トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

トインビー博士の原点「第一次世界大戦」・・・・戦争と人間

 トインビー博士は、「回想録」の第五章に「チャタムハウスにおける三十三年」と題して、博士が「歴史の研究」「国際問題大観」を平行して執筆していた時代を振り返って書いております。この部分の中に、なぜトインビー博士が全世界、全時代を対象とする真実の世界史、それと平行して全世界の国際問題を総括する年ごとの記録を書こうとされたのか、その動機にあたる心情と思いを吐露されています。

 トインビー博士が創価学会池田大作会長に対話を求める書簡を送られた際、その事実が社会に知られることになった際に巻き起こった批難、「すでに名をなし、社会的にも評価されているトインビー博士が、評価の帰趨もさだかでない、むしろ圧倒的な批難・中傷の対象となっている創価学会池田大作会長と対談をするのか」という友人からの手紙に対して、なぜ対話を希望したのかについての根本的な動機として、「戦争」に対して創価学会が根本的に反対していることを特にあげて、その運動を推進している池田大作会長の人格に対する信頼とともに、返信の中に書いております。

 この「戦争」に対する思いと態度こそ、トインビー史学の根本として設定された「哲学的同時代性」の根底にある心情であると思います。その思いに通じる部分を「回想録」より引用しておきます。

 

p81

1919年のある夕方パリで、その年のパリ講和会議の週末も見えてきた頃、私はマジェスティック・ホテル(イギリス代表団の宿舎)での会合に出席するために顔を出した。この会合へアメリカとイギリスの代表団のうちの臨時の官吏が、皆招かれていたのである・・・・(中略)・・・・行ってみると部屋は混み合っていた。この会合の主唱者は、イギリス代表団の臨時の官吏であるライオネル・カーチス〈1872年生。法学者。王立国際問題研究所の設立者〉であった。ライオネルは行動の天才の持ち主で、この会合を招集したのは、残りの者たちの心の中に形をなしつつあった一つの希望を見越してのことだ、と感じていた・・・・(中略)・・・・

p82

われわれが戦時の経験〈注:第一次世界大戦〉について忘れることができなかったのは、それが啓発的なものであったからである。1914年8月以前のイギリスとアメリカにおいては、世界的な戦争は「昔の話」の中の出来事と思われていたが、その戦争はやはり生きている恐ろしい現実のことであるということをわれわれは学んだ。われわれと同年配のイギリス人で従軍した人々のうち、すくなくとも半数は命を失っていた。そして1914ー18年の恐ろしい大変災が再び起こらないという保証はなかった。再び起こるか否かは、世界の政府と国民が戦後の国際的な諸問題に対処する際の巧拙に左右されるであろう。・・・・(中略)・・・・国際問題は国務省や外務省だけに関係のあることだという主張は、戦後にはもはや正しいものではなかったからである。国際問題はすべての人に関係があるということを、われわれは死傷者の数から学んでいた・・・・(中略)・・・・

p99

〈王立国際問題研究所:Royal Institute of International Affairs、別名チャタムハウス〉評議会は彼の推薦に基づいて、『大観』〈Survey of International Affairs〉を開始し、そして十二ヶ月という期限内でできるかぎり新しいところまで記述を進めるという仕事を、ヘドラム=モーリーが私に与えるのを認可した・・・・(中略)・・・・私はこの最良の資料〈イギリス外務省の文書〉に頼ることはできないまま『大観』の執筆を企てなければならないことを意識しているとともに、私の知的装備の不十分さも意識していた。私が当時も今も最もよく知っている歴史は、ギリシャ・ローマ史である。そしてギリシャにおける「遊歴修行」とその後の戦争関係の仕事のおかげで、現代史に一つの足がかりを得るようになっていたが、これまでのところ、この足がかりは中近東の現代の問題に限られていた。ところが、今や私は現代の国際問題を世界的に大観したものを書く仕事にとりかかろうとしていたのである。ヘドラム=モーリーは私を救い出すために、財政的な手段が見つかるならある種の地域はそれを専門にしている人に請け負わせるとよい、と提案した・・・・(中略)・・・・私は世界的な大観を書くことを引き受けた以上、その全部を自分の手でやりたいと答えた・・・・(中略)・・・・私がそう提案したのは、二つのことを予感したからであった。ヨーロッパは過去四世紀間保持してきた世界における支配的なーそれゆえ中心的なー地位をまもなく失うことになろう、と私は推測した。また人類の歴史において全世界が良かれ悪しかれ合体して単一の社会になる段階にわれわれは入りつつある、とも推測した。この単一の社会においては、これまでほとんど自足的であった地域のそれぞれが他のすべての地域とからみ合い、相互に作用し合うことになろう。もし私のこういう推測が的を得ているとするなら、ヨーロッパもその他の地域も高位の高慢〔『マクベス』二幕四場十二行〕を得ることがないような統一体として書かないかぎり、合体しつつある世界の歴史を書いてこれを理解できるものにすることは不可能であろう。この点を読者に得心してもらうために、私は『大観』の最初数巻に、ヨーロッパでも北大西洋でもなく太平洋を中心にした世界地図をいれたのである

p107

私は人間としてできるかぎり「科学的」な人間事象研究が価値あるものである、と心の底から信じていたし、今でもそう信じている。それゆえ私は、チャタムハウスはその活動を「科学的な研究」に限り、研究所としての政策を持ったりそれを推し進めたりすることは控える、という設立者の決定に、心の底から賛成していた。しかしながら「科学的」な研究は、それを越えた目的を追求するための不可欠の手段であるかもしれないが、その本質からして、それ自体で一つの目的にはなり得ない。科学的な研究が目的ではなくて手段にしかなり得ないのは、人生の究極の目標は研究ではなくて行動だからである。チャタムハウスは「科学的」な研究をするために、研究所としての行動をとることを控えているが、その研究が実際的な価値を持つのは、ただ一つの場合だけであろう。すなわち、この研究所の所産を利用する人々が、チャタムハウスが提供しようとする客観的な知識に照らさないで行動した場合よりも、いっそう賢明で啓発された行動をみずからとれるように、助力するときである。

今私個人について言うなら、二度の世界大戦に生き残り、原子兵器の発明を目にするまで生きてきて、私は自分の生きた時代の国際問題の研究が自分に課した行動について、何の疑いも持っていない。今私は、専門とする仕事において客観性を追求することに献身する歴史家としてはなく、一個の人間、曾祖父、市民として、物を言っているのである。一個の人間としては、わたしは自分の目に映る世界を静かに眺めていることに甘んじることはできない。「世界の本性は、かくのごとき欠陥に満ちているのだ」。私の生きた時代に人間が互いに害悪を与え合うのを私は見てきた。人類がこの害悪をいくぶんでもあらためるのを手伝うために、私としてできる限りのことをしても、その行動の結果はごく微小なものであるかもしれない。しかしそのような行動のための装備と刺激を与えてくれるのでなければ、世界についての私の研究は不毛で無責任なものであった、ということになろう。私と同年配の人々のうちあれほど多くの人の命を途中で絶ちきるという罪を犯した運命に、私の孫たちや曾孫が襲われることのないように、私はできるかぎりのことをしなければならないのだ。

p108

このような時と所に生き、そしてこのような教育と経験を受けてきた私としては、戦争を廃止する方向に向かって私の生きている間にできるかぎりのことをすることに、1914年8月以来とりわけ意を用いてきた。戦争は人間の現存する制度のうち最も悪しきものである。ところがそれは人間が強情にも固くしがみついている制度でもある。1914年には、戦争が奪いうる人命は百万単位にすぎなかった。1945年8月6日以来、戦争は人類を抹殺しそしておそらくはこの地表にももはやいかなる種類の生物も住めないようにさえしてしまうほど、致命的なものになりつつある。「この忌まわしきものを根絶せよ」