トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

トインビー博士の「戦争」廃止への思い

 トインビー博士の全ての著作を通して、通奏低音のように一貫して流れ、時には学者としての客観性をあえて越えても主張されているのが、「戦争」廃止への強い思いです。 

 このブログの中では、「哲学的同時代性」というトインビー史学の根幹を構成する原理の発想の基盤として紀元前5世紀のペロポネソス戦争の勃発の際のツキディデスの思いを追体験できるほど骨肉化していた古典古代への傾倒、一方でトインビー博士自身が25歳の時体験した1914年8月の第一次世界大戦の勃発が、トインビー博士の内面で働く様子をみてきました。

 しかし、さらに具体的な体験を通して、「戦争」廃止への思いを強く語っているのがつぎに引用する部分です。「予定した仕事は全ておわった」とこの回想録出版の時点で語っておられるトインビー博士が、このあと最後の仕事として、高等宗教である大乗仏教の現代世界における実践団体である創価学会池田大作会長との対談を、批難中傷を覚悟しても敢えて求められたのは、この引用の最後の部分にあるトインビー博士の強い決意が原動力であると思えてなりません。

 

回想録 p109

 私は運命のいたずらによって第一次世界大戦のときには軍務に適さなかったが、1914年8月以降戦争の悪と直面してきた。1914年8月以前には、イギリスは数多くの「小さな戦争」ーーしかも侵略的な小戦争ーーをおこなっていたので、われわれにその気がありさえすれば目が開かれてしかるべきであった。ところがほとんどの者はこの悪に対して倫理的に鈍感であった。例外はただクエーカー教徒だけであった。もしわれわれがまだ盲目でなかったのなら、両親は私がおもちゃの大砲で錫の兵隊を打ち倒して殺すような遊びを決してさせなかったろう。また私自身もこういう不愉快な遊び楽しむことは決してなかったことであろう。〈回想録のなかでトインビー博士の子供時代、錫の兵隊人形で遊ぶ記述がでてくる〉1914年8月以来は、われわれが盲目なのは救いようのない無知のためだ、と言ってすますわけにはいかないのである。

 第一次世界大戦終結前に、私と同年配の人のうち半ばが戦死していた。しかし私は彼らの死を目撃したわけではない。想像に最も深い感銘を与え、そして記憶に最も執拗に残るのは、自分の目で見たものである。したがって、戦争のことを考えるときにいつでも、私の見たもののうち心に最もはっきりきわだっている二つの記憶は、死んだ友の顔ではない。わたしには他人であった三人の人の顔である。

 1915年、ロンドンで戦争関係の仕事をするためにオックスフォードを去ってからまもなく、私はある用事でホワイトホールの陸軍省へ行かされた。入りがけに正面の掲示板が目についた。そこには最近戦死の公報が入った将校の一覧表が張ってあった。この瞬間二人の婦人が私のそばを過ぎた。彼女たちはある人の死のしらせを掲示板で読んだばかりだったのだ。一人ははげしく泣いていた。もう一人は早口の強い語調でしゃべっていたーーまるで、いそいでしゃべれば、自分の連れがこうむったむごい損失に追いついて、おそらくそれを取り戻すことができる、とでもいうように。今日でも、あの二人の気の毒な婦人の顔を、あの日現実に見たのと同じくらいはっきりと心の目でみることができる。あの恐ろしい悲しみの原因となった悪しき制度を廃止するために、私はまだ命のある間に働かねばならぬ。

 私が見たもので覚えている第二のものは、1921年3月にイエニュ〔小アジア北西の部落。1919年ー22年のギリシャ・トルコ戦争で、トルコ軍が二度にわたってギリシャ侵入軍を撃退した所〕での戦闘で戦死した若いギリシャ兵の死体である。死体は硬直し、顔色はろうのようであった。額に弾丸が貫通した跡は、一つの命をたちどころに消してしまうにはあまりにも小さな原因のように思われた。死体は、この少年の隊が急襲していた尾根の頂上にあるトルコ軍の塹壕から数ヤード下に横たわっていた。塹壕の中には、ギリシャ軍の砲火によって恐ろしく痛めつけられたトルコの農民ーー勇敢な「戦陣を張った農夫」〔アメリカの詩人エマソンアメリカ独立戦争を歌った「コンコード賛歌」の中にある語句〕ーーの死体があった。この若い人々はーーギリシャ人もトルコ人もーー皆母親の産みの苦しみを経てこの世にうまれ、愛情をこめて育てられたのだ。だのに今成人しようという矢先に、連れ出されて虐殺された。地上で最も貴重なものをこのように破壊する罪の原因となった悪しき制度を廃止するために、私は働かねばならぬ。

 

 

 

トインビー博士の原点「第一次世界大戦」・・・・戦争と人間

 トインビー博士は、「回想録」の第五章に「チャタムハウスにおける三十三年」と題して、博士が「歴史の研究」「国際問題大観」を平行して執筆していた時代を振り返って書いております。この部分の中に、なぜトインビー博士が全世界、全時代を対象とする真実の世界史、それと平行して全世界の国際問題を総括する年ごとの記録を書こうとされたのか、その動機にあたる心情と思いを吐露されています。

 トインビー博士が創価学会池田大作会長に対話を求める書簡を送られた際、その事実が社会に知られることになった際に巻き起こった批難、「すでに名をなし、社会的にも評価されているトインビー博士が、評価の帰趨もさだかでない、むしろ圧倒的な批難・中傷の対象となっている創価学会池田大作会長と対談をするのか」という友人からの手紙に対して、なぜ対話を希望したのかについての根本的な動機として、「戦争」に対して創価学会が根本的に反対していることを特にあげて、その運動を推進している池田大作会長の人格に対する信頼とともに、返信の中に書いております。

 この「戦争」に対する思いと態度こそ、トインビー史学の根本として設定された「哲学的同時代性」の根底にある心情であると思います。その思いに通じる部分を「回想録」より引用しておきます。

 

p81

1919年のある夕方パリで、その年のパリ講和会議の週末も見えてきた頃、私はマジェスティック・ホテル(イギリス代表団の宿舎)での会合に出席するために顔を出した。この会合へアメリカとイギリスの代表団のうちの臨時の官吏が、皆招かれていたのである・・・・(中略)・・・・行ってみると部屋は混み合っていた。この会合の主唱者は、イギリス代表団の臨時の官吏であるライオネル・カーチス〈1872年生。法学者。王立国際問題研究所の設立者〉であった。ライオネルは行動の天才の持ち主で、この会合を招集したのは、残りの者たちの心の中に形をなしつつあった一つの希望を見越してのことだ、と感じていた・・・・(中略)・・・・

p82

われわれが戦時の経験〈注:第一次世界大戦〉について忘れることができなかったのは、それが啓発的なものであったからである。1914年8月以前のイギリスとアメリカにおいては、世界的な戦争は「昔の話」の中の出来事と思われていたが、その戦争はやはり生きている恐ろしい現実のことであるということをわれわれは学んだ。われわれと同年配のイギリス人で従軍した人々のうち、すくなくとも半数は命を失っていた。そして1914ー18年の恐ろしい大変災が再び起こらないという保証はなかった。再び起こるか否かは、世界の政府と国民が戦後の国際的な諸問題に対処する際の巧拙に左右されるであろう。・・・・(中略)・・・・国際問題は国務省や外務省だけに関係のあることだという主張は、戦後にはもはや正しいものではなかったからである。国際問題はすべての人に関係があるということを、われわれは死傷者の数から学んでいた・・・・(中略)・・・・

p99

〈王立国際問題研究所:Royal Institute of International Affairs、別名チャタムハウス〉評議会は彼の推薦に基づいて、『大観』〈Survey of International Affairs〉を開始し、そして十二ヶ月という期限内でできるかぎり新しいところまで記述を進めるという仕事を、ヘドラム=モーリーが私に与えるのを認可した・・・・(中略)・・・・私はこの最良の資料〈イギリス外務省の文書〉に頼ることはできないまま『大観』の執筆を企てなければならないことを意識しているとともに、私の知的装備の不十分さも意識していた。私が当時も今も最もよく知っている歴史は、ギリシャ・ローマ史である。そしてギリシャにおける「遊歴修行」とその後の戦争関係の仕事のおかげで、現代史に一つの足がかりを得るようになっていたが、これまでのところ、この足がかりは中近東の現代の問題に限られていた。ところが、今や私は現代の国際問題を世界的に大観したものを書く仕事にとりかかろうとしていたのである。ヘドラム=モーリーは私を救い出すために、財政的な手段が見つかるならある種の地域はそれを専門にしている人に請け負わせるとよい、と提案した・・・・(中略)・・・・私は世界的な大観を書くことを引き受けた以上、その全部を自分の手でやりたいと答えた・・・・(中略)・・・・私がそう提案したのは、二つのことを予感したからであった。ヨーロッパは過去四世紀間保持してきた世界における支配的なーそれゆえ中心的なー地位をまもなく失うことになろう、と私は推測した。また人類の歴史において全世界が良かれ悪しかれ合体して単一の社会になる段階にわれわれは入りつつある、とも推測した。この単一の社会においては、これまでほとんど自足的であった地域のそれぞれが他のすべての地域とからみ合い、相互に作用し合うことになろう。もし私のこういう推測が的を得ているとするなら、ヨーロッパもその他の地域も高位の高慢〔『マクベス』二幕四場十二行〕を得ることがないような統一体として書かないかぎり、合体しつつある世界の歴史を書いてこれを理解できるものにすることは不可能であろう。この点を読者に得心してもらうために、私は『大観』の最初数巻に、ヨーロッパでも北大西洋でもなく太平洋を中心にした世界地図をいれたのである

p107

私は人間としてできるかぎり「科学的」な人間事象研究が価値あるものである、と心の底から信じていたし、今でもそう信じている。それゆえ私は、チャタムハウスはその活動を「科学的な研究」に限り、研究所としての政策を持ったりそれを推し進めたりすることは控える、という設立者の決定に、心の底から賛成していた。しかしながら「科学的」な研究は、それを越えた目的を追求するための不可欠の手段であるかもしれないが、その本質からして、それ自体で一つの目的にはなり得ない。科学的な研究が目的ではなくて手段にしかなり得ないのは、人生の究極の目標は研究ではなくて行動だからである。チャタムハウスは「科学的」な研究をするために、研究所としての行動をとることを控えているが、その研究が実際的な価値を持つのは、ただ一つの場合だけであろう。すなわち、この研究所の所産を利用する人々が、チャタムハウスが提供しようとする客観的な知識に照らさないで行動した場合よりも、いっそう賢明で啓発された行動をみずからとれるように、助力するときである。

今私個人について言うなら、二度の世界大戦に生き残り、原子兵器の発明を目にするまで生きてきて、私は自分の生きた時代の国際問題の研究が自分に課した行動について、何の疑いも持っていない。今私は、専門とする仕事において客観性を追求することに献身する歴史家としてはなく、一個の人間、曾祖父、市民として、物を言っているのである。一個の人間としては、わたしは自分の目に映る世界を静かに眺めていることに甘んじることはできない。「世界の本性は、かくのごとき欠陥に満ちているのだ」。私の生きた時代に人間が互いに害悪を与え合うのを私は見てきた。人類がこの害悪をいくぶんでもあらためるのを手伝うために、私としてできる限りのことをしても、その行動の結果はごく微小なものであるかもしれない。しかしそのような行動のための装備と刺激を与えてくれるのでなければ、世界についての私の研究は不毛で無責任なものであった、ということになろう。私と同年配の人々のうちあれほど多くの人の命を途中で絶ちきるという罪を犯した運命に、私の孫たちや曾孫が襲われることのないように、私はできるかぎりのことをしなければならないのだ。

p108

このような時と所に生き、そしてこのような教育と経験を受けてきた私としては、戦争を廃止する方向に向かって私の生きている間にできるかぎりのことをすることに、1914年8月以来とりわけ意を用いてきた。戦争は人間の現存する制度のうち最も悪しきものである。ところがそれは人間が強情にも固くしがみついている制度でもある。1914年には、戦争が奪いうる人命は百万単位にすぎなかった。1945年8月6日以来、戦争は人類を抹殺しそしておそらくはこの地表にももはやいかなる種類の生物も住めないようにさえしてしまうほど、致命的なものになりつつある。「この忌まわしきものを根絶せよ」

 

 

 

 

世界史としてのトインビー史学・・・J.フォークト「世界史の課題」(1961)より

 世界史としての「トインビー史学」に着目し、いち早く著書「世界史の課題」においてとりあげた人がドイツの歴史学者 J.フォークトです。副題に “ランケからトインビーまで” と掲げているように、西欧の歴史学において課題としての「世界史」を追求してきた流れを、近代歴史学の基本を築いたランケから丁寧にたどりながら年代順に取り上げていきます。
 フォークトは1895年に生まれ、ベルリン大学においてローマ史の研究で著名なエドアート・マイヤーに教えを受けました。その後、1923年にチューリンゲン大学の講師としてスタートし、1926年には同大学の古代史の教授に就任し、その後ドイツ国内の大学の教授を歴任しましたが、この「世界史の課題」を発表した時点ではチューリンゲン大学の教授の地位にありました。年齢的にも、同じ古代史の研究者としてもトインビー博士と思いが通じるところがあったのでしょうか、「比較文明学会」の立ち上げにおいては、トインビー博士と一緒に尽力しています。
 全十章からなる本書は、とりあげている名前を列挙してみても、ランケ、ブルクハルト、オーギュスト・コントカール・マルクス、マックス・ヴェーヴァー、カール・ランプレヒト、ニコライ・ダニレーフスキー、エルンスト・トレルチ、アルフレート・ヴェーバー、ピエール・ド・シャルダンカール・ヤスパース、クリストファー・ドーソン、等々。この時点までの西欧文明圏における世界史的探求をほぼもれなく網羅しています。ちなみに全十章のうち、第四章と五章をオスヴァルト・シュペングラーに、第八章と九章をアーノルド・J・トインビーにあてています。出版年は1961年ですが、論述は「世界史」を考える上では現在においても重要な価値を持つ論考であると思います。 
 この著作以後現在までの世界史的取り組みとして評価を受けているのは、トインビー博士の伝記を執筆しているアメリカ合衆国のマクニールの「世界史」、さらに最近で言えば「サピエンス全史」を書いているユヴァル・ノア・ハラリ等が有名ですが、強い反感と賛同が相半ばするトインビー史学に対するような評価は起きていないと感じています。
 J.フォークト「世界史の課題」の中で、トインビー史学を取り上げた部分を引用します。
 
p177 
第一次世界大戦後における学問の状況の特異性は、生の哲学社会学とから、人類的事件の全体のうちに何らかの組織原理を見出そうとする、最初の大きな心みが生まれたことである。専門的歴史科学は、これらの理論に大いに狼狽したが、ようやく、アーノルド・J・トインビーの世界史の体系によって、歴史の概観という、今や自己の領域に燃え移ってきた問題の解決に、乗り出すこととなった。トインビーのこの重大な試みは、広い範囲の知識人に、とりわけアングロ=サクソン系の世界に、大きな影響をあたえたが、さらに、ショペングラーよりも持続的に、歴史科学の国際的な活動を刺激し、今日でも依然として世界史の問題の学問的な討議に支配的な影響をおよぼしている。トインビーは歴史家仲間の間でも専門家と見られる人である。・・・・・・・
 
p179
第一次大戦の勃発した頃、彼はツキヂィデスの史書を研究していた。そして今や、かれの眼には、ギリシャ都市国家の間の闘争は、同じ民族世界、同じ文化世界に所属する諸国家の、内乱のように映じたのである。そこから、かれの心の次のような疑問が起こってきた、ヨーロッパ諸国家の殺戮戦も、本来その諸国民はすべて同一の種族に属しているから、内乱を意味するものではなかろうか。さらにまた、紀元前五世紀のギリシャ世界に進行していた歴史の全経過は、現在は、現在ヨーロッパの内部に起こっている出来事と一致し、したがって、哲学的な意味において、それらはたがいに同時代ではなかろうか、と。
 
p180
そして今や、彼自身が新たに世界史を解釈しようとする計画を抱いたとき、シュペングラーとは方法上異なったやり方で進もうと考えたのある。「私は、ドイツ的なアープリオリの方法がすでに生き詰まった場合にも、イギリス的な経験主義にはそれ以上の何ができるかを、つまり、たがいに排斥しあう二つの可能性が事実の光に照らされたとき、それらが何処までこのような吟味に耐え得るかを、試して見たかったのである」(『試練に立つ文明』)見聞をひろめ、重要な事実に精通する機会に不足ななかった。トインビーは、イギリス国際問題研究所(the Royal Institute of International Affairs)の協力者となり、年鑑『国際問題の概観 Survey of International Affairs』を数年度にわたった主宰することによって、世界政策の諸問題に通暁するようになった。さらに、第二次大戦中には、からは外務省調査局の仕事を担当した。こうして、かれの経験の範囲は古代文化から現代史にまで拡大されていったのである。
 
p183
古代ギリシャ=ローマ文化――トインビーの表現にしたがえばヘレニック社会(Hellenic Society)――は、古クレタのミノス文明の遺産から生まれ、前九世紀から五世紀までのギリシャ人の業績にうかがわれるように、急速な成長を遂げる。ギリシャ人は、さしあたり村落を都市に、さらに都市国家に、まとめることによって、その定住地を確保する。次いで、その増大する人口のために、地中海海域への植民を通じて、あらたな活動領域を開拓する。そして、植民が四囲の世界の抵抗に遭って行き詰まったときには、すでにかれらは、経済革命によって、つまり農業の集約化と輸出産業の創出によって、新たな生の可能性を獲得していたのである。最後に、彼らはペルシャ人の攻撃を、多くの都市国家の間に結ばれた同盟によって、また共同防衛の組織化によって阻止する。四度にわたる四囲の世界の挑戦も、ギリシャ人の創造的な改革によって、見事に応戦されたのである。けれども、その後に、かれらの文化〔=文明〕に危機が到来する。ペロポネソス戦争はこの社会の曲がり角と見られなければならない。広大な世界に散在するギリシャに、国際的な組織を基礎とする、政治的な統合をあたえるという課題に直面した時、指導的地位にあった政治家たちはみずからの無能をさらすことになったのである。さらにまた、覇権を握る都市国家は、自分自身がどうしようもない障害物であることを、暴露した。アテナイは、たしかに過去においては偉大な都市連合を成就したが、今度はその覇権を専制へと堕落させた。都市国家相互間に闘争が発生し、ペロポネソス戦争ギリシャ社会の内乱となった。こうして、アレクサンダー大王によっても食い止められなかった、衰亡は開始された。この沈みゆく文化世界に、ローマ人によって、はじめて世界国家があたえられた。そしてその上に、かなり長い時期にわたって、安寧が保たれた、とはいえ、ローマ人たちもまた、かれれの不断の統制によっても、各都市から自治権をうばうことはできなかったのである。
 
略言すれば、世界組織の創造に努力する(ヘレニック文明)の歴史は、ペリクレス時代の春の日差しの中にも、またアントニウス時代の小春日和の陽光の中にも、常に暗い陰のつきまとう、一編の悲劇である〈「歴史の研究」原本第四巻、p214〉」
 
最後に、崩壊の過程が続くー内部的には、国家と文化〔=文明〕とから人口のかなりの部分が精神的に離れてゆくことによって、また外部的には、文化〔=文明〕領域から刺激と恩恵をわけあたえられるだけではもはや満足しなくなった、異民族が来襲することによって。
とはいえ、徹頭徹尾人間のドラマとして論じられたこの古代ギリシャ=ローマ(ヘレニック文明)の社会劇が、はたして、現に伝わる個々の史実に合致しているかどうかは、疑問である。だが、今のところは、まだこの問題はとりあげないでおこう。それよりも、ここにすでに明らかなことは、古代史たちの研究から得られたこのモデルが、歴史世界のもろもろの文化〔=文明〕をあつかったトインビーの理論全体を大幅に規定しているという事実である。たしかにトインビーは、古代ギリシャローマ文化(ヘレニック文明)以外の歴史過程からも、驚くべきほどに豊富で詳細な資料を収集している。それに加えてかれは、今世紀になってから世界的規模にまだ拡大された政治の舞台に、また一般に現実の諸問題に精通しており、そのことはかれにとって有利な条件となっている。だが、それにもかかわらず、彼の思想を結実させたものは、このような歴史的認識だけではなかった。さらにそこに働くものとしては詩人的な直覚、神話的な諸形象、諸世界宗教からの啓示さえもが、考慮に入れられなければならないだろう。ゲーテファウストベルグソン哲学、聖書、さらに極東の聖教すらも、かれの自家薬籠中のものだった。したがって、トインビーのたぐい稀な才能は、豊富な学識、生き生きとした空想力、そしてまた総合への烈しい衝動を本質的特性としていたのである。
 
 

「歴史家トインビー」 鈴木成高

「トインビー・人と史観」より 1957年・社会思想社
 
 
「歴史家トインビー」 鈴木成高
p14.L12 ・・・距離のなかには、トインビー史学におけるもっとも本質的なもののひとつである「視野」の問題が含まれている。トインビー史学は歴史学のなかに視野の革命をひっさげて登場してきたものにほかならない。視野は空間に向かって拡がるだけでなく、時間に向かっても拡がるものである。歴史は要するに、ベルトラムが言ったように遠近法である。そしてトインビー史学は歴史に新しい遠近法を打ち立てようするものに他ならない。
 
p17.L12・・・歴史家仲間のあいだでわれわれがしばしば耳にする言葉は、トインビーは「一個の文明批評家であって歴史家ではない」という批評である。たしかにそうもいえるであろう。伝統的な職業的歴史家だけが歴史家であるとするならば、トインビーは歴史家ではないであろう。しかしまたひるがえっていうならば、トインビーを歴史家でないというそのあまりにも歴史家的な歴史家たちが、実はもはや時代からとり残されつつあるのかもしれない。そこに「新しい歴史家」の可能なるひとつのタイプを示すものとして、トインビーの存在が大きく浮かび上がっていると言わねばならないのかもしれない。職業的歴史家の伝統的なアカデミズムはすでに半世紀前からひとつの根本的な行き詰まりに直面している。歴史主義の危機と呼ばれているものがそれである。・・・(中略)・・・
だからトインビーを歴史家でないというだけでは、事柄は少しも片づかない。アマチュアが専門家より多くの存在理由を持つかも知れないような大きな転換期のなかにわれわれは立っているのである。私は先ずこの意味においてトインビー史学の性格を偉大なるアマチュア史学として規定しておきたい。ちょうど先に文明批評家としての彼を偉大なる傍観者と呼んだとおなじように。
 
p20.L12・・・トインビー史学もまた、彼が二十五歳の青年として、第一次世界大戦に直面したところから発せられた、世界への問いから出発している。人類はじまって以来初めての世界戦争において、彼は自分がイギリスにいるのではなく世界のなかにいるのだということを発見した。「イギリスにいるのではなく、世界のなかにいる。」・・・(中略)・・・世界はこのとき突然トインビーの目の前にひとつの問いとなって立ち現れてきた。「視野の革命」はそこに始まったのである。爾来四十年間、彼はこの素朴な問いを執拗にいだき続けて、既成の学会から完全に無視されながら、完全にただ独りで、自分だけの道を歩んできたのである。・・・(中略)・・・この四十年間の探究は、彼の頭脳に驚異的な知識を蓄積させた。いま多くのひとはこの蓄積に敬意を表し、そのあらわれとしての該博さと視野の広さを賞賛する。しかし本末を顛倒してはならない。彼の世界史は該博さの結果として到達されたものでなく、逆に世界への問いが該博さをもたらしたものであったのである
 このようにトインビー史学は、世界戦争という人類未曾有の体験を彼が二十五歳の若さで、世界への問いとして受け止めたということから出発している。いいかえれば、それは生きた歴史との対決からきているのであって、出来合いのアカデミズムからきたものではなかった。生の対決からであって、死せる知識の集積からではなかった。そこにトインビー史学のもっとも重要な性格がひそんでいることを見逃してはならない。・・・

トインビー博士と創価学会

●トインビー博士と大乗仏教日蓮仏法、創価学会

★トインビー博士が、東洋の国の一宗教者である私に、なぜ、対談を希望されたのであろうか。博士からの手紙にもあったように来日された際(1967年)に、創価学会の宗教運動についていろいろ耳にされ、興味をいだかれたのも一つの理由であるにちがいない。また、『ザ・タイムズ』などにも、創価学会についての紹介の記事があったりして、私どもの主張する仏教の実践活動に関心をもたれたようだ。

★博士は、前々から、やはり仏教に深い関心をもっていたようだ。かつて来日をされたとき(1956年)、京都大学歴史学者や哲学者を交えて、長時間のディスカッションをされたことがある。その時、同席された深瀬基寛氏が、博士の第一印象を次のように記されている。『この日、問題となったたくさんの論題を取り上げる紙数もないがその一つは日本の学者の立場でしばしば矛盾と感じられる、科学的実証精神の必要と危機の克服としての宗教的精神の必要とがいずれもトインビーによって強力に肯定されていることであった』(社会思想社編『トインビー・人と思想』)。また「トインビーが最も日本の学者から聴取したいと思っておられるのは、仏教に関することであるらしい」(同)と。
(トインビー博士との五日間〈1973年の文章〉「ヒューマニティーの世紀へ」より)

★1956年、京都で学者たちとの会合がもたれたとき、トインビーが当時目新しかったテープレコーダーを廻しつつ、長時間疲れを見せず意見交換したのは壮観であったが、そのさい彼がもっとも熱心に質問をくりかえしたのは大乗仏教についてであった。日本の近代化についても関心を示したが、戦後の大衆社会的状況ならびに大衆文化についてはほとんど興味をおこさなかった。
                (図説『歴史の研究』訳者あとがきより 桑原武夫氏)

★これまで私は、数多くの著名人とお会いしてきた。なかでも、イギリスに来ると印象深く思い起こすのは、やはりトインビー博士である。長時間にわたる対談を終えた最後の一夕、私は博士夫妻と、別れを惜しみつつ、ロンドン市内のレストランで食事をともにした。私の妻や、秋山栄子SGI婦人部長の亡き父君・秋山富哉さんらも同席していたと思う。ちょうど、今日と同じ、風そよぐ五月のことであった。その折、博士がしみじみと語った姿が胸深く残っている。私は、博士が人生をどう深く生きようかと常に模索されていた謙虚な姿勢と信念に、感動を禁じえなかった。
「私が若ければ、東洋の仏法の神髄を探求し、実践し、行動したかった」
「私は、一応、歴史家、哲学者として名を成し、尊敬を受けている。しかし、仏法をたもち、実践するあなたのほうが、どれほど幸せだあるか。私は心ひそかに思っています」
私たちはさらに、正しい宗教と永遠の生命観について、率直に語り合った。そして一つの結論にいたった。「真実の信仰は、三世につながる幸福のための戦いである」と。
トインビー博士との対談の、もっとも重要な結論の一つがここにあった。
              (イギリス最高会議:1989.5.23ロンドン)

★「創価学会は、既に世界的出来事である」これは、今から約30年前の1972年に、20世紀最大の歴史家トインビー博士が、ある書籍の「序」によせられた言葉である。その書籍とは、私の著作の外国語出版「第一号」となった、英語版の小説『人間革命』第1巻であった。
さらに、博士は「(日蓮大聖人は)自分の思い描く仏教は、すべての場所の人間仲間を救済する手段であると考えた」と、日蓮仏法の世界性を高く宣揚されながら、こう指摘されておられた。「創価学会は、人間革命の活動を通し、その日蓮の遺命を実行している」と。
偉大な博士が洞察された、創価学会の「世界宗教」としての輝きは今、大光となって地球を包み始めている。(聖教新聞:2001.11.7「新・随筆人間革命」より)

★トインビー博士は、学究の積み重ねからくる信念を、いささかも揺るがすことはない。「創価学会に、そしてあなたに多くの批判があることはよく分かっています」と、笑っておられた。そして「しかし、私はそのような皮相な論議は、なんら本質とは関わりのないことを、よく存じております」と。
(トインビー博士との五日間〈1973年の文章〉「ヒューマニティーの世紀へ」より)

トインビー史観と「古代末期」・・・ピーターブラウン「古代から中世へ」を読んで

「古代から中世へ」と題するピーターブラウン教授の書籍を読み、何らかのコメントを書かねばと考えて、しばらく手元に置いている。
 この本は、東京教育大の西洋史の後輩で、法政大の教授である後藤篤子氏の編集したもので、ピーターブラウン教授の古代末期観の要点が知れるように簡略に編集されている。読んでみて、大いに刺激を受けた。特に、トインビー博士の歴史観との重なり合う部分に大いに、心動かされものがあった。
 トインビー博士の歴史観において、一番重要な部分は、あえて言えば、古代のギリシャ・ローマ世界(トインビー博士の観点からは両方を合わせて『ヘレニック文明』ということになるが)における、高等宗教たるキリスト教の成立の意義である。大著「歴史の研究」で第二次世界大戦前に発行された部分においては、文明と文明をつなぐ「蛹」のような役割を与えられていた高等宗教。いわば、文明という目的に対する手段であったのだが、戦後の諸卷において、むしろ文明の進展、その中で生じる人間の諸苦悩に答えるのが高等宗教であり、したがって高等宗教の深化・発展の為に、文明という人間の営みがあるいう役割の逆転、視点の転換がある。これこそ、トインビー史観が後世に伝える根本のメッセージである。その転換を示す歴史上の位置が正に「古代末期」である。
その意味で200年から700年にかけての地中海世界の扱いは重要である。それも、西ヨーロッパから、バルカン半島小アジア、地中海東部、パレスチナメソポタミア、イランと、地理的なパースペクティブを広げてみないと意味ある全体が見えてこない。トインビー博士の完訳版の「歴史の研究」において、歴史学的な内容において、最も深く充実している部分もこの年代、地域の範囲であり、トインビー史観の歴史学的なインスピレーションが、あちこちに光っている。このことは、当然、トインビー博士の「歴史の研究」そのものを読み込まなければ、見えてこないところであり、サマヴィルの縮刷版、図説「歴史の研究」などでは、当然、省略されている部分である。私個人の感想を言えば、やはり歴史家は事実をもって語らせるべきであり、その意味において、「20世紀最大の歴史家」としてのトインビー博士の、歴史学者としての真骨頂はこの部分にあると思う。勿論、人類の将来を論ずる部分は、この事実の上に成り立つ、極めて重要な精華である。池田先生との「21世紀への対話」はその究極の結論の対談集である。

宗教と社会について、
>>ブラウンは1960年第に発表した12篇の論文と6篇の書評を収録した論文集のタイトルを『聖アウグスティヌス時代の宗教と社会』としたことについて、のちに述懐している。それは自らの学問的探求全体のためのスローガンであり、アイルランドのダブリンでプロテスタント家庭に生まれた自分にとって、「社会」を欠いた「宗教」は関心の対象ではなく、後期ローマ帝国・中世初期の社会的・経済的・文化的環境の歴史に根ざさないようなキリスト教興隆史は「歴史」でなかった。この部分については、私にとっても全く同感である。創価学会という、社会的にも、文化的にも、アクティブな宗教団体の中で、本来的な意味での「宗教」のあり方を体験してきた自分の生涯をかけて、同じく「社会」を欠いた「宗教」は関心の対象ではなく、また「宗教」を欠いた「社会」も関心の対象ではない。

トインビー史観 世界史確立への決意

回想録 日本版への序文

 私の生涯のうち成人としての期間は今では半世紀以上になるが、私はこの年月を費やして、現代の国際問題を世界的な規模で研究し、また人類の過去の歴史を統一体として見ようと試みてきたからである。私の目ざしたことは、私と同時代の西欧人にその視野を広げさせ、物事を地方的に眺めるのではなくて世界的に眺めるようにさせることであった。

 

 私は自分の生きてきた時代に目撃した公的な驚くべき出来事の結果、世界の他の地方に対する西欧の態度が根本的に変わるのを、目にするまで生きてきた。今日、ヨーロッパ人だけでなくアメリカ人も含めて西欧の諸国民は、日本人が一世紀前に明治維新のときに目覚めていた一つの真理に、目覚めた。今度は西欧人の方が、自分たちの地歩を維持しようとするなら隣人たちを理解しなければならない、ということを悟ったのである。特に第二次世界大戦以降の西欧の態度の変化の程は、西欧の大学において非西欧民族の言語・文学・宗教・哲学・制度・歴史を研究するための設備が増大していることによって、大ざっぱではあるが容易に測ることができる。

 私はこの変化を目にして喜んでいる。なぜなら、それは平等の立場にたって世界の諸民族を統一する方向に向かう重要な一歩である、と私には思えるからである。そして諸民族がこころよく結びつくことの基盤は、平等をおいて他にないのである。