません。この批判の嵐の後、専門の歴史学者からは、ほとんど意識的に無視されるかたちとなって、今日に至っています。
このクリストファー・ドーソンの批判は、トインビ―史観の本質をよくとらえ、丁寧に書かれていると思います。その意味で、トインビー博士の「歴史の研究」の概論を確認する上で役に立つと思います。以下、引用しながらその観点からコメントを書いていきます。
トインビー研究別巻p91
「トインビー博士の『歴史の研究』は、最後の四分冊〔1954年・全部で10巻になる英語版完成〕の出版によって完結された。いまや、博士の研究全体を包括的に考察して、その意義と価値についてなんらかの意見を述べるということが可能になった。しかし、これは容易な仕事ではない。あれほどの博識と確信をもって書かれた六千頁にのぼる一大研究を軽々しく批判することは許されない。かといって、同じ分野の研究者たちの批判にたよるということもほとんど不可能である。すくなくとも我が国〔イギリス〕では、そのような研究者があまり見当たらない。
まず思い当たることは、この研究が、一方では、とくにアメリカでは、非常な人気を博しているのに、他方では、とくに我が国〔イギリス〕では、歴史の専門家から冷淡に、あるいは過酷なまでに、批判されているという事実である。このことは、今日まで文明なるものが歴史研究でとりあつかうべき適当な問題であると見なされなかった点から考えるならば、別に不思議なことではなさそうである。歴史学は、民俗と国家、政府と制度、などをとりあつかい、文明の研究は、もっぱら哲学者や社会学者の手にゆだねられてきた
このような研究体制は、歴史家が同一の文明の伝統を享受しているヨーロッパの諸国だけを問題とし、東方世界の研究は植民史の枠内でとりあつかわれるといった過去の時代には、相当の成果をあげえた。しかしながら、今日では、このような研究体制で問題を究明せんとすることは、もはや不可能である。近代史は、ヨーロッパ諸国間の抗争や接触と同じ位、ないしはそれ以上に、諸文明間の抗争や接触を重視しなければならない。今日、一般の人々は、いまや歴史の舞台の主役として台頭しつつある世界の偉大な各種の社会について知りたがっている。しかるに、一般の歴史書は、こういった読者の期待に添いえない現状にある。といったようなことが、トインビー博士の研究を明白に意義づけており、また博士の研究が広く人気を博している主な理由の一つでもある。われわれは、博士の結論に賛成であると否とを問わず、歴史研究は文明の研究を包含してしかるべきであるということ、ならびに、西欧およびアメリカの諸国や人民の研究に限定された歴史は一面的かつ不完全であるということ、を認めるべきである。」
この部分において、トインビー博士の「歴史の研究」において、「理解可能な歴史の範囲」としてとりあげられ、「歴史の研究」の基本的な歴史認識のカテゴリーとなっている「文明」単位での歴史認識が、専門の歴史学者にとって強い違和感と抵抗を感ずるかを論じています。しかし、クリストファー・ドーソンは「文明」単位の歴史認識の必然性を時代の変化をふまえて肯定しています。
トインビー研究別巻p92
「さて、トインビー博士が、現存する東・西側両文明、ならびにそれぞれの先行文明、の比較研究を試みられたのであれば、まことに有益な貢献をされたといえよう。ところが実際には、それ以上のことを試みられたのである。博士は、あらゆる文明の興亡を決定する法則を発見し、諸文明の将来に関する予想を立てるために、かつて存在したあらゆる文明の研究を試みられたのであ。これこそは、30有余年の昔に、かのオズワルト・ショペングラーが試みたと同じ試みである。この二人の著者の気質や哲学は、著しく相違している。にもかかわらず、トインビー氏の理論の原形は、ショペングラーの文化形態論とかなり類似している。この二人の著者は、文明の画一性を否定する点において一致しており、両者はいずれも、諸文明をば、文明相互の関係においても、また諸文明が多分発生したと思われる原始社会の社会からも、はっきりと区別される自律的な実体であると考えている。しかし、トインビー氏は同氏の21の諸文明を同等にして同時的な同種類の単位(ユニット)とは見なしてはいるが、それは、文化(ドイツ語における文化は英語圏の文明と同じ意味)をばまったくの生物学的な意味における有機体としてとりあつかい、一コの文化(文明)の歴史は、一人の人間あるいは一匹の動物、一本の木、一輪の花の歴史とまったく同じようなものである」とするショペングラーの説ほど極端ではない。
ショペングラーが彼の理論を編み出すために用いた確固たる論理、あるいは自分の理論を説明するために駆使した奇想と文体とは、きわめて印象深いものである。さりながら、その素晴らしい構成も、明らかな誤謬のために損なわれている。もし、各文化(文明)が完全に自己充足せる小宇宙であり、それぞれが独自の、そして相互に伝搬することの不可能な芸術・宗教・哲学・科学などを具備しているとすれば、歴史家はいかにしてそれ固有の文化(文明)を外部に取り出してその生成の全過程を外部から知ることができるであろうか。この点で、ショペングラーの歴史哲学は自己矛盾に陥っているといわざるをえない。個人は、いかなる状況の下においても、自己が所属している文化(文明)の限界をけっして超越しえないことを示しながら、それと同時に、世界のありとあらゆる文化(文明)を外部から眺め、それらの文化(文明)の興亡と、それらの生命の循環の全進化を支配しようなどというごとき大それたことを試みて、ショペングラーは自分自身の法則を中途半端のものたらしめてしまっている。」
この部分から、クリストファー・ドーソンの批判点が表現されてきます。「歴史の研究」が「文明」単位の認識を進めるのは良いが、そこにショペングラー流の有機体に擬した文明の発展過程を持ち込むことは誤りであるとしています。しかし、この部分について考える上で重要なことは、トインビー博士の「歴史の研究」は、1914年のいわゆるツキディデス体験を原点としているということです。ウィンチェスター校・オックスフォード大学でのギリシャ語とラテン語を通しての古代ギリシャローマ世界〝古典古代〟の徹底的な教育、トインビー博士自身も回想しておられますが、ほとんどその時代に生きていると同じレベルにまで習得することを要求する教育でした。その基盤があった上で、1914年の第一次世界大戦の勃発の瞬間を経験したところに、この〝哲学的同時代性〟とトインビー博士が表現されている内容が成立します。事実、「歴史の研究」の前半は、文明の誕生、成長・発展、「break down」と表現されている挫折、文明内の諸勢力が争う動乱時代、その中の有力な勢力による、その文明全体の軍事的な統一、その後の衰退、滅亡と進行していく「文明」の諸段階を検討していきますが、その際に指標として使われているのがいわゆる〝古典古代〟、具体的にはギリシャ・ローマ文明である「ヘレニック文明」です。トインビー博士はヘレニック文明の諸段階との比較検討から、その他の諸文明を認定・検討しています。誕生から崩壊までの一連の段階が明確に認識できる「ヘレニック文明」を指標とする段階では「文明」諸段階の認識が目立つのはやむを得ないと考えます。
トインビー研究別巻p93
「トインビー氏は、〔ショペングラーの〕この哲学的な「離れ業(tour de force)」が不合理であるということを認識している。トインビー氏は、ショペングラーとは違った方法でこのことを試みている。だが、すべての文明には共通の要素が存在するということ、すわわち、科学や倫理は個々の文明の限界を超越しているという事実、は否定していない。ところで、この場合、例の21の文明はなぜいかなる意味においても同等であるといえるのであろうか。すくなくとも、その理由は理解しがたい。なぜなら、それらが、科学的業績とか倫理的発展の面において、同じ水準にあるなどというようなことは、とうてい考えられない。仮に一歩譲って、各文明が、それぞれ他の文明におよぼしたと思われる寄与・貢献だけではなしに、一コの全体としてそれ自体のために研究するに値する理解可能な研究領域であるとしても、すべての文明を哲学的に同等なものとして見なすことは、とうてい不可能である。それは、ちょうど、われわれが国家というものを自治的な政治的実体として研究するとしても、国家という国家が政治的・社会的発展の面において相互にいずれも同等であるというわけにはゆかぬのと同じである。
かように、トインビー博士のはじめの数巻においては、私は、同氏の判断の基礎になる道徳的絶対論と同氏の理論に現れている文化的相対説とを調和させることの困難さに当惑せざるを得なかったしかしながら、この問題は、すくなくとも最後の完結部に当たる四巻(1956年に出版された7,8,9,10巻)の出版によって、解決されるにいたった。トインビー氏は、これらの新しい諸巻の最初の部分で、すなわち、「世界国家」(universal state)と「世界教会」(universal church)という問題に関する箇所において、新しい原理を披瀝している。その原理は、同氏が初期の見解を根本的に修正したことを示し、かつショペングラー流の同等の諸文化(文明)の相対的現象学から19世紀の観念論的哲学者たちの歴史哲学へと同氏の「歴史の研究」が変質していったことを意味している
すでに第五巻において予見されていたこの変化は、諸文明が哲学的に同等のものであるという同氏の初期の理論が放棄されたことを明示するとともに、高等社会を代表し、諸文明に対してはちょうど原始社会に対する高等社会と同じような関係にある「高等宗教」において具現化された質的原理を導入したことを示しているかくしてトインビー氏の歴史理論は、ショペングラー説のごとき循環論に陥ることなく、原始社会から出発して第一代、第二代の文明を経て、歴史が究極的なゴールを見出している高等宗教へと向上する漸進的な一連の四つの世界を舞台とするにいたるのである。同氏自身の言葉を借りるならば、歴史研究は「われわれが探求しはじめたころの近代西欧世界の地方的な諸国家のごとくに、今度は諸文明がわれわれにとって理解可能な研究領域とならなくなってしまい、宗教の進歩に役立つということを除けばその歴史的意義を喪失してしまったという点」(Ⅶ,p.449.)に到達したのである。」
この部分でクリストファー・ドーソンは、トインビー博士の「歴史の研究」の前半であるⅠ巻からⅥ巻までの部分と、第二次世界大戦後に著された第Ⅶ巻から第Ⅹ巻までの部分の変化を正確に捉えています。「高等宗教」「世界国家」の検討段階でトインビー博士は熟考した結果として、それまで一つの「文明」のなかの一要素としてとらえていた「高等宗教」を、「文明」とは別の独立した存在として考え直しました。クリストファー・ドーソンは、それまでの認識を180度変更したことになる、「文明」と「高等宗教」との関係の逆転は、トインビ―史観における革命的変化であるということを強調しています。
この部分に注目したということは、クリストファー・ドーソンの従来からの視点、宗教に重要な歴史的意義と意味を見る視点が働いているようにも思います。トインビー博士も、のちの「再考察」の中で、このクリストファー・ドーソンの文章をそのまま引用して、その論点の意義を論じています。
よくトインビー博士の歴史観は前半の「文明」中心から、後半は「高等宗教」中心に変化したと言われますが、そのことの意義を正確にクリストファー・ドーソンは捉えていると思います。時代的にも空間的にも同等の立場で並列している「文明」を単位とするかぎり、歴史の進行は繰り返しを基本とする「循環論」的になります。しかし「高等宗教」を文明の進行とは別の次元で進化するものとすると、歴史はある目標に向かって進化していくとする「進化」の過程を踏まえる思想になっていきます。これは「神の国」を目指す、ユダヤ教キリスト教イスラム教に共通する、またキリスト教を裏返しにしたといわれるマルクス主義哲学の理想の「共産主義社会」をめざす進歩の発想につながります。
この視点を敷衍していくと、重要な観点がつぎつぎと生まれていきます。
まず、ここでトインビー博士が「文明」と「高等宗教」の関係を考察する上で、重要な考察の材料としているのが「ヘレニック文明」とキリスト教の関係です。今から1300年前に崩壊した「ヘレニック文明」の時代にすでに存在しキリスト教は、さらに現在に於いても、多数の人々の生き方に対して重要な影響力を及ぼして存在しています。西欧文明が成立する上での重要な構成要素として、ギリシャ・ローマ文明の文化的遺産をあらわす「ヘレニズム」キリスト教の要素をあらわす「ヘブライズム」、この二つの要素を表現して「二つのH」と通称することがあります。まさにこの事実についての考察が、トインビー博士が「文明」と「高等宗教」の関係性についての認識を転換する上で、重要な意味を持っていたと思います。
さらに、キリスト教を生み出す母体となったのは、ヘブライ人の宗教経験です。ヘブライ民族には、周辺の大国にその運命を左右される過酷な歴史的経験、アッシリアによるイスラエル人の捕囚、新バビロニアによるユダヤ人の捕囚があり、ユダヤ教キリスト教イスラム教などの「一神教」を生み出す上で重要な意味をもつ歴史的経験となっています。
さらに、ペルシャ帝国によって解放されて故地に帰還したあと、支配的な影響力をもってヘブライ人の世界に浸透しつつあったヘレニック文明受容の可否を巡っての「ヘロデ王」に象徴される受容賛成派と「ゼロド派」に象徴される受容拒否派との対立。この歴史的な事実・経験は、文明の接触、受容、対立抗争について貴重な例証・経験として重要な意味をもっています。とくに16世紀の西欧人の世界進出以来、西欧文明をいかに受け止めるかが、それぞれの文明の根本課題となっている現在、この経験は実際的な意味をもっています。世界史を考察するときに、日本文明における19世紀・江戸時代末期の「攘夷」か「開国」化の対立。朝鮮文明における19世紀「独立党」「事大党」の対立、中国文明における「洋務運動」とそれに反発する「西太后」を中心とする派の対立、イスラム文明におけるオスマン・トルコの数々の西洋化の運動とそれに反発する勢力との対立、インドにおけるセポイの反乱に象徴される反発とその後のインド独立においてのガンジーの運動、ロシアにおけるピョートル大帝の改革にはじまる西欧文明の受け止めから始まるスラブ愛国派と近代化を目指す勢力との対立、ロシア革命もその西欧化の動きに対するロシア人の応答の一つであると、トインビー博士は明確にその認識を持って論じています。
さらに、キリスト教の成立を考えた時、支配勢力としての「ヘレニック文明」と被支配者としてのヘブライ人、フェニキア人、アラム人が含まれる「シリアック文明」との接触から生じる歴史現象を、しっかりと考察していくことも重要です。この「シリアック文明」は、セム語族に属するアラム語を日常の共通語として主に地中海東岸に紀元前後に成立した文明とトインビー博士は設定します。この中には現在、ほとんどの国で使用されている「アルファベット」の使用を開始したフェニキア人、ユダヤ教キリスト教を開始したヘブライ人等、現在にも大きな影響をもつ民族が含まれます。「文明」と「文明」の接触は、利害上の対立関係から軍事的な「衝突」に発展して行く場合があります。この場合は原理とする信条が異なる「文明」と「文明」との衝突は、妥協を許さない相手に対する徹底的な破壊に至ることがあります。トインビー博士自身は、後に「ハンニバルの遺産」という著作でこの状況を、学問的な論文として扱い論じています。また第二次世界大戦の最終段階で、世界の全ての諸文明を代表する国家と戦い、人類初の核兵器を使用されることによって、国土を完全に破壊されることになった「日本文明」の運命についても、1929年の時点で「哲学的同時代性」の視点を援用して「カルタゴの運命」と重なる日本の運命について論及しています。
さらに、この文明の接触・衝突が生み出すことになった宗教的経験から生まれてきたキリスト教をトインビー博士は「高等宗教」とします。「高等」という価値判断を下す根拠について、トインビー博士はその歴史的意義をしっかりと論じています。つまり、文明の衝突は徹底的な破壊まで進行する悲劇も生むが、その一方で、その敗北した文明の中から、この歴史的な悲劇を根底的に止揚する可能性を持つ普遍的な「高等宗教」を生み出す可能性がある。この部分がトインビー博士の歴史観の究極的な意義であることは間違いありません 。
 クリストファー・ドーソンの分析はさらに続きます。
トインビー研究別巻p96
これは、革命的な変化である。その意味を十分に評価するには、第七巻の第七表に順を追って配列されている諸文明および諸宗教に関する詳細な表を研究しなければならない。その表はトインビー博士の新しい理論が、いかに当初の二十一の独立した同等の文化系列を変形させたかということを示している。それは、六つの段階に配列されている。・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この詳細なる文明と宗教との分類は、きわめて複雑であるがために、われわれがそれを細部にわたって綿密に理解するには、そうとうな研究が必要である。しかし、すくなくとも、文明が興亡する循環運動そのものが歴史の全体ではないということは明白である。循環運動は、世界宗教によって代表されている精神的普遍性という、より高等な原理に従属している。そこで、歴史は今一度進歩的かつ合目的的なものになるわけである。すなわち、ヘーゲルのごとき19世紀の観念的哲学者が考えたような精神的進化の過程をたどるもの、とされるのである。・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・
にもかかわらず、トインビー博士の歴史哲学の結論は、ズブの素人や職業的歴史家のいずれによっても受け入れられないだろう、と私は考える。それは、ズブの素人にはあまりにも難解かつ学究的でありすぎるるし、職業的歴史家にはあまりにも思弁的かつ観念的でありすぎる。トインビー氏が到達した占めて二十三の諸文明の分類方式に同意するような歴史家は、ほとんどないであろう。中国文化の三つないしは四つの連続的な諸様相から三つの個別的な文明を創り出すことは、独断的であるように思われる。同様のことが、同氏のいわゆる三つのキリスト教文明―――西欧文明・東方正教文明・ロシア正教文明―――についてもいいうるわけである。もし、これらのすべてが別個の文明として分類されるのであれば、なぜ朝鮮の文明と日本の文明とが同一視されねばならぬのか。また、きわめて特殊なチベットビルマやシャムの文明が、なぜ同氏のリストでは個々ににとりあつかわれていないのか。これでは、チベットないしはビルマがインドに近接している以上に、ロシアがヨーロッパに近接し、また回教ペルシャが回教シリアに近接している、というようなことになりかねない。」
この部分の朝鮮文明、日本文明は当初、中国文明の影響を強く受けた極東文明として提示されました。このような扱いに対するクリストファー・ドーソンの指摘は、トインビー博士にとって貴重な指摘として、最終的には「再考察」「図説・歴史の研究」において訂正されています。ちなみに、トインビー博士が最新の考古学の成果を反映して文明表を変更したのは1970年代までです。とくに南北アメリカの諸文明、アジアの文明については大きく変更しました。また、インド、中国の文明については幾つかに分けていたものを一つとする、一貫性を強調する判断に変更しました。1970年代以降、21世紀の今日まで50年近くの年月が流れ、その間、考古学は着実に進展し、一例をあげれば中央・南アメリカでの知見は確実に拡大し年代も大きくさかのぼって、すでに古代エジプト文明と同時代にまでさかのぼることができる遺跡も発掘されています。したがって、世界の諸「文明」を確認・確定するためには、学問の進展を待って常に変更を加えて行く必要があります。「文明」については、このような可変的な要素が或る存在であると認識していくことが大事になってくと思います。トインビー博士も、最終的にはそのように考えられていたと思います。
 トインビー研究別巻p97
しかしながら、歴史家がとくに反対していると思われるのは、第三代文明も高等宗教にとって代わられるとするトインビー氏の見方である。この理論に従うと、文明というものは、第二代の段階において高等宗教を生み出すことによって、その目的を達成してしまったということになる。同氏によれば、文明は、そうすることによってそれ自体の使命を果たし、新たなるより高等な形式の社会―――すなわち、世界教会―――にとって代わられるのである。それゆえに、第三代文明は歴史的機能を有しない。すなわち、それらは、初期の歴史的段階の徒らなる反復にすぎないから、歴史家にとってはなんら本質的価値を有しない。すなわち、それらは、初期の歴史的段階の徒らなる反復にすぎないから、歴史家にとってはなんら本質的価値を有さぬ存在と化してしまう。同氏が説明しているように、その歴史的過程は、四つの段階から成り立っている。つまり、⑴原始社会、⑵第一代文明、⑶第二代文明、⑷高等宗教、という四つの段階のみから成り立っている。
さて私は、この見解が歴史家一般からはげしく攻撃されることは必至であると考える。なぜなら、これらの第三代文明こそは、近代科学化された歴史研究の主要な領域だからである。・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・
たしかに私は、大多数の近代史家に逆らうことになるかも知れぬが、トインビー博士の、文明は宗教に役立つために存在するのであって、宗教が文明に奉仕するために存在するのではないという中心命題に同意したいと思ってい。だからといって、このことは、なにも直ちに、文明は消滅して教会にとって代わられねばならないということを意味してるのではない。これと同様のことが、マルクスの歴史理論において、国家は消滅して階級のない社会にとって代わられると予想されている関係にもいいうるわけである。人間がこの世に存在するかぎりは、文明とか文化が存在するはずである。従って、文明が世界宗教の真理を受け入れるとしても、そのことはかならずしも文明を教会たらしめてしまうことを意味しない。」
この部分で、クリストファー・ドーソンは、トインビ―史観の「高等宗教」と「文明」とに関する観点に賛成しています。さまざまな批判論がトインビー博士の史観に対して加えれていますが、「たしかに私は、大多数の近代史家に逆らうことになるかも知れぬが、トインビー博士の、文明は宗教に役立つために存在するのであって、宗教が文明に奉仕するために存在するのではないという中心命題に同意したいと思っている」とまで言っているのは、クリストファー・ドーソンのみであるように思います。カソリックという宗教的な立脚点を持つクリストファー・ドーソンにとっては、この自身の意見表明は自然であると思います。しかし、そうだからと言って、トインビー博士の視点に完全に賛成しているわけではありません。いくつかの重要な疑問点をあげています
トインビー研究別巻p99
「さらに私は、トインビー博士の歴史から神学への還元法(ロジャー・ベーコンの表現を借りた)が、歴史家よりも、神学者や比較宗教の研究者から、はげしく反対されるであろうと想像する。事実、神学者の批判は、歴史家の批判と軌を一にしている。歴史家がトインビー氏の例の文明の表を受け入れがたいと考えているように、神学者たちも同氏の第一代宗教に関する表に驚かざるをえないであろう。まず第一に、同氏が現存する宗教の範疇を四つだけすなわち、キリスト教イスラム教・ヒンズー教大乗仏教の四つだけに限定している理由を理解することが困難である。ユダヤ教を現存する宗教の一つとして認めることに反対する神学者は、ほとんどいないはずである。仏教の場合でも、いまなおセイロン・ビルマ・シャム・カンボジアなどで支配的な宗教となっている仏教の一種を除外しているがこときことは、独断的すぎるように思われる。この仏教の方が、すでに中国や朝鮮ではほとんど死滅してしまって、現在わずかに日本とチベットとネパールのみに存続しているにすぎない大乗仏教よりは、はるかに活気がある。」
この部分では、高等宗教としてトインビ―博士があげているのがなぜ、四つの宗教に限定されるのかということについて、疑問を投げかけています。とくにトインビー博士がユダヤ教を高等宗教のリストから外したこと、小乗仏教を無視してこの時点では確かにクリストファー・ドーソンの指摘の通りの状況であった大乗仏教を選んだことについて、強い疑問を発しています。
トインビー研究別冊p100
「もちろん、極東の宗教―――すなわち、ヒンズー教大乗仏教―――は、トインビー博士の宗教的混合主義の典型にかなり適合している。だが、これらの宗教が同氏の説に合致しているわけは、歴史の意義を否定し、永遠と宇宙とが相互に継承し合って眩惑的な錯綜を生じて、神の単一性と仏陀の歴史的人格とが、仏陀とか菩薩とか、男神・女神・半神・精霊などのごとき漠然とした神話的人物の存在によって見失われているような宇宙論かつ神話的幻想ともいうべき夢の世界を創造している点にある。他方、西欧の三つの高等宗教―――すなわち、ユダヤ教キリスト教イスラム教―――は、それとはまったく異なった途を歩んできている。それらの宗教そのものは、創始者たちの歴史的現実と密接不可分な関係にあり、しかも神とその民との間には独特の関係が樹立されている、といった存在である。であるから、この二つの異なったタイプの諸宗教を対象とした混合主義なるものは、必然的に一神教的な宗教の否定を意味し、汎神論的ないしは多神教的宗教による吸収を意味しているわけである。もちろん、そういった過程は、考えられないこともない。しかしわれわれは、それが可能であると推定する歴史的根拠や、そういった過程が望ましいとか正当であるとする推測する神学的根拠を持ち合わせていない。これまでの歴史の主要な傾向は、そのお人好しの競争相手を犠牲にすることによって、急速にその勢力範囲を拡大し続けてきたのである。」
この部分において、トインビー博士が高等宗教としたキリスト教イスラム教、ヒンズー教大乗仏教の四つの宗教について、なぜ四つだけのなかという疑問と共に、さらにヒンズー教大乗仏教という他の宗教に寛容な二つの高等宗教を選別したのかという点について、疑問を呈していますトインビー博士の原文の論旨を辿ってくると、トインビー博士が「高等宗教」を他の諸宗教から分別した理由は明確です。「歴史の研究」の最後の部分、イギリスのエディンバラ大学のギフォード講演に招待されて、1952年から53年にかけて講演した結果を出版した「一歴史家の宗教観」の最後の部分、また回想禄の最後でもこの件を論じています。一貫してトインビー博士が判断の基準としているのはどの宗教が「戦争に対する反対」の姿勢を貫いているかという点です。この基準で、歴史の事実を通して判断していった時、ある特定の民族にのみ限定されているという視点でユダヤ教は外れますし、歴史上の様々な事件を通してキリスト教イスラム教は外れます。この、クリストファー・ドーソンの文章の中でいみじくも表現されたように、
この二つの異なったタイプの諸宗教を対象とした混合主義なるものは、必然的に一神教的な宗教の否定を意味し、汎神論的ないしは多神教的宗教による吸収を意味しているわけである。もちろん、そういった過程は、考えられないこともない。しかしわれわれは、それが可能であると推定する歴史的根拠や、そういった過程が望ましいとか正当であるとする推測する神学的根拠を持ち合わせていない。これまでの歴史の主要な傾向は、そのお人好しの競争相手を犠牲にすることによって、急速にその勢力範囲を拡大し続けてきたのである。」と明確に歴史的な経緯を指摘されたように、ヒンズー教大乗仏教の現実は、この文章が書かれた1954年の時点では、その通りであったと思います。1956年にトインビー博士は訪日されます。その際、日本の朝野をあげての歓迎体制の中で、当時の日本を代表する歴史学者と長時間の懇談、質疑応答の機会がもたれました。その様子は、当時の雑誌記事やさまざまな著作の中に反映されていますが、なかでも桑原健夫が図説「歴史の研究」の後書きに書いて或る文章が印象的です。桑原健夫氏はトインビー博士の質問のほとんどが大乗仏教に関するものであったと書いておられます。また、日本訪問を含む旅の様子は「東から西へ」という旅行記として出版されました。その中で日本については、第二次世界大戦の敗戦という事実に対して、日本人の宗教的な応答を、日本におけるキリスト教、既成仏教、新興宗教の動きについて主に記述しています。経済的な復興、政治的な問題については、ほとんど触れていません。トインビー博士の歴史家としての関心のあり方を象徴している部分であると思います。
文明の衝突の結果として、軍事的に徹底的に敗北した「文明」の宗教的な「応戦」として「高等宗教」が、「最下層の民衆の中からの自発的な動き」として登場するというトインビー博士の歴史観にそって考えていったとき、トインビー博士の人生最後の大きな仕事として考えられる、創価学会池田大作会長との対話を、トインビー博士が自ら求めて行った意味が見えてくるように思います。
この途にいたるさまざま判断の段階でトインビー博士が用いている基準は一貫して「戦争否定」です。「21世紀への対話」と日本語名がついていますが、トインビー博士自身が選んだ名称は旧約聖書から選んだ「Choose Life」です。現在においては、戦争は最終的には核戦争であり、勝者敗者をこえて全人類滅亡につながる「死」の選択です。人類は「生」を選ぶために、何を選ぶべきか。この題名には深い意味があり、私たちに選択を迫っていると思います。    
 
 

“トインビーと創価学会”・・・マクニール著「TOYNBEE」より

 

  • トインビーの視点からみて、創価学会はまさに、歴史的な時期としての(現在)に対する彼の洞察の中で期待していたものであった。それは新しい教会(→世界教会)であり、キリスト教の後の世界の周辺に立ち上がり、主に内的プロレタリアート(→社会構造の中に組み込まれてはいるがほとんど無権利状態におかれている人びと)にアピールし、その正当性は古い時代の迫害された信仰に由来する。
  • 創価学会と)初期キリスト教史との比較は、かなり心躍る経験であり、トインビーは英訳された池田の著作の一つ(小説「人間革命」)に書いた序文の中で、明示的に創価学会の世界宣教(mission)とローマ帝国内において勢力となる前夜のキリスト教教会を比較している。
 
  • When an Englishman living in Japan reproached* him for his association with Ikeda, Toynbee defend himself, writing:"I agree with Soka Gakkai on religion as the most important thing in human life, and opposition to miliitarism and war. "ある日本に住んでいるイギリス人がトインビーの池田に対する親密さを咎めて書いた手紙〔I find your association with President Ikeda and his vast organization, that is not without its questionnable teachniques of coereed conversion and its fund raising potencials , just a little out of character  I find your association with President Ikeda and his vast organization, that is not without its questionnable teachniques of coereed conversion and its fund raising potencials , just a little out of character〕に対して、「私は創価学会が、宗教こそ人間の人生にとって最も重要であると言っていることに賛成するし、軍国主義と戦争に対して反対していることに賛成します」と返事を書いている。
 
  • To another remonstarance he replied:"Mr Ikeda's personality is strong and dynamic and such characters are often controversial.My own feeling for Mr.Ikeda is one of great respect and sympathy."他の諫言、いさめに対して彼は「池田氏の個性は強力で、ダイナミックでありそのような性格はたびたび物議を醸すことがある。私自身は池田氏に対して、偉大な尊敬と共感を感じている」と答えている。

トインビー博士にとっての戦争 回想禄Ⅰより

トインビー博士にとっての戦争とは、単なる歴史的な事件事象のレベルを超えて、その廃止を心の底から決意することによって、トインビー博士の生涯の転機と学問上の進化・変化を動機づける本当に重要な契機になっていると思います。その内容を回想禄1の中から引用します。

チャタムハウスにおける33年より
p107
私にとって『大観』の執筆が知的のみならず倫理的にも満足すべきものであったということはどういう意味なのか。国際的な出来事を客観的非個人的に研究していく、という意味において「科学的」であることを意図した仕事に、倫理的な満足がどうしてあり得たのか。『大観』を執筆するに当たって、私個人の希望と恐れや、正邪についての私の判断が、記述に影響を与えることのないよう、私は全力を尽くした。そしてこの目的を達成していないということに気づいた場合には、読者が私の偏見に気づいてこれを割引きして考える助けになるように、自分の手の内を見せるために最善を尽くした。(人間事象を研究する者で、個人的な偏見に影響されずに研究できると想像する人は、誰であれ間違っている。人間事象を研究する者にできることは、せいぜい自分の偏見を看破してこれを明らかにすることだけである。)
 
チャタムハウスにおける33年より
p107
私にとって『大観』の執筆が知的のみならず倫理的にも満足すべきものであったということはどういう意味なのか。国際的な出来事を客観的非個人的に研究していく、という意味において「科学的」であることを意図した仕事に、倫理的な満足がどうしてあり得たのか。『大観』を執筆するに当たって、私個人の希望と恐れや、正邪についての私の判断が、記述に影響を与えることのないよう、私は全力を尽くした。そしてこの目的を達成していないということに気づいた場合には、読者が私の偏見に気づいてこれを割引きして考える助けになるように、自分の手の内を見せるために最善を尽くした。(人間事象を研究する者で、個人的な偏見に影響されずに研究できると想像する人は、誰であれ間違っている。人間事象を研究する者にできることは、せいぜい自分の偏見を看破してこれを明らかにすることだけである。)
 
p107
今私個人について言うなら、二度の世界大戦に生き残り、原子兵器の発明を目にするまで生きてきて、私は自分の生きた時代の国際問題の研究が自分に課した行動について、何の疑いも持っていない。今私は、専門とする仕事において客観性を追求することに献身する歴史家としてではなく、一個の人間、曾祖父、市民として、物を言っているのである。一個の人間としては、私は自分の目に映る世界を静かに眺めていることに甘んじることはできない。「世界の本性は、かくのごとき欠陥に満ちているのだ」(ルクレティウス『事物の本性について』二巻181行)。私の生きた時代に人間が互いに害悪を与え合うのを私は見てきた。人類がこの害悪をいくぶんでもあらためるのを手伝うために、私としてできるかぎりのことをしても、その行動の結果はごく微小なものであるかもしれない。しかしそのような行動のための装備と刺激を与えてくれるのではなければ、世界についての私の研究は不毛で無責任なものであった、ということになろう。私と同年配の人々のうちあれほど多くの人の命を途中で絶ちきるという罪を犯した運命に、私の孫たちや曾孫が襲われることのないように、私はできるかぎりのことをしなければならないのだ
 
p108
 このような時と所に生き、そしてこのような教育と経験を受けてきた私としては、戦争を廃止する方向に向かって私の生きている間にできるかぎりのことをすることに、1914年8月以来とりわけ意を用いてきた。戦争は人間の現存する一切の制度のうち最も悪しきものである。ところがそれは人間が強情にも固くしがみついている制度でもある。1914年には、戦争が奪いうる人命は百万単位にすぎなかった。1914年8月6日以来、戦争は人類を抹殺しそしておそらくはこの地表にもはやいかなる種類の生物も住めないようにさえしてしまうほど、致命的なものになりつつある。「この忌まわしきものを根絶せよ。」(ヴォルテールの言葉)
 私は運命のいたずらによって第一次世界大戦のときには軍務に適さなかったが、1914年8月以降戦争の悪と直面してきた。1914年8月以前には、イギリスは数多くの「小さな戦争」――しかも侵略的な小戦争――をおこなっていたのので、われわれにその気がありさえすれば目が開かれてしかるべきであった。ところがほとんどの者はこの悪に対して倫理的に鈍感であった。例外はただクエーカー教徒だけであった。もしわれわれがまだ盲目でなかったのなら、両親は私がおもちゃの大砲で錫の兵隊を打ち倒して殺すような遊びを決してさせなかったろう。また私自身もこういう不愉快な遊びを楽しむことは決してなかったことであろう。1914年8月以来は、われわれが盲目なのは救いようのない無知のためだ、と言ってすますわけにはゆかないのである。
 
p109
第一次世界大戦終結前に、私と同年輩の人のうち半ばが戦死していた。しかし私は彼らの死を目撃したわけではない。想像に最も深い感銘を与えそして最も執拗に残るのは、自分の目で見たものである。したがって、戦争のことを考えるときにいつでも、私の見たもののうち心に最もはっきりきわだっている二つの記憶は、死んだ友の顔ではない。私には他人であった三人の人の顔である。
1915年、ロンドンで戦争関係の仕事をするためにオックスフォードを去ってからまもなく、私はある用事でホワイトホールの陸軍省へ行かされた。入りがけに正面の掲示板が目についた。そこには最近戦死の公報が入った将校の一覧表が張ってあった。この瞬間二人の婦人が私のそばを過ぎた。彼女たちはある人の死のしらせを掲示板で読んだばかりだったのだ。一人ははげしく泣いていた。もう一人は早口の強い語調でしゃべっていた――まるで、いそいでしゃべれば、自分の連れがこうむったむごい損失に追いついておそらくそれを取り戻すことができる、とでもいうように。今日でもあの二人の気の毒な婦人の顔を、あの日現実に見たのと同じくらいはっきりと心の目で見ることができる。あの恐ろしい悲しみの原因となった悪しき制度を廃止するために、私はまだ命のある間に働かねばならぬ。
 
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私が見たもので覚えている第二のものは、1921年3月にイネニュでの二度目の戦闘で戦死した若いギリシャ兵の死体である。死体は硬直し、顔色はろうのようであった。額に弾丸が貫通した跡は、一つの命をたちどころに消してしまうにはあまりにも小さな原因のように思われた。死体は、この少年の隊が急襲していた尾根の頂上にあるトルコ軍の塹壕から数ヤード下に、横たわっていた。塹壕の中には、ギリシャ軍の砲火によって恐ろしく痛めつけられたトルコの農民――勇敢な「戦陣を張った農夫」――の死体があった。この若い人々は――ギリシャ人もトルコ人も――皆母親の生みの苦しみを経てこの世に生まれ、愛情をこめて育てられたのだ。だのに今成人しようという矢先に、連れ出されて虐殺された。地上で最も貴重なものをこのように破壊する罪の原因となった悪しき制度を廃止するために、私は働かねばならぬ
 
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戦争を廃止するために働くには、私がおこなったよりもいっそう直接的な方法がある。チャタムハウスの『国際問題大観』を執筆するの三十三年を費やす代わりに、国際連盟国際連合の職員になることを志願してもよかったはずだ。しかし知的な仕事は、それ自体本質的な価値を有していることを別としても、行動のための必要な基盤である、と私は信じているので、あくまで『大観』を続けることによってわれわれの時代の(いや実際のところ戦争が始まって以来のあらゆる時代の)主たる害悪の正体をあばくのを手伝っていることになる、と私は常に感じていた。そればかりではない。この悪しき制度がそれを作り出したわれわれを抹殺する前に、それを抑制しようとするのを手伝っているのだ、ということもつねに感じていあのである
 
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戦争に対する私個人の戦いにおいては、私は全面廃止論者である。私は絶対禁酒家ではない。絶対禁酒主義がかえって失敗を招く例を、私はあまりにも多く見てきた。この分野においては、禁止は自発的な節制の最悪の敵になった、と私は信じる。アルコール中毒の社会悪と戦うてめには、回り道の方が近道よりもいっそう見込みがありそうに見える。ところが私の判断では、戦争は奴隷制と同じく、妥協のあり得ない社会悪である。通常兵器を残しておきながら原子兵器を廃止することや、兵器の量を減らしても残りのものを使用することをやめない、といったことが効果的であるとは私は信じない。私のめざすところは戦争の全面的廃止であって、それ以下のものではない。しかし私は廃止論者ではあるが、平和主義者ではない。もし1931年に満州に関して日本と戦争したり、1935年にエチオピアに関してイタリアと戦争したり、1938年にチェコスロバキアに関してドイツと戦争したりするための投票の機会を与えられてい他なら、私はこの三つの苦しい場合のいずれにおいても戦争に賛成する投票をしたことであろう。戦争に賛成する投票をしたであろうというのは、戦争を始めようとしている軍国主義者に対して何の軍事的抵抗もおこなわないことは、正しくもなければ分別のあるあることでもないと信じるからである。この場合のディレンマは苦しいものである。一方では、軍事侵略に対して抵抗しなければ世界を軍国主義者の手中に引き渡してしまうことになるし、また一方では、侵略に対して「聖戦」をおこなうなら、こちらの戦争がどれくらいの間聖戦であり続けるか予言できないからである。たとえ戦争を終わらせるために戦争をしているのであっても、戦争をおこなうときには、悪に対する解毒剤として悪を用いているわけである。そしてこの勝負においては、さいころはベルゼベル〔魔王。『マタイによる福音書』〕に有利なように詰め物がしてある。人類の長い「悲しみの道」の途上において、「戦争を終わらせるための戦争」〔第一次世界大戦は一般にこう呼ばれた〕をどれほどおこなわなければならないか、わからないのである。
 
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第一次世界大戦を終わらせるせるために命を投げ出した私と同年輩の人々は、これが生存者とその子孫が目にする最後の戦争になると信じつつ死んでいった。こうして、戦争という古い制度を廃止しようとする際、気がついてみると矛盾と挫折の中にはまり込んでいるのである。
 この経験は人をひるませるものである。しかしこれに立ち向かわねばならない。というのはそれは人生の苦しい事実の一つが持つ一面だからである。この事実とは、各世代は先人から伝え残された業(カルマ)という荷を負っているということである。現存する世代は自由な身で生き始めるわけではない。過去によって捕らえられた者として生き始めるのである。さいわいなことに、この囚人は無力ではない。受け継いだ慣習のかせをこわす能力を持っている。しかしこれをこわすには大いなる努力によるほかない。また全部をこわすことができるわけではない。人間の自由は錯覚ではないが、決して全面的ではあり得ないのである。
 今問題にしている場合について見ると、平和的な政治的行為によって戦争を廃止する自由は、たしかにある。国家間の戦争という制度は、地方主権という制度の寄生虫である。寄生虫は寄主がなければ生き残れない。そしてわれわれは地方主権を平和的に廃止することができる。地方国家が全体の従属的な一部として存在し続けながら、その主権を引き渡す――こういう世界的な連邦を自発的に作ればよいのである。これが、ライオネル・カーティスの唱えた、戦争という問題の積極的な解決法である。世界連邦の構成の細部については、教条的になる必要はないし、またそうあるべきではない。しかし何らかの形でこれを達成するために努めるべきである。原子力時代にあっては、これが大量殺戮に変わる人類の唯一の道のように見える。
 
 

トインビー博士の最初の著作 

本日、国立国会図書館の抽選当選日。この日に合わせて国会図書館の関西館から取り寄せてもらったトインビー博士の1910年代から1920年代の著作を閲覧しました。最初の著作は、トインビー博士の最初の著作で、1915年に刊行された「 Nationality & the war」です。第一次世界大戦中であり、前年の大戦勃発の際の有名な「ツキディデス体験」の翌年、トインビー博士26歳の著作です。今まで、さまざまな論文、著作の中でまだ「文明」中心の思考に入る前の「国家」中心の視点の著作の例としてあげられていましたので、そのように内容の著作と思っていましたが、実際に手にとってみると実は500頁に及ぶ大著であり、要所には精密な地図が織り込んであり、内容的にも大変に深い著作でした。第一次世界大戦開戦2年目の1915年におけるドイツ帝国の分析、ロシア帝国の分析、オスマントルコ帝国の分析が綿密になされており、パンゲルマン主義、パンスラブ主義、パンイスラム主義の分析も的確で、あらためてトインビー博士の学者としてのレベルの高さを示す内容でした。「国家」中心というよりも、すでに期せずして「文明」単位の分析が進んでいる内容でした。今まで、言われてきた 「 Nationality & the war」の内容を考え直す必要があると感じる大著でした。

二冊めは1922年に刊行された「The Western question in Greece and Turkey」です。この著作は、トインビー博士がロンドン大学から追われる原因となったマンチェスターガーディアンへの寄稿記事の取材をするために行った、1921年ギリシャ、トルコ への視察 の綿密な記録で、これも500頁近い大著でした。日を追った綿密な記録も掲載されており、内容的にも深く、あらためてギリシャ・トルコの専門家としてのトインビー博士の力量を見ることができた思いです。この視察の帰途、イスタンブールから乗ったオリエント急行の車内で「歴史の研究」の目次を書きとどめられ、それが30年後に完成した内容とまったく変わらないということも有名な話ですが、「文明」中心に世界史を記述しようと決意し、実行に取りかかるきっかけを得た旅行の内容を知る上で大事な著作であると思います。

三冊目は1925年に刊行された「The World after the Peace Conferrence」です。この著作はトインビー博士がロンドン大学を追われたあと、王立国際問題研究所に職を得て、取り組んだ「国際問題大観」の序文として書いたものが、大変に優れた国際関係の分析となっており、関係者の推薦もあり、その部分をあらためて書籍として発行したものです。この著作には、国際関係論におけるトインビー博士の見識と力量が見事に表現されており、素晴らしい著作であると思います。このあと、トインビー博士はベロニカさんとの共同作業で「国際問題大観」、夏の期間は「歴史の研究」と並行して著作をあらわして行きます。

これら、三冊の著作は、トインビー博士の生涯にわたる業績の中で、重要な転換点を準備するものとして、今後しっかりと研究していきます。