トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

日本人と戦争・・トインビー史観からみて

 「日本人と戦争」という題を挙げて、トインビー博士の歴史叙述を検討してみたいと思います。この「日本人と戦争」というテーマをとりあげた理由は、このテーマについて書かれた記述の中に、トインビー博士の歴史観と歴史記述を理解する上で大事なポイントがあると思うからです。
 1945年の第二次世界大戦終結以来、現在にいたるまで、日本社会において論じられてきた課題は種々ありますが、それらの課題を根源的に考察していくと、「日本人と戦争」というテーマに収斂してくると思います。たとえば、現在国会で論議を進めようとしている第9条を焦点とする憲法に関する議論。また日米、日中、日韓、日露との間の領土問題等を焦点とする外交に関する議論。それらの案件と密接な関連がある軍事力の主体である自衛隊を巡る議論。国連と日本の関係を巡る議論。靖国神社を巡る議論。その全ての課題が、日本が明治以来、1945年の敗戦にいたるまで歩んだきた軌跡と深い関連性があると言って過言ではありません。具体的には、1895年の日清戦争、1905年の日露戦争、1914年の第一次世界大戦、1931年の満州事変、1937年の日華事変、1941年の太平洋戦争と、1945年の敗戦・終戦まで、ほぼ10年おきに刻んできた対外戦争の歴史と深い関係があります。この1945年までの段階で累積した戦争での死者は、まず日本人の死者では兵士が約230万人、一般市民が約80万人、合計で310万となります。アジア・太平洋地域での死者を兵士・一般市民の合計数であげてみますと、中国で約1321万人、中国を除くアジアで約912万人、アメリカ人が約29万人で合計で約2262万人となります。日本人自身と、その日本の行動と関係のある死者を合計してみますと約2572万人という数字が上がってきます。さらに視点を欧州を含む全世界に広げてみますと、合計で約5565万人の死者があがってきます。この死者以上に、心身に重大な損壊をかかえて、生きることを余儀なくされた人々の数は、数え上げることも困難です。さらに、太平洋戦争の日本の敗北は、核兵器という人類滅亡の道を開く悪魔の兵器の登場と軌を一にしています。
 「日本人と戦争」について深く考えぬくことは、全世界の課題として、取り組まなければならない課題であり、その理解の上に立って全人類が参画できる、平和で平等で豊かな世界を構築する理念と行動指針をしっかりと確認し行動することこそ、現在、日本人に強く求められている最重要の課題であると思います。日本人が国際社会において「名誉ある地位」を占めるためにも不可欠の取り組みであると思います。
 この課題にしっかりと応えてくれるのが、トインビー博士の歴史観です。マルクス主義史観のように、階級闘争的なバイアスがかかった偏波な人間観にたったものではない。また、現在の主流である経済的利害得失をものの見方の基礎とするものではない。ナショナリズム国家主義という現在主流の見方に対して厳しい視点をもち、人間社会を根底から動かしている普遍的な無意識層からの動きもしっかりと視点の中に収めている。その認識の上に立って、人間社会を動かしている大きな原動力として宗教のもつ力を客観的に評価し、歴史的な考察の中にバランス良く織り込んでいる。その上で、自ら取り組んできた世界史上の豊富な知識・見識の上に立った判断と、大英帝国という世界をリードした国家の外交に、第一次世界大戦第二次世界大戦の時期に実際に加わった実務経験と、戦間期においては「王立国際問題研究所」で、1922年以来、第二次世界大戦の時期まで全世界情勢の年報である「国際問題大観」をほぼ一人で書き刊行した経験とその過程で得た世界情勢の認識。さらに、1929年、1956年、1967年と三回にわたり来日され、当時の日本のオピニオンリーダーたちと会うなかで、偏見を離れたバランスのとれた認識を持ち、日本の歴史に関連する様々な象徴的な場所を精力的に訪問し認識を深めた知見、これらを会わせるとトインビー博士こそ「日本人と戦争」というテーマに対して、これ以上を望めない最高の執筆者であると思います。しかも、同じアングロ・サクソンであるアメリカ合衆国の肩を持つこともなく、先ほどあげた価値観からの厳しい視点を崩しません。以後、引用しその内容を検討してみたいと思います。
 
 
『回想録』 p62~p64より
・・・・ 日本が勝った戦争というのは、1894年の中国との戦争、1904~5年のロシアとの戦争、そしてドイツに対抗する側に組して参戦した第一次世界大戦であった。1870~1年の普仏戦争がドイツにとって骨の折れるものであったのと同様に、日露戦争は日本にとって骨の折れるものであった。しかしドイツの場合と同じく日本の場合にも勝った国民の側から見るなら、国力と人命の損失も勝利の結果によってむくわれるものであった。1894年と1914~18年の楽勝に続く失望的な結果は、日本に対して一つの教訓を示していたのであるが、もし日本がもっと明敏であったならこの教訓がわかっていたかもしれない。しかしながら日本人は、この二つの戦争よりも苦労して勝利を得た日露戦争のいっそう実質的と思われる利得によって、目がくらんでいた。ドイツ人と同じく日本人も、過去の戦勝に酔って夢中になってしまった。そして今度は日本が、向かうところ敵なしという幻覚に欺かれて、この上ない破局に終わる軍事的冒険の中にはまりこんだのである。
 日本の軍事的冒険は比較的長期にわたっていた。それは1931年に日本が武力によって満州を押さえたことに始まった。この行為は国際連盟規約承認国および1922年2月6日のワシントン九ヶ国条約調印国として日本がみずから保証したことを破るものであり、また世界の世論に挑戦するものであった。中国領である満州の三つの省〔奉天吉林黒竜江〕をこのように占領したのに続いて、熱河省内蒙古東端が占領された。1937年には日本はルビコンを渡った。中国の心臓部――長城の内側の各省――に侵入したのである。巨大な陸上軍を戦場に投入するという代償を払った上で、日本は長城内部の中国の主要な鉄道、航行可能な水路、海港、河港、都市を占領することに成功した。しかしながら、中国領内の点と線だけの占領を完了するために南西部に足場を得るということすら、日本にとってはその力に余ることであったし、さらにいっそう不吉な失敗になったことには、日本軍守備隊の占拠している帯状の領土の背後に広がる広大な中国領を制圧することもできなかった。中国の広大さ、中国人の忍耐力、そしてゲリラ戦の巧みさのために、1940年までにはこの第二次日中戦争は行き詰まっていた。その頃ヒトラーは、フランスは征服していたが、イギリスは征服できないでいた。
 その後1941年には、日本はヒトラーに劣らぬほどの一大錯誤を犯した。一方の戦線では決定的な勝利を得ることに成功していない戦争をまだ抱えているというのに、日本はソヴィエト連邦に対するヒトラーの攻撃と同じくらい自殺的な途方もない侵略行為によって、今や太平洋に広大な新しい戦線を展開し、ここで軍事行動を開始したのであった。太平洋地域のイギリスとオランダとフランスの領土を侵すという楽な仕事だけをこの地域で行うかわりに、日本はアメリカも攻撃した。日本人が犯したこの最大の愚行は、計画が思い通りにゆかないときにはエスカレーションという反応を見せる思い上がった軍国主義を待ちぶせしている因果応報の、典型的な一例である。
 第二次世界大戦においては、日本の運勢の逆転はドイツの運勢の逆転と同じくらい極端なものであった。真珠湾アメリカ艦隊を爆撃しそしてフィリピンを征服したのち、日本は最後にはアメリカのために降伏を強いられた。そして本土をアメリカ軍に占領され、1931年以来次第にに占領してきた外国領をすべて引き渡し、1894年の日清戦争に勝ったために獲得していた台湾を譲り渡しただけでなく、1904~5年の日露戦争に勝ったために獲得していた東アジア本土の領土もすべて譲り渡さなければならなかった。外国軍隊によって日本が占領されたのは、これが日本史上はじめてのことであった。日本人は1868年の明治維新以来、日本は「神国」でありそして神々から付与されたこの特権のゆえに日本は永久に侵されることがなく最後には世界に君臨する運命にあるという教義を教え込まれていたのであった。
 1931~45年の戦争の戦争の結末が日本人に与えた衝撃は、極端なものであったに違いない。1904~5年の日露戦争において日本がロシアに対して勝ったことを根拠にして、日本人が今なお戦争をおこなうことは割にあるものだと考えているという可能性は存在しているであろうか。ドイツと同じく日本も、正気に帰るためには二度目のそしてさらにいっそう悲惨な敗北を必要とするのであろうか。5週間(1967年11月9日~12月13日)にわたる日本訪問からイギリスに帰る途中でこの章を書いたのち、私はこの問いに対してある程度の自信をもって、あえて「否」と答えるものである。私がかなり確信してこう答えるのは、三度目のこの日本訪問から受けた印象によって、1956年におこなった二度目の訪問のときに抱いた印象がますます強いものになったからである。1956年と同じく1967年にも、私は日本の戦後の気分と戦前の気分の対照を強く感じた。この戦前の気分は、1929年――日本が悲惨な冒険に乗り出す前夜――にはじめて訪れたとき、私に強い印象を与えた。私は1929年には、日本人がそれまで中断することのなかった連勝に酔っているのを知った。1956年と1967年には、日本人は酔いからさめているように私には思われた。その上1967年には、日本人は経済的繁栄の一時期にあったが、それは同じ頃の西ドイツの繁栄の一時期と同様に、輝かしいものではあったが不安定なものでもあった。私の考えでは1967年には、戦後の経済的業績に対する日本人の態度はドイツ人が自分たちのそれに対して抱いている態度を思い出させた。ドイツ人と同じく日本人も、今や経済の分野で達成したものを当然誇ってはいたが、同時ににまた、自分たちの経済は用心深く育成する必要があるだろうということを、かなり不安げに意識していた。一歩誤れば、それは発展したときと同じくらい急速に衰退することになるかもしれない。そして日本の経済にとっても、西ドイツの経済にとっても、最も確実に致命的なものになる誤った歩みは、新たな軍事的冒険に乗り出すことであろう。それゆえ私は、日本にとっても戦争は割に合わぬものだという教訓を日本に与えるには、ただ一回の悲惨な戦争で十分であったと信じるのである。
 なるほどドイツ人を再教育するためには、ただ一度の軍事的破局だけでは十分でなかった。しかし日本のただ一度の破局は、広島と長崎に二発の原子爆弾が投下されたことによって、その極に達した。そしてこれは、今までただ一つ日本を除いてドイツにもその他の国にも降りかかったことのない抑止的な経験なのである。私の印象では、これまでに例のないほど恐ろしい形の戦争を日本だけがこのようにして経験したために、日本は原子力戦争だけでなくいかなる種類の兵器を用いる戦争に対しても「アレルギー性」になっている。戦争に対する日本人の態度の中に私が認めてこの大きな変化は、理性にかなったものである。なぜなる原子力時代においては、「通常」兵器をもっておこなわれる局地戦も、エスカレートして、原子力兵器をもっておこなわれる第三次世界大戦になるかもしれないからである。
 日本が現在原子力兵器に対して「アレルギー性」になっているというのはアメリカ人の言っていることであるが、これは鈍感な言葉である。その言葉は、24年前(1945年)にアメリカ人が日本に与えたがアメリカ人自身はまだ経験していない未曾有の恐怖の、心理的倫理的精神的影響を想像することができないという、困った無能ぶりを暗に意味している。なるほど日本がこの恐ろしい報復を招いたのは自業自得であった。もし最初に日本の「通常」爆弾が真珠湾に投じられなかったなら、その後四年とたたぬうちにアメリカの原子爆弾が日本に投じられることはなかったであろう。もしアメリカ軍が日本に侵攻していたなら、アメリカ人だけでなく日本人の生命も何十万となく失われたことであろう。トルーマン大統領が自分の手中に置かれたばかりの恐ろしい新兵器を使用するという運命的な決定を下したことについては、弁護の余地もあろう。しかしこの新兵器の存在が日常生活のありふれた事実の一つになったかのごとく感じ考え語り振る舞うことについては、弁護の余地はない。原子兵器の発明によって、戦争の破壊性と恐ろしさは、質的に異なったものになるほどに強められた。人類が後期旧石器時代にすべての野獣に対して優位に立って以来、原子爆弾が投下された瞬間まで、その存続は常に保証されていた。しかし1945年に二発の原子爆弾が投下されたことによって人類の置かれている状況がこのように悪化したことの意義に対して、原子兵器を持つ国が目を閉じているかぎり、人類の存続は再び依然として疑わしいものになることであろう。
 これまで中断することなく勝利を収めていた日本とドイツの一連の戦争が破局的な結末に出会ったために、今ではフランス人とイギリス人だけでなく日本人もドイツ人も、戦争を普通なそして耐えうる制度として黙認する人類の伝統的な態度からゆさぶり出された、と推測しても正しい。ところが一方アメリカとイスラエルの連勝は、1968年11月現在まだ中断されていないのである。
 
『東から西へ』P109
「そしてその倒れ方はひどかった(マタイ福音書、第7章27節)」敗戦後11年の日本を訪れた西欧人の旅行者の耳に、この聖書の言葉が鳴り響く。訪問者の気づくこの国をひっくり返した大事件は、日本帝国の倒壊でも、広島と長崎の上空における原子爆弾の爆発でもない。これらの事件もまた、歴史的なできごとであったには相違ない。日本帝国は、倒壊する前には、中国、フィリピン、インドシナ、マラヤ、ビルマの各地に進出していた。日本に二個の爆弾が投下されたことによって、戦争という制度と人類の運命の歴史に新たな局面が開かれた。しかし、そのほかになお、1945年に日本において倒れたものがあった。そして、それは明治時代の日本精神であった。これがいまなお日本のいたるところに反響を呼び起こしつつある倒壊である。長崎は再建され、1956年のいま、もし知らなかったならば、1945年にそこに何が起こったか、想像もつかないくらいである。しかし、日本人の戦前の思想的世界の崩壊は、いまなお空白のままになっている精神的真空状態を後に残した。いやでもその存在に気づかないわけにゆかず、また、それがやがて何によって満たされるのか、考えてみないわけにゆかない。それが満たされることは間違いがないように思われる。
自然は物理的真空だけでなしに、精神的真空をも忌み嫌うものであるからして。・・・・・・・・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
百年前に日本の指導者がかれらの先輩の鎖国政策を棄て、近代西欧文明の実用面を全面的に取り入れることを決意したとき、かれらはかれらの伝統的な精神生活を放棄するつもりはなかった。では、つぎつぎに層をなして堆積している異教(神道)と仏教と儒教をどう処理すればよいか。かれらは儒教の倫理と神道の儀式とを融合して、天皇崇拝を信仰の中心とする、かなり人為的な新たな混合宗教を作り上げた。日本は〝神国〟であり、外敵に侵されることがなく、やがていつか世界を支配する運命を担っている、という昔のおとぎ話に、公認の教義の地位が与えられた。この想像上の日本の国家的運命の崇拝は、1930年代の日本の軍国主義者たちの気分にぴったり合い、真珠湾攻撃後最初の1,2年のあいだは、これらの政治的おとぎ話のもっとも突飛なものまで、実現されそうに思われた。だからして、完全な敗北という結果に終わった戦況の逆転は、日本人に、現存のいかなる国民も受けたことのない大きなショックを与えた。伝説が事実によって否定された。日本の武装せる強き人は、かれよりも強い人間を挑発し、その前に屈服した。天皇はみづから国民に、神でないと宣言した。ほんの二、三日のうちに、思想的世界全体が霧散してしまった。どのような新たな世界観がそれに代わるべきか。これが日本人が今日なお取り組んでいる精神的問題なのである。
 
p113『東から西へ』
戦後の日本はいろいろな理由で興味のある国である。一つの理由は、戦後の世界の主要な問題のいくつかが、特に鋭い形で日本を悩ましており、それらの問題の内的本質を明るみにさらけ出しているという点にある。世界全体が今日、祖先伝来の宗教的伝統との接触を失った結果として、精神的窮乏の中に置かれている。日本は、この世界的な疾病の苦悩を特に強く嘗めている。日本の三つの伝統的信仰ー神道、仏教、儒教の三つーは、いずれも日本人の思想と感情をとらえる力を失ったように見える。
 神道は、豊作祈願として発足し、のちに天皇一身のうちに具現されている日本国家に対する政治的忠誠の、いわば政治的セメントの役を果たすように利用された原始宗教である。ギリシャ・ラテンの古典の教育を受けた西欧人には、この神道の両面は二つともおなじみのものである。日本の農村の農耕宗教の正確な描写を、聖アウグスティヌスの、ローマ宗教のそれに対応する層に関する有名な記述のうちに見いだすことができる。1945年に完全な崩壊を見た日本国崇拝は、原始キリスト教会の殉教者たちが拒否した、女神ローマと神格化されたカイサルの崇拝とほとんど同じものである。・・・・・・・・政治的形態の神道は、すでにはるかにひどく信用を落としてしまっている。それは、1945年に日本を破局に導いた政治体制と結びついていた。だが、かりに日本国民の上にこの不幸をもたらさなかったとしても、政治的神道は存続することが困難であっただろう。その神話は近代科学精神と相容れない。日本が近代科学精神を受け入れた以上、結局はその政治的観念と理想とを、いつまでも古めかしい隔室に入れておくことができなくなったであろう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・政治的神道の没落は儒教に累を及ぼした。なぜなら、政治的神道は、その倫理面においては、事実上、日本的衣装をまとった儒教にほかならなかったからである。儒教は、家族の中の年長者、とりわけ家長としての父親と、国家によって代表される大きな家族の長として天皇に対する、絶対の、疑いをさしはさまない義務の意識を教え込む。1945年に突如不幸な終末を告げた、あの日本歴史の一時期中、政治的神道に応用された儒教の倫理基準は、個人に対して犠牲を要求した。事実によって、犠牲が無駄であり、イデオロギーがおとぎ話であったことが証明させたときに、一千年の日本の歴史においてはじめて、個人がその人権を主張するようになった。かれは自分のために生命と幸福を要求するようになったのである。・・・・・・・・・
日本の家長も日本の国家の首長も、二度とふたたび半神としてうやまわれることはあるまい。将来の日本の家族は、因習的な義務のおきてによってではなく、自然の愛情によって結束が保たれるであろう。一家の中心になるのは、父親ではなくて母親であろう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本における仏教の前途はもっと明るいと思われるかも知れない。仏教は、キリスト教と違って、近代科学の見地と十分そりを合わせることのできる、合理的哲学である。・・・・・日本は1400年ものあいだ部分的に仏教国であった(これは、イギリスがキリスト教国になって以来の期間よりやや長い)。日本の家族はすべて、表向きは日本に無数にある仏教寺院のどれか一つに属している。一方、仏教は、1868年の明治維新後に神道が一新されたとき、公的には政治的神道と縁を断った。そのために、仏教は、1945年の明治的イデオロギーの没落には直接まきこまれなかった。仏教こそ、神道の神話と儒教倫理の崩壊によって生じた、精神的真空を埋めることができるのではないか。意外なことに、禅宗の精神修養に従うごく少数の人々を除き、仏教は今日の日本において重きをなしていない。・・・・今日の日本人の生活のなかでの仏教の実用的役割は、仏式葬儀を執り行って人をこの世から送り出すことである。・・・・・今日の日本において仏教は、日本国民が飢え求めている精神的かてを提供していない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本人の精神的飢餓は、多数の新興宗教の出現によって示されている。新興宗教は600もあると言われ、日本は富裕な国でないにもかかわらず、それらは財政的にうまくいっているようである。一番数が多く熱心な支持者は中産階級の婦人であり、またそれらの教派の多くは婦人を教祖にしている。・・・・・(天理教の教義におけるキリスト教の影響にふれて)・・・・・それでは、現在生まれ出ようとして悪戦苦闘している新しい日本における、キリスト教そのものの前途はどうか。日本のキリスト教徒は今日、枢要な地位を占めている。しかし、言うまでもなく、かれらはごく少数であるにすぎず、今後も大規模な改宗が行われる見込みはないように思われる。にもかかわらず、キリスト教の精神が日本人の生活の中に浸透していき、徐々に伝統的な仏教の影響力に取って代わり、あるいは変化させはじめているように見える。心の意識的な表面では、現在の苦痛に満ちた模索はまだまだ続くかも知れない。しかし、もっと下の方の潜在意識のレベルでは、日本人はすでに生命のかてを見いだしつつあるのかも知れない。