トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

「21世紀への対話」実現への経緯 

●「21世紀への対話」実現にいたる経緯“トインビー博士と池田先生”

話は4年前にさかのぼるが、昭和44年(1969年)の初秋、私は、トインビー博士から一通の手紙を頂いた。『前回、訪日のおり(注・昭和42年)創価学会並びにあなたの事について、多くの人々から聞きました。以来、あなたの思想や著作に強い関心をもつようになり、英訳の著作や講演集を拝見しました。これは提案ですが、私個人としてあなたをロンドンにご招待し、我々二人で現在、人類の直面する基本的な諸問題について、対談をしたいと希望します。時期的にはいつでも結構ですが、あえて選ばれるとすれば五月のメイフラワータイムが最もよいと思います』(9月23日付)世界史的眼光で歴史を鳥瞰し、社会と文化を把握し、人間事象の背後の本質に肉薄する“20世紀最大の歴史家”と称される博士。その学問的情熱と、研ぎ澄まされた歴史的洞察と、該博な知識に、私は以前から注目していたし、人びとが方位喪失して悲しく生きる今の世にあっては、博士の巨視観による歴史哲学に、耳を傾ける必要を感じていた。

私自身としては、この手紙を読んで、過分な申し出に、すぐにでもお応えしようと思った。しかし、なにせ私個人も仕事が多繁を極め、スケジュールもぎっしりと詰まっていたので、その時は残念ながら遠慮せざるを得なかったしだいである。

だが、その後もいくたびか博士から対談の希望が寄せられた。博士御自身も日本がお好きのようで、来日を考えておられたと推察するが、老齢のため、長途の旅は御無理であったようだ。というわけで、私の方からお伺いして、昨年(1972年)の五月の対談となったのである。

そして今年(1973年)の三月、博士から、再び丁重な招請状を頂いた。『今年も、イギリスを訪れる時間をお取りになれるでしょうか。もし、あなた並びに奥様の日程が許されるならば、なにとぞ、来たる五月にぜひ御来訪いただきたいと思います。私達にとって、共通の関心事である多くの討議すべき問題があり、ぜひその機会をもちたいと思います。そのためには、私達の間に、個人的な会見が必要であると信ずるからです』
(73年3月12日付)

私は、昨年に引き続き、今年もトインビー博士との対話を行うべく、ロンドンに向かった。〔中略〕第一回対談の前から、対談を効果的に進めるため、私は仕事の合間を見つけて、博士との往復書簡を通して、博士の質問にも答えつつ、なお自分自身の見解も述べてきたが、それは幾たびも続けなければならなくなった。博士も誠意あふれる姿勢で応えられたのである。時には静かな郊外の家に赴いて、思索を重ねながら執筆されたともうけたまわり、その真摯な姿勢に頭の下がる思いがした。
(トインビー博士との五日間〈1973年の文章〉「ヒューマニティーの世紀へ」より)

 

21世紀の歴史家トインビー

 古典教育を受けたおかげで、19世紀流の専門崇拝は私にとっては何の意味ももたなかった。この忌むべき慣行に屈したい誘惑に駆られたことすらなかった。政治、経済、宗教、芸術、科学、技術のうちのいずれかの歴史家になろうか、と考えたことはなかった。私の意識的意図的な目的は、一つの全体として人間事象を研究する者になることであった。私は人間事象をいわゆる「学問」に区分することには反対であった。この方針をとることによって、私は十九世紀にも二十世紀にも足をとられないで、十八世紀から一足跳びに二十一世紀に移った、と思っている。過去の伝統は「未来の動向」でもあると、私は確信している。現在われわれが入りつつある人間の歴史の一章においては、われわれの選択は、全世界か寸断された世界かということではなくて、一つの世界かそれとも無かということである。人類は死と悪ではなく生と善を選ぼうとしている、と私は信ずる。それゆえ私は一つの世界が近いことを信じ、そして二十一世紀には人間の生活はそのあらゆる面と活動において再び統一体になる、と信じている。

「哲学的同時代性」文明比較研究の根拠(2)

 前稿では「哲学的同時代性」文明の比較研究の根拠(1)として、トインビー博士にとって、古典ギリシャ世界がどのような意味をもつのかをトインビー博士自身の「回想録」の文章を引用することによって論究してみました。いわゆる「ツキディデス体験」をトインビー博士の内面で可能とした、ギリシャ世界を「古典古代」として徹底的に学ぶ西欧ルネサンス以降の人文主義教育に論究しました。

 さて、つぎに検討しなければならないのは、トインビー博士の「哲学的同時代性」の概念において、古典古代と対照となるもうひとつの「年代記的事実」、第一次世界大戦の勃発について論究し、トインビー博士の内面に迫らなければなりません。このことに関しても、トインビー博士の「回想録」第三章の中にある文章を引用していくことが適切であると思います。

 「1914年8月」と題された第三章はつぎのような文章で始まります。

「1914年8月。『この言葉までもが鐘のごとく鳴り響く』そしてその鐘の音にわれわれが思い起こす死者は、その後四年にわたるいけにえの年に生命を奪われた、戦線をはさむ彼我双方の多くの国の人々である。1914年8月。少なくとも私の世代のイギリス人にとって、この日付を挙げることが今なおわれわれの心をこれほど動かすのは、なぜであろうか」とトインビー博士は書きます。

 そしてこのあと、1939年に迎えた第二次世界大戦の勃発という、世界史的にみればほぼ同じ内容をもつ歴史的事件を迎えた時の衝撃の度合いと比較します。

「1939年には、世界大戦の勃発はわれわれにとってもはや新しい経験ではなかった。ある点ではこの第二の経験の方が二つのうちでいっそうつらかった。というのは、今度は戦争の勃発するずっと以前から、きたるべき戦争がわれわれにぐんぐんせまってくるのが見えていたからである。それは晴天のへきれきのごとくわれわれを突然襲ったのではない。その上、われわれは第一次世界大戦を経験したために、いかなる苦難を再びこうむることを予期しなければならないか、前もってわかっていた。しかしあらかじめこのつらさを知っていたからこそ、二度目の衝撃はそれほど激しいものではなったのである」さらに続けて「1914年8月という日付がわれわれの心に刻みつけられているもう一つの理由は、おそらく二度の世界大戦のいずれかに参戦したどの国にもまして、イギリスにとっては第一次世界大戦の勃発はわれわれの歴史の中に不吉な断絶を記して、ということである」と書かれています。

 このあとトインビー博士は、1815年のワーテルローの闘い以降、1914年までの99年間大きな戦争を行うことから免れ、ほぼ一世紀にわたって圧倒的な数の戦死者をださずにすんだ点で、イギリスの西欧諸国の中で例外的な存在であったことをあげ、1914年の第一次世界大戦の勃発が、自身にとってなぜ衝撃の経験であったかについて、考えています。

 

 

 

 

「哲学的同時代性」文明比較研究の根拠 (1)

 前稿で、第一次世界大戦が勃発した1914年の夏、トインビー博士が感じた「これは、古代ギリシャで、ペロポネソス戦争の勃発に感じたツキディデスの思いと同じである」という認識がトインビー史学の出発点であることを書きました。そしてこの事実を表現して「哲学的同時代性」とされていることにもふれました。

 この「哲学的同時代性」をさらに考えていくと、古代ギリシャに対してのトインビー博士の認識のレベルも、第一次世界大戦勃発時(当時のトインビー博士にとっての現在)のヨーロッパに対する認識のレベルも、トインビー博士個人の認識の中に根拠をもつことであり、その概念が成立するためには、その点に対する解明が必要であるということを書きました。トインビー博士の内面に迫っての解明が必要になります。

 21世紀に生きている私たちにとって、紀元前441年のペロポネソス戦争も、トインビー博士が遭遇した1914年の第一次世界大戦も、まさに“年代記的事実”でしかありません。その単なる“年代記的事実”がトインビー博士にとってどのような意味をもっていたのかを解明することから、「哲学的同時代性」の根拠を示し解明していくという作業は可能になります。

 「哲学的同時代性」は、トインビー史学の基礎をなす大事な概念です。この作業に取り組まない限り、トインビー史観の解明はそのスタートからつまずくことになるでしょう。また、解明を避けて先に進んだとしても、豊かな実りを得ることはできないと思います。

 まず、第一に確認しなければならないことは、トインビー博士にとっての古代ギリシャに対する歴史的認識のレベルです。このことについて語るためには、トインビー博士が19世紀後半のイギリスで受けた教育内容を確認する必要があります。当時のイギリスにおける最高レベルの教育コースは、いわゆるパブリックスクールとよばれる私立の中等教育段階(日本の中学・高等学校の学齢とほぼ同じ)と、その後に続くオックスフォード大学、ケンブリッジ大学に象徴される高等教育段階に集約されます。このことは現在おいても変化がないように思われます。歴代のイギリスの指導者、首相の経歴をみるとその状況は明らかです。

 このパブリックスクールは、私費の個人教授が基本であった中世の段階で、費用を出すことができない貧しい家庭出身の優秀な生徒に教育の機会を与えるために、開設された中等教育段階の学校です。もともとは聖職者養成を目的としており、キリスト教の教義学習のため、必要なラテン語の文法を学ぶ学校でした。最古のパブリックスクールとして有名なのは、奇しくもトインビー博士の母校でもあるウィンチェスターカレッジです。1382年に創立された、この学校の創立者はスコラ哲学者として有名なウィリアム・オッカムであり、彼が奨学金基金としての土地を設定したことが現在に続くこの学校の基盤となりました。この奨学金を受けるためには厳しい試験を勝ち抜かなければなりませんが、トインビー博士は2年目にこの試験に合格することによって、1902年13歳でこのウィンチェスターカレッジの生徒、いわゆるウィッカミストとなることができました。その感謝の思いを、トインビー博士は520年前の創立者に寄せています。

 その後、トインビー博士は1907年に18歳でこの学校を卒業し、オックスフォード大学のベイオリル学寮に進学します。この6年間のウィンチェスターでの教育で、トインビー博士は何を身につけたのでしょうか。この疑問に答えるためには、当時のイギリスのパブリックスクールのカリキュラムを調べなければなりません。調べてみると、当時のパブリックスクールでは、ギリシャ語とラテン語という古典語の学習を中心としていたことがわかります。

 トインビー博士は、1969年、80歳のときに発刊した「回想録」のなかで、自ら振り返ってつぎののように述べています。

 第二章「ギリシャから受けた三つの教育」と題した最初に

『ウィンチェスターにいた頃には、未開社会の部族の制度のごときそこの諸制度の圧政(と私には感じられた)に対してたえず反抗していた、と私は告白した。

 しかしウィンチェスターが私に与えてくれた多くの贈り物のうちで、当時私が心の底からありがたいと思ったものが一つあった。それはそこで与えられたギリシャ・ラテンの語学および文学のこの上なく立派な教育であった。「軍隊コース」を除くと、1902-7年のウィンチェスターでの教育は、その十分の九まで古典教育であった。

 ラテン語ギリシャ語の教授がすばらしかったことの裏返しとして、他の学科は枯渇していた。たとえば、フランス語とドイツ語を同時に学ぶ時間は与えられていなかった。ドイツ語を学び始めたいと思うなら、フランス語を学ぶのをやめなければならなかった。その上この二つの言葉は、これまた「死語」であるかのごとく教えられたのである。・・・・(中略)・・・・このような知的損失の埋め合わせとして、ギリシャとラテンの古典の教授は私の時代のウィンチェスターではすばらしかった。

・・・・(中略)・・・・1902-7年にウィンチェスターにおいてわれわれが受けた教育は、ウィカムの考えていた教育ではなかった。それはグローシン〔1446~1519 。オックスフォードのギリシャ語の教師。エラスムスやモアの友〕の考えていた教育であった。グローシンはウィンチェスター校の卒業生で、イタリアの古典文学研究をイギリスへ持ち込んだ16世紀のイギリスの学者の一人である。われわれは20世紀の最初の10年代にウィンチェスターで。15世紀のイタリア・ルネサンスの完全な古典教育をまだ授けられていたのである。

 ギリシャ・ローマ世界の文明に対するわれわれの「文化受容」は徹底したもので・・(中略)・・・もちろん学生の大多数は、ギリシャ・ローマの文学は言うに及ばず、その言語においても、本当に通暁するほどのところまでにはゆかなかった。・・・(中略)・・・しかしながら、わたくしにとって幸せなことに(と思っているのだが)、私はこの古典教育に向いていないのでもない学生の一人であった。私はウィンチェスターで古典教育に反抗したことは一度もなかった。私はひたすらそれに専念し、全く本気で勉強した。実際のところ、あの部族的な生活様式に対して反抗したために、私は自分の内に閉じこもりかけていたのだが、この反抗が私を駆り立てて、ほとんど物に憑かれたように熱狂的に古典を修めさせたのである。学校の教育課程が要求しているよりもはるかに多くに余分の勉強をひそかに一人でおこなうことが、わずらわしい部族的生活から離脱するために私が発見した手段であった。・・・(中略)・・・ギリシャ・ラテンの古典が、われわれの教育過程の主要部を成していた。そしてこのために、実際に奇妙な結果が生じた。イタリアの古典研究家たちの目的は、ある所へもどるためにある所から出て行くということであった。彼らは、ギリシャ・ローマ世界という失われた地上楽園へもどるために、同時代の世界から知的・精神的に抜け出すことを求めていたのであった。この理想が、そのような望みを抱く者に対して要求したのは、ラテンとギリシャの著作者のものを学ぶだけでなく、彼らを模倣するーーーいや、いにしえの巨匠一人一人の文体の微妙なところまで再現するーーーこつを会得することであった。私はウィンチェスターで、バーク〔1729ー97。イギリスの政治家・著述家〕の演説のいったいいかほどの章句をキケロ風のラテン語に訳したことか。エマソン〔1803-82。アメリカの思想家・詩人〕の論文のいったいいかほどの章句をプラトン風のギリシャ語に訳したことか。またわれわれは、あらゆる種類のイギリスの詩を同じ部門に属するラテン語ギリシャ語の韻文に訳すことを、要求された。その上、このように「翻訳」することの骨のおれる訓練はただ予備的なものでしかなかった。われわれの古典教育の最後を飾るものは、ラテン語ギリシャ語の散文と韻文でわれわれ自身の創作を物することだったのである。・・・・(中略)・・・・20世紀の最初の10年代にイギリスで見事におこなわれていた古典教育によってわれわれが置かれた立場は、西暦紀元の最初の二世紀間に新アッティカ派が意識的にとった立場であった〔この頃の散文は擬古的になり、いわゆるアッティカ主義が流行した。プルタルコスや後出のディオン・クリュソストモスやアイリオスのアリステイデスらがこの中に入る〕。このアカデミックな学者たちは、今日私がアメリカでおこなっているのと同じように、公開演説をしてローマ帝国で生計を立てていた。しかし今の私と違って、彼らは同時代の問題については決して語らなかった。彼らも聴衆もそういう卑俗なことは容赦しなかったことであろう。彼らはマラトンの戦い〔アッティカ平原のマラトンで前490年にギリシャ軍がペルシャ軍を破った戦い〕とカイロネイアの戦い〔ボイオティアのカイロネイアで前338年にマケドニア軍がアテナイ軍を破った戦い〕の間の時代に断固としてわが身を置き、その短い時代の有名な政治家を具現してみせた。たとえば、前431年にスパルタと戦争を始めることがアテナイにとって是か非かを論じているペリクレス〔前495-429。アテナイの全盛時代を現出した政治家・将軍〕とか、前371年にエパミノンダス〔前418-362。テーバイの将軍・政治家。スパルタ軍をレウクトラに破った〕がペロピダス〔前364没、テーバイの将軍政治家〕を相手にして、それまで不敗のラケダイモン軍を奇襲し新しいテーバイ式急襲戦術で破ることができると考えて戦場でまみえる危険をあえて冒すべきかどうかを論じている、といったところである。

 1902-7年のウィンチェスターで、われわれ新々アッティカ派もまた古代ギリシャ史の「古典」時代に生きていた。・・・・(中略)・・・・実をいうと、われわれが生きていた時代ーーわずか10年後に死をもたらす廃墟となってわれわれの頭上にくずれ落ちようとしていた世界ーーが1904年にわれわれにとって真の世界でなかったのは、ローマ帝国初期の世界が「第二期ソフィスト」〔新アッティカ派〕の大家にとって真の世界でなかったのと同じことであった。われわれにとって真の世界とは、彼らにとっての真の世界と同一のものであった。それはアウグストゥスの世代に新アッティカ派が規範とみなしたギリシャの文学作品を生み出していた世界であった。彼らとわれわれが見るところでは、それはホメーロス叙事詩において生まれ出てデモステネス〔デモステネスの没年は前322年。その前年にアレクサンドロス大王が没している〕の最後の演説が述べられた突然の死に逢着した世界であった。・・・・(中略)・・・・

 これが、ギリシャから受けた最初の教育が私に及ぼした影響であった。この教育は私の生涯のうちの十二年を占めた。私がギリシャ語を学び始めた十歳のときから、オックスフォード大学の古典研究過程の最後の試験を受けた二十二歳のときに至る、重要な十二年間であった。ラテン語は七歳のときから学び始めていた。しかしそのずっと以前から、母は自分が歴史を学んでいたものだから、私に歴史を教えてくれた。

 そこで、私の心を最もひきつけていたギリシャ・ローマの世界に私が近づいたのは、文学を通してではなくて歴史を通してであった。オックスフォードでの最後の試験を受ける前に、私の学寮であるベイオリルは、私を古代ギリシャ・ローマ史の個人指導教師〈tutor・チューター〉および特別研究員〈fellow ・フェロー〉に任じていた。』

引用が長くなりましたが、この部分を読んでいただくと、トインビー博士にとって、いわゆるギリシャ・ローマ世界〔トインビー博士はこのギリシャ・ローマ世界を“ヘレニック文明”として、その一体性を主張しています〕がどのような意味を持っているのかが自然に理解することができると思います。

 当時のイギリスの最高レベルの教育を受けていくと自然に形成される精神世界。その教育は西欧文明の基本軸のひとつルネサンス以後の人文主義教育そのものです。ローマカソリックギリシャ正教典礼言語として使用されてはいますが、日常語としてはほとんど死語の状態にあるラテン語ギリシャ語の徹底的な教育。その中で自ら進んで徹底的に学ぶことによって、最優等生として高く評価されているトインビー博士。自らも、自分の心象は英語よりも、ギリシャ語によってよりよく表現できる語っているトインビー博士。この論証の冒頭の「哲学的同時代性」を成立させる、過去の時代の認識の基盤をなす重要な事実です。この点をまずしっかり認識することがトインビー史学の認識の第一歩です。

さらに稿をあらためて論考を続けます。

 

 

  

 

 

 

トインビー博士の文明研究の出発点    「ツキディデス体験」

 

  トインビー博士が、全世界・全時代(5000年前から現代まで)の歴史研究を「文明」の比較によって、始めることを決意することになった原体験が、いわゆる「ツキディデス体験」です。

  1914年の第一次世界大戦勃発のとき、オックスフォード大学古典学科のチューターとして、学生にツキディデス(古代ギリシャの歴史家)を講義していた、当時25歳であったトインビー博士は、第一次世界大戦勃発の報道を聞き、強く感じるものがありました。

 その具体的な状況と思いを、1947年に出版された「Civilization in Trial」(邦訳「試練に立つ文明」)の中に書いています。翻訳は当時京都大学教授であった深瀬基寛氏であり、1952年の出版となっています。分かり易さをもとめた訳ですが、現在読んでみると若干違和感を感じるところがあります。トインビー博士の原文を並べてみますので、参照してみてください。

「1914年の大戦は、はからずもわたくしが『ベイオリル学寮』の学生相手に「古典学科」のために、ツキディデスを講釈している真っ最中にわたくしに追いすがったのであります。この時突然わたくしの蒙が啓かれたのであります。現在この世界においてわたくしたちが現に経験しつつある経験は、すでにとうの昔にツキディデスが彼の世界において経験ずみのものだったのです。いまやわたくしは新しい目をもって彼、ツキディデスを再読しつつあったのであります。――――かつてツキディデスに彼の著作の原動力を提供したところのかの歴史的危機なるものに、めぐりめぐって今度はわたくし自身が突入する順番となったその時までに夢にも気づかなかったような意味合いを彼の単語の一つ一つの中に読み取り、夢にも感じなかったような感じを彼の言葉づかいの背後に感じとったのであります。すでにこの問題については、ツキディデスがとうの昔に先手を打っているということがわかったのであります。ツキディデスと彼の世代は、わたくしとわたくしの世代よりも、お互いに別個に到達した歴史的経験の旅程においてすでに一歩を先んじていたのであります。実に彼の現在がわたくしの未来であったといってもよいのであります。しかしそのために、わたくしの世界を『近代』として、ツキディデスの世界を『古代』として記載する年代記学的な記号法が全く無意味になってしまいました。年代記学が何と言おうとも、ツキディデスの世界とわたくしの世界とは、哲学的には同時代であることがいまやはっきり証明されたのであります。そうして、もしもこれが、ギリシャ・ローマ世界と西欧の諸文明とのあいだの真の関係であるとするならば、われわれに知られているすべての文明のあいだの関係も同様の結果となってくるのではありますまいか。

The general war of 1914 overtook me expounding Thucydides to Balliol    undergraduates reading for Literae Humaniores ,and then suddenly my understanding was illuminated . The experience that we were having in our world now had been experienced by Thucydides in his world already. I was re-reading him now with a new perception -perceiving meanings in his words, and feeling behind his phrases, to which I had been insensible until I, in my turn, had run into that historical crisis that had inspired him to write his works. Tucydides, it now appeared, been over this ground before. He and his generation had been ahead of me and mine in the  stage of historical experience that we had respecttively reached; in fct, his present had been my future. But this made  nonsense of the chronological notation which registered my world as modern and Thucydides world as ancient. Whatever chronology might say, Thucydides world and my world had now proved to be philosophically comteporary. And if this were the true relation between the Graco-Roman and Western civilizations, might not the relation between all the civilization known to us turn out to be the same ?

この部分は、トインビー博士の「歴史の研究」を貫く発想の原点として、トインビー博士を扱ったほとんど全ての著作、論文において紹介されています。しかし、改めて読み込んでいくと、しっかり考えなければならないいくつかの論点が潜んでいるように感じます。

 まず、深瀬教授が哲学的には同時代であると日本語訳を与えていphilosophically comteporaryという語句の意味から検討しなければならないと思います。この部分に先立つ部分でトインビー博士は、「わたくしの世界を『近代』として、ツキディデスの世界を『古代』として記載する年代記学的な記号法が全く無意味になってしまいました

But this made  nonsense of the chronological notation which registered my world as modern and Thucydides world as ancient.と書いております。ツキディデスが紀元前441年のギリシャ世界におけるペロポネソス戦争の勃発に遭遇して感じ表現したものが、2355年後の1914年に、西欧世界での第一次世界大戦の勃発に遭遇してトインビー博士が感じたものと哲学的に同じものである。この直感は文明の比較相対を通して人類史を作り上げるというトインビー博士の確信につながっています。

 この哲学的同時代性が成り立つ基本的条件は、まず第一に「人間性の本質はどんなに時代が変化しようとも不変である」ということになります。年代記的な時代の変化はあるが人間性の本質は変化していない。その不変の本質の上に立って歴史を研究し、その有力な手段として比較相対を使うことが可能になるという結論になります。

 しかし、敢えて言えばこの結論の根拠は、トインビー博士が、古代ギリシャのツキディデスの著作を通してその時代を追体験したものと、20世紀の1914年に西欧のイギリスに生きて体験し感じている世界の比較にあります。すべてがトインビー博士の内面にある認識を基礎とした比較です。あくまでも主観的な確信であり、客観的ではないと批判することもできます。事実、トインビー批判のかなりのものがその論理を用いています。

トインビー博士の「歴史の研究」は、そのような主観的な思い込みとも言える内容を根拠にしているのか。ここで、私たちはこの「主観的な思い込み」がどこまで客観的な探求に耐えられるか、検証しなければならないと思います。稿をあらためて続けます。

 

 

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「文明」と「高等宗教」

Startmg from my own taking-off point, I arrived at different findings  from Spengler’s and Bagby's over some points of detail. Instead of thinking that a higher religion always originated inside some single civilization, I thought that it always originated from an encounter between two civilizations or more, and that this encounter was always preceded by the breakdown and disintegration of at least one of the parties to it.
 
(訳)私は私自身の出発点から出発して、幾つかのこまかい点についてシュペンラーやパグビーとは異なる発見に到達した。 高等宗教は或る一つの文明の内部に生まれたと考える代わりに、それは常に二つ、もしくはそれ以上の文明の出会いから生まれ、そしてこの出会いの前には常にそれらの文明の少なくとも一つに挫折と解体があったと私は考えた。(「歴史の研究」再考察より)
 
 トインビー博士の「歴史の研究」を丁寧に読み解き、思索していくとき、重要になってくるのが「文明」と「高等宗教」の関係です。1920年代から始まり、1950年代に一応の完結をみるのが、トインビー博士の主著「歴史の研究」です。このトインビー博士の生涯をかけた主著は、第二次世界大戦前、1934年に1~3巻(原著英語版)、1939年に4~6巻(原著英語版)が出版されました。
 第二次世界大戦後、1954年には、7~10巻(原著英語版)が出版されましたが、戦前に出版された部分と、戦後に出版された部分には大きな視点の変化、というよりは視点の深化があります。その内容について、トインビー博士自身が、直接触れているのが冒頭にかかげた引用分です。これは、1961年に出版された「歴史の研究」の12巻(再考察)からの引用になります。
 トインビー博士は、「文明」と「高等宗教」の関係において、戦前までの視点では「高等宗教」はあくまでも「文明」を構成する一要素としてみていました。他の文明と比較が可能な、歴史認識上のまとまりとして「文明」を定義し、その文明を構成する、社会組織、経済構造、文化など、さまざまな要素の一つとして「宗教」を見ていく。その「宗教」の中でも、一人一人の個人が直接「宇宙の背後の根源的実在」に触れることのできる教義、実践体系をもつのが、トインビー博士が定義する「高等宗教」です。具体的にはキリスト教イスラム教、ユダヤ教ヒンズー教小乗仏教大乗仏教ゾロアスター教などに代表されます。その「高等宗教」も、あくまでも「文明」の一構成要素としてみることができるというのが、戦前の「歴史の研究」におけるトインビー博士の見解でした。この見解は、シュペングラーやパグビー等の代表的「文明」論者の見解とも一致していました。いわば、「文明」中心の歴史の見方であり、「比較文明」という学問のジャンルを基礎付けることになる視点でもあります。
 
 しかし、戦後出版された後半の7~10巻の中で、トインビー博士は「文明」と「高等宗教」の関係を逆転させます。冒頭の引用を再度かかげてみます。
 
高等宗教は或る一つの文明の内部に生まれたと考える代わりに、それは常に二つ、もしくはそれ以上の文明の出会いから生まれ、そしてこの出会いの前には常にそれらの文明の少なくとも一つに挫折と解体があった
 
 この認識と判断が、結果的にみると既存の歴史学、文明論の考察からのトインビー史学の決別と新展開を決定づけることになりました。既存の歴史学との「決別」とは何でしょうか。
 「文明」中心に歴史をみていくということは、17世紀以降の近代合理主義とナショナリズムに基づき「国家」単位で歴史をみていく、19世紀以降の西欧の歴史学の明白な否定でした。否定という言葉が強ければ、止揚といっても良いと思います。従来からの視点を含みつつ、それをさらに高い次元からとらえています。戦前に書かれた「歴史の研究」はこの視点で書かれていました。その視点の中で、「宗教」は「高等宗教」も含めて、「文明」の中に要素として含まれるものとして、いわば副次的な位置におかれています。
 ところが戦後の視点は、「高等宗教」は一文明の範疇におさまる歴史事象ではなく、むしろ「文明」からも自立している事象であるという、「高等宗教」中心の歴史の見方を提唱されたことになります。さらに、「高等宗教」の成立には、二つ以上の「文明」の出会いがあり、その出逢う「文明」の一つには「挫折」と「解体」があったという視点を提出されました。つまり、「文明」の「出会い」が「高等宗教」成立の条件であるということです。当然、文明と文明の「出会い」は、平和のうちに出逢う出会いばかりではなく、武力戦闘と征服をともなう「衝突」もあります。
 この視点は、地球上の地理的展開の中に「文明」を置き、その比較検討の中で文明の研究を進める比較文明的視点からの大きな転換であると思います。比較文明における「文明」とは、一つの「文明」でみると、その誕生から崩壊まで一連のサイクルを繰り返すとする、一種の循環論的視点が前提となっています。そのサイクルの共通性において比較研究が可能になるという視点です。
 ところが、「高等宗教」の自立性と、その成立における「文明」と「文明」の「出会い」を見据える視点にたつと、歴史は「高等宗教」の成立、発展を中心として、単なる一つの文明の興亡を超える進化論的な内容をもつことになります。戦後の高等宗教中心ともいえる視点の変化は、根本的なパラダイムの転換を意味しています。 
 歴史をつくる力は、目にみえない神の力でもなければ、唯物史観的な科学的法則でもない。トインビー博士は「挑戦」と「応戦」という視点を提示して、歴史をつくる根本の力を人間自身のなかに求めました。その人間のなかの何が進化を保証するのか。そこに「高等宗教」がどう関わりをもつのか。このテーマはトインビー史学のまだ解明しきれていない重要な要素であると思います。
さらに、論究を深めて行きたいと思います。
 
 
 
 

トインビー博士と創価学会 マクニールの見解

トインビー博士と創価学会の関係。特にトインビー博士と池田大作先生との対談の実現は、日本をはじめとして全世界に広がりつつあった創価学会のメンバーにとっては大きな感動を持って迎えられ、世界宗教をめざす自らの行動への強い励ましとなりました。この対談の発刊後、海外の識者、指導者からの評価は大きく変わり、その後の池田大作先生への世界の各大学からの名誉学術称号の授与(2019年11月現在、395)につながっていきます。創価学会の世界への展開、特に池田先生の海外での評価の基本として大きな意味を持ちました。

しかし、一方ではこの対談について否定的に論ずる評論家、学者、ジャーナリストも存在しました。特に、日本において顕著ですが、創価学会池田大作先生への先入観に基づく否定的な評価は根強く存在します。トインビー・池田会談は、自らの研究の結論から積極的に創価学会を評価し、対談を申し込む手紙を送られたトインビー博士のイニシアチブで実現したことは客観的な事実です。しかし、すでに世界的名声を得ていたトインビー博士がそのような“愚かな”ことをするはずがないとの先入観から、これも創価学会、池田先生批判の決まり文句ですが、創価学会が“金”の力でトインビー博士を動かした。すでに80歳を超え、耄碌が進行していたトインビー博士が判断を誤ったとの見方があります。

このような見解に、半分与しながら論じているのが、現在のところ唯一のトインビー博士の伝記を執筆しているアメリカの歴史家マクニールの見解です。マクニールは、アメリカの歴史学協会の会長も務めたことのあるアメリ歴史学会の重鎮で、彼の書いたベネティアの歴史は、通史として高く評価されていますし、日本においても彼の「世界史」は広く読まれています。トインビー博士に対しても、好意的な評価を下しており、そのような状況から、トインビー博士の周辺の人びとが、彼に伝記の執筆を依頼しました。その伝記が「ARNOLD  J . TOYNBEE    A  Life」で、1989年に O.U.P  OXFORD UNIVERSITY PRESS より出版されました。

この著作より、該当の部分を引用します。(日本語訳は仮に私がつけてみました)

  • From Toynbee's point of view,Soka Gakkai was exactly what his vision of the historical moment expected, for it was a new church, arising on the fringes of the “post-Christian ” world , appealing principally to an internal proletariat, and deriving part of its legitimacy from an ancient and persecuted  faith.  ....................................トインビーの視点からみて、創価学会はまさに、歴史的な時期としての(現在)に対する彼の洞察の中で期待していたものであった。それは新しい教会(→世界教会)であり、キリスト教の後の世界の周辺に立ち上がり、主に内的プロレタリアート(→社会構造の中に組み込まれてはいるがほとんど無権利状態におかれている人びと)にアピールし、その正当性は古い時代の迫害された信仰に由来する。
  • Comparisons with early Christian history fairly leap to mind ,and in a preface he wrote for the English translation of one of Ikeda's books Toynbee explicitely compared the world mission of Soka Gakkai with the Christian Church on the eve of its coming to power in the Roman Empire. ................創価学会と)初期キリスト教史との比較は、かなり心躍る経験であり、トインビーは英訳された池田の著作の一つ(小説「人間革命」)に書いた序文の中で、明示的に創価学会の世界宣教(mission)とローマ帝国内において勢力となる前夜のキリスト教教会を比較している。
  • When an Englishman living in Japan reproached* him for his association with Ikeda, Toynbee defend himself, writing: "I agree with Soka Gakkai on religion as the most important thing in human life, and opposition to miliitarism and war.".........................ある日本に住んでいるイギリス人がトインビーの池田に対する親密さを咎めて書いた手紙に対して、「私は創価学会が、宗教こそ人間の人生にとって最も重要であると言っていることに賛成するし、軍国主義と戦争に対して反対していることに賛成します」と返事を書いている。
  • To another remonstarance he replied:"Mr Ikeda's personality is strong and dynamic and such characters are often controversial.My own feeling for Mr.Ikeda is one of great respect and sympathy.".......................................他の諫言、いさめに対して彼は「池田氏の個性は強力で、ダイナミックでありそのような性格はたびたび物議を醸すことがある。私自身は池田氏に対して、偉大な尊敬と共感を感じている」と答えている。
このような引用から見えてくることは、トインビー博士が創価学会に対して、歴史家としてどのような観点から評価していたかということであり、ボードリアンのトインビー博士の手紙を根拠として執筆されたマクニールの見解が、トインビー博士の創価学会観、池田大作観について、ある程度正確に表現しているということです。