トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

トインビー博士と池田先生の対談「21世紀への対話『Choose Life』」より50周年を迎えて

本年、2022年5月5日は、トインビー博士と池田先生との対談「21世紀への対話」『Choose Life』の対談が1972年の5月5日にイギリスのロンドンのトインビー博士の自宅でスタートして50年目の節目を迎えました。この日に向けて、東洋哲学研究所の研究員の皆さんの記念論文を収録した記念論文集「文明・歴史・宗教」が発刊されました。

冒頭に河合秀和氏の寄稿文が収録されています。その中で、河合氏は1967年の晩秋、2年半の英国留学を終えて、日本に帰国し大学教師となったばかりの時に、英国文化振興会の日本支部の代表者 E・F・トムリン氏から、トインビー博士が来日するので会わないかと言う誘いを受けたことを記しています。河合氏は次のように書いています。

「当時、大学の教師になったばかりの私は、比較政治という(日本で最初の)講座を担当していた。・・・〈中略〉・・・一国の歴史を国際政治の環境との関係で考え、古代政治も現代政治もいわば権力の作動という社会学的なパターンとして比較するトインビーの研究方法から多くを学んでいた」と。

河合氏はつづけて「私たちは、アメリカ大使館近くのしゃぶしゃぶ料亭で出会うことになった・・・〈中略〉・・・料亭は薄暗かったが、トインビーの眼光は鋭かった。『いま、国体思想はどうなっているか』というのがトインビーの最初の質問で会った。・・・〈中略〉・・・トインビーの質問に対して私は、もともと天皇制国家であった日本は、未だに大中小の無数の天皇たちが天皇崇拝と愛国主義を競い合うような社会であることをまず話した。さらに、戦後の新憲法の下で、頂点に立つ天皇が主権を失いその主権が国民に移ったとしても、これら無数の天皇は家庭内の家父長支配者として、あるいは企業組織や村落の指導者として縦の人間関係のなかに残っており、自由と民主主義がこの天皇制国家の残滓を克服していけるかどうかが当面の問題点であると答えた。       二番目の質問は、『創価学会ファシスト』であった。私は、創価学会は戦時中に治安維持法によって迫害された組織であり、戦前への復帰ではなく、むしろ立ち直りつつある新たな中流階級に自立心と誇りを与える運動を起こしていると思うと答えた。そして、とくに天皇制と軍国主義を支える地盤であった日本の農村では、戦後のマッカーサーの農地改革によって生活水準が高まったが、これはドイツの中流階級と農民がヒトラーを支持した状況とはまったく異なると思うと話した。重要な質問はこの二つだけであったと記憶している」

ここに記されたトインビー博士の質問と河合氏の回答には重要な意味があると思います。この河合氏との対談の二年後、1969年9月に、トインビー博士は自ら池田先生宛の手紙を書き、対談をすることを申し入れています。この河合氏の記述からわかってくることは、少なくとも対談の申し入れが行われる二年前からトインビー博士は「創価学会」という日本の〝新興宗教〟団体に強い関心をもって、情報を集めていたことになります。さらに先の二つの質問でわかるのは、まずトインビー博士は日本について戦前の日本の国家としての根本思想であった国家神道をベースにした〝国体思想〟が日本の決定的な敗北のあと日本人の中にどのように残っているのか、それとも影響力を失っているのか。また、日本の民衆の中の思想的な動きとして、戦後急速に発展したいわゆる〝新興宗教〟、その中でも急激な拡大を遂げ政治の世界にも代表を送ることになった創価学会に強い関心を持っていることがわかります。

このような関心は、実はこれよりも前、1956年の2月にイギリスを出発し、翌年の1957年8月に帰国することになった〝世界一周旅行〟の印象を綴った旅行記『東から西へ』の中で、日本の国際文化会館の招待を受け、戦後約十年の段階で来日したときの日本の印象を記述した部分に、その関心の原点がトインビー博士自身によって、綴られています。

この段階で1989年生まれのトインビー博士は、すでに78歳。数ある批判はあっても、歴史家として、いわば〝功成り名を遂げ〟世界的な知名度が確立した有名人でした。そのトインビー博士が、「創価学会」という極東の新興宗教団体に、単なる関心以上の強い興味を示すということとは、いかなる意味があったのか?

この意味を理解するためには、単に、この時点に限定したトインビー博士の興味・関心だけではなく、1929年・太平洋協議会へ英国代表団の一員として来日したときから始まり、1956年の第二回の来日時における日本に対する観察、それに基づく見解、さらにその前後のトインビー博士の著作における見解等、トインビー博士の生涯の事績・思想をも踏まえた探求が必要になってくると思います。さらに考察を加えてみると、第二次世界大戦後、日本の歴史上経験したことのない敗戦と他国軍による占領という状態のなかにおかれていた日本人がとった行動について、トインビー博士はいかなる視点をもって注目していたかという点が重要であると思います。

トインビー博士が1925年以降「国際問題大観」の年次総括報告の単独執筆者として世界全体の国際問題について観察し記述してきた方法論は、歴史家として「歴史の研究」において追求してきた方法論と重なると言ってもよいと思います。まず「国家」単位ではなく「文明」を単位とした考察であること、その考察については、常に全時代・全世界を対象とした「世界史」を基盤とすること。その中においては、1940年の5月23日にトインビー博士を講師として実施されたオックスフォード大学のSheldonian ThetreでのBurge Memorial lecture【この内容は1947年に刊行された『試練に立つ文明』のなかに「キリスト教と文明」“Christianity and Civilization”という題で収録されています】で初めて表明された「高等宗教」の発達を助け育てることが「文明」の大事な役割であると言う主張が反映されます。この主張は「歴史の研究」の後半部の主題です。

このテーマを確認する上で、ここでトインビー博士の「高等宗教」についての考察をここに引用してみます。この内容は、1967年に発刊されたトインビー博士の著書「現代が受けている挑戦 “Change and Habit”」に書かれているものです。
『もし、世界国家の複数性が人間の分裂の習慣の根強さを証明するものならば、高等宗教の複数性は同じことをさらにはっきりと示している。
ある宗教が高等なものであるとされるのは、人間の魂を宇宙の背後にある究極の霊的な実在(Ultimate spiritual reality)に直接触れさせようとするということによってである。
この二千五百年ほどの間に見られた高等宗教の出現は、先人類(プレサピエンス)が人間になった原始時代の異変以来、現在に至るまでの人間の歴史における最も重要な、最も革命的な出来事である。高等宗教が人間の魂を宇宙の背後にある究極の霊的な実在(Ultimate spiritual reality)に直接触れさせる限りでは、人間の魂を人間が属する社会への隷従から解放する。これまで社会はその成員に全面的な忠節を要求した。高等宗教の出現で、個人は自分への人間の要求と神の要求が矛盾すると判断したら、どんな危険を冒してでも人間より神に従う自由を与えられた。この危険を伴う精神的な自由が生きていく上でのあらゆる世俗的な面での自由の源泉である。高等宗教は解放という救済を成し遂げた。しかし各種の高等宗教はそれぞれ別個に、その目的は同一でありながら違った道を通ってそれをなしとげたのである』

この視点で「世界史」を考察してみると、世界史上の「高等宗教」としてトインビー博士があげているのは、小乗仏教大乗仏教ヒンズー教ゾロアスター教ユダヤ教キリスト教イスラム教です。さらに核戦争による人類絶滅の可能性が明確になった現代において戦争という人類世界の宿痾を克服し、平和をもたらす可能性を作り上げるために最も必要とされる世界宗教化した高等宗教として、トインビー博士がさらに分別されているのが大乗仏教キリスト教イスラム教の三つです。その中でも特に注視されていたのが、最古の高等宗教・世界宗教であり、その布教の過程で暴力による強制という手段と無縁であった大乗仏教の存在でした。ただし、世界宗教としての高等宗教は世界史上において、大乗仏教キリスト教イスラム教の三つしかありません。さらに、その出現の状況を世界史の中で確認していくと、これら三つの世界宗教化した高等宗教は、「文明」と「文明」の衝突の結果として出現していることがわかります。代表的なキリスト教を例にとると、この宗教は「ヘレニック文明(ギリシャ・ローマ文明)」と「シリアック文明(地中海東岸の諸民族、ヘブライ人、アラム人等の属する文明)」の衝突の結果、決定的敗北を経験したヘブライ人の最下層の庶民の自発的運動として始まり世界宗教化したものです。その歴史観で、20世紀の世界をみたとき「文明」と「文明」の衝突は存在するのか?決定的な「文明」的敗北を経験したのはどの「文明」か?「文明的敗北」とは、「文明」が成り立つうえで根幹となる統合原理としての思想・宗教の敗北ということになります。さきにあげた1967年の河合氏とトインビー博士のやりとりのなかで、トインビー博士が発した日本における「国体」に関する質問、「創価学会」に関する質問は、「日本文明」における統合原理としての「国体思想」の状況、最下層の民衆の自発的運動として、この1967年〔昭和42年〕の段階でその存在が明確に認識できるようにまで拡大した「創価学会」の思想的背景についてであることは、この段階でのトインビー博士の関心がどこにあったのを明確に示していると思います。

この年、1967年(昭和42年)の段階における創価学会は、第三代会長に就任して7年目の池田先生のもと、拡大につぐ拡大の戦い〝折伏大行進〟を展開した結果、第二代戸田先生の時代の最晩年に達成した75万世帯の約10倍となる600万世帯を達成していました。この急速な拡大の動きの中で、創価学会は非難中傷の嵐にさらされていました。 その中でも、代表的な中傷が〝病人と貧乏人〟の集まりが創価学会だというものであり、急速な拡大に対しては〝暴力宗教〟のレッテルをはることでした。

私ごとになりますが、わが一家の創価学会とのかかわりは、父〔1913(大正2 )年生まれ〕が、1957(昭和32)年に創価学会に入信したことから始まります。当時10歳であった私もその状況は鮮明に記憶していますが、世間一般の当時の創価学会に対する非難中傷は厳しく、子供心にも大変な会に入ってしまったという印象を受けたことを覚えています。しかし父は本気でした。父の世代の前後の世代、大正生まれの世代は、日本帝国の満州事変、日華事変とよばれる中国との戦争から始まり、その後のアメリカとの太平洋戦争、を通して、最終的に1945(昭和20)年の決定的な敗北にいたる約10年をほぼ戦場で過ごすことになった世代です。父の20代はほぼ戦場にありました。北海道の留萌で貧しい船員の子供として生まれた父は、経済的には上級の学校への進学は困難でしたが、尋常小学校の成績が良かったので応援してくれる有力者があり、当時の日本のそのような状況の子供が進学する道、師範学校を目指したいと思ってい父の思いとは異なりましたが、商業学校へ経済的な応援を得て進学することができました。さらに、その上の段階である当時日本に三校しかなかった高等商業学校の一つ、小樽高商へ推薦をうけて進学することができました。そのような高等教育を受けた青年は、予備士官学校を経て将校となる道が開かれており、父もその課程を経て日本軍の将校となりました。十年近くを最前線の中国で戦うことになった父は、文字通り満身創痍の状態で日本に帰ってきました。私が子供のとき父と一緒に風呂に入ると、父の体にはおでこと尻のところに弾丸のあとがありました。父はよくおでこの弾痕は鉄兜を貫通して入ってきた弾丸がぐるっと頭のまわりを回ってまた入ってきたところからでていったと笑っていました。また尻の弾痕は、尻であったために致命傷にならずに済んだようです。また戦場での様子についてはほとんど話しませんでしたが、私の印象に強く残っているのは、映画の戦場で砲撃を受けて兵士が倒れるシーンのところで、「実際の戦場で砲弾の直撃を受けたら、その瞬間人間のからだはバラバラの肉片になって飛び散る」とぽつんと語っていたシーンです。本物の戦場と映画等の作られた戦場のシーンの違いを語っていました。

64歳でこの世を去った父でしたが、その最終段階でわかったことですが、学生時代、結核を罹患した父は肺の機能が片肺しかなく、その状態での従軍はかなり苦しかったのではないかと思います。父は最終的には中国の済南で終戦を迎えましたが、その段階で階級は中尉、中隊長として百名前後の部下を率いていたそうです。しかし、父が言うには上級の将校から疎外されていたため、父の所属していた連隊が当時安全と考えられていた満州に移動する際、父の中隊だけが現地に残されたのでそうです。なぜ父の中隊だけが残されたのか。日中戦争では、広大な大陸、圧倒的多数の中国人の中で戦っていた日本軍は、鉄道の路線と駅しか実効支配が及ばず、よく「点と線」と言いますが鉄道路線の沿線と駅をやっと抑えている状態で、最終段階ではそれも厳しい情勢になっていました。その中にあって、これも父の言っていたことですが、父の中隊は現地の中国人に決して無法なことせず人間として対等に接していたそうです。そのおかげかどうかはわかりませんが、なぜか父の中隊の守備範囲だけが破壊活動を免れる状態が続いており、「おまえの中隊だけ現地に残れ」と、連隊の中で父の中隊だけが現地に残ることになったとということです。済南という地は、現在でもそうですが、中国の南北と東西を結ぶ鉄道路線が交差する交通上の重要地点です。その重要地点に取り残された単独の中隊、大変不安な状況だったと思いますが、まもなく日本は無条件降伏しました。満州に移動した連隊の主力には、その後、ソ連軍との戦闘、降伏、シベリア抑留という運命が待っていたそうですが、父の中隊は中国軍によって武装解除された後、比較的早く日本に帰ることができたとのことです。

帰国後、父は北海道の釧路で母と結婚し、私を長男に三人の男の子が生まれます。私は昭和22年(1947年)生まれですので、まさに〝団塊の世代〟のスタートの団塊の一人です。小学校、中学校、高等学校と進学の各段階で、校舎の増築、定員増を経験し、大学受験は日本の受験の歴史で空前の倍率を経験しました。本年で後期高齢者の仲間入りです。〝ゆりかごから墓場まで〟という英国の社会福祉のスローガンがありましたが、私たち団塊の世代は、数が多いが故に〝ゆりかごから墓場まで〟つねに競争の場にさらされ、また格好の金儲けのターゲットにされるという生涯を送ることになりました。論より証拠、いわゆる〝オレオレ詐欺〟などはまさに金儲けの対象として考えられている格好の例だと思います。いま日中、テレビをつけるとコマーシャルのほとんど全てが健康関係の器具、薬品、そして墓園の紹介です。なぜこんなに多いのか?理由は明瞭です。対象の数が多いからです。なぜ多いのか?一時期にたくさん生まれたからです。なぜ一時期にたくさん生まれたのか?戦争に行っていた若者が帰還し、一斉に結婚し、一斉に子供が生まれたからです。なぜ一斉に?皆、兵隊として戦争に行っていたからです。

この人口ピラミッドの年齢構成の偏りは戦争が原因です。この現象は第一次世界大戦後のヨーロッパで、また第二次世界大戦後の全世界でおきました。