トインビー博士にとっての戦争 回想禄Ⅰより
トインビー博士にとっての戦争とは、単なる歴史的な事件事象のレベルを超えて、その廃止を心の底から決意することによって、トインビー博士の生涯の転機と学問上の進化・変化を動機づける本当に重要な契機になっていると思います。その内容を回想禄1の中から引用します。
トインビー博士の最初の著作
本日、国立国会図書館の抽選当選日。この日に合わせて国会図書館の関西館から取り寄せてもらったトインビー博士の1910年代から1920年代の著作を閲覧しました。最初の著作は、トインビー博士の最初の著作で、1915年に刊行された「 Nationality & the war」です。第一次世界大戦中であり、前年の大戦勃発の際の有名な「ツキディデス体験」の翌年、トインビー博士26歳の著作です。今まで、さまざまな論文、著作の中でまだ「文明」中心の思考に入る前の「国家」中心の視点の著作の例としてあげられていましたので、そのように内容の著作と思っていましたが、実際に手にとってみると実は500頁に及ぶ大著であり、要所には精密な地図が織り込んであり、内容的にも大変に深い著作でした。第一次世界大戦開戦2年目の1915年におけるドイツ帝国の分析、ロシア帝国の分析、オスマントルコ帝国の分析が綿密になされており、パンゲルマン主義、パンスラブ主義、パンイスラム主義の分析も的確で、あらためてトインビー博士の学者としてのレベルの高さを示す内容でした。「国家」中心というよりも、すでに期せずして「文明」単位の分析が進んでいる内容でした。今まで、言われてきた 「 Nationality & the war」の内容を考え直す必要があると感じる大著でした。
二冊めは1922年に刊行された「The Western question in Greece and Turkey」です。この著作は、トインビー博士がロンドン大学から追われる原因となったマンチェスターガーディアンへの寄稿記事の取材をするために行った、1921年のギリシャ、トルコ への視察 の綿密な記録で、これも500頁近い大著でした。日を追った綿密な記録も掲載されており、内容的にも深く、あらためてギリシャ・トルコの専門家としてのトインビー博士の力量を見ることができた思いです。この視察の帰途、イスタンブールから乗ったオリエント急行の車内で「歴史の研究」の目次を書きとどめられ、それが30年後に完成した内容とまったく変わらないということも有名な話ですが、「文明」中心に世界史を記述しようと決意し、実行に取りかかるきっかけを得た旅行の内容を知る上で大事な著作であると思います。
三冊目は1925年に刊行された「The World after the Peace Conferrence」です。この著作はトインビー博士がロンドン大学を追われたあと、王立国際問題研究所に職を得て、取り組んだ「国際問題大観」の序文として書いたものが、大変に優れた国際関係の分析となっており、関係者の推薦もあり、その部分をあらためて書籍として発行したものです。この著作には、国際関係論におけるトインビー博士の見識と力量が見事に表現されており、素晴らしい著作であると思います。このあと、トインビー博士はベロニカさんとの共同作業で「国際問題大観」、夏の期間は「歴史の研究」と並行して著作をあらわして行きます。
これら、三冊の著作は、トインビー博士の生涯にわたる業績の中で、重要な転換点を準備するものとして、今後しっかりと研究していきます。
2021年第一回本部幹部会への池田先生のメッセージとトインビー史観
トインビー史観を貫くもの
トインビー博士の歴史観というと、即座に「文明」中心もしくは「高等宗教」中心の歴史観という答えが返ってきます。「20世紀最大の歴史家」と高く評価する声がある一方、専門家を自任する歴史学者の中からは、「アマチュア歴史家」「文明の墓掘り人」等、きわめて感情的で厳しい評価をする人が数多く存在します。大著「歴史の研究」の最終巻が刊行され全貌が明らかになった1950年代以降、一般の人々からの評判が高くななることと反比例して、感情的で否定的な評価が強くなっていきました。その後、1975年に死去されるまで、特に日本においては朝日、毎日、読売、日経などの新聞の新年の紙面等に、時代を分析し未来を展望するトインビー博士の寄稿が掲載されてきた。その名前は、老若男女を問わずほとんどの人の脳裏に収まっていると言って良い。まもなく死後50年の節目が、2025年にはやってくる。現在の時点でトインビー博士の歴史観は、どのように受け止め、評価することができるであろうか。そしてその評価の意義とは何であろうか。既存の歴史学の世界においては、トインビー博士を無視し続けており、現在のアカデミズムの世界にはトインビー史学はない。しかし、現在もなお評価し続けているのが創価学会である。老齢で世界への旅行が難しくなっていたトインビー博士が自ら手紙を書き、訪英と対談を提案され、その提案に応ずる形で、5月の時期を選んで、1972年、1973年と二年と続けて対談を実現した当時40代の創価学会の若きリーダー、池田大作。その対談の内容は日本語版は「21世紀への対話」、英語版は「Choose Life」と題されて出版され、創価学会の世界への発展と連動して、その後世界26言語に翻訳され出版されている。池田大作氏はその後、モスクワ大学、北京大学、等の当時共産圏に属していた大学をはじめとして、アメリカのハーバード大学、カリフォルニア大学、ボローニア大学等の欧米の大学に招待され、講演している。さらに世界300をこえる大学、学術機関から名誉学術称号を受けている。2021年1月2日の段階で93歳になった池田大作氏。その生涯の、日本人としては驚異的な世界の学術界からの評価と顕彰は、その淵源をたどると間違いなくトインビー博士との対談、その内容を収めて出版された「21世紀への対話」(「Choose Life」)にたどり着く。その事実は、この世界での講演、顕彰の場で語られる推薦の言葉の中に明確である。20世紀後半から21世紀にかけての世界の中で、この客観的事実は重要な意味を持つ。しかし特に日本においては、この事実はマスコミ等を通じて表にでることはなく、大部分の日本人は、創価学会の指導者としての池田大作としては認識しているが、世界での客観的な評価は知らないし、知っていても、あえて故意に無視しようとしている。このような奇妙な状況がまだ続いている。
一方、世界の学術機関からの評価は高い。特に「核の時代」に入り、一歩方向を間違えれば全人類の滅亡もあり得る状況の中で、世界全人類の平和と安穏を願う心ある指導者、知識人はこぞって「21世紀への対話」(「Choose Life」)に語られ、記録されている、人類の方向を示す英知と慈愛の言葉に対して、賛同と共感の思いを表明している。
世界史教育とトインビー博士の歴史観
私が東京教育大学の西洋史を卒業して、創価学園に奉職したのは、昭和48年の4月のことであった。それ以後、中学・高校の社会科教諭として、主に世界史を中心に授業を持つことになった。以後、定年退職後の管理職の時代を含めて45年近く教壇に立って世界史を教えることになった。大学時代の履修科目として日本史、東洋史、専門科目として西洋史の各時代を学ぶことにはなったが、教壇に立ってみる生徒が興味を持って歴史の世界に入ってくるまでの内容を持つ授業を毎日行うことは、さらにそれぞれの時代の内容に深く立ち入る事前の予習と組み立てが必要であり、連日、授業研究に必死に取り組むことになった。その際、必要な資料、文献の量はかなり多く、必死に取り組んでも、実体は自転車操業と言っても過言ではなく、とくに20代の後半はほとんどそのような日々であった。
日本において、世界史という科目は第二次世界大戦後の戦後教育の中で成立した科目であり、戦前の国史が日本史となり、西洋史、東洋史が合体して世界史となった科目であり、世界史としての学問的な基礎があるわけではなく、必要に迫られて折衷案として生み出された科目といっても過言ではない。しかも、大学における歴史学はあくまでも科学的という名のもとの個別実証を中心とする歴史学であり、世界観に基づく歴史学は、カール・ポッパーが「歴史主義の貧困」の中で糾弾したマルクス主義史観など、今度は思想で現実を歪曲するような類の歴史観であり、多数の青年男女をその運動の中に吸収してきたが、結局は様々な矛盾から悲劇を招来するような歴史観であった。
人類は、16世紀の西欧人の世界進出以来、紆余曲折はあったが、世界の一体化にむけての動きを歩んだきた。特に産業革命以後の科学技術の生産活動への応用は、世界の一体化への動きを促進し、20世紀から21世紀に入ってその動きは一段と加速している。特にインターネットの発達は、情報面では人類を瞬時につなぐことを可能にしている。
まさに「世界史」「人類史」が強く求められる時代に入っている。