トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

トインビー博士にとっての戦争 回想禄Ⅰより

トインビー博士にとっての戦争とは、単なる歴史的な事件事象のレベルを超えて、その廃止を心の底から決意することによって、トインビー博士の生涯の転機と学問上の進化・変化を動機づける本当に重要な契機になっていると思います。その内容を回想禄1の中から引用します。

チャタムハウスにおける33年より
p107
私にとって『大観』の執筆が知的のみならず倫理的にも満足すべきものであったということはどういう意味なのか。国際的な出来事を客観的非個人的に研究していく、という意味において「科学的」であることを意図した仕事に、倫理的な満足がどうしてあり得たのか。『大観』を執筆するに当たって、私個人の希望と恐れや、正邪についての私の判断が、記述に影響を与えることのないよう、私は全力を尽くした。そしてこの目的を達成していないということに気づいた場合には、読者が私の偏見に気づいてこれを割引きして考える助けになるように、自分の手の内を見せるために最善を尽くした。(人間事象を研究する者で、個人的な偏見に影響されずに研究できると想像する人は、誰であれ間違っている。人間事象を研究する者にできることは、せいぜい自分の偏見を看破してこれを明らかにすることだけである。)
 
チャタムハウスにおける33年より
p107
私にとって『大観』の執筆が知的のみならず倫理的にも満足すべきものであったということはどういう意味なのか。国際的な出来事を客観的非個人的に研究していく、という意味において「科学的」であることを意図した仕事に、倫理的な満足がどうしてあり得たのか。『大観』を執筆するに当たって、私個人の希望と恐れや、正邪についての私の判断が、記述に影響を与えることのないよう、私は全力を尽くした。そしてこの目的を達成していないということに気づいた場合には、読者が私の偏見に気づいてこれを割引きして考える助けになるように、自分の手の内を見せるために最善を尽くした。(人間事象を研究する者で、個人的な偏見に影響されずに研究できると想像する人は、誰であれ間違っている。人間事象を研究する者にできることは、せいぜい自分の偏見を看破してこれを明らかにすることだけである。)
 
p107
今私個人について言うなら、二度の世界大戦に生き残り、原子兵器の発明を目にするまで生きてきて、私は自分の生きた時代の国際問題の研究が自分に課した行動について、何の疑いも持っていない。今私は、専門とする仕事において客観性を追求することに献身する歴史家としてではなく、一個の人間、曾祖父、市民として、物を言っているのである。一個の人間としては、私は自分の目に映る世界を静かに眺めていることに甘んじることはできない。「世界の本性は、かくのごとき欠陥に満ちているのだ」(ルクレティウス『事物の本性について』二巻181行)。私の生きた時代に人間が互いに害悪を与え合うのを私は見てきた。人類がこの害悪をいくぶんでもあらためるのを手伝うために、私としてできるかぎりのことをしても、その行動の結果はごく微小なものであるかもしれない。しかしそのような行動のための装備と刺激を与えてくれるのではなければ、世界についての私の研究は不毛で無責任なものであった、ということになろう。私と同年配の人々のうちあれほど多くの人の命を途中で絶ちきるという罪を犯した運命に、私の孫たちや曾孫が襲われることのないように、私はできるかぎりのことをしなければならないのだ
 
p108
 このような時と所に生き、そしてこのような教育と経験を受けてきた私としては、戦争を廃止する方向に向かって私の生きている間にできるかぎりのことをすることに、1914年8月以来とりわけ意を用いてきた。戦争は人間の現存する一切の制度のうち最も悪しきものである。ところがそれは人間が強情にも固くしがみついている制度でもある。1914年には、戦争が奪いうる人命は百万単位にすぎなかった。1914年8月6日以来、戦争は人類を抹殺しそしておそらくはこの地表にもはやいかなる種類の生物も住めないようにさえしてしまうほど、致命的なものになりつつある。「この忌まわしきものを根絶せよ。」(ヴォルテールの言葉)
 私は運命のいたずらによって第一次世界大戦のときには軍務に適さなかったが、1914年8月以降戦争の悪と直面してきた。1914年8月以前には、イギリスは数多くの「小さな戦争」――しかも侵略的な小戦争――をおこなっていたのので、われわれにその気がありさえすれば目が開かれてしかるべきであった。ところがほとんどの者はこの悪に対して倫理的に鈍感であった。例外はただクエーカー教徒だけであった。もしわれわれがまだ盲目でなかったのなら、両親は私がおもちゃの大砲で錫の兵隊を打ち倒して殺すような遊びを決してさせなかったろう。また私自身もこういう不愉快な遊びを楽しむことは決してなかったことであろう。1914年8月以来は、われわれが盲目なのは救いようのない無知のためだ、と言ってすますわけにはゆかないのである。
 
p109
第一次世界大戦終結前に、私と同年輩の人のうち半ばが戦死していた。しかし私は彼らの死を目撃したわけではない。想像に最も深い感銘を与えそして最も執拗に残るのは、自分の目で見たものである。したがって、戦争のことを考えるときにいつでも、私の見たもののうち心に最もはっきりきわだっている二つの記憶は、死んだ友の顔ではない。私には他人であった三人の人の顔である。
1915年、ロンドンで戦争関係の仕事をするためにオックスフォードを去ってからまもなく、私はある用事でホワイトホールの陸軍省へ行かされた。入りがけに正面の掲示板が目についた。そこには最近戦死の公報が入った将校の一覧表が張ってあった。この瞬間二人の婦人が私のそばを過ぎた。彼女たちはある人の死のしらせを掲示板で読んだばかりだったのだ。一人ははげしく泣いていた。もう一人は早口の強い語調でしゃべっていた――まるで、いそいでしゃべれば、自分の連れがこうむったむごい損失に追いついておそらくそれを取り戻すことができる、とでもいうように。今日でもあの二人の気の毒な婦人の顔を、あの日現実に見たのと同じくらいはっきりと心の目で見ることができる。あの恐ろしい悲しみの原因となった悪しき制度を廃止するために、私はまだ命のある間に働かねばならぬ。
 
p110
私が見たもので覚えている第二のものは、1921年3月にイネニュでの二度目の戦闘で戦死した若いギリシャ兵の死体である。死体は硬直し、顔色はろうのようであった。額に弾丸が貫通した跡は、一つの命をたちどころに消してしまうにはあまりにも小さな原因のように思われた。死体は、この少年の隊が急襲していた尾根の頂上にあるトルコ軍の塹壕から数ヤード下に、横たわっていた。塹壕の中には、ギリシャ軍の砲火によって恐ろしく痛めつけられたトルコの農民――勇敢な「戦陣を張った農夫」――の死体があった。この若い人々は――ギリシャ人もトルコ人も――皆母親の生みの苦しみを経てこの世に生まれ、愛情をこめて育てられたのだ。だのに今成人しようという矢先に、連れ出されて虐殺された。地上で最も貴重なものをこのように破壊する罪の原因となった悪しき制度を廃止するために、私は働かねばならぬ
 
p110
戦争を廃止するために働くには、私がおこなったよりもいっそう直接的な方法がある。チャタムハウスの『国際問題大観』を執筆するの三十三年を費やす代わりに、国際連盟国際連合の職員になることを志願してもよかったはずだ。しかし知的な仕事は、それ自体本質的な価値を有していることを別としても、行動のための必要な基盤である、と私は信じているので、あくまで『大観』を続けることによってわれわれの時代の(いや実際のところ戦争が始まって以来のあらゆる時代の)主たる害悪の正体をあばくのを手伝っていることになる、と私は常に感じていた。そればかりではない。この悪しき制度がそれを作り出したわれわれを抹殺する前に、それを抑制しようとするのを手伝っているのだ、ということもつねに感じていあのである
 
p111
戦争に対する私個人の戦いにおいては、私は全面廃止論者である。私は絶対禁酒家ではない。絶対禁酒主義がかえって失敗を招く例を、私はあまりにも多く見てきた。この分野においては、禁止は自発的な節制の最悪の敵になった、と私は信じる。アルコール中毒の社会悪と戦うてめには、回り道の方が近道よりもいっそう見込みがありそうに見える。ところが私の判断では、戦争は奴隷制と同じく、妥協のあり得ない社会悪である。通常兵器を残しておきながら原子兵器を廃止することや、兵器の量を減らしても残りのものを使用することをやめない、といったことが効果的であるとは私は信じない。私のめざすところは戦争の全面的廃止であって、それ以下のものではない。しかし私は廃止論者ではあるが、平和主義者ではない。もし1931年に満州に関して日本と戦争したり、1935年にエチオピアに関してイタリアと戦争したり、1938年にチェコスロバキアに関してドイツと戦争したりするための投票の機会を与えられてい他なら、私はこの三つの苦しい場合のいずれにおいても戦争に賛成する投票をしたことであろう。戦争に賛成する投票をしたであろうというのは、戦争を始めようとしている軍国主義者に対して何の軍事的抵抗もおこなわないことは、正しくもなければ分別のあるあることでもないと信じるからである。この場合のディレンマは苦しいものである。一方では、軍事侵略に対して抵抗しなければ世界を軍国主義者の手中に引き渡してしまうことになるし、また一方では、侵略に対して「聖戦」をおこなうなら、こちらの戦争がどれくらいの間聖戦であり続けるか予言できないからである。たとえ戦争を終わらせるために戦争をしているのであっても、戦争をおこなうときには、悪に対する解毒剤として悪を用いているわけである。そしてこの勝負においては、さいころはベルゼベル〔魔王。『マタイによる福音書』〕に有利なように詰め物がしてある。人類の長い「悲しみの道」の途上において、「戦争を終わらせるための戦争」〔第一次世界大戦は一般にこう呼ばれた〕をどれほどおこなわなければならないか、わからないのである。
 
p112
第一次世界大戦を終わらせるせるために命を投げ出した私と同年輩の人々は、これが生存者とその子孫が目にする最後の戦争になると信じつつ死んでいった。こうして、戦争という古い制度を廃止しようとする際、気がついてみると矛盾と挫折の中にはまり込んでいるのである。
 この経験は人をひるませるものである。しかしこれに立ち向かわねばならない。というのはそれは人生の苦しい事実の一つが持つ一面だからである。この事実とは、各世代は先人から伝え残された業(カルマ)という荷を負っているということである。現存する世代は自由な身で生き始めるわけではない。過去によって捕らえられた者として生き始めるのである。さいわいなことに、この囚人は無力ではない。受け継いだ慣習のかせをこわす能力を持っている。しかしこれをこわすには大いなる努力によるほかない。また全部をこわすことができるわけではない。人間の自由は錯覚ではないが、決して全面的ではあり得ないのである。
 今問題にしている場合について見ると、平和的な政治的行為によって戦争を廃止する自由は、たしかにある。国家間の戦争という制度は、地方主権という制度の寄生虫である。寄生虫は寄主がなければ生き残れない。そしてわれわれは地方主権を平和的に廃止することができる。地方国家が全体の従属的な一部として存在し続けながら、その主権を引き渡す――こういう世界的な連邦を自発的に作ればよいのである。これが、ライオネル・カーティスの唱えた、戦争という問題の積極的な解決法である。世界連邦の構成の細部については、教条的になる必要はないし、またそうあるべきではない。しかし何らかの形でこれを達成するために努めるべきである。原子力時代にあっては、これが大量殺戮に変わる人類の唯一の道のように見える。
 
 

トインビー博士の最初の著作 

本日、国立国会図書館の抽選当選日。この日に合わせて国会図書館の関西館から取り寄せてもらったトインビー博士の1910年代から1920年代の著作を閲覧しました。最初の著作は、トインビー博士の最初の著作で、1915年に刊行された「 Nationality & the war」です。第一次世界大戦中であり、前年の大戦勃発の際の有名な「ツキディデス体験」の翌年、トインビー博士26歳の著作です。今まで、さまざまな論文、著作の中でまだ「文明」中心の思考に入る前の「国家」中心の視点の著作の例としてあげられていましたので、そのように内容の著作と思っていましたが、実際に手にとってみると実は500頁に及ぶ大著であり、要所には精密な地図が織り込んであり、内容的にも大変に深い著作でした。第一次世界大戦開戦2年目の1915年におけるドイツ帝国の分析、ロシア帝国の分析、オスマントルコ帝国の分析が綿密になされており、パンゲルマン主義、パンスラブ主義、パンイスラム主義の分析も的確で、あらためてトインビー博士の学者としてのレベルの高さを示す内容でした。「国家」中心というよりも、すでに期せずして「文明」単位の分析が進んでいる内容でした。今まで、言われてきた 「 Nationality & the war」の内容を考え直す必要があると感じる大著でした。

二冊めは1922年に刊行された「The Western question in Greece and Turkey」です。この著作は、トインビー博士がロンドン大学から追われる原因となったマンチェスターガーディアンへの寄稿記事の取材をするために行った、1921年ギリシャ、トルコ への視察 の綿密な記録で、これも500頁近い大著でした。日を追った綿密な記録も掲載されており、内容的にも深く、あらためてギリシャ・トルコの専門家としてのトインビー博士の力量を見ることができた思いです。この視察の帰途、イスタンブールから乗ったオリエント急行の車内で「歴史の研究」の目次を書きとどめられ、それが30年後に完成した内容とまったく変わらないということも有名な話ですが、「文明」中心に世界史を記述しようと決意し、実行に取りかかるきっかけを得た旅行の内容を知る上で大事な著作であると思います。

三冊目は1925年に刊行された「The World after the Peace Conferrence」です。この著作はトインビー博士がロンドン大学を追われたあと、王立国際問題研究所に職を得て、取り組んだ「国際問題大観」の序文として書いたものが、大変に優れた国際関係の分析となっており、関係者の推薦もあり、その部分をあらためて書籍として発行したものです。この著作には、国際関係論におけるトインビー博士の見識と力量が見事に表現されており、素晴らしい著作であると思います。このあと、トインビー博士はベロニカさんとの共同作業で「国際問題大観」、夏の期間は「歴史の研究」と並行して著作をあらわして行きます。

これら、三冊の著作は、トインビー博士の生涯にわたる業績の中で、重要な転換点を準備するものとして、今後しっかりと研究していきます。

2021年第一回本部幹部会への池田先生のメッセージとトインビー史観

2021年の第一回本部幹部会への池田先生のメッセージをここに採録します。「トインビー随想」の中で取り上げさせていただく理由は、その内容がトインビー博士が生涯をかけて論じ残してきた内容とみごとに一致すると考えるからです。以下のメッセージの中で、下線を引き太文字で強調した部分は、私が感じた「一致する」と思う部分です。
 
まず全文そのものを転載します。
 
一、「青年」こそ「希望」の異名です。いかなる試練の嵐があろうとも、青年がたくましく応戦し、成長してくれるならば、無限の希望が生まれ広がるからです。新たな一年、我ら創価の大地には、いやまして凜々しく「青年」即「希望」の価値創造の連帯が躍動しています。
一、日蓮大聖人は、父君・母君のことを偲ばれつつ、法華経神力品の一節を引いておられます。「太陽と月の光明が諸々の闇を除くことができるように、妙法を受持し弘通する地涌の菩薩は、世間の中で行動して、衆生の闇を滅することができる」(御書903頁、趣意)と。民衆仏法の御本仏であられる大聖人は、末法濁悪の闇が最も深い時をあえて選ばれ、「民の子」として「民の家」に誕生されました。そして泥沼の如き現実社会に飛び込み、全民衆の苦悩を万年先、いな尽未来際まで照らし晴らす「太陽の仏法」を説き顕してくださったのです。
一、この「太陽の仏法」の赫々たる陽光を、二度の世界大戦に喘ぐ20世紀の闇に、黎明の如く決然と放っていかれたのが、牧口先生と戸田先生であります。創価の師弟は、「十界互具」「一念三千」という、人生観、社会観、宇宙観、まで明かした最極の哲理を掲げて、一人一人の胸奥から元初の希望・勝利の太陽を昇らせていきました。この人間革命と宿命転換の蘇生のドラマは、今や全地球で「月月日日に」(御書1190頁)、強く生き生きと繰り広げられているのであります。
一、今年は、大聖人のご生誕800年―――。私たちは不思議にも、「今この時」を選んで共に生まれ合わせ「世界広宣流布」の戦いを起こしております。久遠からのこの宿縁と使命を自覚するならば、何ものにも負けぬ偉大なる「地涌の菩薩」の勇気と智慧と慈悲が、一人一人に滾々(こんこん)と湧現しないわけがありません。日蓮仏法は、「世界平和」と「永遠の幸福」という、全人類が力を合わせて目指すべき境涯の最高峰を照らし出し、そこへ至る道筋まで明確に示しております。「衆生の闇」は、ますます深い。だからこそ、私たちは「立正安国」「立正安世界」の信念の行動を貫きながら、地域へ社会へ未来へ「太陽の仏法」の大光を、いよいよ、たゆまず明るく温かく、そして普く惜しみなく贈っていこうではありませんか!
一、60年前、第三代会長として最初に迎えた元日、私は学会常住の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」のご本尊の御前にて、宣言しました。「力の限り、戦いましょう!私は、この一年で百年分の歴史をつくります」と。そして年頭より関西を経由して九州へ入り、さらに東京・関東各地の支部結成を行って、初のアジア訪問へと出発しました。日本全国を駆け巡り、ヨーロッパを初訪問したのも、この年の秋です。「一年で百年分の歴史を」と誓った私の先駆の行動は、題目を唱え抜き、心で戸田先生と常に対話しながらの「不二の旅」でした。御聖訓には、「よき師匠と、よき弟子と、よき法と、この三つが寄り合って祈りを成就し、国土の大難をも払うことができるのである」(御書550頁)とあります。師弟不二」にして「異体同心」なれば、力が湧きます。友が広がります。諸天も動き、勝利の道が開かれます。あらゆる祈りを成就し、誓願の国土の安穏と繁栄を勝ち開いていくことができるのです
一、これからの十年は、まさに地球の大難をも払い、「生命尊厳」そして「人間革命」を基軸とした「新たな人類文明」を建設しゆく大事な大事な時であります。この十年を決しゆく勝負の一年、希望・勝利の「不二の旅」を共々に朗らかに決意し合って、私の年頭のメッセージとします。
 
以下、簡潔に説明してみます。
 
まず最初の、いかなる試練の嵐があろうとも、青年がたくましく応戦し、成長してくれるならば、無限の希望が生まれ広がるからです の部分です。
この部分は、トインビー世界史の中での歴史発展の方程式「挑戦と応戦」そのものです。トインビー博士の歴史観の根本となる視点です。この視点は「人間の内面の変化が社会的変化の原動力である」との視点でもあります。
 
次に、末法濁悪の闇が最も深い時をあえて選ばれ、「民の子」として「民の家」に誕生されました。そして泥沼の如き現実社会に飛び込み、全民衆の苦悩を万年先、いな尽未来際まで照らし晴らす「太陽の仏法」を説き顕してくださった と言う視点です。
トインビー博士の文明を単位としてみる世界史において、中国文明の影響のもと6世紀に単独の文明として成立したのが「日本文明」です。その日本文明が「break down」(挫折)したのが11世紀。日本史の上では、「保元・平治の乱」に象徴される武士勢力の台頭、仏教史の上での「白法穏滅・闘諍堅固」の「末法」の始まりとされる時期と一致します。トインビー博士の経験主義に立った歴史観では、400年という単位が文明のステージ転換の基本単位になります。日本文明の誕生から400年の11世紀がその最初のステージ転換であり、次のステージは「universal state」(世界国家)成立までの400年間。日本の歴史においては1600年の関ヶ原の戦いの結果として成立する徳川幕府による世界国家の成立です。ちなみにここでの“世界”とはその文明に属している人々の主観による世界全体です。当時の日本の言葉でいえば“天下”です。武士の時代に入って、徳川幕府の統一までの400年間は、鎌倉幕府室町幕府の時代として日本史の上では区分されます。しかし内実に立ち入ってみれば、この時代を通じて、公家勢力と武士勢力の抗争として記憶される承久の乱南北朝の騒乱、国内の大勢力が衝突する応仁の乱、群雄割拠の戦国時代とほとんど切れ間なく続く抗争の時代であり、この400年間は全体として動乱を基調とする時代と言って間違いありません。トインビー博士の文明のステージとしての“動乱時代”です。この動乱時代である1222年に、時代にあわせて出現された日蓮大聖人がそのほかの禅宗念仏宗の開祖と決定的に異なるところはまさに現実の一番厳しい民衆のただ中で、大乗仏教を学んだ者なら最高位の正しい教であるとの認識が共通していた法華経を一貫して説き続けられたことです。当然、現実のただ中ですから政治権力からの弾圧もあります。容易な道ではありません。これもトインビー博士が見てきた高等宗教の条件に一致します。池田先生の対談後、初めて英訳されて出版された「人間革命」の序文をトインビー博士は書かれておられますが、その中で明確にこの事実を書かれておられます。トインビー博士の歴史観のベースには、ギリシャ・ローマのヘレニック文明がありますが、その枠のなかで誕生したキリスト教についての記述と重ねてみると、このことはさらに深い意義をもつと思います。
 
次の「太陽の仏法」の赫々たる陽光を、二度の世界大戦に喘ぐ20世紀の闇に、黎明の如く決然と放っていかれたのが、牧口先生と戸田先生であります。創価の師弟は、「十界互具」「一念三千」という、人生観、社会観、宇宙観、まで明かした最極の哲理を掲げて、一人一人の胸奥から元初の希望・勝利の太陽を昇らせていきました との部分です。
この部分は、さらにトインビー博士の胸奥に響く大事な視点であると思います。この「二度の世界大戦に喘ぐ20世紀の闇」と真正面から取り組んだ学問的営為が、トインビー博士の世界史である「歴史の研究」です。同じ歴史的経験に生命をかけて取り組まれ、トインビー博士が高等宗教の中でも最も深い期待を寄せておられた大乗仏教の神髄である法華経の現代への復活のキイワードとして、「生命」の尊厳を根本として、社会のあらゆる分野の本質的課題の解決に取り組んできたのが創価の三代の師弟です。
 
さらに重要な部分と考えるのが次の、日蓮仏法は、「世界平和」と「永遠の幸福」という、全人類が力を合わせて目指すべき境涯の最高峰を照らし出し、そこへ至る道筋まで明確に示しております。さらに師弟不二」にして「異体同心」なれば、力が湧きます。友が広がります。諸天も動き、勝利の道が開かれます。あらゆる祈りを成就し、誓願の国土の安穏と繁栄を勝ち開いていくことができるのです との部分です。
この部分は、トインビー博士の世界史の中で指摘されている、文明発展の原動力としての「創造的個人」「創造的少数者」の役割と関係性につながります。まず「一人」から始まり、その「一人」から志を同じくする人間の連帯がうまれ、社会を変えていく。その目標はトインビー博士が、あえて「文明」の定義として表現されている「人類が一つの家族のように仲良く共に生きる世界の実現」と全く重なると思います。
 
これからの十年は、まさに地球の大難をも払い、「生命尊厳」そして「人間革命」を基軸とした「新たな人類文明」を建設しゆく大事な大事な時であります
最後のこの部分ははトインビー博士が根本の念願とし、書き残されたものと全く一致しています。この新たな人類文明」の成立こそトインビー博士が最後までもとめられていたことですあらためてトインビー博士が草の根をかき分けるように、日本の片隅に存在した創価学会・池田先生を探し出し、最後の重要な後世への遺言のように「21世紀への対話」を残されたことの意義を感じます。
 
 
 
 

トインビー史観を貫くもの

 トインビー博士の歴史観というと、即座に「文明」中心もしくは「高等宗教」中心の歴史観という答えが返ってきます。「20世紀最大の歴史家」と高く評価する声がある一方、専門家を自任する歴史学者の中からは、「アマチュア歴史家」「文明の墓掘り人」等、きわめて感情的で厳しい評価をする人が数多く存在します。大著「歴史の研究」の最終巻が刊行され全貌が明らかになった1950年代以降、一般の人々からの評判が高くななることと反比例して、感情的で否定的な評価が強くなっていきました。その後、1975年に死去されるまで、特に日本においては朝日、毎日、読売、日経などの新聞の新年の紙面等に、時代を分析し未来を展望するトインビー博士の寄稿が掲載されてきた。その名前は、老若男女を問わずほとんどの人の脳裏に収まっていると言って良い。まもなく死後50年の節目が、2025年にはやってくる。現在の時点でトインビー博士の歴史観は、どのように受け止め、評価することができるであろうか。そしてその評価の意義とは何であろうか。既存の歴史学の世界においては、トインビー博士を無視し続けており、現在のアカデミズムの世界にはトインビー史学はない。しかし、現在もなお評価し続けているのが創価学会である。老齢で世界への旅行が難しくなっていたトインビー博士が自ら手紙を書き、訪英と対談を提案され、その提案に応ずる形で、5月の時期を選んで、1972年、1973年と二年と続けて対談を実現した当時40代の創価学会の若きリーダー、池田大作。その対談の内容は日本語版は「21世紀への対話」、英語版は「Choose Life」と題されて出版され、創価学会の世界への発展と連動して、その後世界26言語に翻訳され出版されている。池田大作氏はその後、モスクワ大学北京大学、等の当時共産圏に属していた大学をはじめとして、アメリカのハーバード大学、カリフォルニア大学、ボローニア大学等の欧米の大学に招待され、講演している。さらに世界300をこえる大学、学術機関から名誉学術称号を受けている。2021年1月2日の段階で93歳になった池田大作氏。その生涯の、日本人としては驚異的な世界の学術界からの評価と顕彰は、その淵源をたどると間違いなくトインビー博士との対談、その内容を収めて出版された「21世紀への対話」(「Choose Life」)にたどり着く。その事実は、この世界での講演、顕彰の場で語られる推薦の言葉の中に明確である。20世紀後半から21世紀にかけての世界の中で、この客観的事実は重要な意味を持つ。しかし特に日本においては、この事実はマスコミ等を通じて表にでることはなく、大部分の日本人は、創価学会の指導者としての池田大作としては認識しているが、世界での客観的な評価は知らないし、知っていても、あえて故意に無視しようとしている。このような奇妙な状況がまだ続いている。

一方、世界の学術機関からの評価は高い。特に「核の時代」に入り、一歩方向を間違えれば全人類の滅亡もあり得る状況の中で、世界全人類の平和と安穏を願う心ある指導者、知識人はこぞって「21世紀への対話」(「Choose Life」)に語られ、記録されている、人類の方向を示す英知と慈愛の言葉に対して、賛同と共感の思いを表明している。

世界史教育とトインビー博士の歴史観

私が東京教育大学西洋史を卒業して、創価学園に奉職したのは、昭和48年の4月のことであった。それ以後、中学・高校の社会科教諭として、主に世界史を中心に授業を持つことになった。以後、定年退職後の管理職の時代を含めて45年近く教壇に立って世界史を教えることになった。大学時代の履修科目として日本史、東洋史、専門科目として西洋史の各時代を学ぶことにはなったが、教壇に立ってみる生徒が興味を持って歴史の世界に入ってくるまでの内容を持つ授業を毎日行うことは、さらにそれぞれの時代の内容に深く立ち入る事前の予習と組み立てが必要であり、連日、授業研究に必死に取り組むことになった。その際、必要な資料、文献の量はかなり多く、必死に取り組んでも、実体は自転車操業と言っても過言ではなく、とくに20代の後半はほとんどそのような日々であった。

日本において、世界史という科目は第二次世界大戦後の戦後教育の中で成立した科目であり、戦前の国史が日本史となり、西洋史東洋史が合体して世界史となった科目であり、世界史としての学問的な基礎があるわけではなく、必要に迫られて折衷案として生み出された科目といっても過言ではない。しかも、大学における歴史学はあくまでも科学的という名のもとの個別実証を中心とする歴史学であり、世界観に基づく歴史学は、カール・ポッパーが「歴史主義の貧困」の中で糾弾したマルクス主義史観など、今度は思想で現実を歪曲するような類の歴史観であり、多数の青年男女をその運動の中に吸収してきたが、結局は様々な矛盾から悲劇を招来するような歴史観であった。

人類は、16世紀の西欧人の世界進出以来、紆余曲折はあったが、世界の一体化にむけての動きを歩んだきた。特に産業革命以後の科学技術の生産活動への応用は、世界の一体化への動きを促進し、20世紀から21世紀に入ってその動きは一段と加速している。特にインターネットの発達は、情報面では人類を瞬時につなぐことを可能にしている。

まさに「世界史」「人類史」が強く求められる時代に入っている。

現代において高等宗教に求められる条件・・・・山本新先生の記述より(月刊世界政経1976年1月号「トインビーの歴史的宗教観」―文明興亡の鍵を宗教に求める巨人の最終史観)

 
山本新先生の記述(月刊世界政経1976年1月号「トインビーの歴史的宗教観」―文明興亡の鍵を宗教に求める巨人の最終史観―)を引用する。    
① 他の宗教を邪教のように悪しざまにののしってでなければ、自分の宗教の正しさが証明できないと思い込んでいる排他性、独善をやめて、他の宗教にも真理があることを謙虚に認めることである。これは容易なことではない。
② つぎに、宗教が現代の切実な問題とたえず折衝し、格闘していることである。これを無視したり、でなくてもさけたり、ごまかしたりしておれば、心ある人から信用されなくなり、人心をつかむことができず、時代の動きとかかわりのない形骸化、名目化したものになる。社会や文化の推進的な動きからとりのこされ、生命のない、時代錯誤な存在と化する。現在にいきているとは言いがたい。い。    
③ さいごに、高等宗教にまぶりついた付属物からその本質を剥離し、本質そのものを取り出すことである。                
 
…………(中略)…………高度宗教が生き延びるために満たすべき第一の条件は、排他性、独善性をこえて謙虚になるである。…………(中略)…………比較的わかりにくいと案ぜられる第二以下の条件について、すこし説明を加えたいと思う。現代の切実な問題をトインビーはいくつかあげている。その第一は「平和の維持」である。これは核戦争による人類の自滅をいかにしてさけるかである。現在人類がまだ生きているのは、不安定な核抑止力によってであり、偶発戦争はいつおこるかもしれない。……(中略)……これを最終的に集結させるには、世界政府をつくり、核武装をやめさせ、核エネルギーの管理をするほかはない。このような人類死活の問題に高度宗教はどれだけ取り組み、有効な発言なり、運動なりをしているであろうか。トインビーは、第二には「社会正義の促進」をあげる。社会正義とは、一口でいえば、平等のことである。高度宗教は社会的平等を促進しようとするなら、社会主義と火の出るような折衝をかさねなげればならない。宗教的社会主義を作るまでに格闘していかねば、階級対立にまともに取り組んだことにならない……(中略)……社会正義の問題は、階級問題だけではない。異民族と正しい関係に立つという民族問題もある。日本における朝鮮人問題に、宗教家が良心的に取り組んでいるかというと、これはもっと心細い。皆無に近いのではないか。……(中略)……高度宗教が生き延びるための「本質剥離」についてすこしばかり説明してみたい。……(中略)……他の文明へこの高度宗教を普及しようとするとき、文明の着色である付属物を本質からはがし、本質を取り出し、それだけ他の文明へ移植するのでなければ、本質と付属物を一緒にのみこませようとすると、必ず失敗する。     

「人間事象に基本活動があるか」 .……宗教こそ基本的活動 再考察23巻

歴史の研究、再考察23巻の補論の冒頭で、トインビー博士は「人間事象に基本的活動があるか」という題で短い論考を行っています。この論考では、人間の振るまいを記録する歴史の中で、旧石器時代の記録では、出土する痕跡がほとんど「道具」であることから、人間を「ホモ・ファーベル」と規定する考古学、文化人類学の傾向から論述を始められ、文字が使用され始める歴史時代に入ると、紀元前3000年ごろ、エジプトの上・下エジプトの統一を成し遂げたナルメル王の化粧板や、紀元前12世紀のアッシリアの諸王の浮き彫りに記録された内容は、「政治」を人間諸活動の中心にすえる傾向であり、その傾向は19世紀に、マルクスエンゲルスの天才が、経済が歴史の鍵であるという命題を提出するまで有力であったと記述されています。そしてつぎのように記述されていますので、引用します。
マルクスエンゲルスは歴史の提示に於ける伝統的な名誉ある座から政治をひきおろして、その代わりに経済を王座につける仕事にとりかかった。……(中略)……歴史の人間の生活必要物資の生産方法と、生産手段を管理する体制があいまって、人間生活における他の大部分のものを支配し決定するということである。権力の鍵は政治ではなくて経済である。人間事象を理解する鍵は経済を理解することである。今日マルクスイデオロギーを信奉しない多くの人々がこれらのマルクスの見解をとっている。……(中略)……経済が重要であると考え、産業労働者の苦しみを軽減するために何か根本的なことがなされなければならないと主張したマルクスは疑いもなく正しかった。この二つの点について全世界はマルクスに同意することができる。ただしそれだからといって、19世紀の工業労働者の苦しみに対する彼の治癒策が最良のものであるとか、経済は単に重要であるだけでなく、圧倒的に重要であるということについて彼に同意しなければならないということはない。経済が圧倒的に重要であるという命題に対する答えは、「人はパンだけで生きるのではない」(「申命記」第八章第三節。「マタイによる福音書」第四章第四節と「ルカによ福音書」第四章第四節に引用されている。)ということである。政治は人間の基本的な活動であるという命題は無効であることを証明することによって、マルクスはわれわれすべてに一つの貢献をしたとしても、経済は人間の基本的な活動であるという同じような命題も無効なのである。」(p1228~1230)
そして「人間事象に基本的活動があるか」の考察のしめくくりとして次のように記述されています。
「『人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる』(「申命記」第八章第三節)。ここに宗教は人間の基本的活動であると主張する声がある。そして相競うすべての声のうちで、確かにこれは最も強い声なのである。しかしその力は、宗教はわれわれの表のなかの他の活動と同列ではないという事実にあるのである。宗教は、宇宙の現象の背後にある絶対的な精神的実在と接触し、接触した時にこれと調和して生きようとする人間の試みである。この活動はあらゆるもののうちにある。それは他のすべてを包含する。さらにそれは人間の命の綱である。ひとたび生物が人間のように知性と自由意志を獲得するならば、この生物は神を求めて見出すか、さもなければ自滅しなければならないのである。『預言がなければ民はわがままにふるまう』(「箴言」第二十九章第十八節)。それ故、人間に基本的活動があるとするならばそれは宗教であろう。しかし宗教の主張は、それを超越する言葉で述べることによってのみ擁護することができるのである。宗教は人間の他のすべての活動をそのなかに包含するという意味に於いてのみ人間の基本的活動なのである。