トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

ハンチントンの「文明の衝突」における「文明」中心の見方とトインビー史観

 

 

「文明」とは何か? その客観的な定義を巡る問題は、トインビーの「歴史の研究」に対する数ある批判の中でも、代表的な批判点です。トインビーはこの批判点に対して当初は、「理解可能な歴史の範囲」と定義を与えています。

 その検証として、英国の一つ一つの歴史的事件を近代から中世へと時代を遡る形で取り上げて、それぞれの歴史的事件が本質的な意義まで含めて、本当の意味で理解可能になるためには、その事象・事件を、どの程度の空間的、時間的範囲まで検討しなければならないかを確認していきます。古代、ローマ帝国の一属州としてブリタニアと呼ばれた時代は、ギリシャ・ローマの文明、ヘレニック文明の範囲にあるのは当然ですが、その後の時代の英国における歴史的事件は、結局、西ヨーロッパのキリスト教世界というバックグラウンドを認識の範囲において検討しないかぎり、本質的な意味での理解は不可能であると結論しています。つまりイギリスの歴史は、ブリテン島の地理的範囲に限定した理解では、完全な論究ができないということです。

この本質的意味での理解が可能な範囲、つまり「理解可能な歴史の範囲」が「文明」であると著書「歴史の研究」の中で、定義を与えています。しかし、この「理解可能な歴史の範囲」という定義は、客観的な定義を求める批判者を納得させることはできませんでした。「科学」において求められる客観的な定義として、数学、物理学の自然科学のレベルとは言いませんが、社会科学、人文科学という多少主観性が許されると思われる部門での定義としても、曖昧さが残る定義であり、言わば「歴史の研究」という大部の著作を書き進めて行く上での、当面の作業仮説のようにも思われます。実際のところ、トインビー博士は、「再考察」の文明の定義を扱う部分の記述においては、「歴史の研究」の冒頭部においては厳密に客観的な定義することを敢えてせず、まず「理解可能な歴史の範囲」として定義して、その定義する「文明」の内容の確認と研究に踏み込んでいったのが1~10巻の内容であると記述しています。

トインビー博士は人生の最終段階の著作「図説・歴史の研究」において「文明」の定義の一節を設けています。「図説・歴史の研究」は、原著「歴史の研究」のダイジェスト版であると共に、理解を助ける目的で図版が付け加えられているものですが、そこにおける「文明」の定義は「人類全体が、すべてを包含する単一家族の成員として、仲良く一緒に暮らしてゆける社会状態を創りだそうとする努力」とされています。

an endevoar to create a state of society in which the whole of Mankind will be able to live together in harmony, as members of a single all-inclusive familyそれを文明の定義としうるかもしれない。これこそ、私たちの知る限りでの全ての文明が、よし意識はしなかったにせよ、無意識的にめざしてきた目標であったと、私は信じる。(トインビー)

この定義は「歴史の研究」の第12巻「再考察」(英語版)での定義をそのまま引用したものです。「再考察」では、“都市”の存在を“文明”の条件とする等、従来ほぼ定説となっているいくつかの定義を検討した上で退け、あらゆる文明において人間が意識的もしくは無意識的に目指していたものとして「人類全体が、すべてを包含する単一家族の成員として、仲良く一緒に暮らしてゆける社会状態を創りだそうとする努力」をとりあげます。そして、その「努力」をもって文明の定義としています。この人間の主体的な努力を組み込んだ「文明」の定義は、客観的な定義を求める批判者を納得させることは難しいと思いますが、トインビー博士の最終的な後世への提言として受け取れば、本当に含蓄深い定義であると思います。

ハンチントンに関しては、その「文明の衝突」の中で、「文明の性質」と題する章をつぎの文章で始めています。

人類の歴史は文明の歴史である。それ以外の見かたで人類社会の発展を考えることはできない歴史は古代シュメールやエジプトの文明から古代ギリシャ・ラテン、中央アメリカの文明へ、さらにはキリスト教イスラム教の文明へと何世代もの文明を経て、なお連綿と続く中国文明ヒンドゥー文明を通じてつながってきた。有史以来、文明は人びとに最も広い意味でのアイデンティティーを与えてきた。その結果、文明の起源や出現、興隆、相互作用、成功、衰退、滅亡が、卓越した歴史家や社会学者や人類学者によって詳細に研究されてきた

この文章において、ハンチントンは「人類の歴史は文明の歴史である」と断定して考察をスタートさせています。その中で、文明の起源や出現、興隆、相互作用、成功、衰退、滅亡と言う表現で、吉本隆明氏の「段階」にあたる時間的な変化の過程を確認しています。「段階」論を時間的な変化の過程におけるステージと考えると、文明の起源や出現、興隆、相互作用、成功、衰退、滅亡というステージ構成は段階とほぼ同様の意義を持つように思われます。「段階」論がないという批判の当否をこえて、吉本隆明氏の視点にある「国家間の戦争を無化して、人間同士の集団的な殺傷を止めさせるためには、日本の非戦憲法の方向しかない。日本の非戦憲法だけが、唯一、現在と未来の人類の歴史のあるべき方向を指していることは疑問の余地がない。」と言う視点は、大事な視点でありその方向の実現については、人類の大多数の人々が各論においては違いがあっても、総論としては望んでいることだと思いますので、貴重な視点であると思います。

この視点を実現するための世界歴史の状況確認の方法論として、ハンチントン、トインビーの「文明」を中心にすえた論考をもう少し深めていきたいと思います。

ハンチントンは、先の文章をさらにつぎのように続けています。

これらの学者をはじめとする著述家 【原文では具体的に名前を挙げています。ここでは列記しておきます。Max Weber , Emiel Durkheim , Oswald Spengler , Pitirim Sorokin , Arnold Toynbee , Alfred Weber , A.L. Kroeber , Philp Bagby , Carroll Quigley , Rushton Coulborn , Christopher Dowson , S.N. Eisenstadt , Fernand Braudel , William H. MacNeil , Adda Bozeman , Immanuel Wallerstein , and Felipe Fernandez-Armesto 】膨大な知識にあふれ、精緻な論文で文明の比較分析をおこなった。そのような文献に見られる観点、方法論、焦点、概念は多種多様である。だが、文明の性質、アイデンティティー、変遷に関する中心的な主張はおおむね一致している

 上記・下線部分の見解に基づき、ハンチントンは「文明」という概念、用語・用法に関して、さきに列記したマックス・ウエーバーから始まる 学者・著述家の視点の中で、ほぼ一致していると考えることが可能な視点をあげていきます。ここにまとめられ列記されている視点は、トインビー博士が「歴史の研究」、さらにその最終章である「再考察」において展開している視点とほぼ一致しています。ここで列記しながら確認していきたいと思います。

《 ①  単数形の文明と複数形の文明ははっきりと区別される……文明という考え方は、18世紀フランスの思想家によって「未開状態」の対極にあるものとして展開された。・・・・文明化することは善であり、未開の段階にとどまることは悪である・・・・しかし、それと同時に、人々はしだいに複数形の文明について語るようになった・・・・世界にはいくつもの文明があって、それぞれに独自のやりかたで文明化していたのだ。・・・・・・(略)・・・・・・》

 単数形の「文明」。英語でいえば a Civilization は、近代初期の西欧人の自意識を反映する表現で、何が善で何が悪であるかという価値観を含んでいます。自分たち西欧人は進歩の先頭を進んでいるのであり、より良き善を象徴していると考えていました。未開の段階は悪であり、唯一の救済宗教であるキリスト教の伝道こそが、未開の悪が善に変わる唯一の道である。この思いは大航海時代ポルトガル、スペインの航海者たちが、いのちをかけて未知の世界へ進出する動機の全てとは言えませんが、かなりの部分を占めていたことは間違いないと思います。

 その結果として遭遇することになったインド、中国、日本などの東洋の文明。キリスト教の存在はないが、それぞれの伝統的宗教・文化のもとに進化をとげてきた成熟した文明が存在する。その発見の驚きと認識の深まりが、複数形の文明 Civilizations  の存在を認め、その中の一つとして自らの西洋文明を認識し位置づけるという方向へ進ませることになったのだと思います。さらに20世紀の、第一次・第二次の世界大戦という、単数形の文明観を根底から揺るがす歴史的な経験をすることによって、トインビーに代表されると言って良いと思いますが、文明を根本として世界史を見ていく方向性が注目されるようになったのだと思います。

しかし、21世紀に入った現在においても、この「文明」中心の見方は少数派です。世界中で、国連加盟国ベースでも192カ国が存在します。そして、それぞれの国が自らのアイデンティティーをかけて、自国中心の物語を作り上げようとしている。この傾向とはうらはらに、グローバルという言葉に象徴される経済面を中心とする人類の一体化への動きが加速していく。この相反する現象のねじれと対立の最も悲劇的な結末が戦争です。核兵器の時代に入った今、戦争は人類の滅亡を意味します。国家という「戦争」の単位を止揚していく視点、方途は何か。吉本隆明氏においても、トインビー博士の世界史「歴史の研究」においても、ハンチントンの「文明の衝突」においても、共通の強い問題意識であることは間違いありません。

《 ②  文明は文化の総体だとされているが,ドイツではそうではない19世紀ドイツの思想家は文明と文化をはっきりと区別して、文明は機械、技術、物質的要素にかかわるものであり、文化は価値観や理想、高度に知的・芸術的・道徳的な社会の質にかかわるものだとした。この区別のしかたは、ドイツ思想界には根付いたが、それ以外の場所では受け入れられなかった。……(略)……このように、文明と文化を区別しようという動きは一般受けせず、ドイツ以外は、「ドイツのように文化をその土台である文明と切り離したいと願うのは欺瞞だ」とブローデルの意見に全面的に賛成している。》

 ドイツにおける文化 Kultur  と、文明 Zivilisation の字義の違いについての言及です。欧米圏においては英語の culture  ,   Civilization  を代表として、ドイツ語のKultur  と、文明 Zivilisation の字義とはほぼ正反対というよりも、Civilization はculture を包含した総合的な上位概念として使われます。この考えてみれば、基本的な事実の確認をなぜ取り上げなければならないかという理由は、文明論的考察の上においてマックス・ウエーバー、ショペングラー等、ドイツ文化圏からの考察が重要性を持っているからだと思います。

 さきほどハンチントンブローデルの意見を引用して述べた、精神的要素が多い文化を、文明より価値があるものとして土台としての文明から切り離すという、いわばドイツ的傾向については19世紀前半のドイツ浪漫主義までさかのぼってみるのが一般的です。フランス革命を契機に、いち早く国民国家を成立させたフランス。産業革命後、資本主義国家として急速に世界帝国として発展しつつあったイギリスに対して、19世紀後半まで政治的統一ができず、フランス、イギリスの後塵をこうむることとなったドイツとしての対抗意識を根底とした19世紀前半のドイツ浪漫主義の運動。精神的な成果に高い価値を見出す意識はそこから胚胎したもののように感じます。

 日本人として注意しなければならないことは、ドイツ語の書籍の翻訳においてこの意義をふまえず、Kultur 、 Zivilisation を単純に文化文明と訳すことによって、意味合いが大きく変わってしまうことに気づかない翻訳が存在することです。個人的なことですが、ドイツ語からの翻訳文で、本来「文明」の内容にあたると思われる内容を「文化」と表現された文章を読み、混乱した経験が一度ならずありました。一見、小さなことのようですが、ここでハンチントンが取り上げたことの意義は大きいと思います。文明、文化という用語の意義を正確にとらえていくことは、「文明」という視点を根本にすえて、人類の歴史を人類出現以来の時間軸において、また全地球規模の空間的的広がりの中で捉えて検討していく上で必須の作業過程であると思います。

先の文章に続いて、ハンチントンは文明と文化についてつぎのように書いています。文明と文化という用語の意味を確定し、「文明」を単位として世界史を考えて行く上で、重要な部分なので、少し長文になりますが引用します。

《 文明と文化は、いずれも人々の生活様式全般を言い、文明は文化を拡大したものである。いずれも『価値観、規範、社会制度、ある社会で何世代にもわたって最も重要視されてきた思考様式』を含んでいる。ブローデルにとって、文明とは「ある空間、『ある文化の領域』」であり、「文化的な特徴と現象の集合」である。ウォーラースタインは文明を定義して、「世界観や生活習慣、組織、文化(物質的な文化と高度な文化もあわせて)などの特定の連鎖であり、それはある種のまとまった歴史を形成し、その他の同様な現象と(かならずしも同時ではないが)共存する」と述べている。ドーソンによれば、文明とは「特定の民族が生み出す文化的な創造性の、特殊かつ独特なプロセス」の産物であり、一方でデュルケームとモースにとってそれは「ある数の民族を取り巻く一連の道徳的環境であり、それぞれの民族の文化は全体を構成する特殊なかたちにすぎない」のである。ショペングラーにとって、文明とは「文化の必然的な運命・・・人類という進化した種に可能な最も外面的かつ人工的な状態・・・できかけのもののあとにできた結果」である。ともあれ、文化は文明の定義のほぼすべてに共通するテーマである。文明を定義する主要な文化的要素とは何か?スパルタ人に向かって、彼らをペルシャに売りはしないと保証したとき、アテナイ人は以下のように伝統的なやりかたでそれを述べた。

たとえわれわれがそうしたいと思っても、大いに考えるべきことがたくさんあって、許されないからだ。第一に、最も重要なのは、神々の像と焼き払われて廃墟と化した神殿である。そのような罪を犯した男と仲直りするなどもってのほかで、われわれは力のかぎり復讐しなければならない。第二に、ギリシャ人種は血も同じなら言語も同じである、そして神々の神殿もいけにえの儀式も共通しており、生活習慣も似ている。アテナイ人にとって、こうした人々を裏切るのはよくないことだろう。

血統、言語、生活様式ギリシャ人種のあいだで共通しており、ペルシャ人をはじめとする非ギリシャ人種とはこれらの点で違っていた。しかし、文明を定義するあらゆる客観的な要素のなかで最も重要なのは、アテナイ人が強調したように、宗教である。人類の歴史における主要な文明は世界の主要な宗教とかなり密接に結びついている。そして、民族性と言語が共通していても宗教が違う人びとはたがいに殺しあう場合があり、レバノンや旧ユーゴスラビアインド亜大陸で起こったことはそのあらわれである。同じ人種に属する人びとが文明によってはっきりと切り離されることもあれば、異なる人種に属する人びとが文明によって統合されることもある。キリスト挙とイスラム教など、特にさかんに布教活動を行う宗教はさまざまな人種からなる社会を包含している人間の集団の最も重要な特徴は、その価値観、信仰、社会制度、社会構造であって、体格や頭部の形や肌の色ではないのだ。》

 この部分の例証としての引用、ツキディデスの「ペロポネソス戦争史」からの引用ですが、お互いに相争っている戦争の当事者・敵としてのスパルタ人に対してアテネ人が、ペルシアとの「文明」の違いとしての言語・宗教を強調することによって、互いの同一性を強調し信用させようとする。ここに、人間集団における「文明」の意義をとらえるとともに、構成要素として根本的な宗教をとらえて説明しています。この部分はトインビー博士の世界史の問題意識に直接通ずる大事な指摘であると思います。

 トインビー博士の「ツキディデス体験」から始まる世界史研究において、「文明」の過程を示す指標として頻繁に登場するのはギリシャ・ローマ文明、いわゆる「ヘレニック文明」です。さらに敷衍していえば、トインビー博士の世界史研究の前期と後期を画する重大な転換、高等宗教史観への変化は、時間的・地理的にはヘレニック文明の中にあるキリスト教に対する視点の変化が根本になっています。具体的には、当初、文明を構成する一要素としてとらえていた宗教の中には、それ自体が独立した社会として存在し文明を越える存在である高等宗教と名付けられるものが存在する。

トインビー博士によると、社会とは人間と人間の間のネットワークということになります。文明の盛衰を越えた永続的なネットワークとしての高等宗教。高等宗教は全人類への布教拡大を使命としますから、その運動の中に、部族、国家、民族のような地方的なつながりを越えて、全人類を一つの家族のように結びつける鍵があり、平和を目指す努力、つまり「全人類が一つの家族のように仲良く生きていこうとする方向を目指す努力」というトインビー博士が「文明」に与えた定義を実現する究極的な鍵がある。トインビー博士は、この高等宗教への着眼から第二次世界大戦後の様々な活動を始めたと言ってもよいと思います。この点については、さらに深めて論じていきたいと思います。

《 ③第三に、文明は包括的である。つまり、文明を構成する単位のどれひとつとして、それを包含する文明との関連を見ずには十分に理解することができない。トインビーが主張するように、文明は「他の文明に包含されることなく包含する」のだ。文明は「総体」なのである。・・・(略)・・・文明は最も範囲の広い文化的なまとまりである。・・・・(略)・・・・・・ヨーロッパの地域社会は共有する文化的な特徴によって、中国やヒンドゥー教の社会とははっきりと区別される。しかし、中国人もヒンドゥー教徒も西欧人も、それより広い文化的まとまりの一部を構成しているわけではない。彼らは文明を構成しているのである。すなわち、文明は人を文化的に分類する最上位の範疇であり、人類を他の種と区別する特徴を除けば、人のもつ文化的アイデンティティーの最も広いレベルを構成している文明の輪郭を定めているのは、言語、歴史、宗教、生活習慣、社会制度のような共通した客観的な要素と、人びとの主観的な自己認識の両方である。》

 

「他の文明に包含されることなく包含する」、文明を構成する文化的要素は、他の文明に包含されることなく包含されている。この「包含する」という動詞の主語にあたる存在が「文明」ということになります。

 

 

              

 

吉本隆明「 超『戦争論』(2002年刊)」と ハンチントンの「文明の衝突」

 

 表題の著書は、2002年に刊行されたものであり、聞き手の田近伸和氏の問いに答える形で、吉本隆明氏が世界情勢から日本の現状に対して余すところなく語り論じているものです。

 本書が出版された2002年の前年2001年9月11日には、イスラム教を背景とするアルカイダによるニューヨークの世界貿易センター等へのテロがあり、アメリカ合衆国は報復としてアフガニスタンへの軍事侵攻を実施していました。

 かつてイラクのクエート侵攻に際して、多国籍軍と称するアメリカを中心とする軍事オプションに、憲法上の理念から自衛隊を派遣せず、その代償として多額の資金援助をした日本政府。しかし、その精一杯の“貢献”が感謝されることなく、逆に国際的な批判を受けることになった日本。その現実に直面して生じたトラウマともいうべき心情が起因して、2001年の9・11以降、日本国憲法第九条の改憲論から、集団自衛権論議まで、保守論壇を中心の議論が湧き上がっていた最中でした。     

 その中にあって、吉本隆明氏は、自分の原体験と思索をしっかりと踏まえながら、目の前に展開する現実に、未来への展望を踏まえて鋭く切り込んでいきます。そのまえがきでつぎのように語っています。

国家間の戦争を無化して、人間同士の集団的な殺傷を止めさせるためには、日本の非戦憲法の方向しかない。日本の非戦憲法だけが、唯一、現在と未来の人類の歴史のあるべき方向を指していることは疑問の余地がない。それなのに、日本の政治家や政党は、そのことを国際的に提起しようともせず、かえって、最悪の歴史、最悪の未来をもたらす傾向に追従しようとさえするのか? 人類は紛争を導く要因を動物社会よりももっと複雑に抱え込んでしまった。この難問を、誰でも、肩の荷を降ろして休み休み考えるところまでもっていきたいというのが、この本のモチーフであった。

この「超『戦争論』」は、上下二冊からなりますが、下の最終章は「21世紀の『世界の行方』を読み解く」と言う表題です。その中に、「9・11」後の世界に湧き上がってきた様々な論調の一つとして、ハンチントンの「文明の衝突」の再評価を取り上げています。

1998年に刊行されたハンチントンの「文明の衝突」は、冷戦の終結ソ連の崩壊という20世紀の大きな歴史の変換点に立つ人類にとって、大きなインパクトを与える論考でした。1992年のフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」的な見方。ソ連の崩壊、冷戦の終結を、一方の陣営であるアメリカ合衆国を中心とする自由主義陣営の勝利としてとらえ、歴史は最終的な段階に達したという見方に対して、全世界を俯瞰するような視点として「文明」単位の観点を設定し、世界の状況を論じたのがハンチントンの「文明の衝突」でした。

ハンチントンは、アメリカの政治にも大きな影響力をもつ知識人としてキッシンジャーと並び称される人です。「文明の衝突」は、冷戦終結後の緊張緩和を期待する世論の傾向に“水を差す”傾向の論調として、一定のインパクトを世界に与えました。しかし、世界の論調としてはその評価は限定的でした。冷戦終結後、一人勝ちのようにみえるアメリカを中心としたグローバル資本主義新自由主義を根本とした世界秩序の形成がますます進行するかのように見えていたのです。

ところが、2001年の「9・11」によって、事態は一変します。国家単位ではアメリカ合衆国にかなう国などないイスラム文明。そのイスラム文明を背景とすると自称するテロ勢力が、アメリカ合衆国の資本主義の象徴である世界貿易センタービルを、航空機というこれもアメリカの世界的影響力の象徴と言えるものをハイジャックし、衝突させることによって跡形もなく破壊するという二重三重に象徴的な事件が発生したのです。この出来事は、ハンチントンが「文明の衝突」で確認し強調した世界認識と、近未来に対する展望をあらためて再認識させることになりました。

2002年の「超『戦争論』の発刊時において、このハンチントンの「文明の衝突」の再認識はひとつのトレンドになりつつありました。この内容については、「超『戦争論』」の中で吉本隆明氏に対する聞き手役を務めている田近信和氏による要約がありますので引用します。

 ハンチントンは、その「文明の衝突」論において、「21世紀の世界は、民主主義によって一つの世界が生まれるのではなく、数多くの文明間に起因する、分断された世界」になり、「この新しい世界において、地域の政治は民族中心の政治に、世界政治は文明を中心とする政治になる。超大国同士の抗争にとってかわって、文明の衝突が起こる」と予測しています。東西の冷戦時代においては、アメリカとソ連という二つの超大国が支配する二極体制だったけれども、「今、現出しつつある世界の力の構造はもっと複雑であり、一極・多極体制」というものであると、ハンチントンは指摘します。一極というのは、現在、唯一の超大国であるアメリカのことであり、現在のような「一極・多極体制」は過去にモデルがなく、この「一極・多極体制」が十年か二十年続いたあと、真の多極体制に移行していくだろう、とハンチントンは予測しています。ハンチントンは、「現在は、文化ないし文明という要素によって国家の行動が決定される傾向が強まり、国家は主に世界の主要な文明ごとにまとまっている」と述べ、現在、世界には八つの主要文明がある、としています。西欧文明、東方正教会文明、中華文明、日本文明、イスラム文明、ヒンドゥー文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明が、ハンチントンがいう八つの主要な文明です。ハンチントンは「いかなる文化あるいは文明でも、中心的な要素は言語と宗教」であって、東西の冷戦が終わってから、世界は「文化や文明の境界線に沿って本質的に再構成された」と述べています。そして、ハンチントンは、「新しい世界の最も危険な対立は、異なる文化的な統一体に属する人々の間でおこるだろう」「最も危険な文化の衝突は、文明と文明の断層線(フォールライン)に沿って起こる」と予測するわけです。

この要約を示し、田近氏は吉本隆明氏につぎのように、問いかけます。

アメリカでの同時多発テロ事件のあと、ハンチントンの「文明の衝突」論が注目されたのは、この同時多発テロ事件が、ハンチントンが予測した事態の象徴的な現れである、と見なされたからです。アメリカでの同時多発テロ事件についてのマスコミの論調や知識人たちの解説には、ハンチントンのこの「文明の衝突」論が、少なからず影響を与えているように見受けられます。ハンチントンの「文明の衝突」論については、どう思われますか?

この問いに対する吉本隆明氏の答えをつぎに掲げてみます。

僕は、世界の構図をつくるためには、空間的な視点と時間的な視点、その両方の視点が必要だと考えています。つまり、空間軸と時間軸との二重性でもって、世界を捉えるということです。空間的に見れば、アメリカ、ヨーロッパ、中近東、東アジア、アフリカなどの諸国は、みんな、それぞれの地域性、地域的特色があって、差異はいろいろあります。でも、歴史という時間軸に沿って、「段階」といる観点から見ると、差異だけでなく、共通点もいろいろ見えてくるんですよ

 

この指摘に続いて、吉本隆明氏は「段階」という視点を説明していきます。この視点は吉本隆明氏独自のものですが、説明を読んでいくと本人も認めておられますが、あきらかにヘーゲルマルクスの視点を焼き直したもののように感じます。

たしかにヘーゲルマルクスという、19世紀の西欧に育ち、その思考が20世紀に大きな影響力を持った人たちの思考の特色は、弁証法的な論理で歴史的現実の時間的変化を捉え、歴史はある目的に向かっての進歩であるとする歴史観に特色がありました。その進歩史観を前提として、時間軸に立脚した段階論が成立します。マルクス唯物史観は、その典型です。

もっともこの史観は、ユダヤキリスト教的な思考(ヘブライズム)に典型的にみられる歴史観です。人類の歴史は絶対的な創造神による「神の国」という目的に向かって進行する過程であり、終末における最後の審判によって全ての人が、天国か地獄に振り分けられる。ヘーゲルマルクスの史観は、意識的か無意識かは分かりませんが、結果として「神の国」史観の裏返しであるとの指摘が、ベルジャーエフをはじめとして様々な思想家からからあり、トインビーもその見解をとっています。

19世紀から20世紀にかけての時代の主潮は、 科学の進歩と人類社会の進歩がしっかりと結びつき一致していると信じられていた時代でした。限界がないように思われる科学の 進歩・発展の連鎖は、歴史には目的があり、人間の社会はその目的に向かって進行しているという考え方を裏付けるものとして大きな影響力を発揮しました。「進歩史観」は、西欧における様々な自由を求めての革命運動、また共産主義社会主義の革命運動の基本認識を提供するイデオロギーとして全世界の青年の心をつかみ、歴史の主体者としての使命感を与え、実践を支え後押した原動力であったことは間違いありません。その結果成立したと言って良い、ソビエト連邦とという壮大な文明的実験は、最終的に自由と平等という人間社会に本質的に存在する矛盾点を克服できずに、21世紀を目前に挫折し崩壊しました。

21世紀に入った現在、特に経済活動を中心として、世界全体の一体化が進行する段階に人類はさしかかっており、世界全体を捉える視点が必要条件となっています。改めて、確認するまでもないことですが、人間社会全体の認識のためには、地理学に象徴される空間の広がりを通しての認識、もう一つは歴史学に象徴される時間軸を通しての認識があります。空間の広がりからみる認識と時間軸に立って事象の経過をみる認識は、人文、社会、自然の科学に共通の人間の認識の基本です。古来、いかなる時代のいかなる認識でも、この二つの観点が貫かれていると言って良いと思います。

ハンチントンの「文明の衝突」は、冷戦終結ソ連崩壊後の国際情勢を、地球全体を俯瞰して把握し、その根本構造を示そうとしているものであり、空間的な認識が先行するのは当然であると思います。したがって「段階」論という時間軸がないという吉本隆明氏の批判は、批判のための批判とは言いませんが、自身の段階論の論理に対する思いが優先しており、「文明の衝突」に対する本格的な批判になっていないと思います。

この時「文明の衝突」が話題になったのは、イスラム世界をバックにしたテロリストたちが引き起こした衝撃的な事件を通して、その動機を探る中で行き着いたイスラム文明と西欧文明との対立構造を巡る関心を通してでした。「文明の衝突」をよく読んでいくと、ハンチントン論議の主眼は「文明」という視点の設定にあることが見えてきます。社会主義陣営と自由主義陣営の対立構造としての“冷戦”の段階が終了し、つぎの時代に向かっての視点を構築する上で、ハンチントンが現段階の世界の構造を捉えるための視点として「文明」という視点を設定したことの有効性をまず検証してみたいと思います。      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

「戦争」に対するトインビー博士の行動

前回のブログではトインビー博士の原点としての体験を踏まえた、博士の「戦争」に反対する思いと決意についてふれました。今回は、その決意に基づいて、どう行動し、戦ってきたかについて同じく「回想録」の中から引用します。

p110

戦争を廃止するために働くには、私がおこなったよりもいっそう直接的な方法がある。チャタムハウスの『国際問題大観』を執筆するのに三十三年を費やす代わりに、国際連盟国際連合の職員になることを志願しても良かったはずだ。しかし知的な仕事は、それ自体本質的な価値を有していることを別にしても、行動のための必要な基盤である、と私は信じているので、あくまで『大観』を続けることによってわれわれの時代の(いや実際のところ戦争が始まって以来のあらゆる時代の主たる害悪の正体をあばくのを手伝っていることになる、と私は常に感じていた。そればかりではない。この悪しき制度がそれを作り出したわれわれを抹殺する前に、それを制御しようとするのを手伝っているのだ、ということもつねに感じていたのである。

p111

戦争に対する私個人の戦いにおいては、私は全面廃止論者である。・・・・(中略)・・・・ ところが私の判断では、戦争は奴隷制と同じく、妥協のあり得ない社会悪である。通常兵器を残しておきながら原子兵器を廃止することや、兵器の量を減らしても残りのものを使用することをやめない、といったことが効果的であるとは私は信じない。私のめざすところは戦争の全面的廃止であって、それ以下のものではない。

しかし私は廃止論者ではあるが、平和主義者ではない。もし1931年に満州に関して日本と戦争したり、1935年にエチオピアに関してイタリアと戦争したり、1938年にチェコスロバキアに関してドイツと戦争したりするための投票の機会を与えられていたなら、私はこの三つの苦しい場合のいずれにおいても戦争に賛成する投票をしたことであろう。戦争に賛成する投票をしたであろうというのは、戦争を始めようとしている軍国主義者に対して何の軍事的抵抗もおこなわないことは、正しくもなければ分別のあることでもないと信じるからである。この場合のディレンマは苦しいものである。なぜなら、一方では、軍事侵略に対して抵抗しなければ世界を軍国主義者の手中に引き渡してしまうことになるし、また一方では、侵略に対して「聖戦」をおこなうなら、こちらの戦争がどれくらいの間聖戦であり続けるか予言できないからである。たとえ戦争を終わらせるために戦争をしているのであっても、戦争をおこなうときには、悪に対する解毒剤として悪を用いているわけである。そしてこの勝負においては、さいころベルゼブル〔魔王。『マタイによる福音書』〕に有利なように詰め物がしてある。人類の長い「悲しみの道」の途上において、「戦争を終わらせるための戦争」〔第一次世界大戦は一般にこう呼ばれた〕をどれほどおこなわなければならないか、わからないのである。第一次世界大戦を終わらせるために命を投げ出した私と同年輩の人々は、これが生存者とその子孫が目にする最後の戦争になると信じつつ死んでいった。こうして、戦争という古い制度を廃止しようする際、気がついてみると矛盾と挫折の中にはまり込んでいるのである。

p112

この経験は人をひるませるものである。しかしこれに立ち向かわねばならない。というのはそれは人生の苦しい事実の一つが持つ一面だからである。この事実とは、各世代は先人から伝え残された業〈カルマ〉という荷を負っているということである。現存する世代は自由な身で生き始めるわけではない。過去によって捕らえられた者として生き始めるのである。さいわいなことに、この囚人は無力ではない。受け継いだ慣習のかせをこわす能力を持っている。しかしこれをこわすには大いなる努力によるほかない。また全部をこわすことができるわけではない。人間の自由は錯覚ではないが、決して全面的ではあり得ないのである。

今問題にしている場合について見ると、平和的な政治的行為によって戦争を廃止する自由は、たしかにある。国家間の戦争という制度は、地方主権という制度の寄生虫である。寄生虫は寄主がなければ生き残れない。そしてわれわれは地方主権を平和的に廃止することができる。地方国家が全体の従属的な一部として存在し続けながら、その主権を引き渡す―――こういう世界的な連邦を自発的に作ればよいのである。これが、ライオネル・カーティスの唱えた、戦争という問題の積極的な解決法である。世界連邦の構成の細部については、教条的になる必要はないし、またそうあるべきではない。しかし何らかの形で、これを達成するために努めるべきである。原子力時代にあっては、これが大量殺戮に代わる人類の唯一の道のように見える。 

 

トインビー博士の「戦争」廃止への思い

 トインビー博士の全ての著作を通して、通奏低音のように一貫して流れ、時には学者としての客観性をあえて越えても主張されているのが、「戦争」廃止への強い思いです。 

 このブログの中では、「哲学的同時代性」というトインビー史学の根幹を構成する原理の発想の基盤として紀元前5世紀のペロポネソス戦争の勃発の際のツキディデスの思いを追体験できるほど骨肉化していた古典古代への傾倒、一方でトインビー博士自身が25歳の時体験した1914年8月の第一次世界大戦の勃発が、トインビー博士の内面で働く様子をみてきました。

 しかし、さらに具体的な体験を通して、「戦争」廃止への思いを強く語っているのがつぎに引用する部分です。「予定した仕事は全ておわった」とこの回想録出版の時点で語っておられるトインビー博士が、このあと最後の仕事として、高等宗教である大乗仏教の現代世界における実践団体である創価学会池田大作会長との対談を、批難中傷を覚悟しても敢えて求められたのは、この引用の最後の部分にあるトインビー博士の強い決意が原動力であると思えてなりません。

 

回想録 p109

 私は運命のいたずらによって第一次世界大戦のときには軍務に適さなかったが、1914年8月以降戦争の悪と直面してきた。1914年8月以前には、イギリスは数多くの「小さな戦争」ーーしかも侵略的な小戦争ーーをおこなっていたので、われわれにその気がありさえすれば目が開かれてしかるべきであった。ところがほとんどの者はこの悪に対して倫理的に鈍感であった。例外はただクエーカー教徒だけであった。もしわれわれがまだ盲目でなかったのなら、両親は私がおもちゃの大砲で錫の兵隊を打ち倒して殺すような遊びを決してさせなかったろう。また私自身もこういう不愉快な遊び楽しむことは決してなかったことであろう。〈回想録のなかでトインビー博士の子供時代、錫の兵隊人形で遊ぶ記述がでてくる〉1914年8月以来は、われわれが盲目なのは救いようのない無知のためだ、と言ってすますわけにはいかないのである。

 第一次世界大戦終結前に、私と同年配の人のうち半ばが戦死していた。しかし私は彼らの死を目撃したわけではない。想像に最も深い感銘を与え、そして記憶に最も執拗に残るのは、自分の目で見たものである。したがって、戦争のことを考えるときにいつでも、私の見たもののうち心に最もはっきりきわだっている二つの記憶は、死んだ友の顔ではない。わたしには他人であった三人の人の顔である。

 1915年、ロンドンで戦争関係の仕事をするためにオックスフォードを去ってからまもなく、私はある用事でホワイトホールの陸軍省へ行かされた。入りがけに正面の掲示板が目についた。そこには最近戦死の公報が入った将校の一覧表が張ってあった。この瞬間二人の婦人が私のそばを過ぎた。彼女たちはある人の死のしらせを掲示板で読んだばかりだったのだ。一人ははげしく泣いていた。もう一人は早口の強い語調でしゃべっていたーーまるで、いそいでしゃべれば、自分の連れがこうむったむごい損失に追いついて、おそらくそれを取り戻すことができる、とでもいうように。今日でも、あの二人の気の毒な婦人の顔を、あの日現実に見たのと同じくらいはっきりと心の目でみることができる。あの恐ろしい悲しみの原因となった悪しき制度を廃止するために、私はまだ命のある間に働かねばならぬ。

 私が見たもので覚えている第二のものは、1921年3月にイエニュ〔小アジア北西の部落。1919年ー22年のギリシャ・トルコ戦争で、トルコ軍が二度にわたってギリシャ侵入軍を撃退した所〕での戦闘で戦死した若いギリシャ兵の死体である。死体は硬直し、顔色はろうのようであった。額に弾丸が貫通した跡は、一つの命をたちどころに消してしまうにはあまりにも小さな原因のように思われた。死体は、この少年の隊が急襲していた尾根の頂上にあるトルコ軍の塹壕から数ヤード下に横たわっていた。塹壕の中には、ギリシャ軍の砲火によって恐ろしく痛めつけられたトルコの農民ーー勇敢な「戦陣を張った農夫」〔アメリカの詩人エマソンアメリカ独立戦争を歌った「コンコード賛歌」の中にある語句〕ーーの死体があった。この若い人々はーーギリシャ人もトルコ人もーー皆母親の産みの苦しみを経てこの世にうまれ、愛情をこめて育てられたのだ。だのに今成人しようという矢先に、連れ出されて虐殺された。地上で最も貴重なものをこのように破壊する罪の原因となった悪しき制度を廃止するために、私は働かねばならぬ。

 

 

 

トインビー博士の原点「第一次世界大戦」・・・・戦争と人間

 トインビー博士は、「回想録」の第五章に「チャタムハウスにおける三十三年」と題して、博士が「歴史の研究」「国際問題大観」を平行して執筆していた時代を振り返って書いております。この部分の中に、なぜトインビー博士が全世界、全時代を対象とする真実の世界史、それと平行して全世界の国際問題を総括する年ごとの記録を書こうとされたのか、その動機にあたる心情と思いを吐露されています。

 トインビー博士が創価学会池田大作会長に対話を求める書簡を送られた際、その事実が社会に知られることになった際に巻き起こった批難、「すでに名をなし、社会的にも評価されているトインビー博士が、評価の帰趨もさだかでない、むしろ圧倒的な批難・中傷の対象となっている創価学会池田大作会長と対談をするのか」という友人からの手紙に対して、なぜ対話を希望したのかについての根本的な動機として、「戦争」に対して創価学会が根本的に反対していることを特にあげて、その運動を推進している池田大作会長の人格に対する信頼とともに、返信の中に書いております。

 この「戦争」に対する思いと態度こそ、トインビー史学の根本として設定された「哲学的同時代性」の根底にある心情であると思います。その思いに通じる部分を「回想録」より引用しておきます。

 

p81

1919年のある夕方パリで、その年のパリ講和会議の週末も見えてきた頃、私はマジェスティック・ホテル(イギリス代表団の宿舎)での会合に出席するために顔を出した。この会合へアメリカとイギリスの代表団のうちの臨時の官吏が、皆招かれていたのである・・・・(中略)・・・・行ってみると部屋は混み合っていた。この会合の主唱者は、イギリス代表団の臨時の官吏であるライオネル・カーチス〈1872年生。法学者。王立国際問題研究所の設立者〉であった。ライオネルは行動の天才の持ち主で、この会合を招集したのは、残りの者たちの心の中に形をなしつつあった一つの希望を見越してのことだ、と感じていた・・・・(中略)・・・・

p82

われわれが戦時の経験〈注:第一次世界大戦〉について忘れることができなかったのは、それが啓発的なものであったからである。1914年8月以前のイギリスとアメリカにおいては、世界的な戦争は「昔の話」の中の出来事と思われていたが、その戦争はやはり生きている恐ろしい現実のことであるということをわれわれは学んだ。われわれと同年配のイギリス人で従軍した人々のうち、すくなくとも半数は命を失っていた。そして1914ー18年の恐ろしい大変災が再び起こらないという保証はなかった。再び起こるか否かは、世界の政府と国民が戦後の国際的な諸問題に対処する際の巧拙に左右されるであろう。・・・・(中略)・・・・国際問題は国務省や外務省だけに関係のあることだという主張は、戦後にはもはや正しいものではなかったからである。国際問題はすべての人に関係があるということを、われわれは死傷者の数から学んでいた・・・・(中略)・・・・

p99

〈王立国際問題研究所:Royal Institute of International Affairs、別名チャタムハウス〉評議会は彼の推薦に基づいて、『大観』〈Survey of International Affairs〉を開始し、そして十二ヶ月という期限内でできるかぎり新しいところまで記述を進めるという仕事を、ヘドラム=モーリーが私に与えるのを認可した・・・・(中略)・・・・私はこの最良の資料〈イギリス外務省の文書〉に頼ることはできないまま『大観』の執筆を企てなければならないことを意識しているとともに、私の知的装備の不十分さも意識していた。私が当時も今も最もよく知っている歴史は、ギリシャ・ローマ史である。そしてギリシャにおける「遊歴修行」とその後の戦争関係の仕事のおかげで、現代史に一つの足がかりを得るようになっていたが、これまでのところ、この足がかりは中近東の現代の問題に限られていた。ところが、今や私は現代の国際問題を世界的に大観したものを書く仕事にとりかかろうとしていたのである。ヘドラム=モーリーは私を救い出すために、財政的な手段が見つかるならある種の地域はそれを専門にしている人に請け負わせるとよい、と提案した・・・・(中略)・・・・私は世界的な大観を書くことを引き受けた以上、その全部を自分の手でやりたいと答えた・・・・(中略)・・・・私がそう提案したのは、二つのことを予感したからであった。ヨーロッパは過去四世紀間保持してきた世界における支配的なーそれゆえ中心的なー地位をまもなく失うことになろう、と私は推測した。また人類の歴史において全世界が良かれ悪しかれ合体して単一の社会になる段階にわれわれは入りつつある、とも推測した。この単一の社会においては、これまでほとんど自足的であった地域のそれぞれが他のすべての地域とからみ合い、相互に作用し合うことになろう。もし私のこういう推測が的を得ているとするなら、ヨーロッパもその他の地域も高位の高慢〔『マクベス』二幕四場十二行〕を得ることがないような統一体として書かないかぎり、合体しつつある世界の歴史を書いてこれを理解できるものにすることは不可能であろう。この点を読者に得心してもらうために、私は『大観』の最初数巻に、ヨーロッパでも北大西洋でもなく太平洋を中心にした世界地図をいれたのである

p107

私は人間としてできるかぎり「科学的」な人間事象研究が価値あるものである、と心の底から信じていたし、今でもそう信じている。それゆえ私は、チャタムハウスはその活動を「科学的な研究」に限り、研究所としての政策を持ったりそれを推し進めたりすることは控える、という設立者の決定に、心の底から賛成していた。しかしながら「科学的」な研究は、それを越えた目的を追求するための不可欠の手段であるかもしれないが、その本質からして、それ自体で一つの目的にはなり得ない。科学的な研究が目的ではなくて手段にしかなり得ないのは、人生の究極の目標は研究ではなくて行動だからである。チャタムハウスは「科学的」な研究をするために、研究所としての行動をとることを控えているが、その研究が実際的な価値を持つのは、ただ一つの場合だけであろう。すなわち、この研究所の所産を利用する人々が、チャタムハウスが提供しようとする客観的な知識に照らさないで行動した場合よりも、いっそう賢明で啓発された行動をみずからとれるように、助力するときである。

今私個人について言うなら、二度の世界大戦に生き残り、原子兵器の発明を目にするまで生きてきて、私は自分の生きた時代の国際問題の研究が自分に課した行動について、何の疑いも持っていない。今私は、専門とする仕事において客観性を追求することに献身する歴史家としてはなく、一個の人間、曾祖父、市民として、物を言っているのである。一個の人間としては、わたしは自分の目に映る世界を静かに眺めていることに甘んじることはできない。「世界の本性は、かくのごとき欠陥に満ちているのだ」。私の生きた時代に人間が互いに害悪を与え合うのを私は見てきた。人類がこの害悪をいくぶんでもあらためるのを手伝うために、私としてできる限りのことをしても、その行動の結果はごく微小なものであるかもしれない。しかしそのような行動のための装備と刺激を与えてくれるのでなければ、世界についての私の研究は不毛で無責任なものであった、ということになろう。私と同年配の人々のうちあれほど多くの人の命を途中で絶ちきるという罪を犯した運命に、私の孫たちや曾孫が襲われることのないように、私はできるかぎりのことをしなければならないのだ。

p108

このような時と所に生き、そしてこのような教育と経験を受けてきた私としては、戦争を廃止する方向に向かって私の生きている間にできるかぎりのことをすることに、1914年8月以来とりわけ意を用いてきた。戦争は人間の現存する制度のうち最も悪しきものである。ところがそれは人間が強情にも固くしがみついている制度でもある。1914年には、戦争が奪いうる人命は百万単位にすぎなかった。1945年8月6日以来、戦争は人類を抹殺しそしておそらくはこの地表にももはやいかなる種類の生物も住めないようにさえしてしまうほど、致命的なものになりつつある。「この忌まわしきものを根絶せよ」

 

 

 

 

世界史としてのトインビー史学・・・J.フォークト「世界史の課題」(1961)より

 世界史としての「トインビー史学」に着目し、いち早く著書「世界史の課題」においてとりあげた人がドイツの歴史学者 J.フォークトです。副題に “ランケからトインビーまで” と掲げているように、西欧の歴史学において課題としての「世界史」を追求してきた流れを、近代歴史学の基本を築いたランケから丁寧にたどりながら年代順に取り上げていきます。
 フォークトは1895年に生まれ、ベルリン大学においてローマ史の研究で著名なエドアート・マイヤーに教えを受けました。その後、1923年にチューリンゲン大学の講師としてスタートし、1926年には同大学の古代史の教授に就任し、その後ドイツ国内の大学の教授を歴任しましたが、この「世界史の課題」を発表した時点ではチューリンゲン大学の教授の地位にありました。年齢的にも、同じ古代史の研究者としてもトインビー博士と思いが通じるところがあったのでしょうか、「比較文明学会」の立ち上げにおいては、トインビー博士と一緒に尽力しています。
 全十章からなる本書は、とりあげている名前を列挙してみても、ランケ、ブルクハルト、オーギュスト・コントカール・マルクス、マックス・ヴェーヴァー、カール・ランプレヒト、ニコライ・ダニレーフスキー、エルンスト・トレルチ、アルフレート・ヴェーバー、ピエール・ド・シャルダンカール・ヤスパース、クリストファー・ドーソン、等々。この時点までの西欧文明圏における世界史的探求をほぼもれなく網羅しています。ちなみに全十章のうち、第四章と五章をオスヴァルト・シュペングラーに、第八章と九章をアーノルド・J・トインビーにあてています。出版年は1961年ですが、論述は「世界史」を考える上では現在においても重要な価値を持つ論考であると思います。 
 この著作以後現在までの世界史的取り組みとして評価を受けているのは、トインビー博士の伝記を執筆しているアメリカ合衆国のマクニールの「世界史」、さらに最近で言えば「サピエンス全史」を書いているユヴァル・ノア・ハラリ等が有名ですが、強い反感と賛同が相半ばするトインビー史学に対するような評価は起きていないと感じています。
 J.フォークト「世界史の課題」の中で、トインビー史学を取り上げた部分を引用します。
 
p177 
第一次世界大戦後における学問の状況の特異性は、生の哲学社会学とから、人類的事件の全体のうちに何らかの組織原理を見出そうとする、最初の大きな心みが生まれたことである。専門的歴史科学は、これらの理論に大いに狼狽したが、ようやく、アーノルド・J・トインビーの世界史の体系によって、歴史の概観という、今や自己の領域に燃え移ってきた問題の解決に、乗り出すこととなった。トインビーのこの重大な試みは、広い範囲の知識人に、とりわけアングロ=サクソン系の世界に、大きな影響をあたえたが、さらに、ショペングラーよりも持続的に、歴史科学の国際的な活動を刺激し、今日でも依然として世界史の問題の学問的な討議に支配的な影響をおよぼしている。トインビーは歴史家仲間の間でも専門家と見られる人である。・・・・・・・
 
p179
第一次大戦の勃発した頃、彼はツキヂィデスの史書を研究していた。そして今や、かれの眼には、ギリシャ都市国家の間の闘争は、同じ民族世界、同じ文化世界に所属する諸国家の、内乱のように映じたのである。そこから、かれの心の次のような疑問が起こってきた、ヨーロッパ諸国家の殺戮戦も、本来その諸国民はすべて同一の種族に属しているから、内乱を意味するものではなかろうか。さらにまた、紀元前五世紀のギリシャ世界に進行していた歴史の全経過は、現在は、現在ヨーロッパの内部に起こっている出来事と一致し、したがって、哲学的な意味において、それらはたがいに同時代ではなかろうか、と。
 
p180
そして今や、彼自身が新たに世界史を解釈しようとする計画を抱いたとき、シュペングラーとは方法上異なったやり方で進もうと考えたのある。「私は、ドイツ的なアープリオリの方法がすでに生き詰まった場合にも、イギリス的な経験主義にはそれ以上の何ができるかを、つまり、たがいに排斥しあう二つの可能性が事実の光に照らされたとき、それらが何処までこのような吟味に耐え得るかを、試して見たかったのである」(『試練に立つ文明』)見聞をひろめ、重要な事実に精通する機会に不足ななかった。トインビーは、イギリス国際問題研究所(the Royal Institute of International Affairs)の協力者となり、年鑑『国際問題の概観 Survey of International Affairs』を数年度にわたった主宰することによって、世界政策の諸問題に通暁するようになった。さらに、第二次大戦中には、からは外務省調査局の仕事を担当した。こうして、かれの経験の範囲は古代文化から現代史にまで拡大されていったのである。
 
p183
古代ギリシャ=ローマ文化――トインビーの表現にしたがえばヘレニック社会(Hellenic Society)――は、古クレタのミノス文明の遺産から生まれ、前九世紀から五世紀までのギリシャ人の業績にうかがわれるように、急速な成長を遂げる。ギリシャ人は、さしあたり村落を都市に、さらに都市国家に、まとめることによって、その定住地を確保する。次いで、その増大する人口のために、地中海海域への植民を通じて、あらたな活動領域を開拓する。そして、植民が四囲の世界の抵抗に遭って行き詰まったときには、すでにかれらは、経済革命によって、つまり農業の集約化と輸出産業の創出によって、新たな生の可能性を獲得していたのである。最後に、彼らはペルシャ人の攻撃を、多くの都市国家の間に結ばれた同盟によって、また共同防衛の組織化によって阻止する。四度にわたる四囲の世界の挑戦も、ギリシャ人の創造的な改革によって、見事に応戦されたのである。けれども、その後に、かれらの文化〔=文明〕に危機が到来する。ペロポネソス戦争はこの社会の曲がり角と見られなければならない。広大な世界に散在するギリシャに、国際的な組織を基礎とする、政治的な統合をあたえるという課題に直面した時、指導的地位にあった政治家たちはみずからの無能をさらすことになったのである。さらにまた、覇権を握る都市国家は、自分自身がどうしようもない障害物であることを、暴露した。アテナイは、たしかに過去においては偉大な都市連合を成就したが、今度はその覇権を専制へと堕落させた。都市国家相互間に闘争が発生し、ペロポネソス戦争ギリシャ社会の内乱となった。こうして、アレクサンダー大王によっても食い止められなかった、衰亡は開始された。この沈みゆく文化世界に、ローマ人によって、はじめて世界国家があたえられた。そしてその上に、かなり長い時期にわたって、安寧が保たれた、とはいえ、ローマ人たちもまた、かれれの不断の統制によっても、各都市から自治権をうばうことはできなかったのである。
 
略言すれば、世界組織の創造に努力する(ヘレニック文明)の歴史は、ペリクレス時代の春の日差しの中にも、またアントニウス時代の小春日和の陽光の中にも、常に暗い陰のつきまとう、一編の悲劇である〈「歴史の研究」原本第四巻、p214〉」
 
最後に、崩壊の過程が続くー内部的には、国家と文化〔=文明〕とから人口のかなりの部分が精神的に離れてゆくことによって、また外部的には、文化〔=文明〕領域から刺激と恩恵をわけあたえられるだけではもはや満足しなくなった、異民族が来襲することによって。
とはいえ、徹頭徹尾人間のドラマとして論じられたこの古代ギリシャ=ローマ(ヘレニック文明)の社会劇が、はたして、現に伝わる個々の史実に合致しているかどうかは、疑問である。だが、今のところは、まだこの問題はとりあげないでおこう。それよりも、ここにすでに明らかなことは、古代史たちの研究から得られたこのモデルが、歴史世界のもろもろの文化〔=文明〕をあつかったトインビーの理論全体を大幅に規定しているという事実である。たしかにトインビーは、古代ギリシャローマ文化(ヘレニック文明)以外の歴史過程からも、驚くべきほどに豊富で詳細な資料を収集している。それに加えてかれは、今世紀になってから世界的規模にまだ拡大された政治の舞台に、また一般に現実の諸問題に精通しており、そのことはかれにとって有利な条件となっている。だが、それにもかかわらず、彼の思想を結実させたものは、このような歴史的認識だけではなかった。さらにそこに働くものとしては詩人的な直覚、神話的な諸形象、諸世界宗教からの啓示さえもが、考慮に入れられなければならないだろう。ゲーテファウストベルグソン哲学、聖書、さらに極東の聖教すらも、かれの自家薬籠中のものだった。したがって、トインビーのたぐい稀な才能は、豊富な学識、生き生きとした空想力、そしてまた総合への烈しい衝動を本質的特性としていたのである。
 
 

「歴史家トインビー」 鈴木成高

「トインビー・人と史観」より 1957年・社会思想社
 
 
「歴史家トインビー」 鈴木成高
p14.L12 ・・・距離のなかには、トインビー史学におけるもっとも本質的なもののひとつである「視野」の問題が含まれている。トインビー史学は歴史学のなかに視野の革命をひっさげて登場してきたものにほかならない。視野は空間に向かって拡がるだけでなく、時間に向かっても拡がるものである。歴史は要するに、ベルトラムが言ったように遠近法である。そしてトインビー史学は歴史に新しい遠近法を打ち立てようするものに他ならない。
 
p17.L12・・・歴史家仲間のあいだでわれわれがしばしば耳にする言葉は、トインビーは「一個の文明批評家であって歴史家ではない」という批評である。たしかにそうもいえるであろう。伝統的な職業的歴史家だけが歴史家であるとするならば、トインビーは歴史家ではないであろう。しかしまたひるがえっていうならば、トインビーを歴史家でないというそのあまりにも歴史家的な歴史家たちが、実はもはや時代からとり残されつつあるのかもしれない。そこに「新しい歴史家」の可能なるひとつのタイプを示すものとして、トインビーの存在が大きく浮かび上がっていると言わねばならないのかもしれない。職業的歴史家の伝統的なアカデミズムはすでに半世紀前からひとつの根本的な行き詰まりに直面している。歴史主義の危機と呼ばれているものがそれである。・・・(中略)・・・
だからトインビーを歴史家でないというだけでは、事柄は少しも片づかない。アマチュアが専門家より多くの存在理由を持つかも知れないような大きな転換期のなかにわれわれは立っているのである。私は先ずこの意味においてトインビー史学の性格を偉大なるアマチュア史学として規定しておきたい。ちょうど先に文明批評家としての彼を偉大なる傍観者と呼んだとおなじように。
 
p20.L12・・・トインビー史学もまた、彼が二十五歳の青年として、第一次世界大戦に直面したところから発せられた、世界への問いから出発している。人類はじまって以来初めての世界戦争において、彼は自分がイギリスにいるのではなく世界のなかにいるのだということを発見した。「イギリスにいるのではなく、世界のなかにいる。」・・・(中略)・・・世界はこのとき突然トインビーの目の前にひとつの問いとなって立ち現れてきた。「視野の革命」はそこに始まったのである。爾来四十年間、彼はこの素朴な問いを執拗にいだき続けて、既成の学会から完全に無視されながら、完全にただ独りで、自分だけの道を歩んできたのである。・・・(中略)・・・この四十年間の探究は、彼の頭脳に驚異的な知識を蓄積させた。いま多くのひとはこの蓄積に敬意を表し、そのあらわれとしての該博さと視野の広さを賞賛する。しかし本末を顛倒してはならない。彼の世界史は該博さの結果として到達されたものでなく、逆に世界への問いが該博さをもたらしたものであったのである
 このようにトインビー史学は、世界戦争という人類未曾有の体験を彼が二十五歳の若さで、世界への問いとして受け止めたということから出発している。いいかえれば、それは生きた歴史との対決からきているのであって、出来合いのアカデミズムからきたものではなかった。生の対決からであって、死せる知識の集積からではなかった。そこにトインビー史学のもっとも重要な性格がひそんでいることを見逃してはならない。・・・