「日本文明とその将来」
「日本国憲法第九条」に対するトインビー博士の見解
高等宗教とは何か 「現代が受けている挑戦」p87.L9~ より
トインビー博士と池田先生の対談「21世紀への対話『Choose Life』」より50周年を迎えて
本年、2022年5月5日は、トインビー博士と池田先生との対談「21世紀への対話」『Choose Life』の対談が1972年の5月5日にイギリスのロンドンのトインビー博士の自宅でスタートして50年目の節目を迎えました。この日に向けて、東洋哲学研究所の研究員の皆さんの記念論文を収録した記念論文集「文明・歴史・宗教」が発刊されました。
冒頭に河合秀和氏の寄稿文が収録されています。その中で、河合氏は1967年の晩秋、2年半の英国留学を終えて、日本に帰国し大学教師となったばかりの時に、英国文化振興会の日本支部の代表者 E・F・トムリン氏から、トインビー博士が来日するので会わないかと言う誘いを受けたことを記しています。河合氏は次のように書いています。
「当時、大学の教師になったばかりの私は、比較政治という(日本で最初の)講座を担当していた。・・・〈中略〉・・・一国の歴史を国際政治の環境との関係で考え、古代政治も現代政治もいわば権力の作動という社会学的なパターンとして比較するトインビーの研究方法から多くを学んでいた」と。
河合氏はつづけて「私たちは、アメリカ大使館近くのしゃぶしゃぶ料亭で出会うことになった・・・〈中略〉・・・料亭は薄暗かったが、トインビーの眼光は鋭かった。『いま、国体思想はどうなっているか』というのがトインビーの最初の質問で会った。・・・〈中略〉・・・トインビーの質問に対して私は、もともと天皇制国家であった日本は、未だに大中小の無数の天皇たちが天皇崇拝と愛国主義を競い合うような社会であることをまず話した。さらに、戦後の新憲法の下で、頂点に立つ天皇が主権を失いその主権が国民に移ったとしても、これら無数の天皇は家庭内の家父長支配者として、あるいは企業組織や村落の指導者として縦の人間関係のなかに残っており、自由と民主主義がこの天皇制国家の残滓を克服していけるかどうかが当面の問題点であると答えた。 二番目の質問は、『創価学会はファシストか』であった。私は、創価学会は戦時中に治安維持法によって迫害された組織であり、戦前への復帰ではなく、むしろ立ち直りつつある新たな中流階級に自立心と誇りを与える運動を起こしていると思うと答えた。そして、とくに天皇制と軍国主義を支える地盤であった日本の農村では、戦後のマッカーサーの農地改革によって生活水準が高まったが、これはドイツの中流階級と農民がヒトラーを支持した状況とはまったく異なると思うと話した。重要な質問はこの二つだけであったと記憶している」
ここに記されたトインビー博士の質問と河合氏の回答には重要な意味があると思います。この河合氏との対談の二年後、1969年9月に、トインビー博士は自ら池田先生宛の手紙を書き、対談をすることを申し入れています。この河合氏の記述からわかってくることは、少なくとも対談の申し入れが行われる二年前からトインビー博士は「創価学会」という日本の〝新興宗教〟団体に強い関心をもって、情報を集めていたことになります。さらに先の二つの質問でわかるのは、まずトインビー博士は日本について戦前の日本の国家としての根本思想であった国家神道をベースにした〝国体思想〟が日本の決定的な敗北のあと日本人の中にどのように残っているのか、それとも影響力を失っているのか。また、日本の民衆の中の思想的な動きとして、戦後急速に発展したいわゆる〝新興宗教〟、その中でも急激な拡大を遂げ政治の世界にも代表を送ることになった創価学会に強い関心を持っていることがわかります。
このような関心は、実はこれよりも前、1956年の2月にイギリスを出発し、翌年の1957年8月に帰国することになった〝世界一周旅行〟の印象を綴った旅行記『東から西へ』の中で、日本の国際文化会館の招待を受け、戦後約十年の段階で来日したときの日本の印象を記述した部分に、その関心の原点がトインビー博士自身によって、綴られています。
この段階で1989年生まれのトインビー博士は、すでに78歳。数ある批判はあっても、歴史家として、いわば〝功成り名を遂げ〟世界的な知名度が確立した有名人でした。そのトインビー博士が、「創価学会」という極東の新興宗教団体に、単なる関心以上の強い興味を示すということとは、いかなる意味があったのか?
この意味を理解するためには、単に、この時点に限定したトインビー博士の興味・関心だけではなく、1929年・太平洋協議会へ英国代表団の一員として来日したときから始まり、1956年の第二回の来日時における日本に対する観察、それに基づく見解、さらにその前後のトインビー博士の著作における見解等、トインビー博士の生涯の事績・思想をも踏まえた探求が必要になってくると思います。さらに考察を加えてみると、第二次世界大戦後、日本の歴史上経験したことのない敗戦と他国軍による占領という状態のなかにおかれていた日本人がとった行動について、トインビー博士はいかなる視点をもって注目していたかという点が重要であると思います。
トインビー博士が1925年以降「国際問題大観」の年次総括報告の単独執筆者として世界全体の国際問題について観察し記述してきた方法論は、歴史家として「歴史の研究」において追求してきた方法論と重なると言ってもよいと思います。まず「国家」単位ではなく「文明」を単位とした考察であること、その考察については、常に全時代・全世界を対象とした「世界史」を基盤とすること。その中においては、1940年の5月23日にトインビー博士を講師として実施されたオックスフォード大学のSheldonian ThetreでのBurge Memorial lecture【この内容は1947年に刊行された『試練に立つ文明』のなかに「キリスト教と文明」“Christianity and Civilization”という題で収録されています】で初めて表明された「高等宗教」の発達を助け育てることが「文明」の大事な役割であると言う主張が反映されます。この主張は「歴史の研究」の後半部の主題です。
この視点で「世界史」を考察してみると、世界史上の「高等宗教」としてトインビー博士があげているのは、小乗仏教、大乗仏教、ヒンズー教、ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教です。さらに核戦争による人類絶滅の可能性が明確になった現代において戦争という人類世界の宿痾を克服し、平和をもたらす可能性を作り上げるために最も必要とされる世界宗教化した高等宗教として、トインビー博士がさらに分別されているのが大乗仏教、キリスト教、イスラム教の三つです。その中でも特に注視されていたのが、最古の高等宗教・世界宗教であり、その布教の過程で暴力による強制という手段と無縁であった大乗仏教の存在でした。ただし、世界宗教としての高等宗教は世界史上において、大乗仏教、キリスト教、イスラム教の三つしかありません。さらに、その出現の状況を世界史の中で確認していくと、これら三つの世界宗教化した高等宗教は、「文明」と「文明」の衝突の結果として出現していることがわかります。代表的なキリスト教を例にとると、この宗教は「ヘレニック文明(ギリシャ・ローマ文明)」と「シリアック文明(地中海東岸の諸民族、ヘブライ人、アラム人等の属する文明)」の衝突の結果、決定的敗北を経験したヘブライ人の最下層の庶民の自発的運動として始まり世界宗教化したものです。その歴史観で、20世紀の世界をみたとき「文明」と「文明」の衝突は存在するのか?決定的な「文明」的敗北を経験したのはどの「文明」か?「文明的敗北」とは、「文明」が成り立つうえで根幹となる統合原理としての思想・宗教の敗北ということになります。さきにあげた1967年の河合氏とトインビー博士のやりとりのなかで、トインビー博士が発した日本における「国体」に関する質問、「創価学会」に関する質問は、「日本文明」における統合原理としての「国体思想」の状況、最下層の民衆の自発的運動として、この1967年〔昭和42年〕の段階でその存在が明確に認識できるようにまで拡大した「創価学会」の思想的背景についてであることは、この段階でのトインビー博士の関心がどこにあったのを明確に示していると思います。
この年、1967年(昭和42年)の段階における創価学会は、第三代会長に就任して7年目の池田先生のもと、拡大につぐ拡大の戦い〝折伏大行進〟を展開した結果、第二代戸田先生の時代の最晩年に達成した75万世帯の約10倍となる600万世帯を達成していました。この急速な拡大の動きの中で、創価学会は非難中傷の嵐にさらされていました。 その中でも、代表的な中傷が〝病人と貧乏人〟の集まりが創価学会だというものであり、急速な拡大に対しては〝暴力宗教〟のレッテルをはることでした。
私ごとになりますが、わが一家の創価学会とのかかわりは、父〔1913(大正2 )年生まれ〕が、1957(昭和32)年に創価学会に入信したことから始まります。当時10歳であった私もその状況は鮮明に記憶していますが、世間一般の当時の創価学会に対する非難中傷は厳しく、子供心にも大変な会に入ってしまったという印象を受けたことを覚えています。しかし父は本気でした。父の世代の前後の世代、大正生まれの世代は、日本帝国の満州事変、日華事変とよばれる中国との戦争から始まり、その後のアメリカとの太平洋戦争、を通して、最終的に1945(昭和20)年の決定的な敗北にいたる約10年をほぼ戦場で過ごすことになった世代です。父の20代はほぼ戦場にありました。北海道の留萌で貧しい船員の子供として生まれた父は、経済的には上級の学校への進学は困難でしたが、尋常小学校の成績が良かったので応援してくれる有力者があり、当時の日本のそのような状況の子供が進学する道、師範学校を目指したいと思ってい父の思いとは異なりましたが、商業学校へ経済的な応援を得て進学することができました。さらに、その上の段階である当時日本に三校しかなかった高等商業学校の一つ、小樽高商へ推薦をうけて進学することができました。そのような高等教育を受けた青年は、予備士官学校を経て将校となる道が開かれており、父もその課程を経て日本軍の将校となりました。十年近くを最前線の中国で戦うことになった父は、文字通り満身創痍の状態で日本に帰ってきました。私が子供のとき父と一緒に風呂に入ると、父の体にはおでこと尻のところに弾丸のあとがありました。父はよくおでこの弾痕は鉄兜を貫通して入ってきた弾丸がぐるっと頭のまわりを回ってまた入ってきたところからでていったと笑っていました。また尻の弾痕は、尻であったために致命傷にならずに済んだようです。また戦場での様子についてはほとんど話しませんでしたが、私の印象に強く残っているのは、映画の戦場で砲撃を受けて兵士が倒れるシーンのところで、「実際の戦場で砲弾の直撃を受けたら、その瞬間人間のからだはバラバラの肉片になって飛び散る」とぽつんと語っていたシーンです。本物の戦場と映画等の作られた戦場のシーンの違いを語っていました。
64歳でこの世を去った父でしたが、その最終段階でわかったことですが、学生時代、結核を罹患した父は肺の機能が片肺しかなく、その状態での従軍はかなり苦しかったのではないかと思います。父は最終的には中国の済南で終戦を迎えましたが、その段階で階級は中尉、中隊長として百名前後の部下を率いていたそうです。しかし、父が言うには上級の将校から疎外されていたため、父の所属していた連隊が当時安全と考えられていた満州に移動する際、父の中隊だけが現地に残されたのでそうです。なぜ父の中隊だけが残されたのか。日中戦争では、広大な大陸、圧倒的多数の中国人の中で戦っていた日本軍は、鉄道の路線と駅しか実効支配が及ばず、よく「点と線」と言いますが鉄道路線の沿線と駅をやっと抑えている状態で、最終段階ではそれも厳しい情勢になっていました。その中にあって、これも父の言っていたことですが、父の中隊は現地の中国人に決して無法なことせず人間として対等に接していたそうです。そのおかげかどうかはわかりませんが、なぜか父の中隊の守備範囲だけが破壊活動を免れる状態が続いており、「おまえの中隊だけ現地に残れ」と、連隊の中で父の中隊だけが現地に残ることになったとということです。済南という地は、現在でもそうですが、中国の南北と東西を結ぶ鉄道路線が交差する交通上の重要地点です。その重要地点に取り残された単独の中隊、大変不安な状況だったと思いますが、まもなく日本は無条件降伏しました。満州に移動した連隊の主力には、その後、ソ連軍との戦闘、降伏、シベリア抑留という運命が待っていたそうですが、父の中隊は中国軍によって武装解除された後、比較的早く日本に帰ることができたとのことです。
帰国後、父は北海道の釧路で母と結婚し、私を長男に三人の男の子が生まれます。私は昭和22年(1947年)生まれですので、まさに〝団塊の世代〟のスタートの団塊の一人です。小学校、中学校、高等学校と進学の各段階で、校舎の増築、定員増を経験し、大学受験は日本の受験の歴史で空前の倍率を経験しました。本年で後期高齢者の仲間入りです。〝ゆりかごから墓場まで〟という英国の社会福祉のスローガンがありましたが、私たち団塊の世代は、数が多いが故に〝ゆりかごから墓場まで〟つねに競争の場にさらされ、また格好の金儲けのターゲットにされるという生涯を送ることになりました。論より証拠、いわゆる〝オレオレ詐欺〟などはまさに金儲けの対象として考えられている格好の例だと思います。いま日中、テレビをつけるとコマーシャルのほとんど全てが健康関係の器具、薬品、そして墓園の紹介です。なぜこんなに多いのか?理由は明瞭です。対象の数が多いからです。なぜ多いのか?一時期にたくさん生まれたからです。なぜ一時期にたくさん生まれたのか?戦争に行っていた若者が帰還し、一斉に結婚し、一斉に子供が生まれたからです。なぜ一斉に?皆、兵隊として戦争に行っていたからです。
この人口ピラミッドの年齢構成の偏りは戦争が原因です。この現象は第一次世界大戦後のヨーロッパで、また第二次世界大戦後の全世界でおきました。
ロシアにおけるビザンチン帝国の遺産
日本人と戦争・・トインビー史観からみて
「トインビー」② マクニールの「21世紀への対話」に関する言及
トインビー博士に関する話を,「21世紀への対話」に関する話題から始めましたので、ここではさらに関連する内容に入って検討してみたいと思います。
トインビ―博士と池田先生との対談が行われたのは、1972年と1973年です。トインビー博士の生涯をたどってみると、1974年に病に倒れ、1975年に亡くなられておられますので、ほぼ最晩年と位置づけられる段階になります。すでに80歳を越えておられたトインビー博士が、ここでまったく新しい相手、しかも40歳近くも年の離れた外国人に対して対談を申し込む。この時までのトインビー博士の経歴、それに基づく世界的な名声を考えると常識的な判断では考えられない判断をされていると見る方が自然であろうと思います。
この件について、トインビー博士の伝記である「ARNOLD J. TOYNBEE A.LIFE」(未邦訳)を1989年に出した ウィリアム・マクニールの見解を該当部分から引用してみたいと思います。マクニールは、「世界史」の著者として知られていますが、アメリカ歴史家協会の会長の職にもあったアメリカ合衆国の歴史学界を代表する著名な歴史家です。トインビー家の依頼を受け、オックスフォード大学のボードリアン図書館に保管されているトインビー博士の書簡等を有効に使用し、さらにトインビー博士の軌跡を追って、アメリカ、日本等においてトインビー博士が接触した当事者との取材を重ね、できあがったのが「ARNOLD J. TOYNBEE A.LIFE」とされています。現在でも、ほぼ唯一の伝記です。
この著作の最終部分である271頁から273頁にかけて「21世紀への対話」の対話実現の経緯について記述しています。まず創価学会についての概説的紹介に続いて、日本の毎日新聞に連載され、1971年に「未来を生きる」と題して出版されたトインビ博士と若泉教授との対談。その対談の効果に刺激を受けた池田先生が、若泉教授を介して対談を申し込み、それをトインビー博士が承諾した結果、72年5月の対談が実現したように書いています。さらに続けて、トインビー史学から創価学会を見たときの視点を紹介します。加えて、日本在住の英国人からの「対談」に対する危惧の思いを寄せた手紙、さらに「対談」を批難する手紙に対するトインビー博士の返信の一部を載せています。
・・・From Toynbee's point of view,Soka Gakkai was exactly what his vision of the historical moment expected, for it was a new church, arising on the fringes of the "post-Christian" world, appealing principally to an internal proletariat, and deriving part of its legitimacy from an ancient and persecuted faith.
Comparisons with early Christian history fairly leap to mind, and in a preface he wrote for the English traslation of one of Ikeda's books Toynbee explicitely compared the world misson of Soka Gakkai with the Christian Church on the eve of its coming to power in the Roman Empire.
When an Englishman living in Japan reproached him for his association with Ikeda,
Toynbee defend himself , writing : " I agree with Soka Gakkai on religion as the most important thing in human life, and opposition millitarism and war."
To another remonstarance he replied : " Mr Ikeda's personality is strong and dynamic and such charactors are often controversial. My own feeling for Mr.Ikeda is one of great respect and sympathy." (p272~273)
〔仮訳・グーグル翻訳を基に〕トインビーの見解では、創価学会はまさに彼の観点による歴史的瞬間に期待されたものでした。それは新しい〝Church〟(一定の教義に基づく意見を共有する組織化された宗教集団)であり、「ポストクリスチャン」(キリスト教の影響が及ばなくなった)世界の周辺に生まれ、主に内的プロレタリアート(その社会の中で経済的にも政治的にも権利を持たない最下級の階層)に訴え、古代の迫害された信仰からその正当性を分有する集団ということになります。
(創価学会)と初期のキリスト教の歴史との比較は、実際に(トインビーの)頭に浮かび、池田の本の一つを英語に翻訳する際に、彼が書いた序文の中で、ローマ帝国で権力を握る前夜のキリスト教会と比較して、創価学会の世界的使命を明確に語っています 。
日本に住むイギリス人が、池田との付き合いを非難したとき、トインビーは、「創価学会が、宗教こそ人間の生活の中で最も重要なことであるとしていること、そして軍国主義と戦争に反対していることについて、私は創価学会に同意する」と書き、自分自身を防御しています。
(創価学会、池田大作への悪評を並べた)別の批難に対して、彼は「池田氏の性格は強くダイナミックであり、そのような性格はしばしば物議を醸している。池田氏に対する私自身の感情は大きな敬意と共感である」と答えています。 (p272〜273)
この部分で、マクニールが引用している手紙は、オックスフォード大学のボードリアン図書館に保管されているトインビー博士の書簡から引用したものです。あらためて、池田先生に対するトインビー博士の率直な評価を読み取ることができると思います。
特に創価学会を信頼する根拠として、創価学会は、①宗教こそが人間にとって最も重要なことである。②軍国主義と戦争に反対している。との二つの視点を明確に挙げているところが重要であると思います。この視点は、トインビー博士の人生を通じての最終的な結論と一致しています。
この引用の前の段階で、マクニールは、トインビー博士の歴史観をあげることによって、創価学会の池田会長に接近し「対談」を実行した、トインビー博士の動機を推測しています。この部分で、マクニールが挙げている、 the English traslation of one of Ikeda's books とは、1973年に発刊された池田先生の著作・小説「人間革命」の英語版です。この 前書きとして、トインビー博士はかなり長文の文章を書いています。この文章は、単なる紹介文の内容を越え、トインビー博士の歴史観からみた、創価学会と日本の国家の関係、初期キリスト教とローマ帝国との関係の類比を通した世界史の上での創価学会の本格的な分析・評価となっています。
まず創価学会が根本とする、今から800年前の紀元後13世紀の日蓮について、紀元前8世紀、アッシリア帝国の圧迫下にあったイスラエル王国、ユダ王国において、同時代のヘブライ人に危機と信仰への回帰を語るユダヤ教 の預言者と、モンゴル帝国の侵攻の危機の状況の中で、法華経への回帰を語る日蓮の事績を、歴史的な類比の現象としてとりあげています。
さらに創価学会の初代会長である牧口常三郎先生が当時の日本政府が全国民に強制した「神札」への礼拝を拒否し検挙投獄され、1944年に結果として獄死したことを、ローマ帝国時代、特に255年から311年まで続いた「皇帝礼拝」の国家的強制に対して、拒否を貫くことによって敢えて死を選んだ、初期のキリスト教徒と類比の歴史的事実であると記述しています。
さらに、この小説「人間革命」の冒頭に記述される第二代会長となる戸田城聖先生の出獄時の1945年の7月から終戦を迎える8月の日本の状況を、311年、ローマ帝国による組織的迫害が終わったあとの状況と類比しています。トインビー博士は、その両方において、精神的な空白状態と物質的な欠乏状態が共に生じている状況であることを類比して論じています。さらに、この状況の中からスタートした、創価学会の戦後の日本における発展の様子を説明し、そのような類比・検討の過程を経た上で、最終の結論部分で創価学会が全人類に対しての宣教・拡大を使命とする「世界宗教」であると認定し「前書き」の結論とされています。
このかなり長文の前書きは、そのままトインビー博士の歴史観による、キリスト教と創価学会の類比と分析になっており、結論として言えば、トインビー博士による創価学会、池田大作会長の歴史的評価の根拠として示されたものになります。マクニールの「Toynbee's point of view,Soka Gakkai was exactly what his vision of the historical moment expected」という見解を裏付ける内容となっています。
ここで、あらためてトインビー博士が創価学会の池田大作会長との対談を求めた動機・理由を推察してみたいと思います。
事前にわかった一致点、①宗教こそが人間にとって最も重要なことである。②軍国主義と戦争に反対している。については当時、日本において一般大衆を含めて危険視する人々が多かった創価学会に対する評判を聞き知った、日本在住のイギリス人の知友からの手紙に対するトインビ―博士の返事の中で、トインビー博士自身が書いていることです。トインビー博士の揺るぎのない思いが表明されています。この二つの視点はトインビー博士の生涯の中で、種々の経験を経て、ゆるぎのない思いとして確立されたものであり、トインビー博士の生涯の事績の究極の立脚点であると言って間違いないと思います。この二点をさらに深めてゆくと、トインビー博士の生涯の思想の進化・深化そのものにたどり着くことになります。
またマクニールは、トインビー博士の文明史観の中核をなすキリスト教の成立に関する考察と、「哲学的同時代性」的な意味をもつ現象として日本における創価学会の発展を取り上げています。トインビー博士の歴史観では、文明と文明の衝突で、敗北した文明の中の最下層の民衆(内的プロレタリアート)の中から、自発的な動きとして発生するのが高等宗教です。トインビー博士は、「高等宗教」は「文明」を構成する部分としての現象ではなく、「文明」と同格の独立した存在であると見ています。キリスト教は、ヘレニック文明とシリアック文明の衝突の結果、敗北したシリアック文明と支配的位置についたヘレニック文明の文明の内容が混合した文化複合体に属してはいるが、何の特権をもたない民衆〝内的プレタリアート〟の中から、地の底から湧き上がるように自然発生的に出現してきました。その動きを象徴するのが「創造的個人」としての「イエス・キリスト」であり、その動きを共にした人々が「創造的少数者」としての十二人の弟子に象徴される集団です。
20世紀の現代史に目を移すと、現代版の「ローマ帝国」と類比することができる、アメリカ合衆国を中心とする「西欧文明」、中国、ロシア(ソ連)等、の国家が象徴する諸「文明」と戦うことになった日本。
私たち日本人は、「日本」は世界に200近くある「国家」の一つであると考えていますが、トインビー博士の「歴史の研究」においては「日本」は単独の「文明」です。この視点は1990年代に発表されたハンチントンの「文明の衝突」においても同様です。ハンチントンも、「日本」は一つの「文明」が一つの「国家」を形成している唯一の存在であると見ています。
日本は1945年5月のドイツ降伏以後は、単独の「文明」として、世界の諸文明全てを相手にして戦ったことになります。トインビー博士の歴史観に立ってみると、その文明史的意義が見えてきます。原爆投下に象徴される、それまでの世界史上どの文明も経験したことのない徹底的な「破壊」と「敗北」の経験。それに伴う物質的な欠乏状態と共に、精神的な衝撃の中で「精神の空白状態」に置かれた、第二次世界大戦後の日本の最下層の民衆〝内的プロレアタリアート〟の中から、大地の底から湧き上がるように出現した創価学会。〝病人と貧乏人の集まり〟と揶揄され批難中傷の嵐のなかでも、1950年代から1960年代にかけて爆発的といってよい勢いで拡大した宗教集団。トインビー博士の歴史観からみて、キリスト教と創価学会の「哲学的同時代性」の観点に立てば、文明と文明の衝突の結果、底辺の民衆の中から生まれた「高等宗教」の候補として、明確に見えてきます。
トインビー博士は、1929年、1956年、1967年と三回にわたる日本訪問を通して、様々な形で、多数の日本人と接触、観察する機会がありました。その中で、第二次世界大戦前の軍国主義がひたひたと影響力を増している状況、敗戦から10年目前後の復興の状況、さらにそれから約10年後の高度成長期を迎えた状況と、約10年の間隔で日本の様子を直接みています。その観察の上に立つ考察の中で、日本における「創価学会」の発展は、マクニールも書いているように、トインビー博士の文明を単位とする史観から見て最も興味ある現象であったであろうと思います。
創価学会は、21世紀以降の世界文明、地球文明における「高等宗教」「世界教会」たりうるか?それを直接確認したい。1969年3月には心臓発作を起こし、航空機を使っての旅行にドクターストップがかかっていた、80歳を迎えるトインビー博士が、さまざまな毀誉褒貶の渦中にいる池田先生に、それを認識した上でそれを乗り越えて敢えて対談を申し込む根本の動機は、そこにあったと推察しても、大きな間違いではないと思います。
しかし、「ARNOLD J. TOYNBEE A LEFE 」における「21世紀への対話」に対するマクニールの見解は懐疑的です。マクニールは、この対談が成立したいきさつとして次のように考えて記述しています。
1967年の京都産業大学の招待によるトインビー博士の日本への招待の際に、様々な形で尽力された同大学教授の若泉敬教授との1970年6月10日から16日までのトインビー博士宅での対談が毎日新聞に掲載され、1971年にはその内容が単行本「未来を生きる」として刊行され高い評価を得ていることから、日本におけるトインビーの注目度、好感度に着目した池田大作が、その国際的な認知度を高める手段として、若泉教授にトインビー博士への取り次ぎを依頼し、その結果として実現した対談であったとします。その証拠として、二通の書簡を取り上げています。
この件に関しては、創価大学の西洋史の教授であった浅田實教授が、論文「『A・J・トインビーの人生』から学ぶ(その三)」において、具体的な事実をあげて反論しています。少し長くなりますが、大事な内容なので、事実を明らかにする意味で、ここで引用します。
「1970年秋、トインビーと若泉敬との対談が毎日新聞に掲載されるより一年前の1969年秋、トインビーから一通の手紙が創価学会の池田大作のところにとどいた。同年9月23日付けの手紙がそれで、そこにはトインビーが池田と実り多い意見の交換をしたい、対話したいとの強い希望が表明されていた。まずその手紙のはじめには『私が1967年に最後の日本訪問をした時、人々は創価学会のことについてと、あなた(池田)ご自身のことについて、私に話してくれました』とある。(この部分に注として浅田教授は、この手紙のコピーを創価大学の創立者である池田先生より2002年2月26日に頂いたことを注記している)・・・・・・・(中略)・・・・・・続いてこの手紙にはこうある。『私は友人の若泉教授からあなた(池田)のことを非常にたくさん聞きました。そして今、私はあなたの思想と御著書に大変に興味をもっています。私は英語に翻訳された何冊かのあなたの本と講演とを読もうといたしております』と。・・・・(中略)・・・・トインビーは池田の思想に関心をもち著作を読もうとしていた。つまりトインビーは能動的、積極的に池田に接近しようとしていたわけである。この点はきわめて重要である。というのは、これまでもみてきたように、トインビーを高く評価し、彼になり代わって伝記を書いてきたマクニールも、トインビーが池田に対話を申し入れた際の経緯を見誤っているからである。マクニールはこう書いている。「若泉のトインビーとの対話」は、池田に、この西洋の聖者(トインビー)と究極の問題や全般的な事柄について話し合いをやっていけば、さらに成長することができるのではないかという考えを、おこさせたと。ところがここにいう「若泉のトインビーとの対話」は、1970年8月から12月にかけて「毎日新聞」に掲載され、1971年にようやく「未来を生きる」として上梓されたものであるので、この手紙が日本に届いた頃にはまだ知られていなかった。・・・・(中略)・・・・マクニールは、1970年から71年にかけて日本で公表された「若泉・トインビー対談」を真似て、「池田・トインビー対談」がなされたかのように、書いている。『かれ(池田)は、若泉教授に近づいて紹介をうけ、しかるべき手続きをへて、トインビーとの対話を行う打ち合わせをした。この対話は1972年5月にはじまった』と。その際マクニールは史料としてボードリアン図書館にあるトインビー文書の手紙類、つまり若泉敬からトインビーへの手紙とトインビーから池田大作への手紙をあげている。前者は1971年10月11日付けの手紙、後者は同年12月23日付けの手紙で、原文を見ていない筆者には何ともいうことができないがのだが、前の手紙で若泉が池田のことを紹介し、後の手紙でトインビーが池田に〝よろしいですよ〟と〝対談〟を引き受けたかのようにもとれる。実際の『対談』が1972年5月からはじまっているのだから、時間的にも妥当のようにみえる。だけどすでにそれより以前の1969年秋の手紙で、トインビーは池田にきわめて積極的、具体的に、ロンドンへの招待と「対談」の申し入れをしていたのである。(後略)」
長い引用になりましたが、「21世紀への対話」の意義に関わる重要な部分なのであえてここに引用しました。このマクニールが判断の根拠としてあげた、1971年10月11日付けと同年12月23日付けの手紙については、浅田實教授は見ることができなかったので、マクニールが主張する対談実現の経緯が、間違っているということを具体的に証拠になる文章をあげて反論はできないとした上で、手元に実物があるトインビー博士から池田先生への1969年の対談を希望する内容の手紙の趣旨から、その判断はありえないと書いています。
私の手元に、ここで問題になっている若泉教授を介しての池田先生からの対談申し込みを承諾した内容であるとされる1971年12月23日付けのトインビー博士の池田先生あての手紙のコピーがありますのでここに引用します。
当時、世界的な有名人であったトインビー博士からの真剣で誠実な内容の対談の要望に対して、池田先生はどう答えたのか。最終的な対談の実現までに約3年の時間を必要とした事情とは?
幸いにも、私の手元に、1969年から1975年にいたるトインビー博士と池田先生とのやり取りを記した書簡(オックスフォード大学のボードリアン図書館所蔵)のコピーがありますので、検討を加えてみたいと思います。まず、最初にトインビー博士から池田先生にあてた1969年9月23日付けの対談を求められた内容の書簡を全文引用したいと思います。文章の位置関係、段落の区切りも原文の構成に合わせてあります。
池田様
私が一番最近、1967年に日本を訪問したとき、様々な人が、創価学会について、あなたとあなた自身について私に語りました。私があなたについてたくさん聞いたのは、私の良い友人である若泉敬教授からです。今はとても、あなたの考えや作品に興味があります。私は英語に翻訳されたあなたの著作とスピーチを読むつもりです。
ロンドンに来ることができるときはいつでも、私はあなたを暖かく歓迎したいと思います。しかし、あえて、私たちの国にいつも素敵な春がやってくる来年の5月中に、私たちを訪問されることをおすすめします。
よろしくお願いいたします。 アーノルド・トインビー
〔仮訳・グーグル翻訳に基づいて〕
東京、1969年10月12日
トインビー教授
親愛なる友人の若泉敬教授を通して、9月23日付けの非常に思慮深い手紙を受け取りました。
あなたに個人的にお会いする機会は、私の人生で最も重要な機会の一つであると考えており、来年5月のご招待を心よりお受けいたします。 予定されている様々な行事や約束を一掃するために全力を尽くし、それが処理された後、12月中旬または(来年)1月に正式に返信します。
日本から温かいご挨拶をお送りしますと共に、近づく冬の中での良き体調と、末永きご幸福をお祈り申し上げます。
敬具
両者のやりとりを文面の上で追うと、まず1969年9月23日の日付けで、トインビー博士から池田先生に対談の申し込みがあり、その文面の中ではトインビー博士が創価学会の存在をどのような状況で認識したのか、さらにすでに池田先生の英訳された著作を読んでおり、人類の抱えている宗教、歴史、哲学などの根本的な問題について対談をしたいというトインビー博士からの具体的な要望が、自身の日本への移動が身体的な状況によりかなわないという事情を正直に述べることによって、来年の5月という季節を具体的に設定して述べられています。この文面を読むかぎり、対談を求められたのはトインビー博士の方からであることは明白です。さらに、池田先生の1969年10月12日付けの返信を読むと、その内容をしっかりと受け止め、対談を了解すると言う内容が明白です。浅田實教授の反論の方が正確であるということが具体的に確認できます。マクニールの見解に登場する若泉教授が、両者の橋渡しをしていることも文面の上で明白ですが、若泉教授は、1967年の京都産業大学によるトインビー博士の日本への招待の交渉を担当して以来のトインビー博士とのつながりであり、その若泉教授を通じて池田先生への手紙が届けられたことについては、両者の仲立ち以上の何者でもないと判断して良いと思います。しかも、先に触れたように若泉教授とトインビー博士の対談は70年に行われ、新聞連載が1970年、単行本の発刊が1971年ですから、トインビー博士から池田先生への対談の要望とそれに対する明確な返答が1969年中に行われていますから、若泉教授の対談の反響に刺激された、池田先生からのイニシアチブで対談が実現したというマクニールの見解はまったく成り立ちません。この客観的な事実は、しっかりと明記しておきたいと思います。
(p273)
Toynbee said little or nothing to Ikeda that he had not said before, though he occasionally went out of his way to flatter his interlocutor. For example:'' The Buddhist analysis of the dynamics of life, as you explain them, is more detailed and subtle than any modern Western analysis that I know of.”47 Toynbee also had praise for Japan. “The Western course is heading for disaster," he said. “Ibelieve that the JapaneIse people can lead mankind into a safer and happier path.” 48 Once in a while a flash of his old inventiveness can be glimpsed, as when he declared: “We ought to aim not at gross national product but at gross national welfare."49 But, at least in the short run, the value of this book for Ikeda and his movement was far greater than anything it did for Toynbee’s reputation.