トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

トインビー博士の「戦争」廃止への思い

 トインビー博士の全ての著作を通して、通奏低音のように一貫して流れ、時には学者としての客観性をあえて越えても主張されているのが、「戦争」廃止への強い思いです。 

 このブログの中では、「哲学的同時代性」というトインビー史学の根幹を構成する原理の発想の基盤として紀元前5世紀のペロポネソス戦争の勃発の際のツキディデスの思いを追体験できるほど骨肉化していた古典古代への傾倒、一方でトインビー博士自身が25歳の時体験した1914年8月の第一次世界大戦の勃発が、トインビー博士の内面で働く様子をみてきました。

 しかし、さらに具体的な体験を通して、「戦争」廃止への思いを強く語っているのがつぎに引用する部分です。「予定した仕事は全ておわった」とこの回想録出版の時点で語っておられるトインビー博士が、このあと最後の仕事として、高等宗教である大乗仏教の現代世界における実践団体である創価学会池田大作会長との対談を、批難中傷を覚悟しても敢えて求められたのは、この引用の最後の部分にあるトインビー博士の強い決意が原動力であると思えてなりません。

 

回想録 p109

 私は運命のいたずらによって第一次世界大戦のときには軍務に適さなかったが、1914年8月以降戦争の悪と直面してきた。1914年8月以前には、イギリスは数多くの「小さな戦争」ーーしかも侵略的な小戦争ーーをおこなっていたので、われわれにその気がありさえすれば目が開かれてしかるべきであった。ところがほとんどの者はこの悪に対して倫理的に鈍感であった。例外はただクエーカー教徒だけであった。もしわれわれがまだ盲目でなかったのなら、両親は私がおもちゃの大砲で錫の兵隊を打ち倒して殺すような遊びを決してさせなかったろう。また私自身もこういう不愉快な遊び楽しむことは決してなかったことであろう。〈回想録のなかでトインビー博士の子供時代、錫の兵隊人形で遊ぶ記述がでてくる〉1914年8月以来は、われわれが盲目なのは救いようのない無知のためだ、と言ってすますわけにはいかないのである。

 第一次世界大戦終結前に、私と同年配の人のうち半ばが戦死していた。しかし私は彼らの死を目撃したわけではない。想像に最も深い感銘を与え、そして記憶に最も執拗に残るのは、自分の目で見たものである。したがって、戦争のことを考えるときにいつでも、私の見たもののうち心に最もはっきりきわだっている二つの記憶は、死んだ友の顔ではない。わたしには他人であった三人の人の顔である。

 1915年、ロンドンで戦争関係の仕事をするためにオックスフォードを去ってからまもなく、私はある用事でホワイトホールの陸軍省へ行かされた。入りがけに正面の掲示板が目についた。そこには最近戦死の公報が入った将校の一覧表が張ってあった。この瞬間二人の婦人が私のそばを過ぎた。彼女たちはある人の死のしらせを掲示板で読んだばかりだったのだ。一人ははげしく泣いていた。もう一人は早口の強い語調でしゃべっていたーーまるで、いそいでしゃべれば、自分の連れがこうむったむごい損失に追いついて、おそらくそれを取り戻すことができる、とでもいうように。今日でも、あの二人の気の毒な婦人の顔を、あの日現実に見たのと同じくらいはっきりと心の目でみることができる。あの恐ろしい悲しみの原因となった悪しき制度を廃止するために、私はまだ命のある間に働かねばならぬ。

 私が見たもので覚えている第二のものは、1921年3月にイエニュ〔小アジア北西の部落。1919年ー22年のギリシャ・トルコ戦争で、トルコ軍が二度にわたってギリシャ侵入軍を撃退した所〕での戦闘で戦死した若いギリシャ兵の死体である。死体は硬直し、顔色はろうのようであった。額に弾丸が貫通した跡は、一つの命をたちどころに消してしまうにはあまりにも小さな原因のように思われた。死体は、この少年の隊が急襲していた尾根の頂上にあるトルコ軍の塹壕から数ヤード下に横たわっていた。塹壕の中には、ギリシャ軍の砲火によって恐ろしく痛めつけられたトルコの農民ーー勇敢な「戦陣を張った農夫」〔アメリカの詩人エマソンアメリカ独立戦争を歌った「コンコード賛歌」の中にある語句〕ーーの死体があった。この若い人々はーーギリシャ人もトルコ人もーー皆母親の産みの苦しみを経てこの世にうまれ、愛情をこめて育てられたのだ。だのに今成人しようという矢先に、連れ出されて虐殺された。地上で最も貴重なものをこのように破壊する罪の原因となった悪しき制度を廃止するために、私は働かねばならぬ。