トインビー随想

トインビー博士について様々な話題を語ります

感想 『ヘレニズム』(城川)

感想 『ヘレニズム』(城川)
 
「ヘレニズム」を再度読了する。トインビー博士のこの書物は、ホーム・ユニバーシティ叢書の一冊として、岳父ギルバート=マレーの推薦によって、トインビー博士が1914年以前に執筆に取りかかったものであるが、途中二つの世界大戦やトインビー博士自身の「歴史の研究」の執筆等の事情によって中断され、ギルバート=マレーの死亡後の1959年に刊行されたものである。この段階でのトインビー博士は、「歴史の研究」全巻の発刊によって全貌を見せたトインビー史学に対して、一般読者からの好意的受け取りに反して、専門歴史学者を先頭に感情的ともいえる反論、論難がわき起こっていた時期であり、本書は単に、一般読者を対象とした平易な概説書という基本的前提を超える重要な意味を持つことになった。
 「歴史の研究」に於けるトインビー史学の根本テーマは「文明」単位の歴史の捉え方であり、その「文明」の比較・対照である。さらに文明と文明の接触によって、現在にまで人類社会に大きな広がりと影響を持つ「高等宗教」が成立するという視点であり、「文明」と「宗教」という語句にトインビー史学の意義が象徴されると言って過言ではない。その諸文明の比較の前提もしくは標準となっているのが、ギリシャ、ローマを一体の文明とする「ヘレニック文明」である。トインビー史学においては、諸文明を比較する指標として「ヘレニック文明」の各段階の歴史的事実が、縦横無尽に用いられる。したがって、この「ヘレニズム」という著書は、英文の題名が「Hellenism:The History of a civilization」であり、”The History of a civilization”という副題は、副題を超えた重要な意義を持っていると思われてならない。「ヘレニック文明」は、その成立から成長、挫折、崩壊まで一貫してみることができ、いわゆる「古典古代」として、現在、世界的な規模で覆い、圧倒的な影響力をもっている「西欧文明」がその模範(classic)とした時期がある文明である。15世紀以降、ルネサンスにおいて蘇ったとされる「古典古代」は、その後の西欧の歴史において、美術等の分野において影響を与えたが、ギリシャ・ローマの古典探究を中心とした「人文主義」は特に西欧の学校教育のカリキュラムに強い影響を与えることになった。その一つの典型例が19世紀にいたるイギリスのパブリックスクールの教育であり、その中でもウィンチェスター校からオックスフォード大学へのコースを、自他ともに認める優等生として進んだトインビー博士にとっての人格の根幹を形成する教養そのものであった。本書を一読してまず最初に感ずるのは、概説書、通史というかたちを取っているが、専門書のレベルの考察が正確になされており、執筆の基盤となっているトインビー博士のヘレニック社会に対する知識と見識の深さをあらためて感ずることになる。特に、トインビー博士の著作に共通することであるが、地理的な知識のレベルが深く、正確である。前書きにトインビー博士自身が、この著作で扱っている地域の中で、実際に訪れたことのある地域を列挙されているが、殆ど全ての地名が網羅されている。文章を読めば実感されるが、「現地を訪れ自らの五感で対象をつかむ」ことを、ほぼ100パーセント実行されている。本当に賞賛に値することと言わねばならない。
 記述された「ヘレニズム」は、通史としては超一流の内容である。私自身、学生時代以来、古典古代・ギリシャ・ローマの通史を多数読んできたが(世界史の教師として当然であるが)、このトインビー博士の「ヘレニズム」は間違いなく、この時代に関して最高の「通史」である。その理由としては、従来のいわゆる「通史」は、執筆者の専門分野の影響をどうしても受けてしまう。法制史、政治史、経済史、文化史、宗教史等、それぞれの執筆者が通ってきた学問世界のルートが、総合的に記述しているつもりでも、微妙な偏りとして文章記述の上にあらわれてしまう。読む側からすれば、一目瞭然である。それに対して、トインビー博士の記述は、あくまでも歴史形成の主体としての人間、社会を構成する人間と人間のネットワークの結節点としての人間に焦点をあて、人間生活の基本としての経済活動、その活動が展開される枠組みとしての政治活動、社会規範の具体的展開としての法、一人一人の市民が具体的な行動を選択する上での精神的な基盤、哲学、思想、宗教のかかわりと役割を、あくまでも一人の人間に即して記述していく。そのバランスは本当に見事である。分かり易いと同時に、本当に深い。特にトインビー博士の文明比較の根拠としての「哲学的同時代性」が、具体的な事例を通して明確に理解できる。いわゆるトインビー博士の「ツキディデス体験」、1914年の第一次世界大戦勃発時にオックスフォード大学でツキディデスの著作を講義していたトインビー博士が感じた感覚、「ヘレニック文明」と「西欧文明」が同じ「Break Down 」(挫折)の段階にさしかかっているといる感覚。その内実を具体的な史実の記述によって理解することができる。
また、第二次世界大戦後に、「歴史の研究」の記述の上で顕著になってくる視点の変化。「高等宗教」は「文明」を育む「蛹」ではなく、むしろ「文明」の興亡は「高等宗教」を生み、発展させていくためにあるという視点を証明する具体的事実としてのキリスト教大乗仏教成立の経緯についても、具体的な歴史の事実によって明確にされている。通史の強みは、事実を時系列で流れとして扱うことによって生じる明確さだと思うが、「高等宗教」の成立という大きなテーマ、従来の通史では政治・経済の流れとは別個に扱われ、社会的な意義が今ひとつはっきりしないテーマが、同時代の人間社会の全ての要素とのつながりの中で扱われ、人間社会での「宗教」の意味が明確に見えてくる。トインビー史学の一番重要な強調点を自然に理解することができる。
 さらに、トインビー史学の基本的な立脚点としての人間主義、「人間社会における根本的罪悪としての社会的不平等と戦争」を悪として認識し、反対していく視点が一貫して通奏低音のように事実の記述の背後に流れている。近代における歴史学は、あくまでも「科学」として客観性を要求し執筆者の価値判断を排除する。しかし、トインビー博士はかつて「人間性に反する行為をあたかも客観的な出来事として淡々と書いていくことは私にはできない」として、ギリシャ軍によるトルコ人の虐殺の記事を、英国のマンチェスター・ガーディアン紙上に書き、結果としてロンドン大学教授を辞職せざるを得なくなる経験をされているが、この「ヘレニズム」の文章の中でも、その視点は一貫している。この時代を扱った著作に、プルタルコスによる「対比列伝」いわゆる「プルターク英雄伝」があるが、トインビー博士の記述の中においては、ことさらに英雄視することなくバランスをもって取り上げられている。
 
p15,L17~
・・・文明におけるヘレネスの実験は、たとえなんの残存効果がなかったとしても、人類史の魅惑的な挿話であったといえよう。しかし回顧してみると、われわれは、キリスト教大乗仏教、および他の高等諸宗教、特にカナンとインドにおける、ヘレニズムと同時代の二つの文明とヘレニズムとの出会いから生じたイスラム教と仏教以後のインド教の観念および理想におよぼしたヘレニズムの貢献には、後代の人びとにとって意義と価値があるということを、今や知ることができる。これらの高等宗教は、今日の人間生活における最大の精神力であって、ヘレニズムは、それらに及ぼした影響のうちになお生きている。高等宗教に対するヘレニズムの貢献は、消極的でもあり積極的でもあった。その最大の消極的貢献は、人間崇拝の欠陥を悲劇的に証明したことであり、その最大の積極的貢献は、受肉という反ユダヤ的観念をユダヤ教へ注入することを通して、キリスト教を呼び起こしたことであった。
 
p14.L10~
・・・ついにはヘレネス社会の半分の魂をとらえたキリスト教ユダヤ教の変形であった。そして、この変身はユダヤ人からみれば、ユダヤ教が護持したもののまさに正反対のものであったヘレネスの観念を、ユダヤ教に注入することによってもたらされたのであった。キリスト教の信仰によれば自身の姿に人間を創造したイスラエルの神は、受肉して人間となった自分自身によって、その被造物たる人間のための救済手段をも用意した。ユダヤ人にとって、神の受肉というこの革命的なキリスト教の教義は、ヘレネスの異教におけるすべての誤謬のうち最もいまわしいものの一つである神話を、冒涜的にユダヤ教の内にもちこむことであった。これは、神性についての人間の表象をきよめ高めるための、長期の、そして困難な苦闘のうちにユダヤ教が達成したあらゆるものへの裏切りであった、正統派のユダヤ人ならば、だれもそれをすることはできなかったであろう。この大罪は、紀元前最後の世紀のはじめの頃におけるガリラヤ地方のユダヤ教への改宗以前の千年紀の四半期のあいだヘレネスの影響下にあったガリラヤ人によってのみ犯されえたものであろう。キリスト教の教義と観念へのヘレニズムの影響は実に深いものであった。なぜなら、神は人間になることにおいて、人間の逃れることのできない運命である苦悩に自己をさらしたからである。なるほど、人間崇拝のうちに隠されている苦しむ神という表象がヘレネスの人間崇拝者たちによってしりぞけられたことは事実である。聖パウロは、十字架にかけられたキリストというのは、ユダヤ人にとって躓きであるうえに、ヘレネスからみれば、愚劣だということに気づいていた。ヘレネスの論理は、この点においては、女と農民の下層社会の宗教に対するヘレネス教養人の軽蔑に屈服した。しかしながら、受肉というヘレネスの観念のユダヤ教への注入は、その悲劇的な死と勝利の復活とがヘレネス社会の巨大な下層の人びとの心に対する支配力をけっして失ってはいなかった神の崇拝を、今度はキリスト教においてふたたび表面に持ち出すという効果をもたらした。・・・・・・
 
 

「21世紀への対話」におけるトインビー博士の生涯の課題への結論

  1975年に出版された池田大作先生との「21世紀への対話」は、結果としてトインビー博士の人生最後の思索の結論を表明することになった著作です。

 遺著として1976年刊行の「人類と母なる大地」をあげることもできますが、この著作は編年体の形で世界全体の歴史を古い時代から順に1974年まで記述する「世界史」の試みです。主著「歴史の研究」は〝文明〟中心の世界史への試みですが、トインビー博士は最後の著作で編年体の世界史を記述しました。このことは多くのトインビー研究家を戸惑わせることであり、現在唯一に近いトインビー博士の伝記である「Toynbee」〔完全な翻訳はないが、創価大学名誉教授の浅田氏による要約がある〕のなかでも、著者のマクニール自身が評価に迷っている様子がうかがわれます。実際、読んでみますと敢えていえば、日本の高校の世界史教科書の記述の流れにトインビー博士の豊富で深い歴史的な知識を加えて書かれた通史の試みです。あえて日本の高校の世界史教科書と書いたのは、現在の世界全体を見渡して各国の歴史教科書を見たとき、全世界の地域について公平に満遍なく取り上げて記述している教科書は、おそらく日本の現行世界史教科書が一番優れていると思われるからです。

 したがって、最晩年の1972年、1973年のそれぞれ5月にロンドンのトインビー博士の自宅で行われた対談をもとに編集され一冊の書籍として出版された「21世紀への対話」(英語版「Choose Life 」)に取り上げられている内容は、トインビー博士の生涯の思索の結論であるとして間違いないと思います。このことは、翻訳された著作『歴史の研究』、『試練に立つ文明』、『世界と西欧』、『東から西へ』、『一歴史家の宗教観』、『歴史の教訓』、『戦争と文明』、『ヘレニズム』、『アジア高原の旅』、『オクサスとジャムナ』、『アメリカと世界革命』、『現代西欧文明の実験』、『現代人の疑問』、『交遊録』、『回顧録』、『未来を生きる』、『死について』、『爆発する都市』を経て『21世紀への対話』までを読んでみたとき明らかになってきます。1975年10月にトインビー博士が逝去されたのちにも『図説・歴史の研究』が邦訳刊行されましたが、この『図説・歴史の研究』は内容的には、従来刊行された『歴史の研究』の要約に図版を添えて、理解を深めてもらおうという内容であり『歴史の研究』の『再考察』〔完訳版『歴史の研究』21,22,23巻〕の内容を大きく超えるものではありません。各著作を通読していきますと、トインビー博士が継続的に思索し、折々の著作の中で提示している根本的なテーマの中には、最終的な結論を出されていないテーマがあります。いずれも根源的なテーマです。

 思いつくところを、列記します。いずれもトインビー博士が『21世紀への対話』の序文の中で、ご自身と池田先生との認識が一致した部分として明記されております。その文章を次に引用します。

まず、二人は宗教こそが人間生活の源泉であると信ずる点で同じ見解にたっている。

また、人間は宇宙の万物を利用しようとする生来の傾向性を克服すべく不断の努力を払わなくてはならず、むしろ己れを自在に宇宙万物に捧げしめ、もって自我を〝究極の実在〟に合一させるべきである、とする点でも二人は同意見である。ここに〝究極の実在〟というのは、仏教徒にとっては〝仏界〟のことである

この〝究極の実在〟が人間の姿をした人格神でない、と信ずる点でも立場を同じくしている。

二人の共著者は、さらにカルマ(宿業)の実在を信ずる点でも同じ立場に立っている。

二人の共著者の見解では、人間にとっての永久の精神的課題は、己れの自我を拡大し、その自己中心性 (エゴチィズム)を〝究極の実在〟と同じ広がりのものにすることである。・・・・(中略)・・・・しかして、それは厳しい精神的努力によって現実生活に生かされる必要が、どうしてもあるのである。

こうした個々の人間による精神的努力こそ、社会を向上させる唯一の効果的な手段である。人間同士の関係は人間社会を構成する網状組織(ネットワーク)であるが、諸制度の改革というものは、それらがいま述べた個々の人間による精神変革の兆候として、かつその結果として現れてきたとき、初めて有効たりうるのである。

人類共通の諸問題が現今かくも普遍化しているのは、ひとえに過去五百年間にわたる西欧諸民族の活動の拡大により、世界大の技術的、経済的関係の網状組織(ネットワーク)が作られた歴史上の所産なのである。技術や経済の関係が密接になれば、政治、倫理、宗教における関係も、当然密接になる。事実、現在われわれは一つの共通的な世界文明の誕生を目撃しているが、これは西欧起源の技術という枠組みの中で生まれながらも、いまやあらゆる歴史的地域文明からの寄与によって精神的にも豊穣化されつつある。池田大作とアーノルド・トインビーの世界観にみられるじつに多くの共通点を幾分なりとも説明づけるものは、あるいはこうした人類史における最近の傾向なのかもしれない。

それを説明づけるもう一つのものとしては、二人の共著者がその哲学論、宗教論を交わすにあたって人間本性中の意識下の心理層にまで分け入り、そこにいつの時代、いかなる場所においてもあらゆる人間に共通する、人間本性の諸要素というべきものに到達していることが考えられよう。すなわち、人間本性の諸要素といえども、やはり森羅万象の根源をなる究極の存在基盤から発生した存在だからである。

以上、トインビー博士自身が序文の中で挙げておられる内容をそのまま引用しました。この内容は、トインビー博士の生涯の研究の中で一貫して追及されてきた根本的なテーマを含んでいます。それぞれのテーマに関して、さらに補足的に敷衍して論じていきたいと思います。

まず、最初に述べられている『宗教こそが人間生活の源泉であると信ずる』と言う点については、トインビー博士の生涯の業績の根本をなす著作「歴史の研究」の約30年にわたる綿密で精細な「文明」を中心とした研究の最終的な結論です。この結論にいたるまでの思考の過程は、博士自身が様々な部分で記述しています。1939年に発刊された「歴史の研究」の前半部分、10巻からなる原著英語版のⅠ~Ⅵ巻の部分においては宗教はあくまでもそれぞれの文明の文化的構成要素であり、政治制度、経済制度、などと同等の文明の手段として位置づけられていました。しかし、研究の過程で文明の挫折、解体を論究する段階に至って、とくに文明と「高等宗教」の関係を考える段階で、文明と宗教の関係を考え直し修正しました。「文明」と宗教、特に「高等宗教」と認定できる宗教との関係において、目的と手段が180度逆転する大きな修正でした。この点について「再考察」の中で、次のように記述しています。

「わたしは自分の手がかりにしたがって、高等宗教を文明と呼ばれる種類の社会がそれ自身の再生産のために備える機構として見た。わたしは高等宗教を、解体期の文明がその崩壊の最後の段階においてはいりこみ、そしてそこから新しい文明がその後に生まれる“蛹”と見なした。高等宗教の歴史的な役割にかんするこのような見方は、シュペングラーやバグビーの見解のなかにわたしが見る同じ根本的な誤りの一変種であった、とわたしは今では思っている。それは高等宗教はそれ自身と異なる種類の社会に役立つがゆえに意義があるのであると想定していた。わたしはわたし自身の出発点から出発して、いくつかのこまかい点についてシュペングラーやバグビーとは異なる発見に到達した。高等宗教は、ある一つの文明の内部に生まれたと考える代わり、それはつねに二つ、もしくはそれ以上の文明の出会いから生まれ、そしてこの出会いの前にはつねにそれらの文明のすくなくとも一つに挫折と解体があったとわたしは考えた『再考察』p177
 
「宗教にたいするわたしの態度がかつては功利主義的であったとしても今ではそうではない。いずれにせよ、現在の態度にたいする判断がどのようなものであるにせよ、宗教はそれ自体で一つの目的である。なぜなら、それはこの世の何者よりも人間にとってさらに重大な事柄を問題にしているからである。これが高等宗教を生んだ発見――――あるいは啓示――――であった。高等宗教を非宗教的な目的に役立つように利用することは、宗教が文化の全構成の不可分の一部である原始的な状態に逆戻りすることである。この社会的な逆転は、わたしには精神的退歩であるように思われる」『再考察』p178~p179 注(1)     
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

トインビー博士とパブリック・スクールの教育

 トインビー博士の生涯において、決定的な影響を与えた要素をたどってみたとき、やはり、トインビー博士が12歳から18歳までの最も多感な青少年時代を過ごしたウインチェスター・カレッジでの生活を挙げないわけにはいかないと思います。

 まず第一に、その中でつちかった友との一生涯にわたる友情、また先生方との深いかかわりが挙げられると思います。第一次世界大戦という思いもかけなかった歴史的出来事に遭遇することによって、このつながりは深い意味を持ち、トインビー博士に生涯にわたる影響を与えることになります。

 さらにウインチェスター校を初めとして当時のパブリックスクールの教授内容の中心であった人文主義教育が与えた影響。このことはトインビー博士自身が回想録で、具体的に書いておられますが、カリキュラムの大部分をギリシャ語・ラテン語を占めるという教育を受けることによって、今生きている西欧文明の歴史を、すでに完結し、誕生から崩壊までを総体として見ることができる別の文明と比較対照してみることが可能になり、文明を単位とする人類史、真実の意味での世界史を論じ、研究することが可能になりました。

 さらに日本では意外と論究されませんが、キリスト教的な紳士を生み出すことを目指す教育が挙げられると思います。19世紀のパブリックスクールは、今私たちが想像する以上に宗教的な雰囲気が強くあり、ラグビー、サッカー、クリケット等の〝ゲーム〟を重視し〝フェアー〟であることを最高の価値として、「マスキュラー・クリスチャニティー」(日本語に直訳すると〝筋肉的キリスト教〟となります)を志向する教育が理想とされました。パブリックスクールの歴史の中で、必ずその名前がでてくるラグビー校のトーマス・アーノルド校長、その時の在校生で、これも必ず名前がでる小説「トム・ブラウンの学校生活」の著者でもあるトマス・ヒューズが描写する当時のパブリックスクールの様子は、まさにこの理想を目指す過程を生き生きと描写しています。

 これらの要素が融合して、パブリックスクールの生徒一人一人の人格として形成されていきました。個性の違いはあっても、いわゆる〝ジェントルマン〟という言葉に象徴される19世紀後半から20世紀前半にかけてのイギリスにおいて理想として志向すべきとされた指導者像です。それぞれの要素の影響は、最終的には一個の人格として集約される総合的なものと思いますが、ここでは個々の要素を具体的にみていくことによって、トインビー博士に対する影響を考えていきたいと思います。

 まず、この12歳から18歳の最も多感な時期を親元を離れ、共同生活を送ることに生み出される生涯の強い友情と連帯意識です。今の日本の学齢に当てはめると、中学校入学から高校卒業まで、いわば子供から大人へと変わっていく身体的にも精神的にも大きく変化して行く時期です。私自身は、このような共同生活を経験することはできませんでしたが、私が勤務した私立学校、創価学園においては創立当初から全国に開かれた生徒寮をもち、生徒の共同生活の場である寮が教育の根幹に組み込まれていました。そこに寮担当の教員として勤めた経験から、寮生活から生まれる生涯の友情、連帯意識の強さを心からの感動と尊敬の念をもって語ることができます。この共同生活を共にした人たちは、一生涯にわたって強い友情連帯をもって生き抜いていおられることは間違いありません。トインビー博士が70代の後半に出版された「回想録」は、「寄宿学校」と題する、ウインチェスターでの思い出から書き始められます。

ウインチェスターから私は生涯の宝を三つもらってでた。われわれに教育を与えて くれた創立者たるウィカムのウイリアム〔生誕1324年~死没1404年、1382年・イギリス最初のパブリックスクールであるウィンチェスター・カレッジを創立した〕に対して、5世紀以上もの隔たりを越えて結んだ父子の関係。当時の副校長〔ということは学校の寮監ということであったが〕でのちに私の卒業後校長になったM.J.レンドール先生に対する尊敬と賞讃と愛情。同年配の多くの人々に対する深い友情。この三つである。この友情は、兄弟の間の血縁関係と同じくらい親密で永続的なものであった。生涯の友エディ・モーガンにはじめて出会ってから数分後、私は第九室に立って、デイビット・デイヴィスを初めて眺めていた。彼は五番で入学したのだと思う。エディ・モーガンと私はまだ生きている。デイビットは、私より六ヶ月若かったのに、もう生きていない。しかし1902年から1964年まで、デイビットと私は決して別れたことがなかった。われわれは一緒にウィンチェスターとオックスフォードを卒業し、身体的に不適格であったために二人とも第一次世界大戦で戦死することを免れ、ロンドンで活動している時期には毎週一回昼食を共にしたものであった。」(回想録Ⅰp10)

さらに続けて、トインビー博士の歴史研究を貫く原点としての「戦争に対する根底的な否定」が生まれた原体験としての同世代の友人への思いを語られます。

「われわれの世代で学校に通った者のうち、およそ半ばは第一次世界大戦で命を落とした。おそらくこのために、生き残った者たちのきずなは以前にもましてなおさら緊密なものになったのであろう。しかしわれわれのうちで天寿を全うした者と時ならずして生命を絶たれた者との間で、そのきずなはこの上なく緊密なものであったし、今もそうなのである。・・・・(中略)・・・・半数も死んだのでなかったなら、著名な人々の数は少なくとも現在の二倍になっていよう。たとえば、ボビー・パーマーは今日保守党の長老政治家になっていよう。G.L.チーズマンは、フラッカーロとデ・サンクティスの死後現存するローマ史家としては、疑問の余地なく世界で最もすぐれた学者になっていよう。・・・・(中略)・・・・ウィンチェスターを出たとき、私はギリシャ語の二行連句を作って、そこで受けた古典教育と創立者に対する敬愛の念にもかかわらず、そこを去るのがうれしいと宣言した。後にオックスフォードで私は第二の二行連句を書いて、第一のものを取り消した。そのときにはもうウィンチェスターの部族的な律法の支配下には暮らしておらず、ウィンチェスターで結んだ友情が私にとって貴重な宝であることを悟っていたのである。」(回想録Ⅰp13)

トインビー博士の自宅のマントルピース(暖炉)の上には、若くして命を第一次世界世界大戦で失った友人の写真額が20あまり飾られていたということは、その部屋で対談された池田大作先生の感想の中に印象深く書かれています。そして、なぜ優秀な青年たちが戦死しなければならなかったかについても触れられています。先ほど冒頭にあげたパブリックスクールの人材像、その生き方の理想としての「ノブレス・オブリューズ」を貫こうとする生き方は、多数のパブリックスクール出身の青年に、国家の一大事としての戦争、第一次世界大戦に、自ら志願して出征する道を選ばせました。

刀槍・弓矢が中心の武器である中世の騎士の時代ならいざ知らず、機関銃等の機械的な大量殺人兵器が、科学の発達によって次々と戦場に登場した第一次世界大戦においては、個人的な勇気を持って戦陣の先頭をきる生き方は自らの命と引き換えの、無謀ともいえる生き方になっていました。パブリックスクール出身で自ら志願した青年は、まず最下位の将校として任官、十人前後の兵を率いる小隊長として戦場の最前線で戦いに参加することが多く、パブリックスクールで培ってきた理想のとおりに勇気を持って戦闘の先頭に立った彼らの戦死率は非常に高いものがありました。結局、1914年の戦争の勃発から1年以内に、トインビー博士の同級生の半数が戦死する結果となりました。トインビー博士は、この事実とご自身が受けた衝撃を繰り返し、繰り返し語っておられます。その様子は、まさに〝通奏低音〟のようにトインビー博士の全生涯にわたる著作の中で一貫しています。この戦死率の高さについても次のように言及されています。

「私自身が衝撃を受けてこのこの伝統的な態度(戦争を必要悪として肯定する生き方)からはっきりと押し出されたのは、学校時代に得ていた同年配の友人のおよそ半数が第一次世界大戦で殺戮されたためである。彼ら〔=私たち〕が属していた世代と社会階級は、あの戦争のときのイギリス軍のうちで最も多くの戦死者を出した。彼らは職業軍人ではなく、臨時に少尉の地位を与えられた志願兵であった。そして第一次世界大戦においては、この地位を与えられるということは死刑の宣告を受けることにも等しかったのである。彼らの多くは、『戦争を終えるための戦争』において、自分を犠牲にしているのだと信じつつ生命を投げ出した。私自身は偶然の出来事〔ギリシャ研究旅行中にかかった赤痢の後遺症のため兵役不適と判断される〕のために1969年にもまだ生きている。こうして生きてきた結果、私は戦争を黙認する伝統的な態度から、絶対反対の立場に転向したのである。戦争は立派な制度でもなければ微罪でもなくて罪悪である、と私は1914年に確信するようになった。1945年以後は、もし人類が依然としてこの罪悪を犯し続けるなら早晩、集団自殺を遂げることになろうと確信している。」(回想録Ⅱp38)

  トインビー博士の著作として有名な「歴史の研究」、執筆に30年以上の歳月を費やしたトインビー博士の主著ですが、この大部の著書を締めくくるにあたって、末尾の部分に「感謝の言葉」を記されています。丁寧な心遣いにあふれた文章が続きますが、その中で実名をしっかりとあげて、20代前半で戦死した友人のことを記されています。 引用します。
「『時』の緩慢な仕事であり、したがって、人生のあらゆる偶然と転変に左右される地味な事業のうちに、全く『記念碑を残さない者』もいる。本『研究』の筆者を63歳まで生き延びさせた偶然の戯れは、38年前に以前に戦死した彼の同輩や友人の生命を断ち切った。30年以上の歳月を要した彼の著作を完成しようとする今、彼は若くして死んだ ガイ・レナード・チーズマン  Guy Leonard Chesman,  レズリー・ウィテカー・ハンターLeslie Whitaker Hunter,  アレグザンダー・ダグラス・ギレスピーAlexander Douglas Gillespie,  ロバート・ハミルトン・ハッチソンRobert Hamilton Huchison,    アーサー・イネス・アダムArthur Innes Adam,   ウイルフルド・マックス・ラングドンWilfrid Max Langdon,    フィリップ・アントニー・ブラウンPhilip Anthony Brown,     アーサー・ジョージ・ヒースArthur George Heath,    ロバート・ギブソンRobert Gibson,
およびジョン・ブラウンJohn Brown,の戦死によって世界が失った、ついに書かれなかった著作のことを考えずにはいられない。これらの人々は、文明時代の始まり以来戦われてきた戦争に於いて生命を中途で断ち切られた、無数の勇敢な、自己を犠牲に捧げた青年―――この世は彼らの住む所ではなかった―――の十人の代表にすぎなかった。第一次世界大戦に於いて若くして軍人として生命を捧げたこれらの学者は、生き残った彼らの友人の心と記憶のなかに生き続けている。そして、生き残った者の一人である筆者の生涯と著作は、言葉に言いあらわすことができないくらいに多く、これらの若くして死んだ仲間の不断の記憶に負っている」(「歴史の研究」完訳版20巻 p441)
トインビー博士の生涯に於いて、敢えて既存の歴史研究の道を取らず、全人類の全時代にわたる歴史を、文明の比較・検討を通して表現しようとされた根本の目的が明確に表現されていると思います。

 今から100年以上も前の戦争のことであり、特に日本の場合は日英同盟を口実に参戦しましたが、主戦場のヨーロッパでの戦争に陸上戦力は参加せず、海上戦力の応援にとどめ、一方アジア太平洋地域では南洋諸島および中国青島のドイツの権益を攻略してその手に収め、戦争状態にある当時の最先進国地帯であるヨーロッパの生産活動が戦時体制で手一杯である状況下で、代行の生産で〝漁夫の利〟とも言うべき莫大な利益が転がり込み、いわゆる〝成り金〟が輩出するという状況が現出しました。さらに悪い言葉で表現すれば〝火事場泥棒〟とも表現できると思いますが、アジア・アフリカの諸国の中で西欧と肩をならべるまでに力をつけ、アジア・アフリカ諸国民の希望の星となっていた日本が、その期待の思いに反して自らも欧米列強と同じ帝国主義国家として利益を追求し、悪名高い対中国21箇条要求をつきつけるという出来事が象徴するように自国の利益を追求することに熱心に取り組む。いまから考えるとその後の傀儡国家・満州国の成立からその延長上の日中戦争、さらにアメリカ合衆国との対立から結果的には全世界の主要国と戦うことになり最終的に日本の歴史始まって以来の徹底的な敗戦と、破局を経験する方向への第一歩を明確に歩み出したのが、第一次世界大戦における日本であったと思います。従って日本人にとっては、遠いヨーロッパでの戦争であり、直接的な経験に基づく印象が薄いいわばよそごとの戦争だったと思います。

この戦争を契機としてヨーロッパで成立した数々の小説、例えばマルタン・デュガールの「チボー家の人々トーマス・マンの「魔の山」等に盛り込まれたような個人の運命と歴史的な出来事との邂逅、そこに生まれる存在をかけての思考とは無縁の世界であったと思います。また第一次世界大戦から第二次世界大戦に及ぶ二十世紀前半の〝30年戦争〟を、全人類的な経験としての西洋科学技術文明の破局として捉え、根底的なパラダイムの変換の必要を志向する数々の業績、例えばユング深層心理学における無意識層への取組み、カール・バルトにおける神学。ショペングラーの「西欧の没落」、そこで認識される「文明」単位での世界史の探究としてのトインビー博士の「歴史の研究」。これらの業績を虚心坦懐に受け止めると、二十世紀前半の第一次、第二次世界大戦がもつ究極の悲劇的体験としての意味の解明を契機とした「文明」的衝撃の大きさが見えてきます。

トインビー博士にとっての第一次世界大戦は、まず具体的には開戦後一年間のうちに、クラスの友人の半数を失うという経験からスタートしました。この経験は、単に個人的な経験の次元にとどまらず、ヨーロッパの人々にとっての文明観、世界観の根底を揺るがす根本的な経験として、トインビー博士の生涯の学問的営為の原動力となり、世界の歴史を探究するなかで〝戦争〟と〝差別〟という人間社会の根底的な二大害悪をなくす道をさぐるというトインビー博士の生涯の根本テーマとなりました。ここにいたって、いわゆる価値自由、「科学」的な記述において要求される客観性から離れることになります。論じている対象を正確に天気予報のように記述するのではなく、戦争は〝悪い〟〝差別〟は悪いとの良い悪いの価値判断が記述・論考の中に加わることになります。その善し悪しの判断は、核兵器という人類全体の絶滅をもたらす黙示録的兵器が登場した現在において重要な判断であると思いますし、心ある人びとの賛同を得ることを確信します。

 

         

            

 

 

 

 

 
 

 

      

 

 

 

 

トインビー博士の「シリアック文明」について

  トインビー博士が亡くなられて、すでに45年(1975年逝去)も経過していますが、この間、『文明』を単位として、世界の歴史を見ていく研究、論述は、遅々として進んでいないと言っても良いと思います。1970年代以降、トインビー博士に関して文明評論家的な取り上げ方は散見されますが、しかし、「歴史学」「考古学」の学問的な成果をしっかりと踏まえ、その基盤の上で「文明」を単位として世界史学を展開する視点からの論述は皆無に近いと思います。したがって、トインビー博士が達成した「歴史の研究」に、真の意味で迫る研究は未だに存在しないと言っても良いと思います。

ただし、中には明確に文明論的アプローチをとった考察もあります。1990年代、いわゆる「冷戦」終結後の世界に一つの衝撃をあたえた、ハンチントン博士の「文明の衝突」は、方法論としての文明論的なアプローチをしっかりと把握した上で世界情勢、国際関係の分析を展開しています。

また、比較的、最近の考察では京都大学名誉教授である中西輝政氏の「国民の文明史」があります。21世紀に入った2003年に「新しい歴史教科書を作る会」編として扶桑社から出版され、2015年にPHP文庫として再出版されました。その中で、中西氏は、現在の段階で存在している文明としての「日本文明」に焦点をあて、その特性の検討を中心として、論を進めています。しかし、前半部分で、かなり丁寧に『文明』を単位として歴史を見ていくことの必要性を論じ、従来の文明論研究の歴史を、ショペングラー、トインビー、バグビー、ハンチントン等を取り上げて論述しており、『文明』単位の歴史の見方を確認する上では、有効性が高いと思います。

また、ハンチントンは20世紀の後半、存在している文明として中国、日本、インド、イスラム、西欧、東方正教会ラテンアメリカ、アフリカをあげます。いずれにしても、『文明』としての日本のあり方については、中西先生の問題意識 を待つまでもなく今後の世界を展望し、その中での日本の方向性を確認する上で重要な意味を持っていると思います。このことについてはまたあらためて、考える機会を持ちたいと思います。

ここで、触れたいのはバグビーの視点によって、厳しく“非科学的”であると断定されたトインビー博士の視点を、文明を扱う具体的な例証をふまえながら検討していきたいと思います。バグビーは次のように書いています。

トインビーは、きわめて無分別で非科学的なやり方で研究に着手することによって、文明の比較研究に大きな害を及ぼし、こうした企て全体の信用を失墜させることに力を貸してきた。ショペングラーと較べてさえ、かれは科学以前の道徳論的な歴史哲学の方向に一歩逆戻りしている。〔『歴史の研究』の〕後のほうの諸巻〔第7~10巻〕における黙示録的ヴィジョンが示しているように、かれはもともと預言者、それも〈近代ヨーロッパの徒〉の歴史学者の仮面をかぶった預言者なのである」(『文化と歴史』186頁)

この、ある意味では鋭い追求に対して、前稿(「フィリップ・バグビーとトインビー博士」)において、トインビー博士の視点は、歴史学の基本をしっかりと踏まえた視点であると書きました。その視点とは、人間世界の歴史的事実に対して納得できる説明を可能にするために、量的にも多量に、質的にも深く、歴史的事実に精通していくことを大前提に、歴史的事実をしっかりとふまえ、その前後関係の解明を通して記述を組み立てていくということでした。バグビーの批判は、「後のほうの諸巻〔第7~10巻〕における黙示録的ヴィジョンが示しているように、かれはもともと預言者それも〈近代ヨーロッパの歴史学徒〉の仮面をかぶった預言者なのである」という箇所において、トインビー博士が、第二次世界大戦を経験した上で執筆された後のほうの諸巻〔「歴史の研究」原本 第7~10巻〕に見られる雰囲気を “黙示録的ビジョン” と表現し、トインビー博士を “〈近代ヨーロッパの歴史学徒〉の仮面をかぶった預言者 というきわめて強い表現で批難しています。歴史学者ではないという批難は、トインビー博士にとってご自身の人生そのものを否定されることに等しいかなり強い表現であると思います。この批難は当たっているのでしょうか。

歴史学の専門論文を読み込んでいくと、科学的であろうとする強い動機は、専門分野をできるだけ狭く絞り、その分野についての原資料にしっかりとあたり、先行論文をしっかりと読み込み、さらに歴史学的に矛盾のない論理を組みたて記述をする。いわば職人の仕事に属するていねいな仕事をしなければなりません。その結果が一つ一つの論文でです。そのような専門歴史学者の世界から、トインビー博士の「歴史の研究」を見たとき、まず率直な思いとして、一人の歴史学者としての専門性の範囲を大幅に超え、自在に世界の歴史を記述することに対しての違和感、というよりも嫌悪感が先立つのではないかと思います。しかし、この批難はあまりにも感情的です。このことを具体的に検討するためには、トインビー博士の主著「歴史の研究」を丁寧に読み解いていくことが、まず第一に必要なことであると思います。

ここで、まず前提となる『文明』について検討を加えてみたいと思います。世界史の上において存在した『文明』として、トインビー博士は23の文明を数えあげており、その中には日本文明も入っています。またバグビーは大文明と周辺文明という立て分けを設定したうえで、大文明として中国、インド、バビロニア、近東、エジプト、古典、西欧、中米、ペルーの九つをあげ、大文明としての中国文明を設定した上で、その周辺文明として日本文明を設定します。大文明とそれに影響を受けて成立した周辺文明の立て分けというバグビーの視点に影響を受けたと言われていますが、トインビー博士は従来設定していた23の文明を再検討し、1961年に刊行された「再考察」および1972年に刊行された「図説歴史の研究」の中において、“衛星文明”という位置づけで日本文明を取り上げ、これがトインビー博士の最終的な文明の設定となりました。

世界地誌、世界史の予備知識がないと、煩瑣な事項の羅列のように勘違いされてしまいますが、実際には厳密な学術研究の結果を丁寧に読み込み、さらにしっかりと考察されたものです。多少、煩瑣になりますが、『文明』の検討、理解においては必須と思いますので引用します。トインビー博士が「再考察23巻」で検討をし、最終的に認定された文明は以下のようになります。

Ⅰ.十分に開花した文明

A . 独立した文明

 *他の文明と親縁関係を持たない文明

  その文明の成立にあたって大きな影響を与えた文明が存在しない文明のことです

1.中央アメリ

これは元の表にあった「マヤ」文明と「メキシコ」文明と「ユカタン」文明を含むだけでなく、元の表では考慮していなかったメキシコ高原とグァテマラ高地の中央アメリカ古典期を含む

いわゆる、メソアメリカ文明です。前古典期とされる前1200年ころからのオルメカ、古典期とされる紀元前後からのテオティワカン、マヤ、紀元後7世紀頃からのトルテカ、後古典期とよばれる紀元後11世紀ころからのアステカなどが代表ですが紀元後16世紀からスペインの侵略を受けて征服され破壊されました

2.アンデス

いわゆる「インカ帝国」で文明全体の政治的統一(universal state)の段階を経験する文明です

中央アンデス地帯の海岸部、山岳部を中心として紀元前3000年ごろから神殿が作られはじめたが、土器が製作され始めるのは前1800年ごろからでした。その後海岸部にはモチェ、ナスカ社会、高原部にはティワナク社会が成立、7世紀になるとワリ社会、12世紀ごろからはチム―王国が現在のペルー北海岸を支配した。15世紀になるとインカが南北4000キロにわたる大帝国を築きあげたが、16世紀スペイン人の侵略によって崩壊しました

     *他の文明に対して「子の関係」にない文明

   成立にあたって、大きな影響を与えた文明「親」文明が確認できない文明です

3.シュメル・アッカド

これは元の表のシュメル文明とバビロニア文明を含む。ティグリス・エウフラテス流域の独自の文明の最後の時期の文明であるバビロニア文明は、その霊感(インスピレーション)において依然としてシュメル的であった。アッシュールバニパル(アッシリア帝国のB.C7世紀の王)の図書館は、シュメール語で書かれたテキストとシュメル語の辞書を蔵していた。それにもかかわらず、その頃にはシュメル語が「死語」になって千年以上も経っていたことを考えると、紀元前7世紀にアッシリアティグリス・ユーフラテス中流)とバビロニアティグリス・ユーフラテス下流)に広がっていた文明に「シュメル」という名をつけることは誤りであろう。ハンムラビ(B.C17世紀のバビロニア)時代以来、シュメル文明の生ける伝達具として、セム系のアッカド語がシュメル語に取って代わっていた。したがって紀元後1世紀までその特性を失わなかった(楔形文字の使用等)文明の全期間を示すには、「シュメル」という名よりもシュメル・アッカドという名の方が啓発的である。

紀元前3000年ころ、ティグリス川、ユーフラテス川の河口地域に成立した最古の文明、いわゆるメソポタニア文明です

4.エジプト

紀元前3000年ごろの、ナルメル王による、上・下エジプトの統一から文明全体の政治的統一(universal state)が存在した文明としてトインビー博士は考えています。紀元前4世紀のアケメネス朝の征服によってエジプト人による支配は終わりを告げたと言われています

5.エーゲ

これは元の表の「ミノス」文明だけでなく、当時の大陸ヨーロッパ・ギリシャのエーゲ文明の一種である「ヘラディック」文化と、「ミノス」と「ヘラディック」双方の最後の時期の文化である「ミュケナイ」文化を含んでいる。

地中海東部のエーゲ海に散在する島々、その中でも大きなクレタ島クノッソス宮殿の発掘(ミノス文明)、さらにギリシャ本土のミュケナイアナトリアの沿岸のトロイなど、考古学の黎明期に話題を提供した画期的な発掘成果に引きずられる形で認識され別々の文明として表現されていたものの全体像を「エーゲ」として示されました。先の「中央アメリカ」との視点と同じ現実に即した判断です。紀元前3200年ごろのキュクラデス(ヘラディック)文明から始まり、紀元前1200年頃、ミケーネ(ミュケナイ)文明の破壊で終焉を迎えました

6.インダス

インド西部インダス川流域および並行して流れていたとされる(現在では痕跡のみ)ガッガル・ハークラ川周辺に、紀元前2600年から紀元前1800年の間栄えた文明です。

7.シナ

これは元の表の「シナ」文明だけでなく、第七巻~第十巻(原本)のシナ以前の「商」文明のみならず、「極東」文明(本体)を含んでいる。

元の表では、トインビー博士は中国における文明を、夏王朝・殷王朝、から始まり、周王朝時代の春秋戦国時代が「動乱時代」、秦漢帝国の成立をもって「世界国家」とみるサイクルで「シナ」文明。五胡十六国魏晋南北朝時代を「動乱時代」とし隋唐帝国の成立をもって次の「世界国家」とみる「極東」文明としてきました。しかし再考の結果、別の文明とみるよりも中国の歴史の一貫性を重視すべきであるして、あらためて「シナ(china)」文明として再設定しました。

  *他の文明に対して「子の関係」にある文明(第1群)

8.シリアック(シュメル・アッカド、エジプト、ヒッタイトの子)

9.ヘレニック(エーゲの子)

10.インド(インダスの子)

  これは元の「インド」文明だけではなく、「ヒンズー」文明を含んでいる。

トインビー博士は、当初、仏典でいう十六王国時代を統一に先立つ「動乱時代」、アショーカ大王のマウルヤ朝を「世界国家」として『インド』文明を設定し、その後の動乱を経て、統一を回復したグプタ朝を「世界国家」として『ヒンズー』文明を想定していた。しかし、再考の結果『シナ』文明と同じく一貫性を重視して一つの文明として『インド』文明を再定義しました。

   *他の文明に対して「子の関係」にある文明(第二群)

11.正教キリスト(シリアックとヘレニックの子)

12.西欧    (      〃      )

13.イスラム  (      〃      ) 

B.衛星文明

14.ミシシッピ (中央アメリカの衛星)

15.「西南」  (    〃    )

  すなわち、現在のアメリカ合衆国南西部のコロンブス以前の文明である

16.北アンデス (アンデスの衛星)

  現在のエクアドルとコロンビアにおける文明である

17.南アンデス (アンデスの衛星)

  現在の北チリと北西アルゼンチンにおける文明である

? エラム  (シュメル・アッカドの衛星)

18.ヒッタイト(シュメル・アッカドの衛星)

? ウラルトゥ(シュメル・アッカドの衛星)

19.イラン(最初はシュメル・アッカドの、次いでシリアックの衛星)

20.   朝鮮    (シナの衛星)

21.   日本    (シナの衛星)

22.   ヴェトナム (シナの衛星)

? イタリア (ヘレニックの衛星)

これは紀元前最後の千年期にイタリアに移住したエトルリア人と、以前からイタリアに住み着いていた諸民族の共通の文明ということになろう。彼らの文明のなかの共通の要素(たとえばクマーエのアルファベットを知っていたこと)は、ヘレニック文明に起源を持っていた。ヘレニック時代のイタリアの文明はヘレニック文明に負うところが非常に大きかったので、イタリアはこの時代にはヘレニック世界の一衛星というよりは、むしろその一地方であったと見なす方が有益であるように思われる。確かにヘレニック文明は衛星を得たが、それはようやくアレクサンドロス以後の時代になってからであった。その時代に、シュメル・アッカド文明とエジプト文明とシリアック文明は、その特性を失う前にヘレニック文明の衛星になったのである。ヘレニック文明はシリアック文明をそれ自身の場に引き入れた結果、その特性を失ってヘレニック・シリアック文化合成体になったのである。

23.東南アジア(最初はインドの、次いでインドネシアとマラヤだけはイスラムの衛星)

24.チベット(インドの衛星)

大乗仏教チベットに於ける形のものに改宗したモンゴル人とカルムック人を含む。

25.ロシア(最初は正教キリスト教の、次いで西欧の衛星)

17世紀末葉以来西欧文明の場に引き入れられたのは、ロシア文明だけではなかった。ロシア以外の正教キリスト教民族のうちの二つ――――ギリシャ人とセルビア人――――はロシア人と同じくらい早くから西欧化し始めた。それ以来、非西欧社会は次々とロシア人にならった。実際1961年に文明期の社会にせよ、文明以前の社会にせよ、ある程度西欧文明の衛星になっていない現存する非西欧社会を見出すことは困難であった。しかしシリアック文明がヘレニック文明の場に引き入れた後に起こったことによって判断すると、非西欧社会と西欧社会のこの関係は一時的なものであったということになるかも知れない。この歴史的な先例に照らしてみると、西欧文明とその衛星文明が混合して、全ての文明から寄与を得た新しい世界(オイクメ二カル)文明になることもあり得るように思われるのである。

Ⅱ 流産した文明

・第一次シリアック(エジプト文明によって消滅させられた)

ネストリウス派キリスト教イスラム文明によって消滅させられた)

 私の元の表では「極東キリスト教文明」と名付けられた流産した文明である 

・単性論派キリスト教イスラム文明によって消滅させられた)

・極西キリスト教(西欧文明によって消滅させられた)

・スカンディナヴィア(西欧文明によって消滅させられた)

  O.ヘーファルは、私が極西キリスト教とスカンディナヴィア文明を流産した文明として分類しているのは正しいかと問うている。彼はこの二つの文明が背後に長い歴史を持っていたと指摘している。私もそれに同意する。しかし私のみるところでは、紀元5世紀以前のアイルランドと9世紀以前のスカンディナヴィアはまだ文明以前の段階にあった。

・中世西欧都市国家組織(近代西欧文明によって消滅させられた)     

 

 

 

 

具体的に検討するために、いわゆる『シリアック文明』について検討してみたいと思います。トインビー博士が設定した『シリアック文明』は、現在のところトインビー博士のみが設定している文明です。その上、トインビー博士に対する批判が集中している焦点の文明ですが、『文明』から『高等宗教』中心へと変化するトインビー博士の『歴史の研究』においては重要な意味を持つ文明です。トインビー博士が人類の歴史全体を、綿密に検討して設定した23の文明のなかで、最重要の意義を持つ文明であるといっても間違いではないでしょう。何故ならば、過去にその本源をしっかりと持っている現象で、現在の世界に存在している客観的な意味で最も重要な現象は何かという観点から明らかになってくると思います。それは、宗教です。その中でもトインビー博士が高等宗教としてあげているキリスト教イスラム教、この両宗教は現在の世界において、世界宗教として多くの信者を抱え、世界の多くの活動に大きな影響をあたえています。この両宗教成立に大きな役割を果たしたユダヤ教を含めた発祥の地であり、発祥の歴史的な背景となった文明ということになるからです。トインビー博士はシリアック文明について次のように書いています。(「歴史の研究」第22巻 再考察)

「本書では、Syriac という言葉を、ヘレニック文明とほぼ同じ時代にシリアに生まれた文明を名づけるという異なる目的のために使っている。・・・・・『シリアック』文明の元来の郷土であったシリアは、最も広い意味におけるシリアである。すなわち、西南のエジプト文明の領域と東南のシュメル・アッカド文明の間の全領域である。エジプトに対しては、その境界は、大シリアの西南端の居住可能な地点であるラファを、ナイル・デルタの東北隅のかつての砦であるペルシュムから分かっている百マイルの幅を持つ砂漠によって明瞭に区切られている。シュメル・アッカド世界に対してはその境界はもっと曖昧である。しかしこの方面のシリアの境界を定めることはできる。すなわちそれは、いずれにせよティグリス河とエウフラテス河の下流領域にある沖積地方と、モスル市と同緯度のティグリス河とこの方面のイラン高原の西南部周辺の間のアッシリアの肥沃な雨の多い土地を含んではいないのである。北では大シリアの境界は、アナトリア高原の東南部と接続しているアルメニアアナトリア高原の南部境界によってはっきり定められる。コンマゲネと東(低地)キリキアだけでなくティグリス河上流流域も、このように限定されるシリアの境界内に入るであろう。一方南では、境界は明確ではない。ここではシリアはアラビアに溶け込んでいる。トランスヨルダンのギリアド高原は、アンモン、モアブ、ミディアン、ヒジャーズ、アシール、ヤーマンを通ってほとんどアデンの見えるところまで切れ目なく南方および西南方に向かって延びている。私の見るところでは、紀元前第二千年期の後半に大シリアにおいて形成されたシリアック文明は、その後この長く延びているシリアの東部にまで広がっていった。南アラビアのアルファベットで書かれた最古の碑文に対する最近の推定年代から判断すると、このことは紀元前千年期が始まって間もなく起こった。「シリアック」文明の元来の郷土は、現在のシリア、レバノン、ヨルダン、イスラエルの諸国と、メルジナから東に向かってティグリス河上流流域までの南トルコの細い地域と、西アラビア南部のヒンターランドを合わせた地域にほぼ一致するのである。一部の学者はエーゲ海域のヘレニック文明と同時代のシリアの文明に統一性があったことを認めない。この問題は本章の後段で論じられる。一方この時代のシリアが――統一していようが、多様であろうが――実り豊かな強力な文明的な事業と業績が営まれた土地であったことを否定する学者はいないであろう。たとえば、シリアから発してヘレニック世界に及ぼされた影響がほとんどどの時期にも強力、且つ重大であったことを認めずに、ヘレニック史の歩みをたどることはできない。紀元前八世紀以前ではないにしても、紀元前八世紀にはヘラス人はフェニキア文字の形だけではなく、名称も含めてフェニキア人の発明したアルファベットをシリアから取り入れた。紀元前八世紀以後彼らは西部地中海水域の支配をめぐってフェニキア人と競争を始めた。この競争は五百年以上も続いて、ついに第一次および第二次ローマ・カルタゴ戦争(ポエニ戦争)でローマが勝利を得た結果、この争いはヘレニズムの勝利となって決着を見たのである。紀元前七世紀にはフェニキア人がヘラスに伝えた「東洋的」な様式からヘレニック芸術は霊感を得た。全ヘレニック史における最も運命的なひとつの出来事は、紀元前二世紀にシリア体腔部に起こったヘレニズムとユダヤ教の間の思想的宗教的衝突であった。ユダヤにおけるユダヤ教徒の反ヘレニック抵抗運動は非常に強く、セレウコス王国の軍事的政治的な力に助けられたユダヤユダヤ人ヘレニストの、ユダヤをその固有のユダヤ教的伝統からヘレニズムに改宗させようとする企てに打ち勝った。紀元前二世紀におけるヘレニズムの文化的政治的敗北によって一切が終わらなかったが故に、この出会いは運命的であった。政治的敗北はつかのまのことであった。何故なら、まず紀元前(B.C.)142ー141年に、そして最後に紀元前(B.C.)129年にセレウコス政府から独立を勝ち得たユダヤユダヤ人国家は、紀元前(B.C.)63年にはローマに従属することになり、パレスチナユダヤ教徒の政治的ナショナリズムは、結局紀元後(A.D.)66ー70年と紀元後(A.D.)132-135年のローマ・ユダヤ戦争に於いて粉砕された――しかも決定的に粉砕された――からである。しかし、征服されたユダヤは征服者たるヘレニック世界の人々を宗教的な面で虜(とりこ)にした。ヘレニック世界は結局ユダヤ起源の宗教に改宗した。この宗教は神学と視覚芸術の分野ではヘレニズムと妥協したにもかかわらず、その霊感と教理においては本質的にユダヤ的であり、ユダヤ的であり続けた。そしてこのヘレニック世界のキリスト教への改宗がヘレニック文明の終末になった。改宗の結果ヘレニズムはその特性を失ったのであった。」                             

 

        

 

 

 

     

フィリップ・バグビーとトインビー博士

トインビー博士関連の様々な関連書籍を読んでいくと、最もインパクトのある鋭い本質をついた批判を提出した人物としてとりあげられるのがフィリップ・バグビーです。

バグビーについては、日本のトインビー研究において大事な役割を果たされた、山本新先生、堤彪先生の高い評価に基づく紹介があります。ただ、バグビー自身は、本格的に文明の研究にとりかかろうとした直前に、40歳という若さで夭折しているために、現在残されているのは、序説ともいうべき一冊の著作のみです。その一冊とは、

Philip Bagby ,Culture and History : Prolegomena to the Comparative Study of Civilizations , University of California Press , Berkeley and Los Angels , 1958

日本においては創文社より、1976年に、フィリップ・バグビー「文化と歴史ー文明の比較研究序説」として、先ほど挙げた山本新先生、堤彪先生によって翻訳・出版されています。訳者あとがきの中で堤先生はつぎのように述べて紹介しておられます。

「著者フィリップ・バグビーは、「文明の比較研究序説」という副題が示唆しているように、これから、本腰を据えて文明の比較研究に着手しようとしていた。本書は、いわば、そのための準備作業であり、足固めであった。かれは、タルコット・パーソンズらの仕事に象徴されるような、方法論重視の知的雰囲気のなかで育ち、文化や社会の科学にとって、方法論がいかに重要であるかとよく知っていた。いってみれば、方法論的な基盤のうえに立つ、新しい研究法の洗礼を受けていたのである。だから、文明の比較研究という総合論的な学問分野に足を踏み入れる決心をしたとき、かれは、この研究を科学的基礎のうえに据えるにはどうしたらよいかを、あらかじめ考えておかないわけにはいかなかった。この分野は、基礎がまだ踏みかためられていない、とかれは感じていたので、その必要性は、なおさらのこと強く意識された。」

「かれは明確な方法論的意識をもって、この課題に立ち向かい、従来の歴史学や歴史哲学のあり方にたいする批判的反省と、それまでに達成された文化人類学の成果とを総合することによって、この課題に応えた。『文化と歴史ー文明の比較研究序説』という表題は、端的にこの事情を語ろうとしたものに他ならない」

社会学における基礎的概念の明確さや分析の精緻さは、定評のあるところである。バグビーも、もちろん、この点はよく承知していた。だがかれは、総合的全体としての文明、つまりは文明社会の文化という総体的な人間的事象を対象とするには、全体観的な視角が必要であり、そのためには、むしろ、文化人類学で発展してきた文化の概念のほうが有効である、と判断したのである。名目的にはどうあれ、かれには、社会学の関心はヨーロッパ社会に極限されており、そのうえ、ますます全体観的な方向を見失い、非歴史的・静態的になりつつあると見えたからである。かれの眼底にやきついていたのは、なによりもまず、個々の統合体としての文化や文明の存在であり、それらの示す異質性であった」

「では、生粋のバージニアっ子バグビーが、どうして文化や文明の異質性に着目するようになったのであろうか。これを明らかにしてくれるのが、かれの経歴である。かれは、最初から学究の道を歩んだわけではなかった。学生時代には外交官を志望していたからである。だから、かれは1939年にハーヴァード大学を卒業すると、引き続き外交官になるための研修に励んだ。かれは、合衆国のカサブランカ駐在副領事として、その経歴の第一歩を踏み出している。その後カルカッタに転じ、第二次世界大戦中は軍務にも服した。除隊後ふたたび外務畑に戻り持ち前の勤勉ぶりを発揮して、旧イタリア植民地関係の専門家となった。といえば、かれがなぜ異質の文化や文明の存在に開眼したかは、いわずとも明らかであろう。いろいろな異質の文化や文明に触れ、かれがいわゆる『カルチュアル・ショック』を経験しなかったはずはないからである」

「それと同時に、かれは、激動期のさなかにあって、世界大戦の本質やアメリカ、ひいては人類の運命に深い関心を払わないわけにはいかなかったことだろう。こうした運命への関心は、必然的に歴史への関心を呼び覚ますのが常である。かれのなかで、「文化と歴史」が結びつくのは、こうした原体験があったと想定するも、あながち無理ではあるまい。彼は深く心に期するところがあって、1949年に職を辞し、学究へと方向を転換した。母校のハーヴァード大学や、留学先のローマ大学とオックスフォード大学で、本格的に人類学と歴史学を学びなおして、1956年、オックスフォード大学から学位 Doctor of  Phirosophy を受けた。その二年後、かれは処女作である本書を世に問いながら、その直後、40歳の若い生涯を閉じた。1958年9月20日のことであった。」

「トインビーによれば『タイムズ』紙が彼の死を報じた日は、奇しくも本書「文化と歴史」の書評が、『タイムズ文芸付録』に載った日でもあったという(完訳版第23巻「再考察3」1196頁注2)・・・・《中略》・・・・トインビーはバグビーの死を深く悼み、この証言に、こう言葉を続けている。『これは人間的事象の組織的研究者にとって、思いがけぬ損失であった。バグビーは、非常に有能であるとともに、非常に明晰な頭脳の持ち主であった。かれが通常の天寿を全うしていたら、世に出たかれの序説〔本書:「文化と歴史」〕が約束していた、さらに大きな成果を達成したことであろう。わたしは、かれの著作を、かれがわたしの著作を評価したよりもずっと高く評価している。バグビーの年齢で死んでいたら、わたしはこの書物〔『歴史の研究』〕の最初の10巻の覚え書き以上のものは、なにも残さなかっただろう。』ちなみに、トインビーがその覚え書きを書き上げたのは、39歳の夏のことであり、『歴史の研究』の原稿を書き始めるのが、40歳のときのことである。」

「バグビーは本書で意図したことは、最初に触れたように、『文明の比較研究』の基礎固めをすることであった。もっと具体的にいえば、それは主題と有効に取り組むための、しっかりとして概念的枠組みを準備するということにほかならない(本書23頁)。これが、先行者たち、とくに直接の先行者であるトインビーの研究の仕方に触発された作業であったことは、いま述べたとおりである。この作業を進めるに当たって、かれは、まず科学的な歴史、歴史のより合理的で科学的な理解の本質解明をめざして、『歴史』の語義をを探り、歴史家たちの実際の仕事の仕方を分析する。かれは、自分の追求しようとしている『文明の比較研究』という主題が、『狭い意味での歴史に関するさまざまな一般化』を定式化する課題を負うと考えている(本書24頁)からである。このように、おのれの対象とするものが『歴史』に属すると考えている点では、かれはショペングラーやトインビーと異なるところはない。ショペングラーの主著『西洋の没落』Oswald Spengler , Der Untergang des Abendlandes , 1918-23  の副題は、『世界史の形態学概説』Umrisse einner Morphologie der Weltgeschichte であり、トインビーの主著の表題は、いうまでもなく、『歴史の研究』である。三者の異なるところは、それぞれの知的状況を反映して、対象への接近の仕方を、それぞれ哲学的、あるいは歴史的、あるいはまた科学的と考えている点である。だが、対象そのものが、本質的に違うわけではない。」

堤先生の「あとがき」をかなり長く引用させていただきましたが、バグビーという気鋭の学究の思いと、トインビー博士との関係が明白になっていると思います。バグビーが進もうとしている研究への先行者として、トインビー博士が存在する。しかし、「歴史の研究」が30年近い年月をかけて全巻が世にでてきた段階から、一般市民層の爆発的とも言うべき好意的な受け止めに反比例するかのように、とくに学者層を中心に強い反発と批難の声が上がっている。その批難の声は、一般市民層からの賞賛の声が高まれば高まるほど、反対に高くなっていく。その状況を受けての、バグビーのいらだちが率直に表明されている部分が「文化と歴史」の中にあります。

「トインビーは、きわめて無分別で非科学的なやり方で研究に着手することによって、文明の比較研究に大きな害を及ぼし、こうした企て全体の信用を失墜させることに力を貸してきた。ショペングラーと較べてさえ、かれは科学以前の道徳論的な歴史哲学の方向に一歩逆戻りしている。〔『歴史の研究』の〕後のほうの諸巻〔第7~10巻〕における黙示録的ヴィジョンが示しているように、かれはもともと預言者、それも〈近代ヨーロッパの歴史学徒〉の仮面をかぶった預言者なのである」(『文化と歴史』186頁)

またほぼ同趣旨の内容をタイムズ文芸付録の書評のなかで、つぎのように書いています。

「トインビー博士の中心命題を評価し、その経験的妥当性を検証しようとすると、われわれは自分の引き受けた課題が実行できないことに気づく。かれの主要概念は、どれ一つとして、十分よく定義されていないので、われわれは、それがいつ当てはまり、いつ当てはまらないかと判断することができない」(『トインビー研究』別巻79頁)

この批判は、トインビー博士の『歴史の研究』に対する本質的な批判として大きな意義があると感じます。トインビー博士は、この批判を受けて『歴史の研究』12巻として『再考察』を1960年代に著しました。この『再考察』の内容は、従来からの批判を受けて、真摯に様々な課題を根底から考え直し、誤りは率直に認め訂正していますが、自分の学問の骨子にあたる部分は、丁寧にしかし断固として主張しています。その結果としてトインビー史学はこの『再考察』において面目を一新しているといっても良いと考えます。そのきっかけとして数々のトインビー批判、その中でもバグビーの批判は、トインビー博士の創造的な〝応戦〟を引き出した正当なる〝挑戦〟として、確かに高く評価できると考えます。

それでは、バグビーのトインビー批判の根幹はどこにあるのでしょうか。それは、先に引用した文章に明らかなように、敢えて言えば「トインビー博士の世界史は〝科学的〟ではない」ということであり、それが信用を失墜させている根本原因であるということです。たしかに「比較文明」という学問を“科学”として成立させるためには、その出発点において、まず第一に『文明』『文化』という根本概念の定義が不可欠であり、その部分がしっかりと確立されない限り、『文明』に関しての合理的な論理展開に基づく学問の構築は困難であるように思われます。しかし私見を述べさせていただければ、この考え方のプロセスこそ現代科学技術文明の明暗を画する部分であり、トインビー博士の中心命題としてむしろ意図的に避けてきた部分であるということです。この部分に対するトインビー博士の考え方については、『歴史の研究』の中で何回も言及されていますし、トインビー博士のほぼ人生最後の著作となった、池田博士との『21世紀への対話』の中でも論究されていますので引用します。

「池田:あらゆる存在は、それをどの角度から把握するかによって、種々の姿を呈します。宇宙、自然、人間生命などについても、それらへのアプローチの仕方によって、人間の眼に映る様相は異なってきます。万物の様相についての、人間の認識の仕方が異なるというだけではすむならば、話は簡単です。しかし、認識は必ず人間に影響を与え、思考作用から行動まで左右します。極端な例かもしれませんが、人間生命をたんなる物質の運動形態にすぎないなどと認識してしまった場合、生命の尊厳性などは一顧だもされないことになるでしょう。とするならば、可能であるかどうかは別として――厳密な
意味でいった場合――万物のありのままの姿を、そのもの自体に即して、ありのままに描き出し、認識しようとする努力が必要ではないかと思います。
 そこで、万物を、できるだけそのものに即して把握しようとすれば、分析を総合との両方の作業が行われなければならないでしょう。つまり、部分を注視するとともに、全体観を見失ってはならないということです。また、たんに静的に見るのではなく、時間的な流れを考慮に入れて、動的に認識することが必要でしょう。
 
トインビー:ただいまのご提言は、事物の実相を把握するには二つの条件が必要であるということでした。一つは、部分を微視的に見るだけでなく、全体を巨視的に見る必要もあるということ、もう一つは、時間の次元において事物を動的に見る必要があるということでした。私はいま、これらの条件を主張してくださったことに、励まされる思いです。なぜなら、私自身、現代西欧の思潮に反発してきた結果、これら二つの条件の重要性を感ずるようになっているからです。
 
池田:なるほど、よくわかります。そのなかで、博士はとくにどのような点から、二つの見方の重要性を感じましたか。
 
トインビー:私の見解では、現代の西欧思想は極端な専門化を推し進めてきたために毒されています。そもそも、人間精神に映る実在の一断片の像が歪んでとらえられるのは、次のような場合です。すなわち、その一断片を恣意的に周囲の環境から切り離し、あたかも一個の独立した全体像ででもあるかのように、また、あたかも、より包括的な何ものかの不可分の一部ではないかのように――事実はそうであるのに――考えて研究する場合がそれです。
 私はまた、現代西欧の社会学的分析は、現実からかけ離れたものだと思っています。これは、生命がまるで静的生命ででもあるかのように、人間事象を過去や未来から切り離し、非現実的な瞬間的断面において分析しているためです。しかし、現実には、生命は動的なものであり、時間の流れのなかで流動的にとらえなければ、ありのままの姿を見ることはできません。」
 
ここに述べられているトインビー博士の視点は、トインビー博士の中心命題として、その主著「歴史の研究」の冒頭からしっかりと主張され、最終的にトインビー博士の全ての著作、言行に一貫している大事な命題です。
学問における科学的方法論、現象の一部分を限定して切り取り、科学的合理性によって客観的な整合性を持った認識を確立する。この方法論は自然科学においては、有効性を発揮し、現在にいたる自然科学を中心とした学問の発達を支えてきました。しかし、そこには重要な条件がありました。その条件とは、確立された認識の体系が、検証可能であるということです。自然科学の世界では、当然の条件であり、事象の観察、仮説の確立、実験での確認と一連の検証・プロセスをへて科学的な真理は確立され一般に認められます。しかし、このプロセスが有効なのは、実験可能な対象に限定されます。対象が無生物であるならば、この条件は比較的通し易いのですが、対象が生命をもつものになり、さらに人間となると、実験での確認は難しくなります。ほとんど、不可能であると言っても良いと思います。人類の歴史を総体として、地球上の全範囲、文明の始まりから全て取り上げて考察しようという意図に対して、先ほどの科学的アプローチは、その扱う対象を考えていくと、ほとんど 有効性を発揮できないの当然です。人間社会の歴史を解明する社会科学方法論として提出された、マックス・ウェーバーによる「理念型」的な把握にしても厳密に考えると、あくまでも現実を捨象した観念による創作物であり、歴史的現実とはかならずしもしっかりと適合していません。
いわゆる「科学的」な探求プロセスは、人類の歴史を総体として、地球上の全範囲、文明の始まりから全て取り上げて考察しようという「文明論」的なアプローチにはなじまない。というよりはこの方法論によっては、ほぼ不可能であるということです。しかし、この不可能を可能にすることによって、「文明論」を社会学文化人類学に匹敵するいわゆる「科学」として認知させようというのがバグビーの意図であり、その考察のスタートとして取り組んだのが「文化と歴史」であることは間違いありません。
 その思いと意気込みがあふれているこの著作は、バグビーのトインビー博士に対する強い批判の思いで書かれていますが、その思いは真摯であり、トインビー博士が目指してきた「文明」を中心に世界史を構築し、その中で全人類が「一つの家族のように平和に暮らせる社会」を構築する方途を発見したいとの意図に基づく「文明論」への道を継承してくれる可能性を感じさせる点において唯一無二に近い存在として認識されていたことは間違いないと思います。
それでは、トインビー博士はどのような方法論によって、先の「文明」を中心に世界史を構築し、その中で全人類が「一つの家族のように平和に暮らせる社会」を構築する方途を発見したいとの意図を実現しようとしていたのでしょうか。「科学的」方法論を意図的に否定した後、トインビー博士が取った方法論として、再考察の21巻に次のように語っています。敢えて言えば、きわめてオーソドックスな歴史学の方法論です。
 
 一つの現象を説明するための第一歩は、その前後関係を発見することである。
 『意味の探求は、総合を免れることはできない。より広い文脈のなかに置いて、初めて或ることの意味が理解できるからである。(Cohen, op. cit., p.33.)』

『一つの事実は、他の事実と関係づけられるか、或いはより大きな体系の一部とな らない限り、確証もしくは理解し得るものにはならない。(Ibid.)』

 この点を私自身の著作から敢えて例証するならば、「歴史の研究」第一巻~第十巻は、それだけを取り上げてのでは理解することのできないより狭い分野のための枠組みとして、「理解可能な研究の分野」を見いだそうとする二つの企てを軸にしていると言いたい。

探求の出発点は、多かれ少なかれ自足的な歴史研究の分野 ー現代の西欧の歴史家が通常研究の単位としている国家がその部分となるような研究分野を探求することであった。このような国家的単位は不十分であると私は感じていた。何故なら、それは私には自足的ではないように思われたからである。そして自足的でないということは、それが何かもっと大きなものの断片であるに違いないということを意味するであろう。私はこのより大きな研究単位を、私が「文明」と名付けた社会の種のなかに見いだした

文明は、その発生、成長、挫折を研究している限りでは、理解可能な研究単位であるように私には思われた。しかしその解体を研究する段になると、この段階では、文明の歴史は ー近代西欧世界の一部分である国家の歴史と同様にそれだけを切り離してのでは理解可能ではないということが判った

解体しつつある文明は、他の一つ或いはそれ以上の文明と密接な関係を結びがちであった。そして文明間のこのような出会いは、もう一つの種の世界、すなわち高等宗教を生んだ。探求の初めに私は高等宗教を民族国家とかその他の地方国家の変種と同様に、文明の観点から説明しようとしていた。諸文明の歴史の概観の最後の段階に於いて、私はこのような高等宗教の見方は結局それを十分に説明するものではないと確信するようになった。

なるほど高等宗教は、解体期の文明が変容して、そこから若い世代の新しい文明が出現する「蛹(さなぎ)」の役を果たした。また、なるほどこれは諸文明の歴史に於いて高等宗教が果たした役割であった。しかし、高等宗教自体の歴史のなかでは、この役割は付随的な役割であっただけでなく、それはそれ自身の使命を果たすという本来の仕事から高等宗教を逸脱させる傾向があるという意味に於いて、実際困った偶然であることが判った。私が、国家以外の種と他の大きさ単位のために十分な前後関係を提供する、したがって十分な説明を提供する・・・たとえば文明の説明の・・・理解可能な研究の分野の探究を続けなければならないとするならば、私は今や、これまでの作業計画を逆にすべきではないだろうかと自問しなければならなかった。一つの種の社会が、他の種の社会によって説明することができるなら、第一代と第二代の文明は、高等宗教勃興の予備段階として説明されるべきではないのか

私は探究の課程において、歴史研究の「理解可能な分野」が何であるかということについてこのように考え直したのであるが、この再考察は私に新しい出発点を与えた。そして説明の仕方を変える必要によって要求される見方の変化は、根本的な変化であった。クリストファー・ドーソンはこの変化を循環的方式から漸進的方式への変化と定義したが、それは正しい。実際この変化は非常に根本的だったので、多くの批評家はそれに驚き、一部の人々は、私は諸文明に関する私の最初の比較研究をここでやめて、宗教の見地から見た人間の歴史の意味に対する新しい探究を始めるべきであったと示唆した。(「歴史の研究」第21巻 p54~p56 )」 

この部分でトインビー博士が主張しているのは、一つの現象を説明するためには、その現象の前後関係を明らかにし、その関係性を叙述する中で、論理的に整合性があり、感覚的にも納得できる“説明”を提供することが必要であり、そこに歴史学の成否がかかっているということです。つまり、自然科学の方法論である事象の観察、仮説の確立、実験での確認と一連の検証・プロセスを経て、万人が納得する説明を確立する方法論ではなく、実験による確認が不可能である人間の歴史を対象とする歴史学においては、“事実”として検証、確認された“歴史的事実”を、その事実を含む、より大きな関係性とより広い文脈のなかにおいて検討し、納得できる説明として表現できたときに、始めてその歴史的な意味と意義がみえてくるという主張です。特に5000年にわたる人類の“文明”を検討の対象とするときにはこの方法論を徹底的に展開する以外にありません。バグビーがこの著書のなかで取り組んだ科学的説明を目指しての第一歩としての “文化” “文明”の定義もある意味では重要なことですが、それよりも大事なことは、考察の素材としての“歴史的事実”をしっかりと確認し、その“歴史的事実”をより大きな関係性と広い文脈の中で検討することであるとトインビー博士は主張しています。この方法論は、あらためて考えてみると歴史学の研究の方法論の基礎であり基本です。実際にトインビー博士の著作を読み進んでいくと、まず最初に圧倒されるのは、全世界に及ぶ、5000年以上にわたる文明段階での人類の歴史に関する圧倒的な知識量であり、あえて自らの価値意識を明確にされた人間としての認識の深さです。いわゆる科学的な学問方法論においては、自らの価値判断を学問の世界に持ち込むことは科学としての客観性を壊してしまう基本的なタブーとされています。しかし、トインビー博士自身が次のように語られています。

“学問は「感情をまじえず、一党一派に偏せず、公平無私であなければならない」(『21世紀への対話[上]』183頁)が、例外がある。「ヒトラーによるユダヤ人の大量虐殺といった問題になると話は別でした。これに関しては公平無私ということはありえない、と私には思えたのです。もし、このユダヤ人大量虐殺を、まるで天気予報でもやるような調子で、感情をまじえずに書いたとしたら、それはこの虐殺問題を公正に記録したことにはなりません。」(同184頁)人間社会の出来事を論ずる時には「完全に感情を抜きにして不偏不党になることは不可能だということです。・・・これが、私にとっての中道でした」(同185頁)”

人間世界を対象とする学問である “歴史学” には、学問の客観性以前に人間としての価値判断が求められる要素がしっかりと存在する。その上で対象である人間世界の歴史的事実に対して、納得できる説明を可能にするために、量的にも多量に、質的にも深く歴史的事実に精通していくか。この点において間違いなくトインビー博士は “20世紀最大の歴史家”であり、今後もこのレベルの歴史家は登場しえないと思います。

次章では、トインビー博士が “20世紀最大の歴史家” であることを、さらに具体的な例を挙げながら論じていきたいと思います。その具体例として、ショペングラー、バグビー、トインビー博士が共通して扱いに苦慮している紀元前一千年期から紀元後一千年にかけて地中海東岸を中心に存在(?)し、大きな歴史的な影響を後世に残している、トインビー博士が「シリアック文明」と名付けた文明を取り上げながら考えていきたいと思います。現在、大きな価値と影響をもっている、ユダヤ教キリスト教イスラム教等の高等宗教、また漢字圏を除けばほとんどの民族・国家の言語の筆記用の手段となっているアルファベットを生み出した文明ですが、政治的にも民族的にも複雑で簡単に扱うことができません。しかし、世界史の根幹をなす重要な意義を持っていることは間違いありません。その検討に入っていきたいと思います。     

 

 
 
 

            

 

 

 

 

「現代が受けている挑戦」を読む

「現在が受けている挑戦」は英文の原題が「CHANGE AND HABIT」です。トインビー博士の著作は、ほとんど全てがオックスフォード大学出版から出されていますが、この著作は同出版局から1965年に出版されています。

この本が成立した由来は、前書きに簡単に記されています。そのまま引用します。

「この本の大部分は、私が、1964年の最後の三ヶ月に、コロラドデンバー大学で、1965年の最初の三ヶ月に、フロリダ州、サラソタのニュー・カレッジとテネシー州、スワニーの南部大学で行った講義でした。この講義のためのノートが、本を書く出発点に私をたたせた。しかし講義そのものが、この本が分けられているような章立となって再構成されたのではない。書いているうちに、内容は再び整理された」

この時期のアメリカは、ソ連との「冷戦」時代のまっただ中であり、核兵器による人類滅亡の可能性が現実のものとして重くのしかかってきている状況でありました。このような状況の中で、トインビー博士が生涯の仕事として取り組み発表してきた「歴史の研究」での問題意識をふまえ、さらにこの時すでに70代の半ばにさしかかっている博士が、自分が死んだ後の世界の行く末についての責任感の思いから語り論じているのが本書の内容の骨子であると思います。

この後のトインビー博士は、1968年の日本訪問、そのあとで日本で聞いた創価学会池田大作会長に1969年対談の申し込みの書簡を送り、その上で1972年、73年の対談の実現となり、その結果をまとめた対談集「21世紀への対話」(英文のタイトルでは「Choose Life」生の選択)の発刊、ご自身の1975年の死去と続くのですが、その一連の最晩年の行動の動機にあたるものと、その動機を生み出す根源となった問題意識がこの著作の中に明確に記されていると思います。トインビー博士は明確に、つぎのように語っています。

「人間存在の最も重要な印である人間性の精神的な特質は人間の労働による物質的生産物からではなくて人間の隣人との、自分自身との、そして世界における究極の精神的な実在との精神的な遭遇を通して知られる」

「宗教の歴史に目を向けると、ここには進歩と加速度とがともに見出される。宗教の発達には三つの段階がある。最初は人間以外のものの崇拝であり、これは人間がまだ人間以外のものに左右されていた長い時代――人間の歴史上最も長い期間である――に起こったものである。しかし自分自身が統御しているものを崇拝するということはあり得ない。したがって、人間も『自然』に対する優勢を確立した亊に気がつくと、被征服者になった『自然』への崇拝を人間に勝利をもたらした集団的な人力への崇拝の下位においた。そして共同体を神にまつることは個人にとっては奴隷の身分を意味し、それはナチス体制下のドイツの民衆の経験や、社会生活を営む昆虫の共同体内で個々の昆虫が演じる犠牲的な役割にはっきりみられる。また宗教の進歩で第三の段階は宇宙の人間的なものと非人間的なものを含めたあらゆる現象の背後にある究極の霊的な実在(ultimate spiritual reality)に個々の人間を直接に触れさせることによって共同体への蟻のような隷属から解放する高等宗教の出現である。この解放のビジョンが殉教者たちに人間的な権威への服従が神への義務と相容れないと信じた時、人間的な権威への服従を拒んですすんで死を選ばしめたのである。」

この記述は、トインビー博士の世界史を貫く根本の考察を要約する形で述べておられます。エディンバラ大学でトインビー博士が行ったギフォードレクチャーの内容は著作としては「一歴史家の宗教観」として公刊されていますが、その内容は上記の要約に尽きます。さらに具体的に高等宗教の比較相対まで踏み込んでいるのが、主著「歴史の研究」の最後の部分、また「回想録」の最後の部分にもあります。トインビー博士の世界史の根本的な考察であることは間違いありません。もっと単純化して言えば、トインビー博士の世界史は、人類が一つの家族のようになる世界平和を実現するための方途を全世界の5千年の文明の歴史に探る世界史であり、その根本的な解決法は高等宗教に求める以外にないとの主張にあります。歴史を社会科学として「価値自由」の方法論から客間中立的な視点から組み立てる主張とは正反対のところにあります。人類の平和的な共存こそ一切の根本的価値であり、その価値を最大限に掲げている世界史であるところに最大の価値があると私は思います。          

     

「文明」から「高等宗教」への力点の変化・・・トインビー博士の世界史研究、第二次世界大戦をはさんでの変化

トインビーは、「文明」を単位として歴史をみることについて、「歴史の研究」の再考察21巻につぎのように論述しています。

 「 一つの現象を説明するための第一歩は、その前後関係を発見することである。

『意味の探求は、総合を免れることはできない。より広い文脈のなかに置いて、初めて或ることの意味が理解できるからである。(Cohen, op. cit., p.33.)』

『一つの事実は、他の事実と関係づけられるか、或いはより大きな体系の一部とならない限り、確証もしくは理解し得るものにはならない。(Ibid.)』

この点を私自身の著作から敢えて例証するならば、「歴史の研究」第一巻~第十巻は、それだけを取り上げてのでは理解することのできないより狭い分野のための枠組みとして、「理解可能な研究の分野」を見いだそうとする二つの企てを軸にしていると言いたい。探求の出発点は、多かれ少なかれ自足的な歴史研究の分野 ー現代の西欧の歴史家が通常研究の単位としている国家がその部分となるような研究分野を探求することであった。このような国家的単位は不十分であると私は感じていた。何故なら、それは私には自足的ではないように思われたからである。そして自足的でないということは、それが何かもっと大きなものの断片であるに違いないということを意味するであろう。私はこのより大きな研究単位を、私が「文明」と名付けた社会の種のなかに見いだした

文明は、その発生、成長、挫折を研究している限りでは、理解可能な研究単位であるように私には思われた。しかしその解体を研究する段になると、この段階では、文明の歴史は ー近代西欧世界の一部分である国家の歴史と同様にそれだけを切り離してのでは理解可能ではないということが判った。解体しつつある文明は、他の一つ或いはそれ以上の文明と密接な関係を結びがちであった。そして文明間のこのような出会いは、もう一つの種の世界、すなわち高等宗教を生んだ。探求の初めに私は高等宗教を民族国家とかその他の地方国家の変種と同様に、文明の観点から説明しようとしていた。諸文明の歴史の概観の最後の段階に於いて、私はこのような高等宗教の見方は結局それを十分に説明するものではないと確信するようになった。なるほど高等宗教は、解体期の文明が変容して、そこから若い世代の新しい文明が出現する「蛹(さなぎ)」の役を果たした。また、なるほどこれは諸文明の歴史に於いて高等宗教が果たした役割であった。しかし、高等宗教自体の歴史のなかでは、この役割は付随的な役割であっただけでなく、それはそれ自身の使命を果たすという本来の仕事から高等宗教を逸脱させる傾向があるという意味に於いて、実際困った偶然であることが判った。私が、国家以外の種と他の大きさ単位のために十分な前後関係を提供する、したがって十分な説明を提供する・・・たとえば文明の説明の・・・理解可能な研究の分野の探究を続けなければならないとするならば、私は今や、これまでの作業計画を逆にすべきではないだろうかと自問しなければならなかった。一つの種の社会が、他の種の社会によって説明することができるなら、第一代と第二代の文明は、高等宗教勃興の予備段階として説明されるべきではないのか

私は探究の課程において、歴史研究の「理解可能な分野」が何であるかということについてこのように考え直したのであるが、この再考察は私に新しい出発点を与えた。そして説明の仕方を変える必要によって要求される見方の変化は、根本的な変化であった。クリストファー・ドーソンはこの変化を循環的方式から漸進的方式への変化と定義したが、それは正しい。実際この変化は非常に根本的だったので、多くの批評家はそれに驚き、一部の人々は、私は諸文明に関する私の最初の比較研究をここでやめて、宗教の見地から見た人間の歴史の意味に対する新しい探究を始めるべきであったと示唆した。(「歴史の研究」第21巻 p54~p56 )

 

このトインビー博士の論述は、博士の生涯にわたる世界史研究を考える上で、重要な意義を持ちます。

トインビー博士の大著「歴史の研究」の記述を順を追ってたどっていきますと、第二次世界大戦前に記述された部分においては、文明の「誕生」「成長」「挫折」の各段階を設定することが中心となります。時間的にはエジプト文明以降5000年、空間的には全地球という範囲で検討し、最終的には21の文明を確認し設定することになります。「誕生」「成長」「挫折」という段階で、それぞれの文明を比較検討するにあたっては、「文明の哲学的同時代性」という視点、つまりどの文明も人間の社会的営為における本質的な共通性を持ち、比較検討が可能であるとの認識(この認識に確信を与えているのはトインビー博士のいわゆる“ツキディデス”体験ですが)をよりどころとしての歴史的事実の検討が続きます。文明と文明の比較検討ですので、人間としての普遍的な共通点を踏まえて論じていても、結果として人間の歴史における個々の「文明」の特徴、個性の認識を中心として、それぞれの文明の独立性への認識が強まることになります。したがって、ショペングラーをはじめとして、比較文明論的な立場にたつ人びとの文明観に共通する、個々の文明の独立性を強調する傾向が強くでてきます。歴史はある目的に向かっての変化・進化の過程そのものであるとのユダヤキリスト教的な歴史観とは異なる、ギリシャ・ローマ時代の一般的な歴史観である円環史観的な視点につながることにもなります。

先の引用文の中にあるクリストファー・ドーソンを引いての一節「クリストファー・ドーソンはこの変化を循環的方式から漸進的方式への変化と定義したが、それは正しい」はまさにそのことを言っています。そして 「それは正しい」と断定するトインビー博士の世界史はこの段階から、歴史を高等宗教の漸進的な進化とみる一種の進歩史観と変貌したと見るべきだと思います。