トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

「日本文明とその将来」

 この表題は、当時78歳のトインビー博士がヴェロニカ夫人と共に1967年に、ご自身にとって三度目となる訪日をされた際に受けた印象を、「日本の印象と期待」と題して毎日新聞に連載されたときの結論部分につけられた見出しです。この表題による記事は、この年の11月9日から12月13日にかけて毎日新聞に連載され当時大きな反響を呼びました。その内容は1983年に、「トインビー市民の会」が中心となってトインビー博士の日本の新聞・雑誌に対する寄稿をまとめ、経済往来社より発刊された「地球文明への視座」の中に収められています。
この連載は次のような言葉ではじまります。
「私は前に日本を二回、最初は1929年、二度目は1956年に訪問している。私の日本経験は、こうして38年間におよぶ。現代の日本歴史において、これだけの時間が過ぎれば、日本人の生活には、どうころんでも、大きな変化があったことだろう。・・・・・・」
この文章にあきらかですが、トインビー博士の来日は日本の歴史における大きな変革点である明治維新から始まる大日本帝国時代の挫折前のクライマックスの時期であるともいえる1929年。その挫折としての第二次世界大戦の敗北、日本の歴史上始めて他国に占領され支配される経験をしたことになる、アメリカ軍の占領下におかれた時代を過ぎた1956年。戦後の復興が完了し、経済面での高度成長期に入っていた1967年と、38年という間隔で日本の歴史始まって以来の激動期を見つめられることになりました。
 全世界の全時代にわたっての歴史、文字通りの意味における真実の「世界史」を構築されることを自らに課してこられたトインビー博士にとって、この38年間の日本の激動の歴史の意味は何か。この視点から見るとき日本の歴史の世界史の中における意味が見えてくると同時に、日本の進むべき未来の方向性も見えてくるはずです。
 
 トインビー博士の最初の日本訪問は、1929年(昭和4年)10月23日から11月9日まで京都で開催された太平洋問題調査会の第三回「太平洋会議」に、英国代表の一員としての来日です。この会議は、国際連盟の次長も務めた新渡戸稲造が議長を務め、テーマは「満州問題」でした。1905年の日露戦争後、南満州鉄道の権益をもとに中国東北部進出を進めていた日本帝国に対して、当事者である中国をはじめとして英米等を中心とする欧米各国から強い懸念の思いが寄せられていました。この会議において、日本の中国東北部進出を巡って日本と中国の代表の間に鋭い激しいやりとりがあったことが記録されていますが、英国代表団は終始冷静に第三者的な態度だったようです。トインビー博士は、年長者の意向を意識して発言する日本の代表団の発言の様子と、年齢差などに頓着せず自分の考えを自信を持って語る中国の代表団の様子を比較し、日本と中国の国民性の違いについて感想を語っています。
 この会議に日本の代表の一人として参加した、当時34歳の日本の若き政治学者であった蝋山政道氏に対して、トインビー博士は「日本はカルタゴの運命を・・・」と語ったことを、戦後刊行された中央公論社の『世界の名著』シリーズのなかの一冊、蝋山氏が編集の中心であった「トインビー」の解説の中に書かれています。
 何気ないひと言で、聞いた当初は深い意味はわからなかったと蝋山氏は記述しています。この一言は、その後「満州問題」が進展するなかで、中国との全面的な戦争になり、最終的には現代の「ローマ帝国」とも言えるアメリカ合衆国を中心とする欧米との戦いにまで発展し、結局は連合国相手の世界規模の大戦争に引きずり込まれ、結果として日本の歴史上で初めての徹底的な敗北に帰着した歴史の進行を経験し、この古代ギリシャ・ローマ文明(トインビー博士は〝ヘレニック文明〟と総称する)の歴史に記録された古代の海洋国家カルタゴの破滅の経緯に基づく歴史的洞察をもとにして、日本の破滅的敗北を予見したトインビー博士の発言は、蝋山氏の印象に強く残ることになったと記述されています。その思いもあって、蝋山氏は、太平洋戦争の敗戦後間もない時期にGHQの許可を取って、、トインビー博士の著書『歴史の研究』(サマヴィルによる縮刷版)を日本で最初に翻訳し紹介しています。
 1956年、トインビー博士は再び日本を訪問されます。これは自身のライフワークとして30年にわたって取り組み1954年に全巻完成し出版された、主著『歴史の研究』の内容について、あらためて『歴史の研究』で扱ってきた事実(全世界を舞台として全時代に及ぶ)について現地の様子を直接観察し、確認することを目的とした世界一周旅行でした。1955年にはそれまで勤めていた王立国際問題研究所の調査部長、およびロンドン大学国際史研究教授を辞任して、ロンドン大学の名誉教授となり、さらに1956年、名誉勲位保持者(C・H)に推薦され、さらにオックスフォード大学ベイオリルーコレッジの名誉フェローとなり、人生における大きな節目を刻んでいたトインビー博士。
1956年2月から翌年8月まで、南米を最初の訪問地にして、ニュージーランド、オーストラリア、インドネシア、日本、東南アジア、インド、セイロン(スリランカ)、パキスタン、中東という東から西への順路で、研究観察を主眼とした世界一周旅行を計画し実行されました。60歳代後半にさしかかった段階での大旅行です。
 すでに世界的な名声を確立されたトインビー博士を、日本では朝野あげての大歓迎の体制でお迎えしました。日本滞在中は1929年の太平洋協議会に日本代表の一人として参加していた松本重治氏が館長を務めていた東京麻布の国際文化会館に宿泊され、当時の日本を代表する歴史学者との懇談、各地での講演、見学、天皇陛下との会見等、精力的な日程をこなされました。その時の印象をイギリスのガーディアン紙に寄稿したものをまとめたものが、1958年に旅行記『東から西へ』として出版されたものです。
 その中で、日本についての記述は、見出しをとりあげると「23.日本における過去と未来」「24.日本における宗教の前途」「25.北海道」の三カ所です。大歓迎を受け日本中を回られた精力的な行動からみると、日本人として正直なところ「日本についてはこれだけ?」と思ってしまうような内容です。しかしトインビー博士の生涯の研究内容から考えてみると、実はトインビー博士の歴史観の中核をなす観点からの重要な記述であることがわかってきます。トインビー博士が、日本の歴史に探りたかったものは何か。それは実はこの三カ所の記述の中に明確に表現されています。最初の「23.日本における過去と未来」の中の冒頭は次のような記述で始まります。
 
『そしてその倒れ方はひどかった』(マタイ福音書)敗戦後11年の日本を訪れた西欧人の旅行者の耳に、この聖書の言葉が鳴り響く。訪問者の気づくこの国をひっくり返した大事件は、日本帝国の倒潰でも、広島と長崎の上空における原子爆弾の爆発でもない。これらの事件もまた、歴史的なできごとであったには相違ない。日本帝国は、倒潰する前には、中国、フィリピン、インドシナ、マラヤ、インドネシアビルマの各地に進出していた。日本に二個の爆弾が投下されたことによって、戦争という制度と人類の運命の歴史に新たな局面が開かれた。しかし、そのほかになお、1945年に日本において倒れたものがあった。そして、それは明治時代の日本精神であった。これがいまなお日本の到る所に反響を呼び起こしつつある倒潰である。長崎は再建され、1956年のいま、もし知らなかったならば、1945年にそこに何が起こったか、想像もつかないくらいである。
 しかし、日本人の戦前の思想的世界の崩壊は、いまなお空白のままになっている精神的真空状態を後に残した。いやでもその存在に気づかないわけにゆかず、また、それがやがて何によって満たされるのか、考えてみないわけにゆかない。それが満たされることは間違いがないように思われる―自然は物理的真空だけでなしに、精神的真空をも忌み嫌うものであるからして。
 
 
この視点こそ、トインビ史観の根幹です.「試練にたつ文明」「歴史の研究」「一歴史家の宗教観」「ハンニバルの遺産」「ヘレニズム」「現代が受けている挑戦」等、トインビー博士の主要な著作において、講演・講義の記録、学術論文、概説書、旅行記、また対談形式の著作等、発表の形式は様々ですが、トインビー博士の究極の主張はこの下線を引いたテーゼに集約されます。この内容はトインビー博士の人生最後の著作となった池田先生との「21世紀への対話」の結論とも重なります。その前書きに両者の一致した結論としてトインビー博士の手によって列記されていますが、ごく短く集約すると、
1.宗教を持つことが人間の根本である。
2.宗教には高低がある。
3.宗教はまず自然の諸力の崇拝からスタートする。
4.「文明」の開始は、人間の集団力の崇拝のスタートとなる。
5.人間の集団力の崇拝は、絶対者としての「国家」間の戦争へとつながる。
6.紀元前一千年紀の中頃、世界の各地に「高等宗教」が生まれる。
7.高等宗教は、人間の魂を「究極の実在」に直接触れさせる宗教。
8.個人の魂が直接「究極の実在」にふれることが、一切の人権の原点。
9.「高等宗教」は「文明」と「文明」の衝突の結果生まれてくる。
10.文明同士の衝突の結果、敗北した文明の中から「高等宗教」は生まれる。
11.「高等宗教」は最下層の民衆の自発的な運動として生まれてくる。
12.民衆の無意識層からの要請に応えて、「創造的個人」が思想・教法を説く。
13.全人類への布教を目指す「世界宗教」としての「高等宗教」が大事。
14.戦争が全人類の滅亡につながる「核時代」。
15.「核時代」における「高等宗教」の条件は?
16.高等宗教のなかでも、世界布教の段階で非暴力を貫いた「大乗仏教」に注目。
17.現代の「高等宗教」は、過去から引きずる非本質的部分を剥ぎ取る必要がある。
18.現代の「高等宗教」は人類が直面している諸課題に対して応える必要がある。
19.①人間と環境の関係②人間と人間との関係③人間個人の心と身体の関係
20.以上三つの関係に、的確な回答を用意する必要がある。
21.「世界文明」の構築こそ人類の緊急の課題。
22.「文明」とは『全人類が一つの家族のように仲良く生きることをめざすこと』。
23.人類の歴史の上で、世界的な統一を目指した経験は?
24.「世界国家」か「世界宗教」か?
25.「世界国家」への道は、人類滅亡の核戦争につながる。
26.地域的に遍在する「世界宗教」も人類の分断につながる。
27.「ディアスポラ」の形態をとる「世界宗教
28.世界192カ国(現在の国連加盟国数)に広がるSGI
 
 ここで重要なのは、トインビー博士は宗教は全ての人間の根幹である営為であるとしていることです。人間は生きていく上で、「信ずる」という行為なしには生きていけない。自分が「無宗教」と言う人も、自分が信じているものに無自覚なだけであって、実は何かを信じて生きていることは間違いないとされます。このことは、人間と人間のネットワークとしての社会でも同様であり、その社会の中でさらに共通の言語や宗教を基盤としてなりたつ人間のネットワークである「文明」においても同様であるとみています。
 5000年前の「文明」の成立以来、地球上では21もしくは23の文明が興亡し、400年前からの西欧キリスト教文明の世界への展開の結果、西欧キリスト教・科学技術文明の影響を受け大きな動揺を経験しながらも、現在地球上には西欧文明の他に、ロシア文明、イスラム文明、インド文明、中国文明、そして中国文明の衛星としてスタートした日本文明、朝鮮文明、ベトナム文明をあげ、さらに東南アジア文明、アフリカ文明が存在しているとしています。
 
 

「日本国憲法第九条」に対するトインビー博士の見解  

 現在、ロシアによるウクライナ軍事侵攻が継続中です。すでに2月24日の侵攻開始以来、133日を超えています(7月7日現在)。連日の具体的な戦況の報道とともに、その事実を日本人としてどう受け止め考えるべきかという論議も進んでいます。その論議の中で、この事象の意味を深く捉え、二十世紀の前半に連続した二つの世界大戦後の国際秩序の崩壊、もしくは崩壊のはじまりとみる視点があります。
 国際連合という第二次世界大戦戦勝国連合を基盤とする体制は、米、露、中、英、仏の五大国の軍事力を基盤とした一致した制裁を、国際秩序維持のために最終的には想定している体制です。その五大国の中のロシアの隣国に対する軍事侵攻という事実は、その構造を崩壊させた衝撃的な事実であり、この戦争がいつまで続くかは今のところ未知数ですが、どんな形で終わるにせよ、間違いないのは五つの国家が保証する国際平和維持の体制が終わりを告げたという事実です。
それでは、最強国家アメリカ合衆国による〝パックス・アメリカーナ〟は成立するのか?これも無理であろうという現実が目の前にあります。アメリカが核兵器を独占していた1945年から1949年の状況なら、その可能性はありましたが、現在すでに北朝鮮のような規模的には中レベルの国が核兵器を所有している段階では、それも不可能です。
このような国際情勢の中で、間違いなく全人類の滅亡という事態が想定される核戦争を回避し「全人類が一つの家族のように仲良く共存していく世界」をいかにして実現していくか。この「全人類が一つの家族のように仲良く共存していく世界」とは、トインビー博士が「文明」に対して与えた定義です。言い換えると全人類の滅亡に向かう方向に進むか、本質的な意味での「文明」の道を行くか。今回のロシアのウクライナ侵攻はその岐路に立つ人類の現実を明確に示すことになったと思います
 日本においても自国の防衛にたいする論議が高まってきています。その中で論議は文明論的かつ地政学的な課題、日本の国際世界における立ち位置に関する議論も高まりを見せてきています。その視点の上に立ってどのような国を目指すべきか。議論を進めていくと、最終的には、根本法としての日本国憲法において規定された戦争放棄の規定をどう考えるべきか?様々な課題を論議する中で、集約点として必ず論じられる根本的課題です。
 自民党の党綱領の中には「自主憲法制定」があります。立民、共産の主張の対極ともいえる内容です。その中にあって、自民党と連立し政権を担ってきた公明党の考え方はどうなのか?公明党はどのような方向の国を目指しているのか。創立者である池田先生の考え方は?
 このような問題を考える上で、重要な示唆を与えるのが晩年、池田先生と対談し「21世紀への対話」を残されたトインビー博士の考え方です。
 トインビー博士は、1967年の三度目の日本訪問のあと、11月9日から12月13日にかけて毎日新聞に連載された『日本の印象と期待』の中で、この問題にしっかりと意見を表明しています。55年前に書かれたものですが、今、時にあたって再読してみると、その見識の深さと示された方向性にあらためて感動しています。全文をここに記載します。
 
日本国憲法第九条と私」(『地球文明への視座』p61~)
 戦後制定され、現在効力を有している日本国憲法第九条で、日本は主権国家の伝統的特権の一つである戦争に訴える権利を放棄している。それどころか、日本はこの条文で、再び武装せず、他国と戦争することを可能ならしめるような戦力を持たないという意志を宣言しているのである。
 私が聞いているところでは、現行日本国憲法に対して日本人の間には批判があり、その論拠は、現行憲法は日本国民の自発的意志の産物ではなく、日本がまだ米国の軍事占領かにあって、第二次大戦の敗戦のショックから心理的に立ち直っていない時期に、米国の後見によって起草されたものだ、という点にある。その結果、当然日本の批判者の間では、日本の憲法はそのあるべき姿について、日本人の考えよりも米国人の考えを反映しているという議論がなされている。米国が干渉せず、日本人だけに単独で憲法を作らせていれば、日本国憲法は現在のような形にはならなかったであろう、というわけだ。
 憲法を全体としてとらえてみれば、あるいはそうかもしれない。憲法起草に当たって米国人が第九条を承認した、あるいは示唆、推進さえしたというのもまた本当かもしれない。しかし私は推察するのだが、おそらく独特な議院内閣制に関する条文とは違って、この第九条は、少なくとも当時の日本で支配的だった世論を忠実に反映しているのではあるまいか。したがって、たとえば米国人が起草に全然タッチしなかったとしても、この条文はどのみち憲法に取り入れられていたのではあるまいか。
 1945年の降伏後、日本には真剣かつ圧倒的に強力な反戦感情があった、というのが私の印象である。そのころ日本人の心を同時に襲った二つの深刻な体験を考えれば、これはほとんど避けられないものであったろう。
 そのうちの一つは、軍国主義のむさしさが劇的に証明されたことであった。1945年、日本は1894年以来中国、ロシア、米国、英国、オランダ、それに事実上フランスにも勝利を重ねて積み上げてきた戦果を一挙に失った。勝利の連続のあと、日本の〝武器をもった強者〟はもっと強力な敵に出くわしたわけである。真珠湾コレヒドールで日本が米国を打ち負かしたことが歴史的なものであったのは事実である。この米国の敗北は西洋世界の不敗の幻想を永遠に打ちくだいた。しかし、この米国の敗北は西洋世界の不敗の幻想を永遠に打ちくだいた。しかし、この出来事は、第二次世界大戦における日本、米国の遭遇という短編物語の終末を意味するものではなかった。この大戦といえるドラマの中では、日本による米国の敗北は、ただの第一幕にしか過ぎなかったのである。最終幕で、日本は米国に敗北し、この幕切れは戦いのきびしい試練を経たこの両交戦国にとって、決定的かつ終局的なものであった。
 軍国主義の皮肉な運命がこれほどはっきりと白日のもとにさらされたことは、いまだかつてなかったが、それは日本人の心底に深い印象を残したに違いない。もちろんこれまで軍国主義的傾向を有していた人々が、こういった教訓を与えられたのは、これが世界歴史上初めてではない。この体験が日本独自のものであったというのではないが、同時に、日本を襲ったもっと別の体験が、日本独自のものであったのであり、現在もまた独自であり続けているのである。
 新しい原子兵器の攻撃を受けたという体験は、戦争そのものの制度に新しい様相をもたらした。この新しい武器の発明と使用は、戦争の破壊性と非人間性を、これまで受け入れ得る悪、あるいは間違って受け入れ得るとみなされていた悪といった水準から、種類のまるで違った程度にまで押し上げてしまった。1945年、広島と長崎に落とされた二個の原子爆弾が戦争というものの性質を変えてしまったことは、広く世界で認められている。しかし、これは日本国民によって実際に体験されたことなのであり、この体験からくる恐怖が、半世紀(1895年の日清戦争から1945年の太平洋戦争の敗北まで)にわたって成功し続けていた軍国主義の破産といった皮肉な結果と結びつけば、だれでも現行日本国憲法第九条のような条項を憲法の中に挿入したくなることは間違いない。
 この条項が日本の戦後の憲法に書き込まれたと言うことは、日本の歴史のみでなく、世界の歴史にとっても歴史的な出来事であった。一つの強国が、戦争に訴えるという伝統的な権利を自発的に放棄したのだった。これはかつてなかったことであり、戦争の性格の根本的な変化に応じていまや起こったのである。
 第九条は、戦争の正確に根本的な変化が起こったという、すべての国の人々の共通の認識の象徴であり、日本人なみならず、他の国民にも、戦争の性格の変化に応じた行動を起こすよう促しているのである。したがって、現在日本で進行している第九条の将来に関する論議は、単に日本だけの国内問題ではない。もし第九条が将来にわたって維持されるならば――つまり、その精神において、また実行の面において、ただ紙の上に書かれていると言うだけでなく――それは他の主権国家がおそらく、遅かれ早かれ、したがうことになる模範例となり続けるであろう。しかし一方、もし第九条が、紙の上で廃止されないまでも実質的に無視されてしまうならば、人類の不安定な未来に投げかけられた希望の光は消滅してしまうであろう。
 日本政府の表向きの政策は、いぜんとして第九条維持である。しかし本条の但し書きはすでにほとんど破滅点に達している。日本が国内の法と秩序を守るために軍事力をもつことが、第九条に違反しないことは明白である。この軍事力を自衛のためにいわゆる〝通常兵器〟をもって強化し、同様兵器を用いる仮想侵略者に相対することもまた合法であろう。しかし朝鮮戦争の期間およびその後、日本の新しい軍隊は、米国の圧力のもとに(それまでの米政策の不吉な転換である)自衛のための必要を越えた強さにまで増強された。第九条はすでに実行の面で侵されている。日本にはこれだけ戦力が増強された以上、第九条を憲法の中にとどめておくことは不誠実であると論ずる人々がいる。また不誠実さを認めたうえで(否定することはできまいが)第九条を正式に廃止したのでは際限もない再軍備のためにトビラをあけ放つことになるから、これはより小さな悪であると論ずる人もいる。どんなにうまくいっても、微妙かつ不幸の現在の状況のもとでは、この二つの議論のうちでは、第九条廃止に反対する論の方が説得力があるように私には思われる。
 確実と思われることが一つある。もし日本が現在以上に軍事力を増強するならば、第九条はもう維持できない。そして佐藤首相の最近のワシントン訪問以来、日本政府が、日本の軍事力を再び増強するよう米国政府の圧力をまたしても受けていることが明らかとなってきた。佐藤首相は、第九条を廃止する動機(動議?)を出さないと明確に言明する一方で、もし日本がこれまで以上に自衛に対する責任感を示すならば、米国は他の場合よりも早く譲歩して、占領中の沖縄を日本に返還する見込みがあると指摘した。沖縄の人々、すべての日本国民はできるだけ早急に沖縄の日本復帰を実現したいと熱心に願っている。したがって、日本の再軍備促進とひきかえに、と米国政府がいまや露骨にほのめかしている政治的なエサは魅力的なものである。そしてまた、この魅力が第九条を危機におとしいれていることは明らかだ。
 しかし日本が、この米国のエサをのみこむのは、大変な間違いであると考えられる理由がたくさんある。
 理由の第一は、米国が沖縄を遅かれ早かれ返還するのは確実である。米国はこれら諸島を併合したわけではないし、日本の潜在主権が残っていることも認めている。日本人が、なかんずく沖縄住民が、潜在主権が早く有効な主権に移行するのを望むのは当然である。しかし、日本主権の早期復活の代わりに、米国が要求している対価は、どのみち満たされるに決まっている日本人の願望を早めに満たすために支払うにしては高価すぎる。
 理由の第二は、日本がいま軍事力を再度増強したにしても、沖縄早期返還の〝早期〟という言葉に対する米国の解釈は不確定である。ベトナム戦争がいつまで続くかは予言し得ない。ベトナム戦争が続くかぎり、米国が沖縄を日本に返還することは、はなはだあり得ないのである。
 理由の第三は、これ以上日本が軍事力を増強することは、中国の猜疑心と怒りを刺激しよう。この点について日本人は、米国が西独を説得して再軍備させ、北大西洋条約機構NATO)現役メンバーにすることに成功したあとの、西独・ソ連関係の不幸な結果に注意すべきである。
 西独再軍備は、第一、第二次世界大戦におけるソ連領土の広大な地域に対するドイツの軍事侵攻、占領という苦痛に満ちた記憶をロシア人の心に呼びさました。ロシア人はいま(ポーランド人やチェコスロバキア人も同様)米国はいつか西独の軍隊の手綱を解き放って三回目の東欧攻撃――それも今度は米国の巨大な潜在的軍事力で支援されて――に出るのを許そうとしているのではないかと疑っている(私はこの疑いが誤りだと信じてはいるが)。こうしたソ連ポーランドチェコの反応の結果、東独の西独との統一の可能性は、いまや地平線のはるかかなたに去っている。
 さて、戦後のソ連・ドイツ関係の歴史におけるこの不幸な既成事実を、まだいぜんとして問題の解決していない中国・日本関係にあてはめてみよう。この二つのケースは全く似通っている。1840年天保十一年)のアヘン戦争以来、日本は中国の外国侵略者のうち最も新しく、最も恐ろしく、最も破壊的だった1931年(昭和6年)から1945年(同20年)の間の出来事は、中国人の心に怒りと猜疑心の遺産を残したことは間違いない。日本国憲法第九条は、こうした中国人の感情に対しては最高の解毒剤なのである(もちろん第九条が誠意をもって履行されると仮定しての話だ)。もし日本が第九条を踏みにじるようなことがあれば、日本の不吉な意図に対する中国の猜疑心は再びよみがえるであろう。そしてもし第九条侵害が、米国の圧力で実行されでもしたら、この中国の猜疑心はさらに激しさを増すだろう。西独の誤りから適宜な教訓をくみとるべきである。同じような誤りを犯してはならない。
 理由の第四は、仮に日本が、米国の圧力によって第九条をい踏みにじり、その結果、中国との関係を妥協的に処理することになったとしても、日本はいかなる国家目的のためにも、その増強された軍事力を実際に使用するだけの力を持ち得ないであろう。
 通常兵器による武装は、いかに巨大なものであろうとも、原子力兵器による攻撃に対しては防衛力となり得ない。すなわち、日本が米国の命令によって、通常兵器による武力増強を進めるならば、日本は中国が核報復に踏み切る危険を犯すことになるのである。通常兵器しか持っていない国で、日本を攻撃する意思や力を持っている国は、世界中捜してもありはしないと思う。したがって増強された日本陸軍、海軍、空軍が、自らの国土を守るために動員されることは、まったくありそうもないことである。
 これに反して、米国の東アジアにおける軍事目的に奉仕すべく利用されることは避けられそうにない。実際には大陸中国の東方および南方の国境の周辺に米国が哨兵を配置している中国〝封じ込め〟用のアジア軍守備隊として組み込まれていることに気がつくであろう。この米国の目的には、すでに韓国、台湾、南ベトナムの軍隊が奉仕しているが、これらの軍隊は、それぞれの国にとって、経済上はもちろん、政治上の負債である。こうした米国の目的に奉仕するために自国の軍隊が動員されることが、日本に国家的満足感をもたらすはずがない。
 第九条を廃棄するよう日本に序言することが、なぜ誤りであるかという理由を、以上四つほどあげたが、これらの理由は、相互に結び合って争う余地のないものだと私には思われる。同時に、佐藤首相がジョンソン米国大統領同様に、その見解の中で、今日の日本は自国の防衛に対する責任感を十分に示していないのではないかと示唆した点を無視することは誤りであろう。
 第九条は米国の〝核のカサ〟の保護のもとで制定され、順守されてきた(順守されてきたという限りでは)。日本がこの保護に対して支払った代価は、米国の沖縄列島における事実上の(法律上の権利としてではないが)主権の行使であり、核兵器発射台の設置であった。私の判断では、中国が核兵器を獲得する瞬間までは、これは日本にとっては疑いもなく安い取引であった。これは現在でも安い取引であるかもしれないし、来たるべきいつかの日のためにも安い取引であり続けるかもしれない。
 それには二つの理由が考えられる。第一は中国が米国、日本あるいは他の国に対して核兵器を使う気があるという証拠がない。第二に仮に中国が最後には核兵器を使う気があったとしても、予見できる将来のいつの日か、それをあえて使うということはありそうもない。たしかにありそうもない。なぜならわれわれが予見し得る範囲では、米国の核戦力は中国のそれに対して圧倒的優位を保ち続けるであろうからだ。とはいうものの、いまや大陸中国核兵器を手に入れたという事実は、それがいまのところ小規模なものであるとはいえ、日本にとっては中国の意図をさぐり、中国が核兵器を所有しているというきびしい事実に対処する自分自身の政策を決定することが、必要になったということを意味する。これは中国がその核兵器を使うか否かにかかわらず必要なことなのである。
 終局的には、大陸中国核兵器を使うつもりなのだろうか。中国は使うまいというのが私の推測であるが、もちろんこの推測に対する反論は自由である。もし使う気がないとすれば、これを開発する気になったのはなぜであるか。大陸中国は貧しく、かつ後進国である。中国は建設的経済開発のため、わずかな余剰生産のすべてをつぎ込まねばならない(巨大な人口を生存させるために基本的な必要なものを満たしたあとに、なにほどかでも余剰があるならばの話だが)。核兵力の建設は明らかに大陸中国にとっては分を越したぜいたくである。中国にとってそれが分を越しているとすれば、それにもかかわらず現に遂行しているのは、中国がその高価な生産物を使用することを真剣に考慮している証拠である(ともみられよう)し、その生産物は明らかに兵器として使用されるものであることを忘れてはならぬ。したがって大陸中国の意図は、邪悪なものであるということが立証されるはずである。
 このような議論は、人間の理性が100パーセント合理的なものであるなら説得力を持つのだが、本当のところは、人間の理性は90パーセントまで非合理なものであり、ために議論は無意味になる。この無意味さはフランスの場合にも例証されている。大陸中国同様フランスも、余裕もないのに原子力兵器の装備を進めている。フランスがこの武器を使って他国に攻撃をしかける意図があるとは、世界中のだれも考えはしないし、核抑止力を備え、先回りして敵意をむき出しにしていなければどこかの核武装国に攻撃されるとフランスが予想しているとは思いはしない。フランスの動機ははっきりしている。フランスが核武装であがなおうとしているのは、国家の威信の回復である。
 フランスの核武装は、フランスが第二次大戦中、英国と米国から受けたと、正しいにしろ間違っているにしろ、信じている屈辱に対するしっぺ返しである。〝アングロサクソン民族〟に対するこのフランスの信号は、翻訳すると次のようになる。
 「しかり、フランスは1940年(昭和15年)に崩壊した。そこであなた方はフランスを除外した。あなた方は、フランスが大国であるという長年の地位を永久に喪失したと考えた。ところでフランスは、いまやあなた方が誤っていたことを示している。フランスのこの核武装はその証拠である」と。
 確かにこれは、フランスが核兵器を持った動機である。この動機がバカらしいからといって、フランスの動機がこうだとわれわれが言うのが間違っているという証拠にはならない。人間性には、このようなバカらしい面があるものだ。英国は核兵器についてフランスよりもっと愚かだった。英国もまた核兵器を持つ余裕はなかった。英国もまた犯罪的な目的のためではなく、単なる威信のために核兵器を持ったのだ。そして英国がフランスとは違って、どんなひどい屈辱も受けなかったことを考え合わせれば、英国の愚かさは、フランスのそれよりも許し難いわけだ。
 フランスの例からの類推で、中国の動機もフランスのそれと同様にバカらしいが、悪意のあるものではない。この動機は、ありそうなことのように思われる。 なぜかといえば、中国は1840年(天保十一年)から1945年(昭和二十年)までに、フランスが1940年(昭和十五年)に受けたような屈辱を受けたからであり、また1949年(昭和二十四年)以降、むかし欧州の列強と日本が中国を遇していたと同様な攻撃的な方法で、大陸中国を扱っていたからである。したがって私は、中国の現在の核による再武装を日本および西欧列強――とりわけ米国――に対するフランス風の信号だと解釈するのである。つまり「あなた方は、1840年以来、中国が〝中華王国〟であるという歴史的な地位を永遠に喪失したものと仮定した。だがあなたは間違っていた。いま私たちは、あなた方にそれを示しているのだ」と。
 核兵器を持つ大陸中国の動機と意図についてのこの解釈は、他の代わりうる可能性よりも、はるかに当たっていると私には思われる。しかしこの解釈は確実ではなく、想像に過ぎない。中国が何を思っているのか、だれ一人確かなことは知らない。そしてこの中国のナゾが、厄介な問題を日本に提起しているのだ。それらの問題はことに厄介である。なぜなら日本は、中国の行動が結局感情的な身ぶりではなく、真剣な挑戦であるかもしれないのに、その中国の行動に対して、可能ないくつかの対応策を選ぶ自由を自分自身持っていないことに気づくかもしれないからである。
 日本は核武装することによって(これは日本の現在の生活水準を犠牲にすることによってのみ可能なのだが)中国の核武装にしっぺ返しをする技術的な能力と経済的な資源を持っている。日本の能力は、現在容易に、そして急速に中国に追いつき、追い越し、今後長期にわたってリードをたもつことができるほどすぐれている。しかし佐藤首相は、日本が核武装しなければならないということは問題外だ、と明白に言明しており、首相のこの言明は、いくつかの理由からみて、間違いなく正しかった。
 まず第一に、米国が日本の核武装に賛成することはありそうもないように思われる。第二に、日本の世論がこれを承認するよう説得されることも全くあり得ないように思われる。私は、原子力戦争の犠牲者であったという日本国民の経験が、同じような非人道的な扱いを人類に対して加える手段を冷酷に持とうとすることを妨げると信ずる。日本人は〝核武装に対してアレルギーを起こしているように思われる〟と、ある米国人が最近不満を述べたと伝えられた。もし米国民が、日本人が米国から受けた経験を彼ら自身が持っていれば、彼らも核武装に対してアレルギーになっていたであろう
 しかし、米国が日本の核武装に賛成し、日本人がそれを承認したと想像しよう。それでもまだ日本には核武装をしてはならない理由があるようだ。もし日本が核武装をすることによって、大陸中国核武装にしっぺ返しをするとすれば、これは間違いなく、両国間の将来の親善へのすべての希望を失わせることになろう。これはまた大陸中国を刺激して、その意図を変えさせるかもしれない。中国が核兵器を、どちらかといえば、残忍な紅衛兵ポスターばりの手の込んだ高価な形で使う――現在のところ中国がそのように核兵器を使うことはありそうなことだが、そうではなく、その核兵器を日本に対して致命的な武器として使うよう決定させるかもしれない。
 このようにみてくると、日本が核兵器武装しないだろうことは、実際上は確かだと考えられうる。しかし、これはいぜんとして日本にとって若干厄介な問題を未解決のままにしている。日本がいぜんとして、米国の〝核のカサ〟の保護のもとに留まろうとするのか。これは日本にとってよい取引ではなくなるかもしれない。カサは、もしそれが避雷針に変わるならば、財産から負担に変わってしまうものだ。とすれば、日本にとって米国のカサから抜けだし、軍事的には無防備だが、まる裸で――まさにその理由で挑発的でないため軍事的には安全である――原っぱにたつことが賢明であろう。
 私の判断では、これは日本のとりうる一番賢明な選択だと思われるが、私は日本が自由にこの選択をすることができないような予感がする。米国がかつてカサであった避雷針を、いやがる日本の頭上にさし続けようと強要するだろうことは、まったくありそうなことに思える。わかりやすく言えば、もし米国が沖縄を日本の有効な主権のもとに戻すと決めたとき、米国は日本に対して、沖縄に核兵器の発射基地を維持することを主張することは、まったくありそうなことに思える。そしてもし米国がこれを主張すれば、日本には米国が思う通りにすることを拒む力はないだろう。
 日本の軍事的情勢は、このように、まったくといって良いほど厄介だ。日本は二つの押し合った人間の割れ目に閉じこめられているのだ。日本はそこで押しつぶされることはあっても、そこから脱出することはできない。実際のところ日本は、日本よりも強大な列国のなすがままであり、中国がしようと選ぶこと、米国がしようと選ぶことが、日本にとって大論争を招くことでも、彼らの行動を、日本は制御することはもちろん、その行動に恐らく影響を与えることすらできまい。
 
 
 
 

高等宗教とは何か 「現代が受けている挑戦」p87.L9~ より      

もし、世界国家の複数性が人間の分裂の習慣の根強さを証明するものならば、高等宗教の複数性は同じことをさらにはっきりと示している。
ある宗教が高等なものであるとされるのは、人間の魂を宇宙の背後にある究極の霊的な実在(Ultimate spiritual reality)に直接触れさせようとするということによってである
この二千五百年ほどの間に見られた高等宗教の出現は、先人類(プレサピエンス)が人間になった原始時代の異変以来、現在に至るまでの人間の歴史における最も重要な、最も革命的な出来事である。高等宗教が人間の魂を宇宙の背後にある究極の霊的な実在(Ultimate spiritual reality)に直接触れさせる限りでは、人間の魂を人間が属する社会への隷従から解放する。これまで社会はその成員に全面的な忠節を要求した。高等宗教の出現で、個人は自分への人間の要求と神の要求が矛盾すると判断したら、どんな危険を冒してでも人間より神に従う自由を与えられた。この危険を伴う精神的な自由が生きていく上でのあらゆる世俗的な面での自由の源泉である。高等宗教は解放という救済を成し遂げた。しかし各種の高等宗教はそれぞれ別個に、その目的は同一でありながら違った道を通ってそれをなしとげたのである。
 masatoshi sirokawaの個人的感想
この部分、本当に大事なことであると個人的には強く思っています。私自身の人生を振り返った時、歴史の研究、西洋史、世界史の方向を進むことを決めた一つの重要な要素として、高校時代の世界史の授業の読書課題で出会った書籍があります。世界史の読書課題で選んだ図書がたまたま身近にあった歴史小説ポンペイ最後の日」でした。そこで古代ローマに興味を持ち始め、当時読書の目標としていた「岩波百冊の本」の中に、古代ローマの時代を扱っている「クオ・ヴァディス」という岩波文庫の一冊を見つけ、読み始めました。この作品はションキヴィッチという作家の作品であり、第一回のノーベル文学賞を授賞していることはあとがきで知りましたが、最も心を動かされたのは、この小説の最終場面で、聖ペテロがローマでのキリスト教徒迫害を逃れ、アッピア街道を南に下っているとき突然、イエス=キリストが現れ「クオ・ヴァディス  ドミネ?」(主よどこにいかれるのか)と問いかけるペテロに対して「おまえがローマの民を見捨てるなら、私がローマに行って迫害を受けよう」と答え、その答えを聞いたペテロが心を変え、ローマに向かって戻っていき、迫害の結果殉教するという場面でした。当時自身の信仰として、父が入会していた創価学会の信仰をどう受け止めるかについて、葛藤し逡巡していた自分にとって、信仰を基盤とした生き方、究極は死をも乗り越えていく生き方は、衝撃でした。考えてみると、創価学会の基盤としての日蓮仏法、牧口、戸田、池田の三代の会長に通底しているのはこの死をも乗り越える、主体者との信仰であることに気づき、自分自身として、主体的に創価学会の運動に関わっていこうという決心を固めることができました。
この一節でトインビー博士が書かれておられるように、
「高等宗教の出現で、個人は自分への人間の要求と神の要求が矛盾すると判断したら、どんな危険を冒してでも人間より神に従う自由を与えられた。この危険を伴う精神的な自由が生きていく上でのあらゆる世俗的な面での自由の源泉である。高等宗教は解放という救済を成し遂げた。」
この危険を伴う精神的な自由が生きていく上でのあらゆる世俗的自由の源泉であるという原理は、人類社会にとって根本的な価値を持っています。アメリカ「独立宣言」フランス「人権宣言」による啓蒙思想に基づく人権の宣言。その内容を法律として具体化した、アメリカ合衆国憲法からはじまる世界各国の憲法。世界史の教科書のなかで、重要な事項として、頁数の割合を多くして記述されている部分です。いまロシア、中国を〝権威主義国家〟と批判し、自身の陣営の価値観として〝自由と民主主義〟を掲げて武力行使を当然視するアメリカ合衆国。しかし、その国々の憲法を見比べると、文言上ではほぼ同じ、啓蒙思想からはじまる人権がうたわれています。しかし、その人権を人間社会において、本当に生きた現実にするためには、この権利を究極の局面においても自身の生命をかけても守り抜こうという強い生き方が求められます。そのためにはここでトインビー博士が書かれている、高等宗教を基盤とした人間群が必須条件になります。その方向へ人類をどうリードしていくのかが、現代における最も重要で差し迫った課題であることは間違いありません。
 
トインビー博士は、「歴史の研究」再考察の中において、キリスト教イスラム教の出現の基盤となったユダヤ教について論じています。その中にユダヤ教の歴史におけるローマ帝国との関係において、「平和主義」を貫いたパリサイ人の流れとキリスト教だけが後世に生き残ることができたとして、「高等宗教」と「平和主義」の関係について考察し、次のように書いておられます。
 
「このような非好戦的な政治的態度を維持した点で、パリサイ人はイエスキリスト教会と一致していた。そしてパリサイ派ユダヤ教キリスト教が共に生き残り、ハスモン族とゼロト主義者のユダヤ教が死に絶えたことは偶然ではない。このパリサイ派キリスト教的平和主義は、オイクメネー(人間が生活している全世界)の歴史的な心臓部が多くの圧倒的に強力な侵略的軍国主義的な〝帝国〟によって支配されていた時代には実際的な良識であった。しかし平和主義はまたあらゆる時代とあらゆる環境に於いて、高等宗教の正しい政策であった。しかもこれは常に正統な精神的な理由によってである。
 高等宗教の信者が政治に加わって武器を執る時、彼らはそのことによって彼らの宗教を台なしにし、不毛にするのである。そして彼らがその精力をそらした世俗的な目的の達成に成功すればするほど、ますますその宗教は効力を失い不毛になるのである。この真理は、ユダヤ教だけでなく、キリスト教イスラム教、ゾロアスター教シーク教の歴史に例証されている。パリサイ人の平和主義はユダヤ教がゼロト主義者と共に死に絶えるのを救ったのである

トインビー博士と池田先生の対談「21世紀への対話『Choose Life』」より50周年を迎えて

本年、2022年5月5日は、トインビー博士と池田先生との対談「21世紀への対話」『Choose Life』の対談が1972年の5月5日にイギリスのロンドンのトインビー博士の自宅でスタートして50年目の節目を迎えました。この日に向けて、東洋哲学研究所の研究員の皆さんの記念論文を収録した記念論文集「文明・歴史・宗教」が発刊されました。

冒頭に河合秀和氏の寄稿文が収録されています。その中で、河合氏は1967年の晩秋、2年半の英国留学を終えて、日本に帰国し大学教師となったばかりの時に、英国文化振興会の日本支部の代表者 E・F・トムリン氏から、トインビー博士が来日するので会わないかと言う誘いを受けたことを記しています。河合氏は次のように書いています。

「当時、大学の教師になったばかりの私は、比較政治という(日本で最初の)講座を担当していた。・・・〈中略〉・・・一国の歴史を国際政治の環境との関係で考え、古代政治も現代政治もいわば権力の作動という社会学的なパターンとして比較するトインビーの研究方法から多くを学んでいた」と。

河合氏はつづけて「私たちは、アメリカ大使館近くのしゃぶしゃぶ料亭で出会うことになった・・・〈中略〉・・・料亭は薄暗かったが、トインビーの眼光は鋭かった。『いま、国体思想はどうなっているか』というのがトインビーの最初の質問で会った。・・・〈中略〉・・・トインビーの質問に対して私は、もともと天皇制国家であった日本は、未だに大中小の無数の天皇たちが天皇崇拝と愛国主義を競い合うような社会であることをまず話した。さらに、戦後の新憲法の下で、頂点に立つ天皇が主権を失いその主権が国民に移ったとしても、これら無数の天皇は家庭内の家父長支配者として、あるいは企業組織や村落の指導者として縦の人間関係のなかに残っており、自由と民主主義がこの天皇制国家の残滓を克服していけるかどうかが当面の問題点であると答えた。       二番目の質問は、『創価学会ファシスト』であった。私は、創価学会は戦時中に治安維持法によって迫害された組織であり、戦前への復帰ではなく、むしろ立ち直りつつある新たな中流階級に自立心と誇りを与える運動を起こしていると思うと答えた。そして、とくに天皇制と軍国主義を支える地盤であった日本の農村では、戦後のマッカーサーの農地改革によって生活水準が高まったが、これはドイツの中流階級と農民がヒトラーを支持した状況とはまったく異なると思うと話した。重要な質問はこの二つだけであったと記憶している」

ここに記されたトインビー博士の質問と河合氏の回答には重要な意味があると思います。この河合氏との対談の二年後、1969年9月に、トインビー博士は自ら池田先生宛の手紙を書き、対談をすることを申し入れています。この河合氏の記述からわかってくることは、少なくとも対談の申し入れが行われる二年前からトインビー博士は「創価学会」という日本の〝新興宗教〟団体に強い関心をもって、情報を集めていたことになります。さらに先の二つの質問でわかるのは、まずトインビー博士は日本について戦前の日本の国家としての根本思想であった国家神道をベースにした〝国体思想〟が日本の決定的な敗北のあと日本人の中にどのように残っているのか、それとも影響力を失っているのか。また、日本の民衆の中の思想的な動きとして、戦後急速に発展したいわゆる〝新興宗教〟、その中でも急激な拡大を遂げ政治の世界にも代表を送ることになった創価学会に強い関心を持っていることがわかります。

このような関心は、実はこれよりも前、1956年の2月にイギリスを出発し、翌年の1957年8月に帰国することになった〝世界一周旅行〟の印象を綴った旅行記『東から西へ』の中で、日本の国際文化会館の招待を受け、戦後約十年の段階で来日したときの日本の印象を記述した部分に、その関心の原点がトインビー博士自身によって、綴られています。

この段階で1989年生まれのトインビー博士は、すでに78歳。数ある批判はあっても、歴史家として、いわば〝功成り名を遂げ〟世界的な知名度が確立した有名人でした。そのトインビー博士が、「創価学会」という極東の新興宗教団体に、単なる関心以上の強い興味を示すということとは、いかなる意味があったのか?

この意味を理解するためには、単に、この時点に限定したトインビー博士の興味・関心だけではなく、1929年・太平洋協議会へ英国代表団の一員として来日したときから始まり、1956年の第二回の来日時における日本に対する観察、それに基づく見解、さらにその前後のトインビー博士の著作における見解等、トインビー博士の生涯の事績・思想をも踏まえた探求が必要になってくると思います。さらに考察を加えてみると、第二次世界大戦後、日本の歴史上経験したことのない敗戦と他国軍による占領という状態のなかにおかれていた日本人がとった行動について、トインビー博士はいかなる視点をもって注目していたかという点が重要であると思います。

トインビー博士が1925年以降「国際問題大観」の年次総括報告の単独執筆者として世界全体の国際問題について観察し記述してきた方法論は、歴史家として「歴史の研究」において追求してきた方法論と重なると言ってもよいと思います。まず「国家」単位ではなく「文明」を単位とした考察であること、その考察については、常に全時代・全世界を対象とした「世界史」を基盤とすること。その中においては、1940年の5月23日にトインビー博士を講師として実施されたオックスフォード大学のSheldonian ThetreでのBurge Memorial lecture【この内容は1947年に刊行された『試練に立つ文明』のなかに「キリスト教と文明」“Christianity and Civilization”という題で収録されています】で初めて表明された「高等宗教」の発達を助け育てることが「文明」の大事な役割であると言う主張が反映されます。この主張は「歴史の研究」の後半部の主題です。

このテーマを確認する上で、ここでトインビー博士の「高等宗教」についての考察をここに引用してみます。この内容は、1967年に発刊されたトインビー博士の著書「現代が受けている挑戦 “Change and Habit”」に書かれているものです。
『もし、世界国家の複数性が人間の分裂の習慣の根強さを証明するものならば、高等宗教の複数性は同じことをさらにはっきりと示している。
ある宗教が高等なものであるとされるのは、人間の魂を宇宙の背後にある究極の霊的な実在(Ultimate spiritual reality)に直接触れさせようとするということによってである。
この二千五百年ほどの間に見られた高等宗教の出現は、先人類(プレサピエンス)が人間になった原始時代の異変以来、現在に至るまでの人間の歴史における最も重要な、最も革命的な出来事である。高等宗教が人間の魂を宇宙の背後にある究極の霊的な実在(Ultimate spiritual reality)に直接触れさせる限りでは、人間の魂を人間が属する社会への隷従から解放する。これまで社会はその成員に全面的な忠節を要求した。高等宗教の出現で、個人は自分への人間の要求と神の要求が矛盾すると判断したら、どんな危険を冒してでも人間より神に従う自由を与えられた。この危険を伴う精神的な自由が生きていく上でのあらゆる世俗的な面での自由の源泉である。高等宗教は解放という救済を成し遂げた。しかし各種の高等宗教はそれぞれ別個に、その目的は同一でありながら違った道を通ってそれをなしとげたのである』

この視点で「世界史」を考察してみると、世界史上の「高等宗教」としてトインビー博士があげているのは、小乗仏教大乗仏教ヒンズー教ゾロアスター教ユダヤ教キリスト教イスラム教です。さらに核戦争による人類絶滅の可能性が明確になった現代において戦争という人類世界の宿痾を克服し、平和をもたらす可能性を作り上げるために最も必要とされる世界宗教化した高等宗教として、トインビー博士がさらに分別されているのが大乗仏教キリスト教イスラム教の三つです。その中でも特に注視されていたのが、最古の高等宗教・世界宗教であり、その布教の過程で暴力による強制という手段と無縁であった大乗仏教の存在でした。ただし、世界宗教としての高等宗教は世界史上において、大乗仏教キリスト教イスラム教の三つしかありません。さらに、その出現の状況を世界史の中で確認していくと、これら三つの世界宗教化した高等宗教は、「文明」と「文明」の衝突の結果として出現していることがわかります。代表的なキリスト教を例にとると、この宗教は「ヘレニック文明(ギリシャ・ローマ文明)」と「シリアック文明(地中海東岸の諸民族、ヘブライ人、アラム人等の属する文明)」の衝突の結果、決定的敗北を経験したヘブライ人の最下層の庶民の自発的運動として始まり世界宗教化したものです。その歴史観で、20世紀の世界をみたとき「文明」と「文明」の衝突は存在するのか?決定的な「文明」的敗北を経験したのはどの「文明」か?「文明的敗北」とは、「文明」が成り立つうえで根幹となる統合原理としての思想・宗教の敗北ということになります。さきにあげた1967年の河合氏とトインビー博士のやりとりのなかで、トインビー博士が発した日本における「国体」に関する質問、「創価学会」に関する質問は、「日本文明」における統合原理としての「国体思想」の状況、最下層の民衆の自発的運動として、この1967年〔昭和42年〕の段階でその存在が明確に認識できるようにまで拡大した「創価学会」の思想的背景についてであることは、この段階でのトインビー博士の関心がどこにあったのを明確に示していると思います。

この年、1967年(昭和42年)の段階における創価学会は、第三代会長に就任して7年目の池田先生のもと、拡大につぐ拡大の戦い〝折伏大行進〟を展開した結果、第二代戸田先生の時代の最晩年に達成した75万世帯の約10倍となる600万世帯を達成していました。この急速な拡大の動きの中で、創価学会は非難中傷の嵐にさらされていました。 その中でも、代表的な中傷が〝病人と貧乏人〟の集まりが創価学会だというものであり、急速な拡大に対しては〝暴力宗教〟のレッテルをはることでした。

私ごとになりますが、わが一家の創価学会とのかかわりは、父〔1913(大正2 )年生まれ〕が、1957(昭和32)年に創価学会に入信したことから始まります。当時10歳であった私もその状況は鮮明に記憶していますが、世間一般の当時の創価学会に対する非難中傷は厳しく、子供心にも大変な会に入ってしまったという印象を受けたことを覚えています。しかし父は本気でした。父の世代の前後の世代、大正生まれの世代は、日本帝国の満州事変、日華事変とよばれる中国との戦争から始まり、その後のアメリカとの太平洋戦争、を通して、最終的に1945(昭和20)年の決定的な敗北にいたる約10年をほぼ戦場で過ごすことになった世代です。父の20代はほぼ戦場にありました。北海道の留萌で貧しい船員の子供として生まれた父は、経済的には上級の学校への進学は困難でしたが、尋常小学校の成績が良かったので応援してくれる有力者があり、当時の日本のそのような状況の子供が進学する道、師範学校を目指したいと思ってい父の思いとは異なりましたが、商業学校へ経済的な応援を得て進学することができました。さらに、その上の段階である当時日本に三校しかなかった高等商業学校の一つ、小樽高商へ推薦をうけて進学することができました。そのような高等教育を受けた青年は、予備士官学校を経て将校となる道が開かれており、父もその課程を経て日本軍の将校となりました。十年近くを最前線の中国で戦うことになった父は、文字通り満身創痍の状態で日本に帰ってきました。私が子供のとき父と一緒に風呂に入ると、父の体にはおでこと尻のところに弾丸のあとがありました。父はよくおでこの弾痕は鉄兜を貫通して入ってきた弾丸がぐるっと頭のまわりを回ってまた入ってきたところからでていったと笑っていました。また尻の弾痕は、尻であったために致命傷にならずに済んだようです。また戦場での様子についてはほとんど話しませんでしたが、私の印象に強く残っているのは、映画の戦場で砲撃を受けて兵士が倒れるシーンのところで、「実際の戦場で砲弾の直撃を受けたら、その瞬間人間のからだはバラバラの肉片になって飛び散る」とぽつんと語っていたシーンです。本物の戦場と映画等の作られた戦場のシーンの違いを語っていました。

64歳でこの世を去った父でしたが、その最終段階でわかったことですが、学生時代、結核を罹患した父は肺の機能が片肺しかなく、その状態での従軍はかなり苦しかったのではないかと思います。父は最終的には中国の済南で終戦を迎えましたが、その段階で階級は中尉、中隊長として百名前後の部下を率いていたそうです。しかし、父が言うには上級の将校から疎外されていたため、父の所属していた連隊が当時安全と考えられていた満州に移動する際、父の中隊だけが現地に残されたのでそうです。なぜ父の中隊だけが残されたのか。日中戦争では、広大な大陸、圧倒的多数の中国人の中で戦っていた日本軍は、鉄道の路線と駅しか実効支配が及ばず、よく「点と線」と言いますが鉄道路線の沿線と駅をやっと抑えている状態で、最終段階ではそれも厳しい情勢になっていました。その中にあって、これも父の言っていたことですが、父の中隊は現地の中国人に決して無法なことせず人間として対等に接していたそうです。そのおかげかどうかはわかりませんが、なぜか父の中隊の守備範囲だけが破壊活動を免れる状態が続いており、「おまえの中隊だけ現地に残れ」と、連隊の中で父の中隊だけが現地に残ることになったとということです。済南という地は、現在でもそうですが、中国の南北と東西を結ぶ鉄道路線が交差する交通上の重要地点です。その重要地点に取り残された単独の中隊、大変不安な状況だったと思いますが、まもなく日本は無条件降伏しました。満州に移動した連隊の主力には、その後、ソ連軍との戦闘、降伏、シベリア抑留という運命が待っていたそうですが、父の中隊は中国軍によって武装解除された後、比較的早く日本に帰ることができたとのことです。

帰国後、父は北海道の釧路で母と結婚し、私を長男に三人の男の子が生まれます。私は昭和22年(1947年)生まれですので、まさに〝団塊の世代〟のスタートの団塊の一人です。小学校、中学校、高等学校と進学の各段階で、校舎の増築、定員増を経験し、大学受験は日本の受験の歴史で空前の倍率を経験しました。本年で後期高齢者の仲間入りです。〝ゆりかごから墓場まで〟という英国の社会福祉のスローガンがありましたが、私たち団塊の世代は、数が多いが故に〝ゆりかごから墓場まで〟つねに競争の場にさらされ、また格好の金儲けのターゲットにされるという生涯を送ることになりました。論より証拠、いわゆる〝オレオレ詐欺〟などはまさに金儲けの対象として考えられている格好の例だと思います。いま日中、テレビをつけるとコマーシャルのほとんど全てが健康関係の器具、薬品、そして墓園の紹介です。なぜこんなに多いのか?理由は明瞭です。対象の数が多いからです。なぜ多いのか?一時期にたくさん生まれたからです。なぜ一時期にたくさん生まれたのか?戦争に行っていた若者が帰還し、一斉に結婚し、一斉に子供が生まれたからです。なぜ一斉に?皆、兵隊として戦争に行っていたからです。

この人口ピラミッドの年齢構成の偏りは戦争が原因です。この現象は第一次世界大戦後のヨーロッパで、また第二次世界大戦後の全世界でおきました。

 

 

 

ロシアにおけるビザンチン帝国の遺産

ロシアにおけるビザンチン帝国の遺産
 
1.ロシアによるウクライナ侵攻(特別軍事作戦)
現在、世界中のニュースでほぼ一日中24時間と言って良いくらい関心を集め、取り上げられているのは、2022年2月24日に開始されたロシアによるウクライナ侵攻です。現在なお進行中であり、結末はまだみえていません。ニュースの取り扱いは、SNS等で送られてきた、現地の生々しいショットの放映を中心に、コメンテーターのコメントが加えられたニュース映像であり、日本のマスコミの取り扱いは、ほぼアメリカの現バイデン・民主党政権の主張にそった内容です。「アメリカ独立革命」に始まる「自由と民主主義」という〝普遍的〟価値の守り手として「Manifest Destiny」を標榜する価値観の視点から、ラインホルト・ニーバーの定義によれば自らを〝光の子〟絶対的な「善」として設定し、対立する勢力を自らに跪かない限り絶対の「悪」として位置づけて弾劾し徹底して攻撃することを継続します。はたして、この姿勢から、次の時代の展望はひらけるのでしょうか。
 
2.機能不全に陥った国際連合
〝戦争の世紀〟20世紀の反省を踏まえて、主権国家の独立をベースとし、その国家単位での生存の保証の組織として設立された国際連合は、この原則を破る国家に対して、懲罰としての制裁策、最終段階での軍事的制裁をも想定しています。そのことを保証する機構として国連・安全保障理事会があります。その安全保障理事会においては、米、露、中、英、仏の5カ国をメンバーとする〝常任理事国〟の一致の条件(一国でも不賛成の国があれば成立しませんので〝拒否権〟と呼ばれます)を規定していますが、第二次世界大戦後の冷戦時においては、米ソの対立のため、ソ連崩壊後の今日においても、五大国の意見の一致は難しく、有効に機能したことはないと言っても良いと思います。ソ連邦の崩壊からすでに30年が経過しました。現在、国際関係においては、大国としての基盤を備えるに至った中国も含めた諸大国が自国の勢力圏を争う〝新帝国主義〟とも言える時代となり、さらに複雑な機能障害に陥っているように見えます。まして常任理事国であるロシアが根本原則を踏みにじるというような事態になると、この仕組みを機能させることができず、結果として国連の機能不全状態が白日のもとにさらされることになりました。この事態は、現在の核兵器保有国による国際ルールを破る異常な振る舞いであり、全人類の滅亡の可能性にもつながる本質的な意味での危機事態です。それでは、この事態の解決の方向性は?。ロシアを批判して、国内の反対世論に期待すべきでしょうか?経済面での制裁処置を究極にまでに高めるべきでしょうか?ウクライナ義勇兵、武器援助をはじめとする武力による支援を強力に行うべきでしょうか?このすべての可能性についての報道が今さかんに行われていますが、どれも決定的な解決手段とはならないことは明白です。
 
3.様々な視点・観点
 それでは、どのような対応策があるのか。この間の報道で、主にYouTubeでの報道ですが、丹念に探してみると馬淵元駐ウクライナ大使を始めとして、篠原常一郎氏の連日の発信、さらに新党大地の月例公開講演会での佐藤優氏の話とか、これはと思われる視点をもつものがいくつかあります。さらに検索を重ねていくと、たとえば「論座」「潮」における塩原俊彦氏の記事、「プレジデントオンライン」における佐藤優氏の投稿記事等、など、ロシア側の論理も押さえた上で、今後の見通しについての客観的な優れた記事があります。しかし、残念ながらこれらの記事の視点についも感情的な反感による批判の感想が集中しています。大手メディア、マスコミの報道は、欧米を中心としたメディア発信のものが中心になっており、映像的には個人が様々な個々の状況に接して、その一瞬を切り取ったSNSからの発信を織り交ぜての報道になっていますので、インパクトの強い映像が中心であり、そこにいたる事情や背景も含めての根本的かつ根源的な認識を得るのは本当に難しい状況があります。またロシア発のニュースはほとんど無視され、〝人道的感情〟を安易によりどころとした感情的な情報が飛び交っています。その中からどう正しい事実を確認し真実をつかんで、正しく考えることができるか。今、求められているのは人類の歴史を踏まえ、人間の本質をしっかりと踏まえたうえでの事実に対する深い考察です。
 その中で、ユーチューブに、「伊藤貫の真剣な雑談」第七回「文明の衝突とロシア国家哲学」と題する映像が6月25日にアップされました。約73分におよぶ大学の講義並の時間をとった内容は、プーチン大統領のロシアがウクライナ侵攻を決断するにいたるまでの重要な判断材料となった、ソヴィエト連邦崩壊後の30年にわたるアメリカ合衆国によるロシア政策と、その功罪です。米ワシントン滞在が30年をこえる国際政治アナリストである伊藤貫氏が、現地アメリカの直接の情報を通して、分析し表明する見解は、現在のアメリカの主要メディアの見解にかかっているバイアスを超え、真実の状況を示しています。さらにその情報をほぼそのまま提供している状況である日本の大手メディアではほぼ聞くことのできない内容です。
 私が、ユーチューブを通してやっとたどり着いたと言っても良い、オリヴァー・ストーン監督の「プーチン・インタビュー」、シカゴ大学ミアシャイマー教授の見解、さらにフランスの人口学者エマニュエル・トッド氏の見解、さらに「文明の衝突」を書いたハンチィントンの見解等を取り上げたうえで、キッシンジャーをはじめ、この30年間におよぶ米国外交の当時者である米国国務省、CIAの担当者の自伝のなかに問題への言及をさぐり、また米国主要メディアに掲載されたインタビュー記事を縦横に引用しての内容は、説得力があります。
 さらに圧巻は、プーチン大統領の思想とその背景の分析です。日本の報道では、プーチン大統領の出自として、KGBに焦点をあてて、秘密主義・陰謀工作・独断専制等のイメージを作ろうとする傾向がありますが、伊藤貫氏の分析は、プーチン大統領の出自をていねいにたどり、その背景にある「ロシア文明」の発想に言及していきます。イリイン、ソルジェニチィン等のプーチン大統領が引用し学ぶように教唆している文学者とのつながりとその意義を明確にしています。伊藤貫氏の分析から、見えてくるのはロシアという国のもつ根本的な要素としての「ロシア文明」、西欧文明とは明らかに異なる原理に基づく文明の存在であり、その原理の上に立って発想し、戦略的方針、戦術的な方針を立て行動するプーチンの実像です。
 
4.アレキサンドル・カザコフ「ウラジーミル・プーチン大戦略
 アレキサンドル・カザコフ「ウラジーミル・プーチン大戦略」は2021年7月に日本語に翻訳され出版されました。著者のアレキサンドル・カザコフ氏は、佐藤優氏が作家としてデビューし評価を受けた著書、2006年に出版された「自壊する帝国」の中で、モスクワ大時代からの友人として〝サーシャ〟として登場します。私にとっては、その後継続して佐藤優氏の著書を連続して読み始めるきっかけとを与えてくれた本です。そこに描写されたソ連崩壊後の2500倍にも達するハイパーインフレの中で苦闘するロシアの状況を象徴するような人物として印象深い人物であり、エリチィン政権下でのロシアの状況の描写とともに強く印象に残っています。あとがきに著者と佐藤優ソ連崩壊後のロシアから始まる両者の深い関係を語る、長文の解説があるので引用します。
本書の著者アレクサンドル・ユリエヴィッチ・カザコフ君(いつもサーシャという愛称で呼んでいるので、この解説でもサーシャと記す)は私の親友だ。私がモスクワの日本大使館に1987年8月から95年3月までの七年八ヶ月勤務していたときにできた生涯付き合うことになる友人の一人だ。その中でもサーシャは別格だ。なぜなら他の友人は、大使館で私が勤務するようになってから仕事を通じて知り合ったのに対して、サーシャは私がモスクワ国立大学に留学しているときにできた友人で、仕事上の利害関係を持っていなかったからだ。・・・・・・(中略)・・・・・・確かにサーシャが言う通り、今から三十数年まえに二人で真剣に議論した内容が、『ウラジーミル・プーチン大戦略』では、より精緻に展開されている。私なりの言葉で、要約してみよう。サーシャは、プーチンがロシア人の集合的無意識を体現していると考える。それは、『ロシアは帝国でなければロシアではない』と言うテーゼだ。ソ連崩壊前後に欧米諸国(西側)は、ロシアを国民国家(ネーション・ステイト)に再編しようとした。それはモザイク状にさまざまな民族と宗教が分布するロシアの死を意味する。ゴルバチョフ政権末期とエリツィン政権時代が『混乱の九十年代』となったのは、ロシアが帝国であることを放棄しようとしたからだ。ロシアにとって、最大の脅威は、ロシア民族主義ナショナリズム)だ。プーチンは、移民を排除し、ロシア人だけによるロシアを形成しようとする排外主義的民族主義を最も危険視している。その理由は、民族主義ロシア帝国を分解させ、民族間の反目を煽ることになるからだ。帝国としてのロシアを維持するためにプーチンはロシア・ナショナリズムに反対するのである。
ここでサーシャは、二つのロシア人概念を分けて考える。第一が、ルースキーだ。これは民族的なロシア人で、ロシア語を話すロシア正教徒の人々だ。これに対応する国家名がルーシ(古代ロシア国家の名称)だ。第二がロシヤーニンだ。これはロシア皇帝に忠誠を誓う臣民という意味で、民族的、人種的、宗教的帰属は問題にならない。これに対応する国名がロシアである。ロシアという名称自体が、国民国家ではなく、帝国を表しているのだ。・・・・・(後略)・・・・・・ 」
 この佐藤氏による解説を読んでいくと、現在のロシアのプーチン大統領は民族国家という枠ではなく、複数の民族をその版図内におさめる〝帝国〟という概念のもと、ロシアの方向性を構想していることがわかります。そのロシアにおける〝帝国〟という思想・概念に、意識的にも無意識的にも大きな基盤を提供しているのが〝ロシアにおけるビザンツ帝国の遺産〟と表現されているものであることは明白です。その根幹のエートスを構成するのが〝モスクワこそ第三のローマ〟とするロシア正教です。この認識はトインビー博士と一致し、ロシア文明は現在、世界に存在する西欧、ロシア、インド、中国、日本等の〝文明〟から構成される世界の〝文明〟の一つであるとする文明論的考察の可能性に導きます。この視点こそ、トインビー博士が、1947年に発表した「ロシアにおけるビザンチン帝国の遺産」に展開されている観点そのものです。人間を行動に導く動機としての意識、さらにその根底をなす無意識。20世紀における心理学上の最大の発見と呼ばれる〝無意識〟。なかでもカール・グスタフユングは、第一次世界大戦の勃発に先立ち、ヨーロッパ人の無意識に起こっていた変化を明確に指摘しました。国家レベルでの集合意識のさらに奥底に動いている集合的な無意識の存在を指摘しています。この無意識レベルまで認識しなければ世界の大きな動きの本質は捉えることはできません。ソ連崩壊後のロシア文明の破滅的体験は、ロシア人のなかに自己の文明の無意識的基盤にまで立ち返って、思考し行動する人々を生んだと認識すると今回のロシアの行動の意味が見えてきます。さきほど引用した佐藤優氏の文章のなかの「プーチンがロシア人の集合的無意識を体現していると考える」という一節には重要な意味があります。この〝サーシャ〟による、プーチン大統領ビザンツ帝国に関する認識を記述した部分を以下に引用します。
「・・・・このことから次のことを認めざるを得ない。ビザンツ帝国は、それ自身の、そして自身を取り巻く空間を組織化するモデルと、この組織づくりのための戦略を作り上げたが、それは今日の世界において、とりわけロシアにとってはなおのこと必要とされるものである。
ここにおいて、先述の映画『帝国の滅亡、ビザンツの教訓』〔「教訓」という言葉がここでは最も重要だ〕の脚本を書いたヴラディカ・チーホンに同意せざるを得ない。そして本書は、ロシアの最高統治者であるウラジーミル・プーチンがこれを理解していると言うことを述べたものなのである。
 本書で取り上げたテーマはそれぞれが個別に詳細な検討を要するものであることは承知のうえで、プーチンの戦略の宝庫であるビザンツの源流についての論考を手短に総括しておく。ビザンツ帝国が戦略地政学的に脆弱な状態にあり、あらゆる戦線で絶えず戦争を行うにはリソースが足りなかったことが、ビザンツ帝国をして、外交で戦略の宝庫を拡充させ、戦略の及ぶ空間を、見渡せる限りのエクメーネ(北アフリカからスカンジナビアまで、ピレネー半島からカスピ海沿岸のステップまで)に拡張させることになった。そのことが、帝国が大戦略を実施するその時々において、シナリオの数を格段に増やすことになった。ビザンツ戦略の根底には正教の信仰があり、然るべくして使命が形作られた。だからこそ、そしてその結果、ビザンツプーチン大戦略にとってのモデルとなり、インスピレーションの源ともなったのである。・・・・・(中略)・・・・・・アメリカやヨーロッパの人々は、自分たちとグレードゲームを行っているのは「ヨーロッパ人」のプーチンクレムリンの「ドイツ」人)だと考えるが、実際のところ、グレードゲームを行っているのは、「北の狐」(ナポレオンがクトゥーゾフ将軍のことをこう評した)なのであり、中国と西欧の学び舎で選択的に学び終えた、真にビザンツ的な戦略家なのである。」
 
5.トインビー博士の「ロシアにおけるビザンチン帝国の遺産」
 この問題を考える中で思いいたったのがトインビー博士の「ロシアにおけるビザンチン帝国の遺産」という講演です。この講演は、博士の著作の『〝Civilization on Trial〟「試練に立つ文明」』の中に収められています。英文による〝ACKNOWLEDGMENTS〟の中には、この講演についてA.J.Toynbeeの署名を記して、次のような記述があります。
……Rossia`s Byzatine Heritage, published in Horizon of August 1947, is based on a course of two lecutures deliverd in April 1947 at the University of  Tronto on the Armstorong Founation.
1947年、カナダのトロント大学での講義で、ロシアについての考察? しかし、現時点で振り返ると1947年という年は、1949年にソ連が原爆実験に成功し核保有国としてアメリカ合衆国の独占状態を破り核大国の道を歩み始める直前であり、カナダはソ連からの迫害を逃れたウクライナ人が多数移住した国でした。現在においても、カナダにおいては英語、フランス語につぐ公用語ウクライナ語といわれています。
今回のウクライナ問題について重要な役割を果たしているとされる、アメリ国務省の次官であるヌーランド女史はその祖父がウクライナ出身であり、2014年のロシアによるクリミア併合の結果につながる契機となったといわれる、ウクライナにおける〝マイダン革命〟の動きの中で、当時オバマ政権のもと国務省の次官補であった彼女が具体的に大きな役割を果たしたことは周知の事実です。世界中が映像を通してその姿を見ることになりました。正常な選挙を通じて選出された他国の大統領に対してその国の首都で発生した政治デモの中に直接参加し激励し、さらに携帯電話で新政権の人事の指示までしている様子が映像の中に映っており、その映像は全世界に広がることになりました。その日はプーチン大統領が、国家の威信をかけて開催したソチにおける冬季オリンピックの閉会式の日であり、そのオリンピックと時期を同じくして、ウクライナの首都で発生した〝マイダン革命〟による政権交代は、きわめて政治的なもくろみが背景にあったと考えざるを得ないと思います。
  ロシアとウクライナとの関係、移民の国であるアメリカ合衆国におけるネオコンと呼ばれる人々、その人々がアメリカ合衆国エスタブリッシュメントとして、特に国家官僚として外交の上において果たしてきた役割を考えるとき、そのヨーロッパでの出自まで考えることによって、現在、目の前で起こっている事件の真実の背景が見えてくるように思えてなりません。
 トインビー博士の「ロシアにおけるビザンチン帝国の遺産」の内容は、ギリシャとローマからなるヘレニック文明、後継帝国としてのビザンチン帝国を考察の基盤において、キリスト教において西欧に展開されるローマン・カソリックビザンチン帝国で展開されるギリシャ正教とその影響下に成立するロシア正教等の東方キリスト教との関係について論じていきます。さらに世俗権力の頂点としての〝皇帝〟とキリスト教との関係を、西欧とビザンツ帝国との関係、さらに7世紀以降、急速に勃興するイスラム教。そのイスラム帝国であるオスマン・トルコとの関係。とくに1453年のコンスタンティノープル陥落以降の、東方キリスト教の首位者の変遷の結果、〝第三のローマ〟を呼称するロシアにおける〝皇帝〟《ツアーリ》の位置づけの内面的な意味にふれていきます。この根源的な内面的矜持が、ピョートル大帝以後の西欧文明の吸収、さらに第一次世界大戦におけるロシア帝国の崩壊に代わって権力を掌握したボリショビキ革命、反西欧文明的な根本性格を持つマルクス主義のもとに成立したソヴィエト連邦がロシア人にとって持っている内面的意味についてふれていきます。この論考の冒頭でトインビー博士は次のように書かれています。
 
6.ソビエト・ロシアに貫流する「ビザンツ文明」の遺産
今日のロシアの社会体制〔1947年段階でソ連の体制〕は――細目の外面的事項まで全部はおそらく含まないにしても、少なくとも重大な事柄の大部分においては――ロシアの過去とは縁もゆかりも一切断ち切ってしまったと主張しています。また西欧人もボルショヴィークの言葉を真に受けて、ロシアはその主張を文字通り実行したものと思い込んでいます。われわれはそれをまに受けて身震いしたのであります。しかし一歩立ちどまって反省してみると、われわれが祖先から受け継いだ遺産を放棄するということはそれほど容易なことではありません。われわれが過去を放棄しようとすると、自然はホラティウスも知っていたように、姿を変えたのはほんのうわべばかりで、こっそりとわれわれの懐に舞い戻ってくるくせ者なのであります。」(p228)
「過去一千年近くのあいだ、ロシア人は、筆者の見るところでは、西欧文明ではなくて、ビザンチン文明の一員であったと考えるのであります。このビザンチン文明は、われわれの文明と姉妹関係に立つ一つの社会であって、われわれと同じくギリシャ・ローマ文明を父としていますが、それにもかかわらずわれわれの文明とは別個の文明であります。ビザンチン文明に属する諸民族の一員であるロシア人は、われわれ西欧世界に圧倒されるという脅威に対して、いつも強硬な抵抗を示してきましたが、同様な抵抗を今日なお続けています。西欧に征服され無理に同化させられることをまぬがれようとして、彼らは再三西欧の技術的学問を身につけることを強いられてきたのであります。この『離れ業』はロシアの歴史において少なくとも前後二回――最初はピーター大帝によって、次にはボルショヴィークによって――繰り返しなし遂げられました。・・・ところがせっかくボルショヴィークが年来の宿望を果たしたと思ったら、こんどは西欧が原子爆弾の製造のこつを発見することによって、またもやロシアを出し抜いてしまったのであります。
(p230)
西欧人はロシアが侵略者であるという一個の観念をもっています。西欧的な眼を通して眺めるならば、実際ロシアはどこから見てもそうとしか見えません。・・・・・・(中略)・・・・それがロシア人の眼には、景色はまったく反対に映るのです。ロシア人は自分たちが絶えず西欧からの侵略の犠牲者であると考えています。]
(p232)
 今回のウクライナ侵攻についても、この正反対の認識・刷り込みが双方にあることが、2月の戦争開始以来今日にいたるまで、連日・連夜報道される、ニュース・新聞記事等で明白にわかります。英米エスタブリッシュメントが支配する政府の公式発表、それに連動するシンクタンク、マスコミの報道は、極端に言えばプーチンは“悪魔”であるか、正気を失った“狂人”であり、それに対抗しているウクライナは“光”“正義”の代表である。したがって、最終的勝利は間違いないというものです。この判断・認識はほぼ宗教的な確信に近いと言えます。その価値判断に基づいて編集された情報が欧米・西欧のメディアから大量に流されています。日本のマスコミも、ほとんどこの論調です。一方、ロシア・ウクライナに確かな情報源をもつごく少数の人物、例えば佐藤優氏や、篠原常一郎氏などから提供される情報は、西欧経由で入ってくる情報とかなり違います。これらの情報はYOUTUBE等のメディアを経由して提供されていますが、大手のマスコミの報道の中には反映されていません。起きている事実そのものは同一だとしても、ロシア側の価値観からは全く違う状況が見えてきます。この状況は“戦争”当事者のプロパガンダだと割り引いてみるとしても、今現実に起きている出来事を正確にみることは、我々日本人にとって、次の対応を正確に判断するための必須の条件です。今の現状は、トインビー博士が1947年に、認識・予想していた通りの反応を西欧側とロシア側双方がしていることになります。このあと、トインビー博士は、キエフ公国からはじまるロシアの歴史を具体的にひもとながら、この西欧とロシアの認識の違いについて記述していきます。
 どちらの認識が現実なのか。トインビー博士は次のように結論されています。
数世紀にわたる二つのキリスト教世界のあいだの戦争の歴史において、どちらかといえば、むしろロシアのほうが侵略の犠牲者であり、西欧の方が侵略者である歩合いの方が多いというのが真相といってもいいでありましょう」(p234)
この指摘は、冷戦初期の1947年における考察です。その一瞬の状況を分析するのに、トインビー博士は、ノルマン人によるキエフ公国の成立の含めた約1000年にわたるロシアの歴史を考察の対象とします。
 
7.ロシアの成立
航行しうる内陸水路の支配権を獲得し、かくしてヒンターランドのスラブ人の原住民に対する支配権を確立することによって、曲がりなりにも一個のロシア国家の端緒を開いた『ヴァラング人』《一般的には、スウェーデンヴァイキングの事であると現代では解釈されている。》はもともとシャルルマーニュ帝のもとにおける西欧キリスト教世界の北進によって刺激され、西方に向かうと同時に東方にも移動せしめられたスカンジナビアの蛮人であったようであります。母国にとどまったその子孫は西欧キリスト教に改宗して、彼らは彼らで、後代のスウェーデン人としてロシアの西方の地平線上に姿を現わしました。つまり彼らはロシア人から見れば、侵略根性をなおされることなしに異端者となった異教徒だったのです。さらにまた十四世紀においてロシアのもとの領地の最良の部分――白ロシアベラルーシ)とウクライナのほとんど全部――がロシア正教キリスト教世界から切りとられて、リトアニア人とポーランド人に征服されることにより西方キリスト教世界に併合されたのであります。(十四世紀にポーランド人が征服した、ガリシアのもとのロシア領は、1939年~45年の大戦が終局に近くなるまでロシアに取り戻されなかった。)
 
なかでも1453年のコンスタンティノープル陥落以降の、ギリシャ正教という東方キリスト教世界における中心者であるコンスタンティノープル大司教が、イスラム教を奉じるオスマン・トルコの政治的支配に屈せざるを得ない状況の中での、モスクワを中心としたロシアの役割の変化について論じています。
 
8.「第三のローマ」としてのロシア
1453年以来、ロシアはイスラム教徒の支配下にない『正教キリスト教国』のなかで唯一の重要な国家でありました。また、トルコ人によるコンスタンティノープルの占領は、イワン雷帝が一世紀後にカザンをタタール人から奪い取ったとき、彼によって劇的に復讐されたのであります。この事件は、ビザンチウムの遺産に対する要求において、ロシアがさらに一歩を進めたことを意味しています。・・・・・・・・・・ロシア人は自分が何をしているかを十分自覚していました。たとえば十六世紀において、ロシアの政策はモスコーの大公、バジル三世〔その治世はイワン三世と四世の治世にはさまれている〕にあてられた修道者、ブスコスのテオフィルスの一通の公開状の有名な一節のなかに、注目すべき明確さと自信とをもって述べられています。
“『古きローマの教会』はその異端のために倒れた。『第二のローマ』なるコンスタンティノープルの門は神を信ぜぬトルコ人の斧によって、伐り倒された。しかし『モスコーの教会』、『新しいローマの教会』は太陽よりも輝かしく全宇宙に光被している。・・・・・二つの『ローマ』は倒れたが『第三のローマ』は厳然として立っている。第四の『ローマ』は存在しえない。”
かくのごとくことさらに、はっきりした自覚をもってビザンチウムの遺産を要求することにおいて、ロシア人はなによりも先に、西欧に対するビザンチウムの伝統的態度というものをそのまま引き取ったことになるのであります。そうしてこのことは、1917年の『革命』以前のみならず、その以後においても、ロシア人自身の西欧に対する態度に甚大な影響を与えているのであります。
 このトインビー博士の記述は、1947年のソヴィエト・ロシアの存在をもとにした考察です。そしてその時から75年を経過した現在、プーチン・ロシアの現在の行動の根本において同じように厳然と生きているように感じます。さらにトインビー博士は次のように続けています。
今日のマルクス主義マルクス主義のロシアにもなお、いまだにその影響を失っていないように見えるビザンチウム以来のロシアの遺産について、われわれはもう少し立ち入って研究してみましょう。ビザンチウムの歴史の第一章をなす中世初期の小アジアコンスタンティノープルにおけるギリシャ時代を回顧してみるとき、このわれわれの姉妹社会のいちじるしい特色は何でありましょう。(すでに述べたような)ビザンチウムがあらゆる場合に善玉だという確信と、全体主義国家の制定との二つの特色が他にもまして顕著であります
 この後続いて、ローマ帝国のコンスタンチヌス帝による首都の遷都、ギリシャ語世界であるビザンチウムへの遷都、そしてコンスタンティノープルの成立等からはじまるキリスト教の東方への展開、いわゆる「ギリシャ人によるキリスト教ローマ帝国」である東ローマ帝国ビザンツ帝国の成立をたどりながら、西方の西欧世界に展開したキリスト教のイニシアティブのもと成立した、シャルルマーニュカール大帝)のローマ帝国(トインビー博士は「幸運なる失敗」と表現していますが)後の西欧の状況。常に教会権力が世俗権力に対して優位にたつ、もしくは教会権力と世俗権力が楕円の二つの焦点のように緊張をもちながら関係しあう関係に論及されます。「幸運なる失敗」と表現されているのは、この「権威」と「権力」の緊張関係の中で、現在の『西欧キリスト教文明』の性格が形成され、近世以降のキリスト教の“世俗化”の中で近代合理主義に基づく啓蒙思想による“自由と民主主義”を大義名分とする西欧世界が形成されていきます。現在、“世界の覇者”として、その軍事力を背景に、全世界にその価値観に基づく体制を作り上げようとしているアメリカ合衆国がその先頭にいます(特に米国内の民主党が主導していますが、トランプ前大統領の“アメリカ第一主義”はその対極にいます)。
今回のロシアによるウクライナ侵攻は、1648年以来のウエストファリア体制。主権国家ベースでの国際秩序を大きく揺るがし、主権国家の集まりである国際連合による平和維持システムの破綻を象徴する、重要な歴史的事件であることは間違いありません。さらにつけ加えて言えば、佐藤優氏が、今回のロシアによるウクライナ侵攻を読み解く上で、レーニンの「帝国主義」が重要であると指摘し、今回のウクライナにおける状況はロシア帝国主義と、アメリカを中心とした西欧の国家群の“帝国主義”による、ウクライナにおける勢力圏の奪い合いとみるべきであるとしていることに大事な視点があるように感じます。
 
9.「文明」中心の視点から見えてくるもの
 この現状を正確に認識し、その上でトインビー博士が『文明』の定義として、最終的に、晩年の著作である『図説・歴史の研究』の中で「ホワイトヘッドのひそみにならい、わたしは文明を精神的な用語で定義すべきであろう」と前置きした上で述べている『人類全体がすべてを包含する単一家族の成員として仲良く一緒に暮らしてゆける社会状態を創りだそうとする努力』が実現可能となる、未来への展望をどのように切り開くか。
トインビー博士は、この1947年の段階ですでに「歴史の研究」の前半部を「文明」中心の視点で書き上げ、出版されています。20世紀の段階で、トインビー博士が設定するこの地球上に存在する文明は、まず西欧文明、つぎにイスラム文明、ロシア文明、インド文明、中国文明、そして日本文明、朝鮮文明、ベトナム文明です。それぞれの文明が、歴史的な変遷の中で培ってきた伝統をもつとともに、その文明の根幹には、「生気の源泉」として「宗教・思想」があります。その「宗教・思想」の“質”がその文明の性格と方向性を最終的に決めるというのもトインビー博士の重要な結論であり、この1947年以後発行された「歴史の研究」の後半部では、生物の誕生から死までの一連のサイクルを繰り返すように見える「文明」のサイクルを超え、深化しているように考えられる「高等宗教」に視点が据えられることになります。そして、その結論をさらに深めていく過程で、トインビー博士自身のイニシアティブで実現したのが、大乗仏教の伝統の中から出現し、第二次世界大戦後の日本を舞台に急速に発展・拡大した宗教団体の若きリーダー、創価学会池田大作会長との対談であり、その内容が共著である「21世紀への対話」です。その実現からすでに50年の年月が経過しました。
 この50年の間に、ソヴィエト連邦の崩壊、いわゆる冷戦の終結がありました。その事実を受けて1992年に、フランシス・フクヤマ氏が著したのが「歴史の終わり」です。自由主義・民主主義の人類史における最終的勝利を記述したこの著作は当時、大きな話題になりました。また1996年にはハンチントンによる「文明の衝突」が発表されました。21世紀初頭の現在の状況を佐藤優氏は“新帝国主義”の時代と表現しましたが、この“帝国主義”を担う存在は、ほぼ現在の超大国ハンチントンによる“文明”と重なります。アメリカ、EU(西欧諸国連合)、ロシア、インド、中国、朝鮮そして日本。この国々というよりも、諸文明の衝突、きしみ合いが、アメリカ・西欧諸国を一方の勢力として対中国、対ロシアの状況において、次第に形づくられようとしています。この21世紀の諸文明は、日本をのぞけば、いずれも「核兵器」を所有し、“文明の衝突”は最悪の想定として、全人類の滅亡を意味する世界最終戦争=核戦争につながる可能性があることは、現在、全人類の共通認識になっています。「核兵器」を所有しない唯一つの文明が『日本』です。「民族」「国家」がそのまま「文明」と重なる唯一の存在です。国家の交戦権を否定し、さらに防衛目的以外の軍隊を持たないと明確に規定した憲法を持つ国です。
 今回のロシアのウクライナ侵攻によって、現在「日本」がかかえる問題が再び浮上して論議が始まろうとしています。現在、日本においては、憲法を改正して交戦権を規定し、軍隊をもつことを明白にして自らを守る体制を確立すべきであると主張する人々、国家主義的な主張をする人が次第に増加しつつあります。その中には、今回のウクライナのケースのように、アメリカ合衆国はいざという時にはあてにならない。結局、アメリカの「核の傘」といっても、日本有事の場合は機能しない。とくに、侵略の当事国が「核大国」の場合は、核戦争を恐れたアメリカは戦わない。したがって、日本も独自に核兵器の開発に乗り出すべきであるとまで主張する人もいます。その方向にゆくべきでしょうか?
 しかし、少し思いをいたせば日本独自の核兵器所有論の論議は、大事な本質が抜けています。トインビー博士は日本の9条に特色を持つ日本国憲法について、この方向こそ人類が生き残る唯一の方向であり、“押しつけられた”憲法であるとの視点については、強く反論し、自らの1929年、1956年、1967年の訪日の際、日本人と直接語りあったなかで、この憲法はあの核兵器の洗礼をうけるまで徹底的に戦い敗北した日本人の正直な思いを正確に反映したものであると断言しています。世界の五つの文明の明確な一つであって、国家が文明と重なる日本。この日本の今後の立ち位置はあくまでも核兵器をもたずに、世界平和の方向へ世界をリードしていく以外にありません。その重要な使命のある文明としてスタートするときが今到来したと強く感じてなりません。
 日蓮仏法の実践者であった宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩は、読む人が読むと日蓮仏法の根本である法華経に登場する不軽菩薩の振る舞いであることがすぐにわかります。どんな人間にも平等に最高に尊貴な仏の生命がある。そのことに対する尊敬の思いを担業礼拝の実践にこめ、いくら迫害されようとめげずに賢く行動し、目的の成就まで不退転の行動を、あくまでも非暴力の実践の中でつらぬく。そのような日本文明=日本国であってほしい。私も強く願っております。
 現今進行中の、ロシア・ウクライナ戦争から、大きな話題につなぎましたが、これは単なる空理・空論ではありません。その解決の鍵をトインビー博士およびその博士が最後に使命を託した池田先生が率いる創価学会SGIが握っていることを最後に記しておきます。    
               2022年7月9日 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

日本人と戦争・・トインビー史観からみて

 「日本人と戦争」という題を挙げて、トインビー博士の歴史叙述を検討してみたいと思います。この「日本人と戦争」というテーマをとりあげた理由は、このテーマについて書かれた記述の中に、トインビー博士の歴史観と歴史記述を理解する上で大事なポイントがあると思うからです。
 1945年の第二次世界大戦終結以来、現在にいたるまで、日本社会において論じられてきた課題は種々ありますが、それらの課題を根源的に考察していくと、「日本人と戦争」というテーマに収斂してくると思います。たとえば、現在国会で論議を進めようとしている第9条を焦点とする憲法に関する議論。また日米、日中、日韓、日露との間の領土問題等を焦点とする外交に関する議論。それらの案件と密接な関連がある軍事力の主体である自衛隊を巡る議論。国連と日本の関係を巡る議論。靖国神社を巡る議論。その全ての課題が、日本が明治以来、1945年の敗戦にいたるまで歩んだきた軌跡と深い関連性があると言って過言ではありません。具体的には、1895年の日清戦争、1905年の日露戦争、1914年の第一次世界大戦、1931年の満州事変、1937年の日華事変、1941年の太平洋戦争と、1945年の敗戦・終戦まで、ほぼ10年おきに刻んできた対外戦争の歴史と深い関係があります。この1945年までの段階で累積した戦争での死者は、まず日本人の死者では兵士が約230万人、一般市民が約80万人、合計で310万となります。アジア・太平洋地域での死者を兵士・一般市民の合計数であげてみますと、中国で約1321万人、中国を除くアジアで約912万人、アメリカ人が約29万人で合計で約2262万人となります。日本人自身と、その日本の行動と関係のある死者を合計してみますと約2572万人という数字が上がってきます。さらに視点を欧州を含む全世界に広げてみますと、合計で約5565万人の死者があがってきます。この死者以上に、心身に重大な損壊をかかえて、生きることを余儀なくされた人々の数は、数え上げることも困難です。さらに、太平洋戦争の日本の敗北は、核兵器という人類滅亡の道を開く悪魔の兵器の登場と軌を一にしています。
 「日本人と戦争」について深く考えぬくことは、全世界の課題として、取り組まなければならない課題であり、その理解の上に立って全人類が参画できる、平和で平等で豊かな世界を構築する理念と行動指針をしっかりと確認し行動することこそ、現在、日本人に強く求められている最重要の課題であると思います。日本人が国際社会において「名誉ある地位」を占めるためにも不可欠の取り組みであると思います。
 この課題にしっかりと応えてくれるのが、トインビー博士の歴史観です。マルクス主義史観のように、階級闘争的なバイアスがかかった偏波な人間観にたったものではない。また、現在の主流である経済的利害得失をものの見方の基礎とするものではない。ナショナリズム国家主義という現在主流の見方に対して厳しい視点をもち、人間社会を根底から動かしている普遍的な無意識層からの動きもしっかりと視点の中に収めている。その認識の上に立って、人間社会を動かしている大きな原動力として宗教のもつ力を客観的に評価し、歴史的な考察の中にバランス良く織り込んでいる。その上で、自ら取り組んできた世界史上の豊富な知識・見識の上に立った判断と、大英帝国という世界をリードした国家の外交に、第一次世界大戦第二次世界大戦の時期に実際に加わった実務経験と、戦間期においては「王立国際問題研究所」で、1922年以来、第二次世界大戦の時期まで全世界情勢の年報である「国際問題大観」をほぼ一人で書き刊行した経験とその過程で得た世界情勢の認識。さらに、1929年、1956年、1967年と三回にわたり来日され、当時の日本のオピニオンリーダーたちと会うなかで、偏見を離れたバランスのとれた認識を持ち、日本の歴史に関連する様々な象徴的な場所を精力的に訪問し認識を深めた知見、これらを会わせるとトインビー博士こそ「日本人と戦争」というテーマに対して、これ以上を望めない最高の執筆者であると思います。しかも、同じアングロ・サクソンであるアメリカ合衆国の肩を持つこともなく、先ほどあげた価値観からの厳しい視点を崩しません。以後、引用しその内容を検討してみたいと思います。
 
 
『回想録』 p62~p64より
・・・・ 日本が勝った戦争というのは、1894年の中国との戦争、1904~5年のロシアとの戦争、そしてドイツに対抗する側に組して参戦した第一次世界大戦であった。1870~1年の普仏戦争がドイツにとって骨の折れるものであったのと同様に、日露戦争は日本にとって骨の折れるものであった。しかしドイツの場合と同じく日本の場合にも勝った国民の側から見るなら、国力と人命の損失も勝利の結果によってむくわれるものであった。1894年と1914~18年の楽勝に続く失望的な結果は、日本に対して一つの教訓を示していたのであるが、もし日本がもっと明敏であったならこの教訓がわかっていたかもしれない。しかしながら日本人は、この二つの戦争よりも苦労して勝利を得た日露戦争のいっそう実質的と思われる利得によって、目がくらんでいた。ドイツ人と同じく日本人も、過去の戦勝に酔って夢中になってしまった。そして今度は日本が、向かうところ敵なしという幻覚に欺かれて、この上ない破局に終わる軍事的冒険の中にはまりこんだのである。
 日本の軍事的冒険は比較的長期にわたっていた。それは1931年に日本が武力によって満州を押さえたことに始まった。この行為は国際連盟規約承認国および1922年2月6日のワシントン九ヶ国条約調印国として日本がみずから保証したことを破るものであり、また世界の世論に挑戦するものであった。中国領である満州の三つの省〔奉天吉林黒竜江〕をこのように占領したのに続いて、熱河省内蒙古東端が占領された。1937年には日本はルビコンを渡った。中国の心臓部――長城の内側の各省――に侵入したのである。巨大な陸上軍を戦場に投入するという代償を払った上で、日本は長城内部の中国の主要な鉄道、航行可能な水路、海港、河港、都市を占領することに成功した。しかしながら、中国領内の点と線だけの占領を完了するために南西部に足場を得るということすら、日本にとってはその力に余ることであったし、さらにいっそう不吉な失敗になったことには、日本軍守備隊の占拠している帯状の領土の背後に広がる広大な中国領を制圧することもできなかった。中国の広大さ、中国人の忍耐力、そしてゲリラ戦の巧みさのために、1940年までにはこの第二次日中戦争は行き詰まっていた。その頃ヒトラーは、フランスは征服していたが、イギリスは征服できないでいた。
 その後1941年には、日本はヒトラーに劣らぬほどの一大錯誤を犯した。一方の戦線では決定的な勝利を得ることに成功していない戦争をまだ抱えているというのに、日本はソヴィエト連邦に対するヒトラーの攻撃と同じくらい自殺的な途方もない侵略行為によって、今や太平洋に広大な新しい戦線を展開し、ここで軍事行動を開始したのであった。太平洋地域のイギリスとオランダとフランスの領土を侵すという楽な仕事だけをこの地域で行うかわりに、日本はアメリカも攻撃した。日本人が犯したこの最大の愚行は、計画が思い通りにゆかないときにはエスカレーションという反応を見せる思い上がった軍国主義を待ちぶせしている因果応報の、典型的な一例である。
 第二次世界大戦においては、日本の運勢の逆転はドイツの運勢の逆転と同じくらい極端なものであった。真珠湾アメリカ艦隊を爆撃しそしてフィリピンを征服したのち、日本は最後にはアメリカのために降伏を強いられた。そして本土をアメリカ軍に占領され、1931年以来次第にに占領してきた外国領をすべて引き渡し、1894年の日清戦争に勝ったために獲得していた台湾を譲り渡しただけでなく、1904~5年の日露戦争に勝ったために獲得していた東アジア本土の領土もすべて譲り渡さなければならなかった。外国軍隊によって日本が占領されたのは、これが日本史上はじめてのことであった。日本人は1868年の明治維新以来、日本は「神国」でありそして神々から付与されたこの特権のゆえに日本は永久に侵されることがなく最後には世界に君臨する運命にあるという教義を教え込まれていたのであった。
 1931~45年の戦争の戦争の結末が日本人に与えた衝撃は、極端なものであったに違いない。1904~5年の日露戦争において日本がロシアに対して勝ったことを根拠にして、日本人が今なお戦争をおこなうことは割にあるものだと考えているという可能性は存在しているであろうか。ドイツと同じく日本も、正気に帰るためには二度目のそしてさらにいっそう悲惨な敗北を必要とするのであろうか。5週間(1967年11月9日~12月13日)にわたる日本訪問からイギリスに帰る途中でこの章を書いたのち、私はこの問いに対してある程度の自信をもって、あえて「否」と答えるものである。私がかなり確信してこう答えるのは、三度目のこの日本訪問から受けた印象によって、1956年におこなった二度目の訪問のときに抱いた印象がますます強いものになったからである。1956年と同じく1967年にも、私は日本の戦後の気分と戦前の気分の対照を強く感じた。この戦前の気分は、1929年――日本が悲惨な冒険に乗り出す前夜――にはじめて訪れたとき、私に強い印象を与えた。私は1929年には、日本人がそれまで中断することのなかった連勝に酔っているのを知った。1956年と1967年には、日本人は酔いからさめているように私には思われた。その上1967年には、日本人は経済的繁栄の一時期にあったが、それは同じ頃の西ドイツの繁栄の一時期と同様に、輝かしいものではあったが不安定なものでもあった。私の考えでは1967年には、戦後の経済的業績に対する日本人の態度はドイツ人が自分たちのそれに対して抱いている態度を思い出させた。ドイツ人と同じく日本人も、今や経済の分野で達成したものを当然誇ってはいたが、同時ににまた、自分たちの経済は用心深く育成する必要があるだろうということを、かなり不安げに意識していた。一歩誤れば、それは発展したときと同じくらい急速に衰退することになるかもしれない。そして日本の経済にとっても、西ドイツの経済にとっても、最も確実に致命的なものになる誤った歩みは、新たな軍事的冒険に乗り出すことであろう。それゆえ私は、日本にとっても戦争は割に合わぬものだという教訓を日本に与えるには、ただ一回の悲惨な戦争で十分であったと信じるのである。
 なるほどドイツ人を再教育するためには、ただ一度の軍事的破局だけでは十分でなかった。しかし日本のただ一度の破局は、広島と長崎に二発の原子爆弾が投下されたことによって、その極に達した。そしてこれは、今までただ一つ日本を除いてドイツにもその他の国にも降りかかったことのない抑止的な経験なのである。私の印象では、これまでに例のないほど恐ろしい形の戦争を日本だけがこのようにして経験したために、日本は原子力戦争だけでなくいかなる種類の兵器を用いる戦争に対しても「アレルギー性」になっている。戦争に対する日本人の態度の中に私が認めてこの大きな変化は、理性にかなったものである。なぜなる原子力時代においては、「通常」兵器をもっておこなわれる局地戦も、エスカレートして、原子力兵器をもっておこなわれる第三次世界大戦になるかもしれないからである。
 日本が現在原子力兵器に対して「アレルギー性」になっているというのはアメリカ人の言っていることであるが、これは鈍感な言葉である。その言葉は、24年前(1945年)にアメリカ人が日本に与えたがアメリカ人自身はまだ経験していない未曾有の恐怖の、心理的倫理的精神的影響を想像することができないという、困った無能ぶりを暗に意味している。なるほど日本がこの恐ろしい報復を招いたのは自業自得であった。もし最初に日本の「通常」爆弾が真珠湾に投じられなかったなら、その後四年とたたぬうちにアメリカの原子爆弾が日本に投じられることはなかったであろう。もしアメリカ軍が日本に侵攻していたなら、アメリカ人だけでなく日本人の生命も何十万となく失われたことであろう。トルーマン大統領が自分の手中に置かれたばかりの恐ろしい新兵器を使用するという運命的な決定を下したことについては、弁護の余地もあろう。しかしこの新兵器の存在が日常生活のありふれた事実の一つになったかのごとく感じ考え語り振る舞うことについては、弁護の余地はない。原子兵器の発明によって、戦争の破壊性と恐ろしさは、質的に異なったものになるほどに強められた。人類が後期旧石器時代にすべての野獣に対して優位に立って以来、原子爆弾が投下された瞬間まで、その存続は常に保証されていた。しかし1945年に二発の原子爆弾が投下されたことによって人類の置かれている状況がこのように悪化したことの意義に対して、原子兵器を持つ国が目を閉じているかぎり、人類の存続は再び依然として疑わしいものになることであろう。
 これまで中断することなく勝利を収めていた日本とドイツの一連の戦争が破局的な結末に出会ったために、今ではフランス人とイギリス人だけでなく日本人もドイツ人も、戦争を普通なそして耐えうる制度として黙認する人類の伝統的な態度からゆさぶり出された、と推測しても正しい。ところが一方アメリカとイスラエルの連勝は、1968年11月現在まだ中断されていないのである。
 
『東から西へ』P109
「そしてその倒れ方はひどかった(マタイ福音書、第7章27節)」敗戦後11年の日本を訪れた西欧人の旅行者の耳に、この聖書の言葉が鳴り響く。訪問者の気づくこの国をひっくり返した大事件は、日本帝国の倒壊でも、広島と長崎の上空における原子爆弾の爆発でもない。これらの事件もまた、歴史的なできごとであったには相違ない。日本帝国は、倒壊する前には、中国、フィリピン、インドシナ、マラヤ、ビルマの各地に進出していた。日本に二個の爆弾が投下されたことによって、戦争という制度と人類の運命の歴史に新たな局面が開かれた。しかし、そのほかになお、1945年に日本において倒れたものがあった。そして、それは明治時代の日本精神であった。これがいまなお日本のいたるところに反響を呼び起こしつつある倒壊である。長崎は再建され、1956年のいま、もし知らなかったならば、1945年にそこに何が起こったか、想像もつかないくらいである。しかし、日本人の戦前の思想的世界の崩壊は、いまなお空白のままになっている精神的真空状態を後に残した。いやでもその存在に気づかないわけにゆかず、また、それがやがて何によって満たされるのか、考えてみないわけにゆかない。それが満たされることは間違いがないように思われる。
自然は物理的真空だけでなしに、精神的真空をも忌み嫌うものであるからして。・・・・・・・・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
百年前に日本の指導者がかれらの先輩の鎖国政策を棄て、近代西欧文明の実用面を全面的に取り入れることを決意したとき、かれらはかれらの伝統的な精神生活を放棄するつもりはなかった。では、つぎつぎに層をなして堆積している異教(神道)と仏教と儒教をどう処理すればよいか。かれらは儒教の倫理と神道の儀式とを融合して、天皇崇拝を信仰の中心とする、かなり人為的な新たな混合宗教を作り上げた。日本は〝神国〟であり、外敵に侵されることがなく、やがていつか世界を支配する運命を担っている、という昔のおとぎ話に、公認の教義の地位が与えられた。この想像上の日本の国家的運命の崇拝は、1930年代の日本の軍国主義者たちの気分にぴったり合い、真珠湾攻撃後最初の1,2年のあいだは、これらの政治的おとぎ話のもっとも突飛なものまで、実現されそうに思われた。だからして、完全な敗北という結果に終わった戦況の逆転は、日本人に、現存のいかなる国民も受けたことのない大きなショックを与えた。伝説が事実によって否定された。日本の武装せる強き人は、かれよりも強い人間を挑発し、その前に屈服した。天皇はみづから国民に、神でないと宣言した。ほんの二、三日のうちに、思想的世界全体が霧散してしまった。どのような新たな世界観がそれに代わるべきか。これが日本人が今日なお取り組んでいる精神的問題なのである。
 
p113『東から西へ』
戦後の日本はいろいろな理由で興味のある国である。一つの理由は、戦後の世界の主要な問題のいくつかが、特に鋭い形で日本を悩ましており、それらの問題の内的本質を明るみにさらけ出しているという点にある。世界全体が今日、祖先伝来の宗教的伝統との接触を失った結果として、精神的窮乏の中に置かれている。日本は、この世界的な疾病の苦悩を特に強く嘗めている。日本の三つの伝統的信仰ー神道、仏教、儒教の三つーは、いずれも日本人の思想と感情をとらえる力を失ったように見える。
 神道は、豊作祈願として発足し、のちに天皇一身のうちに具現されている日本国家に対する政治的忠誠の、いわば政治的セメントの役を果たすように利用された原始宗教である。ギリシャ・ラテンの古典の教育を受けた西欧人には、この神道の両面は二つともおなじみのものである。日本の農村の農耕宗教の正確な描写を、聖アウグスティヌスの、ローマ宗教のそれに対応する層に関する有名な記述のうちに見いだすことができる。1945年に完全な崩壊を見た日本国崇拝は、原始キリスト教会の殉教者たちが拒否した、女神ローマと神格化されたカイサルの崇拝とほとんど同じものである。・・・・・・・・政治的形態の神道は、すでにはるかにひどく信用を落としてしまっている。それは、1945年に日本を破局に導いた政治体制と結びついていた。だが、かりに日本国民の上にこの不幸をもたらさなかったとしても、政治的神道は存続することが困難であっただろう。その神話は近代科学精神と相容れない。日本が近代科学精神を受け入れた以上、結局はその政治的観念と理想とを、いつまでも古めかしい隔室に入れておくことができなくなったであろう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・政治的神道の没落は儒教に累を及ぼした。なぜなら、政治的神道は、その倫理面においては、事実上、日本的衣装をまとった儒教にほかならなかったからである。儒教は、家族の中の年長者、とりわけ家長としての父親と、国家によって代表される大きな家族の長として天皇に対する、絶対の、疑いをさしはさまない義務の意識を教え込む。1945年に突如不幸な終末を告げた、あの日本歴史の一時期中、政治的神道に応用された儒教の倫理基準は、個人に対して犠牲を要求した。事実によって、犠牲が無駄であり、イデオロギーがおとぎ話であったことが証明させたときに、一千年の日本の歴史においてはじめて、個人がその人権を主張するようになった。かれは自分のために生命と幸福を要求するようになったのである。・・・・・・・・・
日本の家長も日本の国家の首長も、二度とふたたび半神としてうやまわれることはあるまい。将来の日本の家族は、因習的な義務のおきてによってではなく、自然の愛情によって結束が保たれるであろう。一家の中心になるのは、父親ではなくて母親であろう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本における仏教の前途はもっと明るいと思われるかも知れない。仏教は、キリスト教と違って、近代科学の見地と十分そりを合わせることのできる、合理的哲学である。・・・・・日本は1400年ものあいだ部分的に仏教国であった(これは、イギリスがキリスト教国になって以来の期間よりやや長い)。日本の家族はすべて、表向きは日本に無数にある仏教寺院のどれか一つに属している。一方、仏教は、1868年の明治維新後に神道が一新されたとき、公的には政治的神道と縁を断った。そのために、仏教は、1945年の明治的イデオロギーの没落には直接まきこまれなかった。仏教こそ、神道の神話と儒教倫理の崩壊によって生じた、精神的真空を埋めることができるのではないか。意外なことに、禅宗の精神修養に従うごく少数の人々を除き、仏教は今日の日本において重きをなしていない。・・・・今日の日本人の生活のなかでの仏教の実用的役割は、仏式葬儀を執り行って人をこの世から送り出すことである。・・・・・今日の日本において仏教は、日本国民が飢え求めている精神的かてを提供していない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本人の精神的飢餓は、多数の新興宗教の出現によって示されている。新興宗教は600もあると言われ、日本は富裕な国でないにもかかわらず、それらは財政的にうまくいっているようである。一番数が多く熱心な支持者は中産階級の婦人であり、またそれらの教派の多くは婦人を教祖にしている。・・・・・(天理教の教義におけるキリスト教の影響にふれて)・・・・・それでは、現在生まれ出ようとして悪戦苦闘している新しい日本における、キリスト教そのものの前途はどうか。日本のキリスト教徒は今日、枢要な地位を占めている。しかし、言うまでもなく、かれらはごく少数であるにすぎず、今後も大規模な改宗が行われる見込みはないように思われる。にもかかわらず、キリスト教の精神が日本人の生活の中に浸透していき、徐々に伝統的な仏教の影響力に取って代わり、あるいは変化させはじめているように見える。心の意識的な表面では、現在の苦痛に満ちた模索はまだまだ続くかも知れない。しかし、もっと下の方の潜在意識のレベルでは、日本人はすでに生命のかてを見いだしつつあるのかも知れない。
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「トインビー」② マクニールの「21世紀への対話」に関する言及

 トインビー博士に関する話を,「21世紀への対話」に関する話題から始めましたので、ここではさらに関連する内容に入って検討してみたいと思います。

 トインビ―博士と池田先生との対談が行われたのは、1972年と1973年です。トインビー博士の生涯をたどってみると、1974年に病に倒れ、1975年に亡くなられておられますので、ほぼ最晩年と位置づけられる段階になります。すでに80歳を越えておられたトインビー博士が、ここでまったく新しい相手、しかも40歳近くも年の離れた外国人に対して対談を申し込む。この時までのトインビー博士の経歴、それに基づく世界的な名声を考えると常識的な判断では考えられない判断をされていると見る方が自然であろうと思います。

 この件について、トインビー博士の伝記である「ARNOLD J. TOYNBEE A.LIFE」(未邦訳)を1989年に出した ウィリアム・マクニールの見解を該当部分から引用してみたいと思います。マクニールは、「世界史」の著者として知られていますが、アメリカ歴史家協会の会長の職にもあったアメリカ合衆国歴史学界を代表する著名な歴史家です。トインビー家の依頼を受け、オックスフォード大学のボードリアン図書館に保管されているトインビー博士の書簡等を有効に使用し、さらにトインビー博士の軌跡を追って、アメリカ、日本等においてトインビー博士が接触した当事者との取材を重ね、できあがったのが「ARNOLD J. TOYNBEE A.LIFE」とされています。現在でも、ほぼ唯一の伝記です。

この著作の最終部分である271頁から273頁にかけて「21世紀への対話」の対話実現の経緯について記述しています。まず創価学会についての概説的紹介に続いて、日本の毎日新聞に連載され、1971年に「未来を生きる」と題して出版されたトインビ博士と若泉教授との対談。その対談の効果に刺激を受けた池田先生が、若泉教授を介して対談を申し込み、それをトインビー博士が承諾した結果、72年5月の対談が実現したように書いています。さらに続けて、トインビー史学から創価学会を見たときの視点を紹介します。加えて、日本在住の英国人からの「対談」に対する危惧の思いを寄せた手紙、さらに「対談」を批難する手紙に対するトインビー博士の返信の一部を載せています。

・・・From Toynbee's point of view,Soka Gakkai was exactly what his vision of the historical moment expected, for it was a new church, arising on the fringes of the "post-Christian" world, appealing principally to an internal proletariat, and deriving part of its legitimacy from an ancient and persecuted faith.

Comparisons with early Christian history fairly leap to mind, and in a preface he wrote for the English traslation of one of  Ikeda's books Toynbee explicitely compared the world misson of Soka Gakkai with the Christian Church on the eve of its coming to power in the Roman Empire.

When an Englishman living in Japan reproached him for his association with Ikeda,

Toynbee defend himself , writing : " I agree with Soka Gakkai on religion as the most important thing in human life, and opposition millitarism and war."

To another remonstarance he replied : " Mr Ikeda's personality is strong and dynamic and  such charactors are often controversial. My own feeling for Mr.Ikeda is one of great respect and sympathy." (p272~273)

〔仮訳・グーグル翻訳を基に〕トインビーの見解では、創価学会はまさに彼の観点による歴史的瞬間に期待されたものでした。それは新しい〝Church〟(一定の教義に基づく意見を共有する組織化された宗教集団)であり、「ポストクリスチャン」(キリスト教の影響が及ばなくなった)世界の周辺に生まれ、主に内的プロレタリアート(その社会の中で経済的にも政治的にも権利を持たない最下級の階層)に訴え、古代の迫害された信仰からその正当性を分有する集団ということになります。

創価学会)と初期のキリスト教の歴史との比較は、実際に(トインビーの)頭に浮かび、池田の本の一つを英語に翻訳する際に、彼が書いた序文の中で、ローマ帝国で権力を握る前夜のキリスト教会と比較して、創価学会の世界的使命を明確に語っています 。

日本に住むイギリス人が、池田との付き合いを非難したとき、トインビーは、「創価学会が、宗教こそ人間の生活の中で最も重要なことであるとしていること、そして軍国主義と戦争に反対していることについて、私は創価学会に同意する」と書き、自分自身を防御しています。

創価学会池田大作への悪評を並べた)別の批難に対して、彼は「池田氏の性格は強くダイナミックであり、そのような性格はしばしば物議を醸している。池田氏に対する私自身の感情は大きな敬意と共感である」と答えています。 (p272〜273)

 この部分で、マクニールが引用している手紙は、オックスフォード大学のボードリアン図書館に保管されているトインビー博士の書簡から引用したものです。あらためて、池田先生に対するトインビー博士の率直な評価を読み取ることができると思います。

 特に創価学会を信頼する根拠として、創価学会は、①宗教こそが人間にとって最も重要なことである。②軍国主義と戦争に反対している。との二つの視点を明確に挙げているところが重要であると思います。この視点は、トインビー博士の人生を通じての最終的な結論と一致しています。

 この引用の前の段階で、マクニールは、トインビー博士の歴史観をあげることによって、創価学会の池田会長に接近し「対談」を実行した、トインビー博士の動機を推測しています。この部分で、マクニールが挙げている、  the English traslation of one of  Ikeda's books とは、1973年に発刊された池田先生の著作・小説「人間革命」の英語版です。この 前書きとして、トインビー博士はかなり長文の文章を書いています。この文章は、単なる紹介文の内容を越え、トインビー博士の歴史観からみた、創価学会と日本の国家の関係、初期キリスト教ローマ帝国との関係の類比を通した世界史の上での創価学会の本格的な分析・評価となっています。

 まず創価学会が根本とする、今から800年前の紀元後13世紀の日蓮について、紀元前8世紀、アッシリア帝国の圧迫下にあったイスラエル王国ユダ王国において、同時代のヘブライ人に危機と信仰への回帰を語るユダヤ教 の預言者と、モンゴル帝国の侵攻の危機の状況の中で、法華経への回帰を語る日蓮の事績を、歴史的な類比の現象としてとりあげています。

 さらに創価学会の初代会長である牧口常三郎先生が当時の日本政府が全国民に強制した「神札」への礼拝を拒否し検挙投獄され、1944年に結果として獄死したことを、ローマ帝国時代、特に255年から311年まで続いた「皇帝礼拝」の国家的強制に対して、拒否を貫くことによって敢えて死を選んだ、初期のキリスト教徒と類比の歴史的事実であると記述しています。

 さらに、この小説「人間革命」の冒頭に記述される第二代会長となる戸田城聖先生の出獄時の1945年の7月から終戦を迎える8月の日本の状況を、311年、ローマ帝国による組織的迫害が終わったあとの状況と類比しています。トインビー博士は、その両方において、精神的な空白状態と物質的な欠乏状態が共に生じている状況であることを類比して論じています。さらに、この状況の中からスタートした、創価学会の戦後の日本における発展の様子を説明し、そのような類比・検討の過程を経た上で、最終の結論部分で創価学会が全人類に対しての宣教・拡大を使命とする「世界宗教」であると認定し「前書き」の結論とされています。

 このかなり長文の前書きは、そのままトインビー博士の歴史観による、キリスト教創価学会の類比と分析になっており、結論として言えば、トインビー博士による創価学会池田大作会長の歴史的評価の根拠として示されたものになります。マクニールの「Toynbee's point of view,Soka Gakkai was exactly what his vision of the historical moment expected」という見解を裏付ける内容となっています。

 ここで、あらためてトインビー博士が創価学会池田大作会長との対談を求めた動機・理由を推察してみたいと思います。

 事前にわかった一致点、①宗教こそが人間にとって最も重要なことである。②軍国主義と戦争に反対している。については当時、日本において一般大衆を含めて危険視する人々が多かった創価学会に対する評判を聞き知った、日本在住のイギリス人の知友からの手紙に対するトインビ―博士の返事の中で、トインビー博士自身が書いていることです。トインビー博士の揺るぎのない思いが表明されています。この二つの視点はトインビー博士の生涯の中で、種々の経験を経て、ゆるぎのない思いとして確立されたものであり、トインビー博士の生涯の事績の究極の立脚点であると言って間違いないと思います。この二点をさらに深めてゆくと、トインビー博士の生涯の思想の進化・深化そのものにたどり着くことになります。

 またマクニールは、トインビー博士の文明史観の中核をなすキリスト教の成立に関する考察と、「哲学的同時代性」的な意味をもつ現象として日本における創価学会の発展を取り上げています。トインビー博士の歴史観では、文明と文明の衝突で、敗北した文明の中の最下層の民衆(内的プロレタリアート)の中から、自発的な動きとして発生するのが高等宗教です。トインビー博士は、「高等宗教」は「文明」を構成する部分としての現象ではなく、「文明」と同格の独立した存在であると見ています。キリスト教は、ヘレニック文明とシリアック文明の衝突の結果、敗北したシリアック文明と支配的位置についたヘレニック文明の文明の内容が混合した文化複合体に属してはいるが、何の特権をもたない民衆〝内的プレタリアート〟の中から、地の底から湧き上がるように自然発生的に出現してきました。その動きを象徴するのが「創造的個人」としての「イエス・キリスト」であり、その動きを共にした人々が「創造的少数者」としての十二人の弟子に象徴される集団です。
 20世紀の現代史に目を移すと、現代版の「ローマ帝国」と類比することができる、アメリカ合衆国を中心とする「西欧文明」、中国、ロシア(ソ連)等、の国家が象徴する諸「文明」と戦うことになった日本。

 私たち日本人は、「日本」は世界に200近くある「国家」の一つであると考えていますが、トインビー博士の「歴史の研究」においては「日本」は単独の「文明」です。この視点は1990年代に発表されたハンチントンの「文明の衝突」においても同様です。ハンチントンも、「日本」は一つの「文明」が一つの「国家」を形成している唯一の存在であると見ています。

 日本は1945年5月のドイツ降伏以後は、単独の「文明」として、世界の諸文明全てを相手にして戦ったことになります。トインビー博士の歴史観に立ってみると、その文明史的意義が見えてきます。原爆投下に象徴される、それまでの世界史上どの文明も経験したことのない徹底的な「破壊」と「敗北」の経験。それに伴う物質的な欠乏状態と共に、精神的な衝撃の中で「精神の空白状態」に置かれた、第二次世界大戦後の日本の最下層の民衆〝内的プロレアタリアート〟の中から、大地の底から湧き上がるように出現した創価学会。〝病人と貧乏人の集まり〟と揶揄され批難中傷の嵐のなかでも、1950年代から1960年代にかけて爆発的といってよい勢いで拡大した宗教集団。トインビー博士の歴史観からみて、キリスト教創価学会の「哲学的同時代性」の観点に立てば、文明と文明の衝突の結果、底辺の民衆の中から生まれた「高等宗教」の候補として、明確に見えてきます。
 トインビー博士は、1929年、1956年、1967年と三回にわたる日本訪問を通して、様々な形で、多数の日本人と接触、観察する機会がありました。その中で、第二次世界大戦前の軍国主義がひたひたと影響力を増している状況、敗戦から10年目前後の復興の状況、さらにそれから約10年後の高度成長期を迎えた状況と、約10年の間隔で日本の様子を直接みています。その観察の上に立つ考察の中で、日本における「創価学会」の発展は、マクニールも書いているように、トインビー博士の文明を単位とする史観から見て最も興味ある現象であったであろうと思います。

 創価学会は、21世紀以降の世界文明、地球文明における「高等宗教」「世界教会」たりうるか?それを直接確認したい。1969年3月には心臓発作を起こし、航空機を使っての旅行にドクターストップがかかっていた、80歳を迎えるトインビー博士が、さまざまな毀誉褒貶の渦中にいる池田先生に、それを認識した上でそれを乗り越えて敢えて対談を申し込む根本の動機は、そこにあったと推察しても、大きな間違いではないと思います。

 しかし、「ARNOLD J. TOYNBEE A LEFE 」における「21世紀への対話」に対するマクニールの見解は懐疑的です。マクニールは、この対談が成立したいきさつとして次のように考えて記述しています。

 1967年の京都産業大学の招待によるトインビー博士の日本への招待の際に、様々な形で尽力された同大学教授の若泉敬教授との1970年6月10日から16日までのトインビー博士宅での対談が毎日新聞に掲載され、1971年にはその内容が単行本「未来を生きる」として刊行され高い評価を得ていることから、日本におけるトインビーの注目度、好感度に着目した池田大作が、その国際的な認知度を高める手段として、若泉教授にトインビー博士への取り次ぎを依頼し、その結果として実現した対談であったとします。その証拠として、二通の書簡を取り上げています。

 この件に関しては、創価大学西洋史の教授であった浅田實教授が、論文「『A・J・トインビーの人生』から学ぶ(その三)」において、具体的な事実をあげて反論しています。少し長くなりますが、大事な内容なので、事実を明らかにする意味で、ここで引用します。

1970年秋、トインビーと若泉敬との対談が毎日新聞に掲載されるより一年前の1969年秋、トインビーから一通の手紙が創価学会池田大作のところにとどいた。同年9月23日付けの手紙がそれで、そこにはトインビーが池田と実り多い意見の交換をしたい、対話したいとの強い希望が表明されていた。まずその手紙のはじめには『私が1967年に最後の日本訪問をした時、人々は創価学会のことについてと、あなた(池田)ご自身のことについて、私に話してくれました』とある。(この部分に注として浅田教授は、この手紙のコピーを創価大学創立者である池田先生より2002年2月26日に頂いたことを注記している)・・・・・・・(中略)・・・・・・続いてこの手紙にはこうある。『私は友人の若泉教授からあなた(池田)のことを非常にたくさん聞きました。そして今、私はあなたの思想と御著書に大変に興味をもっています。私は英語に翻訳された何冊かのあなたの本と講演とを読もうといたしております』と。・・・・(中略)・・・・トインビーは池田の思想に関心をもち著作を読もうとしていた。つまりトインビーは能動的、積極的に池田に接近しようとしていたわけである。この点はきわめて重要である。というのは、これまでもみてきたように、トインビーを高く評価し、彼になり代わって伝記を書いてきたマクニールも、トインビーが池田に対話を申し入れた際の経緯を見誤っているからである。マクニールはこう書いている。「若泉のトインビーとの対話」は、池田に、この西洋の聖者(トインビー)と究極の問題や全般的な事柄について話し合いをやっていけば、さらに成長することができるのではないかという考えを、おこさせたと。ところがここにいう「若泉のトインビーとの対話」は、1970年8月から12月にかけて「毎日新聞」に掲載され、1971年にようやく「未来を生きる」として上梓されたものであるので、この手紙が日本に届いた頃にはまだ知られていなかった。・・・・(中略)・・・・マクニールは、1970年から71年にかけて日本で公表された「若泉・トインビー対談」を真似て、「池田・トインビー対談」がなされたかのように、書いている。『かれ(池田)は、若泉教授に近づいて紹介をうけ、しかるべき手続きをへて、トインビーとの対話を行う打ち合わせをした。この対話は1972年5月にはじまった』と。その際マクニールは史料としてボードリアン図書館にあるトインビー文書の手紙類、つまり若泉敬からトインビーへの手紙とトインビーから池田大作への手紙をあげている。前者は1971年10月11日付けの手紙、後者は同年12月23日付けの手紙で、原文を見ていない筆者には何ともいうことができないがのだが、前の手紙で若泉が池田のことを紹介し、後の手紙でトインビーが池田に〝よろしいですよ〟と〝対談〟を引き受けたかのようにもとれる。実際の『対談』が1972年5月からはじまっているのだから、時間的にも妥当のようにみえる。だけどすでにそれより以前の1969年秋の手紙で、トインビーは池田にきわめて積極的、具体的に、ロンドンへの招待と「対談」の申し入れをしていたのである。(後略)」

 長い引用になりましたが、「21世紀への対話」の意義に関わる重要な部分なのであえてここに引用しました。このマクニールが判断の根拠としてあげた、1971年10月11日付けと同年12月23日付けの手紙については、浅田實教授は見ることができなかったので、マクニールが主張する対談実現の経緯が、間違っているということを具体的に証拠になる文章をあげて反論はできないとした上で、手元に実物があるトインビー博士から池田先生への1969年の対談を希望する内容の手紙の趣旨から、その判断はありえないと書いています。

私の手元に、ここで問題になっている若泉教授を介しての池田先生からの対談申し込みを承諾した内容であるとされる1971年12月23日付けのトインビー博士の池田先生あての手紙のコピーがありますのでここに引用します。

      23 December , 1971
Dear Mr Ikeda,
        Dr Yamazaki has just brought me your very kind letter of December 17, 1971, as well as some bottles of saki, which  we much appreciate and for  which we send you our best thanks.
      The timetable set out in your letter is entirely convenient for my wife and me,but, as we shall be in London continuously , we could  always change it, supposing that,nearer the time, you found that you needed to vary it. I mention this because I havo some idea of the number of your  engagements and your reaponsibilities
      Assuming that you will be arriving in London on Thursday, May 4, at about 14.25, and will be leaving at about 13.00 on Thursday, May 11,I am writing now to let you know that we shall welcome a visit from you and Mrs Ikeda on the morning of Friday, May 5, at our home, at10 a.m, and we hope that you and Mrs Ikeda and the friends who will be with you will come to lunch with us at La Toque Blanche restaurant,
21 Abingdon Road, W.8.that day. This restaurant is fairly near to our flat. I have shown Dr Yamazaki, on the map of London,where it is.  We also hope that, on Mondayy May 8, you will have lunch with  us at the Ladies Annexe of my olub , the Athenaeum, in Waterloo place ,which is not far from your hotel.
                We could have the discussion for the four,or possibly five, days, starting on May 5, from about 2.00  to 5.00 p.m. on each day, at our flat. This is quiet, and there is a large room, fitted with power- points, in which  I have often given TV interviews. The  appartus can be set up there.
                     I am not quite sure from  your letter  whether the day that you propose for a rest day is Sunday ,May 7.  The  Sunday  will be all right for us the rest day.
                    I note that I shall be receiving additional questions from  you
        some  time  in March, and that you would like me to choose 20 or  30 of 
        these for our  discussions.     As  soon  as  I have  these  questions,
        I  will  make  my  choice  and will send a note of this to you.
               Thank you very much for ths photographs of you and  Mrs Ikeda,
        which it is a pleasure for us to have.
                     We  greatly look forward to our meeting in May.
           With all good wishes  to you and Mrs  Ikeda  from  my  wife  and me
           for  the  New  Year,
                                                     Yours very  sincerely,
                                                                                Arnold Toynbee
         I do hope that my answers to your original set  of  questions will
        turn  out  to  be the  kind  of thing  that  you wanted.
〔仮訳・グーグル翻訳を基にして〕
 1971年12月23日
池田様
山崎博士を介して、1971年12月17日付けのとても親切な手紙と、いくつかの酒のボトルを頂戴したことについて、私と妻は深い感謝をこめて、心より御礼を申し上げます。
 あなたの手紙に書かれているタイムテーブルは、私と私の妻にとって完全に好都合ですが、私たちはロンドンに継続的に滞在するので、その時(対談の日程)が近づいてきて、あなたがそれが必要と思った時、いつでもそれを変更することができます
私がそれに言及するのは、あなたの約束の数と責任の数についていくつかのアイデアがあるからです。
 5月4日木曜日の14.25頃にロンドンに到着し、5月11日木曜日の13.00頃に出発するとします。
私は今、私たちがあなたとご夫人の訪問を、5月5日金曜日の朝、私たちの家で午前10時から歓迎することをあなたたちにお知らせするために書いています。
さらに私どもは、あなとご夫人、帯同されている皆さんがその日、レストラン
La ToqueBlancheでランチを私どもと共にすることを希望しています。(そのレストランの住所は)21 Abingdon Road、W.8 です。このレストランは私たちのフラットのかなり近くにあります。山崎博士には、ロンドンの地図でどこにあるかをお見せしました。
また、5月8日(月)にも、ウォーターループレイスにある私のクラブ、アテナエウムのレディースアネックスで私たちと共に一緒にランチをお召し上がりいただければ幸いです。
そこはあなたのホテルからそう遠くないところにあります。
 5月5日からの4日間、場合によっては5日間、私たちのアパートで、毎日、午後2時から午後5時まで、対話を行うことができます。ここには、静かで広い部屋があります。
この部屋には壁付きのコンセントがあり、私は(この部屋で)よくテレビのインタビューを受けました。ここに録音機器を設置することができます。
休憩日を提案する日が5月7日日曜日かどうか、あなたの手紙からはよくわかりませんが、私どもにとっての休みの日は、日曜日で大丈夫です。
    私は、3月中にあなたから追加の質問を受けることを認識しています。
      あなたは私に、その中から私たちの対話のための、20個または30個の質問を選択してほしいとのことです。これらの質問を受け取ると、私は、すぐに私の選択をし、あなたに(回答の)ノートを送ります。
    あなたと池田夫人の写真をありがとうございました、それは私たちにとって喜びです。
    5月にお会いすることを心から楽しみにしています。
    妻と私から、池田さんと奥様のご多幸をお祈り申し上げます。新年に向かって。
                                                                               誠意をこめて、
                                                                                アーノルド・トインビー
       
        あなたの最初の一連の質問に対する私の答えが
        あなたが望んでいたようなものであることを願っています。
 この文面を単独で読んでみると、一見、承諾した対談の時間帯、等の詳細を細かく書いているようにもとることができます。しかし実際には、トインビー博士と池田先生との間には、1971年12月23日以前にすでに対談に関する詳細な打ち合わせが進行しており、その仲介役を務めていたのが当時、創価学会の欧州議長としてパリにいた山崎博士であり、この手紙にもその名前が登場します。1969年のトインビー博士からの対談の申し入れから、この1971年12月23日付けの手紙までの間には、トインビー博士と池田先生との直接の間断ない交渉が具体的に書かれた複数の書簡が存在しています。ここにその書簡を挙げる余裕はありませんが、浅田實教授が書いているように、このトインビー博士と池田先生との対談は、1969年のトインビー博士からの申し入れからスタートしていることは間違いありません。したがって、マクニールの記述は事実と違うことになります。

  当時、世界的な有名人であったトインビー博士からの真剣で誠実な内容の対談の要望に対して、池田先生はどう答えたのか。最終的な対談の実現までに約3年の時間を必要とした事情とは?

 幸いにも、私の手元に、1969年から1975年にいたるトインビー博士と池田先生とのやり取りを記した書簡(オックスフォード大学のボードリアン図書館所蔵)のコピーがありますので、検討を加えてみたいと思います。まず、最初にトインビー博士から池田先生にあてた1969年9月23日付けの対談を求められた内容の書簡を全文引用したいと思います。文章の位置関係、段落の区切りも原文の構成に合わせてあります。

 23 September,1969
Dear Mr. Ikeda,
    When I was last in Japan in 1967, people talked to me about the Soka-
gakkai and about you yourself. I have heard a great deal about you from
Professor Kei Wakaismi, a good friend of mine  and now I am very much
interested in your thoughts and works. I am going to read some of your
books and speeches translated into English.
  It is my pleasure, therefore, to extend to you my personal invitation
to visit me in Britain in order to have with you a fruitful exchange
views on a number of fundamental problems our time which deeply con-
cern us all.I also feel that we can share our thoghts on religion, science,
religion and philosophy, and history, an A I hope this might be of some bene-
 fit not only for our two nations but for the future of mankind as a whole.
   I feel rather shy in suggesting that someone who is as busy as you are
should spend time in makiing a long journey to meet me. I venture to pro-
pose this simply because I am now old and am not able to be so active
physically as I used to be.
  I would like to welcome you warmly whenever you could come to London;
however, I might suggest that some time next May would be a good  time  for
us as we usually have a lovely spring in my country.
   Yours sincerely, Arnold  Toynbee
 
〔仮訳・グーグル翻訳に基づいて〕
 1969年9月23日
  池田様
私が一番最近、1967年に日本を訪問したとき、様々な人が、創価学会について、あなたとあなた自身について私に語りました。私があなたについてたくさん聞いたのは、私の良い友人である若泉敬教授からです。今はとても、あなたの考えや作品に興味があります。私は英語に翻訳されたあなたの著作とスピーチを読むつもりです。
 したがって、私たち全てに深く関係する多くの根本的な問題について、実りある意見を交わすために、英国の私を訪ねていただけるように、私の個人的な招待状をあなたに提供することは非常に喜ばしいことです。私たちが、宗教、科学、宗教と哲学、そして歴史について、意見を分かち合うことによって、私たちの2つの国だけでなく、人類全体の未来にとって、何らかの利益をもたらすことを願っています。
 あなたのように忙しい人に、私と会い対談するために、時間が必要な長い旅行を提案するのは躊躇することですが、わたしは敢えて提案させていただきます。というのは、私は年老いたため、かつてできたような身体的に活動的な動きができないという理由からです。
 ロンドンに来ることができるときはいつでも、私はあなたを暖かく歓迎したいと思います。しかし、あえて、私たちの国にいつも素敵な春がやってくる来年の5月中に、私たちを訪問されることをおすすめします。
よろしくお願いいたします。      アーノルド・トインビー
 
このトインビー博士からの書簡に対して、池田先生は次のような返信を、1969年の10月12日付けで送っています。
 
Tokyo, 12th October,1969
   Dear Professor Toynbee
  Through my dear friend Professor Kei Wakaizumi, I have received your very thoughtful letter of 23rd September
  I regard the opportunity personally to meet you, whom I greatly esteem, as one of the most significant opportunities in my life, and I strongly wish to accept your kind invitation for next May.
I shall exert my utmost effort to clear up the various affairs and appointments scheduled for then, and when that has been taken care of, in mid-December or January, I shall send a formal reply.
   May I take the liberty of sending you warmest greetings from Japan, and of wishing you good health during the approaching winter and many years of happiness.
 
                  Yours faithfully
Daisaku Ikeda
President
The Sokagakkai

〔仮訳・グーグル翻訳に基づいて〕

    東京、1969年10月12日

トインビー教授

親愛なる友人の若泉敬教授を通して、9月23日付けの非常に思慮深い手紙を受け取りました。

あなたに個人的にお会いする機会は、私の人生で最も重要な機会の一つであると考えており、来年5月のご招待を心よりお受けいたします。 予定されている様々な行事や約束を一掃するために全力を尽くし、それが処理された後、12月中旬または(来年)1月に正式に返信します。

日本から温かいご挨拶をお送りしますと共に、近づく冬の中での良き体調と、末永きご幸福をお祈り申し上げます。                

敬具

池田大作
会長
創価学会

両者のやりとりを文面の上で追うと、まず1969年9月23日の日付けで、トインビー博士から池田先生に対談の申し込みがあり、その文面の中ではトインビー博士が創価学会の存在をどのような状況で認識したのか、さらにすでに池田先生の英訳された著作を読んでおり、人類の抱えている宗教、歴史、哲学などの根本的な問題について対談をしたいというトインビー博士からの具体的な要望が、自身の日本への移動が身体的な状況によりかなわないという事情を正直に述べることによって、来年の5月という季節を具体的に設定して述べられています。この文面を読むかぎり、対談を求められたのはトインビー博士の方からであることは明白です。さらに、池田先生の1969年10月12日付けの返信を読むと、その内容をしっかりと受け止め、対談を了解すると言う内容が明白です。浅田實教授の反論の方が正確であるということが具体的に確認できます。マクニールの見解に登場する若泉教授が、両者の橋渡しをしていることも文面の上で明白ですが、若泉教授は、1967年の京都産業大学によるトインビー博士の日本への招待の交渉を担当して以来のトインビー博士とのつながりであり、その若泉教授を通じて池田先生への手紙が届けられたことについては、両者の仲立ち以上の何者でもないと判断して良いと思います。しかも、先に触れたように若泉教授とトインビー博士の対談は70年に行われ、新聞連載が1970年、単行本の発刊が1971年ですから、トインビー博士から池田先生への対談の要望とそれに対する明確な返答が1969年中に行われていますから、若泉教授の対談の反響に刺激された、池田先生からのイニシアチブで対談が実現したというマクニールの見解はまったく成り立ちません。この客観的な事実は、しっかりと明記しておきたいと思います。

 先ほど引用した部分に続いて、マクニールは次のように書いています。

(p273)

Toynbee said little or nothing to Ikeda that he had not said before, though he occasionally went out of his way to flatter his interlocutor. For example:'' The Buddhist analysis of the dynamics of life, as you explain them, is more detailed and subtle than any modern Western analysis that I know of.47 Toynbee also had praise for Japan. The Western course is heading for disaster," he said. Ibelieve that the JapaneIse people can lead mankind into a safer and happier path. 48 Once in a while a flash of his old inventiveness can be glimpsed, as when he declared: We ought to aim not at gross national product but at gross national welfare."49 But, at least in the short run, the value of this book for Ikeda and his movement was far greater than anything it did for Toynbee’s reputation.

It seems probable that the Toynbee-Ikeda dialogue will dwindle into insignificance in time to come, for the sect's basic ritual was defined centuries ago, and Ikeda has published a book, The Human Revolution, setting forth his own authoritative statement of doctrine. Still, Ikeda has had to adjust some aspects of the sect's Buddhist inheritance, especially in the overseas branches of the organization. His dialogue with Toynbee is the longest and most serious text in which East and West—that is, Ikeda and a famous representative of the mission field that Ikeda sees before himhave agreed with each other. In the unlikely event that Soka Gakkai lives up to its leader's hopes and realizes Toynbee's expectations by flourishing in the Western world, this dialogue might, like the letters of St. Paul, achieve the status of sacred scripture and thus become by far the most important of all of Toynbee’s works. On the other hand if the sect's future is one of decay and disintegration, it will remain, with Mankind and Mother Earth,a posthumous monument both to Toynbee's weakening powers and to his unwearying aspiration for articulating an all-embracing truth.
〔仮訳・グーグル翻訳に基づいて〕
(「21世紀への対話」において)トインビーは池田に、これまでに言ったことのないことは、ほとんど、あるいは何も言っていませんが、時折、彼の従来の見解を踏み出して、対話者におもねるようなことを言っています。例えば、「あなたが説明するように、生命のダイナミクスに関する仏教の分析は、私が知っている現代の西洋のどの分析よりも詳細で微妙です」。トインビーは日本も称賛しました。彼は 「西洋は破滅に直面しています。日本の人々が人類をより安全で幸せな道に導くことができると信じています」と言っています。時折、彼が「国民総生産ではなく国民総福祉を目指すべきだ」と宣言したときのように、彼の古い創意工夫のひらめきを垣間見ることができます。しかし、少なくとも短い期間でみますと、この本の価値は、池田と彼の運動のための方が、トインビーの評判のためにそれがしたことよりも、はるかに大きいものでした宗派の基本的な儀式は何世紀も前に定義されており、池田は彼自身の権威ある教義の声明を述べた著作「人間革命」を出版しているので、トインビーと池田の対話はやがて取るに足らないものになる可能性があります。
それでも、池田は、特に組織の海外支部において、宗派の仏教遺産のいくつかの側面を調整しなければなりませんでした。トインビーとの彼の対話は、東西、つまり池田と池田が彼の前に広がっているミッションの分野(西欧世界)の有名な代表者が互いに同意した最も長くて最も重要なテキストです。万が一、創価学会が指導者の希望に応え、西欧諸国で繁栄することでトインビーの期待に応えた場合、この対話は聖パウロの手紙のように、聖典の地位を獲得し、これにより最も重要な本になる可能性があります。一方、この宗派の未来が崩壊と解体である場合、トインビーの晩年の作品「人類と母なる地球」などとともに、トインビーの力の弱体化と、すべてを包含し真実を明確にするという彼の飽くなき思いの、死後の記念碑が残ることになります。
 
「21世紀への対話」の行われた1972年から50年の歳月を経た現在、事実の積み重ねによって、ここに書かれたマクニールの見解を判断できる条件は次第に整いつつあります。創価学会の世界への発展は、世界の国連加盟国・地域の192とほぼ等しく、マクニールの見解の前半の想定を裏付けつつあります。
ここであらためて、創価学会は現代における「高等宗教」であり「世界教会」なのか。トインビー博士が、小説「人間革命」英語版の前書きに書かれた〝断定〟の根拠をトインビー博士の生涯の事績、著作を追うことにによって、確認する作業を始めたいと思います。